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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

古い技術コロタイプが、いま再びよみがえる - 京都・便利堂の特殊技術 -

その他




日本古建築菁華より平等院鳳凰堂


「真珠の小箱」「美の京都遺産」から「京都知新」へ 

 前回書きましたが、4月から勤務体制が変わって、土日が休みになりました。
 しかし、休日も結構早起きで、6時とか7時には起きています。この日曜日も、6時前に起床しました。

 すると、やっていたテレビ番組が「京都知新」(毎日放送)。

 毎日放送(MBS、関西の4チャンネル)の日曜朝といえば、長らく「真珠の小箱」が看板番組でした。スポンサーの近鉄の沿線、つまり、奈良、伊勢・志摩などの名所旧跡、文化財を紹介する珠玉の紀行番組でしたね。少年時代、奈良好きだった僕には、懐かしい存在です。
 それが惜しまれつつ終わったあと、京都にシフトチェンジして「美の京都遺産」になりました。これも10年以上つづいたけれど、昨年3月に終了して、そのあと番組が「京都知新」というわけです。

 説明が長くて、すみません……

 その「京都知新」の今朝のテーマが、京都の企業・便利堂のコロタイプ印刷でした。


 懐かしの便利堂、コロタイプ

 博物館、美術館好きのみなさんなら、便利堂という社名はご存知でしょう。

 僕は、少年時代、京都国立博物館に行ったとき、確か新館の1階に狭いショップ(というより売店程度)があって、そこにミニチュアの屏風とか絵巻物とか、絵はがきとかが置いてあって、そういうのが欲しかった記憶があります。
 のちに知ったのが、写真印刷を応用してこのようなグッズを作っていたのが便利堂だったということです。

 本物の絵巻物を少し小さくして、かつモノクロで複製した絵巻物、こんなものがコロタイプ印刷という技術で作られていました。
 
 現在、多くの写真印刷は網点による印刷を行っています。細かなドットによって写真の絵柄を表現しています。ルーペで拡大すると分かりますね。
 一方、コロタイプ印刷は、網点を使わない印刷技術です。

 京都より六角堂
  『京都』より「六角堂」

 昭和初期の写真集のモノクロ写真ですが、これがコロタイプによるものです。
 ちょっとソフトな感じでしょう。

 コロタイプの特徴のひとつが、この「網点のないなめらかで豊かな諧調表現」です(『明治の京都 てのひら逍遥』)。
 つまり、色の変化などがスムーズに、自然に表現できるわけですね。

 アップにすると、よく分かります。

 京都より神泉苑(部分)
  『京都』より「神泉苑」(部分)

 さざ波の部分。
 網点がないから、いい雰囲気が出ます。


 便利堂の出版物では 

 私が持っているもので、大正時代の便利堂が出した書籍に『日本古建築菁華(せいか)』があります。新聞記者で京都を愛した岩井武俊が出した大判写真集です。
 国内の名建築を写真撮影し、解説を付けて3冊にまとめたもので、当時としては意欲作です。
 この写真印刷を便利堂が請け負いました。

 日本古建築菁華より平等院鳳凰堂
  
 平等院鳳凰堂ですね。これもソフトタッチな写真です。
 下は八坂神社、南の大鳥居。

 日本古建築菁華より八阪神社

 デジタル写真に慣れた目には、少し頼りなく感じられるかも知れません。でも、こういう滑らさが好きという人も多いでしょう。

 テレビ番組では、網点写真と比べて、小さく写った人の表情などがよく出ている、と言っていました。

 コロタイプは、150年ほど前、フランスで発明された技術です。便利堂では、明治38年(1905)から手がけました。
 ガラス板にゼラチンを塗布して、そこにフィルムから焼き付ける独特の技法です。
 印刷時も、技師さんがインキを手で落として行ったりして、職人技のように見受けられます。

 インキに耐光・耐候性があり、長期保存もできるため、その点でも文化財写真に向いているということです。

 便利堂は、明治20年(1887)、貸本・売本兼出版業として中村弥二郎が創業。雑誌や書籍を刊行するとともに、絵はがきの製作などでも発展しました。
 いまや “百年企業” ですが、近年、コロタイプの見直しを進めているということです。というのも、国内でコロタイプの技術を継承しているのは京都の2社だけだそうで、いまや文化財的な技術になっているからです。

 味わいのあるコロタイプ。
 若い人にも案外うけるのではないかと思いました。




 【参考文献】
 岩井武俊『日本古建築菁華』1919年、便利堂コロタイプ印刷所
 『京都』京都市役所、1929年
 『明治の京都 てのひら逍遥 便利堂美術絵はがきことはじめ』便利堂、2013年



