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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

先斗町にある「鴨川の見える場所」は、かつて……





鴨川河川敷


 鴨川から見た先斗町

 京都で暮らすものが、ほっとする景色のひとつが鴨川ですね。

 鴨川
  四条大橋たもとから三条大橋方向を望む

 川べりの堤防も歩けるので、川との距離が近いですね。
 私は、もっと上流の方で育ったのですが、小中学校の頃は、いつも川に入って遊んだりしてました。賀茂川は意外に浅かったので、じゃぶじゃぶと歩くことができたのです(三条・四条あたりは深いので入らないように、念のため)。

 三条と四条の間、写真に写っている建物は先斗町(ぽんとちょう)界隈です。

 鴨川

 今回は、この写真から見える風景がテーマです。
 なにか気付きますか?


 先斗町のナゾの空間

 写真の中央あたりです。
 
 近寄って、クローズアップしてみると……

 車道橋跡

 わかるでしょうか、家と家が離れていますよね。
 それで、向こう側の建物が見えています。このスペースは、いったい何なのでしょう?

 車道橋跡

 こちらからは上れないので、先斗町の通りに行ってみましょうか。

 先斗町
  先斗町

 京都を代表する花街のひとつ、先斗町。細い街路の両脇にお茶屋さんや飲食店が並んでいます。
 四条通から、100mほど北上すると……

 先斗町

 右に道みたいなのがある、問題の場所です。

 曲がってみると!

 車道橋跡

 広場みたいになっています。
 お地蔵さんもありますね。

 お地蔵さん

 鴨川がよく見えます。
 修学旅行生なども、よろこんでますね。

 河川敷

 と、現地に来てみたものの、ここには答えは書いてありません。
 さて、どうするか。

 みなさんに考えていただいている間に、私は地図を持ってくることにします。


 明治時代の地図をみると……

 木屋町をご案内した際に使った明治44年(1911)の地図を持ってきました。
 いまから約100年前の京都の様子を表しています。

 どうやら、ここに答えが載っているようです。

 車道橋

 青い丸で囲ったところ、橋があったのですね!

 その名は「車道橋」。「くるまみち」橋と読むのでしょう。
 四条大橋の約100m上流に架かっていたのです。比較的狭い木の橋でした。

 この橋は、別名「竹村屋橋」とも称しました。
 幕末の絵図には画かれていないので、明治時代にできたのでしょう。
 橋なので対岸に渡れるのはもちろんのこと、納涼イベントなどの際には、臨時の昇降道を橋に付けて河原に降りられるようにしたそうです(「明治後期の京都鴨川における河川空間の広場的利用に関する研究」)。
 鴨川は、古くから河原が広く、納涼や芸能の場となっていました。明治時代にも、そういう状況があり、車道橋が活用されたということですね。

 一説には、大正8年(1919)に撤去されたというのですが、地図を見る限り、昭和初期にも画かれているので、そのあたりまでは架かっていたようです。昭和10年(1935)の鴨川の洪水の際に流されたという話もあり、そちらの方が正しいのかなと思います。


 名前の由来

 ところで、この橋の名前なのですが、竹村屋橋という呼び名は、おそらく架けた人か付近の店の屋号(竹村屋)に由来すると推測されますね。
 一方、車道橋という変わった名称は何に由来するのでしょうか?

 下の絵は、幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)に描かれたこの付近です。

 花洛名勝図会より鴨川
  右の橋は四条大橋(「花洛名勝図会」1864年より)

 矢印のところ、荷車を曳いた牛が見えますか?

 江戸時代、荷車は橋を渡ることが許されていなくて(橋が傷むから)、河原におりて川の中を渡っていたのですね。
 鴨川には、主な橋の脇に、渡る場所がありました。「花洛名勝図会」を見ると、白川などでもそうしていたようです。

 絵をよく見ると、上の矢印のところ、家並みが途切れて河原に下りるスロープが付いているのが分かるでしょう。場所は、どうやら三条大橋の下流を描いているようです。

 このような荷車の渡るところを車道と呼んでいました。

 ということは、四条大橋の北側にも、かつては車道があったのでしょうか。
 そのあたりに架けられた橋ということで、車道橋と呼ばれたのでは、と思います。

 なお、車道については、2度ほど書いていますので、そちらもご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <牛で荷物を運んでいた時代、三条通の白川はどう渡った?>
  ⇒ <鴨川に架かる荒神橋の脇にあるナゾの小道とは?>

 ずいぶん前ですが、三条大橋と四条大橋の間に、橋を架けるというアイデアが出されて大騒動になったことがありました(結局ボツになったのですが)。それは、まさにこの車道橋の再生といった感じでした。

