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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

まいまい京都ツアーのお知らせ ー 11月に頂妙寺などを訪ねて ー

洛東




頂妙寺


 三条京阪からスタート!

 今日は、<まいまい京都>さんのツアー予告です。

 これまで、みなさんと一緒に寺社を中心にいろいろ歩いてきました。今年は「大阪ツアー」も実施して、ますます好評で、ありがたく思っています。
 今回は、11月下旬に予定しているコースの紹介です。
 紅葉とかは全然出て来ませんが(笑)、それなりに楽しそうなコースと思っています。

 集合は、三条京阪です。最近ちょっと工事中ですけれど、ここから始める寺社めぐりです。
 三条京阪にお寺なんかあったかな? と思われるかもしれません。
 実は、駅の北側に、篠田屋という名物食堂と並んで、壇王法林寺があります。

 だん王法林寺
  壇王法林寺

 門標に「浄土宗 だん王」と書いてあります。壇王の読み方は「だんのう」。通称 “だんのうさん” というわけです。

 壇王法林寺は、江戸時代の初め、袋中(たいちゅう)上人が中興して、寺勢を取り戻しました。上人が祀った尊天が主夜神(しゅやじん、守夜神)です。江戸中期には大変な信仰を集め、当時京都に遊学していた本居宣長の日記にも、<主夜神の御開帳が始まったので、お参りに行った。大変にぎやかなものだ。この神さまは、最近深い信心を集めている>と書かれています。

 以前、記事を2つ書きましたので、ご参照ください。

 記事は、こちら! ⇒ <本居宣長の日記に登場! 壇王法林寺の主夜神は、江戸時代から信仰を集めている>  ⇒ <主夜神は、毎年12月に御開帳>

 当日は、本堂の参拝をさせていただく予定です。


 仁王門が信仰を集めた頂妙寺

 次は、その北にある頂妙寺です。
 頂妙寺さんと言えば、仁王門通の名前の由来になった仁王門が有名です。

 花洛名勝図会(頂妙寺)
  「花洛名勝図会」より頂妙寺

 名所図会にも描かれた頂妙寺。
 ツアー当日は、そんな絵も見ながら、仁王門やさまざまなお堂の説明をしてみたいと思っています。こちらも、驚きの歴史がありそうですよ。

 この2つだけでも、結構おもしろいと思うのですね。
 でも、もうちょっと欲張りをして、鴨川の西にも足を延ばしてみましょうか。

 御池通を進んで、定番とも言える本能寺へ。
 信長が討たれた本能寺の変は、ご存知のように、前の場所にあった本能寺で起きたもの。現在の本能寺は、秀吉の寺町形成のあと移転してきたものです。

 それでも、「都名所図会」などと比べると、境内の様子は随分変わっています。
 本堂は、私の尊敬する天沼俊一博士の設計。--ということは、いつの時代に出来たのかな?
 そんなお話もしながら、境内を見て回りましょう。


 西国霊場の革堂へ

 さらに、寺町通を北上。
 このあたりは、私にとっては大学時代によく歩いた懐かしいところです。パイプのおやじさんがいた書店・三月書房も、息子さんが跡を継がれて健在。うれしい限りです。

 革堂
  革堂(行願寺)

 西国三十三所観音霊場の札所、行願寺(ぎょうがんじ)です。革堂(こうどう)という名称で古くから親しまれています。
 上京の町衆が集ったお堂としても大切な歴史を刻んできました。

 本堂は、江戸後期のもので、こってりとして味わいがありますね。
 堂内に懸けられた御詠歌の額なども、信心に満ち溢れており、心が洗われます。

 革堂の額 革堂の奉納額
 
 だいたい、こんな感じでしょうか。
 われながら、なかなかおもしろそうなコースですね(笑)
 江戸時代に信仰されていたお寺が多いのですが、明治以降、適度に変化していますからね。
 
 このあたりは、まいまい京都さんでもツアーしたことがないそうなので、その意味でも楽しみです。

 参加申し込みは、<まいまい京都>ウェブサイト から、お願いします。
 10月上・中旬に情報がアップされると思います。



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【新聞から】京都を悩ます2つの “新幹線” 問題

その他




リニアうちわ


 北陸新幹線の 3ルートが大詰めへ

 ここ数日、新聞紙上をにぎわしているのが、北陸新幹線の延伸ルート。
 
 北陸新幹線は、東京から信州、北陸を経由して、大阪に至る整備新幹線です。昨年(2015年)3月に金沢まで開通し、今後、福井、敦賀へと延びることが決まっています。
 問題は、そこから先のルート。

 昭和48年(1973)に策定された新幹線の整備計画では、北陸新幹線は福井県小浜市付近を通って、大阪に至ることになっています。
 その後、さまざまな案が検討されてきましたが、現時点で候補となっているのは、3つの案です。

 ・米原ルート
   敦賀から、東海道新幹線の米原へ至る。
   滋賀県が推している案。
 ・小浜ルート
   小浜・京都ルートとも呼ばれる。
   従来の小浜ルートは、福井県小浜市から、京都府亀岡市付近を
   通る案だった。
   昨年、JR西日本が新たに、小浜から京都駅を経由して新大阪に
   至る案を提示した。
   福井県が推している案。
 ・舞鶴ルート
   敦賀-小浜から、京都府舞鶴市付近を経由して、京都駅に
   向かう。
   3案のなかで最も距離が長い。
   京都府が推している案。

 この3つです。
 最近、滋賀県が3ルートの建設経費を試算し、小浜ルートや舞鶴ルートは1兆円以上かかるが、米原ルートは約4000億円で出来る、とブチ上げて、京滋間に険悪な空気が漂い始めました。
 もっとも、米原ルートが最安価ということは、以前から衆目の一致するところで、今更どうこう言うのもキナくさいですね。

 舞鶴ルートは、全般に評判がよくなく、京都新聞(2016年4月27日付)によると、「北陸から舞鶴に行きたがる人はいない」「完全な地域エゴ」という声も出ているとか。いわゆる “我田引鉄” だというわけです。
 小浜と舞鶴は約40kmも離れており、大阪へ至るルートとしては “遠回り感” は否めません。


 リニアの方は?

 一方、以前から京都で誘致の声が上がっているリニア中央新幹線。
 名古屋までのルートは決定しましたが、それ以西は未確定です。

 当初から奈良市付近を通る計画ですが、京都関係者は盛んに京都駅経由を誘致していました。
 ところが、2016年6月の京都市長、府知事の定例記者会見で、“京都駅を通らず、学研都市経由でもいいよ” と取れる発言が出ました。
 学研都市とは、関西文化学術研究都市(通称「けいはんな学研都市」)のことで、京都府南部を含む京阪奈丘陵に位置しています。
 市長らが言ったのは、学研都市でリニアと北陸新幹線を接続させる、というプランなのです。
 どういうことかというと、北陸新幹線は京都駅を出て新大阪へ向かう途中、大阪府箕面市付近を通る北回りルートと、京都府・学研都市方面を通る南回りルートとが検討されているのです。この南回りルートに、リニア新幹線を接続する、という意味なのです。

 ふつうに読めば、もはやリニアが京都駅を通過するのはありえないから、せめて府内を通ってほしい。リニア京都駅は我慢するかわりに、北陸新幹線の舞鶴ルートを実現させてくれないかな…… ということでしょうか?

