11 | 2016/12 | 01
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

2016年の京都を振り返って - 私的感想など -

その他




建設工事


 大きなニュースがなかった、京都この1年

 2016年も年の瀬になりました。
 年々、年末感は薄れて来て、ふつうに仕事をしたまま、気が付けば年があらたまるという雰囲気でしょうか。

 京都新聞では、毎年1年間の10大ニュースを選んでいます。
 今年の第1位は、なんと「文化庁、京都に移転へ」。

 なんというのか、紋切り型で言うと “これが「京都のニュース」になるのが情けない” というやつでしょうか。世人の言う、何事にも醒めていて冷ややかな眼差しをそそぐ京都人なるものにとっては、<国の役所が1つ来たところで、何ということもない>という話になるのでしょう。

  文化庁移転看板

 ちなみに、昨年の第1位は「悲願34年、京都縦貫道全通」でした。なんだかローカルな話題だなぁ、と思ったけれど、文化庁移転よりはいいかも知れない。京都市ではなく、京都府という観点からいったら大きな事業の完成と言えるでしょうから。

 そして、縦貫道的な意味で、今年の第2位に入ったのが「北陸新幹線、小浜ー京都ルート決定」。
 京都府が推していた舞鶴ルートにならなかったのは残念な人もいるでしょうが、穏当な判断でした。
 もちろん、早くも、小浜-京都-新大阪という延伸自体も不要なんじゃないの? という声が出て来ました。ルート決定はしたけれど、今後も予断を許さないですね。


 変わりつつある街の印象 

 日頃、京都の街を歩いていて感じることは、ビルの改築が増えてきたなぁ、という印象です。
 河原町などは、表通りも裏の方も、結構ビル建設が盛んです。新京極をはじめ、各所でホテル建設も進んでいますね。

 昨年(2015年)、このブログでは、

  *中国人観光客の激増
  *消える鎮守の森
  *四条通の歩道拡幅
  *変る祇園祭 


 といった注目点をあげました。

 記事は、こちら! ⇒ <年末に、ちょっと振り返る 2015年の京都 - 極私的な感想など ->

 アジアを中心とする海外ツーリストの増加は、今年もとどまるところを知りません。この観光客増が、ホテル建設、ビル改築につながっているのでしょう。
 京都新聞の第4位も「京の外国人宿泊客300万人突破」です。市内観光客数も過去最高(5684万人)だったそうです。
 
 この傾向は、少なくとも2019年のラグビーW杯、2020年の東京五輪までは続くのでしょう。
 海外の方に京都の魅力が伝わることはうれしいこと。機を捉えれば、ビジネスチャンスにもなるでしょう。
 その一方で、すでに生じている問題や今後想定される懸念など、頭を悩ませることも少なくありません。

 素朴な感想なのですが、これだけ海外ツーリストが増えると分かっていたら、町並みをもっときっちり保存しておけばよかった、という気もします。
 もちろん、暮らしている方、仕事をしている方にとっては、住まいや仕事場を改築せざるを得ない場合もあるでしょう。昔から言われるように、生きた街なのですから “凍結保存” するわけにもいきません。
 それでも、戦後の高度成長期、そしてバブルの時期と、京都中心部の町並みは大きく変貌しました。

 ところが、それは中京・下京区の一部で、少し周囲に行くと、落着いた住宅地が続いているのが感じられます。

 その代表が、西陣です。
 西陣は、かつて京都第一の産業であった西陣織の産地として、殷盛を極めました。しかし、戦後はきもの離れの影響もあって、織屋さんなど諸業の衰えが進んできました。
 そのため、木造を含む町家が数多く残されました。もちろん、“文化財級” と言い得る江戸・明治の建物は稀ですが、新しいものであっても狭い街路の両側に低い二階屋が続く街並みは、心を落ち着かせる魅力があります。

 西陣の町並み

 西陣のエリアは、ざっくり言うと、上京区の西半分と捉えてもらえばよいと思います。範囲も、2~3km四方と程よいスケールです。

 2017年は、この西陣がリボーンするのではないでしょうか?

 私の考える京都は、

  古いけれど、新しい。
  狭いけれど、広い。
  ローカルだけれど、インターナショナル。 


 というものです。

<伝統>とは、古いものを墨守することではなく、絶えず変わりつづける営みです。
 2017年は、西陣がブレイクしそうな…… 1年になるでしょうか。


  旧西陣電話局



スポンサーサイト

鴨長明が隠棲した方丈の庵とは





方丈の庵


 復元された鴨長明の草庵

 下鴨神社を訪れる人が、最近増えているように思います。
 特に、海外の方が多いですね。

 下鴨神社
  下鴨神社

 ほとんどの参拝者は、南側(出町柳駅方面)から来られます。そのため、まず摂社の河合神社にお詣りされることが多いようです。
 河合神社は、下鴨神社の第一摂社で、玉依姫命が祭神となっています。そのため、近年では美人祈願のようなフレーズがそこここに見られますね。

 河合神社
  河合神社

 ここに、少し変わった建物が復元されています。

 方丈の庵

 柴垣をめぐらした苫屋。
 誰が住んだのかと思いますが、これが有名な「方丈記」の舞台。つまり、鴨長明が住んだ庵なのです。

 京の南郊・日野(法界寺のある辺り)の山に隠棲した長明。
 春は藤の花、夏はほととぎす、秋はひぐらし、冬は雪、といった自然に囲まれた山の暮らし。山守りの子供と山菜や木の実を拾って楽しむ日々。優雅とも言える隠遁生活です。

 長明の庵がなぜここに復元されているかというと、彼の父親が下鴨神社の禰宜(ねぎ。神官)だったからです。長明は、その次男で、うまくいけばここの神官になっていた人でした。宮中とのつながりもあって、幼くして従五位下を叙され、順風満帆の人生を歩むかと思いきや、早くに父を亡くし、横やりが入って神社への就職は立ち消えに。20歳台から不遇の人生を送ることになりました。