 先日、たまたま映画「本能寺ホテル」を見ていたら、冒頭、主人公(綾瀬はるか)がチラシをもらうシーンが、まさにこの場所で驚きました。

 映画のカットで

 映画のカットは、こんな感じ。
 たぶん、狭い先斗町の中で、カメラを置く引きがあってよかったのでしょうね(笑)




 車道橋跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る鍋屋町
 見学  自由
 交通  京阪「祇園四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「本願寺宗祖大師御遠忌記念 京都市街地図」1911年
 林倫子「明治後期の京都鴨川における河川空間の広場的利用に関する研究」(「景観・デザイン研究講演集」6、2010)



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【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その3)





木屋町から先斗町を望む


 飲み屋街の魅力をもつ木屋町

 高瀬川に沿った木屋町の通り。地図で「電燈會社」となっている旧立誠小学校の場所から、さらに北へ進んで行きましょう。

 四条ー三条ルート

 このあたりは、小ぶりな雑居ビルが立ち並び、夜になるとネオンの巷と化します。

  スナック看板

 ところが、昼過ぎ頃に歩くと、 “準備中” の趣が……
 納品に来たトラックが、たくさん見られるんですよね。

 トラック

 こういう納品車を見ていると、あきることがありませんね。
 コカ・コーラ、味覇(ウェイパー)、スジャータ、KCC(おしぼり)などなど、いろいろあるんです。

 コカ・コーラの車

 これを見ていると、順々に全部写真を撮っていったら、どんなにおもしろいだろうと思うんですね(笑)
 ちょっと変な趣味ですが。


 お龍さんの寓居跡

 雑居ビル街にも、京都らしく、というべきか、史跡がたくさんあります。

 お龍寓居跡

 石標をよく見ると、坂本龍馬の妻・お龍さんが独身時代に住んでいた場所が、このあたりだと言います。
 一瞬、龍馬の寓居か? と思うのですが、よく見ると違うのです。

 この雑居ビルは、都会館という名前です。
 廊下を入ってみると……

 都会館

 あれ、「龍馬」という店が!

 スナック龍馬

 スナックらしいのですが、よく見ると「龍馬資料館」とも書いてある。たぶん、龍馬ファンの皆さんが集うお店でしょう。
 掲示板には、オーナーさんを紹介した記事が。読んでみると、前回出てきた旧立誠小学校を龍馬資料館にしようとしてが、うまくいかなかった、とか。いいアイデアだと思うんですけどね。土佐藩邸跡というだけでは、ちょっと関係が薄いんでしょうか。
 
 龍馬好きの方は、ぜひどうぞ!


 お地蔵さんも

 京都は、町々にお地蔵さんがあるので、木屋町周辺にもお地蔵さんが目立ちます。
 山崎橋と、1本上流の材木橋には、ともに西詰辺にお地蔵さんがあります。

 こちらは材木橋の地蔵尊。

 大黒延命地蔵

 大黒町にあるためでしょう、「大黒福授延命地蔵菩薩」と書かれています。

 お堂は、しっかりした覆い屋に入っており、鳩除けなのでしょう、金網が張られています。
 これまで、なにげなく通り過ぎていたのですが、今回近寄ってよく見てみると、お堂はずいぶん丁寧な造りなのです。

 懸魚

 これは懸魚(げぎょ)。
 かぶら懸魚に、左右にひれが付いています。

 そして、象鼻も!

 象鼻

 組物も立派で、六葉なども使われており、覆い屋で守るのも理解できますね。


 変わる町並み

 お地蔵さんがあるのは、高瀬川西岸の西木屋町です。
 ここには「れんこんや」といった風情あるお店もありますね。からしれんこんが名物の店です。

 れんこんや
  左が、れんこんや

 少し歩いていると、工事中の現場がありました。

 京劇ビル跡

 この辺には、昔、京劇という映画館があって、ビルは長く残っていましたが、ついに取壊しです。
 繁華街の青空が、ちょっと悲しいですね。

 反対を向くと、先斗町歌舞練場が見えます。

 先斗町歌舞練場
  奥が先斗町歌舞練場

 ここも、最近右側のビルが取り壊されました。
 近年、ビルの改築が多いですね。

 高瀬川と木屋町

 四条通から、ふらっと歩いてきた木屋町。
 ようやく別れを告げて、先斗町に抜け、鴨川方向に進みます。

 珉珉の角

 ぎょうざの珉珉のところを曲がると、鴨川と三条大橋が見えて来ます。

 そして、橋のたもとには、弥次喜多像が。

 弥次喜多像

 三条大橋を渡れば、京阪・三条駅です。

 わずか1kmの京阪・祇園四条-三条間の旅。
 このほかにも、隠された見どころもあるようですが、そちらは現地で確かめてみてください。




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その2)





