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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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半世紀のうつろいを感じながら - 『カメラ京ある記』を読む(2)ー

京都本




青蓮院門跡


 粟田口の青蓮院

 前回紹介した『カメラ京ある記』。

 昭和30年代の京都風景をカメラで捉えたレポートです。
 朝日新聞京都支局編で、淡交新社から昭和34年(1959)と36年(1961)に正続で刊行されました。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正・続(淡交新社) 

 すでに半世紀余り前の書物です。
 その間に街や史跡も大きく変化しました。

 正編の29番目に「粟田口」という項があります。
 粟田口は、そうですね、平安神宮の南の方、と言えば分かりやすいでしょうか?

 かつては、三条大橋から始まる東海道の、京の町の出入口に当たるような場所でした。ゆるく長い坂道が続いており、沿道にあった料亭で歓迎や餞別の宴が開かれたのです。

 本書で取り上げるのは、青蓮院門跡。
 その冒頭。

 青蓮院 青蓮院

 夜、三条粟田口を青蓮院のほうに、ものすごいスピードで、スクーターがすっ飛んでいった。クスの木のこずえに、かん高い排気音だけが残っていた。
 ひっきりなしに通る車の流れ―。地べたに、食いつくようなうなりを立てる観光バス 乗用車のにぶい音、そんな流れを縫うようにして、アベックが、楽しげに語らいながら、ネオンの街へ下りていった。(64-65ページ) 


 『カメラ京ある記』の特徴は、新聞記者が書いたせいか、old & new というか、“古都” と “高度成長” する現代とを重ね合わせて捉えているところです。
 長屋門の前に、あの楠の大木がある門跡寺院を、スクーターの轟音から描き出すという離れ業です。

 でも、私には、この正直な書きっぷりが心地よく感じられます。

 青蓮院も、いつまでも格式張ってはいられなかった。代々、宮様が跡を継いでいた “門跡寺院” も、宮様が軍に籍を置かれるようになってからは、思うようにならなかったわけだ。
 とりわけ、戦後の荒れ方はひどく、一時は畳もスコップで捨てるまでにくさってしまった。
「一定のお客を引入れて接したい」と、五年ほど前観光寺院に踏み切った。昼と夜のひととき、お寺は観光客の応接にいとまがないくらいになった。
 今春、約五千平方メートルのバスプールも出来たおかげで、親鸞聖人の “植髪堂” は、その奥に押しやられてしまった。(65ページ) 


 江戸時代まで皇族方を受け入れてきた門跡寺院・青蓮院も、明治以降は皇族方が陸軍などの将校になられたため、経済的な後ろ盾を失った、と記しています。
 確かに、戦前の軍隊では「○○宮○○親王」が要職に就いているケースが多いですね。

 植髪堂
  植髪堂と駐車場  現在は舗装整備されている

 私が驚いたのは、植髪堂です。親鸞聖人の遺髪を祀るお堂です。
 この建物が、バス駐車場を作るため、「奥に押しやられてしまった」と書かれています!
 確かに、上の写真のように、寺内には広い駐車スペースがあり、その奥に植髪堂が建っています。

 植髪堂は、もとはウエスティン都ホテルの上あたりにあったはずですが、のちに三条神宮道に降りて来、最終的には青蓮院の寺内に落ち着きました。
 この記事を信じれば、昭和34年(1959)頃まで、もう少し道路寄りに建っていたことになります。

 記事では、この近くに住んだ陶芸家・楠部彌弌(くすべやいち)の「どこでもそうだが、観光観光と、すべてが、見るものから、見せられる風景に変っていくのですよ」という言葉を紹介しています。

 一般人とは無縁であった門跡寺院が、戦後「観光寺院」に転換したというところに、時代の変転を感じさせられます。


 尺貫法かメートル法か?

 東山七条の三十三間堂を取り上げたページでは、こんな逸話を紹介します。

  京都へ修学旅行に来た東京の女子高校生から、三十三間堂の寺務所へ抗議のハガキがとどいた。
「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さるはずなのに、あなたのところの案内係は、“お堂の長さが南北に六十四間五尺、奥行が九間三尺……” と説明も昔風の尺貫法でした。いまはメートル法になったことをご存じないのでしょうか」 きついおしかりだった。

 まさに一撃をくらった参拝部長、ご本山の妙法院へ出かけて、三崎門跡におうかがいを立ててみた。ところが、三十三間堂はお堂の長さが百二十メートル、奥行きが十七メートル、柱と柱の間が三・五メートルでは、どうしても実感が出てこない、ということになった。
 さてはいっそのこと「三十三間堂」の呼び名もメートル法に改めるかということで論議の花が咲いたということだ。(44ページ) 


 三十三間堂


 どこまでが本当で、どこからが誇張なのか? ちょっと掴みかねる話ではあります。

 女子高生が「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さる」などと発言することが、むしろ驚きです。そして、やっぱりメートル法は感じが出ないなぁ、と首をひねるお坊さんたちも昔気質ですね。

 ちょうどこの頃、三十三間堂でも東大門と回廊の建設工事をしていて、“観光化”していたのでしょう。お坊さんに「参拝部長」という肩書があることにも驚かされます。
 本書には、多い日には9,000人から1万人の「観光客」が押し寄せると記しています。

 社寺への観光的な参拝は昔からあったわけですが、戦後の昭和30年代に激しく進んだことがよく分かります。


 銅像も再建されて

 「三条大橋」の項目には、その交通の激しさ、路上での諸商売のありさまを語ったあと、このようなことに触れています。

 橋のたもとに、高山彦九郎の銅像があった。戦時中に供出されたが、近ごろ建て直そうという話がある。市長は「建てるなら美術品としても鑑賞にたえられるものを」と注文をつけた。いつ建てるのか、その後音さたがないそうだが……。ご時勢というものだろう。(25ページ)

 本書が刊行された2年後の昭和36年(1961)、高山彦九郎像は再建されました。

 高山彦九郎像 高山彦九郎像

 「その後音さたがない」「ご時勢というものだろう」と書いた記者は、戦後の民主化が進む中で、かつての尊皇家の像が復活するとは考えなかったのでしょう。
 世の中は、いつも意想外のことが起きるものです。

 この三条大橋界隈、改めて少し歩いてみたい気がしますね。
  



 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年




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50年前の京都の街は…… 『カメラ京ある記』を読む

京都本




木屋町


 朝日新聞のカメラルポ

 前回、『新編 随筆京都』という半世紀前に出版されたエッセイ集を読んでみました。

 今日は、同じ頃に刊行された写真ルポのページをめくってみましょう。
 タイトルは『カメラ京ある記』。そして『跡 続・カメラ京ある記』です。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正続(淡交新社) 

