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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

真田幸村ゆかりの地蔵尊は、高松神明社に鎮座している





神明地蔵尊


 真田丸ブームだった2016年

 いよいよ、大河ドラマ「真田丸」も大詰めですね。
 三谷幸喜脚本、堺雅人主演という期待の大河は、視聴率も18~15%ほどで推移して、なかなかの好評だったようです。

 そんな中、「ソフィア 京都新聞文化会議」に、真田宝物館の降旗浩樹氏が「真田家と京、ゆかりさまざま」という稿を寄せられています(2016年11月25日付)。
 真田信繁(幸村)と京都のつながりは、確かにいろいろあるようで、

 ・ようかんで有名な「虎屋」と信繁の結び付き
 ・「都林泉名勝図会」に見える龍安寺にある信繁の五輪塔
 ・高松神明社の地蔵尊
 ・信繁を「幸村」と名付けた人は京都ゆかり

 などをはじめ、多くの例があがっています。
 そのなかで、あれっと思ったのが、高松神明社のお地蔵さん。あったかな、と記憶をたどったのです。

 高松神明社
  高松神明社

 高松神明社(中京区・姉小路釜座東入)については、以前、神明社特集でレポートしました。
 記事は、こちら ⇒ <京都市内に点在する神明社は、神明造の立派な社殿が特徴的 - その2 ->

 そのとき撮影した写真を見てみると、確かに地蔵堂がありました。「真田丸」以前だったので、余り気にしていなかったのです。

 神明地蔵尊
  神明地蔵尊

 いったい、どのようなお地蔵さんなのでしょうか。


 九度山から勧請された地蔵尊

 伝えによると、もともとこの地蔵尊は、真田庵の名で知られる和歌山・九度山の善名称院にありました。
 寛政6年(1794)、高松神明社が拝領し、地蔵堂を建てて祀ったと言います。
 降旗氏によると、これは信繁没後180周忌にあたって勧請されたものだろうと考えられるとのことです。

 地蔵堂はその後、何度か建て替えられ、現在の位置には明治26年(1893)に鎮座されています。

  高松神明社
  本殿の左側に地蔵堂がある

 この神明地蔵尊は、知将・信繁が護持していた念持仏だと言われています。
 そのため、地蔵堂の台石にふれて子供の頭をなでると、智恵を授かるということです。

 意外なところに、「真田丸」の所縁あり、という話でした。




 神明地蔵尊(高松神明社)

 所在 京都市中京区姉小路通釜座東入ル津軽町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約5分

【参考文献】
 萩原龍夫「京都の神明社」(『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣、1985年所収)


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社会学について考える本 - 古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい !!』-

京都本




  古市くん表紙 古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』光文社新書


 テレビでよく見る古市くんの本

 今年は、精を出して通勤電車中で読書をしています。
 一番困ることは、読むための本がないこと!
 正確に言うと、読んでおもしろそうな本がなかなか見付からないことです。

 とは言え、最近はインターネットで本探しが出来、実際に読んだ人のレビューも見られます。そのため、以前に比べて、おもしろい本が見付けやすくなりました。これは思ってもみなかった事実で、いきなり書店に行って本探しをするより、インターネットで下調べしてから本屋さんで選ぶ方が、当りの確率は高まっています。

 それでも、下調べが出来ないまま書店に行ってしまうことも多く、そんなときは買う本が決まらず呻吟することになります。

 今週も、準備なしに本屋さんに行き、困ったなぁ~、となってしまいました。
 そのとき目に飛び込んできた本が、

  古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』 

 でした。

 タイトルだけ見ると、キワモノっぽい。
 そして、著者が古市憲寿という、テレビなどでよく見掛ける若い人です。印象としても、毀誉褒貶があるような論者ですよね。
 それでも、なかみをペラペラ繰ってみて、これ買うか、と思いました。


 社会学って、なんだ ! ? 

 私は知らなかったのですが、この古市憲寿という人は、社会学が専攻で、なおかつ東大の大学院生だったのです! 年齢も31歳のようで、お若いですね。
 その古市くんが、12人の著名な社会学者と対談したのが本書です。2人ほどの例外を除いて、みんな東大出身か東大の先生という、なんともいえない顔ぶれなんですが……

 ご愛嬌はさておくとして、結構おもしろいんですね、この本が。
 古市くんは、12人の社会学者に、まず「社会学って、なんですか」と問い掛けます。
 その答えがさまざまで、楽しいんですね。

*小熊英二先生(本書では、みんな「○○先生」と書いてある)
「現在の日本社会の文脈では『評論家』でしょうね」

*上野千鶴子先生
「ふつうは『社会と個人についての学問』だと言われているけど、もう少し厳密に定義するなら、『人と人とのあいだに起きる現象について研究する学問』ですね」

*宮台真司先生
「いちばん短く答えれば、『僕たちのコミュニケーションを浸している、非自然的な--自然的ではない--前提の、総体を研究する学問』ということになります」

*大澤真幸先生
「うんと抽象的に定義すれば、社会学は『社会の自己意識』です」

*橋爪大三郎先生
「社会学はフワフワしている、とよく言われる。どうしてフワフワしているかと言うと、「社会学とは何ですか」という問いよりも、もっと本質的な「社会とは何ですか」という問いを、飛ばしているから」

 分かったような、分からないような……という感じですね(笑)
 本書の対談は、月刊誌に連載されたものでした。
 それで、10番目に登場した吉川徹先生は、それまでの対談を読んで「びっくりするぐらい、皆さん同じポイントを押さえていますね」と言って、こうまとめています。

 大きく言うと二つあって、まずは社会学は、政治学や法学、経済学など他の社会科学がカバーしていない残余の領域を研究する学問だということ。
 もう一つは、誰もが日常的に知っている「世の中」を研究対象として、そこに生活者の目線で見えているのとは違う事実が隠れていることを説明するのが社会学者の仕事だということです。(235ページ)


 こういうふうにまとめるところが、学者らしくていいですねぇ。吉川先生は、大阪大学の先生ですね。私も『学歴分断社会』(ちくま新書)、読みました。

「社会学って、なんですか?」という単純でズバリな質問は、概説書や事典には出て来るけれど、個々の学者の答えは、案外聞けません。教室では、よくあるQ&Aかも知れないけれど。

 こういうところを読むだけでも、本書は楽しめます。

 古市くん中身
  先生の肖像も、イラストです。


 パブリック社会学とは?

