05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【大学の窓】他大学に武者修行? - 博物館学の講義に臨む -

大学の窓




大学キャンパス


 他大学へ!

 毎週非常勤で行っている(仮称)上京大学の授業は、春学期も残すところあと数回。来週は、グループ研究をしている学生たちが、テーマの方向性を発表します。

 そんななか、私はといえば(仮称)杉本大学へ行き、博物館学の講義を1コマ担当します。

(仮称)杉本大学は、関西の公立大学で、戦前の商科大時代からつづく名門です。
 私が勤務する財団と連携協定を結んでおり、各館長や学芸員らが博物館学の3講義を担当しています。

 今回、私が1コマ担当するのは「博物館経営論」。
 春学期だけの授業、ということは全15回だと思うのですが、私は最後から2番目くらいですか。
 内容は<他館・他機関との連携>というものです。


 博物館経営論の講義

 昔話で恐縮ですが、私が学生だったころは、博物館を “経営する” なんてことは誰も考えていませんでした。だから、博物館学の授業でも、そんな科目はなかったわけです。
 博物館学といえば、資料の収集・保管、調査・研究、展示、教育・普及、という4本柱を学びました。
 現在では、ここにマネジメント(経営)が入って来たわけです。20年余り前には、博物館マネジメントに関する学会も設立されており、そのような関心が徐々に高まってきたといえるでしょう。

 私が担当するテーマは、博物館が他の博物館・美術館や地域にある機関・施設とどう連携していくか、というものです。

 実は、これまで私は、広報とか企画とかボランティアとか、博物館の “周縁部”? にあるともいえる仕事を長くやってきました。例えば、広報の仕事なんて、学芸員で自ら進んでやりたいという人はほとんどいないジャンルです。みんな、展示とか調査研究とかをやりたいわけですからね。ただ、そういう仕事も誰かがやらなければならない、でも専門の担当者を置くほどの余裕もないので、「仕方なく」学芸員がやっている、というのが現実ではないでしょうか。

 それを大学生に話したら、いったいどのように受け止められるのだろうか? これは、ちょっと興味深い問題です。
 純粋に、重要な仕事ですね、と思ってくれるかも知れない……

 大学構内

 少なくとも日本の学芸員は、仕事の幅が広い、つまりいろいろな種類の業務をこなさないといけない、というのが現実です。
 言い換えれば、諸外国に比べて、仕事が分化(分業化)されていないといえます。
 はっきり言って、毎日、広報や他機関との連携といった仕事をやっていると、他の業務に割ける時間も体力・気力もなくなってきます。
 
 それを思うと、学芸員志望の学生は、展示をやりたいとか、文化財に触れてみたい、と思っているわけですから、やはり他館・他機関との連携には興味を持たないのでしょうか。

 あと10日ほどで講義なので、いま何を話そうか思案しているのですが、彼らの反応を探るような授業にするのも面白いかも知れませんね。




スポンサーサイト

二条城の釘隠と “のし” の関係は?





花熨斗形釘隠


 二の丸御殿で飾り金具を見る

 前回は、久々に二条城を訪問し、ソテツについて考えた話を紹介しました。

 今回は、二の丸御殿を彩る飾り金具についての話です。

 東大手門
  二条城 東大手門

 ところで、建築を見るときに一番頭を悩ませるのは、意匠なんですよね。
 例えば、お寺などでも、建物の各所にいろんな彫刻がしてあるでしょう。浮彫りとか透かし彫りとか。
 で、それが植物、お花だったとして、何の植物、何の花なのか、なかなか分からないのですね。
 
 まぁ、ボタン(牡丹)くらいだったら、すぐわかるんです、桃山時代の人は好きですし。
 でも、例えば、ブドウみたいに見えるけど、実はオモト(万年青)だった、といったケースがあるんです。こういうものになると、よほど慎重に調べないといけないし、知識の積み重ねも必要になってきます。
 
 私は、天沼俊一先生の『日本建築細部変遷小図録』などを参照して勉強させてもらうのですが、何でも網羅されているわけではありません。
 特に、今回問題にする金物(金具)については、ほとんど取り上げられていないんですね。困ったものです(笑)


 豪華すぎる釘隠

 建築の金物というと、釘や鎹(かすがい)といった実用的なものと、飾り金具に大別されます。
 飾り金具には、扉に付けられる八双(はっそう)金物や、長押や扉に付けられる釘隠(くぎかくし)などがあります。

 特に釘隠は、六葉(ろくよう)といった六角形のものや、門扉でよく見る丸っこい饅頭(まんじゅう)金物などが著名です。
 ところが、二条城の二の丸御殿で見た釘隠は、そのレベルをはるかに超えたものだったのです。