 長明の人生すごろくは、下鴨神社の社家の息子というエリートとして生まれ、和歌や音楽など教養も身に着けたが、ふとしたことから人生の道を転げ落ち、最後は郊外の草庵に隠れ住んで、60余年の生涯を閉じた、というわけなのです。そんな彼だからこそ、無常を感じて「方丈記」を残したのでしょうか。


 庵の内部

 方丈の庵

 「方丈記」には、彼が住む庵の様子についても、詳しく記されています。

 いま、日野山の奥に、跡をかくしてのち、東に三尺余りの庇[ひさし]をさして、柴折りくぶるよすがとす。
 南、竹の簀子[すのこ]を敷き、その西に閼伽棚[あかだな]をつくり、北によせて障子を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法華経をおけり。
 東のきはに蕨[わらび]のほどろを敷きて、夜の床とす。
 西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠[かわご]三合をおけり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。 


 「仮の庵」なんて言っているのですが、結構しっかりした設えですよね。
 上の写真は南側を撮ったものです。右手(東)に庇が伸びているのが分かるでしょう。

 東側に回って撮った写真がこちらです。

 方丈の庵内部

 舞良戸のような引き戸が開いており、内部がうかがえます。
 中央に炉が切ってあるようですが、これは「方丈記」には書いてありません。
 その向こうに衝立てが置いてあって、衝立ての右に経机があり、円座が置いてあります。壁には「絵像」が掛けてありますね。
 机の手前が(見えていませんが)寝るスペースでしょう。

 衝立ての左側は隠れて見えませんが、吊り棚があって書物が収納されており、そばには琴や琵琶が置いてあったはずです。

 短い文章なのですが、結構きっちりと自分の部屋の間取りを書いているので、容易に復元できます。
 方丈というと、1丈四方の部屋という意味ですから、約3m四方。現代風に言うと、四畳半一間というか、1Kというか、そんなイメージでしょうか。

 いずれにせよ、間取りとか山での過ごし方とか、ワイルドライフ? を詳しく述べていて、それなりに自己顕示欲が感じられ、無常観のある、枯れたおじいさんという雰囲気でもなさそうです(勝手な感想です)。
 「方丈記」を書いたとき、長明は50歳台後半だったそうで、当時としては老人なのですが、なんか持ってそうですね、この人は。無常観という “隠れ蓑” の下で何かがうごめいている感じがする……(すみません、イメージです)。
 
 それにしても、冬に見る方丈の庵は寒々として寂しいです。
 ここに独りで住むのは、現代人にはやはり無理かも知れません。




 鴨長明の復元方丈の庵 (河合神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町(下鴨神社境内)
 見学  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分

 【参考文献】
 西尾實校注『日本古典文学大系 方丈記 徒然草』岩波書店、1957年
 武田友宏編『方丈記(全)』角川ソフィア文庫、2007年



下鴨神社の糺の森から発掘された祭祀遺構





祭祀遺構復元


 下鴨神社と糺の森

 先日から何度か上賀茂神社(賀茂別雷神社)についてレポートしていますが、今回は下鴨神社です。

 下鴨神社の正式名称は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。
 「御祖(みおや)」という名の通り、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命のお母さんの玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、おじいさんの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の2座を祀っています。

 下鴨神社
  下鴨神社 楼門

 昔、下鴨神社に隣接する予備校に通っていたので、このあたりはちょくちょく散歩しました。当時に比べると、境内もよく整備されてきたと思います。
 下鴨神社が鎮座する場所は、賀茂川と高野川の合流点の北側で、緑豊かな糺の森(ただすのもり)の中にあります。
 京阪電車の出町柳駅から参拝すると、糺の森の中の参道を歩いて行くことになります。

 糺の森
  糺の森

 参道を歩いていると、奈良の小川、瀬見の小川、泉川といった流れが目に入ります。
 下鴨神社は水にゆかりの深い神社ですね。本殿の東方には、御手洗祭で知られる井上社(御手洗社)もあります。

 井上社
  井上社(御手洗社)


 復元された石敷遺構

 そんな糺の森の参道脇に、このようなナゾの空間があります。

 祭祀遺構復元

 なんとなく石をばらまいたようなスペースです。
 参道の東側にあります。

 実は、ここ、古代から続いた祭祀遺構を復元したものなのです。
 糺の森の整備を進める中で、境内の何か所もの地点で発掘調査が行われました。
 そのうち、地面に石を敷き詰めた遺構が発掘されたのです。

 祭祀遺構復元

 写真の上が北です。
 上端に、かつては奈良の小川が流れていました。奥の方は見えづらいのですが、その川べりに、水に関する祭祀を行う場所(祭壇)が設けられていたのです。すでに平安時代後期にはあったようです。
 また、写真下方の石敷きは、そのそばを流れていた泉川に面した祭祀の場であったと考えられます。
 
 いずれも、川原石を敷き詰めて儀式の場所にしています。
 写真上方左あたりでは、穴を掘って石を詰めたような祭祀遺構も多数見つかっています。石を立てて置いた遺構も出ています。 

 報告書では、次のようにまとめています。

 古代より無社殿神と呼ばれる、社殿を持たない自然神をまつる水辺の祭場が、糺ノ森の中に点在している。今日でも、方形の清浄地の四隅に御幣を立てたり、灯明をあげるなどして四隅の神々を祀り、その中央に神降ろしのためのイワクラ(穴を掘り、その中に小石を詰め込む)をつくり、お供えをしてお祀りをしている。現在まで続くこれらの祭祀の様子を今回の遺構のあり方は、よく示していると考えられる。(「史跡賀茂御祖神社境内」) 