 どの先生との問答も、それなりにおもしろいのですが、興味という点では「パブリック社会学」ですかね。
 これは、鈴木謙介先生との対話に出て来ます。
 
 私は、寡聞にして「パブリック社会学」という言葉を聞いたことがありませんでした。過去に「パブリック考古学」というのは聞いたことがあるのですが。
 では、これはどういったものなのでしょうか。

 そのパブリック社会学とはどういうものかというと、[米国の社会学者マイケル・ブラウォイは]一般の人々に認知される実践であるというんです。現実の社会をうまく説明できる理論や経験的な研究を用いて、それを講義やメディア露出という形でアウトプットするわけですね。 
 アウトプットの受け手になるのは、学生や地域社会、宗教教団を含む「パブリック」な領域だと言います。(192ページ) 

 
 乱暴にまとめると、社会学の実社会への還元ということです。それ自体は誰も反対しないのですが、問題は<誰がパブリック社会学を担うのか>という問題でした。
 
 社会学の研究者自身がその役割を担うべきなのか、それとも「パブリック社会学の専門家」が担うべきなのか?
 後者は、自分では研究せずに他人の研究結果の社会還元だけをする人、ということになります。それっていいのかな、という意見もありそうですね。
 しかし、鈴木先生は、それは必要、と明言します。
 その3つの理由は……

(1)もともと社会学は、社会に自分たちの知識を投げ返すことが求められる学問だということ。

(2)厳密な研究をするためには、大きな時間とお金が必要。大規模な調査を行ったりするためには、予算配分の潤沢な大学(東大、京大など)に属さないと無理。
「多くの予算を必要とする厳密な研究をしなければ社会学とはいえない、というのは、あまりに権威主義的な発想だし、学生と一緒に近隣を調査して、地域の課題を発見・解決したり、学生や地元の人々に自分たちへの理解が深まるような知識を提供する、まさに「パブリック社会学」と言うべき活動をしたりしている人がたくさんいる。社会学の価値は、海外のジャーナルに何本論文が掲載されたかといった指標だけで測られるようなものではないと思う」(194ページ)。

(3)現在は、研究の幅はどんどん広がっているので、自分の研究分野を追究しながら、あらゆる分野を平均的に知っているというのは無理だということ。おおざっぱでもよいから、社会学全体の研究成果を把握しないと、細分化、タコツボ化は収まらない。

 古市くんが「社会学の全体像を見渡したうえで、世の中に説明するような仕事が必要になってくるわけですね」とまとめます。

 この部分は、本書の中では異質感があるんですよね。
 特に(2)の部分です。
 私のように博物館に勤務して、いつも市民の方々と接していると、地元の人たちが地域について学習したりするのは当然だと思うのですけれど。

 あぁ、そうか! 鈴木先生、東大出身でもなく東大の先生でもないんですよ ! ! (関学こと、関西学院大学の先生です)

 私は、こういった発想、賛成です。
 よく考えると、このブログも、パブリック歴史学? なんですよね!

 いやいや、「よく考えると」というのは照れ隠しで(笑)、最初からパブリック歴史学なんです。
 学問が社会とどのように接点を持つのか、というのは私にとっては大きな課題。
 特に、歴史的に物事を考えるというのはどういうことか、を多くの方に伝えたいと考えています。

 もちろん、これ以外にもいろいろな話題満載の本書。
『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』、読みやすい対談形式のうえ、なかなか興味深い本なので、ご一読を。




 書 名 『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』
 著 者  古市憲寿
 刊行者  光文社(光文社新書844)
 刊行年  2016年


【大学の窓】勤労感謝の日に、大学教育を考える

大学の窓




大学キャンパス


 生産財としての学位と消費財としての学位

 今日は勤労感謝の日ですね。
 昔風に言うと、新嘗祭(にいなめさい)ですか。1年の収穫を感謝する日。祝日ということで、お休みの方も多いでしょう。

 少し回顧的になりますが、私は今の仕事に就い、てそろそろ四半世紀になろうとしています。
 世間的には「ベテラン」の類かも知れませんが、自分ではそういう気にはなれません。

 私は、大学の学部(文学部)を出たあと、大学院の修士課程に進み、さらに博士課程に入ったのですが、その途中で今の職に就きました。大学院を中退して就職したわけですが、当時から院生の就職口はたくさんあるわけではなかったのです。
 それでも、先輩や後輩で同業者になった人は多く、現在に比べると、就職はしやすかったのだと思います。ちょうどバブル期から、その直後くらいの時期でしたので。