西木屋町


 西木屋町

 京阪・祇園四条駅をスタートした “駅から、ふらっと1時間”。
 四条小橋を右折し、木屋町通を北上します。

 四条ー三条ルート

 地図上の赤線は、市電の線路です。線路の左には、高瀬川が流れています。
 高瀬川の左(西)側には、とぎれとぎれですが道が画かれていますね。これが、いわゆる西木屋町です。

 西木屋町
  高瀬川の左が西木屋町

 現在では、三条通の1本南から蛸薬師通までと(上の写真)、旧立誠小学校の南から四条通まで通っています。
 ところが、明治末の上の地図では、三条通の南の方はほとんど道がないし、四条通の北の方も途切れている箇所がありますね。

 木屋町裏の大木

 この道は、四条通を1筋北に上がったところの西木屋町です。
 なぜか大木があり、道も曲がっていて、誰しも不思議に思う街路なのです。この場所を地図で確かめると、道は描かれていません。少なくとも明治末の時点では道はなかったのでした。
 おそらく、家が建っていたところに無理やり? 道を通したので、こんな変な路地になったのでしょう。

 この北側も、明治末からあるようですが、狭い道です。

 木屋町の一筋西

 沖縄料理店「赤ひげ」とか、老舗バー「サンボア」など、古くから続くお店もありますね。

 赤ひげとサンボア

 ここを北へ行くと突き当りになり、小学校跡のグラウンドが見えて来ます。


 舟入跡と土佐藩邸跡 

 旧立誠小学校あたり

 写真は再び、木屋町通。
 左前方が、かつての立誠小学校です。

 立誠(りっせい)小学校は、四条通に沿った市街中心部の学校のひとつで、明倫、日彰、生祥などとともに賑やかなところにある小学校でした。
 学区は、南北は三条と四条の間、東西は鴨川と寺町の間。まさに、京都随一の繁華街が学区です。

 八の舟入跡

 江戸時代は、このグラウンドのあたりは高瀬川の舟入(ふないり)があったということで、石標に「八之舟入址」とあります。
 高瀬川は角倉了以が開いた運河で、高瀬舟による舟運が行われていました。荷物の揚げ降ろしや船の方向転換をする場所が、舟入です。
 一番川上は、二条通下ルにある一の舟入で、ここには今でも広い水面が残されています。他は、九の舟入跡まで石標が建てられていて場所が分かります。
 ちなみに、今回はこの先にも、7、6、5と舟入跡に遭遇します。

 小学校の北側には、七の舟入がありました。

 七の舟入跡

 昔からここは、ちょっとした広場になっていましたが、舟入の痕跡だったのでしょうか。今では駐輪場になっています。

 七の舟入跡の船

 レプリカの船と写真が展示されていますね。
 舟入の左手には、土佐藩邸跡を示す標識があります。立誠小学校の場所は、江戸時代は土佐藩邸だったのですね。
 道路を西に進んで行くと、かつては土佐藩邸内にあった稲荷社を遷した土佐稲荷(岬神社)もあります。小さな龍馬像もあるので、お詣りに行くのもよいかも知れません。


 旧小学校で映画上映

 校名が論語の一節に由来する立誠小学校。明治2年(1869)、京都の学校黎明期に建てられた小学校のひとつで、当時は下京第六番組小学校でした。場所も、現在地より北の河原町三条にありました。

 今回のルートマップを見てみると、高瀬川畔に「電燈會社」と書いたところがありますが、ここが現在の立誠小学校の位置です。
 昭和3年(1928)に移転し、いま残されている校舎が建設されました。

 電灯会社とは、京都電灯のこと。のちに統合して現・関西電力となる会社です。
 この場所は、いまから百年前の明治30年(1897)1月、当時日本に輸入され始めた映画が試験上映された場所でした。
 京都市出身の企業家・稲畑勝太郎――大阪で稲畑染料店(現・稲畑産業)という会社を経営していました――は、青年時代、京都府からフランスに派遣されたことがありました。そのとき、映画の発明者・リュミエール兄弟と知り合い、のちに映画を輸入したのです。
 フランスから輸入した映画フィルムを仏人技師に試験上映させた場所が、京都電灯の中庭だったということです。稲畑は、翌月、大阪・南地演舞場で上映会を開いています。

 日本での “映画のはじまり” には、さまざまな考え方があります。使った機材と上映方式、興行方法などが、いろいろあるためです。
 ただ、百年前に当地で行われた映画上映も「起源」のひとつと言えるでしょう。そのため、ここは日本映画の故地として顕彰されています。

