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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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リアルな昭和初期の京都 - 井手成三『京洛ところどころ』 -

京都本




  京洛ところどころ 井手成三『京洛ところどころ』第一書房 


 昭和10年代の京都エッセイ 

 前回は、古書市で出会った井上甚之助『わたしの京都』を紹介しました。
 その帯には「京に育ち 京を愛した著者が描く 古都の風物詩」と書いてあります。

 今回も、京都に生まれ育った著者による、京都随筆を取り上げてみます。
 井手成三『京洛ところどころ』。
 昭和16年(1941)12月、東京の第一書房から発行されました。お気づきのように、太平洋戦争が開戦した直後に出た書物ということになります。

 著者は、地方官から内閣法制局に転じた官僚で、晩年は大学で法学の教鞭も執っていました。ちなみに、この人の子息に元JR西日本・井手正敬社長がおり、これはちょっと複雑なのですけれど、少しおいておきましょう。
 自らのルーツについて、本書の自序に次のように書いています。

 我が亡き父は京を去る十八里、松青く水清き若州小浜に修験道を事とせし家に生れ、京に来り住みしものなるが、母は京都の官家士族に生れ、祇園社の社家に育ち、高齢今は生を洛外山科に養ひ給ふ。
 幼き私はこの母の膝上にて、其の口誦(くちず)さむ京の俚謡、其の語るゆかしき行事、をかしき伝説に聴き入つた。(後略) 
 
 
 その後、高等学校まで京都で暮らしています。
 井手氏の父親は、若狭国(福井県)の小浜(おばま)の出であると書かれています。京都と若狭は、古くから “鯖街道” で結ばれていて、その距離は70有余キロ。ここでは「十八里」(約72km)とされていますね。母は、祇園社、つまり八坂神社の社家に育ったとありますので、京都の人であったわけです。


 京都の百名所 

 この随筆集は、もともと「学士会月報」というものに連載されたもので、それに加筆して百の小文から構成されています。

 一番の南禅寺に始まり、永観堂、若王子、一乗寺、修学院と、東山の裾を北上し、大原、貴船から上賀茂、下鴨に転じて、再び南下して吉田、真如堂、黒谷へ、さらに青蓮院、知恩院、祇園さん、円山、八坂、清水寺。そこからはぐっと南へ行って、東福寺、深草から観月橋、黄檗、宇治、巨椋池、そして著者と同名の南山城・井手へと筆は及びます。さらに西の方へ移って、長岡、桂、嵐山、天竜寺、清滝と北へ。そして妙心寺、御室、北野、金閣寺と移り、西陣から相国寺、御所と中心部へ進みます。寺町、二条、三条、京極、四条と繁華な地を巡り、鴨東の祇園町、六波羅、三十三間堂から、東西の本願寺に触れ、最後は百番の東寺で擱筆します。

 こう、ずらずらと並べると京の名所も随分たくさんあるものです。

 例えば、「白川」はこのような文章です。

 (前略)
 私等はこの白川村をとほつてよく比叡山に登つた。白川の上流に沿つてあゆみ、林中土湿(しる)き天神宮の境内でやすんでから、白川口の山路にかかつた。
 この辺の農家は皆花を植ゑて毎朝主婦、娘達が洛中に仏に供ふる花を売りに出る。三巾前垂れをして頭に手拭をまき頭上に花を頂く女を一概に大原女(おはらめ)と言つてゐるが、大原、八瀬(やせ)、山端(やまばな)、白川あたりの農家の女達は皆揃つて朝から売声も清らげに花、柴、茶等を売りに出て、帰りには市中で日用品を買つて帰る。帯や紐の模様などで、一見各々部落毎に区別することが出来るやうになつてゐる。
 霜未だ融けざる朝まだき、花売りの声を聞くのは京都特有のおもしろさである。東京の朝、納豆売の苦学生の声を聞くことによつて受ける感じとは全然別のものだ。   


