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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

あやめ板、大和打 …… この風流な名前の建築とは?

建築




善田好日庵


 先斗町の景観を彩る要素

 先日、京都市の景観保全に関するウェブサイトで、先斗町についての記事を見ました。
 「平成27年4月1日から先斗町地区を「先斗町界わい景観整備地区」に指定します」という長い名前のリーフレットです。

 先斗町(ぽんとちょう)は、鴨川の西側に、川に並行して約500mつづく細い街路で、両側にはお茶屋さんなどが並び、たくさんの路地もあって、独特の景観を呈しています。
 「先斗町界わい景観整備地区」の指定は、この雰囲気のある景観を維持するための施策です。

 その対策のひとつとして、建物のデザインのルール化があります。
 詳しくは、京都市のサイトを見ていただきたいのですが、私が気になったのは、「らしさ」を醸し出す建物各部分の名称なのです。

 玄関庇(ひさし)、欄干(らんかん)、あやめ板、簾(すだれ)掛け、犬矢来(いぬやらい)、駒寄(こまよせ)といった言葉の数々。

 みなさんも気になる言葉、“?” な言葉があったと思うのですが、私がとても引っ掛かったのが「あやめ板」です。


 あやめ板とは?

 あやめ板。

 まず考えるのは、語源ですよね。
 で、たぶん、植物のアヤメ(菖蒲)から来ているに違いない、と思います。

 そして、辞書を引いてみるわけですが、「あやめ板」なんてものは、なかなか出てこないわけです(笑)
 でも、よく見ると、『建築大辞典』(彰国社)に、「あやめばり」という項が立っていたのです。
 で、その文字なんですが、「綾目張り」!

 綾目でしたか。
 洋服の柄なんかでも、杉彩(綾杉)模様というのがありますね、英語で言うヘリンボーンです。右の列と左の列のV柄が逆になっていて、それを繰り返す模様です。
 余談ですが、日本人が見ると、このV字模様、杉の葉に見えたり、矢筈に見えたりするのですが、英語圏ではヘリンボーン=ニシンの骨に見えるのですね。おもしろい文化の違いです。

 辞書に戻ると、「綾目張り」のところには、「やまとばり」を見よ、と書いてあります。

 さっそく「やまとばり」を引くと……

 大和張り
 屋根板、天井板、羽目板などの張り方の一。
 板を交互に重ね合わせて打ち付ける手法をいう。
 屋根や塀などの場合はそれぞれ大和葺き、大和塀と称される。
 (中略)
 「大和打ち」、「綾目張り」ともいう。(『建築大辞典』)


 と、文章を読んでも、さっぱり分からないでしょう(笑)
 そこで、この図を見てください。

 大和打

 おなじみの中村達太郎博士の『日本建築辞彙』の図です。
 つまり、タテの板を、前・後ろ・前・後ろ……と張っていく方法でした。
 それも、右の板と左の板を、ちょっとだけ重ねるようにするのが通例です。

 中村博士は、こう説明しています。

 大和打
 板ヲ交互ニ表裏ニ打付クルコト。其(その)表板ハ裏板ト一致セズシテ板の中心線ハ裏ノ板間ノ真墨ニ一致ス。図ヲ見ヨ。(『日本建築辞彙』


 「真墨(心墨)」は、部材の中心線のことですが、論理的な説明です。でも、分かりにくい(笑) 


 「大和塀」?

 さて、そういう大和打(大和張り)で作った塀を「大和塀」と呼ぶと、『建築大辞典』は書いています。
 ただ、大和塀には2つの意味があって、よく用いるのは、杉皮などを張った塀で、茶庭などに建てる数寄屋風のものです。『日本建築辞彙』や、岸熊吉『日本門牆史話』は、こちらのみを大和塀と説明しています。
 でも、現代的には、大和打の大和塀もOKみたいです。

 名前の話が長くなりました。
 実例を見てみましょう。

 大和打
  大和打

 こんな感じですね。

 この場合、水平材を上下2本通して、その裏表にタテの板を張っています。板の上には、長い水平材を通していますが、これは笠木で、名の通り、塀を雨から守る笠(傘)の役目を果たすものです。

 京都市内の中心部を見て回ると、塀の上にプラスアルファとして、大和打を取り付けるケースが圧倒的です。

 京料理にしむら

 中京区の料理店。もとは住まいに使われた仕舞屋でしょう。
 これでよく分かりますが、下の塀だけでは家の2階が見えてしまうので、目隠しの塀として大和打をプラスしているのです。

 大和打は、視線は完全にさえぎるけれど、風は通るので、勝手がよいのですね。

 善田好日庵

 こちらも中京区で、お茶室のようですが、塀の下部には犬矢来を付け、上部は大和打です。その上にさらに樹木を伸ばして、内部が全く見えないようになっています。
 黒板塀に犬矢来、大和打と、京都らしい意匠と言えるでしょう。

 善田好日庵

 もちろん、大和打で塀全部を作ってしまう方法もあります。
 ただ、そうやってしまうと、余りにも実用的というか、語弊を招きかねない言い方ですが、庶民的になるというか、そういう印象になります。そのために、市内中心部のお宅には使われませんね。

 それにしても、冒頭紹介した「あやめ板」という呼称は、あまり使われないようです。
 個人的には、あやめ板という言い方が、上品で好ましいと思うのですが、いかがでしょうか。




 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年
 岸熊吉『日本門牆史話』大八洲出版、1946年
 『日本建築大辞典 第2版』彰国社、1993年
 「平成27年4月1日から先斗町地区を「先斗町界わい景観整備地区」に指定します」京都市都市計画局、2015年


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戦後まもないモダン京都のお店たち - 雑誌「京都」の広告から -





ジャワ


 清新な都市の息吹き

 夏という季節は、私などにとっては、昭和の戦争について考える機会を与えてくれます。
 今年は、いわゆる「生前退位」の問題がクローズアップされたせいもあり、今上天皇に関する本をいくつか読んでいます。
 そうすると、私自身が過ごしてきた「昭和」という時代が、すでに過去になってしまったことを痛感させられます。おそらく、戦後復興期から高度成長期にかけては、もはや過去の深いところへ沈み込みつつあるような、そんな気がしています。

 たまたま部屋にあったその時期の雑誌「京都」(現「月刊京都」)をめくってみると、面白い絵がありました。

 四条通アーケード 四条通のアーケード完成

 これは昭和26年(1951)7月に発行された「京都」10号の挿絵です。
 記事は「御旅町専門百貨街 アーケード完成」というもの。「四条通 河原町から寺町まで」と付記されています。

 御旅町(おたびちょう)は、四条河原町から西、四条通の両側です。この「御旅」というのは、いわゆる御旅所(おたびしょ)の意味で、八坂神社の神輿(みこし)が渡られる御旅所がこの地域にあることが由来でしょう。

 記事は、「両側の歩道にアルミ天井を装置したアーケード完成。/晴雨によって開閉が自由になり、各柱間には美しい蛍光灯が輝き、京都の新しい名物がふえ」た、と書いています。
 アルミは、軽くて輝きを持ち、かつ錆びない、戦後の新しい雰囲気にマッチして、とても好まれた材料です。それが開閉するなんて、とてもモダンなアーケードだったわけです。