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ご愛読ありがとうございます! - ブログ5周年 -

その他




比叡山


 夏の京都

 いつもご愛読いただき、ありがとうございます。

 当ブログ≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫も、このたび5周年を迎えることができました。
 これもひとえに、日々ご愛読いただいている皆さま方のおかげです。あつく御礼申し上げます。

 2012年8月に始めたこのブログ。われながら暑い時期に始めたものだと思いますが(笑)、今年も猛暑でしたね。

 この時期の京都は、大文字の送り火があり、地蔵盆があり、夏らしさを感じます。
 ちょうど昨日今日(2017年8月19日20日)は、地蔵盆でしたしね。

  現代の地蔵盆については、こちら! ⇒ <今日は、朝から地蔵盆>

 お盆が過ぎれば、昔なら夏の暑さも少々和らぐのですが、今はそうもいきませんね。


 変化の1年?
 
 今年は、私事ですが、4月にちょっとした変化があり、人事異動したわけです。

 そのため、例えば一週間も、月曜→金曜勤務のサイクルとなり、土日祝が休みという、私にとっては不慣れなパターンとなりました。そんな関係で、これまで3日に1度のブログアップだったところを日曜日ごとに変更しました。
 なんと申しましょうか、規則正しい土日休みというのに、なかなか馴染まないんですよね。

 でも、大丈夫、もう5か月なので慣れると思います(笑)

 そういえば、2か月ほどあとに、某大学の公開講座でお話する機会がありまして(まだウェブには上がってないですかね)。
 最近やっているお芝居・芸能関係のことを話す予定ですけれど、その準備をしないといけません。

 これも知人の紹介で、ありがたい話なんですが、「船越君が、河内の大衆演劇のことやってるから、頼んでみてください」って、全然、“河内” も “大衆演劇” もやってないんですけどね(苦笑)…… 少しずらしたテーマで引き受けさせていただきました。

 話の枕は決まりですね。
 10月からスタートするNHK連続テレビ小説が「わろてんか」、吉本興業をおこした吉本せいをモデルにしたドラマですから、これが取っ掛かりになりそうです。


 書いた記事も570本を超え… 

 5年間で書きためた記事は、すでに570本を超えました。

 主に京都市内の寺社、史跡、行事、そして京都本など、気になることを書いてきました。それなりに広い分野をカバーするようになったきたので、検索していただいてもヒットすることが増えてきたと思います。

 もちろん、京都の歴史は長く、奥深いので、いくら勉強しても知らないことだらけです。
 5年書いたくらいでは、とても追いつきませんね(笑)

 そういうことで、≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫、6年目もよろしくお願い申し上げます。


  地蔵盆 地蔵盆



下鴨納涼古本まつり、三田純市氏と上方の芝居





下鴨納涼古本まつり


 下鴨神社で開催

 恒例の下鴨納涼古本まつり(京都古書研究会主催)が、今年(2017年)も行われました。
 40足らずの古書店が出店していて、関西最大級の古本市ですね。見て回るには、何時間もかかります。

 今年は、初日(8月11日)に行ってきました!

 古本まつり

 祝日だったせいもあるのか、テレビ局の取材がいっぱい来てましたねぇ。
 また、来場者もとても多かったと思います。


 古本さがし

 昔と比べ、古書をさがしてまわる時間は短くなりましたね。
 体力、気力の減退 !? ということもあるでしょうし、要領よくなったともいえるでしょう。それでも、3時間以上はかかります。

 今回目についた珍しいものは、武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房)。
 先日、NHKでドキュメントドラマ「東京裁判」の再放送を見たあと、通訳者・近藤正臣氏の本を読んでいたら、東京裁判の通訳に関する研究も最近行われている、と書かれていました。そんなとき、この本が並んでいるのを見つけたので、思わず手に取ってしまいました。

 一方、最近は、上方(京都・大阪)の芝居や芸能に関する本があると、目ぼしいものは求めるようにしています。
 今回は、三田純市(純一)さんの著書を2冊。

  『上方芸能』三一書房、1971年
  『遥かなり道頓堀』九藝出版、1978年 


  遥かなり道頓堀 『遥かなり道頓堀』九藝出版

 さらに、三田氏のご実家にもゆかりのある歌舞伎役者・實川延若(二代目)の芸談、

 山口廣一『延若芸話』誠光社、1946年

 も、あわせて求めました。

 いま、お芝居を見に行こうと思うと、チケットぴあ なんかを使って簡単に予約が取れますね。
 ところが、昔の芝居見物では、席の手配や番付(プログラム)、弁当、みやげの用意、休憩の段取りなど、観劇全般の世話をする芝居茶屋が存在しました。
 現在、大相撲でみられる相撲茶屋のようなものです。