 だから、と思うのですが、ここでは「立誠シネマプロジェクト」という映画上映が行われています。

 立誠シネマ

 古い校舎の3階に上がり、ぎしぎしきしむ廊下を進むと、教室を改造したシアターがあります。
 座席数は、40ほど。
 私も、今回、話題の作品「この世界の片隅に」を見ましたが、キャパがオーバーするほどの超満員でした。
 

 古い鉄筋コンクリート造の校舎

 立誠シネマは、毎日上映しているので、以前は立ち入りしづらかった学校内にも入れるようになりました。
 立ち入り禁止ゾーンも多く、撮影も不可ですが、昭和初期の学校建築を見ることができます。

 旧立誠小学校正面
  旧立誠小学校 校舎

 鉄筋コンクリート造3階建で、昭和3年(1928)竣工。
 昭和初期、京都市では鉄筋コンクリート造(RC造)の校舎が盛んに建てられていました。
 とりわけ、本館、校舎、講堂・雨天体操場の3つを共にRC造にした学校に、本能、立誠、中立、修徳、成徳、淳風、明倫、清水、桃薗の各校がありました。なかでも、ここ立誠小学校はその第一号だったのです(『近代京都における小学校建築』)。

 立誠小学校の場合、正面(敷地の東側)に本館を置き、南北に校舎を配置。南西に雨天体操場をつなげています。上から見ると「コ」の字形の平面になっているのです。

 関東大震災(大正12=1923年)以後、建築や橋梁の耐震・不燃化は喫緊の課題で、東京ではRC造で小学校の復興が進みました。
 京都にもそのような流れが及んだわけですが、このあと昭和9年(1934)に関西を襲う室戸台風では、RC造の校舎が児童・生徒を守ったのです。

 外観を見ると、当時の学校建築によく見られるように、縦長の窓を多数うがっています。

 玄関

 アーチの玄関には大きな庇を付け、装飾を施しています。このようなアーチは、当時の小学校建築の流行だったそうです。
 上を見上げると、露台(バルコニー)が突き出していますね。

 露台

 シックな印象ですが、なかなか正面性が強い建物で、通りからも目立つ存在です。
 高瀬川がありますので、玄関に入るには橋を渡ります。

 旧立誠小学校の橋

 橋の細部

 なぜか「川」の字に見えるのは気のせいですね(笑)


 南北も見られる

 南側はグラウンドに面しています。

 旧立誠小学校南面

 階段室の上部に3つのアーチ窓を連ねたところなどは、ちょっとロマネスクの教会みたいで微笑ましい。

 窓の好きな方は、北側もいいですよ。
 
 旧立誠小学校北面

 この辺りは、窓の桟やガラスも古いままのようで、雰囲気があります。

 ちなみに、校舎内では階段なども見どころですし、中庭もあります。ただ、写真がNGのため、実際に訪れてご覧になってください。

 そんなわけで、この小学校だけでも1時間近くかかりそうですが、道はまだ半分ほど……
 もう少し歩を進めたいと思います。


 (この項、つづく)




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



 【参考文献】
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年



【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その1)





四条大橋


 駅から歩く、1時間の小旅行 

 京都は、昔から市街地に鉄道が余り走っていないところで、JR(東海道線・山陰線)や京阪は街の外縁部を通っているし、阪急も戦後まで四条大宮止まりでした。
 もっとも、大阪市なども、かつては国鉄や私鉄は市街地には乗り入れておらず、京都より徹底していたように思われます。

 そのため、街中の公共交通は明治以来、市電であり、京都の場合、昭和53年(1978)まで活躍していました。
 その後、地下鉄が敷設され、現在は烏丸線と東西線があるのはご存知の通りです。

 ですから、今年の新企画<駅から、ふらっと1時間>も、JRや阪急、京阪などの鉄道駅からスタートするほか、地下鉄駅が起点になることも多いと思います。

 申し遅れましたが、この企画は、タイトル通り、駅から歩いて1時間ほどで楽しめる “小旅行コース” をご紹介するものです。
 基本は、A駅から歩き始め、B駅で終了するワンウェイになっています。
 
 京都の場合、駅から30分も歩けば、必ずと言ってよいほど由緒ある古社寺があるものですが、この企画ではそういった場所にこだわらず、ビビットな京都の街の姿を紹介できればと思っています。