 この御旅町のアーケードを西に抜けると、寺町四条の南西角には藤井大丸があります。
 現在はファッションに特化したデパートとして独特の地位を築いていますね。

 その広告も「京都」には掲載されています。

 藤井大丸 藤井大丸

 これはなんと斬新なデザインなんでしょう。
 コーナーを丸く造り、ガラス窓を嵌めています。屋上左手には塔屋が突き出していて、アクセントになっています。1階は吹き抜けのピロティですね。昭和初期のインターナショナルスタイルのような雰囲気で、とてもモダンな印象ですね。 
 この建物の前にはアーケードはなく、歩道上には街灯「すずらん灯」が立っています。語弊があるのですが、現在よりもモダンでカッコよいと思います。


 モダン喫茶店

 京都というと、喫茶店が多い街としても知られています。
 四条河原町辺でいえば、私たちが学生の頃でも、フランソワとかソワレとか、クラシックな名店がありましたよね。
 「京都」の広告には、ソワレが出ていました。

 ソワレ ソワレ

 裸体のトルソ、柱時計、高坏に盛られた果物……
 時代を感じさせますねぇ。いまは閉店してしまったけれど、私も何度も行ったことがあります。
 「雰囲気を誇る」というフレーズが自信ありげですね。そういでば、ソファなんかも緋色のビロードでしたもの。

 このような喫茶店、いまクラシックだと言いましたけれど、同時にモダンだとも言いたくなるのですね。語義からすると正反対な気もするのですが、クラシックであることがモダンだと言える、そんな喫茶店がたくさんあったのです。

 ロータリー ロータリー

 木屋町三条下ルのロータリーという店。
 喫茶でお酒も出すみたいです。あぁ、「コーヒ」という表現が時代です。

 そして、今も健在のスマート珈琲店。

 スマート スマート

 寺町三条上ル。創業は昭和初期ということですが、ここには「新装開店」とあります。昭和25年(1950)10月号掲載なので、戦後に新しくやりかえられたのでしょう。
 それにしても、こういう広告のテイストがたまりませんね。

 ジャワ ジャワ

 欧風料理のグリル、と書いています。ジャワで欧風というのは矛盾する、などと言うのは野暮でしょう。
 下見板張りなのか、入りたくなる店構えです。


 和風の店

 いまある店、もうなくなった店。さまざまですが、京都らしい和風の店構えも登場しています。

  いろは いろは

 四条大橋西詰・いろは。
 はぁ、いまはないですかね。
 木造三階建。看板に「月桂冠」などとある、すきやき店。

 東華菜館 東華菜館

 おそらく、このいろはの近所になる東華菜館。こちらは健在。ヴォーリズの名建築。
「鴨涯第一の眺望」という文句が、やはりいいですねぇ。「鴨涯」なんて、いまは言いません。鴨涯(おうがい)は、鴨川のほとり(汀、水際)の漢語的表現。昔はよく使われました。

 松一 松一

 四条縄手(大和大路)南入、割烹松一。
 しっとりとした店構え。
 「入浴御自由」ですか。

 いつのまにか鴨川を渡っていましたね。
 渡りついでに、こちら。

 祇園ホテル 祇園ホテル

 祇園ホテルとあります。場所は、四条大橋東詰北入と書いてある。私の知っている祇園ホテル(現・アパホテル京都祇園)というと、祇園石段下ですね。昔は、こんなところだったのか。建物はロマネスク風で、柔らかい雰囲気。好ましいですね。

 戦後まもなく頃のお店の数々。
 こうして広告でたどるのも、なかなかおもしろそうです。




 四条通アーケード

 所在  京都市下京区御旅町
 見学  現在では架け替え
 交通  阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 「京都」白川書院、1950-51年 各号


【大学の窓】夏休み、職場に大学生を迎えて

大学の窓




フィルム



 博物館実習で映像フィルムを語る

 世間は、お盆、夏休みというのに、ここのところそれなりに忙しくしています。
 ちょっとした仕事が入ったせいもありますが、盆明けには例年、職場の博物館で、大学生の実習を受け入れるためです。
 教員実習の博物館版と思っていただければよいでしょう。
 学芸員の資格を取るためには、大学で所定の単位を取得し、この博物館実習(館園実習)を行わなければならないのです。

 もっとも、なかなか本物の仕事をやってもらうわけにもいかないので、博物館資料を触ってもらったり、展示作業のまねごとをやってもらったり、保存処理の現場を見に行ったり、まぁ、1週間、博物館でお勉強してもらう、というものです。

 私は、自分の授業も担当するのですが、今年は全体のお世話役もやっているので、毎日学生に「○○してくださ~い」みたいな感じですね。出席を取ったり、引率したり。

 それで、今日は自分の授業がある日です。
 昨日、配布資料も作りました。内容は何かというと、私は近現代史担当なので≪博物館の近代資料≫がテーマになりますが、今回は<映像フィルム>に絞ったお話です。
 いわゆる8ミリフィルムとか16ミリフィルムとかいう、懐かしいやつですね。いまふうに言うと、動画です。

 フィルム缶

 博物館で扱う昔の映像フィルムというと、およそ昭和初期から高度成長期頃のものでしょうか。大正より古いものが出てきたら、これはちょっと貴重。なぜなら、その時期には一般市民に映像フィルムが普及していなかった時期ですから、そのフィルムは撮影所でキチンと撮った映画作品である可能性が高いからです。

 ところが、昭和に入ると、一般市民もカメラを手にすることが可能になり、動画を撮影するようになります。

 映像フィルムのサイズは、主に、8mm、9.5mm、16mm、35mm、70mmがあります。
 映画館で見る映画のフィルムは、35mmです(特殊なケースで70mm)。
 学校でかつて使った教育映画などは、少し落ちて、16mmです。
 戦後、お父さんたちが盛んに撮った一般用が、8mmです。8mmは、昭和初期からあり、コダックなどはカラーフィルムも出していました。また、16mmを一般の人が撮るケースもあったのです。


 変わったサイズ、9.5mmフィルム

 みなさんご存知ないのは、9.5mmでしょうか。
 フランスのパテ社が主に流通させていたサイズです(ちなみに「パテ」は人名です)。

 日本でお馴染みのパテといえば、家庭用の存在で、出来合いの娯楽フィルム(いわば映像ソフト)を買ってきて、小型映写機で家のふすまに映写する、みたいなイメージです。もちろん、生フィルムを買って自分で撮影することもできました。カメラも小さくて、だいたい15cm角ほどのボックス型のカメラですね。「パテ・ベビー」という商品です。

 9.5mmフィルムの見た目の特徴は、フィルムをコマ送りする穴(パーフォレーション)がフィルム中央にドーンと開いている、というもの(他のサイズのパーフォレーションはフィルムの端にあります)。
 あと、パテ社のマークはニワトリ(雄鶏)なので、フィルムの缶などにニワトリマークが付いていたら、9.5mmですね。もしかすると、ルコック社かも知れませんが(笑)

 そんな感じで、私の職場のフィルムにも、8mm、9.5mm、16mmがあり、一般の人が撮影した映像が記録されています。
 旅行とか家族とかを撮ったものが多くて、事件事故を扱ったニュース映画とは趣を異にします。当たり前のように、プライベートな映像が多いのですね。旅館で仲居さんを侍らせてお酒を飲んでいる映像とか…(笑)

 フィルム

 こんな私的映像が、どういう価値を持つのか? 実のところ私もまだ考え中なのです。
 一昨年(平成26年度)、記録映画保存センターが行った調査によると、全国341の博物館、美術館、公文書館、視聴覚ライブラリー等に、約16万本の映像フィルムが所蔵されていることが分かりました。

 16万本!