 当時、大学進学率は30%程度でしたが、現在は約50%です。大学院に進む人も多いのですが、みな職探しには苦労している様子です。

 たまたま読んでいた上野千鶴子さんの『サヨナラ、学校化社会』(ちくま文庫)--少し古くて2002年の刊行ですがーーに、「学位インフレ時代」という言葉が紹介されていました。
 「修士号・博士号の取得者が増えて、学位の市場価値が下がってしまう時代。ひらたく言えば、学位を持っていてもどこにも就職できない人が増加する時代」(同書の注より)なのだそうです(131頁)。

 15年ほど前の著書にこういう指摘がすでにあり、上野氏自身は20年近く前から言われていたようです。

 さらに、上野氏は、学位を<生産財としての学位><消費財としての学位>に分けます。
 職業を獲得する手段になるのが、生産財としての学位。
 そうならないのが消費財としての学位。こちらは「学位を得ること自体が自己目的になる」というものです。つまり、例えば授業を受けていて、それ自体が楽しい、おもしろい、ためになる、という感覚を得られる、といったことですね。

 この点から言えば、就職につながらない修士・博士号は、生産財の学位であろうとして、そうなれなかったものを意味します。
 これは、学部卒の学士についても似たようなものでしょう。大学時代の後半2年間が就活タイムと化し、大卒という称号(?)が職業を得るための手段になっているわけです。

 一方で、上野氏が指摘するように、社会人入学が増え、学位=就職と結び付けない学生が増加すると、生産財としての学位は無意味になってきます。逆に、彼らは、消費財としての学位を求めるのです。
 そうなると、大学(院)の教育の質そのものが問われるようになってきます。そのとき、現在の大学は彼らの期待に応えられるのか?
 
 そこで私は、大学院に通ったことのある社会人にずいぶん取材しました。そういう人に会うたびにつかまえては、満足度はどうでしたかということを聞いてみた。

 そうすると、「若い人にまじって勉強するのが学生時代に返ったみたいでうれしい」とか、「学食(学生食堂)が新鮮」とかいろいろおっしゃるわけですが、そういう体験はどれも教育の周辺利益です。

 周辺ではなく核心ーーつまり、学校という制度が提供できる商品は授業であり、学校という制度のインフラは教育者という人材とカリキュラムですから、それに満足できましたか、ということを食い下がって聞くと、私が大学側の人間だということに遠慮してか、返事があいまいになっていく。
 (中略)
 ある私学の大学院の授業料は年間百万円だそうです。二年間で二百万円。それだけの金を使って修士号をとられたあるかたが、「私は修士号をとりましたが、そのための投資の二百万円に見合うとは思えません」とハッキリおっしゃいました。(133-134頁) 


 こういう認識から、「学校は授業で勝負せよ」、つまり教育自体の質を高めよという考え方につながっていくのです。

 大学校舎


 学生と教師の共犯関係

 日本の大学では、自分自身で研究を行っている研究者が、学生を指導する教育者でもあります。
 言い換えれば、大学教員=研究者+教育者なのです。

 笑ってはいけませんよ、大学の先生は教育者! でもあるのです。
 でも、教育に対してよりも研究に対して熱心な人が多いように見受けられます。そして、それが悪いことだと思われている節はなく、むしろ推奨(?)されているようにも思えます。

 これはたぶん、大学教育を消費財として捉える学生が少数派で、多くの学生は生産財=就職の手段だと捉えていたからだと思います。少なくとも、これまでは。

 大学(教育)を生産財=就職の手段と割り切ってしまえば、授業は手ぬるい方が有り難い。「楽勝」大歓迎!
 学生と教師の “共犯関係” が成立していたのですね。

 ところが、相手が社会人学生となると、これはもう勉強に真剣、勉学自体が目的ですから、共犯関係は成り立たないことになります。
 
 そこで、日本の大学に社会人学生がどれだけいるのか調べてみました。
 文部科学省の資料によると、4年制大学に占める25歳以上の入学者の割合は、わずか1.9%だそうです(2012年)。
 国際比較では、アメリカ約24%、イギリス約19%など、OECD各国の平均は18.1%です。いかに日本が低いかが分かります。

 また、大学院での比率は、18.2%です(2014年)。

 なんだか、まだまだ共犯関係が続きそうな気配が……

 毎年のことですが、1年の授業が終わりに近付いてくると、指導力不足で自責の念にかられる私です。
 他人のことをあげつらう前に、自分の教育力をアップするのが先のようです。




 【参考文献】
 上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』ちくま文庫、2008年
 「社会人の学び直しに関する現状等について」文部科学省、2015年


きょうの散歩 - まいまい京都で、三条京阪~寺町ツアーに行ってきました - 2016.11.20 -

洛東




檀王楼門


 三条京阪から始まるお寺めぐり

 今日は、朝から <まいまい京都> のツアーで案内をしてきました。

 今回は、にぎやかな三条京阪から始まる寺社めぐりです。
 最初に、駅すぐ北側の檀王法林寺に行きました。通称、だん王さん。

 檀王法林寺楼門
  檀王法林寺 楼門

 本堂内に上がらせていただき、お詣りしました。お忙しい中、ご住職に楽しいお話をうかがいました。自らのお寺のことを「町寺」と呼ばれ、このような町寺が面白いんですよ、とおっしゃいましたが、まさにそうですね。
 庶民信仰と一体化した繁華街にあるお寺が、京都の寺院の特徴のひとつです。観光寺院ではありませんが、歴史的には庶民とともに歩んできた寺院です。
 だん王さんの事業のひとつとして紹介してくださった夜間保育の取り組みは、昭和27年(1952)に始まった先駆的なものと言います。保育園は「宗教」ではないように思われますが、広く見るとつながっている気がします。主夜神という尊天を祀っておられるところから、夜の保育へも取り組まれたというのは興味深いお話で、鴨東の花街の北側という立地も影響しているようでした。
 