 朝日新聞京都支局編とあって、もとは同紙の京都版に連載されたものと言います。
 正編100、続編98の項目があり、著名人へのアンケートをもとに立項したそうなのですが、メインの写真や記事は支局員によるものです。
 記者とカメラマンが現場に行って写真を撮ったり、記事を書いたりしたわけで、「たのしい仕事だった」と木村庸太郎支局長のあとがきに記してあります。確かに、街を歩いて話を聞き、撮影するのは、とても楽しいですよね。よく分かります。

 刊行された時期は、正編が昭和34年(1959)、続編が2年後の昭和36年(1961)。
 前回の『新編 随筆京都』と同時代で、ようやく戦後復興も成り、京都の街にも賑わいが戻って来た頃だったのでしょう。


 変わる先斗町 

 私は年明けから、ふらっと木屋町、先斗町界隈を歩いて、ここにも少し道案内を書きました。
 それで関心もそちらに向き、『カメラ京ある記』にも、どう書かれているか気になります。

 正編の12番目に「先斗町」があります。

 先斗町(ポントちょう)は夜の町だ。昼間はどこか白白しいが、日が暮れると、町全体が夜のよそおいをこらして活気づく。(30ページ) 

 傘を差してすれ違えないほど狭い通りで、そこで傘を傾けながら芸妓さんと行き合うのも、このあたりの風情だと記します。

 ここでもやはり触れられるのは、街の変化。

 昭和の初めごろには、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。
 先斗町お茶屋組合長の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。


 祇園が保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆に取り入れると記者は言います。
 毎年5月に先斗町歌舞練場で行われる鴨川をどりに、「パリのマロニエ」云々といった歌も飛び出すあたりが、ここらしいと指摘します。

  先斗町 先斗町

 この記事で目を引くのは、昭和の初めには150軒あったお茶屋が、約30年後の当時は半減している、ということです。
 京都市街のほとんどは戦災を免れていて、先斗町もそうですが、やはり終戦後の荒波で持ちこたえられないお茶屋も多かったのでしょうか。

 ちょっと軒数を調べようと思い探っていると、興味深い論文に行き当りました。
 松井大輔・岡井有佳「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」というものです。
 この論文のテーマ設定は、意外ですが大変重要なものです。ただ、本題から外れるので、興味のある方は原著を読んでみてください。実際、昨年(2016年)も、先斗町の飲食店で火災が起きたのは記憶に新しいところです。
 
 論文によると、明治43年(1910)にはお茶屋は152軒あり、ピーク時の昭和初期には172軒(昭和5年=1930)まで増加しています。
 戦時下の昭和10年代も、140軒以上あります。

 戦中戦後のデータのない時期を経て、昭和28年(1953)になると、82軒に激減しています。
 先斗町は通りの両側にお茶屋が並んでいるのですが、戦前は西側に多かったのです。ところが、戦後は西側のお茶屋が数多く廃業しています。
 論文では、その理由を「第二次世界大戦中に地区中央部の一帯が建物疎開によって空地化し、当地にあったお茶屋が廃業したためと考えられる」としています。現在、先斗町を歩くと、ほぼ中程に公園(東)と駐輪場(西)がありますが、ここが建物疎開した場所です。
 それだけの理由ではないかも知れませんが、戦争を挟んで約60軒減少したわけです。

 その後、昭和30年代はおよそ70軒、40年代はおよそ60軒のお茶屋がありました。
 昭和60年代から平成の初めにかけては、40軒ほど。現在の平成20年代になると20軒余りまで減っています。2013年の時点では、26軒ということです。
 
 『カメラ京ある記』が出された頃は、まだ70数軒のお茶屋があり、飲食店はお茶屋の数よりも少なく、花街らしい風情が残っていたことが分かります。


 かつての木屋町は 

 木屋町もまた、昭和30年代は現在とは違った様相を呈していました。

  木屋町 木屋町

 木屋町を幾重にも切る細い路地には、色とりどりのネオンとバーの看板が、ひしめき合っている。五条署の話によると、このかいわいで、バー、キャバレーのたぐいは五百軒に近い。しかも年に百軒もふえているそうだ。(32ページ) 

 このバー、キャバレーの数500軒というのが、多いのか少ないのかよく分かりません。ただ、当時の京都としては随一の飲み屋街だったということでしょう。
 
 続編には、もう少し突っ込んで書いています。

 明治以前の木屋町通には川ぞいに材木置き場や薪炭納屋が並んでいた。三条小橋から四条小橋までの間にある西木屋町筋にも、材木がたくさん立てかけられ、先斗町の陰に隠れたさびれた町筋だったという。
 ところがここ数年のうちに、このあたりのネオンの数が木屋町通でいちばん多くなった。五条署の調べだと、去る三十四年末、五百四十九軒だった酒場の数が一年たらずに五百八十軒にふえている。(続編、185ページ) 


 昭和35年(1960)頃、木屋町界隈に580軒もの酒場があったと言います。
 この急増ぶりは、地元以外の資本も入って来た結果のようです。

 経営者は地の人ばかりではなく、関東弁でサービスする女給さんの数も多い。古い京都を知っている人たちは、この変わりっぷりを “ニューキョートの誕生” という言葉で表現する。
 過去の存在を無視し、京都的なものを否定した新しい場所が、とつぜん生まれたわけだ。


 正編には、ここらのキャバレーやバーには美人がいて、客をちやほやするものだから、男の方も「オレはもてたんだ、などと勘ちがいするものも現われる」と書いています。微笑ましいと言うべきでしょうか。

  看板


 閑古鳥のなく寺、流行る寺

 私が、この本の中で驚いたのは、「東福寺」のページでした。
 そこには、次のように記されています。

「きょうもまたカンコ鳥どすなあ…」 拝観料をとるおばあさんがぼやいていた。観光シーズンのさなかだというのに、名所通天橋の紅葉もやがて散ってしまおうというのに、広大な寺域はひっそり閑。
 都心の近くにありながら平日の観光客は四十人程度、京洛五山の一つに数えられる東福寺は、いまや観光から全く置き忘れられたかたちだ。
「珍しく観光バスが入って来たと思うたら、お客が公衆便所を使うとさっさと回れ右しはるのどすぇ」 おばあさんはお寺の宣伝不足を口惜がる。(127ページ)  


 紅葉のシーズン、平日の入山者がたったの40人とは…… いまの東福寺では考えられません。
 もっとも、いまでもオフシーズンは割りと静かで(私はそれが好きなのですが)、落ち着いたお寺なのが東福寺。それでも、40人とはケタが違うでしょう。

 通天橋
  賑わう現代の東福寺・通天橋

 この記事を読んで、私が感じたもうひとつのこと、それは昔の記者は自由に書くなぁ、ということでした。
 たった40人しか来ておらず、それを受付のおばあさんが嘆いている――いまだったら、いろいろ配慮してこういう記事は書けないのではないでしょうか。