 その中心は、戦後の高度成長期に撮影されたフィルムのようですが、この数は想像を超えています。
 これは博物館やアーカイブ的な公的施設に残されている数ですから、他の官公庁や民間の会社、さらには放送局などに残っているものを調べたら、どんな数になるのか? そして、個人の家庭には!

 古い映像フィルムについて、どのように調査し、保存し、活用するかは、私たち博物館関係者にとっては、今後の大きな課題です。
 おそらく、私たちの次の世代、つまり今日来ている大学生たちの世代が真剣に取り組むことになるだろう。そんな予感がしています。

 授業が終わって。
 やはり、いまの大学生は、ほとんど8mmフィルムの存在を知らないようでした。
 昭和は遠くなりにけり、ですね。




 【参考文献】
 「全国文化施設・映画フィルム所蔵調査」(記録映画保存センター ウェブサイト)


【新聞から】シンクロナイズドスイミングの活躍を支えた京都の水泳界と踏水会

洛東




旧夷川船溜り



 シンクロチーム「銅」 「お家芸」京滋が支える
 京都 2016年8月21日付 


 リオ五輪も、大きな盛り上がりをみせてフィナーレとなりましたね。
 日本選手の活躍も目覚ましく、テレビに釘付けになっていた方も多いことでしょう。

 中継を見ていると、選手の出身地での応援風景がよく映し出されます。
 おそらく、地方新聞でも地元選手の活躍を報じているのでしょう。

 京都新聞は、京都と滋賀が配達エリアなので、両府県の出身選手を大きく報道します。
 銀メダルを獲得した陸上 4×100mリレーで、3走を務めた桐生祥秀選手(東洋大)は、滋賀県彦根市出身、京都・洛南高校卒なので、8月21日付の1面には「桐生、魂の疾走」の大見出しと、桐生選手を中心にした写真を掲載しています。
 また、私の中学校の後輩(といっても20歳くらい下)の上田藍選手がトライアスロンに出場しました。残念ながら満足いく結果は出せませんでしたが、捲土重来、東京五輪を目指すと言います。

 一方、シンクロナイズドスイミングでは、滋賀県近江八幡市出身の乾友紀子選手がクローズアップされていました。

 8月21日付の社会面では、<シンクロチーム「銅」 「お家芸」京滋が支える> の特集を組んでいます。
 見出し通り、シンクロナイズドスイミングの発展に京都のシンクロ界が大きな貢献をしてきたことに触れ、特に京都踏水会(とうすいかい、左京区)の存在が大きいと指摘しています。

 踏水会とは風変りな名称ですが、伝統ある団体です。明治29年(1896)に大日本武徳会の遊泳部として発足しました。
 当時、京都にも水泳教育が必要だと考えた財界人・高木文平らは、前年できた大日本武徳会に水泳部門を設けたのでした。その場所は、琵琶湖疏水の流末のひとつ、夷川船溜り(夷川ダム)だったのです。
 この場所は、平安神宮と鴨川の間に当たります。

 夷川ダム
  旧夷川船溜り (夷川ダム。東方を望む)

 大日本武徳会は、平安神宮の西隣にありました。現在の京都市武道センターのところで、明治32年(1899)築の旧武徳殿は重要文化財に指定されています。
 そこから、夷川船溜りまで、西に僅か300mほど。ごく近く、広い水面で、最適の場所ですね。
 戦前生まれの私の父なども、かつてここで泳いだことがあるそうです。この屋外水泳場は、昭和45年(1970)まで使われていました。

 大日本武徳会の遊泳部は、終戦後、武徳会の解散により、社団法人の踏水会となりました。京都で「トウスイカイ」というと、かなりメジャーな存在です。

 武徳殿
  旧武徳殿

 京都新聞の記事によると、踏水会は、バルセロナ五輪(1992年)ソロ、デュエットで銅メダルの奥野史子さん以来、9人の五輪代表を輩出していると言います。その秘訣として「クロールなど近代泳法のみを教える一般的な水泳教室とは違い、立ち泳ぎなど日本古式泳法の習得」も課すところが大きく、体操やダンスの指導者もおられます。
 現代表監督の井村雅代氏との関係も深く、踏水会から井村シンクロクラブへ進む選手も多いそうです。

 どの種目でも同じですが、よい練習環境と優れた指導者、そして経済基盤の充実は、競技の振興に不可欠です。
 先日、女子ホッケー決勝(オランダ-イギリス)を見ていると、世界有数のホッケー大国オランダには、国内に人工芝コートが約1,300面あると言っていました。日本とは、文字通りケタ違いの充実ぶりで、幼少時よりスティックを握り、トップを目指します。

 今回の五輪を見ると、日本でも徐々に競技環境が整ってきていることが理解できますが、手弁当、道半ばの種目も多いようです。東京五輪に向けて、その向上を願わないではいられません。




 旧夷川船溜り(夷川ダム)

 所在 京都市左京区聖護院蓮華蔵町
 見学 自由
 交通 京阪「神宮丸太町」下車、徒歩約5分
 


 【参考文献】
 岡田昌彰ほか「夷川船溜りにおける水泳場としての空間再利用の変遷に関する研究」(「ランドスケープ研究」77-5、2014年)


【新聞から】京都での景観保全の取り組みは…





先斗町


 京都「景観」写真館への誘い
 ~みんなで守っていくべきまちの宝~
 市民しんぶん 2016年8月1日号 


 京都市政の広報紙は「市民しんぶん」です。
 ここ1、2年、レイアウトやデザインの大幅な見直しがなされて、話題を呼んでいます。内容も、市民に関心を持ってもらいたい施策をトップに配し、写真・イラスト入りで分かりやすく説明するなど、工夫がこらされています。

 2016年8月号の特集(1~3面)は、景観保全の取り組みでした。

 市民しんぶん 「市民しんぶん」8月号

 国内の景観に関する取り組みは、文化財保護の観点からは「伝統的建造物群保存地区」の指定がよく知られていて、これは昭和50年(1975)から行われています。いわゆる「伝建(でんけん)地区」というものです。
 一方、最近の動きでは、2004年に景観法が施行され、各地で景観保全に対する取り組みが始まりました。