 二の丸御殿
  二の丸御殿(国宝)

 二の丸御殿の最初の建物、遠侍(とおざむらい)の長押に打たれていた釘隠は、三つ葉葵の入った饅頭金物を基本にしたものでした。これでも、よく見る六葉の釘隠などに比べると凝っています。
 ところが、先に進んで、大広間や黒書院に入ると、さらに独特の形をした大型の釘隠が登場したのです。それは驚きの豪華な釘隠でした。

 二の丸御殿は撮影禁止ですが、特別公開の東大手門内(撮影OK)で、同じ釘隠が陳列されていたので、それを撮影させてもらいました。ガラスが反射して見づらいですが、こんなものです。

 花熨斗形釘隠

 花熨斗形釘隠

 細部意匠が微妙に違うのですが、大きな形は同じです。

 こういった意匠こそ、どういうものなのか分からない、困りものなのです。

 しかし、ありがたいことに、二条城ではこの金物について「花熨斗形釘隠」と説明してくれています。
 別のものを調べると、花熨斗桐鳳凰文釘隠とあります。

 桐鳳凰文(きりほうおうもん)は、いいんです。植物の桐(きり)と架空の鳥・鳳凰(ほうおう)を組み合わせた図柄ということです。
 写真では見づらいですが、中央下部に、鳳凰と桐を取り合わせた意匠があるのです。

 問題は、花熨斗(はなのし)です。
 花熨斗って何だ?


 花熨斗とは?

 まず、花は分かりますよね。
 釘隠の左右の端に、花の意匠がありますね。たぶん、牡丹でしょう。
 
 問題は、熨斗(のし)。

 そもそも、熨斗とは?

  熨斗袋 熨斗袋

 みなさんもお使いになる熨斗袋。祝儀を入れるものですね。この右上に付いているのが、熨斗なのです。

   熨斗 熨斗(折り熨斗)

 熨斗は、もともとは縁起のよいアワビが用いられていましたが、現在では上のような紅白の紙を折った折り熨斗が一般的です。

 とすると、花熨斗とは、これと関係があるのか……

 もう一度、先ほどの釘隠を見てみましょう。

 花熨斗形釘隠

 分かりますか?

 そう、熨斗の形が隠れていますよね、横向きに。

 花熨斗形釘隠

 ちょっと落書きしてみました。
 実は、牡丹の花が熨斗紙に包まれているデザインだったのですね!

 ほんとうに、忠実に熨斗で花を包んだ意匠になっていて、それを横倒しにして左右に配するという、得も言われぬ発想です。
 もっとも、着物の世界では、この花熨斗の柄が用いられることがあるので、江戸時代の人にはお馴染みの意匠だったのかも知れません。


 紋の世界にも

 ほかにも、熨斗がないかなと思って見回してみると、書棚にある紋帳『紋之泉』に多数発見できました!

 紋の泉 『紋之泉』

 なんと、熨斗を用いた紋が56種類も収録されています。

 例えば、こんなもの。

 熨斗輪桔梗 熨斗輪桔梗

 熨斗輪桔梗(のしわききょう)。
 熨斗で作った輪の中に、桔梗を入れたものです。
 実は、熨斗紋では、この熨斗輪を使ったものが大多数。『紋之泉』では、56種中、45種類が熨斗輪かそれに類するもの(結熨斗)です。

 ほかには……

 違い折熨斗 違い折熨斗

 違い折熨斗。
 2つの折り熨斗をクロスさせた、わかりやすい図様ですね。

 違い熨斗 違い熨斗

 違い熨斗。
 輪にせずにクロスにしています。

 熨斗桐 熨斗桐

 これは、カッコいい!
 桐紋を熨斗で作っているんですね。まったく見たことない、超珍しそうな紋ですが、ステキですね。

 それにしても、奥深いですねぇ。
 私は、二の丸御殿で、この花熨斗の意味を理解するのに、随分長い時間をかけてしまいました……

 江戸時代の武士たちは、御殿でこの飾り金具を見て、果たしてその意匠を理解できたのでしょうか?