 われわれ京都府民からみても、舞鶴経由の北陸新幹線はかなり苦しいルートに思えます。
 舞鶴は、かつての軍港都市、今も日本海側の要港のひとつですが、大阪への速達性などを考慮すると適切なルートとは思えません。建設経費も最も高額で、3分の1の地方自治体負担も本当に可能なのか、疑問が拭えません。こういった京都側の主張が、北陸各県のみなさんに総スカンを喰っていることも無理からぬことです。
「週刊鉄道経済」の連載を持つ杉山淳一氏は、鉄道ルートの決定は地域の利益よりも国益を優先すべきだとして、小浜ルートを支持しています(IT media ビジネス online 2016年3月11日付)。

 私も、その考え方が正しいと思います。“我田引鉄” はよくないです。
 また、誰もが論外っぽいと思う「山陰新幹線」とくっ付けて、政治力を発揮しようとするのも、よろしくないでしょう。

 京都が抱える、ふたつの新幹線問題。
 その答えも近いうちに出そうです。
 誘致をはかる関係者には不本意な結果になるかも知れませんが、新幹線は京都だけのものではないことをお忘れなく。
 

  京都タワー


昭和の南座、古い資料をさぐってみた ― 座席から食堂まで -

洛東




現在の南座


 顔見世の番付

 前回、劇場の客席について、ぼんやりと考えてみました。
 今回は、そのつづきという感じで、南座。
 現在、耐震補強工事を控えて休館中で、今年(2016年)の顔見世も先斗町歌舞練場で開催される予定です。こういうことは、私の学生時代以来なので、随分久しぶりということになります。

  南座番付
  番付「当る戌歳 南座吉例顔見世興行」

 南座の古い資料のひとつめは、こちらです。
 関西で言うところの「番付」。現在のプログラムにあたるもので、東京の方では「筋書」と呼ぶそうです。

 この番付には、いつ発行されたということが書いてありません。ただ、表紙には「当る戌(いぬ)歳」とありますから、戌年であるということは分かります。
 大きく、南座の写真が載っていますが、どうも現在の建物らしい。
 そして、お馴染みの招き看板が、ざっと百枚余り掲げられています。百人以上の歌舞伎役者が出演したわけです。

 招き看板の最上段右端、トップの位置には「中村鴈治郎」と書かれています。
 その逆サイド、左端には「市村羽左衛門」とあって、羽左衛門(15代目)は東京の役者ですから、東西合同の興行だったのですね。

 羽左衛門は、太平洋戦争のさなか、昭和20年(1945)、疎開先の信州・湯田中温泉で亡くなっています。
 一方、中村鴈治郎(初代)は、それより10年早く昭和10年(1935)2月1日に阪大病院で没しています。
 鴈治郎最後の舞台は、前年の12月、南座で行われた顔見世、「鎌倉三代記」の三浦之助でした。すでに身体はかなり衰えていて、周囲が慮って軽い特製の鎧(よろい)を用意したら鴈治郎に “アホか” と叱られた、という逸話も残っています。しかし、さすがにしんどかったのか、3日目から休演になりました。そのまま、年明けの2月に亡くなっています。

 さて、番付を開いてみると、昼の部の四番目に「鎌倉三代記」とありました。あわてて、昭和10年の干支を調べて見ると、戌年でした。
 つまり、これが鴈治郎最後の公演の番付だったのです。そう思うと、ただの番付でなく、思いもひとしおです。

 念のため、鴈治郎の写真を1枚あげておきましょう。

 スケートに見入る中村鴈治郎
 中村鴈治郎(『中村鴈治郎を偲ぶ』より)

 素顔の鴈治郎。晩年です。
 何をしているかというと、スケートを見ているのだそうです(笑) 
 昭和7年(1932)に竣工した大阪歌舞伎座に、スケート場も併設されていて、そこで見ているところです。
 こうして素顔を見ると、面長の美男子であることが分かりますね。
 ちなみに、うしろの人は、松竹の白井松次郎社長だと思います。

 
 昭和4年にできた南座

 いま建っている南座は、昭和4年(1929)に完成した建物です。
 平成2年(1990)から翌年にかけて、改修工事が実施されています。このときの顔見世が、臨時に祇園・甲部歌舞練場で行われたのですね。

 南座竣工番付
 「南座竣工記念顔見世興行 狂言御案内」(昭和4年)

 こちらは、その竣工年に行われた顔見世の番付です。
 表紙にも「昭和四年十一月卅日開場」とあるように、1929年11月30日に新築開場しました。

 公演は昼夜二部からなり、中心は中村鴈治郎。加えて、中村福助、中村魁車、鴈治郎の次男・扇雀(二代鴈治郎)、東京から松本幸四郎(七代目)らを招きました。
 鴈治郎は、昼は「近江源氏先陣館」の盛綱、夜は「心中紙屋治兵衛」河庄の段の紙屋治兵衛。時代物、世話物の当たり役を演じました。


 新築のパンフレット

 もうひとつ、新築時に発行された小冊子です。

 南座観劇手引草
 「新築南座観劇手引草」(昭和4年)

 新しくできた南座を紹介しています。
 表紙は、いにしえの鴨河原の光景。三百年にわたる歌舞伎の歴史をイメージさせます。

 掲載された竣工時の写真です。

  竣工時の南座 竣工時の南座

 もちろん鉄筋コンクリート造ですが、いわゆる桃山風ですね。
 これより5年前に建設された東京の歌舞伎座も、同じように鉄筋の桃山風で、時代の雰囲気が感じられます。

 ちなみに、これに先立つ大正時代の南座は、こんな感じでした。

 大正の南座
  大正時代の南座(『新撰京都名勝誌』より)

 木造建築です。大正2年(1913)に完成しました。掲げられた大きな旗が印象的です。
 昭和の南座は、このイメージを念頭においているのでしょうか。

 新しい南座は、地上4階・地下1階。
 観覧席は3フロアあって、各階の左右には桟敷席(76間)が設けられました。
 しかし、他は椅子席で、定員1,612席の大劇場となりました。

 南座の客席
  東の桟敷から西北を望む

 1階と後方には椅子席が広がり、写真奥に桟敷があります。

  南座座席表 座席表

 
 どんなイスだったのか?

 前回、劇場の椅子の話をしました。
 昭和7年(1932)に竣工した大阪歌舞伎座の椅子は、シートが折り畳める椅子でした。現在の劇場でよく見る椅子です。
 このタイプの椅子が大劇場に導入されたのは、大阪歌舞伎座がほぼ初めのようなのです。ということは、3年前に建った南座の椅子は、折り畳みではなかったことになります。
 小冊子には、次のように書かれています。

 桟敷、椅子には一々番号を附し、三日前から一等席を限つて御所望の席の番号付切符を販売し、椅子席の座下には帽子を納むる装置がある。

 座席表の一部
  番号を振った座席

 今日と同じように座席番号があって、一等席は希望の席のチケットが買えるとしています。
 そして、座席の下には、なんと帽子を入れられる「装置」がある!

 「装置」ってなんだ ! ?

 たぶん箱状のケースなのだろうと思いますが、紳士が帽子を被っていた時代らしいですね。
 別の箇所には「御携帯品は御座下に納めらるゝ装置あるも」とも記載されています。つまり、座席下のボックスに、ちょっとした手荷物なら入れられたということなのです。
 まあ、この装置があるために、座席を折り畳むことはできないのですね。

 逆に考えれば、座席を折り畳んだら、こういったボックスを造ることは無理なわけです。現在のシートを見れば分かります。

 座席を折り畳めた方が、座席間が広々するし、通行にも便利です。でも、荷物を入れるボックスがあった方がいいよね、と思う方もあるでしょう。

 
 食堂も登場!