 京都では、複合的に市街地の景観保全がはかられています。
 町家の保全、屋外広告の規制、眺望の確保など、多岐にわたります。

 今回「市民しんぶん」で取り上げられたのは4つほどの施策で、ひとつめが「界わい景観整備地区」です。例として、昨年(2015年)4月に指定された先斗町(ぽんとちょう)が紹介されています。
 先斗町らしい地域色のある景観を保護するもので、屋根や壁などの建物デザイン等に規制を加えています。
 特に、先斗町らしい簾掛け、欄干、あやめ板、犬矢来、駒寄なども取り入れていきます。

  先斗町 以前の先斗町

 この写真は、屋外広告物の方かも知れませんが、以前の先斗町は突き出し看板などが煩雑だったりしました。
 いまは結構すっきりしています。

   先斗町 現在の先斗町

 ふたつめは、京都らしい眺望を守るための眺望景観保全地域で、市内38か所を指定しています。
 寺社や街並みのほか、大文字が見える眺望も守られています。

 下鴨神社
  眺望景観保全地区のひとつ、下鴨神社

 三つめに、京都景観賞の授与。すぐれた建築、屋外広告、景観づくり活動を表彰しています。
 こちらは建築部門で市長賞を取った龍谷ミュージアム。

 龍谷ミュージアム
  龍谷ミュージアム(下京区)

 西本願寺前にあるだけあって、和のテイストが取り入れられています。

 四つめは、京町家の保全で、京町家まちづくりファンドから改修費用の助成などを行っています。

「市民しんぶん」は、「近年、市内の歴史的景観を構成する寺社などとその周辺で、景観に影響を与えかねない建築事例が発生しており、危機感を募らせて」いる点を述べ、「素晴らしい景観は、当然のように継承されるもの」ではなく、市民みんなで守っていくものであると強調しています。

 景観保全は難しい面も多いのですが、京都ならではの取り組みに注目していきましょう。


 *「市民しんぶん」は、京都市のウェブサイトで閲覧できます。


懐かしい西陣の町を歩く - 駒 敏郎『京都西陣織屋町』 -

京都本




  京都西陣織屋町 駒 敏郎『京都西陣織屋町』駸々堂出版


 織物のふるさと・西陣 

 お盆ですね。
 毎日とても暑くて、今日(8月16日)も、最高気温は35.4℃まで上がりました。
 そして大文字の送り火は、夜になって降り出した強雨で大変心配されましたが、無事点灯されましたね。

 前回、下鴨神社の古本まつりを紹介しましたが、今日はもう1回、求めた本の話です。
 
 その本は、駒 敏郎『京都西陣織屋町』(駸々堂ユニコンカラー双書)。
 タイトル通り、西陣の町について写真を織り交ぜて紹介したものです(写真・松尾弘子)。
 刊行は昭和50年(1975)ですから、40年も前になります。

 西陣は、西陣織の産地としてよくご存知と思いますが、この本のカバーに簡潔にまとめられているので引いておきましょう。

 京都西陣は絹織物のふるさとである。
 平安の昔から織部町として栄え、その後たびたびの火災にもめげず、現在まで受けつがれている絹織の町である。
 機音のする町角を少しはいると、町家の紅がら格子、細い露地奥の地蔵にも歴史と生活の勾いが感じられる。
 京都の下町ともいえる西陣から織り出された錦には千年の歴史を生きぬいた庶民の生活と京都の文化を生み出したエネルギーが、燦爛たる模様としてくり展げられているのだ。 

 
 西陣の町並み 西陣の町並み

 屋根の低い家並みが続く西陣。その家の中からカッシャンカッシャンという織機の音が聞こえてくるのが、かつての西陣でした。
 いまでは、その音もたいそう少なくなった気がしますが。

 
 西陣の範囲

 目次を紹介しておきましょう。

  西陣の四季
  絹織一千年
    平安の織手町
    西陣の誕生
    幕府の絹工場
    災厄の時代
    甦る機音
  西陣散歩
    西陣の区域
    紫野
    千本通
    北野
    内野
    古町
    御霊前
    小川・堀川
  西陣ガイド
    西陣の行事
    西陣の歴史
    道しるべ
    西陣味しるべ
  地図 


 150ページ足らずの本に、これらの事項とカラー写真が多数収録されていて盛り沢山です。

 京都西陣織屋町


 西陣ってよく聞くけど、どこかなぁ? という方もおられるでしょう。
 著者は「北は今宮神社前を東西に走る今宮通、西は西大路通、南は丸太町通、東は烏丸通に囲まれただいたい三キロ四方の地域だろう」と言います。
 もちろん、時代によって範囲は変わるのですが、戦後はこのような感覚だったわけです。東はやや狭く堀川通、という見方もあるし、北は北大路通くらいに見ることもあるでしょう。
 
 けれども、私が “もっともだなぁ” と思った駒氏の見解は、別に述べられています。

 西陣の範囲というのは漠然としていて、はっきりどこからどこまでと区分することが難しい。
 (中略)
 早い時代に絹織物の産地という意味にすりかえられてしまったので、機[はた]の音のする所がすなわち西陣、と考えられてきた。したがって、機業が盛んになるにつれて、西陣はどんどん拡がっていった。今では、その方式を当てはめると、鷹ケ峰や御室のあたりまで西陣の中にはいってしまうことになる。

 微妙な変化なのでどこがどうとはいえないのだが、西陣的な雰囲気に濃淡があって、周辺部へ行くにつれてそれが薄くなっていくのは、肌に感じられるようだ。もうここは西陣ではないということだけは、何となく判るのである。(97ページ) 


 これはおもしろいですね、「西陣的な雰囲気」って。

 でも、これはあるように感じます。上の町並みの写真のような、低い瓦屋根の家々が並んでいる。でも、よくみると「○○織物株式会社」の表札が掛っている。そういう雰囲気です。
 私の両親の実家も、西陣の東の端と西の端にあるのですが、確かに微妙に西陣的な雰囲気が残っていますね(笑) 高校は北端でしたが、その辺はちょっと外れつつあるかな、という印象があります。
 いずれにせよ、こういう地域の捉え方って素敵ですよね。少し分かりづらいのですが……


 千本今出川のミヨシ堂

 それにしても、「西陣散歩」の章を見ていると、いくつもの通りの名が出てきて感心させられます。
 千本通や今出川通の大きな通りはもちろん、寺之内通とか五辻通とか上御霊前通とか、どう読むの? と思われるような通り名が平気で出て来ます。
 俗に、京都ではすべての街路に名前が付いている、と言われます。それだけ、通りというものの存在が大きな意味を持っており、地域住民も通りを基準に地理を覚えているわけです。

 西陣の織屋町の中心は、今出川通と大宮通の交点と言われ、「千両ケ辻」と呼ばれます。
 もっとも、大きな交差点と言えば、千本今出川でしょうか。

 そこに、こんな建物があるのをご存知ですか?