 京都にも大坂にも、そして江戸にもありました。
 今日の話の都合上、大阪のことを言っておきますと、江戸時代の大坂・道頓堀には50、60軒ほどの芝居茶屋があったようです。
 しかし、近代になって観劇システムの変化もあり、大正から昭和初期には十数軒にまで減っていました。

 三田純市さんは、この道頓堀の芝居茶屋の生まれでした。
 角座という劇場の向いにあった稲照(いなてる)という芝居茶屋の息子さんです。
 三田さんのおばあさんのテル(照)さんが、中座脇にあった稲竹から暖簾わけして、大正5年(1916)に開業されたといいます。

 当時、道頓堀の通りの浜側(川の方)には、紙幸、稲照、柴田、高砂、近安、堺利三、堺重、松川、三亀、大儀、兵忠、大佐、大彌 といった芝居茶屋がありました(大正9年=1920頃)。
 すでに13軒にまで減っています。


 芝居茶屋、戦前の歌舞伎…

 『遥かなり道頓堀』は、二代目 實川延若と、道頓堀、そして芝居茶屋の明治・大正・昭和を描き出したものです。物語仕立てですね。
 一方、『上方芸能』は、「≪観る側≫の履歴書」という副題がついた随筆集。三田さんが観た芸能を中心に、回想と評論がないまぜになって記述されています。

  上方芸能 『上方芸能』三一書房

 おばあさんのテルさんと芝居茶屋のお茶子さんたちの話は、興味が尽きません。
 三田さんが子供の頃の話です。

 ニュースはもっぱら耳で聞いた。
 家では祖母が新聞係りで、毎朝丹念に新聞を読んだあと、帳場に坐って、女中たちにその日の新聞記事の解説をする。
 といっても、芝居茶屋の女将が国際情勢を論じるはずもなく、主として三面記事だが、それを女中たちは、芝居へ運ぶ座布団や茶箱、煙草盆などの用意をしながら聞くのである。
 
 新聞を読むほどの暇が女中たちになかったせいもあるが、もうひとつ、字を知らない女中もいたからであろう。
 習うより慣れろというのはほんとうで、その女中は、字の形で、客の名前を覚えて、それぞれの預り物に名札をまちがえずにつけた。それと、もっとおどろくべきことには、歌舞伎の狂言名が読めたのである。あのややこしい勘亭流が、字を知らない人間に読めるということは不思議以外のなにものでもないが、彼女の読み方は多少変わっていて、たとえば「色彩間刈豆」と書いてあるのを見て「かさね」と読み「艶容女舞衣」と書いてあると「さかや」と呼んだ。まず、狂言の略称を覚え、それに字の形をあてはめて覚えたのにちがいない。(35-36ページ) 

 
 昔は字の読めない人が大勢いたわけですが、読めなくても読める、というのはスゴイですね。
 「色彩間刈豆」は「いろもようちょっとかりまめ」という外題(タイトル)なのですが、通称は「累(かさね)」です。また「艶容女舞衣」は「はですがたおんなまいぎぬ」ですが、下巻の「酒屋」が人気で上演されます。

 勘亭流ののたくった書体の外題をパッと見で視認するのは、ある意味プロの技ですね。


「観る側」と「演じる側」と

 本書の副題は「≪観る側≫の履歴書」。

 私の関心からいうと、芝居の歴史は、演じる側の歴史であるとともに、観る側、つまり観客の歴史でもありました。
 この本には、落語や漫才をめぐって、三田さんの「観る側」に着目する視点が披瀝されています。

 私がニュースを教わったというその漫才のニュース性、といってオーバーであれば、その今日性あるいは日常性は、客席に語りかけるという漫才の話法そのものにある。
 漫才とは、AとBとの対話を客に聞かせるということではなく、AとBとが対話することによって、その対話に客を捲き込み、それによって客に語りかけることなのだ。
 そして、この客に語りかけるということは落語の手法でもある。
 (中略)
 商売人が、
「おこしやす。まあ、お上がり……ところでどうだす、このごろは」
 というところからはじめる挨拶も、落語家が高座にあがって、
「毎度ようこそのお運びで有難うさんでございます」
 と振り出すマクラも、じつはともに探りなのだということができる。
 