 大原女、白川女の習俗をうるわしい京の日常として描いています。


 「松や」の三宅八幡 

 このブログで前々回に取り上げた三宅八幡宮(左京区)についても、懐かしい思い出とともに書かれています(「山端」)。

 (前略)
 山端(やまばな)という名称は、蹴上(けあげ)、棒鼻等と同じく、何となく京のはづれといふ感をあらはしてゐる。
 「松や」という母の子守女だつたのが縁付いてこの山端に住んでゐたが、高齢になつて猶ほ随分と元気で、裏の牛小屋から飛んでくる虻ほどある蠅を団扇で遂ひ遂ひ、母と何かしら昔言葉で話しつづけてゐた。
 帰りたくて仕様のない私が往還を見ると、牛車が繁々と通つてゐた。
 「松や」の家にくるまでには、高野川に沿つて「平八」「十一家」が清らかな粋な構へを見せ、子供心にも京都風を感じた。 


 母の子守であった、松やという女性の住まいを訪ねた母と著者。大原街道には、料理屋である平八や十一家もあり、牛車が通る穏やかな風景でした。

 「松や」を尋ねるのは大抵三宅八幡さんに参る時だつた。三宅八幡さんの森にゆくまでは随分遠くて、御社までくるとほつとした。
 御社は小さくて由緒など深かりさうではないが、子供の虫気(むしけ)に霊験ありとして市民の群参する社である。糯(もちごめ)でつくつた小さな鳩の御供物は、今でもおいしいと思う。
 神信心のお蔭にもよることであるが、一年中陋巷に住み殊に蟄居勝ちの京都市中の婦人子供が、田園の清い空気のなかを遠くあゆむといふことそのことが自らなる保健で、御社にたどりつくまでに大抵の虫気はなほつてしまふのではないかと思ふ。(後略) 


 三宅八幡宮へのお詣りのようすが、うまく書かれています。
 まちなかの女性や子供たちは、どうしても家にこもりがちになるので、ときおり郊外のすがすがしい空気に触れると健康にもなる、ということが書かれていますね。もっともな気がします。今もある「鳩餅」もおいしかったのでしょう。
 「市民の群参する社」という言葉から、三宅八幡への信心ぶりがよく表れています。


 リアルな戦前京都の姿 

 本書のひとつの特徴は、当時(昭和16年)の京都のありのままの姿を活写していることです。
 著者は、結構辛口の人のようで、あるいはその頃の感覚としては当然だったのでしょう、はっきりと街の特徴を記しています。このことは、私たち過去の京都を学ぶ者にとっては有り難いことともいえます。それを紹介したいのですが、少しばかり地域や職業等への好悪の感情が書かれている部分もありますので、ご了承ください。

 今日、海外からのツーリストが多い伏見稲荷大社の風景を、こう記しています。

 (前略)
 いつも塩小路で市電をのりかへ、稲荷の停留場で降りた。東海道線をこえる陸橋を電車がわたる間、下を見るのが子供心に興味をそそつた。陸橋をこえると随分汚い工場町だなといふ感じがした。棒鼻などといふいかにも町はづれらしい名の停留所があつて中書島行きの電車との連絡にいつも相当停車してゐた。後、深草の野砲聯隊で乗馬の練習をしたとき、練兵場から馬を駆つてときどきこの棒鼻などといふところにやつてきた。
 稲荷の停留場を降りると、鳥居のところまで細い道が適当のカーブをなして、土産物を売る店、飲食店、カフエーなどが相並んでゐる。土産品屋には稲荷にちなんだ狐、珠などが多くならんでゐることはもとよりだが、私たちの最もなつかしいのは「でんぼう」といふ伏見の泥細工である。泥をこねて柚子のかたちになつたふたもので、単純な構造と黄色い彩色のうちに言ひ知れぬ味があつた。
 私達は稲荷の土産にこれをもらつて一銭二銭を入れる貯金箱にしてゐた。京都の大路小路を商店の丁稚(でっち)がとほると私達子供はとほくから「丁稚でんぼう、稲荷の土産、おとして破(わ)るな」とはやしてからかつたものだが、其の「でんぼう」とはこの泥細工のことである。この道は所謂通常参道であつて、正参道は南の方省線(しょうせん)駅に近く続いてゐて、石畳もゆかしく神馬灯籠等の配置もよく、落ちついた神域の清浄をあらはしてゐる。鳥居をくぐり、愈々境内に入つてからも道の両側には香具師(やし)、古着屋、安玩具屋、袋物屋などが並んで客を呼んでゐる。いつか寒い風の吹く日には女相撲がかかつてゐて、寒さうに小汚い女力士がいろりをかこんでゐた事もあつた。  