 ミヨシ堂

 壁面にもある通り、ミヨシ堂です。
 この時計塔がランドマークになっていて、私にも昔からお馴染みでした。

 先日、京都新聞に「京都を彩る建物や庭園」の選定(京都市)についての記事が出ました(2016年7月18日付)。
 これにミヨシ堂が選ばれたそうなのです。

 ミヨシ堂は時計店で(現在は閉店)、昭和4年(1929)の建築です。
 市電開通の際、道路拡幅で交差点が隅切りされたので、表の町家を洋館に建て替えたのだそうです。
 いまは高いビルに囲まれていますが、当時はモダンなランドマークだったのでしょうね。

 西陣というと古風なイメージですが、繁華街という一面もあっただけに、このようなモダニズムも花開いたのでしょう。




 書 名:『京都西陣織屋町』
 著 者:駒 敏郎
 刊行者:駸々堂出版
 刊行年:1975年


古本市で見付けた『カメラ京ある記』は、戦後まもない昭和30年代の空気を活写

京都本




古本まつり


 下鴨神社・糺の森で古書市

 毎年恒例、下鴨納涼古本まつりに行ってきました!

 下鴨神社(左京区)の境内、糺の森(ただすのもり)が会場。
 つまり、屋外で開催されているのですが、40ばかりの出店があって盛観です。

 年々店舗数も増え、ひと通り見て回るのに、私の場合、3時間くらいかかります(笑)
 写真では年配のお客さんが多いように見えますが、若い学生風の方もたくさん来られていて、そのあたりは京都らしいというところでしょう。

 古本まつり


 何を買おうか?

 昔に比べ、近頃は “これは!” という本が余り見付からない、という印象です。
 なぜなんだろう?

 万巻の書を買い尽したわけでもなし、本への興味関心が薄れたわけでもないけれど、不思議ですね。

 今回買った本は、例えば風流なところでは、

 山根翠堂『花道日本』教育研究会、昭和18年
 重森三玲『日本庭園の鑑賞』スズカケ出版部、昭和10年 

 
 実は、生け花の歴史を書いた本で、素人にも手ごろなものって、なかなかないんですよね。著者で言うと、西堀一三や、この山根翠堂ですか。
 山根翠堂は華道家ですが、本は戦時中の刊行。紙は悪いけれど、図版も入っていて、いいですね。

 庭の本も、通俗的な解説書は数多くありますが、しっかりしたものは少なそうです。
 戦前では、作庭家の重森三玲(しげもりみれい)でしょう。
 重森には『日本庭園史図鑑』といった完備した全集もあって、これは私の職場にもありますが、図面も入っていてとてもいい本です。ただ、全26巻あるので、個人では持てないです……
 今回見付けた『日本庭園の鑑賞』は、とてもコンパクト。庭園史と庭園の見どころ、実例などが、図版入りで紹介されています。

 他の分野では、最近お芝居について考えているので、こんなものを求めました。

 岡本綺堂『明治の演劇』大東出版社、昭和17年
 三宅周太郎『芝居』生活社、昭和18年
 郡司正勝『地芝居と民俗』岩崎美術社、昭和46年 


 岡本綺堂(きどう)は、『半七捕物帳』でお馴染みの作家ですが、もとは新聞記者でした。小説とともに戯曲も書いていて、代表作の「修善寺物語」は現在の歌舞伎でもよく上演されますね。
 
 『明治の演劇』は、昭和10年(1935)に出版された『明治劇談 ランプの下にて』(岡倉書房)を改題したもののようです。『ランプの下にて』は、明治5年(1872)生まれの綺堂が実見した明治時代の歌舞伎を回顧した随筆です。
 綺堂は、学校を出たあと、東京日日新聞に入ります。当時も、新聞記者は劇場に招待されて観劇し、劇評を紙面に書いていました。綺堂はその担当となるのですが、新米記者が招待見物でウロウロしながら観劇するさまが面白おかしく描かれています。

 他にもいろんな回想があって、楽しい本なのですが、どうも岩波文庫に入っていたらしい……。でも、古書めぐりは「出会い」ですからね、ここで買って手に取ることが意味があるのです。
 

 昭和30年代の京都を激写?

 上記のいろいろな本も、なかなか面白いのですが、手に取った瞬間 “おっ” と思ったのはこの本です。

 朝日新聞京都支局編『カメラ京ある記』淡交新社、昭和34年
    同     『跡 続・カメラ京ある記』同、昭和36年


 この本は、これまで見たことがなかったですね。

 京ある記 『カメラ京ある記』

 正編は、朝日新聞京都版に昭和33年(1958)に連載したものを翌年に刊行。続編は、昭和35年(1960)の連載を翌年にまとめています。
 昭和33年、35年というと、戦後の復興が目覚ましく進んでいた頃でしょうか。京都の街も、みるみる変わっていきました。
 そのため、本書には、現在の私たちが見ると、衝撃的な写真が並んでいます(以下、著作権の関係で写真を掲載できないことが残念です)。

 例えば「大雲院境内」という写真。
 大雲院は、いまは円山公園の南側にあり、祇園閣があるお寺として有名です。
 実は、かつては寺町四条の南にありました。現在の高島屋の西側、立体駐車場などがある辺りです。藤井大丸の東向いになります。

 おそらく藤井大丸の上から撮った俯瞰写真には、昔の体育館のような建物が写っています。壁面には「PALACE」の文字があって、これがパレス劇場です。
 本書によると、昭和28年(1953)に大雲院の境内に出来たアイススケート場で、まもなく映画館に転換したと言います。
 このあたりのややこしい事情も書かれているのですが、差し障りがありそうなので割愛し、結局お寺は土地を売って移転された、ということだけ書いておきましょう。
 また、境内には労働運動の牙城である労働会館もあり、異観を呈していたようです。

 本文には、

 山門をくぐって、映画館と本堂と労働会館のあい住まい--ある意味では一番“いまの京都”らしい場所といえようか。(続編83ページ)

 と締めくくっています。
 やはり戦後らしい風景がありますね。

 私が驚いたもう1枚の写真は「顔見世」というもの。
 南座を西側(鴨川側)から撮ったショットですが、なんと数多くの幟(のぼり)が立てられているのでした。南座の脇には京阪電車が走っていた(もちろん地上)ので、その間に立っていたようです。
 当代ではありませんが「片岡仁左衛門」とか「中村時蔵」とか、馴染みのある名前が並んでいます。「片岡秀太郎」は当代ですね。


 文化財の爪痕

 「通天橋」という写真には、なんと真ん中で分断された東福寺・通天橋が収められています。
 昭和34年(1959)夏、豪雨で流されて、「秋になっても橋なしのモミジではいかにもさびしい」(続編118ページ)。
 橋の復興のために、拝観料を10円値上げし、雲水たちが喜捨集めに駆け回った。その結果、最近になって復旧工事に取り掛かったと、伝えています。

 「鷹ケ峰」の写真には、真新しい住宅が写されています。
 通称・鷹ケ峰街道は、千本北大路から北へ延びる一本道で、付近には秀吉が造った「御土居(おどい)」があります。

しかしこの道をよぎって連なっていた「お土居」(秀吉が京都の周囲をかこって築いた土塁)の跡に“文化住宅”が最近バタバタと建ちはじめた。道の東側の「お土居」だけが史跡に指定されていないのに目をつけた人が買い占め、ブルドーザーを入れて谷をうめ“宅地”にしてしまった。おかげで、付近の地価ははね上がった。
 
