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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

きょうの散歩 - まいまい京都で、大阪・谷町ツアーに行ってきました - 2016.10.30 -

その他




谷町周辺


 大阪マラソンの当日に…

 秋晴れの10月末の日曜日。
 いつもお世話になっている<まいまい京都>のみなさん約20名と、今日は大阪ツアーに出掛けました。

 場所は、谷町四丁目(大阪市中央区)付近。

 開催日を決めてから気付いたのですが、10月30日(日)は<大阪マラソン>の当日でした!

 マラソンはこの近くを通るのですが、幸い午前中に実施。私たちのツアーは、午後2時からということで難を逃れましたが、危なかった ! ! 

 まず、大阪歴史博物館の常設展示を見学。10階から大阪平野を見渡し、また大阪城を見たあと、7階を見学。
 そのあと、3時から街に出て、2時間ばかり歩きました。

 
 「谷町」という地名

 歩いた場所は、南北に通る道路・谷町筋の付近。
 なぜ、ここが谷町と呼ばれるのか? ちょっとしたナゾなのです。

 この街路は、上町台地という南北に伸びる台地上を走っていて、どこが谷かな? と思わせる地形。
 でも、よく観察すると、道がうねうねとアップダウンしています。

 近松門左衛門の「曽根崎心中」を読むと、冒頭の観音廻りの部分に谷町付近が登場します。
 主人公の女性がそこを歩くさまを表現しているところに、「のぼりゃすなすな、くだりゃちょこちょこ、のぼりつをりつ谷町すじを、あゆみならはずゆきならはねば」と書いています。

 上りの道は「すなすな」と、下りは「ちょこちょこ」と、女性が歩む様子です。
 「すなすな」は今は使いませんが、おしとやかな身のこなし、特に静かに歩むさまを表す言葉です。
 上りの坂道は、ゆっくり上ったのでしょう。逆に、下り坂は勢いが付きますから、ちょこちょこと小走りになったのですね。リアルな表現です。

 そんな谷町付近には、こんな感じで谷があります。

 小谷町

 私たちが「立呑み屋のあるとこ」と言っている坂です(笑)
 谷町筋から1本東へ入ったところの南北道ですが、どーんと落ちくぼんだ地形になっています。くぼみの底に風呂屋があるのも一興。
 このあたりは、江戸時代(明暦元年=1655)の絵図には「小谷町」と記されています。「こたにまち」と読むのでしょうか。この地名も、谷町筋の地名の由来のひとつと考えています。

 小谷町の西に当たる谷町筋には、「北谷町」「南谷町」という地名があって、このあたりの谷が谷町地名の語源になっていると推測しています。

 もともと、谷町筋の東にある上町筋は、小高い台地上にあり、標高約20m。そこから西、谷町筋の方向になだらかに下っています。
 それを、おそらく江戸時代、武家屋敷を造る際に、整地して崖を造成したのでしょう。崖は、明治時代に陸軍施設が置かれると、より堅固になったと思われます。
 そのため、歩兵第三十七連隊跡に当たる国立病院機構大阪医療センターの西には、急な階段が4つもあります。

 谷町の階段

 落差は、5~6mあるでしょう。
 まったく意識しない場所に、突然現れる急階段です。

 こんなふうに地形がおもしろい谷町周辺。
 ほかにも、江戸時代に造られた下水網「背割り下水」をのぞける場所もあります。

 背割り下水
  南大江小学校西側ののぞき窓から見られる

 これらの下水は、俗に「太閤下水」といって豊臣秀吉が造ったように言われていますが、ほぼ徳川時代に形成されたものと考えられています。「背割り」と称するのは、町と町の後ろ、つまり背中(町境)を分ける下水のため、そう呼ぶのです(これもたぶん戦後の呼称かと思いますが)。

 狭い範囲を2時間ばかり、ちょこちょこ歩いた谷町ツアー。
 なかなか興味深く、参加者の皆さんからも好評でした。
 また行ってみたいと思います。




 谷町四丁目付近

 所在  大阪市中央区谷町ほか
 見学  自由 (背割り下水も、いつでも自由にのぞける)
 交通  大阪市営地下鉄「谷町四丁目」下車、すぐ



  【お知らせ】
  11月1日(火)、NHK「ニュースほっと関西」(18:10~19:00)に、コメントにて出演予定です。
  お芝居に関する特集コーナーです。よろしければご覧ください。

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京都駅は、観光客にとってガッカリすると言われるけれど……





京都駅前


 期待外れ ! ? 京都駅の印象は 

 インターネットニュース<東洋経済ONLINE>を読んでいたら、「外国人ガッカリ! 日本の鉄道「期待外れ」10選」(野田 隆 氏)という記事が載っていました。
 日本に観光に来て鉄道を利用したら、こういう点が不便だった、こういうところにガッカリした、というポイントをまとめたものです。

 そのひとつに、『日本的な感じがしない駅舎』というのがありました。

 せっかく日本に来たのだから、日本的な駅舎であれば、外国人は気に入るであろう。純和風でなく和洋折衷であっても、風格のある駅舎なら満足するのではないだろうか。

 ところが、今の京都駅は、東京や大阪ならともかく、古都の玄関としてあまりにも街のイメージとかけ離れていて評判がいま一つである。

 国際的保養地の軽井沢駅も特色がないし、少し前までのJR長野駅も評判が芳しくなかった。幸い長野駅は、庇を設けて、現代的ではあるものの風格のある造りになって、面目を取り戻したのは朗報であろう。(東洋経済ONLINE) 


 現在の京都駅は、1997年に完成しました。歴代で言うと、4代目に当たります。

 余談ですが、この前、京都駅の歴史を調べている学生たちと話しているとき、“ いまの京都駅、いつできたの?” と聞くと、“1997年” と答えるものですから、私はビックリしたのです。もうかれこれ20年も経っているのですね。私の頭の中では、ついこのあいだ出来た、という印象なのでした。

 現在の京都駅
  原広司設計の京都駅ビル

 当時、大々的なコンペ(設計競技)が行われ、話題を呼びました。
 とりわけ、黒川紀章氏が提案した巨大羅城門のようなデザインは、物議をかもしました。
 採用された原広司氏の案も、比較的低層な造りながらも、そのデザインからシンボリックなイメージがないため、物足りないとも言われたように思います。
 まあ、「古都の玄関口」に造る駅舎ですから、どんな案でも賛否両論あるでしょう。

 京都駅構内
  中央改札付近

 さすがに20年近く使っていると、この駅も慣れてきたというべきか、私自身は何も感じなくなってきました。
 改めて写真に撮ってみると、大きな吹き抜けなどがあって、空港みたいやなぁ、と思ったりするくらいです。

 東洋経済ONLINEが言うような「純和風」や「和洋折衷」の駅舎なら、梅小路に保存されている旧二条駅(山陰本線)の駅舎みたいなものになるのでしょうか。
 あるいは、冬季五輪前の長野駅のような、鉄筋コンクリート造だけれど破風をもったデザインのようなものになるのでしょうか。

 もちろん、京都駅ほどの規模になれば、和風の駅舎にするのは至難の業でしょう。それはないものねだりというものです。
 仮にそういう注文を受けたとして、満足いく回答を出せる建築家は村野藤吾くらいしかいないと思いますが、すでに1984年に没しています。

 バス乗り場


 駅前も不評? 