 古いタイプの劇場では、観劇の際、芝居茶屋を通して席を押さえたり、食事の用意を頼んだりしていました。帰り、人力車で帰ろうと思ったら、茶屋が呼んでくれるわけです。たいへん便利なシステムですが、費用は掛かります。
 
 南座を経営した松竹は、演劇界の革新者、合理主義者ですから、こういう制度を撤廃していきます。
 『新築南座観劇手引草』を見ても(というか、こういう手引きが発行されること自体、革新ですが)、チケットは正面入口左のチケット売り場で買ってくれと書いてあります。
 そして、これまでお茶子さんなどに渡していた心付け(チップ)は一切要らないと書いてあります。

 当座の御観覧には観覧券代の外、一銭の御支出を要せず、使用人に対しても御祝儀御心附は一切申受けませぬ
 
 という、ドライな感覚。いまと一緒です、90年も前ですが。

 桟敷で芝居見物していた時代、お芝居を見ながらご飯をむしゃむしゃ食べ、お酒をちびちび飲んでいたわけです。ところが、新しい南座では「御食事は一切食堂で願ふことゝなつてゐる」のでした。

 そのため、南座内には何か所も食堂が設けられていました。

 南座の食堂
  食堂

 『手引草』によると、次のようになっていました。

・東館1・2・3階
  和食(御弁当、定食、一品料理、鰻飯、鮨、しるこ)
・東附属館2・3階
  和食堂
・西館2・3階
  洋食(定食、一品料理、喫茶)
・西館地階
  丼物、蕎麦

 東館には、ちもと食堂が入っています。これはおそらく、四条大橋を渡った西石垣にある料亭・ちもとの出店でしょう。また、附属館には、島家寿司食堂が出店しています。これは今も南座に隣接する矢倉寿し志満家ですね。
 西館の洋食は、菊水食堂です。こちらは、南座向いの菊水ビルのレストランでしょう。
 やはり、地元に配慮したわけです。いくら松竹が劇界の革命児だといっても、食堂の業者は入札で決めよう、とならないのは時代です(役所じゃないしね)。

 南座の休憩室
  休憩室

 そんなわけで、パラパラと手もとにあった南座の資料を見てきました。

 演劇にまつわる研究でも、劇場については建築史の方面で扱うことが多いですね(それも隅の方で)。でも、劇場の変化は興行の変化とリンクしているし、何といってもお客さんにとって劇場がどんなふうかは重要な部分ですよね。たとえば、トイレが綺麗かどうか、とか(笑)
 でも、椅子のことひとつとっても、なかなか分からないのが、もどかしいです。

 暇を見付けて、劇場のことも調べていきたいと思います。 




 南座 (国登録有形文化財)

 所在  京都市東山区四条大橋東詰
 見学  外観自由
 交通  京阪電車「祇園四条」下車、すぐ



 【参考文献】
 「南座竣工記念顔見世興行」南座、1924年
 「当る戌歳 南座吉例顔見世興行」南座、1934年
 「新築南座観劇手引草」松竹土地建物興業、1934年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 白井松次郎『中村鴈治郎を偲ぶ』松竹興業、1935年


ぼんやり考えてみた、劇場の客席について

建築




客席


 歌舞伎の話題

 ここのところ、歌舞伎の話題で盛り上がって来ましたね。

 というと、ワイドショーをよくご覧になっている方はニヤッとされるでしょうけれど、見ていなければ何のこと? という話です。

 ほんとうに、中村芝翫(しかん)というのは大きな名跡(歌舞伎俳優の名前)です。5年前に亡くなった芝翫さんは、お顔立ちが古風で江戸時代の人みたいで、私は好きでした。
 今回襲名される橋之助さんは、元気があって若々しいイメージですが、私と同年配のようで、それなりのお歳になられたわけです。

 こういう形で芝翫という名跡が多くの方々に知れ渡るのは嫌な感じかも知れませんが、いつの時代も人気者にはゴシップがつきもの。これで来月(2016年10月)からの襲名披露が話題を呼べばいいのでは、と思えます。
 
 そんな中で、私も仕事の関係で、何かと歌舞伎について考えることが多い今日この頃。
 今回は、劇場の椅子の話について、ぼんやりと考えてみます。


 お芝居をイスで見る時代

 いま劇場に行くと、どちらも椅子席ですね。
 ところが、江戸時代は椅子でなかったことは、どなたもご存知でしょう。

 当時、お客さんが大勢入る中央スペースは平土間(ひらどま、土間)などと呼ばれていて、大相撲にあるような枡席(ますせき)でした。
 お米などを計るマスのように、グリッドに仕切られていて、もちろんペタッと座って観覧します。

 この写真は、大阪・堀江演舞場「此花踊り」です。

 『日本地理風俗大系』9
 堀江演舞場の内部 (『日本地理風俗大系』9より)

 演舞場なので、さほど広くはないのですが、お客の女性たちが座って見ているのがうかがえます。
 
 こういった座り式の劇場から、椅子席に変ったのは、いつ頃なのか?
 東京や大阪、京都の主要劇場では、大正時代から昭和初期にかけて、椅子席が導入されていきました。西暦で言うと、1910年代から1930年代といった時期でしょう。

 
 跳ね上げ式の椅子も登場!

 大正頃の劇場の椅子が、どんなものだったのか、私はよく知りません。
 ただちょっと面白い史料を見付けました。

 開閉椅子
 寿商店の座席開閉連結椅子(雑誌「道頓堀」昭和7年10月号より)

 寿商店というところの広告に載っている写真なんですけれど、上に「特許寿式 並ニ 唖関節式座席開閉連結椅子」と書かれています。
 長いですが、連結椅子というのは左右にズラッとつながっている椅子(つまり現在劇場でよく見るもの)として、「開閉」というところですよね。
 これは「座席開閉装置」を持った椅子ということで、こういうやつです。

 椅子
 
 現在では、跳ね上げ式などと言うようですが、要は座面が畳める椅子のことです。これも劇場ではポピュラーですね。
 ちなみに「唖関節式」とは何なのか? 推測するに、広告にアームのことが記されているので、「唖(あ)」がアームの略で、アームを用いた装置により座面を開閉する、ということなのだと思います。

 この寿商店は、現在もコトブキシーティングという社名で営業されています(本社・東京)。公共施設の椅子などを納入されている会社です。
 同社ウェブサイトによると、東大・安田講堂に初めて連結椅子を納入したのが大正14年(1925)。それから、その方面の営業を強化されていったようですね。
 当時の安田講堂の内部写真を見ると、連結椅子の座面は畳まれているようですので、最初の連結椅子から跳ね上げ式だったようです。

 ということは、広告が掲載された当時(昭和7年=1932年)、跳ね上げ椅子は今後普及していく新アイテムだったことが分かります。
 主な納入先が上げられているのですが、各帝国大学や早慶などの学校、日比谷公会堂や学士会館などのホール、百貨店や病院などがあげられています。

 しかし、劇場はほとんどありません。
 実は、この広告は、昭和7年(1932)に大阪歌舞伎座がオープンした際に、雑誌に掲載されたものです。
 そのため、納入先に大阪歌舞伎座があるのは当然としても、他には大阪北演舞場しかないのでした。北の演舞場は、北新地の芸妓さんが踊りなどを披露する場所なので、一般の大劇場とはやや異なります。とすると、ふつうの劇場で跳ね上げ椅子を導入した第一号は、大阪歌舞伎座ということになるのでしょうか。

 こんな昔からあったのかとも、意外に遅いんだなとも思える、跳ね上げ椅子の歴史です。


 なぜ椅子席なのか?