 では、さっそく第1回の旅に出掛けてみましょう。


 京阪・祇園四条駅からスタート 

 京阪電鉄・祇園四条駅は、2008年までは「四条」駅と呼んでいました。京阪電鉄の京都市内の各駅が「神宮丸太町」「清水五条」などというふうに改称されたもののひとつです。
 駅名の通り、駅は四条通との交点にあり、駅の東方は花街・祇園のエリアです。

 駅は、四条大橋東詰の地下にあります。

 京阪四条駅
  京阪・祇園四条駅

 背後のビルが早くも気になりますが(笑)、スタートする前に今回のコースを紹介しておきましょう。

 四条ー三条ルート
 青線がコース。下の●が祇園四条駅、上の●が三条駅
 (明治44年=1911年刊行の地図による)

 祇園四条駅をスタートし、四条大橋を渡り、高瀬川沿いの木屋町を北上します。終点は京阪・三条駅です。距離は、約1km。ふらっと見て歩いても、1時間のコースです。

 では、スタートしましょう!

 まず、おすすめは、四条大橋でゆっくりと時間を取ること。
 北側の歩道から、上流を眺めてみましょう。

 鴨川

 遠くに北山の山並みが望めます。
 京都は、北と東西を山に囲まれた盆地です。

 そこを北から南に流れる鴨川は、大阪の淀川や東京の隅田川などに比べると川幅も狭いのですが、堤が散策路のようになっていて、川に近付くことができるのです。
 まず、四条大橋の南側に下りてみましょう!

 四条大橋

 四条大橋の左にそびえる建物は、東華菜館(トウカサイカン)です。名前の通り、老舗の中国料理店。
 大正15年(1926)に建てられた近代建築で、当初は矢尾政(やおまさ)というレストランでした。戦後、東華菜館となりました。
 国の登録文化財になっており、設計はW.M.ヴォーリズです。
 
 東華菜館
  東華菜館 左は料亭ちもと

 空に突き出す塔屋が印象的ですが、全体がベージュっぽい色合いで、多彩な装飾を施したスパニッシュな建物です。
 正面玄関に付けられたテラコッタ(陶板)の飾りも見どころです。

 東華菜館 東華菜館玄関細部

 内部も、開業当初のエレベーターがあったりと興味が尽きません。ここで食事して、1時間の小旅行を終えるのも一興かも?


 景観が変わる四条大橋 

 東華菜館の正面が見えるのは、四条大橋西詰。交番の前ですね。
 交番の脇を下に降りる階段がありますので、そこから再び鴨川の堤防に下りてみましょう。

 南座と菊水ビル

 すると、四条大橋越しに2つの建物が見えてきます。
 左がレストラン菊水、右が南座です。

 菊水も、大正15年(1926)に西洋レストランとして開業しました。
 こちらもベージュ色の建物ですが、塔屋が表現派のようで目立ちますね。
 南座は、少し遅れて昭和4年(1929)の開業。いずれも登録文化財です。

  レストラン菊水
   レストラン菊水

 このように、昭和初期、四条大橋の両側には立派な西洋建築がそびえることになりました。おだやかに東山を望む景色は一変したことでしょう。

 大正初期の四条大橋
  大正初期の四条大橋(『新撰京都名勝誌』より)

 これは、大正初期の四条大橋の風景です。西から東を見ています。
 奥の右端に南座がありますが、余り大きな建物は建っていません。
 ちなみに、四条大橋は大正2年(1913)に架け替えられていました。

 昭和初期の四条大橋
  昭和初期の四条大橋(『京都名勝誌』より)

 ほぼ同じ位置から撮影しています。
 中央に、大きく菊水が写っており、景観の変化がうかがえます。おそらく、菊水側から見ると、矢尾政(東華菜館)がドーンとそびえ立っていたことでしょう。

 なお、四条大橋の下(西側堤防)には「四条大橋の歴史」という案内板があり、古い写真も掲出されているので、あわせて見てみると楽しめます。


 木屋町を上がる

 スタート地点の四条大橋のまわりだけでも、かなり時間を食いそうです(笑)
 実は、もうひとつ興味深い点があるのですが、それは改めて取り上げるとして、歩を先に進めましょう。

 四条ー三条ルート

 四条大橋を西へ進むと、最初の信号が高瀬川との交点です。架かっている橋は、四条小橋と言います。
 上の地図を見ると、高瀬川の脇に赤い線が引いてあるでしょう。これは、市電の線路を示しています。

 現在の私たちからすると、“あの狭い木屋町通に路面電車が走っていたの ! ? ” と思いますが、そうなのです。
 当時、河原町通は、今のように拡幅されておらず、木屋町(きやまち)がメインでした。市電は、二条通以北は寺町通を、それ以南は木屋町通を走っていたのです。

 木屋町通
  木屋町通

 この幅でも、市電が走っていたの! と驚きますが、昔の広かった高瀬川を埋めて拡幅して、ようやくこの幅員になったのです。

 いま(2017年1月)、木屋町を歩くと、高瀬川の工事が行われています。年度末には終わるかな?