 「哲学者の都市案内」という副題を持った鷲田清一『京都の平熱』にも、このように書かれています。

 京都駅に降り立って、まずはいやでも目に入るのが京都タワーだ。見たくなくても目に入る。京都駅の入り口、東本願寺を背にしているというので、蝋燭を「モダン」に象ったらしいが、この巨大なキッチュ、京都を訪れたひとをひどくとまどわせる。中には温泉があり、展望台があって、どこかの田舎町に降り立ったという気分にはなっても、「みやび」とはほど遠い。「建都千二百年」の京都駅大改築の国際コンペのときも、このタワーが見えない設計だったら、どんな駅舎のデザインでもよいとのたまったひとがいたくらいだ。

 「そうだ 京都、行こう。」という口車に乗せられてやってきたものの、最初の光景がこれでは話にならない。古都は、「みやび」は、どこにある? これが、宗教と芸術と学問の都の玄関か? 学生、町衆、京おんな、職人の町と言われながら、どこにいる? 接客、「着倒れ」、古本文化、どこにある? さすがの京都人も、ここに立ったら、「京都って、おたくらがおもたはるようなものやおまへんえ。まだなんにもわかったあらへん……」とうそぶく気にはなれない。けれども不思議なもので、京都市民は新幹線で東京から戻ってきて、東山のトンネルを出て、鴨川が、そして夜空に浮かぶこの京都タワーが目に入ってくると、「ああ、帰ってきた」とほっとする。いや、ほっとするようになってしまったのである。じっさい、この「京都タワー」を歌詞に入れた小学校校歌が現にいくつもあるそうな。(14ページ) 


 京都タワー 京都タワー

 こう言う鷲田氏は、別のところでも「京都の顔の一つが、京都タワーであり、いまの軍艦のような京都駅であるということに、多くのひとたちは潜在的な違和感をもっている」(223ページ)と書きながら、自分は京都駅は大好きである、と言います。「大階段」のような、何をすると決められたのではない、都市の隙間があるというのです。

 大階段 大階段


 現代の駅は 4代目

 現在の京都駅ビルは、京都駅舎としては4代目です。

 京都に鉄道が通ったのは明治10年(1877)。
 大正4年(1915)10月には、京都御所で行われた大正天皇即位礼に合せて、2代目駅舎が完成しました。

 私が持っている戦前の書物には、この2代目駅舎の写真が登場します。

 京都駅
  2代目京都駅(『日本地理大系』7 より)

 駅前広場が広々としています。

 設計は、大阪で活躍した建築家・渡辺節。
 そう、先ほど名前が出た村野藤吾が、若き日に所属していた事務所の主宰者です。まったくの妄想ですが、村野藤吾が4代目京都駅を造っていたら、その意味でもおもしろかったですね。

 京都駅
  渡辺節が設計した2代目京都駅(『京都』より)

 この駅舎も、さほど象徴性が高い建物ではありません。
 もちろん、和風でも和洋折衷でもありません。すでに大正時代ですからね。

 そして、戦後、2代目駅舎が焼失したのち、昭和27年(1952)に建設されたのが3代目駅舎。こちらも、地味な駅でした。
 写真がないのが残念ですが、取り立てて特徴のない駅舎だったのです。

 京都駅付近
  昭和34年(1959)頃の京都駅(『日本地理風俗大系』7 より)

 この駅は、私も使っていました。
 何かごちゃごちゃした印象がある、昔の地方の駅という雰囲気でした。そのため、外観についての記憶も余りありません。

 昭和39年(1964)に東海道新幹線が開通しましたが、新幹線ホームは駅の南側(八条口側)に新たに造られたので、北側は大きく変化しなかったのでしょう。
 
 そして、約40年使われたのち、改築されたのです。

 京都駅が「古都」らしくない、と言えば、その通り。
 歴史的に考えれば、京都駅は京都の町の中心部から離れた “町はずれ” に造られたものです。だから、京都らしくなくても仕方がないと言えば言えます。
 そして、何をもって古都らしい、京都らしいというのかも、ずいぶん難しい問題です。最近京都では、ラグジュアリーな施設に竹を植えたりするのをよく見掛けますが、あれが京都らしいのでしょうか? 
 
 海外ツーリストであふれ返る京都駅では、駅ビルのデザインよりも、これから始まる京都旅行の案内を親切にしていく方が大切かも知れませんね。

 
  京都駅に移ったタワー

 


 京都駅

 所在  京都市下京区東塩小路町
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車



 【参考文献】
 『日本地理大系』7、改造社、1929年
 『京都』京都市役所、1929年
 『日本地理風俗大系』7、誠文堂新光社、1959年
 鷲田清一『京都の平熱』講談社、2007年


【新聞から】インキュベーション施設になった岩元禄の電話局舎





旧西陣電話局


 「西陣産業創造會舘」になった電話局

 京都新聞や烏丸経済新聞などによると、上京区の西陣IT路地が、2016年10月、西陣産業創造會舘としてリニューアルオープンしたそうです。

 同館のウェブサイトによると、この施設は「NPO法人京都西陣町家スタジオが、京都府、NTT西日本と連携して運営する」もので、「起業を目指す人や創業間もないベンチャー企業、フリーランスで働く小規模事業主」らを支援するインキュベーションセンターだということです。

 スモールオフィスやコワーキングスペース、ミーティングルームなどを提供するほか、ビジネスマッチングや専門家による相談、イベントなどを実施します。

 なぜこの記事が目に留まったかというと、その建物に関心があるからでした。

 旧京都中央電話局西陣分局。

 かつての電話局がインキュベーションセンターになった--ということなのですが、この旧電話局の建物がふつうじゃないんですね。

 トルソ

 電話局の壁面とは思えない、女性のトルソ。踊り子?

 そして、

  ライオン

 あんな上には、ライオンの顔も!

 これが、中立売通堀川東入ルの静かな一画にあるのですから、少し驚きでしょう。


 夭折の建築家・岩元禄の名作

 この建物は、大正10年(1921)に建築されました。いまから100年近く前です。
 造ったのは、岩元禄(1893-1922)という建築家ですが、彼は30歳を前にして亡くなりました。最初に設計したのが、この建物。ついで東京・青山電話局、そして箱根の旅館を設計。その3つだけが実作で、現存するのはこの建物のみです。

  旧西陣電話局 ファサード(北側)

 細部も素晴らしいですが、全体のフォルムも印象的です。いわゆる表現派ですね。ファサードに、放物線を大胆に取り入れています。

 旧西陣電話局 

 側面も、楕円の付け柱が並んでいて、迫力があります。

  旧西陣電話局 東側面

 私が好きなのは、ここを見上げたところ。

 見上げ

 これ、女性なんですよ、よく見ると。

 どういうポーズなのか、文化庁の説明には「東面2階庇(ひさし)下を踊り子のレリーフ・パネルで飾る」(国指定文化財等データベース)と書いているのですけれど、そんな言葉では済まないような、ヘンな体勢です。

 でも、すごいですね、これは!