 そう思ってページを繰っていくと、こんな記述もありました。

 昭和二十五年七月二日未明、北山鹿苑寺の舎利殿金閣は、その美しさに魅せられた一仏教学生の手で焼き払われた。
 (中略)
 “昭和の金閣” はその後五年、二千八百万円でまばゆく再建された。三万人もの拝観客が毎日のようにぞろぞろと列をつくって、金閣ブームをあおったのもそのころである。
 (中略)
 たそがれの鏡湖池は美しい。昔は金閣も池の中に浮かんでいたものだ。対岸は紅葉山という。もみじは少なくなったがここから優雅な金閣へのカメラアングルは見事だ。
 写真を撮りたいと案内人に申し出ると、お供えをと金千円ナリの撮影料を請求されて、とたんに幻想の夢はやぶれる。金閣の再建費などとっくに回収しただろうに-。一億円ほどたまれば金閣会館をたて室町文化の資料室や図書館なども作って社会事業に還元するそうだが… (85ページ)   


 歯に衣着せぬという感じで、ガンガン書きますねぇ。
 これも時代でしょうか。

 古い本を繙くと、いろんな意味で勉強になります。




 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年



 【参考文献】
 松井大輔ほか「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」(「歴史都市防災論文集」vol.8、2014年)



川勝政太郎「京都の街路の名」を読んで

京都本




通り名


 昔の随筆を読む

 いきなり脱線めきますが、最近 “ポスト・トゥルース” とか “フェイク・ニュース” というのが流行っていますよね。流行りというのは変ですけれども。
 自分の見解を述べる際には、客観的事実に基づいて発言するのは当然のこと。ところが、なかなかそうじゃないケースが多い昨今です。
 
 それとはまたずれるのですが、若い学生たちを見ていると、何かを調べるときに、だいたい今現在の参考文献を読んでくるわけですね。最たるものはインターネット情報ですし、書物でも2000年代になってからのものが多い。そんな傾向です。

 それとは逆に、私が薦めるのは、できるだけ古い参考文献を読もう、ということ。
 例えば、そのテーマについて、戦前の学者はどういうことを言っているのか、さらにさかのぼって明治時代はどうっだったのか、など。
 何も、最新の研究だけが優れているのではありません。その時代時代でさまざまな調査・研究がなされており、それを参照することはとても有意義なことです。

 特に、時代によって人が関心を持っていることは相当異なります。
 なので、違った時代の文献を読むと、自分が思いもよらない指摘に出会えることも多いのです。

 ということで、京都の話でも折にふれて古い書物を繙きます。
 今日は、昭和35年(1960)に出された『新編 随筆京都』を開いてみました。
 「新編」というタイトルの通り、『随筆京都』は戦前に出ているのですが、これはその戦後版というところ。京都本の老舗・白川書院から刊行されました。いまから半世紀以上前、私などの生まれる前の随筆集です。
 カバーに「日本の一流文人による文学的京都案内記」と宣伝文句があるところなど、時代を感じさせます。


 場所の示し方

  新編随筆京都 『新編 随筆京都』白川書院

 ここに、川勝政太郎氏の「京都の街路の名」というエッセイが載せられています。
 川勝政太郎と言えば、京都で著名な古美術研究家で、石造美術の研究などで知られています。

 この随筆は、こんな一節から始まります。

 京都の地理に不案内な人から「大宮へ行きたいのですが、どう行けばよいのですか」と言う風な質問を受けることがある。大宮と言えば或る地点を指すものだと思つているらしい。「大宮のどこへ行きたいのですか」と問い返すと相手は変な顔をする。大宮というのは京都の北から南へ貫通している街路の名だから、それだけでは目的地がはつきりしないのだと説明しなければならない。(88ページ) 
 
 こう述べて、京都では例えば「大宮三条」というふうに、南北の街路と東西の街路の交差点を指すことで地名を示すのだ、と言っています。

 このことは今日では京都以外の方にもよく知られていることでしょう。
 川勝氏によると、こういう表現は意外に古くて、すでに「平安時代の中頃、即ち藤原道長などが現われた頃」になると、高倉とか室町、油小路といった現在でも用いる街路名が登場し、タテヨコの路名の交差点によって地点を示す方法も起ってきたらしい、と言います。例えば、「大宮与三条」というふうな表現です。「与」は「と」ですから、“大宮と三条” という言い方です。案外古いのだなぁ、と思わせます。

 御幸町通


 通り名の覚え歌

 京都市内の地理を知るには従つて数多い縦横の街路を暗記する必要がある。何通の東が何通と言うことを覚えなければ、それこそ足も出せないことになる。以前、地方から京都の商店へ謂(い)わゆる丁稚奉公に来た少年が先(ま)ず課せられたことは、この街路名を覚えることであつた。(90ページ)

 これは大事な指摘なのです。
 私は、大阪でも同じことを聞いたことがあります。

 京都や大阪は、地方から奉公に上がる子供たちが多かったわけですが、彼らは、番頭さんなどから「どこそこまで、これ届けて来て」などと言い付けられたのです。
 地図など使わない頃、その場所は「○○町だ」と表現していたのでは、市街全部の町名を暗記しなければ用が足せません。
 このとき、例えば「その店は、四条室町や」というふうに言うと、四条通と室町通の交点へ行けばよいのです。実に合理的な指し示し方なのですが、通り名だけは最低限覚えなくてはなりません。

 京都も大阪も、市街地の街路には全て名前が付いています。こういうことは世界的にも珍しいのだと何かの本に書いてありましたが、本当かどうか、よく分かりません。
 いずれにせよ、京都の街路には、便宜のために通り名が付いています。
 そして、それを覚えるための歌が存在したのです(ちなみに、大阪にも同様の歌がありました)。

 [縦街] 丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条。
 [横街] 寺御幸麩屋富柳場、高間ノ東ガ車屋町、烏両替室町ヤ、衣新釜西小川。

 これだけで北は丸太町から南は五条まで、東は寺町から西は小川までが記憶される。又この域内が明治頃までの京都の重要な地域であつたことがわかる。(90ページ) 


 そう、よく知られているこの歌は「京都の重要な地域」も示しているのですね。

 通り名マップ


 地名の読みぐせ

 そのあと、川勝氏は、これらの通り名には読みぐせがあると言い、親切にすべての通り名の読み方を掲出しています。
 これを読むと、随筆が書かれた半世紀前と今日とでも若干の変化があることに気付きます。

 まず、「姉小路」。
 これは「あねこうじ」ではなくて、「あねやこうじ」と「や」を入れて読んでいます。
 ところが、随筆では「あねがこうじ」と「が」になっていて、「俗に「あねやこうじ」」と書かれています。50年前は、少しばかり古風に「あねがこうじ」と言っていたわけです。