 “京の箱根”がうたい文句。同じようなつくりの分譲住宅が二百戸建つのだそうだが、ニスとモルタルで化粧されたマッチ箱をくっつけたような家がずらりと並んでいる。壮観だ。(続編25ページ) 


 新聞記者が書いているので、なんだか皮肉っぽく、社会の裏をうがつような記述が多いのです、どのページにも。
 それにしても「京の箱根」は初めて聞きましたね。

 「京の○○」と言えば、「四条大宮」も。

 四条大宮が、かつて何と呼ばれていたかご存知でしょうか?
 戦後、この場所は阪急電車の京都方の起終点となりました。

 ターミナルの朝は、もう六時すぎに明ける。職場に急ぐ人たちが吸い込まれ、吐き出され、一日の活動がはじまる。人のウズ、足どりもせわしそうだ。阪急京都駅の話では、乗降客は日に四万五千。東の三条京阪とならんで京都の二大ターミナルである。

 “京都の新宿”とはだれがいい出したのか。
 「京新宿」「新宿大宮」と二つの商店会もある。
 新宿にくらべるとお粗末だが、かいわいに酒場が七十軒ぐらい、パチンコ店や映画館が軒をならべている。(後略) (後編196ページ) 


 京都の新宿かぁ。
 聞いたことなかったですね。
 私が知っている阪急京都線のターミナルは、すでに河原町ですから。
 本書にも、河原町延伸の話が出ており、四条大宮界隈でも「「商売にさしつかえる」と反対の空気が強い」と記されています。

 私が学生の頃、四条大宮には映画館がいくつもあって、コマゴールドとかコマシルバーとかに名画を見に行ったものです。いまはそれもなくなって、やはり「商売にさしつかえ」たのでしょうか。


 50年で大きく変貌

 本書が刊行されてから、50年余りが経っています。

 正編冒頭には「鴨川」の写真--四条大橋西詰の東華菜館から俯瞰したもの--が載っています。
 夜の四条大橋は、ひっそりと街灯に照らされ、「鰻まむし」の電飾を灯した角の「いづもや」は二階建の木造のようです。つづく家並みも低く、ここが四条大橋、先斗町かと思わせます。

 「加茂大橋畔」は、賀茂川と高野川が合流する三角州を捉えています。河原には、友禅染の反物が何十も並び、背後には建物に妨げられることなく比叡山がそびえています。

 正編の最後から2枚目「舞子」は、なぜか京都駅にたたずむ舞妓さんなのですが、彼女の前にあるはず? の京都タワーは未だなく、関西電力のビルだけが建っています。

 半世紀のうちに、京都の景観も、人々のなりわい、くらしも大きく変わったのでした。

 当時の人たちも、京都は変わってゆく、と感じていたのでしょうけれど、やはりそれからの50年間の変貌ぶりは凄まじいですね。


  古本まつり




 書 名 『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年


ご愛読ありがとうございます - ブログ4周年 - 

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賀茂川


 記事は480本に

 いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
 おかげさまで、≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫ も、スタートから4年を迎えることになりました。
 掲載してきた記事は、480本に上ります。

 ここまで続けて来られたのも、ひとえにご愛読くださる皆さんのおかげです。
 改めて御礼申し上げます。


 裃を脱いで書いてみた

 私は長い間、歴史学を勉強してきて、大学入学から数えると、すでに30年余りになります。
 そのうち、20数年にわたって、それを生業(なりわい)にしてきました。
 それも、研究機関ではなくて、社会との接触が濃密な博物館という場所でずっとやってきました。また、独立した個人としての活動よりも、組織人として生きるという色彩が強かったと思います。

 けれども、少し組織から離れて、あるいは研究者という裃(かみしも)を脱いで、一個人として表現を行ってみたらどうだろうか--そんな思いから、このブログは誕生しました。
 そのため、このブログで書かれていることのほとんどは、仕事とは切り離された “オフ” の自分から生み出されてきたものです。もちろん、誤解のないように付け加えれば、オンの自分とオフの自分は一体ですから、仕事で培った知見・経験がこのブログに活かされていることは言うまでもありません。

 つまり、ここに記されていることは、いわゆるメイン・ストリームとは全く関係のないところで、ごく個人的な関心に基づいて展開されているということ。
 そういったことから、1本1本の記事は「歴史」にまつわる話題を取り上げているのですが、少々異色の記事が多いのかも知れません。それが皆さんの関心に合致するのか、ちょっと分かり兼ねるのですが……


 5年目に向けて

 先日のように、テレビ番組で「明智風呂」とか「元三大師」が取り上げられたりすると、このブログのアクセス数が急上昇します。まずはググってみるというインターネット時代らしい現象ですが、場合によっては大勢の方々が当ブログを閲覧いただくということが分かります。
 そう思うと、もっと気合を入れて記事を書かないとなぁ、なんて、ちょっとプレッシャーになったりもします(笑)

 別の面からみると、1本1本はつまらない記事ではあるけれど、480本も蓄積されると、一定の意味を持ってくるということでしょう。本当は、きっちりとした京都に関するウェブサイトを作るべきなのでしょうが、いろんな意味で厳しいので、しばらくはこのブログを続けていきたいと思います。

 これからも ≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫ のご愛読をよろしくお願い申し上げます。


 賀茂川


京の最高気温、過去最高は?

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夏空


 今年の夏も暑い!

 この夏も、京都はとても暑いですね。

 昨日(2016年8月6日)は、最高気温37.9℃を記録し、全国でもトップクラスになりました。
 今朝(8月7日)も、午前9時の時点で31℃を超え!、おそろしいくらいの猛暑になっています。

 歴史の勉強をやっていると、だいたいすぐに昔のことが気になるもので、この37.9℃というのはどの程度のレベルなのか調べてみたくなります。
 気象庁のウェブサイトで、簡単に調べることができますので、京都の最高気温ベストテンを紹介してみましょう。


 最も暑かったのは1994年
 
 1  39.8℃  平成6年(1994)8月8日
 2  39.4℃  平成6年(1994)8月6日
 3  39.3℃  平成6年(1994)8月5日
 4  39.2℃  平成6年(1994)8月7日
 5  39.1℃  平成27年(2015)8月2日
 6  39.0℃  平成25年(2013)8月11日
 7  38.6℃  昭和48年(1973)8月11日、8月13日、
         平成19年(2007)8月16日
10   38.5℃  平成27年(2015)8月1日

 ※明治13年(1880)11月~ のデータによる。


 実に、4位までが平成6年(1994)です。
 昨年(2015年)も暑かったことが分かりますね。

 やはり、8月上旬が暑さのピークのようで、ここ数日の猛暑もうなずけます。
 ちなみに、昨日の37.9℃は27位相当で、まあまあ暑かったということでしょう。

 さらに過去を振り返るために、半世紀余り前の地理書の記述を引いておきましょう。昭和34年(1959)刊の『日本地理風俗大系 7 』です。

 京都市における8月の毎日の最高気温の平均は32.4℃、1月の最低気温の平均は-1.9℃である。これを他の都市とくらべてみると、8月の最高気温では東京よりも暑く、京都をしのぐのは熊本だけである。また1月の最低気温では、日本海沿岸の福井・金沢・新潟よりも少し寒い。