 中川理氏は、「裸婦が全面に描かれた正面のデザインは、当時としては驚くべきものであった。この建物は、西洋の様式に則って設計するのではなく、個人の自由な表現として初めてわが国に現れた建築だったと評価されるものである」と述べています。

 戦前、郵便や電信電話を所管した官庁が、逓信(ていしん)省です。
 逓信建築には、デザイン的にすぐれたもの、前衛的なものが、たくさんありました。京都にも、西陣の電話局と兄弟分にあたる京都中央電話局上分局や、中央電話局(旧新風館)が現存しています。いずれも、逓信建築の雄・吉田鉄郎の設計です。
 多くの都市で、すぐれた逓信建築が取り壊される中、これだけ残されている京都は幸せと言うべきでしょう。

 この西陣の旧電話局は、10年前に重要文化財に指定されたので、取り壊される心配はありません。
 百年の時を刻んだ建築は、おそらく若い起業家たちのセンスに受け入れられるのではないでしょうか。真新しいビルよりも、むしろ歴史のある建物の方が創造力を刺激するものです。

 また、施設名にもあるように、この場所は「西陣」の一画です。西陣の中心部からみると、東の方になりますが、京都の産業界を牽引した伝統ある機業地なのです。
 そこに、新たな産業を生み出す施設がリニューアルオープンするのは、とてもよいことですね。
 私も、近年個人的に西陣への思いが強くなっているので、まことに慶賀すべきことだと思います。

 京都における歴史的建造物の生かし方として、よいケースになるといいですね。




 西陣産業創造會舘

 所在  京都市上京区油小路通中立売下ル甲斐守町
 見学  インキュベーション施設として利用可
 交通  市バス「堀川中立売」下車、徒歩約3分
 


 【参考文献】
 京都建築倶楽部編『モダンシティー KYOTO』淡交社、1989年
 石田潤一郎ほか『近代建築史』昭和堂、1998年
 中川理『京都 近代の記憶』思文閣出版、2015年


数多くの絵馬が奉納された世継地蔵に、庶民の願いをみる





世継地蔵


 富小路通五条下ルの上徳寺

 京都の中心街を北から南へとつなぐ富小路通(とみのこうじどおり)は、五条通に至ると、進路をやや西に振ります。
 そのため、まっすぐでは見えるはずのない京都タワーが、真正面に見えるようになります。

 富小路通

 この不思議な光景に魅かれて通りを進んでいくと、あたりが寺町であることに気付きます。
 このあたりは下寺町(しもてらまち)と言うそうで、三条や四条あたりの寺町通と同様、豊臣秀吉の施策により寺院が集められたそうです。
 お寺のひとつに、上徳寺があります。

 上徳寺山門

 特に変わったところもない門構えですが、門札に “おや”という思いが……

  上徳寺表札

 「世継地蔵 上徳寺」と書いてあります。

 世継(よつぎ)地蔵という文句にひかれて、思わず山内へ。

 上徳寺本堂
  上徳寺 本堂

 本堂を拝し、左奥へ進んでいくと、なんとなく雰囲気が……

 上徳寺山内

 右には手水舎があり、敷いてある石畳みに沿って進んでいくと、お堂があります。


 子を授ける世継地蔵

 世継地蔵
  地蔵堂

 世継地蔵を祀る地蔵堂です。
 明治4年(1871)の建立だそうです。

 礼拝して驚くのは、お堂のまわりに無数の絵馬が懸けられていることです。

 絵馬掛所

 よだれ掛け絵馬

 よだれ掛け絵馬というらしく、赤ちゃんのよだれ掛けとともに奉納されています。
 これは、子を授けてくださいという祈願なのです。
 絵馬自体には、ほおずきの絵が描かれていますね。

 絵馬

 これだけでも、多くの方から信仰されていることが分かります。
 さらに、お堂の上を見てみると、額や古い絵馬が懸けられていました。


 明治時代の絵馬

 こちらは、御詠歌の額です。

 御詠歌額

 「ありがたや めぐみふかきを千代かけて 家の世つぎをまもるみほとけ」と書いてあります。

 御詠歌も、家を継ぐ “お世継ぎ” を願う気持ちが表れています。
 
 そして、古い絵馬も。

 絵馬

 ひとつずつ見ていくと、明治時代の絵馬が多いことが分かります。

 絵馬は、現在では願い事をする際に願文を書いて奉納します。しかし、もともとは願い事が成就した暁に神仏に奉納することが多かったのです。

 絵馬・何某

 これは明治11年(1878)11月に奉納された絵馬ですが、額の上部に「御礼」と記されています。
 このようなことは、絵馬の絵柄を見ていくと、よく理解できます。

 絵馬・奉納者不詳

 時期が不詳ですが、授かった赤ん坊を抱いた夫婦が御礼参りに来ているさまを描いています。

 絵馬・菱田

 これは、明治29年(1896)に菱田菊松が奉納したものですが、こちらも赤ん坊を抱いた夫婦です。

 絵馬・千代女

 明治34年(1901)の絵馬。お堂の前に敷かれた畳に座る幼女。
 絵馬によれば、4歳の千代女という子どもです。これはどういうことでしょうか、誕生し成長した本人が御礼を述べているのでしょうか。
 ちなみに、現在でもお堂の前には祈願する人のために畳が敷いてあります。


 お堂の裏には投入口が…
 
 お堂の裏に回ってみます。
 すると、ポストの口のようなものが開いています。

 投入口

 説明によると、これは地蔵尊の近くに開けられた文入れ口で、所願や謝恩を便箋に書いて、地蔵尊の名を3回唱えて入れるとのことです。
 また、便箋の右にはノートも備え付けてあり、祈願者の切実な思いが綴られていて胸を打ちます。


 かつては、おみくじも

 さらに側面に回ると、ここにはかつておみくじが設置されていたようでした。

 御籤授与

 くじを引く場所の上には、番号ごとにお告げを記した額が掲げられています。
 例えば、大吉(五)には「千代かけて捨てぬ誓ひを頼む人 心の底のあら頼もしや」といった文句が書かれています。

 御籤扁額

 この額は、慶応元年(1865)5月に奉納されたもので、施主は堺屋米とあります。
 私が気になったのは、その左、額縁に書かれた「鈴木りう」という名前でした。

 御籤扁額額縁

 確かに、聞き覚えのある名前。
 これは、建仁寺にある摩利支天・禅居庵に奉納された灯籠や額に刻まれていた名前ではないか……

 その灯籠などは、鈴木りつという七条新地・平居町の女性が奉納したものでした。おそらく鈴木りつは、新地の貸座敷の女将だっただろうと考えていて、それに連なる一族の名前に鈴木りうもあったのです。
 当時私は、りうは、りつの娘ないしは嫁と想像していました。

 しかし、禅居庵の奉納額は明治21年(1888)のもの、灯籠はずっと新しい明治30年(1897)のものでした。
 ということは、当地の額は幕末ですから、りつよりも、りうの方が年上ということになりそうです。
 つまり、りうは、りつの母だったのか?