 次に、「松原」です。
 これは「まつばら」じゃないの、と思います。
 でも、川勝氏は「まつわら」と書いています。
 「まつわら」かぁ…… そう言っていたんですね。

 その南の「万寿寺」も、「まんじゅじ」ではなくて「まんじゅうじ」だとしています。
 これはたぶん(ちょっとずれますが)、伏見区の「中書島」を「ちゅうしょじま」ではなく「ちゅうしょうじま」という類ですね。この方が言いやすいわけです。

 続いて縦の通り。
 「御幸町」は、「ごこまち」で、「幸」を「こう」と言わないのですね。これは現在でもこうなっています。

 烏丸通の1本西にある「両替町」。
 これは「りょうがいまち」と、「りょうがい」と読むのが習慣だそうです。

 そして、「室町」。
 これはもちろん「むろまち」でよいのですが、「古い習慣では「もろまち」と言う」とされています。「もろまち」ですか。

 あとは、「釜座」が「かまんざ」とか、「小川」が「こがわ」だとかいうことで、後者は今では「おがわ」と言っているのでしょうか。

 こう見てくると、微妙な部分とは言え、現在とはいろいろ変わっていることが分かります。
 こんなことも、些細なことに思えますが、地元の人にとっては大事なことでしょう。
 いまの本だけ読んでいるとなかなかわからないことばかり。やはり、たまには古い本を読んでみるものですね。




 書 名  『新編 随筆京都』
 編 者  臼井喜之介
 刊行者  白川書院
 刊行年  昭和35年(1960)



岐阜県で見た京都からの技術伝播

建築




どんぶり会館


 地方へ伝わる産業技術 

 京都新聞のウェブサイトを読んで、2020年は “丹後ちりめん300年” ということを知りました。
 先日から、“応仁の乱550年” に関心を持っていただけに、○○年 というのを見ると、敏感に反応してしまいます(笑)

 記事によると、丹後ちりめんは峰山出身の森田治良兵衛が、西陣で学んだ技法を丹後に持ち帰って創始したものだそうです。それが、1720年のことだと言います。
 1720年というと享保5年。暴れん坊将軍、じゃなかった、米将軍(米公方)として有名な徳川吉宗が享保の改革を断行していた頃ですね。
 西陣と丹後は技術や人の交流があったのですが、現在、京丹後市にある830の織物事業所のうち、9割は西陣織専業なのだそうです。
 
 この例から分かるように、歴史的にみて産業先進都市であった京都からは、各地へ先端技術が伝わっていったのでした。


 岐阜県多治見市の “タイルの里”

 たまたま、昨日は仕事で岐阜県多治見市を訪ねていました。
 博物館の友の会で、同地への見学会を行ったからです。

 多治見は、かつての美濃国の東の方、いわゆる東濃地域の中心都市です。
 美濃焼の産地として知られています。

 私たちが訪れたのは、笠原町というところ。
 10年ほど前、多治見市に合併されたのですが、それまでは笠原町で、大正12年(1923)までは笠原村でした。

 ここも焼き物の産地ですが、古くは飯茶碗の産地として有名でした。一村あげて茶碗ばかりを造っていたわけです。

 笠原茶碗
  笠原茶碗

 美濃焼の窯がある村々は、“ウチはこれ!” という1品に特化した生産を行っていました。
 例えば、市之倉という村は盃(さかずき)、駄知という村は丼、下石(おろし)という村は徳利というふうに、それぞれに全国のトップシェアを誇っていました。行ってみると小さな村々なのですけれどね。

 そのなかで、笠原は茶碗の村だったのですが、昭和の初めになって、タイル生産を始めました。建築に用いるモザイクタイルです。
 現在も、笠原の事業所の多くはモザイクタイルを手掛けています。岐阜県のシェアは全国の85%にのぼり、そのほとんどが笠原で作られているのだそうです。
 私たちが見学させてもらったカネキ製陶所でもこれを製造されていて、とりわけマンションなどの外壁用タイルを数多く作られていました。

 タイル見本 タイルの見本

 このような製品で、よくイメージするモザイクタイルよりは大きいのですが、5cm×15cm程度の細長いタイル。外装モザイクタイルというものです。

 
 笠原への技術伝播

 カネキ製陶所は、大正7年(1918)の創業で -来年100周年ですね!-、最初は茶碗の高台を作っていたのだそうです。高台(こうだい)は、茶碗の一番下の接地している部分ですね。
 私的には、高台づくり専業だったのか! と、ものすごく興味がわいたのですが、詳しいことは聞きそびれてしまいました。
 その工場がタイル生産に転換したのが、戦後復興のさなか、昭和21年(1946)のこと。茶碗からタイルへと移り変わったのです。

 そんなタイルの町・笠原なのですが、そこでタイル生産を始めた人物が、山内逸三(1908-92)でした。
 山内は明治41年(1908)、笠原に生まれ、地元の土岐窯業学校を卒業したあと、京都にやってきます。京都市立陶磁器講習所で学ぶためでした。
 陶磁器講習所は、もともとは明治29年(1896)に創立された京都市立陶磁器試験所がルーツです。全国各地から集まる若者たちに技術を伝習することも行われ、大正9年(1920)に陶磁器講習所となったのでした。
 
 山内も15歳の時、この講習所で学び始め、6年ほど京都に滞在。実際に工場で経験を積んだりして、昭和4年(1929)、笠原に帰郷します。
 そこで彼が行ったのは、釉薬を施したモザイクタイルの製造でした。これを施釉磁器モザイクタイルと言います。
 訪れた多治見市モザイクタイルミュージアムの学芸員さんによると、この施釉をしたという部分が山内の画期的なところで、これにより壁面などを装飾するモザイクタイルが興隆したのだそうです。

 多治見市モザイクタイルミュージアム
  多治見市モザイクタイルミュージアム

 山内のモザイクタイルは、当時、大阪・御堂筋に建築された大阪ガスビルで使用されるなど、さまざまな建物で用いられます。
 彼が作った大ぶりの陶板などを見ると、ちょっと芸術的ですね。

 このように、昭和から現在に至る笠原のモザイクタイルの歩みは、なかなか興味深いものです。
 その技術者が京都で育まれということは、京都という場所が先端技術のインキュベーターだったことを示しています。こういう話を知ると、私たち京都の者にとってもうれしいですね。


   どんぶり

 


 多治見市モザイクタイルミュージアム

 所在  岐阜県多治見市笠原町
 見学  大人300円ほか
 交通  JR中央線「多治見」からバス




応仁の乱の西軍の将・山名宗全の邸宅跡を訪ねてみた





山名宗全邸跡


 上京で展開した応仁の乱

 史上名高い応仁の乱(1467-77年)は、10年以上の長きにわたって京都の街中で闘われた戦です。
 細川勝元率いる東軍と山名持豊(宗全)率いる西軍が対峙して、地方の武将も参戦し、長期間戦ったのです。