 泉川
  現在の泉川


 舩島の遺構

 石敷遺構の北には、舩島という祭祀の場がありました。
 こちらも調査され、整備が行われました。

 舩島

 少し丘のように高まった船の形をした小島です。

 舩島平面図
  舩島平面図(案内板より)

 丘の下に祭祀で用いられた井戸も復元されています。
 古記録によると、この井戸を用いて雨乞いの祭祀が行われていたことが分かると言います。

 神社と言えば社殿=建物があるイメージも強いのですが、それとは異なる祭祀の形が見られます。
 参道脇の目立たない場所ですが、足を運んでみる価値はありそうですね。




 下鴨神社(賀茂御祖神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報「史跡賀茂御祖神社境内」同所、2004年
 『糺の森整備報告書』賀茂御祖神社、2010年


「おことば」から読み解く天皇陛下のこころ - 退位をめぐる議論を理解する一助として・その2 -

京都本




  天皇陛下の本心 山本雅人『天皇陛下の本心』新潮新書


 「おことば」とは

 天皇陛下の退位を考える有識者会議も、年内(2016年)の会合は終了。いま、ちらほら上がって来た声が、天皇誕生日にどんな「おことば」があるのか、という関心です。

 この「おことば」というもの、ちょっと変わった言い方という気がします。
 振り返ってみると、明治憲法のもとでは、天皇のことばは「勅語」(ちょくご)と呼ばれていました。戦後、新憲法になって、この勅語が「おことば」に取って代わったのです。

 「デジタル大辞泉」は、「御言葉」について、

 勅語に代わる用語。
 国会開会の勅語が「お言葉」となったのは、昭和28年(1953)5月の第16回国会から。「おことば」と仮名書きになったのは昭和35年(1960)10月の第36回国会から。


 とまとめています。
 昭和天皇の時代から、すでにおことばという表現になっていたわけです。

 大辞泉では国会開会のおことばについて説明していますが、一般には、式典や記者会見など公の場でなされる発言をおことばと称しているようです。


 天皇陛下の「おことば」を読む

 今上天皇の「おことば」を丹念に読み解いた本が、山本雅人氏の『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』(新潮新書)です。

 山本氏は、前回紹介した『天皇陛下の全仕事』(講談社学術文庫)の著者で、宮内庁記者も務めた新聞記者です。

 『天皇陛下の本心』は、副題にあるように、約25万字分にのぼる「おことば」を通覧し、12章にわたってテーマごとにまとめたものです。

 山本氏によると、天皇陛下が築いてきた象徴天皇像は、2つの側面から捉えられると言います。

 ひとつは、ご行為。
 これは、「さまざまな公務や出席の行事、それらにおける陛下のご行動そのもの」ということです。
 
 いまひとつが、おことばです。
 「行為の前提となる陛下の考え方を示す」ものと言えます。

 このおことばを読むと、「陛下の人となりがかなり分かる」と、氏は述べます。
 
 しかし実はさまざまな事象について、ときに驚くほど率直に、ときにドキッとするほど鋭く、そしてある時は胸を打つようなおことばを述べられている。そこから、陛下のご本心も、「平成」の本質もつかむことができる。(6ページ)
 
 このような意図をもって、陛下のおことばが読み解かれます。


 率直なことば

 みなさんも経験があると思いますが、自分の考えを他人に伝える際、相手の気分を害しないようしながら、ズバリと本質を伝えることは、たいへん難しいことです。
 会議などでも、まわりに気を遣いつつ、自分の意見を述べることは、なかなか難題です。

 天皇陛下ともなると、ひとつひとつの発言がマスコミで報道され、全国民に知らされるということで、発言に際しては相当な配慮と熟考がなされていることでしょう。
 けれども、本書を読むと、天皇陛下が意外に率直に語られていることに気付きます。

 例えば、琵琶湖の外来魚に懸念を示した発言です。

 外来魚やカワウの異常繁殖などにより、琵琶湖の漁獲量は大きく減ってきています。外来魚の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています。(平成19(2007)年11月11日、「全国豊かな海づくり大会」での「おことば」)

 三大行幸のひとつ、全国豊かな海づくり大会でのおことばです。
 琵琶湖では、ブラックバスやブルーギルなど外来魚の増加が深刻な問題です。そのうち、ブルーギルを日本に初めて持ち込んだのが陛下自身であったことを述懐されています。
 天皇陛下の責任というわけではないと思いますが、そのことに心痛を覚えるという発言です。
 あえて言う必要もないと思われるのですが、それを述べられるところに率直な人柄が表れていると感じられます。


 仕事の工夫

 さまざまな行事の内容についても、平成流で変更が加えられています。
 例えば、お茶会の持ち方です。

 学士院賞や芸術院賞受賞者を招いての茶会なども、皇后とともに関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者・新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。(平成21(2009)年4月8日、ご結婚50年会見)

 さまざまな催しで、出席した方みんなと話をできるように腐心されているそうです。
 この場合も、昭和天皇の時代は長テーブルに座る形式であったため、端に座った人たちは話づらい配席でした。
 陛下は、いくつかの丸テーブルに数名ずつが座る形に変え、両陛下がテーブルを回って、みんなと言葉を交わせるようなレイアウトに変更されたと言います。

 ひとつひとつの仕事をゆるがせにされない姿勢が、よく表れている例だと思います。


 災害と戦争と
 
 16年前までは、1年を除き毎年100人以上の死者が自然災害によって起こりました。近年の自然災害による死者の減少は、長年にわたり治山治水に携わった人々、気象情報を正確に早く伝えようとしている人々などさまざまな関係者の努力の結果であり、心強く思っております。(平成14(2002)年12月19日、69歳のお誕生日会見)