 ちなみに、この上徳寺のある場所から七条新地・平居町までは、目と鼻の先です。

 以前の記事は、こちら! ⇒ <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 最後に意外な人名に出会い驚いたのですが、この世継地蔵、霊験あらたかなお地蔵さまと拝察しました。

 それにしても、子授けのご利益のあるお地蔵さんとは、珍しいのではないでしょうか?
 その理由を考えてみると、お地蔵さんは子供の守護をされる、ということがあります。
 仏典などにはそのようなことは記されていないそうですが、日本では「今昔物語集」のような仏教説話で、お地蔵さんは “小さな僧” に変じて登場されるという話が多いのです。それが変化して、子供と結び付いたとも考えられるようです。

 こういうことがさらに変わっていき、子供を授けてくれる、というご利益になったのかも知れませんね。




 上徳寺 世継地蔵

 所在  京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「五条」下車、徒歩約5分
 


 【参考文献】
 速水侑『地蔵信仰』塙新書、1975


きょうの散歩 - 三条通から京都駅へ歩けば - 2016.10.16 -





麩屋町通


 にぎわう新京極、寺町、四条

 10月から11月にかけては、暑からず寒からず、街を歩くには絶好の季節ですね。

 京都の秋の観光というと、どうしても紅葉を見に行ってしまいがちですが、ごくふつうの町をぶらっと歩くのも一興に思えます。

 今日は、京都駅方面に用事が出来たので、そこまで歩いてみることにしました。
 スタートは、三条通。

 三条通から京都駅、つまり七条通の少し南(塩小路通)まで、まっすぐ行けば 2キロ半ほどの道程です。
 少し東西に歩いても、3キロばかり。
 意外に近いでしょう。

 三条通 三条通

 三条通も、河原町-寺町間のアーケードのところは、やはりにぎわっていますね。
 そこから、寺町通を下がって行くと、若い人や外国からの旅行者でごった返しています。京都は、アジアからの観光客も多いけれど、欧米の方もたくさん見掛けます。
 ツーリストは、やはり新京極、寺町、錦、四条といった目抜き通りを歩く方が多いのです。

 最近、寺町通は、新しいショップもたくさんオープンして、見ていてあきません。
 古い小さなネーム屋さん(「ネーム」というのは、背広などに入れる刺繍の名前)の隣に、新しく靴のリペア専門店が出来ていたり、長い歴史を持つ念珠店がオシャレに改装していたり。帽子店、靴店なども、若い人向きですね。

 安田念珠店 念珠店の看板 

 三条通から四条通までは、およそ500m。
 ちょうどよい長さで、2、3の店をひやかして、四条通に出ます。

 寺町通 寺町通の入口(四条通側)

 寺町四条の南西角にあるフジイダイマルを少しのぞいて、さて、どこに行こうか? と思案します。
 一筋西は御幸町(ごこまち)通、その次は麩屋町(ふやちょう)通。いずれも古風な通り名ですが、今日は麩屋町を下がって行くことにしました。


 ひっそりとした下京の町並み

 四条通から南、御幸町、麩屋町、富小路……といった街路は、車一台が通れば幅一杯の狭い道。いずれも一方通行です。
 そして、観光客には無用に思える “なにもない” ふつうの町なのです。
 でも、私には、このひっそり感が心地よく、折にふれて散歩します。

 麩屋町は、ふだん余り歩かない道のようで、見馴れぬ学校の建物があったりします。
 よく見ると、いまは学校歴史博物館になった旧開智小学校の西裏側なのでした。いつも御幸町通の正面をよく通るので、この裏側は記憶になく、立ち止まってしばし建物を見上げます。
 
 四条通から、綾小路、仏光寺と南へ下がり、高辻通は2車線あるこの辺では広い道で、交差点にも信号があります。
 次の松原通は、古くから五条大橋へ至る要路でしたが、いまは静か。松原麩屋町角には、石不動と通称される不動寺があります。

 さらに歩いて行くと、五条通が見えて来て、以前レポートしたこともある朝日神明宮を越えると、五条通です。
 
 五条麩屋町上ル 麩屋町通五条上ル

 この場所は、現在は下京区です。

 歴史的に言うと、下京(しもぎょう)は室町通を軸にして南北に延びる町でした。北は二条通あたりから、南は松原通あたりまで。祇園祭の山鉾を出す町が、ここに含まれています。戦国時代から江戸時代につづく、京都の中でも富裕な地区でした。

 ただし、今日歩いた麩屋町通は、下京の町の外(東方)でした。
 かつての下京は、およそ現在の烏丸通よりも西なので、いまにぎやかな新京極、寺町、御幸町、麩屋町……は、町の東のはずれだったのです。

 京都の繁華街のひとつに河原町通がありますが、ここは名前の通り、鴨川の河原だったわけです。豊臣秀吉が築いた御土居(おどい。京都の街を囲む土塁)は、ほぼ河原町通の位置にありました。
 もちろん、今日歩いたところも江戸時代には町になっていくのですが。

 そんなことを思いながら、幅員の広い五条通へ。
 麩屋町通は、ここで途切れ、仕方なしに西隣の富小路通を歩くことにしました。

 富小路の京都タワー

 富小路通からは、なぜか京都タワーが真正面に見えます。

 どうやら、五条通以南は通りが斜めに振っており、かなり西にあるはずの京都タワーが正面に来るようでした。
 これも、この辺が都市の西端にあたり、鴨川に沿って街路が斜めになっている影響です。

 この富小路で、興味深い場所に行き当たったのですが、それは次回に。

 


 麩屋町通

 所在  京都市下京区八文字町ほか
 見学  自由
 交通  阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都の大路小路』小学館、2003年



1万円札の肖像にも納得 ! ? 福澤諭吉の先見の明に驚く! - 『学問のすすめ』を読んでみた -

人物




  学問のすすめ・講談社学術文庫版 福沢諭吉『学問のすゝめ』伊藤正雄校注、講談社学術文庫


 『学問のすゝめ』の原文を読む

 前回、案内本に導かれて、内容をつかんだ福澤諭吉『学問のすゝめ』(1872年~76年刊)。

 ちょっとおもしろそう! という気分になったので、原典を読んでみることにしました。

 『学問のすゝめ』には、岩波文庫版や講談社学術文庫版などがあり、手軽に読めます。
 また、現代語に訳したものとして、伊藤正雄氏の訳(岩波現代文庫版)や齋藤孝氏の訳(ちくま新書版)などがあります。

 現代語に訳すほど難解な文体でもないのですが、まったく注釈がないと読みづらいのも事実。
 そこで、今回は注釈の充実している講談社学術文庫版で読んでみました。伊藤正雄氏の校注です。


 人は、みな平等

 旧幕府の時代には、士民[武士とそれ以外の人々]の区別はなはだしく、士族はみだりに権威を振ひ、百姓・町人を取り扱ふこと目の下の罪人のごとくし、あるいは切り捨て御免などの法あり。
 (中略)
 百姓・町人は由縁(ゆかり)もなき士族へ平身低頭し、外にありては路(みち)を避け、内にありては席を譲り、はなはだしきは自分の家に飼ひたる馬にも乗られぬほどの不便を受けたるは、けしからぬことならずや。
 