 「でんぼう」という言葉は、関西で一般には、できもの(おでき)のことを指します。「でんぼ」などと言いますね。
 まあ、できものくらいの小ぶりの焼物ということなのでしょう。いわゆる「柚でんぼ」というもので、小さな黄色い柚子形の蓋のついた焼物だそうです。伏見人形の一種でしょう。
 これを丁稚さんをからかう戯れ歌にしているところが時代ですね。


 繁華街 

 「高瀬」という項には、

「恋ひし(小石)恋ひしを高瀬に積んで末は大阪(逢ふさか)十三里」

 といった狂歌が紹介されています。
 おしゃれな歌ですね。高瀬舟の荷は、淀川をくだって大阪に至る、それを酒席に相応しく恋に掛けたもの。なかなかです。
 ちなみに、昔は京・大坂間は十三里(約52km)とされていて、「難波(なにわ)より十三まゐり十三里もらひにのぼる智恵もさまざま」という歌もあります。

 さて、京都の繁華街は、寺町、新京極。「京極」には、次のように書かれています。

 (前略)今の寺町三条、寺町四条あたり殊に新京極は市内第一の盛り場である。
 銀座、新宿、浅草、道頓堀、東京大阪各々の盛り場はそれぞれの特色を有(も)つが、賑かなうちにどことなくうるんだ淋しさをもつのが京極ぢやないかと思ふ。その狭い道は狭い為に良いと思ふ。(中略)

 京極には随分古い寺や神社があるが、雑沓にまぎれて拝して通る人もない。しかしいはれの日にはなかなか昔ながらの行事が維持せられ勤められてゐる。この雑沓のなかにあるためか寺も行事も反(かえ)つて異色のあるものが多い。

 四条から入らうとすると「菊水」の角に染殿地蔵があつて蝋燭の灯をあかあかとてらし、二十世紀のハイカラ人種、さてはよつぱらひの通行をよそに老少男女が奇妙な声をあげて鉦(かね)にあはせて御詠歌を申してゐるのも京都なればこそである。またの名を十住心院といふが、弘法大師ここに居て十住心論をあらはしたまふによる。
 染殿地蔵といふのは染殿后が帰依したまへる弘法大師作裸形地蔵尊の安置せられてゐるのによる。

 四条道場は錦を下るところにあるがその名も何となしに時宗らしい念仏道場の情緒をあらはしてゐる。
 錦の天神さんは錦小路の行当りにあり、この社が誓願寺と共に京極を通る人の一番気のつく社寺である。錦はまた天神さんの外、市場で有名で魚介と青物の問屋が並んで、石畳の狭い道に両側から天井に幕をはり、一寸した小雨にはぬれずに店を開いてゐる。これは京極の本通りにもあるが幼な心に素晴らしい思ひ付きの様に考へられた。
 錦の天神さんは初め河原左大臣をまつり、後菅公をまつる。尚この社はもと六条道場といひ、一遍上人の甥聖戒上人の開基で六条枳殻馬場河原院にあつたのをこの地にうつし、明治五年寺の方は分離されて今天神さんだけになつてござるわけである。