 そんなわけで、大正から昭和にかけて、各劇場で椅子席化が進められていきました。
 これまで私は、それを当然のことのように考えていたのです。現在から振り返ってみると、進化論よろしく、“マスが淘汰されてイスになる” という思考に染められていたのでした。
 今回、改めて立ち止まってみました。

 なぜ椅子席にする必要があったのだろうか、と。

 単純に考えれば、欧米の劇場の影響、これは間違いなくあるでしょう。
 さらに、座り式ですと、履物を預かる必要が生じます。以前も書いた “下足問題” ですね。
 大阪歌舞伎座では、下足預かり(要はゲタを預かる)もするけれど、できるだけ靴や草履で来てね、とパンフレットに書いています。下足を管理し出し入れする手間は、大変な労力で、トラブルの原因でもありました。

 今回、私が気付いた理由は、活動写真(映画)の普及です。
 大都市では、明治後半から、活動写真が上映され始めます。大正時代になると、飛躍的に上映が増えました。
 専用の活動写真館で映写する場合もありましたが、従来からあった芝居用の劇場で上映する、あるいはその劇場が活動写真館に転換してしまうケースも多かったのです。そこでは、当然、枡席で映画を見ることになるわけで、今日では考えられないヘンテコリンな風景が拡がっていたはずです。

 芝居見物で枡席が便利だったのは、和気あいあいと飲み食いしながら観劇できるところでした。
 横を向いたり後ろを向いたりして、家族や仲間と飲食するわけです。観覧時間も長いので、ずっと集中して芝居を見ているわけでもなく、適当に気をそらしながら、時間を過ごしたのです。

 ところが、映画の場合、場内は真っ暗になりますよね。
 こうなると、みんなで楽しく、というわけにもいきません。おのずとスクリーンに集中する感じになっていきます。

 そこで登場するのが椅子席です。
 椅子は、まっすぐ前を向いて着席する設備ですから、映画鑑賞には打って付けでした。

 これが、芝居だけの劇場にも波及して、枡席が椅子席に変っていったのではないだろうか――そんなふうに考えたのです。

 どうでしょうか?

 ちゃんと実証する必要がありますが、いままで気付かなかった側面があるかも、という話でした。




 【参考文献】
 「道頓堀」1932年10月号
 『日本地理風俗大系』9、新光社、1931年


妙蓮寺の慰霊塔は、室戸台風で亡くなった児童41名を悼む





慰霊塔


 台風のシーズン

 今年(2016年)も、たくさんの台風が日本に接近、上陸し、被害を与えています。

 80年余り前の昭和9年(1934)9月21日は、関西を室戸台風が襲った日です。
 特に、大阪、京都では甚大な被害が出ました。

 以前に紹介した「師弟愛之像」も、室戸台風で没した先生と児童を追悼したものでした。

 記事は、こちら ⇒ <室戸台風の惨状を今に伝える師弟愛の像>

 その像は、淳和尋常小学校(現・西院小)の松浦壽惠子先生をモチーフとした像でした。
 その淳和小と並び、京都市内で大きな被害を出した小学校が、西陣尋常小学校でした。


 西陣小学校の被害

 上京区にある西陣尋常小学校では、1時間目の授業が始まった午前8時半頃、暴風によって2階建の木造校舎が倒壊し、1階にいた児童521名と職員10名が下敷きになりました。

 倒壊した西陣小学校
 倒壊した西陣尋常小学校 (「上方」46号所収)

 3時間かけて全員を救出しましたが、41名の児童が亡くなりました。

 京都市内では、小学校で多大の被害が出、112名の児童と3名の訓導(先生)が亡くなり、私立両洋中学校でも20名の犠牲者を出しました。


 妙蓮寺の慰霊塔

 西陣小学校から3筋ほど上がった寺之内通大宮東入ルに妙蓮寺があります。本門法華宗の古刹で、中世以降、京都に大きな勢力を張った法華宗発展の礎となった寺院です。

 妙蓮寺
  妙蓮寺

 妙蓮寺の山内東北隅に墓地があります。
 私が訪れた9月の一日は、お彼岸も近かったため、多くの方が墓参に来られていました。
 
 妙蓮寺墓地

 この墓域の真ん中に、室戸台風で亡くなった児童たちを供養した慰霊塔が建っています。

 慰霊塔
  室戸台風の慰霊塔(妙蓮寺墓地)

 台座を含めれば3mほどの高さはありそうな大きな石塔です。
 表面の題額は「慰霊塔」。妙蓮寺の住職である大僧正・福原日事の揮毫。

 慰霊塔

 その下には「西陣校罹災児童」とあって、亡くなった41名の氏名が刻まれています。

 慰霊塔

 3段に41名の児童名が記されています。いろは順、男女順に書かれていますが、よく見ると、いろはが繰り返しています。おそらくは、1年生から順に学年ごとに記載しているのでしょうか。

  慰霊塔 慰霊塔


 建立の経緯

 なぜ妙蓮寺にこの慰霊塔が建てられているのか。その理由は、塔の裏面に記されていました。

 裏面の碑文は「昭和九年九月廿一日 突如天譴暴風水襲近畿関西之地」から始まります。

 「殊西陣校惨禍最留憐」として、暴風が西陣小学校の校舎を瞬時に倒壊させ、41名の児童の命を奪ったことを記しています。
 台風の翌日、遺族の有志により、妙蓮寺の住持を招いて学区葬が営まれ、寺内に分骨を納めたと言います。
 その後、同寺塔頭・本光院の僧・宮宇地日演の発起によって慰霊塔の建設が提唱され、他の6院も賛同し、建立が進められたのだそうです。
 ちなみに、宮宇地日演は後に妙蓮寺の住職も務めています。

 慰霊塔
 中央に「埋没四十一児童」とある

 慰霊塔
  7院の名を刻む

 碑文は長い文章ですが、台風の翌日に妙蓮寺で学区として供養が行われ、それが契機となって慰霊塔の建立につながったことが分かります。

 台風後、西陣小学校では建設中だった鉄筋コンクリート造の校舎が竣工しました。
 この災害は、京都で鉄筋校舎の建設を促したのでした。
 
 旧西陣小学校
  旧西陣小学校

 同校は、近年統合されて西陣中央小学校となり、別の場所に移転しました。この校舎も、現在は私立中学の仮校舎として用いられています。
 校内には、風害記念碑があるそうですが、自由に立ち入れないので、写真はありません。

 妙蓮寺の慰霊塔では、毎年慰霊祭が営まれているそうですが、年々参拝者は減っていると言い、月日の流れを感じさせます。


  芙蓉 妙蓮寺の芙蓉




 妙蓮寺 慰霊塔

 所在  京都市上京区寺之内通大宮東入ル
 拝観  自由
 交通  市バス「堀川寺之内」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『京都市風害記念誌』京都市役所、1935年
 「上方」46号、1934年10月


清水寺の音羽の滝、その前にある建物とは?