 当時、室町時代の京都は、上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)という2つの地域に分かれていました。
 上京は、足利将軍の御所があり、公家や武家の邸が集まっているところ。分かりやすく、ざっくりと言えば、現在の相国寺~京都御所の西のエリアです。
 一方、下京は商工業者が集住していた地区で、現在の三条、四条あたり。祇園祭で山鉾を出す地域です。

 応仁の乱は、貴顕が住む上京で展開されたのでした。

 前回の記事では、東軍は「東陣」を構えて戦った、という話でした。
 東軍の陣は、室町幕府の御所(花の御所)を中心としてエリアでした。
 当時の陣は、史料に「城」という言葉で表現されるように、堀を持った要塞でした。東軍の場合、(北)寺之内-(東)烏丸-(南)一条-(西)小川という広い範囲を堀と土塁で囲んだのです。このような要塞を「構(かまえ)」と呼んでいます。

 これに対し、西軍の大内政弘は、東陣を見張るために高さ約30mもある櫓(やぐら。「井楼(せいろう)」という)を建てて見張ったと言います。また、東陣を攻める際にも、高さ4m近くある櫓を造って、攻撃を仕掛けたと言います。それだけ高い土塁があったのでしょう(『図説 京都ルネサンス』)。

 公家や武家は、自らの邸を堀と土塁で囲み「構」化したので、市街各所に構が続出することになりました(『応仁の乱』)。
 例えば、細川成之邸に造られた構は、彼が讃岐守だったことから「讃州陣」「讃州構」などと称されていたようです。

 応仁の乱では、このような籠城戦というか攻城戦が行われたので、戦いが長期化したのだとも考えられています。早くも戦国時代の戦の様相が先取りされていたわけです。


 山名邸跡を訪ねる

 今回は、西軍を率いた山名持豊(宗全)の邸宅跡を訪ねることにしました。

 堀川通
  堀川通

 堀川今出川の交差点から少し北に上がり、五辻通のさらに先の通りまで歩きます。ガソリンスタンドが目印です。
 ガススタンドの北のマンションに、小さな石標が建っています。

 山名宗全邸跡石標

 「山名宗全邸址」と刻まれています。
 ちょっぴり小さいので、“がっかり名所” 的な感じがするのも事実。
 でも、それにめげずに、もう少しふらっとしてみましょう!


 町名も「山名町」 

 京都でよく言われる冗談に、京都の人が「この前の戦争」と言ったら応仁の乱を指す、というのがあります(笑) その真偽はさておき、いにしえの記憶が街に刻まれているのも事実です。

 山名町

 碑の建つ道は、こんな静かな家並み。国の登録文化財である藤田家住宅などもあります。
 左側には2つのコインパーキングが。

 Times のパーキング名を見てみると……

 タイムズ看板

 「タイムズ堀川山名町」。
 
 そう、この場所の町名は、山名町なのです。

 応仁の乱から550年が経過していますが、いまだに山名宗全の名が町名に使われている。これもまた京都らしいと言うべきでしょうか。江戸時代には、山名辻子(づし)もあったようです。
 ちなみに、この乱に参加した畠山氏の名を取った畠山町などもあります。
 

 もうひとつの石碑

 少し歩くと……

 山名宗全邸跡

 町家と町家の間に案内板が。
 そう、ここもまた山名邸跡を示す石碑なのでした。

 山名宗全旧蹟碑
 
 「山名宗全旧蹟」と書かれています。
 それにしても、こんな狭いすき間に石碑とは…… たぶん広大だった山名邸が、こんな小さくなったとは。

  山名宗全旧蹟碑 山名宗全旧蹟碑

 でも、碑としてはこちらの方が立派で、史跡に来たという感じがしますね。

 山名邸は乱の中で焼亡し、宗全も文明5年(1473)、陣中で亡くなりました。
 

   消火器箱




 山名宗全邸跡

 所在  京都市上京区堀川通今出川上る西入山名町
 見学  自由 
 交通  市バス「堀川今出川」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 佐藤和彦ほか編『図説 京都ルネサンス』河出書房新社、1994年
 呉座勇一『応仁の乱』中公新書、2016年



 



西陣に対する「東陣」とは?





新町今出川


 「東陣」ってあるのか?

 先日、“西陣550年” の記事を書きました。
 応仁の乱に際して、山名宗全が陣を置いた場所が「西陣」と呼ばれるようになり、それから今年(2017年)が550年に当たるというものです。

 その際、「東陣」はあるのだろうか? という素朴な疑問を頂戴しました。

 今出川の町家

 大正4年(1915)に刊行された『新撰京都名勝誌』を見ると、「西陣織物 幷(ならびに)刺繍友禅染」の項に、次のように書かれています。

 西陣とは現今堀川以西、一条以北の地を総称す。応仁記に西陣(山名宗全の軍)には千本、北野、西ノ京、また東陣(細川勝元の郡)も上は犬馬場、西蔵口、下は小河、一条まで云々とあれば、堀川以東を東陣と称せしが如く思はるれど、今はたゞ西陣の称のみ残り(後略) (304ページ)

 このように、西陣とともに「東陣」についてもふれていて、堀川通より東が「東陣」であったように記しています。

 上の引用文に出て来る地名で「西蔵口」というのがありますが、これは現在の「清蔵口(せいぞうぐち)」に当たるようです。
 堀川通と烏丸通の間、鞍馬口通あたりに、上清蔵口町(北区)と下清蔵口町(上京区)があります。
 江戸時代の「雍州府志」などによると、元は「西蔵(倉)口」であると言います。
 京都市街に出入りする七口(ななくち)のひとつであったとされています(七口には諸説あり、実際には7か所以上あったらしい)。
 なお、犬馬場は、西蔵口の南あたりだったようです。

 『新撰京都名勝誌』に従えば、「東陣」は、堀川通より東で、北限は(およそですが)鞍馬口通あたり、南限は一条通あたり、ということになります。なお、東限は烏丸通あたりでしょう。
 東西南北ほぼ1km四方の広い範囲で、下記のように、西陣もこれと同じくらいの広さでした。

 西陣の範囲は、江戸時代の「京都御役所向大概覚書」には「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通」とあります。
 江戸時代の範囲なのですが、西陣は、東は堀川通、西は七本松通の間で、北はおよそ北大路通あたり、南は一条通か中立売通までであったという認識です。