 右は士族と平民と一人づつ相対したる不公平なれども、政府と人民との間柄に至りては、なほこれよりも見苦しきことあり。
 (中略)
 そもそも政府と人民との間柄は、(中略)ただ強弱の有様を異にするのみにて、権理[権利]の異同[ちがい]あるの理なし。百姓は米を作りて人を養ひ、町人は物を売買して世の便利を達す。これはすなはち百姓・町人の商売なり。政府は法令を設けて、悪人を制し、善人を保護す。これはすなはち政府の商売なり。
 (中略)
 双方すでにその職分を尽くして、約束を違(たが)ふることなき上は、さらになんらの申し分もあるべからず。おのおのその権理通義を逞(たくま)しうして、少しも妨げをなすの理なし。 (第二編) 
 ※[ ]内は引用者が補いました。

 福澤は、こう述べた上で、江戸時代は「御上(おかみ)」と言って、武士は、道中の宿代は踏み倒すは、人足に代金を払わないどころか逆に酒代を巻き上げるは、さらには年貢を増額し、御用金を言い付けるなど、ひどいことだった、と言っています。
 御上は、百姓・町人に対して ”「御恩」があるから、それに報いよ” と言うが、それなら百姓・町人だって “年貢を取られるのは厄介なことだ” と言えるんじゃないか、と述べています。

 これが明治6年(1873)に書かれているのは、ちょっと驚きですね。ふつう、幕府が倒れて僅か数年で、こういうことはなかなか言えないのではないでしょうか。

 伊藤正雄氏の解説によると、福澤は米国の学者ウェーランドの『修身論』に強い影響を受けたということです。
 そこに記された「神の目から見れば、人間はすべて平等であり、基本的人権には上下の差別がない」という記述ーー相互対等の観念(reciprocity)というそうですが、これに感化されました。

 福澤は、“江戸時代みたいな悪い考え方が起こったのは、人はみな平等という趣旨を踏まえず、人を貧富とか強弱で判断していたからだ” というふうに解釈しています。
 「ゆゑに人たる者は、常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり」として、「西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ」または「エクウヲリチ」といふ」と言っています。
 まさにここに、reciprocity と equality が登場するのです。

 似たようなことは、男女平等についても言っています。男尊女卑の傾向は、男は力が強くて女は弱い、という状態を捉えて、女は男に従うべきだと履き違えている、と考えます。
 「畢竟[つまるところ]男子は強く、婦人は弱しといふところより、腕の力を本(もと)にして男女上下の名分を立てたる教へなるべし」と喝破しています。

 福澤の話を聞いていると、現代人よりもむしろ進歩的だなぁ、と思わせる側面もあり、また140年も前にこういう思想を堂々と述べていることが驚異的にも思えてきます。


 官に頼る風潮を叱る

 『学問のすゝめ』が書かれたのは明治初期です。いわゆる文明開化を推し進めるのも国、つまり「官」の仕事でした。
 福澤は、官尊民卑を批判し、官民対等の立場を取ります。

 しかるにこの学校・兵備は、政府の学校・兵備なり。鉄道・電信も政府の鉄道・電信なり。石室[石造や煉瓦造の建物]・鉄橋も政府の石室・鉄橋なり。
(中略)
 人みないはん、「政府はただに力あるのみならず、兼ねてまた智あり。わが輩の遠く及ぶところにあらず。政府は雲上にありて国を司り、わが輩は下に居てこれに依頼するのみ。国を患(うれ)ふるは上(かみ)の任なり。下賤の関はるところにあらず」と。 (第五編)

 
 このような政府の力をみて、人々は「一段の気力を失ひ、文明の精神は次第に衰」えると憂いています。民心が委縮するというわけです。

 そして、興味深いことを指摘します。
 それは、一国の文明は、政府から起るのでもなく「小民」から起るのでもない、その中間から起るのだ、ということです。
 この「中間」のことを

  「ミッヅル・カラッス」

 つまり、middle-class というわけです。

 実例として、「蒸気機関はワットの発明なり。鉄道はステフェンソンの工夫なり。はじめて経済の定則を論じ、商売の法を一変したるはアダム・スミスの功なり。この諸大家は、いはゆる「ミッヅル・カラッス」なる者にて、国の執政にあらず、また力役の小民にあらず。まさに国人の中等に位し、智力をもつて一世を指揮したる者なり」と述べるのです。

 ここに、福澤が期待する「学問」を身に付けた国民の像がよく表れているのではないでしょうか。


 若者への期待

 福澤は、生活に汲々として学問の途からドロップアウトすることをよしとしません。

 「およそ世の事物、これを得るに易きものは貴からず。物の貴き所以(ゆえん)は、これを得るの手段難(かた)ければなり」として、学問を成就するには、それなりの苦労が伴うと強調しています(第十編)。苦労して身につけたからこそ、価値があるというわけです。
 当時の「洋学生」のように、3年ほど勉強をして官員になる風潮を苦々しく思っていたようです。

 だからこそ、生計を立てて生きて行くことは(現実問題として)大事だとしながらも、本人のためにも天下のためにも、大いに学問すべきだと主張します。

 学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ。商たらば大商となれ。学者小安[小さな安定]に安んずるなかれ。
 粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗(つ)くべし、薪(まき)も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。
 人間の食物は西洋料理に限らず。麦飯を食ひ、味噌汁を啜り、もつて文明の事を学ぶべきなり。 (第十編) 


 「学問は米を搗きながらもできる」との言葉は、身に沁みます。


 人望を得る方法

 『学問のすゝめ』の最後、第十七編で、福澤は “人望を得ることが大切だ” と述べています。
 そして、その方法として、3つのアドバイスを与えてくれます。

 ひとつめは、言葉を巧みに操って、弁舌を磨くことです。
 先に、第十二編でも「演説(スピイチ)」を勧めた福澤でしたが、ここでも改めて弁論の大切さ繰り返しています。
 
 ふたつめは、意外なことに、顔色・容貌を快活にすべきことをあげています。
 まずは、第一印象で損をしないこと。そして、他人が近付きやすい快活さを持つことが肝要だというのです。
 顔色や容貌は、家の門のようなもので、門口がきれいであれば人も近づいて来るだろう、と言っています。

 これが三つめの、交際を活発にするのがよい、という点につながってきます。
 それもいろいろなところで、友を増やしていくのがいいと述べています。

 「人にして人を毛嫌いするなかれ」

 これが『学問のすゝめ』最後のひと言。
 好き嫌いなく、ジャンルも超えて、多くの人と付き合って行こう--ポジティブな福澤らしい「すすめ」です。

 福澤諭吉『学問のすゝめ』。
 実際に読んでみると、イメージしていたものとは随分異なっていて、ずいぶん平易に書いたなぁ、という印象です。近代西欧で培われた思想を咀嚼しつつ紹介するのですが、文章は庶民にも分かるよう、たとえ話をふんだんに盛り込んで、相当くだけたものになっています。サムライだった福澤が、まさに裃(かみしも)を脱いで、やさしく人々に語りかけた書物と言えるでしょう。

 一読して、ここで説かれた思想が、今日の私たちの社会を形作っていったことがよく分かります。さすがに、1万円札の肖像に選ばれたのもむべなるかな、という感じです。
 そして、若者を鼓舞しつづける福澤の言葉は、21世紀に読んでも新鮮な響きがあるのでした。




