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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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半世紀のうつろいを感じながら - 『カメラ京ある記』を読む(2)ー

京都本




青蓮院門跡


 粟田口の青蓮院

 前回紹介した『カメラ京ある記』。

 昭和30年代の京都風景をカメラで捉えたレポートです。
 朝日新聞京都支局編で、淡交新社から昭和34年(1959)と36年(1961)に正続で刊行されました。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正・続(淡交新社) 

 すでに半世紀余り前の書物です。
 その間に街や史跡も大きく変化しました。

 正編の29番目に「粟田口」という項があります。
 粟田口は、そうですね、平安神宮の南の方、と言えば分かりやすいでしょうか?

 かつては、三条大橋から始まる東海道の、京の町の出入口に当たるような場所でした。ゆるく長い坂道が続いており、沿道にあった料亭で歓迎や餞別の宴が開かれたのです。

 本書で取り上げるのは、青蓮院門跡。
 その冒頭。

 青蓮院 青蓮院

 夜、三条粟田口を青蓮院のほうに、ものすごいスピードで、スクーターがすっ飛んでいった。クスの木のこずえに、かん高い排気音だけが残っていた。
 ひっきりなしに通る車の流れ―。地べたに、食いつくようなうなりを立てる観光バス 乗用車のにぶい音、そんな流れを縫うようにして、アベックが、楽しげに語らいながら、ネオンの街へ下りていった。(64-65ページ) 


 『カメラ京ある記』の特徴は、新聞記者が書いたせいか、old & new というか、“古都” と “高度成長” する現代とを重ね合わせて捉えているところです。
 長屋門の前に、あの楠の大木がある門跡寺院を、スクーターの轟音から描き出すという離れ業です。

 でも、私には、この正直な書きっぷりが心地よく感じられます。

 青蓮院も、いつまでも格式張ってはいられなかった。代々、宮様が跡を継いでいた “門跡寺院” も、宮様が軍に籍を置かれるようになってからは、思うようにならなかったわけだ。
 とりわけ、戦後の荒れ方はひどく、一時は畳もスコップで捨てるまでにくさってしまった。
「一定のお客を引入れて接したい」と、五年ほど前観光寺院に踏み切った。昼と夜のひととき、お寺は観光客の応接にいとまがないくらいになった。
 今春、約五千平方メートルのバスプールも出来たおかげで、親鸞聖人の “植髪堂” は、その奥に押しやられてしまった。(65ページ) 


 江戸時代まで皇族方を受け入れてきた門跡寺院・青蓮院も、明治以降は皇族方が陸軍などの将校になられたため、経済的な後ろ盾を失った、と記しています。
 確かに、戦前の軍隊では「○○宮○○親王」が要職に就いているケースが多いですね。

 植髪堂
  植髪堂と駐車場  現在は舗装整備されている

 私が驚いたのは、植髪堂です。親鸞聖人の遺髪を祀るお堂です。
 この建物が、バス駐車場を作るため、「奥に押しやられてしまった」と書かれています!
 確かに、上の写真のように、寺内には広い駐車スペースがあり、その奥に植髪堂が建っています。

 植髪堂は、もとはウエスティン都ホテルの上あたりにあったはずですが、のちに三条神宮道に降りて来、最終的には青蓮院の寺内に落ち着きました。
 この記事を信じれば、昭和34年(1959)頃まで、もう少し道路寄りに建っていたことになります。

 記事では、この近くに住んだ陶芸家・楠部彌弌(くすべやいち)の「どこでもそうだが、観光観光と、すべてが、見るものから、見せられる風景に変っていくのですよ」という言葉を紹介しています。

 一般人とは無縁であった門跡寺院が、戦後「観光寺院」に転換したというところに、時代の変転を感じさせられます。


 尺貫法かメートル法か?

 東山七条の三十三間堂を取り上げたページでは、こんな逸話を紹介します。

  京都へ修学旅行に来た東京の女子高校生から、三十三間堂の寺務所へ抗議のハガキがとどいた。
「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さるはずなのに、あなたのところの案内係は、“お堂の長さが南北に六十四間五尺、奥行が九間三尺……” と説明も昔風の尺貫法でした。いまはメートル法になったことをご存じないのでしょうか」 きついおしかりだった。

 まさに一撃をくらった参拝部長、ご本山の妙法院へ出かけて、三崎門跡におうかがいを立ててみた。ところが、三十三間堂はお堂の長さが百二十メートル、奥行きが十七メートル、柱と柱の間が三・五メートルでは、どうしても実感が出てこない、ということになった。
 さてはいっそのこと「三十三間堂」の呼び名もメートル法に改めるかということで論議の花が咲いたということだ。(44ページ) 


 三十三間堂


 どこまでが本当で、どこからが誇張なのか? ちょっと掴みかねる話ではあります。

 女子高生が「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さる」などと発言することが、むしろ驚きです。そして、やっぱりメートル法は感じが出ないなぁ、と首をひねるお坊さんたちも昔気質ですね。

 ちょうどこの頃、三十三間堂でも東大門と回廊の建設工事をしていて、“観光化”していたのでしょう。お坊さんに「参拝部長」という肩書があることにも驚かされます。
 本書には、多い日には9,000人から1万人の「観光客」が押し寄せると記しています。

 社寺への観光的な参拝は昔からあったわけですが、戦後の昭和30年代に激しく進んだことがよく分かります。


 銅像も再建されて

 「三条大橋」の項目には、その交通の激しさ、路上での諸商売のありさまを語ったあと、このようなことに触れています。

 橋のたもとに、高山彦九郎の銅像があった。戦時中に供出されたが、近ごろ建て直そうという話がある。市長は「建てるなら美術品としても鑑賞にたえられるものを」と注文をつけた。いつ建てるのか、その後音さたがないそうだが……。ご時勢というものだろう。(25ページ)

 本書が刊行された2年後の昭和36年(1961)、高山彦九郎像は再建されました。

 高山彦九郎像 高山彦九郎像

 「その後音さたがない」「ご時勢というものだろう」と書いた記者は、戦後の民主化が進む中で、かつての尊皇家の像が復活するとは考えなかったのでしょう。
 世の中は、いつも意想外のことが起きるものです。

 この三条大橋界隈、改めて少し歩いてみたい気がしますね。
  



 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年




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