 高瀬川
  高瀬川

 この通りは、高瀬川沿いであるだけに、片側町の様相を呈しています。
 材木商が多かったことに由来するという、そんな町の名を持つ木屋町。高瀬舟による水運で賑わった木屋町。

 しかし今は、京都を代表する花街のひとつ、先斗町と背中合わせであるだけに、京都きっての飲み屋街であり、あえて古い表現で言えば、雑居ビルの立ち並ぶスナック街のようなところです。
 昼間、改めてこの街を眺めてみると、小さなビルが林立していることに驚きます。

 こう書くと「京都らしくない」と思われるかも知れません。
 たしかに、京都らしくない(笑) でも、それがかえって京都らしい気もする、そんな木屋町。

 どんな顔があることやら、次回はその辺を探ってみましょう。


 (この項、つづく)




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年


2年ぶり、たくさん雪が積もった1月15日

その他




雪の日


 2015年1月以来の10cm超え

 この1月15日(2017年)、日曜日の朝でしたが、京都市内はかなり積雪しました。

 雪の路地
  路地にはかなりの雪が…(2017年1月15日午後撮影)

 前日の土曜日、私は仕事だったのですが、昼間うっすらと積雪し、夜になって降雪が強くなってきました。
 日曜日の朝、あたりは銀世界になりました。

 その日、全国にテレビ中継された女子駅伝は、放送事故 ? ! と思われるほど、画面が真っ白になる--それほど激しく降りましたね。

 気象台の観測値では、京都市内で14cmの積雪が観測されたそうです。
 京都地方気象台は中京区西ノ京にあります。私のところはそれより北にあるのですが、積もった雪を測ってみると約10cmでした。
 気象台の方が、きっちりと積もって? 観測できるのでしょうか。

 気象観測では、1日あたりの「降雪の深さ」というデータを出しています。
 「積雪」というと、累積して積もった高さになりますが、降雪はまさに降った量です。

 京都地方気象台ウェブサイトで、京都市の「降雪の深さ 日合計」というのを見てみます。
 昭和28年(1953)年1月から観測されています。

 それによると、今回の14cmという値は、7位タイということになり、それなりの大雪だったようです。

 雪の街路
   街路も白くなる

 もっとも、一昨年(2015年)の元旦と1月2日は、久々にドカーンと雪が降り、元日が16cm、2日が17cmでした。これは、観測史上、3位と2位の数値です。

 ちなみに、1位は昭和29年(1954)1月26日の32cm! ということです。


 降雪の深さベストテン 

 1日で降った降雪の観測値ベストテンを改めて掲出してみます。

 1位  32cm  1954年1月26日
 2位  17cm  2015年1月2日
 3位  16cm  2015年1月1日、1993年2月2日
 5位  15cm  1962年1月23日、1957年3月15日
 7位  14cm  2017年1月15日、1997年1月22日、
          1994年2月12日、1984年1月29日 


 私の印象では、子供の頃や高校時代は、現在より雪が降った印象が強いのです。1970年代から80年代ですが、記録的にはあまり積もっていないようなのです。まぁ、気象台の場所と私の育った北区は若干積もり方も違うから、違和感もあるのでしょうか。

 ちなみに、私自身の記録でここ数年を振り返ってみると……

 2014年は、1月19日に3cmほど積り、この日は大阪でも積雪があったようです(珍しいです)。しかし、その後はあまり積もらず、2月に2度ほど積雪し、そのうち1度は4cmほど積もっています。
 2015年は、元日から記録的な降雪で、午前中10cm位のものが、夜には15cmほどまで積もりました。翌日、一旦解け始めた雪ですが、夜からまた降り出し、3日の朝も15cmほどの積雪でした。ただ、このあとは1月、2月とうっすら積もる日が数日あった程度でした。しかし、3月24日という遅い時期にも少し積もったようです。
 2016年は、1月20日に4cmほど。そのあとは1月下旬と3月1日に少しだけ積もりました。

 これは、私の手控えの記録なので、間違いもあるかも知れません。
 公式な観測値は、京都地方気象台のウェブサイトをご覧ください。

 それにしても、このようにみると、うっすらと路面や屋根に積もることは毎年ありますが、10cm以上になるのは稀なようです。
 そういう意味で、今回の降雪は “大雪” と言ってよい降りだったようです。

 雪のお地蔵さん
   お地蔵さんにも雪が積もる

 ちなみに、寒さの話については、以前このブログでもまとめましたので、ご参照ください。

 記事は、こちら! ⇒ <京の“底冷え”も、今は昔?>




2017年を「論壇」をめぐる言説から占うと……

その他




  中央公論  『中央公論』2017年1月号


 論壇から140文字の時代へ?