 このように気温の点では、京都は全国でいちばん暑い都市といえるほどで、市内では7~8月ごろ、暑さのために眠りにくい夜もしばしば経験される。また冬は、盆地のため夜になって急に気温が低下し、それに湿度がわりあいに高いため、寒いというよりは、じわじわとしめつけられるように冷たく感じられる夜が多い。これが京都の名物とされている冬の底冷えである。(247-248ページ)


「京都は全国でいちばん暑い都市」として、夜の寝苦しさにも触れています。
 京都の人は、かつては “京都は盆地やさかい、夏は暑いし、冬は底冷えする” と思っていました。いまは、ヒートアイランドなどと言って、都市的な暑さで東京や大阪も暑くなっていますが、昔はそんなこともなかったですからね。

 2015年8月の最高気温の月平均33.6℃でした。
 2014年は32.2℃、2013年は35.1℃、2012年は34.5℃、2011年は33.6℃となっています。

 ……と、ここまで書いて。
 結局、今日の最高気温は、午後3時56分に記録した37.1℃でした!
 あ~、昨日より低くてよかった--と言っても、37℃台ですからねぇ。大して変わりませんね。
 
 最後に、あまりにも暑いので、かつて書いた “最低気温” についての記事を貼り付けておきます。
 京都で観測史上最も寒かっ記録は、明治24年(1891)に記録された -11.9℃だったそうです。

 記事は、こちら! ⇒ <京の “底冷え” も、今は昔?>




 【参考文献】
 『日本地理風俗大系 7 近畿地方(上)』誠文堂新光社、1959年
 気象庁ウェブサイト「過去の気象データ検索」


きょうの散歩 - 国立文楽劇場の夏の公演は、井上ひさし作「金壺親父恋達引」 - 2016.8.3 -

その他




文楽絵看板


 夏の公演は3部構成

 夏の暑い盛り、大阪・国立文楽劇場で行われている夏休み文楽特別公演(2016年)に行ってきました。

 国立文楽劇場
  国立文楽劇場(大阪市中央区)

 夏の公演は、例年、3部構成です。
 第1部は「親子劇場」。第2部が中心的な公演で、今年は「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」と「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」。いずれも夏らしい演目です。これは先日拝見しました。

 夏休み公演

 今日は、第3部「サマーレイトショー」。午後7時開演。
 演目は「金壺親父恋達引」。
 「かなつぼおやじ こいのたてひき」と読みます。

 なんとなく分かると思いますが、“お金、お金”と強欲なオジサンが、あら珍しや恋をめぐるトラブル? に巻き込まれる物語です。
 上演時間は、1時間5分ほどで、朝・昼・夜の3段構成なのですが、場は主人公の呉服屋の場だけです。


【あらすじ】
 呉服屋・金仲屋(かねなかや)の主・金左衛門は、お金が大好きで、庭に小判を入れた壺を埋めていて、「金壺殿」と崇め奉っています。

 今は男やもめですが、このたび町内の美しい娘・お舟を30両の持参金付きで嫁に迎えることになりました。
 ところが、息子の万七は密かにお舟に恋心を抱いています。どうやらお舟も万七を好いている様子……

 娘のお高も、店の番頭・行平と恋仲で、いざとなったら駆け落ちしようという勢いでした。

 夜になり、婚礼に来たお舟ですが、万七と仲睦まじい様子。それに気付いた金左衛門は逆上。
 万七とお舟は駆け落ちしようと決心し、新生活の資金にと、こっそり庭の金壺を掘り出します。

 一方、お高も行平と駆け落ちするため、庭の金壺を探しますが、すでに壺はなく……。それに気付いた金左衛門は大慌て。行平が金壺泥棒だと決めつけます。

 そこへやってきた知人の呉服商・京屋徳右衛門。実は、徳右衛門は、かつて長崎屋徳兵衛という名で手広く商いをしていましたが、家族で乗っていた船が駿河灘で難破し、一家離散して、名を変えていたのでした。
 そこで、行平が持っていたお守りと、お高が持っていたお守りが同じものと分かり、実は二人は兄妹だと判明しました! 
 さらに、その父が徳右衛門であることも ‼ 
 意外な家族再会に、徳右衛門らは店を出ていきます。

 ひとり残された金左衛門は、また倹約の精神を発揮して、金壺殿を抱きしめるのでした。 


 金壺親父恋達引ポスター


 井上ひさしの戯曲

 かなりコミカルなお話です。
 古典ではなく、昭和47年(1972)に、作家の井上ひさしが書き下ろした新作戯曲で、モリエールの「守銭奴」を翻案したと言います。当時テレビやラジオでは放映されたそうですが、舞台で上演されるのは今回が初めてです。

 お客さんの反応は、かなり笑いも多めで、うけていましたね。
 
 実に他愛ないことなのですが、例えば、3段のうち「昼の段」が始まる最初の詞章は、

  昼、引潮の大川の、親巣はぐれた羽抜け鳥……

 と始まるのですが、ここで笑いが起きたんですよ。分かりますか?

 文字づらでは全く分からないのですが、文字久太夫が開口一番「昼」と言います。
 これは、大阪弁ですから「ひぃるぅ」となるんですね。
 ただ一言、「ひぃるぅ」とだけ言う、ここがお客さんには面白いわけです。私も思わず笑ってしまいました。

 実は、こういうところに浄瑠璃の愉しさが隠されている気がします。
 義太夫節は文字で読むものではなく、耳で聴くものですから、その音(おん)が大事になります。だんだん馴染んでいくと、そのリズムが心地よくなってくるわけです。

 だから逆に言えば、リズムが異なると違和感も生じます。
 例えば、こんなお高のセリフ。

  (前略)金壺を埋めているところを見たことがあるの。

 文字で見ると変ではないのですが、音で聴くと変なのです。
 たぶん、浄瑠璃の女性の言葉としては、「……見たことがある」となるはずなのですね。
 リズムが<見た/ことが/ある>なのです。

 上に続くセリフも、「持参金のかわりにもらって行きましょうよ」となっているのですが、ここもおそらく「……もらって行きましょ」というのが、らしいリズム。「もらって」も「もろて」でもよいかも知れません。

 細かい話なのですが、こういう独特のリズムが心地よさを醸成していることがよく分かります。


 “実は…” に大爆笑!