 山本氏は、短い期間で交代する首相などの政治家と異なり、長いスパンで国内の出来事を見ている点に天皇陛下ならではの特質をみています。

 地域的にも、都市部など特定の地域に偏らず、離島も含めた国内の隅々まで広い関心を示されています。

 戦争については、絶えることなく考えておられる問題です。

 私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は、非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。第1次世界大戦のヴェルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。(平成21(2009)年11月6日、ご即位20年会見)

 自身は小学校6年生の時に終戦を迎えられましたが、父である昭和天皇の戦争への対峙の仕方も常に意識されているようです。

 このような戦争への発言は、本書刊行後の戦後70年に至るまで、なお強まっているように思えます。
 2015年8月15日の全国戦没者追悼式のおことばで、「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と、「深い反省」と述べられたことは陛下自身の省察を物語っているのでしょう。

 戦争で苦労した人たちを等しく見詰めていこうという姿勢にも、強いものがあります。
 皇太子時代に、こんな発言をされています。

 私なんかどうしても腑に落ちないのは、広島の時はテレビ中継がありますね(筆者補足・原爆が投下された日に現地で行われる平和記念式典)。それに合わせて黙禱するわけですが、長崎は中継ないんですね。やはり同じような被害を受けたわけだから、当然同じに扱われるべきものなんじゃないかと思うんですけれども。それから沖縄戦も県では慰霊祭を行っていますが、それの実況中継はありませんね。(中略)どういうわけですかね。(昭和56(1981)8月7日、夏の定例会見)

 皇太子時代とは言え、かなり踏み込んだ表明のように思えます。
 なかなかこういう点は意識しづらいし、発言する人も少ないのではないでしょうか。


 国民との信頼関係

 侍従を務められた渡邉允(まこと)氏も述べられていましたが、天皇陛下は皇室と国民との信頼関係の醸成に意を注いで来られました。折に触れ、記者の質問に対してそのことを語っておられます。

 私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は国民と苦楽をともにすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが皇室のあり方として望ましいということであり、また、このあり方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。(平成17(2005)年12月19日、72歳のお誕生日会見)

 「このあり方が皇室の伝統」と言われているのは、明治、大正、昭和と、戦前の天皇の位置付けが特殊なものだった、という意味合いです。
 もちろん、このような「伝統」が、現代ともマッチすると考えておられるのでしょう。

 NHKが今上天皇即位20年に際して行った世論調査によると、皇室に対して親しみを感じている国民は62%です。
 また、即位から20年で、皇室との距離が近くなったと感じている国民が62%で、変らない、遠くなったと感じる人の36%を上回っています。
 そして、34%の国民が、距離を縮めるためには、天皇自身の考えや思いをもっと積極的に伝えるべきだ、と回答しています。
 これは想像ですが、天皇陛下はこのような調査結果も十分に踏まえ、ご自身のことばを述べておられるのではないでしょうか。

 天皇陛下のおことばは、書籍としても刊行されていますし、宮内庁のウェブサイトでも読むことができます。
 『天皇陛下の本心』は、その膨大な発言を読み込んで、分かりやすく示した本として、得難い案内書となるでしょう。
 最終章「次世代への継承」には、公務軽減や「定年制」など、今回の「生前退位」に関連する発言も収録されています。




 書 名 『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』
 著 者  山本雅人
 刊行者  新潮社(新潮新書595)
 刊行年  2014年



 【参考文献】
 加藤元宣「平成の皇室観」(「放送研究と調査」2010年2月号所収、NHK放送文化研究所)


天皇陛下の日常を知る本 - 退位をめぐる議論を理解する一助として ー

京都本




  天皇陛下の全仕事 山本雅人『天皇陛下の全仕事』講談社現代新書


 2016年の大きな論題のひとつ「生前退位」 

 今年も、あと僅か。
 さまざまなニュースが駆け巡った1年でした。

 海外では、米・トランプ新大統領の誕生、英国のEU離脱、韓国・朴大統領弾劾、国内でも、熊本地震、舛添→小池の東京都問題、自公参院選勝利、オバマ大統領広島訪問、スポーツでは、リオ五輪、カープ優勝、そして、SMAP解散からピコ太郎まで。内外とも盛りだくさんでした。

 そんな中で、私が重く受け止めたのが、天皇陛下の「退位」の意向表明です。
 退位の意向を受けて、政府で有識者会議が設置されました。今日(12月14日)、年内最後の会合が開かれて、恒久的な制度で退位を定めるのではなく、特例として検討していくという方向性が見えて来たようです。

 この有識者会議の正式名称は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」と言います。
 天皇陛下は高齢ですが、公務が多すぎて負担が大きいから、それを軽くするためにどういう方法を取るのか、ということです。

 私は、この7月、天皇陛下の「生前退位」(聞き慣れない、かつ生々しい言葉で「譲位」ではだめなのかなと思いました)がスクープ報道され、それに続いて8月8日にご自身のビデオメッセージ(「お気持ち」)がテレビ中継されました。私も、リアルタイムで見ました。
 そこで語られたメッセージの内容には、うなずける面も多いなと思いました。やはり、天皇の職務を自ら行ってきた人でなければ述べられないような内容であると感じました。

 それにしても、私はこれまで、天皇陛下の日常についてさしたる関心を抱いていませんでした。
 それで少し反省して、お盆前後に、4、5冊ですが今回の問題を考えるための本を読んでみたのでした。


 “全仕事” を通覧

 天皇陛下の公務について、真正面から扱った書物があります。
 山本雅人氏の『天皇陛下の全仕事』(講談社現代新書)です。

 山本氏は新聞記者で、宮内庁担当をしていたこともあります。
 2009年の刊行ですので、特に今回の問題をうけて著されたものではありません。
 新書ですが、360ページに及ぶ大著で、タイトル通り、23章にわたって天皇陛下の仕事を網羅的に紹介しています。類書のない労作です。

