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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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初秋の八瀬の里を訪ねて(後編)-八瀬のかまぶろ-





八瀬かまぶろ


 歴史ある山里 

 前回に引き続き、八瀬(左京区)訪問記をお届けします。

 約50名の学生と一緒に訪ねた洛北の山里・八瀬(やせ)。
 その名の通り、曲折して瀬や淵をたくさん作りながら流れる高野川に沿って、古い集落が拡がります。

 八瀬天満宮
  八瀬天満宮

 集合後、まず八瀬天満宮へ。
 京都市歴史資料館の方から、説明をうかがいます。

 八瀬の歴史は古く、平安時代から近代に至るまで、文書によってその歴史がたどれる稀有な集落だといいます。
 この天満宮の背後は山なのですが、ずっと登って行くと比叡山に至ります。つまり、比叡山西麓の村里で、そのようなつながりを古くから持っていました。
 近代史のなかでは、天皇の駕輿丁(かよちょう)、つまり天皇が乗る輿(こし)をかつぐ仕事を担った人々として、宮中に奉仕したことでも知られます。特に、その任をもって天皇の葬儀に参加することは著名になりました。


 奇習・かまぶろ 

 天満宮をあとにして、次に訪ねたのは「かまぶろ」です!

 かまぶろって、なんだ?

 と思われるでしょう。
 
 一種の蒸し風呂、つまり昔のサウナだと考えてもらえばよいかと思います。漢字で書くと、竈風呂ですね。

 高野川とかまぶろ

 高野川に沿った場所に、料理旅館ふるさとがあります。

 ふるさと
  ふるさと前で説明を聞く

 ここには、現在でも入れる! かまぶろがあり、そして館外には復元した昔のかまぶろも設置されています。
 今回は授業の見学会、しかも50人なので入浴するわけにもいかず(笑)、外の復元物を見せてもらいました。

 かまぶろ
  川側から見る

 ふるさとの庭に設置されたかまぶろ。
 覆い屋のなかに、なんと言うのがいいでしょうか、“土まんじゅう”のようなものがあります。

 かまぶろ
  八瀬のかまぶろ

 ライトで照らしながら、内部をのぞいてみると……

 かまぶろ内部

 寝転んで、3~4人は入れるスペースが拡がっています。

 下は土間ですが、おそらく往時は、むしろやわらを敷いて寝たのでしょう。

 私は、以前、別府の鉄輪温泉で、蒸し風呂に入ったことがあります。
 小さな入口から中に入ります。八瀬よりは広くて10人くらいは入れたと思いますが、寝転んで蒸されます。時間は10分なのですが、サウナが苦手な私は、8分で出てしまい、その意気地のなさを係の女性に笑われてしましました(苦笑)

 ふるさとの復元かまぶろですが、歴史資料館の方によると、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会の際に製作されたものだということです。


 「都名所図会」にも紹介

 八瀬のかまぶろは、「都名所図会」(1780年)にも紹介されています。

 都名所図会・八瀬窯風呂
  「都名所図会」より「八瀬竈風呂」

 都名所図会の窯風呂

 拡大図を見ると、かまの床は石敷きのようで、熱くなった石に柄杓で水をかけて、水蒸気を発生させているようです。
 石の上には、むしろみたいなものを敷いていて、その上に寝るのですね。
 おそらく土製のかまが2基並んでいますが、その上に茅葺きの屋根が葺かれているところが、おもしろいですね。
 
 右手の建物は休憩所になっていて、男性が寝転んでタバコを吸っています。

 「都名所図会」によれば、当時八瀬には7、8軒のかまぶろがあったようです。もっとも、八瀬だけではなく他所にもあったということです。

 次の写真は、昭和4年(1929)に刊行された『日本地理大系』に掲載された写真です。
 昭和初期にこれが使われていたかどうか、すでに引退していたようにも思われますが、貴重な記録です。