 書 名 『学問のすゝめ』
 著 者  福澤諭吉
 校注者  伊藤正雄
 刊行者  講談社(学術文庫)
 刊行年  2006年


「学問のすすめ」の真意とは? - 齋藤 孝『福沢諭吉 学問のすゝめ』ー

人物




  学問のすすめ 齋藤孝『福沢諭吉 学問のすゝめ』NHK出版


 NHK「100分de名著」ブックス

 書店に行くと、いろんな棚を隈なく見るのは職業病かも知れません。なぜか、NHKテキストの棚もよく見るところのひとつです。
 テレビ番組を書籍化したものもあり、その中に<NHK「100分de名著」ブックス>というのがあります。
 専門家が25分×4回で、古今東西の名著を紹介するものです。かなり書籍化されているようで、『ドラッカー マネジメント』、『兼好法師 徒然草』、『サン=テグジュペリ 星の王子さま』、『夏目漱石 こころ』など、もう20数冊出ているようです。

 一昨日、手に取ったのは『福沢諭吉 学問のすゝめ』。教育学者の齋藤孝さんが解説されています。
 なぜ福澤諭吉に目が留まったかと言えば、先日ある講座で話した本山彦一という人物が、明治の初め、福澤に師事し、その影響を受けたからでした。


 京都の学校に感激した福澤諭吉

 福澤は、慶應義塾の創設者ですし、中津藩(現在の大分県)の武家の出身だし、あまり関西に関係しそうにありません。
 しかし実際には、生まれは大坂の中之島、つまり中津藩の蔵屋敷で誕生しましたし、20歳台前半には大坂・適塾で学んでいました。大阪人とは言えないまでも、大阪とはゆかりがあったわけです。

 京都にも来ています。
 すぐに思い出すのは、福澤が京都の学校を視察したレポート「京都学校の記」です。

 これは、明治5年(1972)5月、京都を訪れた福澤が、京都の小中学校を事細かく調べた記録です。
 そこには、京都には64の学区があり(実際には65区)、7~8歳から13~14歳の者が貧富の別にかかわらず教育を受けられること、手習(筆道)や読書、数学を学んでいること、中学校では英語などの語学も教えていること、学校の費用は半分は官費だがもう半分は学区に出させていること、明治5年4月の小中学生の数は1万5千人余りで、男女比は10:8であること、などが記されています。

 詳しくは、以前の記事をご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮>

 「京都学校の記」の結びに、福澤は次のように記しています。

 民間に学校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今、京都に来り、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦(よろこび)、あたかも故郷に帰りて知己朋友に逢ふが如し。おおよそ世間の人、この学校を見て感ぜざる者は、報国の心なき人といふべきなり。

 彼が京都の学校を見たのは、明治5年5月。
 そして、「学問のすゝめ」初編が刊行されたのが、同じ年の2月。
 「学問のすゝめ」は17編もあって明治9年まで出し続けられるのですが、最初に出版された直後に京都に来、すぐれた学校教育を見て感嘆しているのです。福澤が教育の重要性を認識していたことが、よく理解できます。


 意外に読まれていない? 名著
 
 齋藤孝さんの『福沢諭吉 学問のすゝめ』は、最初にこのように述べています(適宜改行しています)。

(前略) この本はどんな内容だと思いますか? と若い人などに聞いてみると、次のような答えが返ってきます。

 もっとも多いのは、「人間の平等を説いた本」です。おそらく、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という、あまりにも有名な冒頭の文章からの連想でしょう。

 二番目に多いのは「学問をすすめた本」です。タイトルそのまんまです。そのどちらも間違いではないのですが、福沢のいちばん言いたかったことからははずれています。

(中略) 福沢は人間の平等を説いたわけではありません、そうではなく、人間は学問をするかしないかによって大きく差が付つく。だから、みんな頑張って学問に精を出せーー、と言ったのです。 (15ページ) 


 おもしろいですね。

 「学問のすゝめ」原文では、その冒頭は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と書いています。

 これは、

(世には)「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

 という意味です。
 最後に「といへり」とあるところがミソなのです。

 カギカッコ内の文は、福澤がアメリカの独立宣言の一部を意訳したものだ、ということです。
 確かに、独立宣言(1776年)を見ると、「すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」と記載されています。「すべての人間は生まれながらにして平等」とか「創造主」というのを「人の上に人を造らず」とか「天」とか意訳したのでしょうか。

 齋藤さんが尋ねた若い人たちは、「天は人の上に…」を福澤自身の言葉と思って、平等を説いた本、と考えたのでしょう。

 でも、実際はこの後に、世の中には「かしこき人」も「おろかなる人」も「貧しき」も「富める」も「貴人」も「下人」もいて、雲泥の違いがあるが、それはどういうこっちゃ! と言っています。
 そして、その答えとして「学問の力」のあるなしの差であると言い、天が決めたものではないのだ、と喝破するのです。

 おぉ、だから “学問のすすめ” なのかぁ、となるわけですね!

 講談社学術文庫版「学問のすすめ」 『学問のすゝめ』講談社学術文庫


 学問って何だ!

 では、福澤が言う「学問」って、何なのでしょうか?

 学問とは、ただむづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学をいふにあらず。(初編)

 なるほど、難しい字を知っていたり、難解な文章が読めたといって自慢していたらアカン、と。
 他のところでは、いくら「古事記」を暗唱したって、今日の米の相場を知らなかったら、実生活の学問には弱いヤツだ、と指摘しています。
 あるいは、ノコギリやカナヅチの名前を知っていたって、実際に家を建てられない人間は大工とは言えないだろう、とも言っています。

 こういったヤカラは「飯を食ふ字引」だ! と言い切るのです。

 飯を食う字引、って、すごい比喩ですね。
 まあ、難しい字句をもてあそんでばかりいて、実際に役立つ学問は何も知らない、ということなのでしょう。

 福澤は、実学がおすすめだったわけです。


 演説の重要性

 齋藤氏の導きによって「学問のすゝめ」を読んでいくと、“スピーチの効用” というのが出て来ます。

 演説とは英語にて「スピイチ」といひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思ふところを人に伝ふるの法なり。わが国には古(いにしえ)よりその法あるを聞かず。(第12編)

 原文では、お寺の説法はこの類だろうとしつつ、西洋では議会でも学会でも会社でも市民の会合でも、十数名が集まれば、会の趣旨を述べたり、持論を述べたりするのだ、と紹介しています。

 英語の speech を「演説」(ないしは「演舌」)と訳したのは、福澤だと言われています。

 それにしても、明治になるまで、日本に演説がなかったとは意外です。人前で堂々と自分の意見を述べるということは、いつの時代にもありそうなものですが。

 さらに私がおもしろいと思ったのは、次の一節です。

しかるに学問の道において、談話・演説の大切なるはすでに明白にして、今日これを実に行なふ者なきは何ぞや。学者の懶惰(らんだ)といふべし。

人間の事には内外両様の別ありて、両(ふたつ)ながらこれを勉めざるべからず。今の学者は内の一方に身を委(まか)して、外の務めを知らざる者多し。これを思はざるべからず。
私に沈深なるは淵のごとく、人に接して活発なるは飛鳥(ひちょう)のごとく、その密なるや内なきがごとく、その豪大なるや外なきがごとくして、はじめて真の学者と称すべきなり。(同前)