 2017年がスタートしました。
 本年も、よろしくお願い申し上げます。

 年末年始、少し充電しながら、年越しと迎春という時期のせいか、日本の、そして世界の来し方行く末について思いを巡らせました。
 そう言うと、ちょっと大袈裟ですが、変化が激しい世界情勢などを見ていると、どうしてもそんな気分になってきます。

 年明けの報道で話題になっているのは、やはりトランプ次期大統領。
 トヨタのメキシコ工場建設を批判したり、名女優メリル・ストリープに反論したりと、喧しい。その発信に彼が使っているのが、ツイッター。つぶやくや否や、世界中にその言葉が拡がります。
 トランプ氏は記者会見をせず、140字の一方的な発信しかしないという点が、政界やジャーナリズムからも批判されるようになってきました(ついに先日会見したようですが)。“140字の世界” は、まさに今日的な問題と言えるでしょう。

 雑誌『中央公論』1月号は、「論壇の岐路」という特集を組んでいます。
 明治20年(1887)、京都・西本願寺系の学生が発行した『反省会雑誌』から出発した『中央公論』は、戦前から日本を代表する総合雑誌で、今年130周年を迎えます。現存する国内の雑誌としては最長寿だそうです(同誌による)が、ルーツは京都にあったわけですね。
 言論界をリードしてきた老舗雑誌です。

 今号の特集は「論壇の岐路」ですが、論壇という言葉自体、あまり耳にしなくなったので、一応辞書の定義を確認しておきましょう。

 論壇(ろんだん)
 1 議論をたたかわせるために設けられた壇。論争の場所。演壇。
 2 言論界。 (『辞林21』三省堂)


 1の意味は、具体的な場所を指しており、それが転じて2になったのでしょう。
 いずれにせよ、議論をたたかわせる場が論壇ということで、論文等が掲載される雑誌も論壇になるわけです。

 特集は、山崎正和氏の寄稿「『論壇』の危機と回復への曙光」にはじまり、松岡正剛氏と佐藤優氏の対談、宇野重規・湯浅誠・渡辺靖の3氏の鼎談、そして15人の言論人からの提言などから構成されています。


 タコツボ化! 

 「言論人からの15の提言」は、いろいろな見解が披露されていて面白く読めました。
 そのなかで、複数の方が使っている言葉もあって、そのひとつが「タコツボ化」。

 批評家の東浩紀氏は、1990年代までは「論壇は元気だったように思う」と述べた後で、次のように指摘しています。

 しかし、論壇誌のいくつかは休刊となり、かつての活気はなくなってしまった。それはなぜか?
 原因は、保守に対抗するリベラルの軸がなくなったことに尽きる。2000年代に入ると、かつて活発だったリベラルの研究者、作家がそれぞれの現場に撤退し、タコツボ化してしまった。その結果、リベラルは全体を論じることができなくなり、部分しか語ることができなくなってしまった。(132ページ)


 対極の保守論壇が、差別的主張に走るなど問題を抱えながらも、「大きなヴィジョン、国家観を提示することに挑戦している」のに比べれば……、ということです。

 他方、現在のリベラル陣営は、それぞれの研究現場、たとえば労働問題や女性問題などの世界に引きこもってしまった。現場に寄り添うことで個々の声をよく拾えるようになったのは評価できる。しかし、政治はトレードオフで、ある人々を救済すれば、もう片方の人々は割りを食う。リベラルは、あらゆる弱者の声に寄り添おうとした結果、自己矛盾に陥ってしまった。一つの問題は語れても、大きなテーマを論じることができなくなってしまったのだ。(132-133ページ)

 これは、もう、専門家の世界の末端にいる私には、よく分かる指摘ですね。
 もともと、ほとんどの学者は自分の専門領域にしか関心がなく、そのため専門分化した学術雑誌にだけ投稿し、『中央公論』などの総合雑誌には寄稿しなかったわけです。ただ、一部の優れた学者たちは、東氏が言う「大きなヴィジョン、国家観」などにも関心を持って論壇に上がっていたのでした。
 近年、研究の細分化がますます進み、また研究者をめぐる環境も変化して、専門世界以外での発言をする必要性、モチベーションが感じられなくなってきたのでしょう。

