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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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戦前は “大原女” が大ブーム?!





『京都』より大原女(部分)


 どの本を見ても出てくる「大原女」

 京都の北郊、八瀬、大原。

 八瀬といえば「かま風呂」、大原といえば「大原女」と、昔は相場が決まっていました。
 特に、大原女(おはらめ)は、諸々の案内書に必ずといってよいほど登場し、大正から昭和にかけては写真で紹介する格好の題材になっていました。

 しばしば引用する北尾鐐之助の「近畿景観」シリーズ(創元社刊)。その第1巻『近畿景観』(1929年)の表紙は、こんな雰囲気です。

 『近畿景観』表紙

 おそらく、京都の五重塔。八坂の塔か東寺の塔か、はたまた御室の塔なのか。
 近藤浩一路の絵。浩一路は、漫画家としても水墨画家としても知られていますが、金文字を巧みに用いた本書の装丁は秀逸です。
 その裏表紙。

 『近畿景観』裏表紙

 なんと、大原女。
 やはり近畿といえば京都、京都といえば大原女なのでしょうか。


 大原女、高雄女、いろいろあって

 どんな本にも出てくるくらいなので、たぶん百科事典にも解説されているだろうと、三省堂の『日本百科大辞典』を繙いてみます。その解説は、こうです。(適宜改行しています)

 おはらめ(大原女)
 柴・薪・花・梯子等を頭に戴きて京都の市街に出で商ふ京の近郷の婦女の称。愛宕[おたぎ]郡八瀬・大原(芹生・古知谷等の諸村の泛称)の里より出づるもの最も古く且多きより概して「おはらめ」といふ。
 されど実際はこれらの里のほかに高雄(梅畑村・植尾村等)・中川郷若くは白川・賀茂等より出づるものも少なからず。
 これらの村里のものには各々特有の風俗・礼儀・作法等ありて、明にこれを区別し得べし。京にては矢背[やせ]大原女・高雄女[たかおめ](俗に畑のおばともいふ)・中郷女[なかがわめ](中川郷女の略)などと区別す。矢背大原女は高雄女よりも頭に戴くもの軽く、姿も艶なり。八瀬より京の端までは三里ばかり、大原よりは四里余にて、此間は品物を牛馬におはせて来るなり。
 高雄女はみにくき方にて言葉遣ひもあらく、剛なるものは二十四貫ほどの重荷を戴くと云ふ。又其特徴として煙草をくゆらすを誇りとす。京まで三里余の路を往復し、夜は十二時に至るも売らざれば帰らず。すすめ売するものも多し。
 中郷女は材木類のほか、他の品を商はず。多くは材木商の妻女・姉妹にて又女は美貌なれど、言葉は頗る賤し。中郷女は短袴を穿ち、頗る異様なり。
 すべて大原女の風俗は、脚に脚袢を穿き、手には甲掛を穿つ。其村々によりて小異あり。
 白河・下鴨等より出づるものには又花売を多しとす。通常菖蒲・「さつき」など野生のまゝを折り来りて商ふなり。
 概して大原女の出づる村々の男子は多く市中に来らず。家に在りて梯子・茣蓙[ござ]などを作り、或は農業を主とし、其間に山に入りて木を樵りなどし、妻女をして市に鬻[ひさ]がしむるなり。婦女は雨の朝も雪の朝も、一日にても京に出でざるはなく、殊に高雄女は其日に得たるだけの銭を以て米・醤油の類を求め帰りて、明日の「かて」に充て、敢てこれを貯ふることなしと云ふ。(『日本百科大辞典』2巻、109-110ページ)


 とても詳しい記述です。
 大原女は、大原や八瀬の女性であること。京都北郊の大原女のほかにも、西郊の高雄女、中郷女といったものがあったこと。扱う商品も土地によって異なること。風俗も地区によって違うこと、などが分かります。
 それぞれの見目形に触れているのは時代としても、中郷女は土地柄で材木(北山杉?)のみを扱い、都に程近い白河、下鴨などの女性は花売りが多いなど、行商品が異なっている点も興味深いです。
 それらの中で、大原女が諸書によく登場したのは「姿も艶なり」だったからでしょうか。脚絆に手甲というスタイルが魅力的だったのかも知れません。

 同書は、「都名所図会」巻3の絵を挿図として紹介しています。

「都名所図会」

 京都までの3~4里(12~16㎞)は牛馬に荷を負わしてくる、という姿を表しています。柴や薪を運んでいますね。

 「都名勝図会」

 着物の雰囲気がちょっと艶かも。


 写真に見る大原女

 昭和3年(1928)に小塙徳子が書いた随筆には、当時から20~30年前(つまり明治30年代頃)の大原女の姿が、次のように描写されています。

 御所染の帯に絹房の腰紐、形の木綿、裾清げな白はゞき白たび白の甲掛、大原女わらじ、浅黄手甲、落し髷と称する御所風の押へつと匂やかな黒髪を、そつとおほつた紺地刺繍の飾り手拭、かね黒く眉跡青い典雅な面輪がそれらの中にポツと浮く。(小塙徳子「大原街道」、『京ところどころ』所収)

 美しい大原女の姿です。

 次は写真で。

 『新撰京都名勝誌』より大原女
 『新撰京都名勝誌』より

 木橋を渡る大原女。


『京都』より大原女
 『京都』より

 足元の白い脚絆が目立ちます。

 『日本案内記 近畿篇上』より大原女
 『日本案内記 近畿篇上』より

 典型的な大原女スタイル。頭には手拭、藍染の着物、御所染の帯は前結びにし、白い腰巻を見せ、脚絆に二本鼻緒の草鞋。背景には茅葺の民家が写っています。民俗学的なにおいのする写真ですね。

 戦前、案内書に紹介される京女といえば、舞妓、芸妓と大原女。舞妓さんらは今でも祇園などで見掛けますが、さすがに大原女は見ることができないでしょう。
 洛北で育った私の少年時代には、まだ行商の女性が大勢リヤカーを曳いて商いをされていました。多くは、農家の奥さんだったのでしょう。さすがに手甲、脚絆の大原女姿ではなかったかも知れませんが、かすりの着物を着たりして、情緒があったものです。
 そのような姿も、さすがに過去のものになってしましました。




 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『日本百科大辞典』第2巻、三省堂書店、1909年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『京ところどころ』金尾文淵堂、1928年
 『京都』京都市役所、1929年
 北尾鐐之助『近畿景観』創元社、1929年
 『日本案内記 近畿篇 上』博文館、1932年
 
 

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