 ここでいう「談話」は、ディスカッション(議論)を指すそうです。

 学問で、演説や議論が大切なのは明白なのに、誰も行わないのは学者の怠慢である、と厳しく責めています。
 内に向かう沈思黙考のベクトルと、“他人に伝えよう” という外に向かう活発な精神が、ともに必要だと説くのです。

 齋藤氏によると、福澤が求めた「活発な」人材とは、性格のことではなく「社会的人格」としての活発さだと言います。

 社会の中で自分の考えをはっきりと表明し、人とコミュニケーションを取り、ディスカッションをする。また多くの人の意見を聞いて、自分の考えにフィードバックする。そんな社会的活発さを求めたのです。(83ページ)

 150年近く経った現在でも通用する指摘でしょう。
 「学問のすゝめ」には、いまも耳を傾けるべき卓見がちりばめられています。

 「学問のすゝめ」を原文で読んでみようと思った方は(まぁ、それは私ですが…)、講談社学術文庫版『学問のすゝめ』(伊藤正雄校注)を読んでみるのもいいかも知れませんね。




 書 名  『福沢諭吉 学問のすゝめ』
 著 者  齋藤 孝
 刊行者  NHK出版
 刊行年  2012年



【大学の窓】大学のアウトリーチと写真の見方

大学の窓




清水寺


 大学のアウトリーチ活動

 今日は、私の勤務する博物館と、関西のK大学の付属博物館とで連携講座を行いました。

 3回連続の初回は私が担当で、前々回紹介した本山彦一(大阪毎日新聞社長)の新聞事業と考古学のかかわりについて話しました。

 大阪の新聞社は、明治時代から、人気投票のような読者参加型の企画や、紙面とイベントを連動して販売促進する “メディアイベント” を盛んに行ってきました。
 大阪毎日が、明治33年(1900)に行った俳優の人気投票などは、数百万もの票が投じられ、投票用紙は新聞についているので、おそろしいほどの販売促進になったのです。現在のAKB「総選挙」と同じですね! 百年も前からやっていたとは ! !
 そして、毎日がこれをやったら、他紙が “邪道だ” と批判して、論戦になりました。こういう構図も、なんか今っぽいですね。

 もうお分かりのように、現在、朝・毎両紙が主催している高校野球は、このメディアイベントの最も成功した例なのです。

 今日の話は、考古学の発掘もメディアイベント的な側面があったけれども、そのことが考古学への援助につながり、学問の発展にも寄与し、社会にも知識を広めることができた--というものでした。

 本山彦一
 採集旅行中の本山彦一(『松陰本山彦一翁』)

 このような講座は、大学が学外の市民に対して学術を普及するという意味で、いわゆるアウトリーチ活動として捉えられます。

 アウトリーチとは、あまり耳なじみのない言葉かも知れません。

 文部科学省が定義するアウトリーチ活動とは、

国民の研究活動・科学技術への興味や関心を高め、かつ国民との双方向的な対話を通じて国民のニーズを研究者が共有するため、研究者自身が国民一般に対して行う双方向的なコミュニケーション活動を指します。

 とされています。

 まあ、国もこんな文章を書いているうちは、「国民一般」とコミュニケーション出来ないだろうという話は別として……
 多くの方々に、大学で研究されている学問内容を分かりやすく伝えることは、とてもよいことですね。

 先日のノーベル医学・生理学賞でも、大隅良典氏の「オートファジー」が、何のことやらよく分からなかったですからね、解説を聞くまでは(聞いても分からん、という話もありますが……)。


 秋学期の授業、はじまる

 そんななか、非常勤でうかがっている京都の上京大学(仮称)の秋学期も始まりました。
 私は、1回生の演習科目を指導しています。2つのグループがあって、「写真」と「繁華街」をそれぞれテーマにしています。

 先週は、秋の初回だったのですが、夏休みの様子を聞いてみました。
 各自、問題意識を持って調査してもらったようです。

 やはり、写真の研究は難しそうですね。
 1枚の写真を前にして、どう分析していったらよいのか困るでしょう。

 学生に心掛けてほしい写真の見方は、まず、

 “5W1Hを考える”
 
 というものです。

 5W1Hとは、

 ・いつ(when)
 ・どこで(where)
 ・だれが(who)
 ・なにを(what)
 ・なぜ(why)
 ・どのように(how)

 ですね。

 新聞記事の書き方の基本事項などで、よく目にします。

 写真を見る際にも、5W1Hを意識すると、うまくいきます。

 ・いつ撮影されたのか?(撮影時期)
 ・どこで撮影したのか?(撮影場所)
 ・だれが撮影したのか?(撮影者)
 ・なにを撮影したのか?(被写体)
 ・なぜ撮影したのか?(撮影目的)
 ・どのように撮影したのか?(レンズ、フィルム、露出、アングル等)

 これらひとつひとつを調べて確定させ、さらにその関係を考えていきます。
 そうすることで、“この写真は何なのか” ということが分かって来るはずです。

四条大橋

 例えば、このような写真。

 まず、どこか?
 これは比較的簡単に分かるでしょうか。

 大きな川が写っているから……
 そうです、四条大橋ですね。

 では、いつか?
 判定するには、景観年代といって、写っているもの、あるいは「写っていないもの」から判断する方法があります。
 遠景に山並みがあり、これは東山でしょう。つまり、西から東を向いて撮影しています。
 すると、橋の向こうには、現在なら南座(南側)と菊水ビル(北側)があるはずです。でも、菊水ビルは明らかにありませんね。
 菊水ビルは、昭和2年(1927)竣工ですから、それより古い写真ということになります。
 こういうふうに、範囲を狭めていきます。

 あと、季節を判定する、撮影時刻を判定する、ということもできますか?

 人物の服装や、影の方向、長さを見てみてください。

 こんな具合に、5W1Hをひとつずつ調べていって、この写真がどういった写真なのかを明らかにするわけです。
 
 ちなみに、上の写真は、大正4年(1915)に京都市が発行した『新撰京都名勝誌』掲載の「四条大橋」という写真でした。
 写真の四条大橋は、大正2年(1913)3月に完成したもので、架橋されてまだ新しいもの。なんとなく綺麗に写っているのも納得できます。

 同じ場所を撮影した他の写真と比べてみると、もっといろいろなことが分かって来るでしょう。

 来週の授業では、こんなことを学生に話そうかな、と思ったりするのでした。




 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1913年
 『松陰本山彦一翁』大阪毎日新聞社ほか、1937年


連載500回! ご愛読ありがとうございます

その他




鴨川


 連載 4年余、まだまだつづく ! 

 いつもご愛読いただき、ありがとうございます!

