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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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東寺の南大門は、2.5キロ東方から移築された「崩門」





東寺南大門


 変遷を重ねてきた東寺の諸堂

 平安京以来の伝統をもつ東寺(教王護国寺)。市街では古い寺院のひとつですが、その伽藍は他寺と同じく焼亡を重ねて変遷してきました。

 広壮な金堂(国宝)は豊臣氏による再建(慶長8年=1603)、和様が美しい講堂(重文)は室町時代の再築(延徳3年=1491)、五重塔(国宝)は江戸時代の建立(寛永21年=1644)などとなっていて、門には蓮花門(国宝)など鎌倉時代の遺構が多く、校倉造の宝蔵(重文)は山内最古の建築で平安後期に建てられました。

 今回は、重要文化財の南大門を取り上げてみましょう。


 「都名所図会」に見える南大門

 東寺南大門です。

東寺南大門
  南大門(重文)

 単層切妻造、三間一戸の八脚門。かなり大きいので、写真を撮るにも苦労します。

東寺南大門
  内側から見る

 九条通に面していて、近鉄東寺駅などからのアプローチはここになりますが、東寺に見合った規模の大きい門といえるでしょう。

 ここで、少しさかのぼって江戸時代の「都名所図会」(1780年)を見てみましょう。

「都名所図会」より東寺南大門
  「都名所図会」より東寺(部分)

 200年余り前の南大門の姿です。
 一見して分かるように、屋根は入母屋造で重層になっており、現在と形が違っています。つまり、絵の門は現在のものではないということですね。

 寺伝によると、慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって復興された南大門は、明治元年(1868)に炎上し、しばらく門がないままでした。
 現在の南大門は、その後、他の場所から移設されたことになります。


 元は大和大路七条にあった南大門

「花洛名勝図会」より三十三間堂
  「花洛名勝図会」より

 上図は、幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)の一場面です。長大なお堂は、もちろん三十三間堂。その下には(少し雲に隠れていますが)長い築地塀が続いています。塀の左方に、ひとつの門が開いています。拡大してみましょう。

「花洛名勝図会」より三十三間堂西門

 実は、この門が、現在の東寺南大門なのです。

 当時、この築地塀に囲まれた区画には、大仏殿を中心とする方広寺と、三十三間堂のある蓮華王院がありました。三十三間堂は、豊臣時代にこの築地塀によって方広寺の境内に取り込まれています。
 この門は、俗に「大仏崩門」と呼ばれていました。「くずれ門」の呼称は珍しく感じられますが、一説には「九頭竜門」の転じたものといいます。大仏殿の西門、あるいは三十三間堂の西門という位置付けです。
 
 門のあった位置は、現在の大和大路七条でした。

大和大路七条

 東を向いて撮影しています。右が三十三間堂、左が京都国立博物館です。およそ、この横断歩道のあたりに大きな門があったことになります。
 

 三十三間堂の南大門と兄弟関係

 つまり、この崩門は、方広寺を取り巻く築地塀(いわゆる太閤塀)に開けられた諸門の1つで、現存する蓮華王院(三十三間堂)南大門と同時期の建造ということになります。

蓮華王院南大門
  蓮華王院南大門(重文)

 こちらも、単層切妻造の八脚門です。東寺南大門は慶長6年(1601)に造られましたが、蓮華王院の南大門はその前年の造営とされていて、どちらも桃山時代を代表する大規模な門の遺構といえます。

 ここで、ひとつのことに気付きます。東寺南大門(かつての大仏の崩門)は、屋根は切妻造になっています。ところが、先ほどの「花洛名勝図会」には入母屋造に描かれていて、矛盾が生じています(ちなみに「花洛名勝図会」の絵は「都名所図会」を踏襲しています)。いったい、どういうことなのでしょうか?