 そういう意味では、次に訪ねた頂妙寺も、庶民に篤く信心されたお寺です。
 
 見学レジメ

 江戸時代の「都名所図会」(1780年)や「花洛名勝図会」(1864年)の挿図を複写して、それを見ながら現地見学しました。
 上の資料のように、二天門のまわりをグルグル回る信仰を追体験? すべく、みんなで門を回ってみたりしました。

 頂妙寺二天門
  頂妙寺 二天門

 この門の前には、祀られている持国天、多聞天を拝むための拝殿もありました。ものの本によると、昭和9年(1934)まであったそうです。
 また、江戸へ出開帳に出掛けられたこともあるそうで、たいへん人気のある二天だったのですね。
 

  本能寺、妙満寺跡も 

 後半は、鴨川を西へ渡り、本能寺にお詣りです。
 こちらも、江戸時代とは寺の景観がガラッと変わっています。かつては、祖師堂(日蓮上人を祀る)や開山堂まであった大伽藍でしたが、現在では寺地も縮小され、堂宇も少なくなりました。
 北側は、戦時中に拡幅された御池通があり、市役所が建っています。

 そのあとは、さらに北上して、市役所の裏側へ。
 ここでは、かつてこの場所にあった妙満寺の跡地を発掘調査しています。

 妙満寺発掘現場

 今日は日曜日なので、シートを被った状態で、ちょっと残念!
 先日発掘された祖師堂跡などの位置を説明しました。
 こんな街中に結構大きな寺院があったわけです。昭和43年(1968)に岩倉へ移転しています。

 最後に、革堂(行願寺)と下御霊神社を参拝して終了です。だん王さんの堂内拝観も含めて、約2時間半のツアー。最後は少し駆け足になってしまいましたが、意外に盛りだくさんでした。

 ふだん素通りしがちな町なかにあるお寺や、日蓮宗の寺院をクローズアップした今回の見学会。
 初めて中に入った、という方も多くて、意義のあったツアーだったと思います。


  ガイド中




 檀王法林寺

 所在  京都市左京区川端通三条上る法林寺門前町
 拝観  境内自由(本堂内は要申込み)
 交通  京阪電車「三条」下車、すぐ


【新聞から】東福寺の紅葉、通天橋などの上から撮影禁止になったのか …

洛東




東福寺の紅葉


 11月の観楓期間中、撮影を禁止に

 11月上旬の新聞に、東福寺・通天橋で紅葉の期間中、撮影が禁止になる、という記事が出ました。
 ある種、英断的な決定という気もします。

 新聞によると、紅葉のピーク時には1日3万5千人が訪れるそうです。

 通天橋
  通天橋の上の雑踏(2015年11月撮影)

 昨年11月は、こんな感じでした。橋上も、橋の下も、たいへんな混雑ぶり。国内外から大勢の観光客が押し寄せ、記念写真を撮っていきます。

 通天橋より
  通天橋より望む(2015年11月撮影)

 東福寺のウェブサイトでは、「秋の観楓拝観中の撮影について」と題して、次のように告知しています。

 11月12日~11月30日迄の紅葉期間中は大変混雑致します。
 通天橋、臥雲橋の橋の上からの携帯電話・スマートフォン・デジタルカメラ等での撮影・自撮棒での撮影は大変危険ですので禁止致します。
 本坊庭園につきましては、携帯電話・スマートフォン・デジタルカメラ等での撮影は可能ですが自撮棒での撮影は危険防止のため禁止致します。
 皆様のご理解とご協力お願い致します。
 (10月26日付)

 新聞やテレビでは<通天橋から禁止>と報じていましたが、よく見ると、臥雲橋からも禁止なのです。
 臥雲橋は、通天橋の下流(西側)に架かる橋で、通天橋を望むことができます。

 臥雲橋より
  臥雲橋から通天橋を望む(2015年11月撮影)

 デジカメ、スマホ時代になって、ついついシャッターを切る機会が増えますね。
 そのため、激しい滞留が起こってしまいます。
 橋上の安全を考えれば、管理者である(変な言い方ですが)お寺側としては、禁止もやむを得ないという判断だったのでしょう。

 もちろん、橋の上以外から写真を撮るのはいいのでしょう。

 通天橋を望む
  通天橋を望む(2015年11月撮影)

 私など、こういうカットがいいかなと思うのですが。

 紅葉まっさかりの京都。
 マナーを守って楽しみましょう。




 東福寺

 所在  京都市東山区本町
 拝観  自由(通天橋などは有料)
 交通  京阪電車・JR「東福寺」下車、徒歩約10分



西国三十三所、秘仏の観音さま御開帳を参拝 - その2・六角堂 -





六角堂


 西国三十三所 十八番札所 

 六角堂。

 京都市街の真ん中にあるお寺で、聖徳太子が創建された古刹。住職を生け花・池坊の家元が務められているように、池坊とのつながりもよく知られているところです。
 正しくは頂法寺(ちょうほうじ)と言いますが、六角堂の名で通っています。
 西国三十三所観音霊場の十八番札所です。

 現在のお堂は、明治初期に再建されたものです。

 六角堂

 この写真を見ると、六角堂と言いながら六角じゃないのでは? と思われるかも知れません。
 でも、やはり六角形なのです。

 六角堂

 お隣の池坊のビルから撮った写真。
 六角形をした本堂(左)の前に、入母屋造の拝所(右)が付いている構造なのです。参拝者は、写真右側から入って来ますので、お堂が六角形とは思わないわけです。
 