 若手の国際政治学者・三浦瑠璃氏は、同じタコツボ化という言葉を別の文脈で使っています。

 最近の事例を見れば、トランプ大統領の誕生には、世界的な意味での論壇の危機という側面があったと思っています。同氏は米国において一定の民意を救い上げることに成功したけれど、それは、多様性の尊重や寛容の精神など、民主主義が築き上げてきたものを犠牲にするものでもありました。
 つまり、民主主義の機能不全に先立つものとして、責任ある市民同士の対話が成立していなかった。そのためにも、現代において論壇は、“社会の蛸壺化”に、特に抗う存在でなければならないのです。(157ページ)


 論壇のタコツボ化ではなく、「社会の蛸壺化」? ! 
 三浦氏は、なぜ社会が蛸壺化するかという点について、社会が成熟するにしたがって蛸壺化は進むものであるとしながら、現代社会において富が「専門知の集中」から生み出されることが蛸壺化を進めていると指摘しています。
 加えて、インターネットやSNSなどが対話のあり方を変えているせいだとも指摘します。

 平たく言えば、お金もうけをするとき、昔は工場で大勢の労働者を雇って機械を動かしていたけれど、現在では専門的な知識を高度に活用してビジネスをしなければならなくなった。つまり、カラダを使うよりアタマを使って金もうけするから、各人が知っていることのジャンルがバラバラになる。だから、共通理解ができなくなって、タコツボ化する、という理屈です。
 タコツボ化とは、それぞれの棲息領域が異なる、ということなのです。

 たとえば、私はコンピュータなどITに詳しくありませんが、それに詳しい人はたくさんいます。詳しい人は専門用語をいっぱい使って会話してきますから、私は全く理解できません。これがタコツボ化です。

 三浦氏は、このような社会状況を踏まえて、論壇やメディアは「蛸壺化に抗う存在」であるべきだと述べています。


 ポピュリズム?

 経済学者の猪木武徳氏は、違った表現でこの状況を述べています。

 少し専門的な論考になると、難しい、面白くない、という理由で歓迎されない。誰にでもすぐわかる短いものが求められる。しかし複雑な人間と社会をめぐる議論は、簡単に結論の出る「面白いもの」ばかりではないはずだ。で、結論は何ですか、と問いたがる読者の性急さにも、自分で答えを探ろうという粘り強さの欠如を感じる。
 批判精神が薄弱になり、党派性も強くなり、意見の違いを認めたうえで自由に議論をしようという寛容さがなくなった。異論・反論のないところに進歩はない。(136ページ) 


 先ほどの流れに引き付けて言えば、世の中がタコツボ化したため、自分が知らないジャンル、事象が多くなった。そのため「ムズカシイ」と感じる事柄も増えてきて、それをスルーする(無視する)ようになった、ということでしょうか。
 もちろん、昔から『中央公論』や『世界』や『文藝春秋』を読んで、粘り強く自分で答えを求めようとした人は、そう多くはなかったでしょう。でも、いまはさらにその数が減ったということかも知れません。

 また、猪木氏は、トランプ現象などを念頭に置きつつ、「安っぽい率直さが、理念を語ることを無力化してしまった」という危惧を述べています。至言です。

 140文字の率直な言葉が、ストレートに人々の言葉に染み込んでいく。それに慣れると、長い言葉を用いて、論理的に考えることをしなくなります。
 新聞や雑誌も、いわば飯を食うために、読者に好まれる記事を掲載する必要があります。猪木氏は、そうなると「公論(public opinion)としての議論や専門性」を避けて「読者の感情(popular sentiment)」に流れる傾向が生じる、と言います。

 ポピュリズムと言われる現代社会の難しい問題でしょうか。

 そもそも、論壇が成立するためには、「知識人と大衆」という図式が必要だと、社会学者・宮台真司氏は指摘します。
 「エネルギーはあるが方向性を知らない」大衆と、「規模は小さくエネルギーはないが方向性を知る」知識人が、一体化すれば社会全体が動く、という構図。知識人が論壇で意見を述べ、大衆をリードしていくわけです。
 しかし、宮台氏の見方では、この図式は1960年の安保闘争と1970年直前の学園闘争で崩れてしまったと言います。
 つまり、「知識人が当てにされなくなった」ということです。

 そして、現代では「感情的動員が巧みであれば、嘘八百でも道義的に不正でも人々を動員できるポピュリズム政治が常態化」したと指摘します(161ページ)。

 15人の論者の意見を読んでいると、日本の言論をめぐる難しい問題が浮き彫りになってきます。
 どうしてこんな状況になったのか、いろいろと思いはめぐりますが、長くなってきたので、それはまたいずれ。




 書 名  『世界』
 刊行者  中央公論新社