  西陣碑


 白雲村の白羽二重 

 東陣について、もう少し知りたいと思い、『京都町名ものがたり』を繙いてみました。
 すると、応仁の乱後の状況について、次のように説明されています。

 応仁の乱を避けて各地に散らばっていた織物関係者は、乱後、西陣の地に帰住し始めた。その中心となったのが大舎人座(おおとねりざ)の機織家たちだった。
 一方、練貫座(ねりぬきざ)の人々は、東陣の跡地に居を構え、白羽二重(しろはぶたえ)を生産した(練貫は絹織物の一種)。
 白羽二重の純白から取られたのか、そのあたりは白雲(村)と呼ばれた。場所は、室町通の西、小川通より東で、今出川通よりも北に当たる。これが、かつての東陣の地域に相当する。

 このように述べて、現在の新町通今出川上ルの元新在家町がそのゆかりだと指摘しています。同志社大学新町キャンパスの南側付近です。

 新町今出川
  今出川新町の交差点

 新町通の1本東の室町通には、室町幕府(花の御所)があったことを示す碑が立っています。そこを中心にしつつ、細川方は東陣を敷いたわけです。

 花の御所跡
  室町幕府(花の御所)跡碑

 それにしても、東陣とは聞き慣れない名前でしたが、現在では交通量も多い今出川通の付近だったわけです。
 京都の歴史は奥が深いと思いますが、知らず知らずのうちに、東陣の跡をいつも歩いていたのでした。まさに「兵どもが夢の跡」ですね。

 ところで、現地をぶらぶら歩いていたら、広報板にこんなポスターが貼ってありました。

 応仁の乱ポスター

 「歴史シンポジウム 応仁の乱」のポスター。
 ここにも「応仁の乱勃発550年」とあります。

 そして驚くべきことに「洛中洛外図屏風に見る乱後の東陣」と書いてあるではありませんか!
 調べてみると、昨年(2016年)2月に第1弾が行われ、上京区の方では東陣の盛り上げが図られていたようです。

 東陣ポスター

 こんなところで「東陣」に出会うとは ! ! 意外でした。




 東陣跡

 所在  京都市上京区今出川通新町上る元新在家町 付近
 見学  自由
 交通  地下鉄「今出川」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 『日本歴史地名大系 京都市』平凡社、1979年
 『京都府の歴史散歩(上)』山川出版社、2011年


新京極にあった2つの松竹ビルは、インバウンド需要でホテルに変貌





松竹第3ビル建替


 松竹兄弟と新京極 

 新京極と言えば、京都のなかで観光客が多いエリアのひとつで、土産物店などが多数並んでいます。

 いまでこそ面影が失われたものの、明治時代より、この通りは京都随一の興行街でした。劇場、映画館、寄席など、庶民に娯楽を提供する施設が集中していました。

 現在、演劇・映画の大手・松竹も、ここを創業の地としています。松竹は、明治10年(1877)生まれの白井松次郎と大谷竹次郎という双子の兄弟により創業されました。弟の竹次郎は、明治28年(1895)、新京極の阪井座の興行主となり、そのことを以て同社の創業としています。

 このあたりのことは、『大谷竹次郎演劇六十年』に書いてあるので、引用しておきましょう(一部句点を補い、適宜改行しました)。

 大谷(竹次郎)が十七、八歳の頃、父の栄吉は祇園館の縁から、新京極の「道場の芝居」といはれた「阪井座」の売店の経営を初め、やがてその歩(ぶ)を持つに至つた。
 
 興行に歩を持つとは、共同出資の金主(きんしゅ)の一人になることで、阪井座、大黒座、その他新京極の劇場は金主が三人、五人で金を出し合つて経営し、いづれも他に本業がある人達が片手間や道楽で興行してゐた、
 栄吉もその仲間でどこまでも売店が本職であつたが、芝居の歩を持つ金主であれば、興行師と呼ばれるのに何のさしつかへもなく、又劇場で「旦那」と敬称されるのにも、誰に遠慮もなかつた。しかるに栄吉は自ら旦那と呼ばれない位置に立つた。

 (中略)

 大谷の父栄吉が、それほどの金主、京都の阪井座の金方(きんかた)になりながら、旦那と呼ばれぬ位置に立つたのは何が原因かといふと、次興行の金主と定まると栄吉は、大谷を膝元に読んで、
「竹次郎、お前、俺の代りに阪井座の仕切場に坐つてんか、来月からお前はこの阪井座の金主や、御仕打はんやぜ、ええか」

 売店の荷を肩にした大谷は、父の言葉に無言で棒立ちとなつたまゝだつた。(11-13ページ)  


 父に才覚を認められた竹次郎は、阪井座の金主(共同出資者)になるのでした。
 一方、兄・松次郎は……

 その頃、松次郎の方は、父の手元を離れ、(新京極)夷谷座の売店全部の権利を握つてゐた白井亀吉のところに働きに出てゐたが、その亀吉の家は夷谷座に隣接し、劇場内と外の通りに店があり、寿司が本業で俗に三亀の名で手広く商売をして居り、娘の「おしか」「お八重」の二女は年頃で、京極の小町娘とうたはれていた。

 その亀吉に見込まれた松次郎は、妹娘のお八重の恋婿に選ばれ、長男の身を、他姓を冒して白井松次郎となつた。(13-14ページ) 


 お兄さんは、これまた才能を買われて、誓願寺前にあった劇場・夷谷座の仲売り・白井亀吉の娘婿候補となり、養子に入ったのでした。


 松竹第3ビルの建て替え

 いつも松竹のことになると、この兄弟のことを語ってしまいます。もちろん、松竹自身も創業者を大切にされているのは当然で、この看板をご覧ください。

 松竹看板

 上記のように、新京極・阪井座の興行主として創業したと記しています。
 末尾の「新京極通りで創業し、ご当地京都の皆様に育てていただいた松竹は……」といった言い回しが、歌舞伎の興行主らしくもあり、京都っぽくもあります。

 で、この看板はどこに掲げられているかというと……

 松竹第3ビル建替え

 この工事現場のフェンスに張ってあります。
 場所は、新京極四条を上がって約50mのところ。ここには、かつてSY松竹京映という映画館がありました。

 ちなみに、さかのぼると……

  SY松竹京映
    ↑
  SY京映
    ↑
  京極映画劇場 
    ↑
  歌舞伎座 (明治33年~昭和11年)
    ↑
  阪井座 (明治25年~33年)
    ↑
  四条道場芝居

 という感じです。(『近代歌舞伎年表 京都篇』)

 昔、この場所には金蓮寺(こんれんじ)という時宗の寺院があり、場所柄、俗に四条道場と呼ばれていました。
 そこに出来た芝居小屋が、“道場の芝居” です。

 これが、阪井座となり、さらに歌舞伎座となりました。京都にも、歌舞伎座という名前の劇場があったわけです。
 この歌舞伎座は、明治の終わり頃には活動写真館になっています。

