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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

懐かしい母校の裏に、京都を囲む御土居がある





御土居北辺


 大寒と故郷 

 年が明けて、あっという間に3週間。
 昨日(1月20日)は大寒で、一年中で最も寒い時期ですね。

  大寒の一戸もかくれなき故郷    龍太 

 俳人・飯田龍太は山梨の人だそうです。だから、この句も甲斐の田舎を詠んだ句ということになるでしょう。

 私の故郷は、もちろん京都。
 京都の中でも、市内の北の方で、学校時分はずっとそこで過ごしたのです。

 今日は、久しぶりに母校の近所に行った話です。


 京を囲繞する土塁 

 烏丸北大路

 私には親しみのある景色ですが、観光客の方などには見慣れない風景でしょう。

 地下鉄烏丸線の北大路駅前。

 通り名でいうと、烏丸北大路(からすま・きたおおじ)ということになります。
 現在の北大路駅の場所には、かつて市電の烏丸車庫がありました。市電が廃止になって地下鉄が取って代わり、車庫も駅とバスターミナルになりました。駅の上には、ビブレというショッピングモールもあります。

 北大路、というくらいだから、京都市街でも北の端だと思われるでしょう。
 確かに、平安京の時代でいえば、その北辺は一条大路、つまり現在の一条通あたりでした。今出川通よりも南ですね。
 北大路通自体は、比較的新しい街路で、「昭和初年の市電開通とともに、市街地の外郭道路として建設された幅員27メートルの道」(『京都の大路小路』)です。幅員27mは、昔風にいうと15間(けん)ですから、江戸時代までにはないような近代的街路の幅、それも昭和的な広さですね。

 けれども、このあたりは、400年余り前の豊臣時代には、いちおう京都の中、いわゆる洛中だったのです。
 豊臣秀吉は、天正19年(1591)に、京都のまわりを囲む土塁と堀を造営しました。それが御土居(おどい)で、この内側が洛中になったのです。

 御土居は、総延長5里26町ありました。換算すると22km余りの長さです。
 下図は、御土居のそばに設置された案内板です。

 御土居案内板

 東は鴨川、西は紙屋川(西大路通の東)、北は御薗(みその)橋の南方、南は京都駅の南方、という感じです。タテは約8.5km、ヨコは約3.4km。結構タテ長なのです。

 図の赤いところが、今日訪ねるところ。
 御土居の北東の隅になります。


 斜めの道  

 北大路駅から歩き始めると、御土居の土塁的な痕跡は全くないものの、道路にその名残りを見ることができます。
 
 こちらは、烏丸北大路から約200m北の京都警察病院付近です。

 警察病院北

 右の道路が烏丸通の末端。まっすぐ南北に伸びています
 左の小道が、少し西に振っている脇道。これが、実はかつて御土居が築かれていた場所を示しているのです。
 上の御土居図でも分かりますが、鴨川の上流(賀茂川と表記する)は西に振っているので、御土居もそれに沿って斜めになっているわけです。
 それが街路に残されているのですね。

 地図でチェックすれば、紫明通の南から北大路通の北まで、1km近くにわたって斜めの道が残っていることが分かります。およそ御土居が走っていた場所を示しています。


 北東隅の屈曲部 

 その斜め道も途切れて、北大路駅から直線距離で約1.2km。加茂川中学に至ります。
 私の母校です。

 加茂川中学

 昔は広いと思ったグラウンドも、今見るとやはり狭い。
 この写真の手前あたりに、ずっと昔は御土居が通っていたはずですが、中学時代の我々はそんなこと知る由もなかった……

 でも、学校のブロック塀の裏に、史跡として土塁が残っていたことは、当然知っていました。
 それはそうです、毎日見ていたのですからね。

 御土居北東部
  左の建物が中学の校舎

 中学校の校舎と御土居が、くっついているのですよ。
 あるときなんか、蹴ったボールが御土居に入ったことさえありました(笑) 

 先ほど、ここが御土居の北東隅だといいました。
 つまり、ここが屈曲部なのですね。

 ケヤキの木の手前で西に折れています。

 御土居の屈曲部

 ここは、土塁の高まりがとても低くなっています。
 しかし、このすぐ右(東)側は賀茂川ですから、当時は河原から土塁の頂部まで、何メートルかの高さがあったことでしょう。
 そして、賀茂川が堀の役割を果たしていました。