洛東




音羽の滝と拝殿


 金色の水・音羽の滝

 清水寺は、いつも大人気ですね!
 先日ご紹介した大手旅行サイト・トリップアドバイザーの「外国人に人気の日本の観光スポット2016」でも、堂々10位にランクインですから、国際的な人気です。

 私もちょこちょこ訪れるのですが、今回も外国人と小学生で一杯でしたね。
 今日レポートするのは、有名な “清水の舞台” ではなく、その下にある音羽の滝です。

 音羽(おとわ)の滝といえば、清水寺の創建と深くかかわる存在です。
 清水寺縁起では、お寺を開いた僧・賢心(のち延鎮)が夢のお告げにしたがって清泉を求めていくうちに、音羽の滝の清水に至りました。そこで永年修行をしていた行叡居士(実は観音の化身)と出会い、彼の残した霊木に観音像を刻みました。これが清水寺のそもそもの始まりです。
 縁起には、賢心が遭遇した流れが「金色の水」と記されています。音羽の滝が、しばしば黄金水と称されるのは、ここによっているのでしょう。

 音羽の滝
  音羽の滝


 音羽川と錦雲渓

 今回は、いきなり音羽の滝に行くのではなく、下流からさかのぼってみたいと思います。
 音羽の滝の末流は、本堂(舞台)の南方を西へ流れています。

 水量の少ない流れの割には深い谷になっていて、錦雲渓(きんうんけい)と呼ばれています。

 音羽川
  
 このように、ふだんはほとんど流れていないようです。

 滝の下から上を眺めた光景。茶店の露台が見えています。
 
 音羽川

 およそ10mばかりの谷になっています。
 ここに注ぐ水は、音羽の滝から流れて来ます。

 音羽川

 石垣に穿たれた穴に、石の樋が付いていて、そこから水がほとばしっています。
 音羽の滝の水ですね。

 音羽川

 実は、この石垣の上に建っている建物が、私の興味の的なのです。


 滝の前にある建物は…

 こちらがその建物。

 拝殿
  南から望む

 背後(北)に清水の舞台が見えています。
 参拝者たちが立っていますが、その右に音羽の滝があります。

 つまり、この建物は音羽の滝の真正面(西)に建っていることになります。
 
 反対側から見ると、建物と滝の関係がよく分かります。

 音羽の滝と拝殿
  
 左が音羽の滝です。
 まさに滝の前に建つ建物です。
 いったい滝とどんな関係があるのか?

 屋根は入母屋造、本瓦葺きで立派なものです。
 少々古い資料を見てみましょうか。

 花洛名勝図会
 「花洛名勝図会」(部分)

 幕末の京都を克明に描いた「花洛名勝図会」(1864年)。
 その清水寺の中に、音羽の滝も出来てきます。図に「タキノ宮」「音羽ノタキ」とあります。
 
 花洛名勝図会の拝殿

 クローズアップしてみると、分かりましたね。
 「ハイデン」と書いてあります。そう、この建物は拝殿だったのです。
 音羽の滝と不動明王を祀る滝の宮(不動堂)の拝殿です。
 
 このことは、建物の中から外を見ると、よく分かります。

 音羽の滝

 建物センターの真ん前に、音羽の滝が見えています。
 まさに、拝殿というのがピッタリですね。


 音羽の滝の拝殿を見る

 この拝殿、入母屋造本瓦葺で、桁行は三間、梁間二間です。

 拝殿
  北側を見る

 コンパクトな建物ながら、屋根が立派です。
 清水寺は寛永6年(1629)9月、西門、馬駐などを除く伽藍の大半を焼失しました。本堂をはじめ、大部分の建物は大火後に再建されたものです。『清水寺史』によると、この拝殿もその時期に造られたと言います。

 もちろん細かいところを見ると、かなり改造されています。

 拝殿

 こういった建具、これはガラス窓(引違い)ですが、もちろん近代になって取り付けられたものです。
 江戸時代の絵図類を見ると、現在窓のある部分は開放されていたことが分かります。
 上の「花洛名勝図会」の絵などでは、谷に向いた部分に、鴨川の床みたいな張り出しも造られています。たぶん、そこに座って飲み食いするんでしょうねぇ。

 拝殿

 この拝殿は、どうやら昔から扉などは付いておらず、吹き放ちになっていたようです。
 おそらく、そこに腰を掛ける床几(しょうぎ)などが設置されていたのではないでしょうか。
 現在では、大きなものがひとつ、置かれています。

 拝殿

 拝殿

 明和4年(1767)に書かれた「京師順見記」には、「滝の前に腰掛これあり、九尺に三間ほどに見へる」と記されています。これが拝殿のことでしょうか。

 いまは、建物の北側一間分は、改造されてお守りなどの授与所になっています。

 拝殿

 床は石敷きです。
 昔は、床面に溝があって、そこを滝水が流れていきました。いまでは暗渠になっています。そして、先ほど見たように石垣の穴から放出されているのでした。


 滝で水垢離

 音羽の滝は、いまでこそヒシャクで水を汲むみたいな形になっていますが、昔は滝行のように、滝に打たれる水垢離(みずごり)が行われていました。
 水垢離は、冷たい水を浴びて、神仏に祈願する行為です。
 
 花洛名勝図会 「花洛名勝図会」より

 幕末の「花洛名勝図会」には、ふんどし姿で水垢離を取る男性たちが描かれています。
 ちなみに、手前の屋根が拝殿です。

 拝殿

 拝殿の中には、「水垢離の方は必ず行衣(白衣)を着用ください」との札が打たれているので、いまでも早朝などに行っている方がいるのでしょうか。

 そこまでは……という向きには、霊水を頒けていただけます。

 音羽霊水 音羽霊水

 室町時代の参詣曼荼羅を見ると、桶(おけ)で音羽の滝の水を汲んでいる女性たちがいることが分かります。
 桶を頭上に載せたりしていて、おもしろいのですが、これは近辺の茶屋などで利用するためのものでした。この水は、霊水としてご利益があり、湯浴みに用いることもあったと言います。瘧(おこり)に効くという話もありました。

 また、水垢離を取る人は、ただ滝に打たれるだけでなく、滝と本堂の間を往復することも行いました。
 観音さまだけに33度行き来します。絵を見ると、手に樒(しきみ)を持っていたりして、それで回数を勘定したのかも知れません。
 音羽の滝と本堂の間には急な石段があります。江戸時代の史料には71段などと書いているものもありますが、いまは80段以上ありますね。

 「山城名所寺社物語」(1717年)に、「諸事のねがひあれば滝もふで[詣で]とて、此滝へおりて奥の院と本堂へ参る事、三十三度なり」とあるそうです。
 昔の人たちも、いろいろな願掛けをしたのでしょう。


 祈願のあとは飲食も

 そして、お約束なのですが、お詣りのあとは必ず飲み食いするわけです(笑)

 滝沢馬琴の「羇旅漫録(きりょまんろく)」には、「此辺すべてしらいと餅を売る」とあって、糸をねじったような餅を「白糸餅」と称して売っていたのです。滝の白糸というわけです。
 馬琴のイラストによると、形は、ねじり糸コンニャクそっくりでした!