 ひと口に、天皇陛下の「仕事」といっても、その性質はそれぞれに異なります。
 本書では、その仕事を大きく3つに分類しています。

 1つめは、国事行為。これは憲法に定められた仕事で、首相の任命、国会の召集、栄典の授与など、13の行為があります。

 2つめが、公的行為。明文規定はありませんが、天皇の「象徴」という地位に基づき、公的な立場で行われるものです。外国訪問、地方訪問、一般参賀、歌会始、園遊会、宮中晩餐会などがあります。
 地方訪問のうち、毎年行われれる国民体育大会(国体)、全国植樹祭、豊かな海づくり大会は、三大行幸啓と称されるそうです。

 3つめは、その他の行為(私的行為)です。この中でも、やや公的性格がある福祉施設訪問などと、まったく私的な宮中祭祀や、コンサート、展覧会、大相撲などの鑑賞、観戦、専門のハゼの研究、趣味のテニスなどが、これに当たります。
 私的な行為の中で、最も天皇らしいものが宮中祭祀(皇室祭祀)でしょう。
 正月の歳旦祭(1月1日)から始まって、昭和天皇祭(1月7日)、春季皇霊祭(春分の日)、神武天皇祭(4月3日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、新嘗祭(11月23日)など、たくさんの祭祀が執行されます。

 これらのうち、国事行為は定められているものですから、激増激減しないものでしょうけれど、そのボリュームはかなりあるようです。
 例えば、毎週火曜と金曜には、書類の決裁を行っているそうです。署名したり押印したりするわけですが、内閣からの上奏書類を数えると年間1,000件以上に上ると言います。
 山本氏がまとめた天皇陛下の仕事の「性質別の内訳」を見ても、最も多いのは「人と会う」53%ですが、次に多いのが「事務処理」14%なのです。別の分け方である「行事別の内訳」でも、「執務」14%がトップとなっています。
 ちなみに「(外国賓客など)会見・引見」は7%、「祭祀」は5%、報道等で目立って見える「記念式典」などは僅か3%に過ぎません。意外な事実と言えるでしょう。

 “負担軽減” という意味で問題となるのが、公的行為です。これは何をやるかやらないかという定めがないので、増やそうと思えば増えていきます。つまり、負担増になるわけです。
 陛下は、地震などの際に被災地訪問を積極的に行われています。これは公的行為に当たるもので、憲法に定められた国事行為ではありません。まさに、お気持ちから発する「平成流」の仕事なのです。
 また、太平洋戦争の激戦地(沖縄、サイパンなど)への追悼・慰霊の訪問も、ここに分類されます。昨年(2015年)のパラオやペリリューへの旅もこれに当たります。

 『天皇陛下の全仕事』には、細々としたルーティーン的な仕事や毎年行われる催しから、外国訪問のような大きな行事まで、委細漏らさず記しています。
 天皇陛下の負担軽減を考える際、基本的文献となる良書と言えるでしょう。


 側近のみた天皇陛下

  天皇家の執事 渡邉允『天皇家の執事』文春文庫

 併せて読むと理解が深まる本が、渡邉允(まこと)氏の『天皇家の執事 侍従長の十年半』(文春文庫)です。
 渡邉氏は、1996年から10年半にわたり侍従長を務めて来た方です。

 本書も、陛下の仕事を種類別に分けて章ごとに語っています。

 印象的なのは、第6章のタイトル「人々に「心を寄せる」ということ」です。
 ここでは、福祉施設への訪問や災害のお見舞いなどについて取り上げ、天皇皇后両陛下の思いに触れています。
 天皇の最も重要な仕事のひとつに祭祀があり、それは「祈り」という行為です。一方、直に国民と触れ合って、言葉を交わす部分に、この「心を寄せる」という態度があるのでしょう。
 皇太子時代、そして平成になってからも、積極的に進められてきた部分だと思います。これが公的行為を拡大されていると捉えることもできます。

 また、渡邉氏は、傍でつぶさに見詰めてきた方だけあって、さまざまな逸話が紹介されています。

 例えば、沖縄に関する陛下の思いを述べた章では、琉歌についての話が印象的です。
 琉歌とは、八・八・八・六調の沖縄の短歌です。昭和40年代に外間守善氏の進講を受け、昭和50年(1975)、初の沖縄訪問のあと、2首の琉歌を詠まれたそうです。
 自身で「おもろそうし」所載の1,200首の中から抜き書きを作り、琉歌を学ばれたと言います。
  
 沖縄海洋博(1976年)の際、次の琉歌を作られました。

  広がる畑立ちゆる城山肝のしのばらぬ戦世の事
 (フィルガユルハタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌクトゥ)

 このようなエピソードは、一般にはなかなか伝わって来ないものです。
 渡邉氏は、国民と天皇陛下(皇室)との間には、信頼関係が醸成されていると考えています。そして、それは国民のために尽すという陛下の思いに基づいた公務によって実現してきたと考えられているようです。
 
 公務軽減は、すでに渡邉氏の在任中から課題となっていました。しかし、その公務が国民との関係を支えているとすれば、容易に軽減するというわけにもいかない、ということなのでしょうか。


(この項、つづく)




 書 名 『天皇陛下の全仕事』
 著 者  山本雅人
 刊行者  講談社(講談社現代新書1977)
 刊行年  2009年

 書 名 『天皇家の執事 侍従長の十年半』
 著 者  渡邉允
 刊行者  文藝春秋(文春文庫)
 刊行年  原著 2009年(文庫版 2011年)


校正刷りと格闘する

その他




ゲラ


 話し言葉を校正する苦しみ

 テレビでは、そろそろ忠臣蔵ものをやり始めていますので、年の瀬もすぐですね。

 私は、先日まで、出版社の校閲部を舞台にしたドラマ「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」(日本テレビ)を見ていたせいか、ついに自分も “校正苦” に陥るはめになりました ! !