 「さかれんげ」とかいた格子づくりに汚い女人の髪がぶらさげられて何やら願かけがされてゐる小さな堂が蛸薬師下ル東側にあるが、この繁華な通りに旧弊な願かけ堂を見出すところが京都。古い物が凡そ周囲と没交渉に、それでゐてまた不思議な調和を保つてゐる。
 恵心僧都の開基で僧都の姨(おば)安養尼のありし大和当麻(たいま)よりこの地にうつしたもので華台八葉蓮華を逆にす。初め本寺の華台をつくること三度毎々に破る。試に逆蓮華(さかれんげ)とせしに何等の事なかりき。思ふに女人胸中の蓮華逆なり、之をあらはすためにて、女人引接(いんじょう)の相をあらはすものだと言はれてゐる。

 蛸薬師通の突当りは蛸薬師であるが、其の名の因縁についてはいろいろ附会の説がある。
 誠心院といふのが、六角下ルところにあるが、これはあまり気がつく人がなささうだ。この雑沓の地に藤原道長、和泉式部の像がある。和泉式部は小式部の死後尼となりて当院に入る。尤(もっと)もこの寺はもと小川の一条上ルにあつたものである。

 誓願寺は六角の突当りにあり京極中最も大なる寺であり、行きすがりに荘厳な勤行にあふこともままある。この寺ももと奈良にあり恵心僧都のひらくところで、京にうつつて元誓願寺の小川からこの地にうつり、其の後も度々の火災にあつてゐる。この辺から東側の細道を入ると所謂(いわゆる)裏寺町で古びた寺、安待合、小料理店などがあり、うすぐらいところに気味わるい風態の人間がたたずんでゐたりする。  


 このエッセイは、今から80年近く前に書かれたものです。
 ちょっとおもしろいのは、著者の関心によるものか、新京極の東側に並ぶ寺社ばかりが説明されていることです。新京極といえば、当時なら映画館や寄席、劇場がいろいろとあったのに、そこには興味がないのか全く触れられていません。

 著者は割とハイソサエティな人のようで(官僚だから当然といえば当然ですが)、京都の街のなかの「汚い」と感じた部分を「汚い」と素直に書いています。
 例えば、ある地区については、次のように記述します。

 (前略)裏に瓦斯会社のタンクがあつて学生の頃見学にいつて随分汚いところだと思つたが、今もこのあたりは汚い工場街で不衛生な不潔な地区である。 

 著者には「京都風」「京都気分」という基準があるようで、それに当てはまらない部分はバッサリと切り捨てるという感じです。
 この随筆集を読むと、月並みですが、“「京都」ってなんだ?” という問題意識に突き当たらざるを得ない気がしてきます。




 書 名  『京洛ところどころ』
 著 者  井手成三
 刊行者  第一書房
 刊行年  昭和16年(1941)



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京都について書いた随筆、かずかずあれど - 井上甚之助『わたしの京都』 -

京都本




みやこメッセ


 春の古本市を訪ねて 

 5月のゴールデンウィーク、催事も多いなかで、私が訪ねるのが京都古書組合が主催する古本市です。
 岡崎公園のみやこメッセ(京都市勧業館)で開催されます。

  古本市看板 春の古書大即売会

 学生の頃から行っているので、もう30年以上たっています。
 その間に、勧業館の建物も昭和初期の歴史的な建物から新しい建築になって、名前も「みやこメッセ」と変わって、前の京都会館も改築されて「ロームシアター」になり、隣接する府立図書館も建て直しましたね、ずいぶん以前ですけれど。岡崎公園も、たいそう様変わりした30年です。


  京都を取り上げた随筆 

 春の古本市には、会場の南東隅に必ず京都本コーナーが設けられます。
 今年は、少しレイアウトが変わったものの、いっそう拡大されてコーナーが作られていました。
 こんなブログを書いている私ですので、この一画は目を皿のようにして(?) 本探しをしてしまいます。