 もっと本格的なのは、料亭に繰り出すわけです。
 音羽の滝あたりは、清水の境内では、滝の下と呼ばれていました。
 「洛陽勝覧」(1737年)には、滝の下には精進料理を出す坊がいくつもある、と記されています。メニューは、一汁五菜と香の物。まあまあ豪華かも?

 精進料理を出す坊の代表が、南蔵院でした。通称は、浮瀬(うかむせ)。
 音羽の滝から、徒歩すぐ。

 花洛名勝図会の浮瀬
  「花洛名勝図会」の「ウカムセ」

 もう、お寺なのか料亭なのか分からない本格派。

 都林泉名勝図会
  「都林泉名勝図会」のうち「清水滝下 南蔵院」

 見晴らし良さそう。
 本当に、こんな高い場所だったのかなあ? ふつうの料亭となんら変わりないです。

 浮瀬は、大坂にもあったのです。
 新清水寺という京都の清水さんを写したお寺のそばに。
 そこでは、珍しい貝を盃にして酒を飲むのが評判だったのです。
 
 そう思って、南蔵院の図を見ると、こちらもアワビのような盃を使っていますね(クローズアップでご覧ください)。

 都林泉名勝図会より浮瀬

 なみなみとお酒を注いで、なんだか楽しそう!

 京都の浮瀬は、大坂の浮瀬をマネして宝暦年間(1751-1764)頃にできたそうです。のち、江戸にも出来たほどの流行でした(『浮瀬 奇杯ものがたり』)。

 舞台で有名な清水寺も、実は本堂の下がおもしろかったという、少し意外なお話でした。
 
 


 清水寺 音羽の滝、拝殿

 所在  京都市東山区清水
 拝観  自由
 交通  市バス「五条坂」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 『清水寺史』音羽山清水寺、1995~2011年
 「洛陽勝覧」1737年(『京都見聞記』1 所収)
 「京師順見記」1767年(『京都見聞記』2 所収)
 「羇旅漫録」1803年(同上)
 「都林泉名勝図会」1799年
 「花洛名勝図会」1864年
 坂田昭二『浮瀬 奇杯ものがたり』和泉書院、1997年


53年の歴史を閉じるーーさようなら、京都府立総合資料館





京都府立総合資料館


 半世紀にわたる歴史

 数年前から分かっていたけれど、なんとなく目をそらしていた日がついに来たーーそんな気持ちです。

 京都府立総合資料館は、地下鉄「北山」駅の真上にあります。
 昔の感覚では、ここは前萩町(まえはぎちょう)と言って、今でも京都バスのバス停は「前萩町」ですね。
 でも、総合資料館は前萩町にあるのではなく、植物園や府立大学とともに半木町(なからぎちょう)にあります。前萩町の西向いが半木町なのです。
 以前は、総合資料館と府立大学の間には、府大の広い農場があって、のどかな雰囲気も漂っていました。

 京都府立総合資料館
  全景(東側から望む)

 総合資料館が開館したのは、昭和38年(1963)11月15日です。
 オープン当初は、図書館、文書館、博物館の機能を担いました。いまでこそ、京都文化博物館も出来たし、府立図書館も改築されましたが、それは随分のちのこと。私が学生の頃でさえ、府立図書館はあの小さな古い建物だけで、文博もまだなくて、平安博物館が旧日銀の煉瓦造の建物に入っていました。
 総合資料館は、府立図書館の蔵書の大部分を引き継いで開館したのだそうです。

 展示施設という面でも、私の学生時代には、北側から入った階段の上の部屋で展示を行っていました。
 おそらく文博が出来るまで開催されていたのではないでしょうか。時折見に行った気もします。

 そういった経緯については、50周年の時に館内見学会が開かれ、説明されました。私も参加してレポートを書きましたので、そちらをご参照ください。

 記事は、こちら! ⇒ <京都府立総合資料館は、2013年11月、開館50周年を迎えた>

 京都府立総合資料館
  京都コンサートホール側(南)から望む


 総合資料館の思い出は……

 いま改めて資料館のことを思い出してみると、なぜか、これといった思い出が湧いて来ません。
 取り立てて強く記憶に残っていることもないし、うれしかったこと、いやだったこと、そんなことも何もない。ただ、淡々と日常的に使っていたーーそんな気がします。

 もちろん、資料を調べていて、これはっ! と思ったことは幾度となくあるはずですが、それも平常のことなので、何も覚えていないのです。

 50周年の見学会の記事で、私はこう書きました。

 今回はバックヤードを含む館内を見学、説明いただく機会を得て、これまで総合資料館のことを全然知らなかったことを知りました。30年間、まったく無意識に使っていた自分が恥ずかしい。でも、無意識に使わせてくれていたところが、すばらしい。

 何もかも「無意識に使っていた」。
 これが私にとっての総合資料館。
 資料館があるのも当たり前、そこで調べるのも当たり前。受験浪人そして大学生の頃から、30数年間使ってきた。
 その当たり前が、終わるのです。

 京都府立総合資料館
  北山通から入ったところ(北東側)


 懐かしいカードボックス

 そんな日常の中で、私が覚えているのは、資料の情報がデータベース化される前、図書カードによって資料を探していたことです。
 資料館のカードボックスは、閲覧室入口のホールにあり、確かグレーのスチール製だったのではないでしょうか。
 それがスペースの両側に並んでいたのです。

 京都府立総合資料館
  旧目録室 

 『資料館の建物探訪』(大塚活美氏執筆)によると、この場所は目録室と呼ばれていたそうです。
 カード式目録が置かれている部屋であり、閲覧室に接続されていました。
 私にとっては、ノート片手に、ここでカードを繰って本を探すのが、いつもの仕事でした。

 総合資料館に限らず、どの図書館でも思い出深いのはカードボックスです。
 現在の検索とはまた違った、意外な資料との出会いがあったカードの世界。
 とりわけ、分類番号によって、そのジャンルに属する本をしらみつぶしにチェックしていったことが懐かしいです。キーワード検索よりも、おそらく優れていると私には思われる分類による検索が、学生時代の日常でした。

 総合資料館では、平成13年(2001)年から、蔵書検索端末OPAC による検索に移行したそうです。

 京都府立総合資料館
  正面玄関


 学習室と休憩室

 私が最初に資料館を利用したのは、受験浪人時代の学習室(自習室)利用だったと思います。つまり、18歳の頃ですね。
 通っていた予備校と自宅のほぼ中間に資料館があり、友人らと利用したのでした。

 以前も書いたのですが、私は自習室で勉強するのが好きではなく(笑)、ここの自習室でも余り集中できなかったのかも知れません。

 京都府立総合資料館
  学習室 1階北側にある

 でも、その脇にあった休憩室は、カップ式のコーヒー自販機があって、よく飲んだ記憶があります。
 あと、無料の水飲み機も長らくあったと思います。
 このスペースは、開館当初は「スナック国際」という食堂だったそうです。へんな名前ですが、京都国際ホテルが営業していたからだそうです。昭和50年(1975)に閉店しているので、私は知りません。

 京都府立総合資料館
  休憩室  昔は食堂だった


 玄関ホールと階段

 書いていると、だんだん昔のことを思い出します(笑)
 こちらが玄関です。

 京都府立総合資料館
  玄関

 玄関は東向きです。いまは見えませんが、たぶん開館当時は真正面に比叡山が望めたことでしょう。
 前の通りは下鴨中通です。2車線の狭い道路ですが、当時、北側の北山通は拡張整備中だったそうで、こちらがメインの通りでした。