 この本堂は、幕末の大火で焼失後、明治8年(1875)に建造されました。
 まさに「六角堂」という威容です。ただし、いつからこのような大きな六角形のお堂が建ったのかは難しい問題です。
 おそらく、中世には、比較的小さな六角形のお堂があって、それが大きな覆い屋の中に入っていたのではと考えられています。つまり、六角形の建物は厨子のようなものだったのかも知れません。

 また、当寺は聖徳太子の創建ですが、太子ゆかりの奈良・法隆寺には夢殿がありますね。これは八角堂です。
 八角形は円に近いので円堂とも呼ばれますが、六角形もその流れです。このような多角形のお堂は、どうやら夢を見る建物のようなのです。

 話が先回りしますが、今回の特別拝観で、六角堂内に安置された親鸞聖人像を拝しました。この像は、小さな座像なのですが、少し首をかしげておられます。つまり、眠りながら夢を見ている夢想の姿を表しています。
 親鸞聖人は、六角堂に百日参籠し、95日目に聖徳太子=如意輪観音の夢告を受け、それが宗教的転機となりました。
 そういった聖徳太子=夢につながりのある場所が、六角堂なのです。


 善男善女で賑わう特別開扉

 その六角堂で、11月5日から14日まで(2016年)、秘仏である御本尊の御開帳が行われました。
 この御本尊は定期的な御開帳はなされず、今回は7年ぶりの御開帳となるようです。

 六角堂

 前回訪ねた革堂(こうどう)に比べると、参詣者も多いようです。
 私も、知人のご婦人に出会ったので、御開帳かな? と思ったのですが、どうやら池坊さんの方へご用だったようです。

  御開帳看板

 本堂の前面左端に設けられた臨時の階段を上り、拝観料を納めて堂内に入ります。

 まず、外陣の左壁沿いに小さなお厨子があり、聖徳太子像が祀られていました。
 さらに、奥は内陣になります。

 左奥に、毘沙門天立像があり、これは重文指定されているそうです。

 善男善女 右端の階段は出口


 秘仏・如意輪観音を拝す

 そして、中央には立派なお厨子が据えられています。
 お厨子の前には、お前立ち(秘仏の御本尊の前に立っておられる仏さま)がおられます。如意輪観音菩薩です。
 右膝を立て、右手で頬杖ついておられるお姿です。

 その奥、金色に輝くお厨子の中に、御本尊・如意輪観音菩薩が安置されていました。
 それが、まことに小さな仏さまで、前の乗り出して目を凝らさないと十分にお姿を拝せないほどです。
 「寺門高僧記」など古い記録類には、六角堂の本尊は像高3寸(約9cm)の金銅像と記されているものが多いようです。また、幕末の「西国三十三所観音霊場記図会」(1845年)には、1寸8分(約5cm)とされているそうです(『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』)。

 実際に拝した御本尊は、たいへん小さく、3寸とか1寸8分とか言われても頷けます。
 西国三十三所の本尊の中でも、最も小さいものかも知れません。
 八番札所長谷寺の御本尊は(立像ですが)10mもありますから、100分の1の小ささ。大きい仏さまも小さい仏さまも驚きを呼び起こします。
 
 台座は金色のように見えますが、御身体は私にはよく見えず、右手で頬杖をつかれているように思われます。
 その手に五色の糸が結えられており、お前立ちに結ばれ、さらに前に置かれた五鈷杵(ごこしょ。密教法具)につなげられています。参拝者は、この五鈷杵に触れて、結縁するというわけです。

 堂内には、池坊の生け花が供花され、そういう美しさも六角堂らしかったです。
 御本尊は秘仏と言いながら、なぜか絵葉書にもなっていて、細かなお姿も分かるのですが、遠くにおられる分には細々とは見えない。でも、それがまたありがたいというものです。

 蓮華

 特別開扉の記念としていただいた袋には、蓮華が3枚入っており、こちらにも六角堂らしく古風な生け花の絵が印刷されていました。
 
 ふだんは落ち着いた六角堂も、今日は少し華やぎ、賑やかな様子でした。




 頂法寺(六角堂)

 所在  京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町
 拝観  自由(御本尊は秘仏)
 交通  地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 佐和隆研『西国巡礼 三十三所観音めぐり』現代教養文庫、1970年
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年
 


西国三十三所、秘仏の観音さま御開帳を参拝 - その1・革堂 -





革堂


 「西国三十三所 草創1300年」

 関西一円に拡がる観音霊場・西国三十三所。
 西国三十三所札所会では、2018年を草創1300年と位置付けて、今年から5年間にわたって各札所寺院で特別拝観を行っています。

 この草創1300年というのは、大和・長谷寺の僧・徳道が、一旦絶命した際、閻魔大王に観音巡礼を勧められ、蘇生後、それを人々に広めたという伝えに基づいています。これが養老2年(718)のことで、それから1300年というわけです。

 西国三十三所の始まりについては、よく知られるように、花山法皇の巡礼に求める考え方があります。これは、寛和2年(986)のこととされます。ただ、学問的には法皇が三十三所を巡拝された確証はありません。
 「寺門高僧記」などの史料に基づけば、三井寺の行尊(1057-1135)の巡拝、さらには同じく三井寺の覚忠(1118-1177)の巡礼に起源が求められます。特に、覚忠が応保元年(1161)に行った三十三所巡礼が、史実として認め得るとされています。
 もちろん、これらの説は学問的な考えであり、信仰上の伝えはそれとは異なった位置にあります。

 ちなみに、巡拝の順序は、覚忠のときには、1番目は現在と同じく那智山ですが、33番目は三室戸寺で、今とは異なっています。現在の順番に定まってくるのは、室町時代のこととされています。