 数多の京都本のなかでも、数が多いのは随筆です。
 アンソロジー、つまり大勢の執筆者が名を連ねた随筆集もあるわけですが、今回は1人で書かれたものについて、少々の雑感です。

 実は、これまで言ったことはなかったのですが、京都について書かれた随筆もピンからキリまであるというか、面白いものは大変おもしろいけれど、つまらないものは大層つまらないーーたいへん失礼な言い方を承知でいえば、そのような印象を持っています。
 たとえ著名な方が出版したエッセイでも、これはなぁ……、と思ってしまうものがある一方、無名のひとが書いたものでも、とても素晴らしい作品があります。

 これまで、ここに紹介・引用したものでいうと、例えば北尾鐐之助(りょうのすけ)の『京都散歩』は、私のお気に入りです。
 北尾は、昭和の戦前戦後に活躍した大阪毎日新聞の記者です。写真部だったので、自分で写真も撮りますが、エッセイの名手で、同時代の社会を切り取って描く視線は新聞記者ならではの鋭さがあります。代表的な著作は「近畿景観」シリーズで、そのなかでも第3巻の『近代大阪』は優れた作品ですが、京都を取り上げた『京都散歩』も読みごたえがあります。
 
 京都エッセイといっても、内容的には主に3つに分かれます。
 ひとつは、北尾のように、同時代の京都を書いたもの。著者からすれば「現代」の街の姿を “見たまま” 描写したものです。
 ふたつめは、回想です。子供の頃から育った京都の過去を振り返って記すものです。結構、記憶のよい人が多いことに驚かされます。
 第三のものは、京都について学問的な視線で分析的に述べる随筆です。学者に多いパターンで、歴史や伝統工芸などジャンルを絞ることが多いのです。

 私は、1番目のものが最も好きで、その時代々々を生きた人たちのリアルな息吹きみたいなものが感じられて、つい引き込まれます。言葉遣いや地名など固有名詞の呼び方も、同時代ならではのものがあります。
 回想ものは、勉強になります。筆者の生まれ育った地域に即して詳しく分かることは、たいへんな利益になります。高名な方だけでなく、市井の一庶民といった人たちも書いていますが、参考になるものが数多くあります。
 第3分類は、そんなに好みではないのですが、梅棹忠夫さんのものなどは、ここでも何度か紹介していますが、京都人にも共感できるような分析があって納得です。


 井上甚之助『わたしの京都』 
 
 今回出会った随筆で、これはいいなぁ、と買い求めたものが、井上甚之助の『わたしの京都』。
 
  わたしの京都 井上甚之助『わたしの京都』墨水書房  装釘は小野竹喬 

 昭和48年(1973)に出版されました。
 井上甚之助という人は、私もよく知りませんでしたけれど、演劇評論家として『三津五郎芸談』などを出した人ということです。
 奥付のところに記された著者の略歴によると、明治35年(1905)、京都に生まれるとあり、本文中に柳馬場五条が育ったお宅だったことが分かります。長じて慶應義塾大学に進まれましたが、その後、京都に戻られ、これも文中には大丸に勤めておられた時期もあるようです。本書が刊行される直前、昭和48年3月に亡くなっています。

 もともとは、昭和46年(1971)7月から京都新聞に連載されたもので、連載当時のタイトルは「丸竹夷に」。
 ご存知のように、「丸竹夷二押御池(まるたけえびすにおしおいけ)……」という、京都の通り名を覚えるための俚謡から取られた題名です。

 およそ季節の流れに従って、年中行事や四季の風物をテーマに記述しています。
 回想が中心になっており、著者の少年時代、つまり明治末頃からの思い出が綴られています。

 最初に配列されるのは、正月につきものの「雑煮」です。

 松の内が過ぎて雑煮の話でもあるまいが、年の始めとあれば、先ず雑煮の話からはじめよう。
 京の正月の雑煮といえば、昔から白味噌仕立てときまっていた。こってりとした白味噌の汁の中には、小餅のほかに、大きな頭芋(かしらいも)と拍子木に刻んだ大根がはいっていて、上からパッと花鰹が振りかけられてあった。白味噌の甘い匂いと、花鰹の香ばしい匂いとが、微妙に入りまじって、プーンと鼻をつくのが、いかにも正月らしい改まった気分を誘うのだが、椀の中にデンと構えた大きな頭芋は、見た目には立派でも、さて食べる段になると、取り付く島もなく、並み大抵の苦労ではなかった。(後略) 