 二条城 二の丸御殿(国宝)
 
 所在  京都市中京区二条通堀川西入
 見学  有料 大人600円ほか
 交通  地下鉄「二条城前」下車、すぐ



 【参考文献】
 濱島正士『寺社建築の鑑賞基礎知識』至文堂、1992年
 吉野竹次郎『紋之泉』洛東書院、1926年


二条城の庭にあったのは、南国の象徴・ソテツの木





二の丸庭園


 東大手門の修復が完成

 二条城。
 「古都」京都のなかにある “お城” として、ちょっと異色感もある場所。
 今回、東大手門(重文)の修復が完成したので、私も久しぶりに訪ねてみました。

 東大手門
  東大手門(重要文化財)

 7月31日(2017年)まで、内部にも入れます(入城料+400円)。
 そこで見たものは、たぶん次回紹介するとして、今日はずっと先に進んで、二の丸御殿へ。

 二条城といったら、やはり国宝・二の丸御殿がメインですね。
 大規模かつ代表的な書院造の建築です。

 二の丸御殿
  二の丸御殿(国宝)

 この御殿には、5つ、6つのスペースがあって、入口側から、

  遠侍(とおざむらい)
  式台(しきだい)
  大広間
  蘇鉄(そてつ)の間
  黒書院
  白書院 


 と、つながっています。
 
 どの場所もとても興味深いのですが、写真はNG。
 でも、私が気になったのは、「蘇鉄」の名が付いたスペース「蘇鉄の間」なのです。

 ここは、大広間と黒書院を結ぶ廊下なのですが、杉戸に大きな蘇鉄の絵が描かれているので、蘇鉄の間と呼ばれているようです。
 現在、原本は別の場所に保管されており、複製が置かれていました。


 庭の蘇鉄

 蘇鉄(ソテツ)というと、「恋の涙か蘇鉄の花が」という春日八郎の「長崎の女(ひと)」を思い出すのは、年齢がバレますが、長崎の歌に出てくることから分かるように、蘇鉄というと南国の植物というイメージです。

 蘇鉄の間の外に拡がる二の丸庭園には、蘇鉄の木が植えられています。

 二の丸庭園の蘇鉄
  二の丸庭園の蘇鉄 建物は大広間

 この蘇鉄が見えることも命名の由来なのでしょうか。

 ところで、堺市(大阪府)に妙国寺というお寺があって、ここは立派な蘇鉄が庭に群棲している寺として有名です。
 あくまで伝説ですが、織田信長がこの寺の蘇鉄を安土城に持って行って植えたところ、夜な夜な「帰りたい」と泣いたとか。それほど著名だったわけです。

 一説には、国内で蘇鉄が植栽されるようになったのは、その安土城あたりが最初といわれています。

 作庭家・重森三玲の『日本庭園の観賞』には、次のように記されています。(適宜改行しました)

 この外桃山時代からは、蘇鉄を庭木として植ゑ始めてゐるが、安土城の庭などに植ゑたのが先(ま)づ始の様であつて、これは文明頃に始めて日本に伝へられたことが文献に見られ、それを非常に珍重してゐるので、桃山時代から漸やく庭樹として用ゐかけたらしい。

 安土城のものは、後堺の妙国寺へ移植されて今日に伝はり、一休寺方丈前庭、三宝院庭、本派本願寺虎渓庭、坂本来迎寺庭などの桃山から江戸初期へかけてのものには何(いず)れも用ゐられてゐる処を見ると、桃山時代の豪華な芸術に受けたものと云ふことが考へられるが、後にはあまり用ゐられなかつた。紀州の円満寺のものなどは特に蘇鉄としての超大木である。(86-87ページ) 


 本派本願寺というのは、西本願寺のことです。
 西本願寺の対面所の蘇鉄は、江戸時代から知られていて『都林泉名勝図会』にも描かれています。

 西本願寺対面所の蘇鉄
 「西六条本願寺対面所林泉」(部分) 『都林泉名勝図会』より

 10本たらずでしょうか、妙国寺などと同様に蘇鉄が群棲しています。

 実は、二条城二の丸庭園の蘇鉄も、現在では1本しかありませんが、江戸中期には多数あったことが分かっています。

 大工棟梁・中井家に残された絵図のなかに、「二条御城中二之丸御庭 蘇鉄有所之図」というものがあります。
 享保15年(1730)調べの図です。
 それによると、池の周りや蓬莱島、鶴島に15本の蘇鉄が植栽されていたことが分かります。
 1本ずつの絵もあり、例えば「壱(1)」番の蘇鉄は、1丈2尺(約360cm)、7尺(約210cm)、4尺(約120cm)の3株からなっていたことなども判明します(『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』)。

 庭の点景として、蘇鉄が効果的に配されていたのです。

 二の丸庭園

 かつては、この庭のなかに、点々と蘇鉄が姿を見せていたわけです。

 桃山時代から江戸初期の感覚では、蘇鉄は “モダン” な植物だったのでしょう。
 障壁画などにも、題材として見掛けることがありますね。

 二条城の庭に蘇鉄がたくさんあったとは、蘇鉄好きの私にはうれしい限りです。




 二条城二の丸庭園(特別名勝)