 日本地理大系・かま風呂
 
 京都近郊の山里・八瀬は、江戸時代の京の人たちからすれば、異文化がある土地だったのでしょう。
 かまぶろや里人の風俗も、都とは違った鄙(ひな)の習俗として捉えられたのだと思います。


 赦免地踊りの灯籠
 
 かまぶろ見学したあとは、地元の方に、赦免地(しゃめんち)踊りの説明をしていただきました。
 紙で作った灯籠を頭上に乗せて踊る珍しい行事です。
 
  赦免地おどり灯籠
   赦免地踊りの灯籠

  灯籠の切り絵

 紙の窓に絵が付いているのですが、これがすべて切り絵なのです!

 頭の上に乗せるのも驚きですが、細工のこまかさにも目を見張ります。学生たちも、とても興味深く拝見していました。

 資料館や地元の方にお世話になった見学会。
 歴史の実地にふれるという授業は、学生たちに刺激を与えたようでした。




 八瀬かまぶろ

 所在  京都市左京区八瀬近衛町 ふるさと内
 見学  自由
 交通  京都バス「ふるさと前」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『日本地理大系 近畿』改造社、1929年


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初秋の八瀬の里を訪ねて(前編)





八瀬


 学生と一緒に見学会

 八瀬(やせ)というと、京都の郊外・洛北にあり、豊かな自然のなかで長い歴史を育んできた山里です。 

 「都名所図会」(1780年)にも、八瀬の里は取り上げられており、都会とは異なった風俗が描かれています。

 都名所図会・八瀬里人の風俗
  「都名所図会」に描かれた八瀬の里人

 これは八瀬の人々が、都へ薪(たきぎ)や柴を売りに行く様子です。
 馬に追わせたり、肩に担ったりしていますが、なかでも著名なのが頭の上に載せる “頭上運搬” でした。
 いわゆる「おはらめ」で、八瀬の場合は小原女と書き、この奥の大原の女性たちには大原女の文字を使うそうです。

 今回は、出講している大学の授業で、毎年恒例の見学会があり、学生たちと八瀬を訪れました。
 当日は、あいにくの雨模様でしたが、八瀬の歴史に触れ、また景観に接して、おおいに勉強になりました。

 さっそく出掛けてみましょう。


 八瀬比叡山口駅から 
 
 八瀬に行くには、市内各所から京都バスを利用するのが便利ですが、電車で行くとなると、叡山電鉄を利用することになります。

 叡山電鉄

 始発の出町柳駅から八瀬比叡山口駅へ向かいます。
 八瀬比叡山口は、かつては八瀬遊園という駅名で、小さな遊園地がありました。古い駅舎も往時のまま残されています。

 八瀬比叡山口駅
  八瀬比叡山口駅

 ここから、今日の集合場所である八瀬小学校までは、2km余り。
 国道367号線から、左折して旧道へ入ります。

 367号線
  
 道路標示には、大原まで 7kmとあって、すでに京都市街から離れた場所であることが感じられます。

 川沿いの道を進みます。
 川は、高野川。
 八瀬という村名も、集落の中を流れるこの川の瀬が、たくさんあったことから来ているのでしょう。

 高野川沿いの道

 一方で、川は蛇行しており、至るところに淵があったようで、バス停にも神子ケ渕とか甲ケ渕といった名前が残っています。

 高野川の淵
  高野川の淵

 天気が良く、時間があれば、こういうところで川に降りてみたいですね。
 今日は、先を急ぎます。


 八瀬の集落

 一度、国道と交差しながら、旧道はつづきます。
 民家の古そうで……

 懸魚のある民家

 屋根の拝みに懸魚(げぎょ)のある立派な旧家もあり、

 蔵

 連棟になった蔵もあります。
 絵になる風景ですね。

 昔を知る人によると、このあたりの民家もかつては茅葺きがあったということですが、いまでは失われてしまいました。
 私は、こういった民家を見ると『京郊民家譜』という書名などを思い出します。大正から昭和初めの頃、日本では「民家」という存在が発見され、記録と研究が進みました。京都では、洛北や洛西などの民家が、民俗学の貴重な対象として捉えられ、記録されます。
 ことに八瀬では、特殊な風習もあって、そのことも言及されますが、それは後編で。