 この冒頭を読んでも分かるように、井上氏は大変な名文家です。
 なんということはない、正月の雑煮についての説明ですが、なかなかこのように書けるものではありません。

 それぞれのエッセイは、新聞連載ということもあり、とても短くて原稿用紙2枚半(約1000字)くらいです。そのなかに、ほどよい起承転結があり、読む者を引き付けます。

 雑煮の話は、このあと「頭芋は、幼い私にとっては、どうしようもないしろ物」であったが、厳格な父は食べないことを許さず、「将来、人の頭に立つためにも、頭芋は食べ残してはいけない」と叱るので、幼い井上氏はボロボロと涙をこぼしながら食べるのでした。
 しかし時代が移るにつれ、三日のうち一日は東京風のすましの合鴨の雑煮になり、自分の代になると合鴨の雑煮が二日を占めるようになって、白味噌の日も頭芋の代りに小芋が入る始末でした。
 随筆は、次のように締めくくられます。

 その小芋を見るにつけ、私はその昔、私を泣かせたあの憎らしい頭芋が懐かしく、昔の白味噌雑煮のうまかったことを、いまさらながら恋しく思い出している。そして頭芋が嫌いだったばっかりに、人の頭にも立てず、小芋で一生を終わるであろう自分自身にも見切りをつけている。 
 
 なんだか、ちょっぴり切ないような幕切れです。
 京都の雑煮の話題は誰もがすることですが、雑煮のなかみ、頭芋の持つ意味、昔気質の風習、時代の推移を要領よく説いて、最後に自分の思い出に引き付けて、ちょっとしたユーモアで落ちをつけるあたり、このエッセイは実に巧みといえるでしょう。


 京菓子の思い出 

 もうひとつばかり、紹介してみましょう。
 「京菓子」と題する文章です。

 (前略)
 それはそうとして、昔は菓子屋にもご用聞きがあって、毎日のようにお得意先を回っていたものだった。子供のころ、私の家でもお菓子の見本を入れた箱をよく見かけたが、それは平べったい木箱の中がいくつにも仕切られてあって、その中の一つずつに、お菓子の見本が、ほんの少しずつはいっていた。そんな古びた木箱が五段か六段重ねられてあったのだから、相当な種類のお菓子の見本がはいっていたことになる。
 まだ祖母が生きていたころで、その祖母を中心に、両親までが揃って、楽しそうにお菓子の見分けをしていた。時にはその見本の中の一つをヒョイとつまんで、食べていた場面も見受けたことがある。やっと品定めがすんで、見本箱を元の通り積み重ね、待たせてあった菓子屋の丁稚さんのところへ、母が持って行って注文するのだが、その注文たるや、いまから思うと、まことにつつましやかで微々たるものであった。  


 この菓子屋が末富(すえとみ)であったことを後年知ったと書いています。
 大の大人がお菓子を楽しそうに品定めしている光景が目に浮かびますが、大店なのにその「微々たる」注文は意外かも知れません。本書には、ところどころに京都人の質素さや控えめなさまが記されています。
 一方で、季節に従い、節分や八朔など節目に応じた “儀式” を行っていた、折り目正しくリズム感のある日々が想起されます。

 そんな半世紀ほど前までの暮らしぶりからすると、現在はずいぶん変わってしまったなあという感慨を禁じ得ません。

 (この項、つづく)




 書 名  『わたしの京都』
 著 者  井上甚之助
 刊行者  墨水書房
 刊行年  昭和48年(1973)



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