 玄関を入ると、職員さんが座っていて、そこで入館票をもらったのだと思います。
 カバンは持ち込めない(昔の図書館はどこでもそうでした)ので、左側(南側)のロッカー室に預けました。
 『資料館の建物探訪』によると、BDSシステム(図書持ち出し防止装置)が閲覧室入口に設置されたのは、昭和63年(1988)とのことです。記憶では、もっと最近までロッカー方式だった気もするのですが、ずいぶん前でしたね。

 それと入口ですが、『建物探訪』にも書いてあるのですが、ずっと中央ではなく左側のガラスドア(上の写真には写っていません)から入っていました。その方が、左側にあるロッカーが近く、勝手に? 階段を上がって入館されるのを防げるからでしょうか。

 京都府立総合資料館
  階段

 建築的な見どころのひとつは、この階段でしょう。正面玄関を入った真正面にあります。
 上って行くと、左右に振り分けます。昔は、どっちを上るか迷いました(笑)が、いまはいつも右から上ります。
 以前の見学会で聞いた話では、左右の段数が1段違うということです。

 階段の左右に、ブロンズ像の女性がたたずんでいます。
 これは、しげしげと見たことは一度もなく、あることだけ知っています(閲覧目的で来ているので、気が早っている)。
 向かって右の像は「花」。杉村尚(京都教育大名誉教授)作。確かに、花を持ってる。
 左は「潮騒」。山崎正義(同)作。裸婦像です。

 階段の向こうには中庭があって、これは自然に目に入るのですが、天橋立をモチーフにした庭で、関口鍈太郎(京大名誉教授)の作です。この関口教授が知人のおじいさんということで、いつも親しげに眺めます。


 というふうに、思い出すままにいろいろ書いてきましたが、だんだん書くことも尽きてきました。
 ほんとうに閉館するのでしょうか。まだ信じ難いものがあります。

 新しい施設は、資料館の南、コンサートホールを隔てたところに開館します。建物も、3年がかりで竣工しました。
 「これまでの資料館機能に、「京都学」研究支援機能を加え、京都の歴史、文化等に関する新たな学習、交流の場」となるそうです(「資料館だより」188号)。

 名称は「京都学・歴彩館」。
 2016年12月に、京都学に関する施設を一部オープンし、資料の閲覧室は2017年度の早期に開室すると発表されています。

 職員のみなさんは、閉館後もお忙しいと思いますが、引き続きよろしくお願いしたいと思います。

 総合資料館、開館から53年。
 私の年齢と近いのでよく分かりますが(笑)、だんだん疲れが出てくる年頃ですよね。そろそろ休むのも、いいかも知れない。

 とりあえず「おつかれさま」の言葉を掛けたいと思います。

 京都府立総合資料館




 京都府立総合資料館

 所在  京都市左京区下鴨半木町
 利用  2016年9月13日まで供用(9月14日から閉館)
 交通  地下鉄「北山」下車、すぐ



 【参考文献】
 『資料館の建物探訪』京都府立総合資料館、2013年
 「総合資料館だより」188号、189号、2016年7月、9月
 

室戸台風の惨状を今に伝える師弟愛の像

洛東




師弟愛之像


 昭和9年9月に来襲した室戸台風

 昭和9年(1934)9月21日、関西地方を猛烈な台風が襲いました。
 最低気圧は911ヘクトパスカル、瞬間最大風速60メートル、死者・行方不明者は3037名にのぼりました。特に風が強い台風で、気象台の風速計が振り切れたという話もあります。

 このブログでも、以前、文化財に与えた被害を紹介したことがありました。

 記事は、こちら! ⇒ <昭和9年の室戸台風は、京都の文化財にも大きな被害を与えた>

 文化財の被害や山林の崩壊なども大きな爪痕を残しましたが、最も胸を痛めるのは数多くの小学校に被害が及んだことでした。

 室戸台風の被害(「上方」より)
  倒壊した西陣小学校 (雑誌「上方」46号より)

 台風の翌年、京都市がまとめた『京都市風害誌』によると、13の小学校で校舎が倒壊し、35の小学校で大破などにより校舎が使用不能になりました。
 また、京都市内だけでも、112名の児童、3名の訓導(教員)が尊い命を落としました。
 室戸台風は、朝の8時頃に関西に上陸したため、登校してきた児童たちが犠牲になったのでした。

 最も大きな被害が出たのは、西陣尋常小学校でした。
 1時間目の授業が始まった頃だったので、521名の児童が倒壊していた校舎の下敷きになり、41名の児童が亡くなりました。

 それについで市内で大きな被害にあったのは、淳和(じゅんな)尋常小学校でした。
 この小学校は、現在の西院小学校にあたります。阪急「西院」駅の西北にあります。
 もともとは京都西郊の葛野(かどの)郡西院(さいいん)村にあり、西院校として開校。昭和6年(1931)、京都市に編入され、まもなく淳和尋常小学校と改称されました。これは、いにしえ、この地に淳和上皇の居所(後院)があったためです(これが「西院」という地名の由来となっています)。

 台風当日の淳和小学校では、朝、校長から「風雨に注意するように」という訓示がありましたが、近くの春日神社の杉木立が折れたり倒れたりし始めました。すぐに講堂に避難するよう指示が出ましたが、校舎が倒壊し、32名の児童と1名の訓導(教員)が亡くなりました。

 これ以外にも、下鳥羽、向島、大内第三の各校で児童が亡くなり、向島では訓導2名が落命しています。


 児童を救った松浦先生

 京都市内で亡くなった訓導(教員)は3名で、淳和小学校の松浦壽惠子訓導と、向島小学校の平井ノブ訓導、仲埜テル訓導でした。
 松浦訓導を悼む像が、いま知恩院の南に立っています。

 知恩院
  知恩院南門

 知恩院から円山公園に抜ける南門の左脇に、ひとつの銅像があります。
「師弟愛之像」です。

 師弟愛之像

 歌人・吉井勇の歌「かく大き愛のすがたをいまだ見ず この群像に涙しながる」が前面のプレートに記されています。

 師弟愛之像

 像は、戦時中に供出され、戦後の昭和35年(1950)再建されました。

 師弟愛之像
 
 幼い児童を抱きかかえて守る先生。
 松浦壽惠子先生だということです。

 当時松浦先生は30歳で、像の顔は西洋人のような厳しい表情ですが、『京都市風害誌』に掲げられたふだんの写真は、ふっくらとした頬の優しそうな先生です。1年生の担任でした。

 当日の模様は、京都府が刊行した『甲戌暴風水害誌』には、次のように書かれています。

 俄(にわか)に校舎がメリメリと鳴る。何か目に見えぬ強い威力が急に身辺を圧する。そこへ田中訓導が山田校長の命令を伝へ、「危険だからすぐ講堂に避難せよ。」と呼んで廻つた。
 
 松浦訓導は早速児童を廊下に出させ、講堂の方へ向つて前進を急がせ、自分も共に随いて行つたが、ふと、逃げ遅れた児童が教室に残つてゐないであらうかと思つたので、再び教室の方へ引き返さうとした其の刹那である。壁土はバタバタと白煙を吐いてあたりは濛々となり、天地も崩れんばかりの轟然たる音響と共に校舎は倒壊した。