 答えは、写真を見れば確実ですね。
 この門を撮った明治初期の写真に、蜷川式胤(にながわ・のりたね)の日記「奈良の筋道」収録写真があります。蜷川は、明治初期の文化財調査に携わった人物ですが、明治6年(1873)の調査日記は「奈良の筋道」と呼ばれています。
 その写真は、三十三間堂を写したもので、長いお堂の北半分を南から撮影したものです。お堂の前で、3、4人の人物が蹴鞠をしている!? 写真なのです。その画面の左端に、崩門の側面(妻側)が写っています。
 それを見ると、ぼんやりした画像ながら、現在の東寺南大門に同定できそうで、明らかに切妻造だったことが分かります。

 つまり、「都名所図会」の作画の時点で何らかの錯誤が起きた、ということなのでしょう。


 京博の建設で“邪魔者”に

 明治維新後、方広寺の大仏殿の南には、恭明宮という歴代天皇の位牌所、および宮中の女官の居所が設置されていました。その後、博物館の建設が計画され、恭明宮の跡地が現・京都国立博物館の敷地に選ばれます。

京都国立博物館
  現在の京都国立博物館

 その際、崩門の存在が問題になりました。門の所有者である妙法院は、この門と土塀を京都府に寄贈しようと企図しました。しかし府は、維持管理など厄介な問題が生じることから、それを断ります。門は、濃尾地震(1891年)の影響もあって、破損も生じていました。

 ところが、明治27年(1894)、問題は一転して解決に向かいます。明治初年に南大門を焼失した東寺が、この門をもらい受けたいというのです。それも“冥加金”1000円を付けて、というのですから、妙法院にとっては有り難い話でした(現在の感覚で数千万円くらいになります)。また府にとっても、当時東から延びていた七条通をさらに東伸させ、智積院前まで貫通させられるという好都合な提案といえます。
 東寺は、さらに移築費用1500円を支出して、明治28年(1895)3月から10月にかけて、崩門の移転工事を行いました。
 移転費は『京都国立博物館百年史』によれば、竹村藤兵衛が負担したということです。竹村は、衆議院議員も務めた明治期の京都の名望家ですが、京都美術協会の会員でもありました。同会は、当時、文化財を保護する法制度の制定に取り組んでおり(のちの古社寺保存法、明治30年=1897)、その流れの中で竹村が移築費用を捻出したのでしょう。

 明治28年というと、平安京遷都1100年にあたる節目の年で、現在の岡崎公園で第四回内国勧業博覧会が開催されました。この際、平安神宮が創建されたことはよく知られています。
 門の移築は、上記の文化財保存の経緯とともに、このことが背景にあるのかも知れません。


 不思議な石がひとつ…

 現在、東寺の南大門周辺をよく観察してみると、不思議な存在に気付きます。

 東寺南大門

 門の右側(東側)の小さな芝地の中にある、この石。

東寺南大門

このへそのついた石は何なのでしょうか?

 実は、答えは簡単そうです。
 以前、三十三間堂の回で同じような石を紹介しました。 記事はこちら ⇒ <三十三間堂の謎の石>

 この石の役割は、次の写真で分かると思います。

 「京都」より東寺
  『京都』より「東寺」

 東寺の五重塔と金堂を写しています。
 金堂の庇をよく見ると、その隅が棒のような柱で支えられていることが見て取れるでしょう。実は、このような柱を支える土台の石が、この謎の石だと考えています。
 つまり、崩門の先代の南大門(金堂と同時期に建てられた豊臣時代の門)が、100年以上経過して、軒を支える必要が生じた、と推測しています。
 そう思って先ほどの「都名所図会」を見ると、確かに支柱が! 赤丸の辺りに、この礎石が置かれていたのでしょう。

 「都名所図会」より東寺南大門

 門は明治初年に燃えましたが、礎石の1つだけが今日まで残されたのでした。旧門の僅かな名残りとして、一度東寺でご覧になってみてください。




 東寺 南大門(重文)

 所在 京都市南区九条町
 拝観 自由
 交通 近鉄電車東寺駅から徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「再撰花洛名勝図会」1864年
 『京都』京都市、1929年
 『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物殿、1995年
 『京都国立博物館百年史』京都国立博物館、1997年
 米崎清実『蜷川式胤「奈良の筋道」』中央公論美術出版、2005年


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