 このような探りによって、落語家はその日の客の好みや傾向を知り、その客に合わせたネタを運んでゆく。そして、その間も、表情でギャグで客に絶えず語りかけ、ときには客を突っぱなしたように客観的に演ずることがあっても、それは演出のうえからそうなるだけのことで、意識においては最後まで客に語りかけているのである。(46-47ページ) 


 お客さんに “探り” を入れながら、その日の高座を始めていく、観客を強く意識した芸のあり方です。
 
 これに関して、たとえば「ぼやき漫才」の都家文雄・静代について、「そのころは、完全に“ぼやき漫才”というジャンルを確立していた文雄は、悲憤慷慨、のっけから客席に世上のアラを語りかける」(64ページ) 

 都家文雄、私は見たことがないのですが、この人は人生幸朗の師匠なのだそうです。
 人生幸朗のぼやき漫才なら、見たことがありますよね。

 その漫才は、いつも「まぁ、みなさん、聞いてください」で始まります。
 これも、客席に語りかける探りでしょう。このひと言で聞いている私たちも、舞台に立っている人生師匠の話を一緒に聞いている気分になるわけです。


 歌舞伎役者の芸談でも…

  延若芸話 『延若芸話』誠光社 

 三田さんのおじいさんが子供の頃から世話をしたという二代目延若の芸談にも、「芝居をする人、させる人」として、こんな話が記されています(適宜改行しました)。

 活動写真は人物も背景も一枚の影絵で映るのですから、舞台と客席が判つきり分れてゐますが、芝居は生身の役者と生身のお客とが鼻と鼻を突き合せてゐるわけですから、舞台と客席とが一種特別な気分に包まれてしまひます。またさうした気分に包まれないと、いゝ芝居は出来てまゐりません。

 早い話が、「先代萩」御殿で政岡が鶴千代と千松を使つて、一生懸命で愁嘆場をやつてゐるのに、お客様が誰一人泣いてもゐないで、あくびばかりしてゐては芝居になりません。お客が泣かうと笑はうと、役者は勝手に芝居だけしてゐればよい、さういふわけのものではありません。そこが活動写真と違ふところで、芝居ではお客様の気持がそのまゝ舞台へ伝つてまゐります。

 私が政岡をやつてゐる。お客さまが、あちらでもこちらでも泣いてくれる。白いハンカチーフを出して眼頭を拭いてゐて下さる。それを舞台から見てゐると、政岡の私もツイそれに釣り込まれて本当に泣けて来る。かうならねば、決していゝ芝居は出来ません。
 即ち役者が客を泣かせ、そして客がまた逆に役者を泣かせるのです。いひかへますと、この場合、客は芝居を見てゐるのではなく、客が役者に芝居をさせてゐるわけでございます。(113-114ページ) 


 こういう考え方は、上方らしいなぁと思わせると同時に、過ぎ去った時代のお芝居の話とも感じられます。

 延若の話で分かりやすいのは、活動写真(映画)との比較でしょう。
 映画は撮り終わったものを観客に見せているのだけれど、芝居はナマで上演され、舞台と客席の雰囲気のなかで行われました。
 いまの歌舞伎や文楽は「鑑賞」するものになってしまいましたが、昔の芝居は、現在のプロ野球観戦とかライブとかと同じ感覚だったと思えばいいでしょう。

 それにしても、「客が役者に芝居をさせている」というのは、いいですね。
 半面、芝居がつまらないと、お客は平気で舞台に尻を向けて、弁当を食っておしゃべりするわけです。すると役者はくやしくなって、大きな声で派手な芸をして振り向かせようとする。こう風景も、古い時代にはあったのですね。

 三田さんは、昭和20年(1945)の大阪大空襲で亡くなった女形・中村魁車(かいしゃ)にふれたあと、こんなことを述べておられます。

 そして、魁車が亡くなり、さらに数十年、私はようやく、大劇場の歌舞伎に疑問をいだくようになる。
 観光歌舞伎、とでもいうべき、豪華な配役のわりには、どことなく薄手な、ということは主役ひとりだけに頼りすぎた歌舞伎が、どう考えても、歌舞伎本来の姿とは思えなくなったのである。

 同時に、小芝居といえば、大阪なら松島の八千代座、東京でなら本所の寿座、ぐらいしか見ていない自分自身の経験を悔やむようになった。

 こう思いはじめると、大劇場の、きれいごとにすぎる、大和絵のような舞台装置も気に入らない。子どものころに嗅いだニカワの匂いがしないのである。
 歌舞伎の舞台とは、もっと毒々しく濃厚な、無名の画工の手になる刷りのわるい錦絵のようなものではなかったろうか。
 私が子どものころに見た歌舞伎の舞台は、たしかにそうだったし、そして、その舞台を追想してみると、魁車という役者が、ビタリ、そこに納まることに私は気がついた。