 革堂を訪ねて

 「寺門高僧記」に記された覚忠の巡礼では、どの寺院でどのような仏さまを拝したのかも記録されています。
 京都の諸寺は、順序が遅く25番以降ですが、次のようになっています。

 25番 上醍醐    准胝観音
 26番 東山観音寺  千手
 27番 六波羅蜜寺  十一面、又は八尺丈六千手
 28番 清水寺    千手
 29番 六角堂    金銅三尺如意輪 或記に云く金剛三寸如意輪
 30番 行願寺    八尺千手

 そんな中、先頃、2つの霊場寺院の本尊開扉に参拝する機会に恵まれました。
 十八番 六角堂頂法寺と、十九番 革堂行願寺です。

 十九番の革堂では、10月30日から11月13日にかけて、特別内拝が行われています。

 革堂
  革堂(行願寺)

 正しくは行願寺と言いますが、革堂(こうどう)の名で通っています。
 寺町通に面していて、町なかにあるこぢんまりとしたお寺です。

  革堂石標

 門前の石標には「西国十九番札所」とあるとともに、「一条かうだう(革堂)」と記されています。もともとは、一条油小路にあったためですが、長く一条革堂とも通称されました。

 門をくぐると、目の前に本堂があります。

 革堂

 江戸後期らしい、にぎやかな屋根のお堂です。


 秘仏・十一面観音を拝す

 革堂にはよくお詣りしますが、いつもは吹き放ちの外陣より拝する形になりますので、お前立ち(秘仏の御本尊の前に立っている仏さま)すら見えません。
 今日は、御本尊の特別開扉ですので、お厨子を開けて秘仏を拝することができるのです。

 革堂の御本尊は、十一面観音立像です。
 三十三所霊場の御本尊は、全体の約4割が千手観音です。ついで十一面観音、如意輪観音(いずれも2割弱)、さらに聖観音と続きます(『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』)。
 千の慈眼、慈手を持つ千手観音が、その霊験から最も多く祀られたのでしょうか。

 拝観料を納めて、堂内に入ります。
 外陣の格天井には、花鳥の彫り物があり、ほほえましい感じがします。
 奥に進むと、内陣のお厨子が開扉されており、中に千手観音が立っておられます。

 お厨子の脇には、お前立ちがおられるのですが、少しお姿は違うようです。

 御本尊は、行円上人が賀茂社の霊木を彫って造られたと伝えられています。
 史料には、像高は8尺(約240cm)などとされています。前に見える手は、合掌されている手と、宝珠を持っておられる手があります。脇から出ている数多くの手は持物を持っておられますが、その腕にはびっしりと小さな掌が張り付いています。珍しい姿です。
 造立時期は、康永4年(1345)の火災後の再興と考えられており、14世紀頃のものと考えられるということです(前掲書)。

 実際に拝すると、立像なので少し見上げる形になります。
 全身黒っぽく見え、たぶん古くは蝋燭や護摩の煤に触れていたのではないかと感じられました。光背や台座は鮮やかに彩色されており、仏さまとは異なった印象です。

 こちらの特別拝観は、アットホームな雰囲気というか、参拝者同士が話をしたり、受付係の方に話し掛けたりと、なごやかでした。私も、腕に張り付いた掌のことを先にお詣りしていたご婦人に教えていただきました(笑)
 
 例年は、1月17日、18日に開扉されるそうですが、通常通り外陣からの参拝になりますので、御本尊のお姿は拝せないと思います。御開帳は33年に1度ということです。
 今回は、たいへんありがたい機会でした。

 つづいて、六角堂に参拝してみようと思います。

(この項、つづく)




 行願寺(革堂)

 所在  京都市中京区寺町通竹屋町上ル
 拝観  自由(御本尊は秘仏)
 交通  京阪電車「丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 佐和隆研『西国巡礼 三十三所観音めぐり』現代教養文庫、1970年
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年
 

京都ホテルオークラの場所にあった長州藩邸、そこに残されたものは?





天照神社


 京都ホテルオークラは、長州藩邸址 

 日頃つくづく思うのは、街なかをぶらっと歩いていると、思いもよらぬものに出会うことが多い、ということです。

 江戸時代、京都には約70の藩邸があったと言います(17世紀前半)。これらは、通常、京屋敷などと呼ばれていました。
 鴨川の東には、尾張藩、加賀藩などの大きな邸があり、水運の便もよい高瀬川沿いにも諸藩の邸がありました。

 高瀬川=木屋町通に沿っては、二条通の南から、まず高瀬川を開削した角倉氏の邸があり、さらに長州藩邸、加賀藩邸、対馬藩邸、岩国藩邸がありました。その先、三条通を越えてしばらく行くと、彦根藩邸、さらに土佐藩邸があったのです。多くの藩邸跡には、小さな石碑が建っていますよね。
 ちなみに、諸藩邸の西側(河原町通の向こう)には、妙満寺、本能寺、天性寺、誓願寺といった大きな寺院が並んでいました。これが寺町です。

 京都ホテルオークラ 京都ホテルオークラ

 いま河原町御池の北東角には、京都ホテルオークラが建っています。昔の京都ホテルですね。
 ここに、江戸時代、長州藩(萩藩)の京屋敷がありました。
 北は押小路通から、南は御池通まで。

 萩は美しいけれどのどかな城下町、山口もこぢんまりとした町ですから、そこから京へやってきた長州藩士は、町並みやら賑わいやらに、さぞ驚いたことでしょう。
 
 木戸孝允像 桂小五郎像

 その藩士のひとり、桂小五郎(木戸孝允)の銅像が、ホテルの西側に建立されています。

 また、ホテルの南側には藩邸址の石碑が建てられています。

 長州藩邸址


 ホテル裏の路地に…

 先日、御池大橋を渡ったあと、京都ホテルオークラの東側に2本ほどの道があるのを見付けたのです。
 東側の道はカギの手に曲がり、西側の道は奥に突き当たっています。

 京都ホテルオークラ西側の道

 ホテル脇の道です。左のビルがホテルですね。
 わずか40mほどで……

 京都ホテルオークラ西側の公園
 
 奥の小公園に突き当たります。
 
 ここにはお地蔵さんの小祠があり、その右脇に……

 京都ホテルオークラ西側の路地

 細なが~い路地が!