 今秋、勤務先の博物館で<講演+対談>の催しをやったのです。
 これは、学芸員が順番に登場し、専門のテーマを話した後、博物館長と対談するのですね。それが10回を過ぎたので、とりあえず本にして出版しようというわけなのです。

 自分が話した講演部分は、原稿を書くのですが、これもまぁまぁしんどいわけで……
 どういうふうに話したか、ちょっと忘れたところもあったりして。図表も要りますしね。

 一方、対談部分は、この前、校正刷り(いわゆる「ゲラ」)が上がってきました。
 当日録音したものをテープ起こしして、まず館長が見て朱を入れる(訂正する)のです。それが、こちらに回ってきた。

 ゲラ

 すでに結構訂正が入っていて、そこにまた自分の朱を入れていくーーとなると、もう訂正だらけです。

 なぜそうなるかというと、話し言葉を文字化しているからですね。
 語尾が「~なんですね」ばかりだったり、口癖の「ちょっと」が一杯入っていたり、切れ目のない長文が延々と続いていたり。そのままでは文章として見苦しいわけです。だから、訂正につぐ訂正になるのです。

 例えば、こんな感じ。

 実際に、よくはわからないんですね。誰かっていうことが。

 よくはわからないんですけれども、この道頓堀千日前ぶらぶら歩きっていうのは『演芸画報』という戦前の演劇雑誌、現在の演劇刊につながっていくような主要な芝居の雑誌の1つなんですけども、ここに掲載されているんですが、この道頓堀千日前以外に同じ年に、これ8月号に掲載されたものなんですが、9月号、次の月の号に文楽の半日っていう、文楽のことについて書いた記事がある。今日と同じような、こういうレポート系なんですね。こういうものがある。

 それから11月、同じ年の11月号に大坂○○ロショウという、ロショウというのは、竹本ロショウという女性の義太夫を語る、女義太夫の語り手なんですけれども非常に当時有名な人だったけれども、そういう大坂で聞くロショウというものを書いて、この3つを、いずれも明治44年ですが一気に来て見ているんじゃなくて、たぶん飛び飛びなんでしょうけど、何度か来てるんでしょうけど、それを実際に大坂で見てこの雑誌に寄稿してるということで、人物ではわからないんですが、非常に東京でもよくお芝居を見てるような人で、なんらかの関心でやはり大坂の芝居を見たいと思って、ここに、こちらにやってきたというような感じでしょうか。 


 いくらしゃべったままとはいえ、我ながらひどいですね(笑)
 誠にお見苦しい代物で、全然活字にできそうもない。

 なので、こういうふうに直していきます。

 実際に、誰かということはよくわからないんです。

 けれども、この「道頓堀千日前ぶらぶらある記」というのは『演芸画報』という戦前の演劇雑誌、現在の『演劇界』につながっていく主要な芝居の雑誌の1つなんですけれども、その明治44年8月号に掲載されているんです。この「道頓堀千日前ぶらぶらある記」以外に、同じ年の9月号に「文楽の半日」という、文楽について書いた記事があります。今日紹介させていただいたのと同じようなレポート系の文章なんです。

 それから、同じ年の11月号に「大阪で聴く呂昇」というものがのっています。呂昇というのは、豊竹呂昇という女義太夫の語り手なんですけれども、当時非常に有名な人だったんです。この3つは、いずれも明治44年ですが、一気に来て見ているんじゃなくて、たぶん飛び飛びに何度か来ているんでしょうけど、実際に大阪で見てこの雑誌に寄稿してるということです。どういう人物かわからないんですが、東京でも非常によくお芝居を見ている人のようで、なんらかの関心でやはり大阪の芝居を見たいと思って、こちらにやってきたという感じでしょうか。


 まだまだ手を入れた方がよい部分もありそうですが、一応こんな感じに直していきます。
 この朱を入れたテープ起こしを出版社に渡して、再度初校を直すのでしょうね。この “ゲラ地獄”、越年して続きそう。

 それでも、自分が話したことが活字になるのはうれしいものです。
 出来上がるのが楽しみです。



上賀茂神社の特別参拝で気付いた、ちょっとしたこと ー 神話について ー





ならの小川と石橋


 特別参拝でのご由緒の説明

 先日、上賀茂神社(賀茂別雷神社)に参拝した話の続きです。

 その日は、団体で特別参拝させていただきました。
 これは、ふだん参拝する中門よりさらに内側へ入らせていただき、本殿・権殿に近いところで参拝させていただけるものです。
 もっとも、本殿の前にある祝詞屋の手前から拝むので、本殿と権殿は下半分が垣間見えるくらいでした。

 参拝前、神社の方から15分くらいでしょうか、上賀茂神社についてのご説明があります。
 正式名称のことから、ご由緒、ご社殿などについての丁寧なお話です。

 そのなかで、おやっ、と思ったことがありました。
 それは、ご祭神に関する話でした。

 上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)です。神社の正式名にもなっていますね。
 この神さまのお母さんが、玉依日売命(たまよりひめのみこと)です(漢字はいろんな字の当て方があります)。

 ある日、玉依日売命が川で遊んでいると、丹塗り矢(にぬりや)が川上から流れて来た。
 それを持ち帰って、床に挿し置いておいたら、男の子を授かった。

 という誕生神話があります。


 山城国風土記の賀茂伝説

 簡単に言うと、寝所に流れて来た矢を置いといたら、男の子が生まれた、という話なのです。
 あるいは、端的に言うと、矢は男性の象徴で、そのおかげで子供が出来た、ということですね。

 この神話は、「山城国風土記」逸文に記されているものです。あとで、少し詳しくみます。

 参拝の説明で、おやっと思った点は、この部分。
 神官の方は、丹塗り矢は天から降って来たと説明され、さらにお父さんは天津神(あまつかみ)だとおっしゃっいました。

 部屋の長押の上には、川を流れて来る矢を受ける玉依日売命の絵も掲げられています。どういうことかなと思いました。
 参拝の際に頂戴したパンフレットをよく見てみました。ここにも、同じ絵が掲載されているのですが、説明文には「上流より天降りし丹塗矢が流れて来た」と書いてあります。
 なるほど。流れて来た矢は、天から降って来たのか、と。