 おかげさまで、このブログも連載500回を迎えました。
 これもひとえに、みなさんの応援、励ましの賜物です。改めて御礼申し上げます。

 ブログを始めたのが、2012年8月。
 4年2か月にわたって、3日に一度、記事を書いてきました。ということは、1500日ですか。長いような短いような日々でした。

 たまに見る BS番組に「せいこうの歴史再考」(BS12トゥエルビ)というのがあるのですが、このブログはまさに「京都再考」なんですね。

 私自身、京都生まれで、大学も京都で歴史を勉強しました。ところが、若い頃は案外京都の歴史に興味がないものです。
 よく言われるように、京都の人は金閣寺にも行かないし清水寺にも行きません。私など、自慢じゃないんですが、いまだに京都タワーにも上ったことがないんです。それくらい、観光地には行かないものです。

  京都タワー 眺めるだけの京都タワー

 ところが、40歳台頃から、生まれ育った京都の歴史に関心がわいてきたのです。たぶん歳のせいなんでしょう(笑)
 博物館のお客さんなども、やはり年配の方が多めです。自分の人生を積み重ねてくると、おのずと過去に目が向くのでしょうね。自然な感情なのだと分かってきました。


 人生と歴史のはざまで…

 私なども半世紀ばかり生きてきて、来し方行く末を考えるようになりました。すると、過去の人々について考えることも、ごく自然に出来るようになってきたのです。
 学生時代から歴史を勉強し、若い頃はどうしても “研究のための研究” をするというきらいがありました。ところが今は、自分が生きる意味と、過去の人々や出来事を重ねて考えるようになっています。
 不思議なのですが、最近は、研究をやっていても、研究々々しないというか、自分の知っているリアルな人と話をしているみたいな気分でやっているんですね。やっぱり年の功かなぁ。

 ということで、<京都発! ふらっとトラベル研究所>は、まだまだつづきます。
 今後ともよろしくお願い申し上げます!


 紅葉



京都支局が名建築の毎日新聞社の歴史について振り返ってみた





旧大阪毎日新聞京都支局


 新聞は文明の象徴

 このところ、必要があって毎日新聞についてまとめています。
 もちろん、大それたことではなく、この人について少し話す機会があるからです。

  本山彦一
  本山彦一(『大阪毎日新聞五十年』より)

 本山彦一(もとやま ひこいち)。
 幕末、熊本に生まれ、維新後は慶應義塾に学んで、東京の新聞社・時事新報に入りました。
 のち、大阪に移って実業界で活躍し、明治22年(1889)、大阪毎日新聞の相談役に就任。さらに社長になりました。
 朝日新聞と並んで、関西の2大新聞の一翼 “大毎” 中興の祖と呼ばれています。

 そう、毎日新聞は、かつては大阪毎日新聞と言い、略称は「大毎(だいまい)」だったのです。
 ちなみに、朝日新聞は大阪朝日新聞で、通称は「大朝(だいちょう)」です。
 
  大毎紙面

 だから、本社は大阪の堂島にありました。

  大毎本社 大毎本社

 白亜の殿堂というような大毎本社の回りは、瓦屋根の町家で、いかに時代を先取りしていたかが分かります。
 
 新聞は、文明の象徴という側面があって、紙面はもちろんのこと、社屋もそうですし、印刷する輪転機もそうでした。
 戦前、新聞社の紹介には高速輪転機がつきものでした。

 印刷機
 『大阪毎日新聞五十年』に掲載された印刷機の写真

 先の写真の社屋ができた大正11年(1922)、大毎には17台のマリノニ式輪転機が設置されました。
 マリノニ式は、明治後期から輸入される高性能輪転機です。マリノニは考案者の名前ですね。
 
 でも、印刷機もどんどん進化して、昭和7年(1932)、これは本山彦一が亡くなった年ですが、その頃にはマリノニ式より早い高速度輪転機や、さらに早いウルトラ高速度輪転機! まで配備されていました。当時の印刷力は、4ページの新聞なら約240万部印刷可能な陣容だったと言います(もっとも新聞のページ数はもっとあるのですが)。


 中興の祖・本山彦一

 脱線しましたが、その本山彦一は、大毎の百万部を達成した中興の祖だったのですが、単なる新聞人ではなかったのです。
 
 彼は、若い頃、モースの大森貝塚発掘に刺激され、考古学に興味を抱きました。
 仕事の傍ら、遺物をコレクションし、大阪府堺市の浜寺に、本山考古室を開設しました。
 また、自分で遺跡を発掘することもありました。例えば、大正6年(1917)、大阪府の国府(こう)遺跡を発掘して、人骨を掘り出しました。そのなかには、耳飾りを付けた(正確には頭蓋骨の横に耳飾りがあった)骨も見付かるなどの発見をしました。

 京都帝大の考古学者・濱田耕作(青陵)は、本山のことを「考古学界のパトロン」と呼ぶほど、公に私に考古学を援助したのです。

 一方で、これは今から見ると “考古学とつながるのかな?” と思うのですが、歴代の天皇陵をお参りする運動を行いました。
 これを皇陵巡拝(こうりょうじゅんぱい)と呼びます。
 まあ、神話上の天皇である神武天皇陵なども含まれていますから、必ずしも考古学的な視点ではありませんけれども、そういった一環として位置づけることもできるでしょう。


 京都支局長は、考古マニア

 現在、毎日新聞の京都支局は、河原町通丸太町上ルにありますが、私の学生時代頃までは、三条通御幸町の角にありました。
 建物は、現在も残っています。

 旧大阪毎日新聞京都支局 1928ビル

 京都支局が移転したあと、保存が危ぶまれましたが、建築家の若林広幸さんが買い取り、保存・活用の途を開かれました。すばらしいことだと思います。
 現在は、無言の演劇「ギア」を上演するスペースとしても知られていますね。

 旧大阪毎日新聞京都支局 三条通に面した玄関

 ビル名通り、1928年=昭和3年に建設されました。設計者は、京都帝大教授の武田五一です。

 ビルの上部をよく見ると、大毎のマークが発見できるでしょう。中央が「毎」になっていますね。全体の星型も「大」をイメージしているそうです。

 大毎マーク

 建物の側面(御幸町通側)も、隠された見どころです。

 旧大阪毎日新聞京都支局

 特に、両開きの窓が、いい感じですよね。

 旧大阪毎日新聞京都支局

 この建物の竣工時、京都支局長を務めていたのが、岩井武俊です。
 岩井は、世の “考古記者” のはしりと言うべき存在で、考古学はもちろん、歴史や建築に造詣が深かった記者でした。
 寺社建築の写真集『日本古建築菁華』をまとめたり、京都に関するエッセイ集『京ところどころ』を編集。また『京郊民家譜』正続を刊行するなど、数多くの編著書があります。
 
 大毎への入社は、大正3年(1914)です。
 入社の面接は、本山が直々に行ったそうです。岩井の考古学や歴史の知識が本物だと知って採用したのでしょうか。
 入社後は本山と考古行脚していますが、仕事としては京都支局に配属され、大正4年の大正天皇即位礼を取材しました。
 
 その後、政治部、社会部などと異動し、京都支局に戻ったのは昭和2年のこと。翌年、京都御所で昭和天皇の即位礼が行われるからでした。
 二度にわたる「御大典」の取材。それも二度目は支局長として。
 面目躍如というべきですね。

 岩井は、本山が進めた皇陵巡拝でも案内役を務めるなど、その右腕として力を発揮しています。

 社長と一記者とが、考古学を通じて付き合っていた時代。
 なんだか「釣りバカ日誌」みたいですが、すてきな交流だと思います。




 1928ビル (旧大阪毎日新聞京都支局)

 所在  京都市中京区三条通御幸町東入ル弁慶石町
 見学  商業施設として営業
 交通  京阪電車「三条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『大阪毎日新聞五十年』大阪毎日新聞社、1932年