 所在  京都市中京区二条通堀川西入
 見学  有料 大人600円ほか
 交通  地下鉄「二条城前」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年
 重森三玲『日本庭園の観賞』スズカケ出版部、1935年
 図録『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』大阪市立住まいのミュージアムほか、2008年


作家・水上勉の通った中学校は…… -『私版 京都図絵』-

京都本




  私版京都図絵 水上勉『私版 京都図絵』作品社


 水上勉という作家

 先日、古書市で水上勉の『私版 京都図絵』という本を求めました。

 水上勉(みなかみつとむ)は、戦後活躍した作家で、私の学生時分まではテレビなどでもよくお見掛けしました。
 福井県(越前)の生まれで、若くして京都・相国寺の塔頭で出家したことは著名です。
 それらにちなんだ作品も多く、直木賞を受賞した「雁の寺」や、同じく京都を舞台にした「五番町夕霧楼」、そして「越前竹人形」。他にも「はなれ瞽女おりん」「飢餓海峡」などの代表作があります。

 彼は、9歳で京都にやって来、立命館大学中退ということですので、少年時代から青年時代にかけて京都で過ごしました。京都を舞台にした作品、京都を取り上げた随筆も多く、京都ゆかりの作家といってよいでしょうね。

 映画化された作品も多いので、私もタイトルはよく知っていました。
 けれども、正直に言うと、なぜか読む機会にめぐまれず、これまで読んだことがありません。
 実際、いま書店に行って文庫本コーナーに立っても、水上勉の本は品切れ、欠品というものが多く、意外に読みづらいのが実状です。


 水上勉が通った学校

 履歴を見ると、水上勉は花園中学校(旧制)を卒業して、立命館大学に進んだとあります。
 花園中学は、現在の花園中学・高校で、妙心寺(右京区)のそばですね。

 でも、水上さんは中学時代の途中、花園中学に転校したので、もとは違う中学校に通っていました。
 それが、紫野中学です。
 本書に収められた随筆「今宮神社界隈」に詳しく述べられています。

 今宮神社 今宮神社

 大徳寺前の北大路通りに、まだ電車が通っていなくて、家をこわしたり、立ちのかせたりして、広い道路を工事中だったころ、私は烏丸上立売の相国寺から徒歩で建勲神社前の大宮通りから、北大路にきて、朱色の一の鳥居をくぐって、今宮神社に向かい、その途中の中学校へ通った。いま紫野高校のある場所だが、当時は「般若林」の後身で、「紫野中学」といい、相国寺、東福寺、大徳寺など京都臨済五山が徒弟教育のために設けた学校であった。校長は金閣寺住職の伊藤敬宗師、つづいて南禅寺管長の勝平大喜師だった。「坊主中学」と人もよんでいて、教員は皆僧衣姿で配属将校と体操の教師だけが軍服を着てきていた。僧の養成中学も、教練をやる軍国主義下のことである。(43ページ) 

 昭和10年(1935)頃の話です。
 北大路通から北に向かう今宮神社の参道があり(といっても普通の車道です)、そこに一の鳥居があります。
 そこから、神社の朱塗りの楼門が見え、その途中の左側に紫野中学が建っていました。

 古い京都市内の地図を見ると、このあたり、つまり船岡山や現在の北大路通より北は、地図の範囲外となっています。
 今宮神社も、意外に描かれていませんね。

 下の「京都市街全図」は昭和14年(1939)に発行されたもの。
 水上さんが中学を卒業した直後の様子で、この時期になると、北大路通の北側も地図に収まってきます。

 紫野付近図

 中央やや下に船岡山があり、その上の横の通りが北大路通。市電(赤線)が走っています。
 その真上にある「今宮神社」の下に「紫野中学」と朱書きされています。

 この地図では分かりませんが、今宮神社や紫野中学がある場所から西は、急傾斜になっています。
 紫野中学、つまり現在の紫野高校の校内には、きつい崖も残っているのです。


 校内の様子

 仏門立の学校だから、いまのような鉄筋ではない。今宮参道に面した左手の現存の校門と同じ場所に石柱が二本立ち、平屋の教室が瓦屋根をしずめて二棟あり、登下校道路をはさむようにして山に向っていた。正面に講堂(雨天体操場)。それだけが校舎で、孤蓬庵[こほうあん]の石畳道の境まで、南北に切妻をみせて建った本堂が一つ。この地にあった大光院が瑞源院の建物である。ここに寄宿舎と食堂があり、あとは講堂の上の山を切りくずして、赤土をローラーで踏みかためた校庭だった。当時は近くに家はなかったので、まるで山のてっぺんを広場にした感じで、森の向うに、孤蓬庵がまたさらに森を深くしてしずんでいた。(43-44ページ)  