 大劇場の観光歌舞伎では、観客が俳優に慕いよる。
 ニカワの匂いのする舞台では、役者が観客に慕いよる。

 魁車は、その死の前月に、おなじ弁天座で『忠臣蔵』の半通しを演じている。
 どういうわけだか、この舞台を私は見ていないのが、いまに残念である。(132-133ページ) 


 「大劇場の観光歌舞伎では、観客が俳優に慕いよる。ニカワの匂いのする舞台では、役者が観客に慕いよる」。

 芝居をどう考えるか、興味深い問題です。




 下鴨納涼古本まつり

 会場  下鴨神社(左京区)
 日程  毎年8月中旬
 交通  京阪「出町柳」下車、徒歩約5分


都七名水と京都の井 - 芹根水つづき -





芹根水


 『京都民俗志』

 前回、西本願寺の南にある芹根水(せりねすい)を訪ねました。
 もっとも、訪ねたといっても、すでに堀川は暗渠になり、跡しかないのですが。

 そのとき、芹根水が京の七名水に数えられるということは聞いたのですが、こういうとき見ておくべき井上頼寿『京都民俗志』を見忘れていました。

 『京都民俗志』は、京都の史跡を調査してまとめた書物ですが、項目立ては、

   鳥居
   井
   石
   習俗
   植物
   動物
   洛中洛外 


 と、ちょっと変わっているのですね。

 とりわけ、「井」と「石」は充実しています。

 井は、○○井や○○水といった、いわゆる名水をまとめたもので、200近くも採録しています。


 都七名水

 そのなかに「都七名水」という項目があります。

 すなわち、

   中川井
   芹根水
   滋野井
   左女牛井
   古醒井
   六孫王社誕生水
   音羽滝 


 これらのなかには、すでに失われたものもあります。

 例えば、中川井は、寺町二条下ルの妙満寺にありました。現在の京都市役所の北側です。
 「都名所図会」を見ると、確かに中川井が描かれています。しかし、現在では、井戸どころか妙満寺自体も移転してしまい、失われてしまいました(ちなみに、同地では昨年発掘調査が行われました)。

 前回訪ねた芹根水は、次のように書かれています。

 芹根水 下京区堀川木津屋橋下る志水町に在る。

[堀川の]西岸に僅に井桁(いげた)の様なものゝ端が見え、芹根水の標石が立つてゐる。併(しか)しその碑も、狭い下り口を降りて見ねば解らなく、あたら名水の趾も今は濁水渦巻いて見るに堪へぬ有様である。

 大正三年の堀川改修の際は井筒も埋まり、月見の名所であつた同地もすつかり家が建て込んで全くつまらぬ地となつて仕舞つた。


 『京都民俗志』は、昭和8年(1933)の刊行です。
 大正3年(1914)の堀川の改修によって、井筒も埋もれてしまったといいます。碑は残っていたものの、名水の風情は失われていたようです。

 芹根水碑
  芹根水の碑

 大正3年といえば約百年前で、その頃の状況をうかがう資料としても貴重ですね。


 祇園祭に関する井

 この本には、200近い名水が取り上げられているのですが、ではどのようなものがあるのか? ちょっと紹介してみましょう。

 例えば、先月あった祇園祭に関するもの。

 現在もある烏丸通錦小路上ルの井戸を「祇園祭の神水」としてあげています。
 この井戸は、手洗水井(みたらしい)です。

 手洗水井
 手洗水井

 以前紹介しましたので、そちらもご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <猛暑に涼しい井戸の話、手洗水井>

 さらに、各鉾町にある井戸も紹介。
 「占出山の井」「役行者山の井」「菊水」です。

 会所のなかなどに、あるのですね。

 役行者山の井
  役行者山の井

 これ以外にも、市内各所の名水、井戸が紹介されていて、読んでいてあきません。
 京都には名水が多いことも、また驚きです。

 なお、前回掲載した地図のなかに「佛教大学」という校名がありました。
 これは、現在の佛教大学(北区、浄土宗系)ではなく、龍谷大学(浄土真宗系)の旧名称です。当時は、そう呼んでいたのですね。現・大宮キャンパスの位置に、そう書かれています。




 芹根水跡

 所在  京都市下京区木津屋橋通堀川西入下ル御方紺屋町
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 井上頼寿『京都民俗志』岡書院、1933年