 さらに、後段には、別雷神が「我が父は天津神なり」と言った、と記されています。

 ならの小川

 「山城国風土記」逸文は、次のようになっています。

 玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち(すなわち)取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。

 簡潔に、こう記されています。

 一方、自分の父の名を問われた別雷神が、それを答える場面は、こうです。

 人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、(中略)子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はん人に此(こ)の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、即て(やがて)酒杯を挙げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
 乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と号く(なづく)。謂はゆる丹塗矢は、乙訓(おとくに)の郡の社に坐(いま)せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。


 男児(のちの別雷神)が成人して、母方の祖父・賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)ら大勢と祝いの酒を飲んでいた。
 そのとき、祖父が「あなたのお父さんと思う人に酒を飲ませてみなさい」と言うと、男児は屋根を突き破って、天に上った。
 外祖父の名にちなんで「賀茂別雷命」と名付けたのだが、例の丹塗り矢は乙訓郡の神社にいる火雷神のことである。

 というような伝説です。
 「山城国風土記」逸文には、丹塗り矢=お父さんは、乙訓郡の火雷神だとしています(異説に大山咋命とするものがある)。

 古事記などの神話では、天上の高天原(たかまがはら)にいる神さまが天津神です。
 別雷神が天の上ったということで、父上が天津神という考え方なのかと思います。

 このあたり、岡田精司氏が分かりやすく説明しておられます。

 新しくつくった御殿の天井をうちやぶって、盃をもって父神のいる天にのぼっていったというのです。これはふつうの人間わざではない、神のすることであって、しかも雷神の子であるが故です。なぜなら、天にのぼったということで雷の子であることが分かるのです。
 この頃は一般に、天なる神は雷神であると考えられていたようです。いわゆる高天原というのを想定していた宮廷神話の世界と、民衆の神話は大きなちがいがありました。(『京の社』46ページ) 

 
 ここで言われている宮廷神話というのは、もちろん古事記などのこと、民衆の神話とは風土記のようなものを指しています。

 神話の世界ですから、いろいろ解釈できます。
 私が興味深かったのは、伝説というのはこういうふうに出来ていくのか、というのが感じられたこと。
 ちょっと愉しかったです。


  藤木神社 藤木神社




 上賀茂神社(賀茂別雷神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由 特別参拝は500円
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『日本古典文学大系 風土記』岩波書店、1958年
 『日本古典文学全集 風土記』小学館、1997年
 岡田精司ほか『京の社』人文書院、1985年
 志賀剛『式内社の研究』3、雄山閣、1977年
 谷川健一編『日本の神々』5、白水社、1986年
 柳田国男「玉依姫考」(『定本柳田国男全集』9 「妹の力」所収)


上賀茂神社は、ならの小川の東エリアが渋いかも





奈良神社


 上賀茂神社と下鴨神社 

 このところ、2度ばかり上賀茂神社と下鴨神社に行ったのですね。
 誰もが思うのは、下鴨神社はすごくにぎわっている、ということでしょう。
 
 私は、上賀茂神社を子供時代の通学路とし、そこで遊びもしてきたので、どうしても上賀茂神社に肩入れしてしまうんです(笑)

 確かに、上賀茂神社も、このたび機会があって特別参拝させていただいたのですが、順番待ちするくらい大勢の参拝者が来ておられました。結婚式も、いつもやってる。
 でも、ちょっとすいてるかなぁ……
 やっぱり、交通手段がバスになるというのが、人が少なめの理由? と思ったりもします。


 東エリアが渋くていいかな? 

 上賀茂神社(賀茂別雷神社)は、一の鳥居を入ると両側に広い芝生が拡がっています。
 右手の芝生の東には、ならの小川が流れています。
 石橋があって、渡って行けます。

 ならの小川

 この東エリア(仮称)が、行く人は少ないけれど、なんとなく見どころがあるのでは、と思うのです。
 地図で言うと、赤枠で囲ったところですね(屋外の看板撮影で見づらくて恐縮です)。

 境内図


 なが~い社殿も

 石橋を渡り、鳥居をくぐってすぐにあるのが、摂社・奈良神社。

 奈良神社
  奈良神社

 檜皮葺(ひわだぶき)の美しい流造(ながれづくり)の本殿です。

 奈良神社は、本社の神饌を司る神さまを祭神としていると言います。神饌(しんせん)とは、神さまに供える食べ物のことです。
 そのため、この横にある建物は……

 北神饌所

 北神饌所(庁屋)。重要文化財に指定されています。
 古くは、神饌を調進していた建物です。東西に長く、桁行は13間もあります!
 これだけ長い建物は、あまり見られないでしょう。貴重です。
 今では柵があり近づけないけど、昔はなかったですね。

 このように奈良神社と北神饌所が並んでいます。
 奈良神社の拝殿は、北神饌所にくっつく形になっています。

 北神饌所

 北神饌所は梁間2間なのですが、その北1間分に拝殿が張り付いている感じですね。
 これもおもしろい形で珍しいと思います。

 かつては、他に御水井舎や酒殿などもあったそうで、このあたりは、当社の神饌調進エリアだったわけです。


 校倉もある 

 その南には、こんな建物もあります。

 校倉

 校倉(あぜくら)です。
 正倉院で有名な校倉造になっている蔵です。

 京都で校倉を見られるところも少ないですが、これは江戸時代の校倉です。

 また、北神饌所の北側には、摂社の賀茂山口神社があります。
 南に拝殿があり、北に本殿があります。

 賀茂山口神社拝殿
  賀茂山口神社 拝殿

 賀茂山口神社
  同 本殿

 舞殿ふうの拝殿に流造の本殿という賀茂社らしいスタイルですね。

 この付近には、いにしえには神宮寺もあり、神仏習合時代の様子がうかがえたようです。

 上賀茂神社の社殿は、中心のエリアでも、本殿と権殿を除けば、おおむね寛永5年(1628)造営時のものが残されています。この時期、中世に荒廃していた当社が幕府の援助によって再興されたわけで、江戸時代前期の文化財が拝見できる神社です。
 