 「講堂の上の山」とあるように、崖の上が校庭となっていたようです。別の箇所には、「そんな赤土の運動場をも、めぐっていた赤松山は、大半が伐りはらわれて、巨大な高校の体育館が建ってしまった」(49ページ)と、戦後、高等学校になってから体育館が建ったことが記されています。

 このあたりに現在も生えている樹木は、かつての山のなごりだったようです。


 転校前の思い出

 相国寺の瑞春院にいた水上さんは、等持院に移りました。
 しばらくは等持院から自転車で紫野中学に通ったのですが、通常、等持院の学僧は花園中学に通うことになっていました。そのため、水上さんも転校の手続きをすることになったのです。

 ただ、軍事教練の出席日数が足りなかったので、その担当であった小早川さんという特務曹長の家にお願いをしに出掛けたのでした。

 小早川特務曹長は、鼻の低い、平べったい顔をしたひとで、私たち一、二年の下級生には、とりわけきびしかったので、私たちは、体操と教練の時間は、いつもぴりぴりしていた。

(中略)

小早川特務曹長は、皮袋に入った剣を吊って、いかめしく、自転車にのって通勤してきていた。教師で自転車でくるのは曹長だけで、私とは、つまり自転車仲間だった。時に、門番の家の軒下で鉢あわせすると、
「こらっ」
と曹長は私のことをにらんだ。しょっちゅうずる休みするのを、そんなところで見つけたが幸いと、叱りつけるのである。(50-51ページ) 


 転校が決まって、体操と教練の落第点について、また使い込んで払えなくなった未納の月謝について、水上少年は小早川曹長にお願いに行ったのでした。

 今宮神社の裏の、あぶり餅やの前を通って、しばらくゆくと、小さな二階家の混む一角に出たが、小早川さんの家はこぢんまりとした平家で、表に男の子供があそんでいた。小早川さんの子らしかった。私は、しばらく、家の前にたたずんで、その子供の顔が小早川さんそっくりなのを見て、小早川さんに、こんな子がいることが不思議な気がした。特務曹長にも、子があって不思議はないが、その時は、そんな思いがふかく私をとらえたことをおぼえている。
 
 私が入ってゆくと、小早川さんが、だらしなく着物の前をはだけてきて、
「なんや」
 とつっけんどんにいった。私は、脅えながら、私の来た目的をはなした。

(中略)

「こんどの寺はどうや」
 小早川さんはきいた。
「はい、大勢小僧がいます」
 とこたえた。
「そんな大寺へいったのやから、これまでのように、休んでばかりやったらあかんな……」
 小早川さんはそういったあと、
「いずれ、お前さんのことでは、教員会議があってきまることやろ思うが……新しい学校へうつってきばって勉強するのやったら、考えてやらんでもないぞ」
 と不機嫌な顔をなごめ、
「きばってやれや」
 といった。玄関先での立ち話だった。私は、そういう時間を、この特務曹長の家でもてたことで満足し、小早川さんが、いくらかでも私の成績に、手ごころを加えてくれそうだと安心して、退去したのだ。子供が私を追いかけてきた。(53-54ページ) 


 水上さんは、小早川曹長のおかげもあったのか、無事花園中学へ転校できました。
 そして、紫野中学は、その翌年に廃校になったと書かれています。「資金を出していた大徳寺、相国寺、東福寺の三山に、その根気が失せたためだった」。

 私たちの馴染んだ校舎と本堂は、「淑女高等女学校」に買いとられて、戦争末期まで、そこに女学校があり、いまの市立紫野高校になったのは、たぶん、戦後のことだと思う。したがって、昔日の面影をたずねても、孤蓬庵よりのあの石畳の道わきにのこる土畳と、その山あとの大楠や松柏の根にわずかの名ごりがあるだけだ。(55ページ) 

 戦後、この場所には、新制の紫野高校が建ちました。
 現在では、水上さんの時代と異なり、たくさんの生徒が自転車通学しています。水上さんと小早川曹長が自転車を預けていた門番の家もなくなり、立派な自転車置き場が出来ています。




 書 名  『私版 京都図絵』
 著 者  水上 勉
 刊行者  作品社
 刊行年  1980年