 長さは、約60m ! !

 右側は壁だし、左側は植え込みだし、なんだか新しそうな路地。
 こんな道、歩いても意味ないよねーーと、まぁ、思ったわけです。
 それで、引き返そうと思ったのですが、なぜか気が向いて入って行ったわけですね、この小路に。

 すると、どうでしょう!

 天照神社

 こんな神社があったんです!

 鳥居の額を見ると、「天照神社」と書いてある。
 なかには社殿があって、

 天照神社

 確かに、社名の通り、神明造で伊勢神宮みたいですね。
 社殿というより、ちょっとミニチュアモデルみたいな感じが、……、なんですけどね。

 そこに書いてある由緒の説明によると、長州藩邸時代、邸内には稲荷社があり、旧京都ホテルの時代にもお祀りしていたそうです。1994年にホテルが改築された際、伊勢神宮の式年遷宮の残材をもらって天照神社を創建し、1998年12月、稲荷社を合祀したということです。

 なるほど、合祀したのか、稲荷社を。

 天照神社
  ホテル裏にある天照神社

 でも、逆に知ったわけです。長州藩の京屋敷にも稲荷社があったのだと。

 前回、土佐藩邸(旧立誠小学校の場所にあった)に稲荷社があったと紹介しました。
 そういえば、丹波亀山藩(現・京都府亀岡市)の京屋敷にも、稲荷社があって、いまも亀山稲荷として現存していますね。以前、記事にも書きました。

 記事は、こちら! ⇒ <京都の大名火消を務めた亀山藩の屋敷跡には、朱塗り鳥居が目印の亀山稲荷がある> 

 長州藩邸にもあった、ということは、他の京屋敷にも稲荷社があるところが多かったのではないでしょうか。

 少し気を付けて、さがしてみましょう。


 京都ホテルオークラ自転車置き場
  ホテル北の押小路通から見える天照神社




 天照神社 (京都ホテルオークラ内)

 所在  京都市中京区河原町御池
 拝観  自由
 交通  地下鉄「京都市役所前」下車、すぐ




 【参考文献】
 『京都観学研究マップ(上) 覚馬の住んだ京都』同志社大学人文科学研究所、2015年


土佐稲荷は、高瀬川畔の土佐藩邸からひっそりした蛸薬師通に移転





土佐稲荷神社


 もとは土佐藩邸内にあった神社 

 河原町蛸薬師というと、昔は北東角に丸善が建っていました。その場所は、現在はカラオケ店スーパージャンカラになっています。
 
 この角を少し東に進むと、ビルの谷間に小さな神社があります。
 土佐稲荷、またの名を岬神社と言います。

 土佐稲荷神社

 伝えるところでは、もとは鴨川の中洲に祀られ、中洲の形から「岬」神社と号された言います。ただし、これは室町時代頃の話になるようです。
 このあたりの町名は備前島町ですから、想像をたくましくすれば、その中洲が備前島と呼ばれていたのかも知れません(※調べてみたら、どうも違うらしいけど……)。

 それはともかく、江戸時代には、備前島町のあたりに土佐藩邸が出来ました。
 旧立誠小学校がある場所です。

 旧立誠小学校
  旧立誠小学校

 『京都史跡事典』に掲げられた江戸後期(文政5年)の藩邸の図を見ると、東は高瀬川に面した広い邸です。
 その敷地の南端に、鳥居を持ち南面した小祠が記されています。これが土佐稲荷とされる社です。
 武家屋敷に稲荷社を祀ることは珍しくありませんし、大坂にあった土佐藩の蔵屋敷にも稲荷社が祀られていました。こちらも、現在、大阪市西区に土佐稲荷神社として存続しています。


 明治維新後、現在地に移転

 明治維新となり、藩邸は廃止。お稲荷さんはしばらく同地にあったようですが、明治44年(1911)、道路拡幅により、現在地に移転したそうです。今の社殿は、大正2年(1913)に出来ました。

 土佐稲荷神社本殿

 現在、この神社を訪れるには、河原町通もしくは木屋町通から、蛸薬師通に入って行きます。
 しかし、真南から参詣することも出来るのです。

 その道が、こちら!