 松浦訓導は倒れ来る校舎の柱を右手で支へるやうにして、「あぶないから早く、早く。」と連呼して一生懸命に児童を指揮督励しつゝ遂に逃げ遅れた数十の児童と共にその下敷となつてしまつた。(35-36頁)


 柱の下から救出された松浦訓導は、頭に傷を負って亡くなっていました。
 しかし、その胸にはひとりの児童を抱きしめていて、その女の子は少しの怪我もなく助かったのでした。
 女の子の父親は、運ばれていく松浦訓導の姿を見て「お前は先生のお蔭で助かったのだ。なぜ先生と一緒に死ななんだ」と涙ぐみ、合掌したと言います。

 当時、市内の小学校の校舎は、徐々に鉄筋コンクリート化が進んでいました。しかし、市内全域の木造校舎率は高く、約8割が未だ木造校舎でした。とりわけ、昭和6年(1931)に京都市に編入された新市域には、木造校舎が多かったと言い、倒壊校舎の多くは周辺部の小学校でした。一方、鉄筋校舎は無事で、校舎によって明暗が分かれるという痛ましい事態になったのです。

 室戸台風後、昭和14年(1939)にかけて、京都市内の小学校では校舎の鉄筋化が進められていきました。




 師弟愛之像 (知恩院内)
 
 所在  京都市東山区林下町
 見学  自由
 交通  市バス「知恩院前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市風害誌』京都市役所、1935年
 『甲戌暴風水害誌』京都府、1935年
 『京都府 暴風雨調査報告』京都測候所、1935年
 「上方」46号、1934年10月
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年


トークイベント、その他いろいろ

その他




大軌


 近鉄百貨店にてーー

 いきなりで恐縮ですが、トークイベントのお知らせです。

 9月11日(日)、近鉄百貨店 上本町店(大阪市天王寺区)にて、午後2時から、同店の開業80周年記念イベントで、トークします。
 上本町店界隈の歴史を中心に、地図・写真などを交えてお話します。

 お近くの方は、ぜひおいでくださいませ。

 この百貨店は、80年前、つまり1936年に開業しました。昭和11年です。
 いまは近鉄百貨店と言っていますが、当時は大軌百貨店と言いました。

 「大軌」と書いて、「ダイキ」と読みます。
 大阪電気軌道の略称。

  大軌カレンダー 大軌カレンダー(大正14年)

 大阪電気軌道は、大阪・上本町と奈良を結ぶ電車でした。
 大阪から奈良まで行くのに生駒山地を越えますが、生駒トンネルの掘削がとても難工事でした。
 その路線が現在の近鉄奈良線で、これに大阪鉄道(大鉄=現・近鉄南大阪線)などをプラスしたりして、いまの近鉄が出来ていったのですね。

 大軌って、なんとなくいい響きですね。
 昔、愛読していた谷崎潤一郎の小説を読んでいると、「卍」なんかに、この大軌が出て来るんですね。なんだか印象的な名前でした。
 
 トークでは、こんなこともお話する予定です(やる前に言ってしまいましたが 笑)。


 いろいろある9月……

 ここのところ、予定がいろいろ目白押し。
 先日、この夏に取り組んでいた論文をひとつ、仕上げました。
 締切りからちょっと遅れた気もする? けれど、なんとか提出。
 内容は、大正時代頃の大阪のお芝居に関するものです。機会があれば、またご紹介しましょう。

 それを出したと思ったら、5日後に近鉄百貨店のトーク。
 さらに、翌週には来月の講演のレジメを送って、その次の週には別の講演+座談会。
 その他にも、いろいろあって、ほんと目白押しです。

 不思議なものですが、忙しさは忙しさを呼ぶというか、類は友を呼ぶなのか、こんなふうになりがちですね。
 ちょっと一服したいところなのですが、なんとか乗り切りたいと思います。
 



 【参考文献】
 『日本地理大系 近畿篇』改造社、1929年


京都の人気スポットを考える - トリップアドバイザーのランキングから -

伏見




伏見稲荷千本鳥居


 旅行サイト・トリップアドバイザーのランキング

 最近の京都では、海外ツーリストの受け入れについて、いろいろな議論が出てきています。
 宿泊の問題は最たるもので、新しいホテルが次々と建設され、宿の不足への新しい施策も検討されています。

 そんな中、少し旧聞に属しますが、6月に米国の大手旅行サイト・トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット2016」を発表しました。
 これを見ると、当然? というべきか、京都の観光スポットもランクインしています(カッコ内は2015年順位)。

 1位  伏見稲荷大社(1位)
 2位  広島平和記念資料館(2位)
 3位  厳島神社(3位)
 4位  東大寺(4位)
 5位  サムライ剣舞シアター(8位)
 6位  新宿御苑(12位)
 7位  奈良公園(18位)
 8位  金閣寺(11位)
 9位  アキバフクロウ(初)
 10位  清水寺(ー)

 13位  禅林寺 永観堂(5位)
 14位  三十三間堂(24位)
 26位  京都駅ビル(-)
 28位  ギア専用劇場(19位)


 11位~30位は、京都だけをピックアップしました。

 伏見稲荷大社 伏見稲荷大社


 意外な体験型が人気

 どうでしょう?

 堂々1位は、伏見稲荷大社ですね。
 たぶん、世界中でも類を見ない千本鳥居が、相変わらず大人気!

 伏見稲荷は、私的には、社頭のお店のある雰囲気が気に入っていて、トップでうれしいですね。
 いつぞや訪問した際も、ミニ鳥居――というか鳥居形の絵馬を衝動買いしてしまい、同僚に苦笑されてしまいました。

 鳥居型絵馬 鳥居形の絵馬
 
 そんなわけで、べストテンに4つも京都がランクインしています。
 4つ? と思いますよね。
 伏見稲荷大社、金閣寺、清水寺……

 実は、5位のサムライ剣舞シアターも、京都市内にある施設なのだそうです。
 羽織・袴を着用して、居合いのような体験ができるみたい。場所は、三条通東山西入ルらしく、そういえばそんな看板を見たことがあるような……
 2014年にできた施設ですが、人気はうなぎ登り。2~3時間の体験ができて、数千円から1万円。英語で指導してくれるそうで、少し高価な気もするけれど、海外旅行でなら良いかも。

 また、ギア専用劇場も2015年からランクイン。
 こちらは三条通寺町西入ルの1928ビル(ART COMPLEX 1928、旧大毎京都支社)にあって、セリフのないパフォーマンスを披露するもの。テレビでやっていたのを見たのですが、かなり人気のようです。お値段は、3000~4000円ぐらい。
 昼間観光したあと、夜に行けるので好都合な感じですね。

 こういう、ある種の体験型が、リピーターには人気なのでしょう。
 そういえば、以前テレビで、東京の例ですけれども、太鼓を叩く、書道をする、寿司を握る、なんていう体験ツアーを紹介していました。ただ「見る」だけでは、あきたらないのでしょう。

 それにしても、サムライ剣舞シアターが全国で5位! というのは…… ちょっと言葉を失います。私の大好きな三十三間堂より9ランクも上だし……

 まぁ、1位が伏見稲荷大社なので、少し気持ちが落ち着くということにしておきましょうか。

 
  清水寺




 伏見稲荷大社

 所在  京都市伏見区深草藪之内町
 参拝  自由
 交通  京阪電車「伏見稲荷」下車、徒歩約5分