 そういう歴史を持つ劇場・映画館でしたが、2001年に映画館が閉館したあとは、商業ビルとして利用されていました。ビルは、松竹第3ビルと称していたのです。

 旧SY松竹
  かつての松竹第3ビル

 1階にカジュアル衣料品店・ライトオンなどが入っていました。
 ビル壁面には、松竹マークがありました。

  松竹マーク

 ビルは、2016年に解体され、2017年2月現在、更地になっています。
 あのマークはどうなったのかなぁ、なんて思ってしまいます。

 と、ここまで書いて、今日なぜこの記事を書いているかという理由が出て来ます、ようやく(笑)

 松竹が2月7日(2017年)に行ったプレスリリースによると、2018年の秋、この場所にホテル&商業施設の複合ビルが建設されるというのです。
 そのビル名は「京都松竹阪井座ビル」!
 なんと、明治中期の劇場名をビルの名前にしたのです。

 リリースによると、ビルは地上9階建で、1階がテナントの店舗、2階から9階がホテル・東急ステイになるそうです。


 六角のピカデリー跡地もホテルに
 
 一方、新京極を上がった六角の角は、明治初期から夷谷座という劇場でした。白井松次郎の養父が中売りをしていたところです。
 戦後は、京都ピカデリー劇場という映画館として賑わいました。ビルは、松竹第2ビルと言いました。

 旧ピカデリー劇場
  旧ピカデリー劇場

 こちらも、壁面の松竹マーク&劇場名が何とも言えませんね。
 私も学生時代など、ここに映画を見に行きました。

 残念ながらすでに取り壊され、新しいビルがほぼ竣工のようです。

 ホテルグレイスリー京都新京極

 この夏、ホテルグレイスリー京都新京極(仮称)としてオープンするそうです。客室はツインルーム128室。
 運営は藤田観光ですが、すでに近所の寺町通にできているホテルグレイスリー京都三条とあわせ、ちょっとしたホテル街になりますね。
 ちなみに、藤田観光は、京都ではホテルフジタや京都国際ホテルを閉館していただけに、再度地歩を築いていきそうです。

 松竹系の劇場や映画館がホテルに変貌するというのも、時代の流れなのでしょうか。
 京都の繁華街らしい新京極を引き続き見守っていきたいと思います。




 阪井座跡

 所在  京都市中京区新京極通四条上ル中之町
 見学  自由
 交通  阪急電鉄「河原町」下車、徒歩約1分



 【参考文献】
 脇屋光伸『大谷竹次郎演劇六十年』講談社、1951年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』10、八木書店、2004年



【新聞から】屋根を葺き替える清水寺本堂、優美な姿ともしばしお別れ

洛東




清水寺本堂屋根


 平成の大修理で

 清水寺は、ここのところ平成の大修理ということで、山内の諸堂が順次修理されていますね。
 今回は、ついに “清水の舞台” として有名は本堂(国宝)の屋根の葺き替えが始まります。各紙によると、2017年2月6日からお堂を覆う素屋根の建設が始まりました。

 清水寺本堂
  清水寺本堂


 屋根は檜皮葺

 本堂の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。
 「檜(ひのき)」の文字から分かるように、ヒノキの木の皮を剥いで、屋根葺き材にします。近年では、この檜皮の確保が重要な仕事です。今回の修理でも、2009年度から檜皮の確保を行ってこられたそうです。

 寺院の屋根は、神社と違って瓦葺も多いわけですが、瓦は重いし、やはり檜皮葺の方が優美ですよね。清水寺本堂は、寛永6年(1629)に焼失し、そのあと同10年(1633)に再建されました。当時よく行われていた復古的な建物ということで、檜皮葺がふさわしいでしょう。

 清水寺本堂檜皮葺

 数年前に撮った屋根の写真。
 確かに、だいぶんコケっぽいものが見られます。
 京都新聞によると、前回の葺き替えは昭和39年から42年(1964~67)にかけて実施されたそうです。すでに半世紀が経過しました。
 記事には、屋根の面積は約2,050平方メートルと書いてあります。清水寺の平面は、約33m×32mほどなので、屋根はほぼ倍の面積があるわけです。

 横から見てみると……

 清水寺本堂側面

 こんな感じで、お堂の屋根が重なるように構成されています。『国宝・重要文化財大全』には「複雑な屋根を巧みに処理」と評されていますが、まさにそうですね。

 下の写真は、背面です。地主神社へ上がる階段から振り返ったところ。

 清水寺本堂背面

 まったく見慣れない絵づらで、清水寺とは思えません。

 屋根は二重になっているように見えますが、2階建というわけではなく、下の方は裳階(もこし)というものです。
 このように広い面積にわたって檜皮が葺かれているわけで、葺き替えも大事業になります。

 工事は、2020年3月までの予定。舞台からの眺望は確保されるそうですが、屋根は覆われてしまいます。あの美しい姿とも、しばらくお別れですね。

 


 清水寺 本堂(国宝)

 所在  京都市東山区清水
 拝観  有料(大人400円ほか)
 交通  市バス「五条坂」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『国宝・重要文化財大全11 建造物(上)』毎日新聞社、1998年



2017年は、西陣550年!





千本中立売


 西陣誕生のきっかけは応仁の乱

 今朝、なにげなく「府民だより」2月号を見ていたら、伝統工芸を紹介するページに、小さく、

   西陣550

 というロゴマークが載っていました。

 何かな? と思って、説明を読んで分かりました。
 今年(2017年)は、応仁の乱から550年、つまり「西陣」が出来て550周年ということらしいのです。

 念のため、応仁の乱(応仁・文明の乱)について教科書を見ると、次のように書いてあります。

 嘉吉の変後、将軍権力の弱体化にともなって有力守護家や将軍家にあいついで内紛がおこった。
 (中略)
 幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元と山名持豊(宗全)が、これらの家督争いに介入したため対立が激化し、1467(応仁元)年、ついに戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まった。

 守護大名はそれぞれ細川方(東軍)と山名方(西軍)の両軍にわかれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれて荒廃した。応仁の乱は、1477(文明9)年、戦いに疲れた両軍のあいだに和議が結ばれて終戦を迎え(後略)  (『詳説日本史』山川出版社) 


 まあ、10年以上やっていたのだから、疲れますよね。

 戦いの舞台は、室町幕府が置かれていた京都。
 両軍の大将は、細川勝元と山名宗全。勝元が東軍、宗全が西軍です。

 そして、教科書には書いてないけれど、西軍が陣を置いた場所が、「西陣」呼ばれるようにとなった、ということなのですね。

 つまり、“西陣誕生” のきっかけは応仁の乱で、それが勃発したのが1467年、いまから550年前というわけです。

 堀川今出川西入ル、つまり西陣の一画にある京都市考古資料館。この大正時代に建てられた建物は、かつては西陣織物館でした。
 その前に、西陣と西陣織の由来を記した石碑があります。