 ここから、少し進むと集落の北端に至り、天満宮の鳥居が見えて来ます。

 八瀬天満宮
  八瀬天満宮

 天満宮を過ぎれば、旧道は国道と合流し、眼前には八瀬小学校が。

 体育館に集合
 
 約50名の1回生たちとともに、見学会が開始されます。


(この項、つづく)




 八瀬

 所在  京都市左京区八瀬秋元町ほか
 見学  八瀬天満宮などは自由
 交通  叡山電鉄「八瀬比叡山口」下車、徒歩約30分
     京都バス「ふるさと前」下車、徒歩すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年




まいまい京都で、大阪・パノラマ地図ツアーを開催!

その他




西梅田


 秋の連休、まち歩き

 10月、体育の日を含む3連休に、まち歩きツアー<まいまい京都>で解説をしてきました!

 この日は、10月とは思えない暑い日で、まち歩きには少し厳しい一日でした。

 コースは、まず西梅田に集合。
 そこから、「大阪市パノラマ地図」を見ながら、100年前の街をイメージしつつ歩きます。

 大阪市パノラマ地図は、大正13年(1924)1月に発行された鳥瞰図です。
 その名の通り、当時の大阪市全域を収めています。

 今回は、そのうち、梅田~堂島~肥後橋あたりを巡りました。

  堂島アバンザ まいまい京都撮影

 写真は、現在、堂島アバンザとなっている旧毎日新聞社屋のモニュメントです。
 大正時代に建てられた大阪毎日新聞の本社屋の玄関廻りを残したもの。竣工時の写真と今の記念物とを見比べながら、同じですねぇ、と感心したのでした(笑)

 いまは失われた堀割の跡、江戸時代の蔵屋敷跡、水の都の川や橋、名建築、古い小道など、みどころ満載のコースとなりました。
 約20名の参加者のみなさんにも、満足いただけたものと思います。

 とても興味深いパノラマ地図。
 また別のコースを歩いてみたいですね。

  まいまい京都解説  まいまい京都撮影
  解説中の筆者



【大学の窓】秋学期がはじまった

大学の窓




大学キャンパス


 研究発表は12月に 

 どの大学も、先週あたりから秋学期が始まりましたね。
 私が非常勤で行っている(仮称)上京大学でも、学生たちがキャンパスに戻ってきました。

 担当している1回生の演習は、テーマを決めてグループで研究を行う授業。
 春学期に、テーマの方向性を定めて、秋学期に発表します。

 全部で9グループあるので(私は2つの班を担当)、発表は11月下旬から1月上旬まで5週間に及びます。
 秋の最初は、じゃんけんで発表順を決定します(笑) 
 私の担当班は、どちらも12月で、まぁよい順番というべきでしょう。

 例年、夏休みは余り勉強が進まないのですね(苦笑)
 でも、今年は2班とも、結構やってきた様子。さかんに意見交換していました。

 私のクラスは、「写真」と「繁華街」という2テーマです。
 写真班は、戦時下の新聞に掲載された写真を調べています。
 繁華街班は、大阪をフィールドに調査しています。

 図書館



 街をあるけば…

 繁華街のグループは、夏休み中に手分けして大阪の繁華街を歩いてきたようでした。
 ふだん意識しない街並みも、問題意識を持って歩くと感じ方が違うよう。JR大阪駅の北側に行くと、大きなビルがあるが、会議場などが入っているだけで「繁華街」とはいえないようだった、とか(グランフロントのことかな)。また、大阪駅の西の方に行くと、福島というところだが、ここはオフィス街で、アフターファイブに行くような飲み屋さんはあるが、ここも「繁華街」とは言えそうにない、とか。
 なかなか、的確な観察をしているのですね。

 朝から夕方まで、ずっと街を歩いていると、ある場所からガラッと雰囲気が変わるところがあったりと、おもしろい発見をしたりしています。
 これも、実際、自分の足で歩いて感じた賜物ですね。

 「繁華街」のテーマは、昨年から始めたものです。
 昨年の学生も、実は大阪(ミナミ)を取り上げていました。やっぱり、繁華街といえば大阪をイメージするのでしょうか? でも、今年はキタが中心になるのかな?