 土佐稲荷前の路地

 いい感じの路地ですね。

 蛸薬師通の1本南に、東西の通りがあります。その通りは、河原町通の佐々浪薬局の角を入って行くのですが、突き当りになっています。
 突き当りからカギの手に曲がる北へ続く路地があり、それを進むと、土佐稲荷に至るのです。
 この路地が、あたかもお稲荷さんの参道のようになっています。


 玉垣の奉納者を見る

 神社の回りは、石の玉垣に囲まれています。

 玉垣

  入口の両角に立っているのは、これです。

  小畑岩次郎の玉垣

 「勇山事/小畑岩次郎」と書かれています。
 伏見の侠客として知られた小畑岩次郎の建てたもので、この人は耳塚(東山区)をはじめ、京都各所の玉垣整備にかかわった人物です。

 小畑の左には、「近江五個之荘/田附甚三郎」と書いてあります。
 五個荘(ごかしょう。滋賀県東近江市)は、近江商人の故地として夙に知られています。私も昨年ぶらっと行ってきました。京都にも、外与とか外市とか五個荘出身の商人が出店を構えていました。この田附も、そのような近江商人のひとりなのでしょう。

 先斗町の玉垣

 先斗町各家の玉垣

 また、先斗町の花街からの奉納も多く見られます。この写真は、先斗町のお茶屋さんのものです。
 先斗町は、この神社の氏子域なのですね。

 先斗町・富永町等の玉垣

 東端の玉垣。
 「先斗町/後藤清治郎」とか「富永町/福亭」などとあります。富永町は、鴨川の向こう、現在の祇園東の花街です。

 「共楽館」という名も見えます。これは、土佐藩邸の跡地に、明治時代にあった料亭だそうです(『京都の学校社会史』)。

 こちらの玉垣は、地域の方たちが建てたものが多そうでした。

 そして、ようやく境内へ。
 土佐藩ということで、坂本龍馬がお迎え。

  坂本龍馬像

 2017年は、龍馬の没後150年。彼と中岡慎太郎が襲われた近江屋は、ここから目と鼻の先、河原町蛸薬師上ル西側です。

  お稲荷さん

 この狐は、もとは明治41年(1908)に建立されたもののようですが、供出でもしたのでしょうか、昭和57年(1982)に再建されたものでした。

 ひっそりした界隈に、土佐藩の名残がありました。




 土佐稲荷 (岬神社)

 所在  京都市中京区備前島町
 拝観  自由
 交通  阪急電車「河原町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 石田孝喜『京都史跡事典』新人物往来社、1994年
 小林昌代『京都の学校社会史』私家版、2014年


恒例! 百万遍古本まつりに行きました

洛東




古本まつり


 お堂が重文になる知恩寺が会場

 毎年行われる京都古書研究会主催の古本まつり。
 秋の古本まつりは、左京区百万遍の知恩寺で開かれます。

 百万遍知恩寺

 百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ、浄土宗)の諸堂は、先頃の文化審議会答申で、重要文化財になることが決まりました。
 写真に写っているお堂は御影堂(宝暦6年=1756年建立)です。
 私はいつも、古本を買う前、このお堂に上がって法然上人の御像にお詣りします。こういう場所で古書市ができるのも、いいですよね。

 古本まつり


 京都の地図をさがす

 10月29日から11月3日にかけて開催される秋の古本まつり。
 自分の休みのサイクルとうまくあったものですから、2度ほど足を運びました。

 今回、主に求めたのが地図です。
 3、4軒の古書店で近代の地図が置かれていたので、よさそうなものを選んでみました。

 なかなかいいなぁ、と思ったのがこれです。

 本願寺遠忌記念地図

 この地図、タイトルが「本願寺宗祖大師六百五十回忌記念京都市街地図」

 長いですが(笑)、明治44年(1911)3月の発行。
 この年、浄土真宗では開祖・親鸞上人の650年遠忌ということで、東西の本願寺も大勢の門徒たちが参詣しました。

 この地図は、それにあわせて発行されたもので、大阪・鰻谷の吉野五運薬房が出したもの。吉野五運は「人参三臓円」で知られる老舗で、京都にも出店がありました。地図は非売品、寄贈などと記載されているので、無料で門徒らに配られたのでしょうか。

 本願寺遠忌記念地図

 現在の京都大学から岡崎公園あたりです。
 広い帝国大学の敷地が拡がり、平安神宮の場所には「大極殿」の記載も。社殿が、平安京大極殿を縮小した建築のためです。
 東方、現在の白川通あたりは一面の田んぼですね。

 京都駅が「京都七条ステーション」と書かれているところなども時代を感じさせますが、その左を見ると……梅小路のあたりに「臨時本願寺参詣下車駅」が設けられているのが見付かりました。さすがに、遠忌記念の地図ですね。


 新聞の付録地図も

 昔は、新聞にも簡単な付録が付いたものです。例えば、正月前には双六を付ける、といった感じです。
 なかでも、最も多く付けられたのが地図でした。日本地図、世界地図、戦時中は戦況を知らせる地図など、さまざまです。

 京都市街全図

 この地図は、大阪毎日新聞が大正2年(1913)に発行した付録で、「京都市街全図」です。

 なぜ、京都の地図が付録になったかというと、この年、大正天皇の即位を記念して、大典記念京都大博覧会が開かれる予定でした。会場は、現在の府立植物園の場所です。しかし、この博覧会は議会の反対などもあり、実現しませんでした(のち、即位礼があった大正4年に岡崎公園で実施されました)。
 言ってみれば、“幻の博覧会” にあわせて発行された地図なのです。

 博覧会予定図

 幻の会場図も!

 敷地の形が今の植物園ですね。

 この地図は、長辺が1m余りある大判のもの。
 商店の位置なども記載されています。

 京都市街全図

 二条通と三条通の間あたり。
 中央辺に市役所や本能寺があります。
 赤く見えるのは、各商店ですね。見ていてあきない地図です。

 このほかにも、昭和初期の地図などを選びました。
 秋の古本まつり。夏の下鴨神社と比べると、会場がコンパクトなので、手軽に見て回れる古書市ですね。


  古本まつり




 秋の古本まつり (百萬遍知恩寺)

 会場  京都市左京区田中門前町
 開催  毎年10月末~11月初旬に開催
 交通  市バス「百万遍」下車、すぐ