 物語の最後に、恋仲の行平とお高が実は兄妹だった! という意外な事実が打ち明けられます。歌舞伎などでもよくある「実は○○」というやつですね。

行平  ところが京屋さんとやら、二人の子どものうち、上の男の子、つまりこの私だけが、駿河の漁師にたすけられ、命を長らえていたのです。この守り袋がその証拠。

 と、行平は袷(あわせ)の襟かっぱと押し開げ、金らんどんすのお守りを京屋に見せて、

行平  このお守りに、長崎屋徳兵衛一子行平、と糸で縫いとってあります。

 といえば、お舟が行平にすがりつき、

お舟  お兄さん! あなたこそわたしのお兄さんよ。わたしも同じお守りを持っています。このお舟と母さまも伊豆の漁師にすくわれました。


 「お兄さん!」のところで、場内爆笑(笑)
 この近世的ご都合主義に、お客さんが笑ったのです。

 これには驚き、かつ不思議でした。
 歌舞伎では、いつもこの展開が登場するのですが、お客さんが笑った記憶がありません。
 どうも、今回は新作だったせいか、演出のせいか、はたまた言葉が現代語っぽいせいか、おもしろおかしい場面として認識されたみたいなのです。

 これには、少し考えさせられました。
 もしかして、江戸時代の人たちも「実は……」のところで笑っていたのでは、と。

 笑ったのか笑わなかったのか、結論は出ないのですが、おもしろい問題提起を受けた気分になった「金壺親父」観劇でした。

  金壺親父恋達引バナー




 国立文楽劇場

 所在  大阪市中央区日本橋
 見学  劇場として公演あり
 交通  大阪市営地下鉄「日本橋」下車、徒歩すぐ



 【参考文献】
 国立文楽劇場編『文楽 床本集』日本芸術文化振興会、2016年7月


歌舞伎俳優・中村鴈治郎の祖、初代林又一郎の顕彰碑は、黒谷にひっそりと建っている

洛東




林又一郎顕彰碑


 黒谷・金戒光明寺を訪ねて

 左京区にある吉田山、あるいは神楽岡と言ってもいいのですが、この小丘は大小の寺社が点在し、地形は起伏に富んで、格好の散歩道となっています。
 真夏は歩きづらいけれど、秋は紅葉も美しく、京都観光に打ってつけの場所ですね。

 真如堂、正式には真正極楽寺と言いますが、京都の人に「シンショウゴクラクジ」と言っても誰も分からず、真如堂と言うと簡単に通じます。
 その境内を東南へ抜けると、金戒光明寺の山内に入ります。こちらも「コンカイコウミョウジ」という名称は誰も知らず、「黒谷」というと、あぁ、とすぐ了解できる古刹です。

 真如堂の東南側の小道を出て、しばらく進むと会津藩士の墓地。さらに進めば丘上の墓地が拡がっており、目の前に三重塔が現れます。

  黒谷文殊塔 金戒光明寺三重塔

 さほど大きくはないものの、丘の上に建っているので、見上げる形になると背も高く見えます。

 この寺は浄土宗なので、本尊は阿弥陀如来ですが、この塔には文殊菩薩が祀られていて、江戸時代には多くの人々の信仰を集めました。いまは、獅子に乗られた文殊菩薩像は、本堂に遷座されています。

  文殊塔道標

 塔に登る石段の脇に「日本三体 もんじゆ[文殊]塔」の道標があります。
 日本三文殊のひとつと言われます。


 歌舞伎役者・林又一郎の顕彰碑

 ずっと下ってくると、熊谷堂や蓮池がある広場に出ます。

 蓮池
  蓮池 橋の向こうが熊谷堂

 この池の北側に、ひっそりと石碑が建っています。

 林又一郎顕彰碑

 近付いて、台に上って見てみると……

 林又一郎顕彰碑

 「林又一郎顕彰碑」とあります。

 おっ、と思って、長い碑文を走り読みしていきます。

 いま『近代歌舞伎年表京都篇』第10巻に紹介された碑文の大略を引用しておきましょう。

 その碑文によると又一郎は足利末期の浪士で、天正年間に四条河原に劇場を構え、六条仲之町に「又一(市)」と冠せた興行を行った屏風が残っている。一説には名古屋、熊本でも興行し、後に大阪新町に移り屋号を扇屋としたが、これは「曽(かつ)て又一郎が的標として射たる旭日扇を主君より恩賜せられこれより扇を家紋に用ひまた屋号となせりとこの扇屋ハ明治年間まで累世相嗣ぎ俳優中村鴈治郎ハ実ニその末孫たり」とある。(551ページ)


 碑文では、林又一郎を「歌舞伎創始時代」の「大功労者」としています。
 この文章は、歌舞伎研究の大家・伊原敏郎(青々園)が草しています。筆を振るったのは、大阪の日本画家・菅楯彦(すが・たてひこ)です。

  林又一郎顕彰碑 青々園と楯彦の名が見える

 その又一郎の墓所が、黒谷・善教院にあるということで、ここに顕彰碑が建てられたのでした。

  林又一郎顕彰碑 黒谷善教院の文字がある

 
 白井松次郎が建碑

 碑の裏面を見てみましょう。

  林又一郎顕彰碑

 中央に「昭和十六年二月一日 白井松次郎建之」とあります。
 白井松次郎は、歌舞伎興行を行う松竹の社長さんです。

 戦前、松竹は、白井松次郎と大谷竹次郎という双子の兄弟が、西と東に分かれて興行を行っていました。
 関西にいた白井は、上方歌舞伎の興隆のため、中村鴈治郎(初代)をスターとして盛り立てました。鴈治郎は京阪の劇界では押しも押されぬ名優となるわけですが、その一極集中の功罪も言われています。つまり、他の才能ある役者たちがスポイルされちゃった、ということですね。

 そんな鴈治郎も、昭和10年(1935)2月1日に亡くなります。
 碑に刻まれた昭和16年2月1日という日は、亡き鴈治郎の七回忌の命日なのでした。

 鴈治郎と白井松次郎
  鴈治郎と白井松次郎 右は長谷川一夫(『中村鴈治郎を偲ぶ』)

 その意味で、この碑は、白井松次郎が初代鴈治郎を偲ぶために建てたものであり、その先祖とも言われる林又一郎を顕彰した石碑なのです。
 碑文に、大坂・新町廓の扇屋という妓楼が出てきます。鴈治郎は、安政7年(1860)、扇屋の生まれで、本名は林玉太郎と言いました。

 碑は、高さ6尺(約180cm)の仙台石で造られているそうです。その建碑式は、昭和16年1月27日に行われました。
 翌2月には、京都・南座で鴈治郎の追善興行が行われ、夜の部では、伊原青々園考証、額田六福作の「又一歌舞伎」が上演されています。
 当時の番付には「慶長の昔四条磧(かわら)に殷盛(いんせい)を極めし又一歌舞伎の有りし姿を其まゝに中村鴈治郎の祖先を偲ぶ記念狂言」と記されたそうです(『近代歌舞伎年表京都篇』)。

 さらに、翌年(昭和17年)10月には、鴈治郎の長男・林長三郎が、二代目又一郎を襲名します。この人は、俳優・林与一さんの祖父ですね。

 初代は伝説的な人物ですけれども、300年の時を超えて、ひとつの名跡が復活したわけです。
 余り注目されない記念碑ですが、深い歴史が秘められているのでした。




 林又一郎顕彰碑(金戒光明寺内)

 所在  京都市左京区黒谷町
 見学  自由
 交通  市バス「岡崎道」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 白井松次郎『中村鴈治郎を偲ぶ』創元社、1935年
 『近代歌舞伎年表 京都篇 10』八木書店、2004年
 『歌舞伎俳優名跡便覧 第四次修訂版』日本芸術文化振興会、2012年