  西陣碑 「西陣」碑

 昭和3年(1928)に建てられた堂々たる碑。立派な「西陣」の二文字は、京都帝大総長・荒木寅三郎によるもの。また、由来を記した文章も、京都帝大の歴史学者・三浦周行が起草しています。

 なお、大正の西陣織物館については、以前記事を書きましたので、そちらもご覧ください。
 
 記事は、こちら! ⇒ <ふたつの「革新」が出会い、西陣織物館は生まれた>

 京都市考古資料館
  旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 始まっている「西陣550」

 550周年というのは、ちょっとキリが悪いけど、それはまぁいいですよね。
 調べてみると、「西陣550」は、西陣織工業組合が行っている西陣呼称550年にちなんだキャンペーン。きものショーなどのイベントを展開されるようで、すでに昨年11月からスタートしています。
 昨秋は、西陣織会館のリニューアルも実施され、今年がいよいよ本番ですね。

 ロゴマークも、京都造形芸大名誉教授・久谷政樹氏のデザインにより制作。織機で使う杼(ひ)を意匠化したものです。
 ここで紹介したいのですが、使用は有料みたいなので、ちょっと控えておきます(笑)

 西陣の町家

 西陣のことは、ここでもちょくちょく書いていますが、実のところ、このキャンペーンは知りませんでした。
 不注意の謗りを免れませんが、いっそうPRしていただき、盛り上げていければうれしいですね!


  西陣碑




 旧 西陣織物館(京都市考古資料館)

 所在  京都市上京区今出川通大宮東入ル元伊佐町
 見学  館内自由(無料)
 交通  市バス「堀川今出川」下車、すぐ



【大学の窓】給付型奨学金が、もうすぐ始まる

大学の窓




京都大学


 ひとり月2万円~4万円

 大学時代に借りた奨学金を返せない若者が増えている、という状況をうけて、国は新年度から給付型奨学金、つまり返さなくてもよい奨学金を導入することになりました。

 もちろん、すべての学生に給付されるわけではありません。
 住民税非課税世帯の学生に限られるということで、比較的所得の低い世帯を救済する制度になっています。

 また、そのすべてに給付されるのでもなく、各学年2万人に限定。金額も、国公立か私立か、自宅生か非自宅生かで給付額が異なり、2万円から4万円の幅があります。
 仮に月4万円もらっても、年額48万円ですから国公立大学でさえ学費の全額はまかなえないことになります。


 5割が大学に行く時代だが……

 いま日本の大学進学率は約5割です。
 しかし、60年ほど前の昭和30年(1955)は、約8%にすぎませんでした。
 この半世紀で、飛躍的に進学率が上がりました。

 OECD加盟国の大学進学率の平均は、62%(2010年)。日本よりも10ポイントほど高くなっています。
 世界の中で最も高い国は、オーストラリアで96%。次いでアイスランド93%、ポルトガル89%、ポーランド84%、ニュージーランド80%となっています。スウェーデンやノルウェーは76%、アメリカは74%、イギリスは63%です。
 
 日本も50%を超えて “増えたなぁ” と思ったのですが、国際比較すると、まだまだといったところかも知れません。
 日本では、大学進学と親の収入との間に相関関係があることが知られています。俗っぽく言えば、お金持ちほど子供を大学に進学させやすい、というわけです。
 つまり、大学へ行くには(入学前の段階も含めて)大変お金がかかる、ということなのです。

 ところで、義務教育はもちろん無償なわけで、いまではほぼ100%の人たちが小中学校で学んでいます。
 ところが、戦前、あるいはもっとさかのぼって明治時代などでは、子供を小学校にやることは必ずしも好まれていませんでした。学校に行かすよりも働かせる方がよいと思っていた親が多数いたのです。

 よく知られた話ですが、明治27年(1894)和歌山県に生まれた松下幸之助(パナソニック創業者)は、小学校中退でした。幼くして、大阪に丁稚奉公に出されたのです。松下さんは大変すぐれた経営者なので、自伝などを読むと若い時分から優秀だったと思いますが、必ずしも小学校に行ける家庭状況ではなかったわけです。
 もっとも、松下さんの時代でも就学率は9割を超えています。その一方で、卒業できない児童も数割存在したようで、松下さんもその一人でした。

 また、現在の高校進学率は約95%もありますが、昭和30年(1955)は約5割にすぎませんでした。それが、半世紀の間に100%近くになったのです。


 50%の「ガラスの天井」 

 では、大学もこの先100%の進学率に近付くかというと、そうは考えられていないようです。
 吉川徹氏によると、大学進学率には50%で頭打ちになるという「ガラスの天井」があるそうです。
 なぜ50%で頭打ちになるかというと、「何が主たる原因なのか、いまのところ確定的なことはわかっていません」(『学歴分断社会』)。

 私は正直言って “頭打ちになるのかぁ” という、残念な感想です。
 ちょこっとですが大学教育にかかわっている一人として、やはり大学で教育を受けることには意義があると思っています。だから、できれば多くの高校生が大学に進んでほしいと願っているのです。

 かつて、大学レジャーランド論さえ唱えられましたが、やはり4年間「知的トレーニング」することは意味があると信じたい。だから、できれば大学でさまざまな専門分野に触れ、その知識を学び、学問的なものの見方や考え方を身につけてほしい--そう思うのでした。

 ただ、それをスムーズに行うために、少なくとも本人や家庭の経済的な負担は軽減してあげたい。できれば、社会がその面倒をみる、つまり公的に負担していく方向にしたい、と考えるのです。
 けれども、その際、<半分の人は大学に行って利益を得るのに、半分の人は大学進学せず直接利益を得ない>というのでは、不公平感が増しそう(もちろん間接的には利益を受けると思うのですが)。それを解消するため、大学進学率を7割、8割へとアップしていければ……と思うわけです。

 現在、公立の図書館は無料で利用できます。図書館法でそう定められているからです。国民が等しく本に接して教養をつけることは無料でできる--ここには国民的なコンセンサスがあるわけです。
 ついでに言えば、博物館も本来は無料で利用できるべきというのが、博物館法の精神です。有料のところが多いのは、やむを得ない事情(つまり財政事情)から徴収しているわけです。

 これと同じ考え方で、誰もが大学等で高等教育を受けられる社会を作れないものでしょうか。

 というと、結局は財政の問題だよねぇ、という話になりそうです。
 ん~、無理なんでしょうか、大学進学率の上昇は。
 ムズカシイ問題ですね。




 【参考文献】
 吉川徹『学歴分断社会』ちくま新書、2009年
 本田由紀『教育の職業的意義』ちくま新書、2009年