 一昨年までは「建物」がテーマで、これは7年くらいやっていたのですが、毎年うまくいかない傾向にありました。
 そこで、“実際に街に出て、自分の足で歩き、目で見て、感じてもらおう” というコンセプトに切り替えたのです。すると、全員とは言えないまでも、現地を歩く学生も出てきて、そのおもしろさを語ってくれるのですね。「ブラタモリ」の影響もあるみたいで、テレビで見ていることを自分でやってみるというのも、楽しいのかも知れません。

 こういうふうに実地を歩いてもらうと、私としては言うことはないのですが、いちおう歴史専攻なので(笑)、現在から過去にさかのぼって考えてもらうよう、アドバイスしました。
 100年前、そこはどうなっていたのか?、200年前(江戸後期ですね)はどうだったのか?、さらに500年前は? 
 大阪の場合、およそ500年の変化を考えればよいといえるので、そんな話をしています。


 繁華街はどこにある?

 ところで、いま京都で繁華街といえば、四条・河原町とその周辺。大阪では、ミナミとキタ、というイメージでしょう。

 しかし、半世紀ばかりさかのぼってみると、京都では西陣織の産地「西陣」(地名)にも、劇場、映画館、飲食店などが密集する繁華街がありました。その中心には「西陣京極」と呼ばれるエリアもありました。

 西陣京極
  西陣京極の一画

 一方、大阪では、ミナミとキタ以外にどんな繁華街があったのか?
 ここからは、学生には言っていない“ヒミツ”のコメントです(笑) まぁ、そう大層じゃないですが……

 もっとも、繁華街って何か、という定義がまず必要なのでしょうか。
 歴史的に考えてみると、娯楽の要素、小売りの要素、飲食の要素、売買春の要素、といったものが、集中的、複合的に混在していて、たくさんの人が集まってくる地区といえそうです。
 単に「小売り」だけだったら近所の商店街も当てはまるし、集中・複合していなければUSJのような遊園地もそうですよね。
 また、小売りや飲食については、高級性が見られ、商っているものの値段が高い傾向があるように思います。ご近所で買う洋服よりも、繁華街で買う洋服の方が高価ですよね。大阪でいえば、小売り街・心斎橋筋が、東の銀座とならぶ日本随一の名店街だったのはその典型です。

 そのうえで、ミナミとキタ以外の繁華街について考えてみると……

 天満宮裏門
  天満天神の裏門

 ひとつは、上の写真、大阪天満宮の周辺(北区)です。
 ここは現在では、天神橋筋商店街という長いアーケード街で有名ですが、かつては劇場、寄席が集まり、近くには待合もありました。天満天神の裏門といわれるエリアで、現在、落語の定席・天満天神繁昌亭があるあたりです。

 いまひとつは、西区の松島から九条にかけての地域です。
 現在も、九条新道の商店街とその周辺は、なかなかにぎやかですね。
 戦前は、東寄りの尻無川と木津川に挟まれた島・松島に遊廓があって、そこに劇場、寄席や料理店も並んでおり、さらに西へ商店街が伸びるようになって、繁華を極めました。遊廓を核とした典型的な戦前の繁華街といえ、「西の千日前」「西の心斎橋」と称される地区となっていました。

 天満天神と松島・九条は、かつては大阪の二大ローカル繁華街で、爆発的に増えた労働者を慰安するエリアでした。
 でも、私の学生たちは、まだこのことを知らないようです。
 古い資料に接し始めると、気付いてくれるかも知れませんね。



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