 ちなみに、御土居の西辺では、紙屋川の深い渓が堀となっています。


 堀川通の西にも残る 

 西に曲がった御土居は、一旦、堀川通に切断! されます。

 御土居西側
  堀川通と御土居  写真右が北

 しかし、通りを渡った西側には、さらに残されているのです。
 ただ、ほんの僅かだけ…… おそらく10mくらいですね。

 その向こうには、写真のように住宅が建っています。

 御土居と住宅
  写真手前が西

 住宅街の中から東を見ると、こんな感じに。
 突き当りに土塁がある風景。

 さらに西へ進むと、御土居だった場所に家が立ち並んでいる様子が分かります。

 住宅街
  写真左が西

 矢印が、屈曲部にあったケヤキですね。
 ほんとうに、御土居があった印みたいに、住宅が並んでいます。
 なにか奇妙な光景ではあります。

 久々に訪ねた母校のそば。
 御土居は、400年の時代の波によって、ほとんど破壊されてしまいました。
 現在、市内で史跡指定地は9か所のみ。
 そのひとつのそばで中学の3年間すごした自分は、幸せというべきなのでしょう。

 御土居の歴史と破壊については、中村武生氏の『御土居堀ものがたり』に詳しく記されています。
 最近、やや脚光を浴びている御土居。別の箇所もレポートしたいと思います。




 御土居(国史跡)

 所在  京都市北区上長目町、上堀川町
 見学  自由
 交通  市バス「加茂川中学前」下車、すぐ



 【参考文献】
 中村武生『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター、2005年
 『ビジュアル・ワイド 京都の大路・小路』小学館、2003年



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【大学の窓】グループ発表が終わった

大学の窓




キャンパス


 1年間の研究成果を発表 

 1月中旬になり、京都もとても寒くなってきました。

 今朝は、私の住むあたりは2cmほどですが積雪しました。路面に積もるのは今季初めてですが、寒い冬の割りには遅かったですね。
 でも、河原町まで出かけると、さすがに雪はなかったです。
 京都市内では、今出川通(上京区)とか、北大路通(北区)とか、そのあたりを目安に、寒さの境目? があるような気がします。

 その今出川通にある(仮称)上京大学。
 私が担当している1回生の演習科目は、1年の最終盤となりました。班ごとに分かれて研究を行ってきましたが、年度の最後に全員の前で30分間、発表します。

 その発表が、先週すべて終わりました。
 学生のみんなは、さぞかしホッとしたでしょうね!
 発表後、ある学生に聞いてみたら、やり切った感がある、と言っていました。これは、とってもうまく行ったケースです。多くの場合、不満足な部分や後悔が残るものです。

 キャンパス


 “初めての研究” は、ムツカシイ 

 テレビ番組に「はじめてのおつかい」というのがありますが、1回生にとっては “はじめての研究” だったわけです。道に迷ったり、忘れものをしたり、子供のおつかいと同じく、大変だったと想像します。
 
 その大変な理由は何か?

 ひとことで言うと、やり方が分からない、ということでしょう。

 発表を聞いたあとコメントしたのですが、多くの班が「調べ学習」にとどまってしまっています。中学や高校でよくやる学習ですね。テーマについて、その概要を紹介するような発表です。
 そこには、解くべき「問題」がないので、単なる事柄の紹介になってしまうのです。

 もちろん、どのように適切な問題を立てるかは、とても難しいものです。
 問題を立てるためには、まず十分な知識の獲得を行わなければなりません。でも、多くの学生の場合、そこで獲得した知識をそのまま発表してしまうのです。つまり、その先やるべき段階にまで到達していないのですね。
 
 こういった研究のやり方を多くの学生が理解していないように感じました。
 確かに、高校の日本史の教科書を読んで勉強しても、問題を立てる力は養われませんよね。試験に出た問題を解くことはできるのですが……
 
 このように、大学の研究を行うためには、高校までの勉強からテイクオフすることが必要です。
 1回生のみんなは、離陸のために滑走路を走っていたのだといえます。
 今年はまだ飛び上がれなかった人が多かったと思うのですが、一生懸命走っていれば、きっと離陸できるはず。おそらく、3回生くらいになると、だいぶん力が付いてきますよ。
 
 次は、2回生。
 テイクオフに向けて、いっそう加速してみてください。
 応援しています!




初詣は北野天満宮、おみくじに秘められた深い意味





北野天満宮初詣


 三が日に初詣

 あけましておめでとうございます。
 本年も、当ブログをよろしくお願い申し上げます。

 私は毎年、お正月は北野天満宮に初詣です。
 というのも、天神さん(という方がなじみなので)の近所に恩師のお宅があり、そこに新年の挨拶にうかがうからです。訪問の前に、天神さんに初詣、というわけです。
 もっとも、母の実家もこの近くでしたので、子供の頃はいつもお詣りしていました。京都の大きな神社のなかでは、一番なじみ深い神社なのです。