 上賀茂神社(賀茂別雷神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『上賀茂のもり・やしろ・まつり』思文閣出版、2006年
 『京都古社寺辞典』吉川弘文館、2010年 
 

由緒ある古社、懐かしい上賀茂神社を訪ねて





上賀茂神社楼門



 ゆっくり2時間滞在

 この写真、何の写真か分かりますか?

 ならの小川

 紅葉が美しい頃に撮影しました(2016年11月末日)。
 これは、私が子供の頃の通学路の写真です(笑)

 小学校の6年間、この石橋を渡って、毎日通学していたのです。
 今でこそ、きれいな紅葉だなぁ、と思いますが、当時はどう思っていたことやら。

 ここは、上賀茂神社。
 下鴨神社と並ぶ古社で、正式には賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)と言います。

 平安遷都より遥かに古い、大変なご由緒があるわけですが、私たち小学生にとっては、この広大な神社の境内はパラダイスで、特に帰り道は格好の遊び場となりました。

 今回、用事があったので、久しぶりにじっくり境内を歩いてきました。 
 懐かしさに身をゆだねていると、2時間ばかりが過ぎていました。


 芝生、公園、奈良の小川… 

 上の写真に流れている川は、ならの小川と言います。奈良や楢の字を当てています。
 御手洗川(みたらしがわ)とも呼ばれていますね。

  風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける

 百人一首にも収められた藤原家隆の歌が詠まれた場所です。
 みそぎ(禊ぎ)は、夏越の祓(なごしのはらえ)を指しているので、6月末日のこと。今でも茅の輪くぐりを行います。
 翌日からは7月で、旧暦なので秋の始まりです。
 秋風が吹いてきたけれど、みそぎだけが夏の名残りを示している、という歌です。

 子供心に、この歌は聞き覚えていました。もちろん、意味は知りませんでしたが。

 ならの小川
  ならの小川(御手洗川)

 この川沿い(写真の右外)を歩いて、行き帰りするのです。

 ならの小川の西には、広々とした芝生が拡がっていました。

 芝生

 ここも、楽しい場所でした。
 ただし、神社としては運動禁止の場所で、ボール遊びや走り回るのはダメ。
 そういう行為に及ぶと、

 「しばぁふのうえでぇ~……」

 と、マイクのアナウンスが鳴り渡って、制止されてしまいます。懐かしい思い出ですね。

 本当は、5月5日の競馬(くらべうま)の神事の際、馬場になるところです。
 一の鳥居の西側がスタート地点で、北へ2頭を合せて駈けていきます。馬場の北端は、俗に「ウマセンバ」と呼ばれていました。競馬のダートコースのような感じ。おそらくは、馬戦場の意味だったのでしょう。

 そのさらに西は、バスの操車場と児童公園がありました。

 バス操車場
  市バス操車場

 昔より狭くなりました。
 かつては、上賀茂神社前発の市バスがたくさんあったのです。現在では、系統数は減っているようです。
 余談ですが、ここは操車場であって、正式な車庫ではありません。
 記憶では、昭和40年代後半までは、車庫は上堀川にあり、それがのち西賀茂に移ったのです。私の小学校時代でした。

 公園跡

 こちらは、公園の跡。
 いまでは駐車場になってしまった……

 ここは、日常的にも遊びましたが、葵祭などのときに、露店が出るスペースだったのです。広いからたくさんの店があって、仲間でいろいろ見て回るんですね。安い串カツを食べたりとか、当てもんをしたりとか。
 昔は、北の方にも広い森があって、よく遊んだけど、そこもいつの間にか伐採されてしまいました。やむを得ないかも知れないけれど、さびしいです。


 社務所の思い出

 公園の北の方には、社務所があります。

 社務所
  社務所

 建物自体は、子供のときと変わっていない気がします。でも、正面の入り口に加えて、左側からも入れるようになりましたね。

 その左側の部分に、昔、水道の蛇口があったのです。
 蛇口には、ひもで鉄のカップ--といっても、ずいぶんベコベコになったものーーが掛けてあり、私たち小学生は学校帰りにそこで水を飲ませてもらっていたのでした。もちろん、誰に断るでもなく、勝手に飲んでいたのです。

 どうなっているかなと見に行ってみると、もう蛇口もカップもなかったけど、ホースをつなぐ水道栓は残されていました。
 なんとなく、ホッとしました。

 今回よく分かったのは、人の記憶というのは頭の中にあるのだけれど、多くは場所に結びついており、その場所が大きな意味を持っているということです。
 たとえ40年経って少しばかり変化していても、大枠さえ残っていればいろいろなことを思い出す手掛かりになります。
 そういう場所が、自分のふるさとにあるということは、幸せなことだと思わざるを得ません。

 バス停等

 ここはバス停(右)と、やきもち屋さん、すぐき屋さんなどの店舗(左)です。
 このバス停で、どれだけバスを待ったことか。
 特に、母とここでバスを待ち、一緒に母の実家へ行っていたことなど、思い出は尽きません。いまでも、京産大生などが利用しているようですね。

 今日は、郷愁にかられて繰り言を綴ってみました。
 次回は、少し社殿などを見ていきたいと思います。


  ならの小川と石橋


 (この項、つづく)




 賀茂別雷神社(上賀茂神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 岡田精司ほか『京の社』人文書院、1985年