
東大手門の修復が完成
二条城。
「古都」京都のなかにある “お城” として、ちょっと異色感もある場所。
今回、東大手門(重文)の修復が完成したので、私も久しぶりに訪ねてみました。

東大手門(重要文化財)
7月31日(2017年)まで、内部にも入れます(入城料+400円)。
そこで見たものは、たぶん次回紹介するとして、今日はずっと先に進んで、二の丸御殿へ。
二条城といったら、やはり国宝・二の丸御殿がメインですね。
大規模かつ代表的な書院造の建築です。

二の丸御殿(国宝)
この御殿には、5つ、6つのスペースがあって、入口側から、
遠侍(とおざむらい)
式台(しきだい)
大広間
蘇鉄(そてつ)の間
黒書院
白書院
と、つながっています。
どの場所もとても興味深いのですが、写真はNG。
でも、私が気になったのは、「蘇鉄」の名が付いたスペース「蘇鉄の間」なのです。
ここは、大広間と黒書院を結ぶ廊下なのですが、杉戸に大きな蘇鉄の絵が描かれているので、蘇鉄の間と呼ばれているようです。
現在、原本は別の場所に保管されており、複製が置かれていました。
庭の蘇鉄
蘇鉄(ソテツ)というと、「恋の涙か蘇鉄の花が」という春日八郎の「長崎の女(ひと)」を思い出すのは、年齢がバレますが、長崎の歌に出てくることから分かるように、蘇鉄というと南国の植物というイメージです。
蘇鉄の間の外に拡がる二の丸庭園には、蘇鉄の木が植えられています。

二の丸庭園の蘇鉄 建物は大広間
この蘇鉄が見えることも命名の由来なのでしょうか。
ところで、堺市(大阪府)に妙国寺というお寺があって、ここは立派な蘇鉄が庭に群棲している寺として有名です。
あくまで伝説ですが、織田信長がこの寺の蘇鉄を安土城に持って行って植えたところ、夜な夜な「帰りたい」と泣いたとか。それほど著名だったわけです。
一説には、国内で蘇鉄が植栽されるようになったのは、その安土城あたりが最初といわれています。
作庭家・重森三玲の『日本庭園の観賞』には、次のように記されています。(適宜改行しました)
この外桃山時代からは、蘇鉄を庭木として植ゑ始めてゐるが、安土城の庭などに植ゑたのが先(ま)づ始の様であつて、これは文明頃に始めて日本に伝へられたことが文献に見られ、それを非常に珍重してゐるので、桃山時代から漸やく庭樹として用ゐかけたらしい。
安土城のものは、後堺の妙国寺へ移植されて今日に伝はり、一休寺方丈前庭、三宝院庭、本派本願寺虎渓庭、坂本来迎寺庭などの桃山から江戸初期へかけてのものには何(いず)れも用ゐられてゐる処を見ると、桃山時代の豪華な芸術に受けたものと云ふことが考へられるが、後にはあまり用ゐられなかつた。紀州の円満寺のものなどは特に蘇鉄としての超大木である。(86-87ページ)
本派本願寺というのは、西本願寺のことです。
西本願寺の対面所の蘇鉄は、江戸時代から知られていて『都林泉名勝図会』にも描かれています。

「西六条本願寺対面所林泉」(部分) 『都林泉名勝図会』より
10本たらずでしょうか、妙国寺などと同様に蘇鉄が群棲しています。
実は、二条城二の丸庭園の蘇鉄も、現在では1本しかありませんが、江戸中期には多数あったことが分かっています。
大工棟梁・中井家に残された絵図のなかに、「二条御城中二之丸御庭 蘇鉄有所之図」というものがあります。
享保15年(1730)調べの図です。
それによると、池の周りや蓬莱島、鶴島に15本の蘇鉄が植栽されていたことが分かります。
1本ずつの絵もあり、例えば「壱(1)」番の蘇鉄は、1丈2尺(約360cm)、7尺(約210cm)、4尺(約120cm)の3株からなっていたことなども判明します(『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』)。
庭の点景として、蘇鉄が効果的に配されていたのです。

かつては、この庭のなかに、点々と蘇鉄が姿を見せていたわけです。
桃山時代から江戸初期の感覚では、蘇鉄は “モダン” な植物だったのでしょう。
障壁画などにも、題材として見掛けることがありますね。
二条城の庭に蘇鉄がたくさんあったとは、蘇鉄好きの私にはうれしい限りです。
二条城二の丸庭園(特別名勝)
所在 京都市中京区二条通堀川西入
見学 有料 大人600円ほか
交通 地下鉄「二条城前」下車、すぐ
【参考文献】
「都林泉名勝図会」1799年
重森三玲『日本庭園の観賞』スズカケ出版部、1935年
図録『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』大阪市立住まいのミュージアムほか、2008年
スポンサーサイト