 北野天満宮大絵馬 戌年の絵馬


 特徴のあるおみくじ 
 
 参拝すると、必ずおみくじを引くのも毎年の習慣。200円也ですが、真鍮製の棒を引くので、がらがらと大きな音がします。

 天神さんのおみくじは、大吉とか小吉とか、吉凶がもちろん書かれているのですが、それに加えて1行の言葉が添えられています。

 今年、私が引いたものには、こう書かれていました(19番)。

  屈曲して初めて用を知る 
 
 なにか、むずかしそうですね。
 そのため、説明として、次のように記されています。

 折曲ることにより初めて屏風は立って役にたつもので この世の中も多くの人々の協力を得て初めて成功すると教えられているのです。人と親しみ万事に調和して、信心専一にすれば大幸運を授かります。  

 なるほど。
 屏風は、曲がって初めて立つものなので、それに人をなぞらえて、人も役立つには “曲がる” ことが重要と、説いているわけです。

 ちなみに、辞書を引いてみると、屏風について、「屏風と商人(あきんど)は直(すぐ)にては立たぬ」ということわざが載っています(『日本国語大辞典』)。

 屏風は折りたたむようにすこし曲げなければ立たない。商人も営業上自分の情を押えて買手の意を迎えなければ成功しない。商人と屏風は曲らねば世に立たず。 

 こちらは、屏風を商人(商売)のたとえにしています。
 そして、17世紀初頭にイエズス会により刊行された「日葡辞書」にこの言葉が記されていることが紹介されています。つまり、安土桃山時代には、すでにこういう言い方があったわけです。


 なぜ屏風なのか?

 と、意味はよく分かったのですが、なぜおみくじに屏風が登場するのか、ちょっと不思議ですね。

 実は、北野天満宮のおみくじは、ご祭神である菅原道真が詠んだ漢詩などの一節から取られているのです。
 これについて紹介したウェブサイト「山陰亭」によると、ほとんどが道真公の詩文を収めた「菅家文草」所収のものによるということです。

 そう聞いて、おみくじを見ると「北野天満宮 御詠詩神籤」と書いてあります。道真公の「詠詩」に基づいているということですね。

 そこで、『日本古典文学大系』に収載された「菅家文草」を見てみると、巻5-409に「屏風」という漢詩(五言律詩)がありました。
 原文は漢文ですが、訓読したものを引用します。

 屈曲して 初めて用を知る
 施来(もち)ゐれば 風を畏(おそ)りず
 質(かたち)は羅(うすもの)を帳の裏に宜し
 功(いたは)りは玉の筵(むしろ)の中に見(あらは)る
 人馬 来り去ることなし
 煙霞 始終あらず
 丹青 巧みあることを知る
 開合 また西東  


 屏風の特徴を詠んだ詩ですが、最初に「屈曲して初めて用を知る」が出てきました。
 註によると、中国の書物に現れたモチーフが参照されているそうです。「南史、斉書に、王遠という人は屏風のようだ、屈曲して俗に従い、能(よ)く風露を蔽うとある」と説明しています。

 おみくじは、道真公の原詩をさらに敷衍して、世の中に役立つための人のあり方を説いたわけです。
 なかなか含蓄が深いですね。

 北野天満宮

 引いたおみくじは、天神さんに結んで帰るので、過去にどんなものがあったのか、残念ながら記憶にありません。
 ひとつだけ、記録していたものが、これです(12番)。

  木こりは薪(まき)を負うて行くを嘆かず

 現在は苦難の運勢だが、めげずに精進すれば明るい未来が開ける、と説かれています。余りよくない運勢で、半凶でした。

 この出典は「菅家文草」巻2-146で、七言律詩です。

 士は寒(ひややか)なる閨(ねや)より出でて忠順成る
 樵夫(しょうふ)は歎かず 薪(たきぎ)を負ひて行くことを
 雲龍闕下 趨(はし)りて父を資(たす)く
 槐棘門前 跪(ひざまづ)きて兄に事(つか)ふ 
 一たび願はくは 偸(ひそか)に天性の色を承けなむことを
 参(み)たび言へらく 半(なかば)孔懐の声を帯びてむといへり
 侍郎は官衙の早きを厭ふことなし
 誰か道(い)はむ 遺孤の生めるところを忝(はづかし)むると 


 「樵夫」は、木こり。この部分をおみくじに用いています。
 古典文学大系の註には、「たとえば樵夫の家に生まれたならば、少年のとき、薪をせおって力しごとに従事して、それを苦にしないものが士(中国の階層のひとつ)となるの意」と説明しています。

 貧しい身分であっても、努力を重ねれば立身出世する、というような意味ですね。
 おみくじの説くところと通じます。

 含蓄のある北野天満宮のおみくじ。
 今年引いた「屏風」の教えは、1年間仕事をしていくうえでも、よい教訓になりそうです。

 来年は、どんな句が出て来るか、早くも楽しみです。




 北野天満宮

 所在  京都市上京区馬喰町
 参拝  自由
 交通  市バス「北野天満宮前」下車、すぐ



 【参考文献】
 川口久雄校注『日本古典文学大系 72 菅家文草 菅家後集』岩波書店、1966年
 『日本国語大辞典』小学館、1975年