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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

路線図というもの、について考えた

その他




地下鉄路線図


 ロンドン地下鉄の路線図

 この週末、某所で簡単な研究報告をする必要が生じ、何について話そうか、しばらく考えていました。
 “図像”がテーマのシンポジウムだったので、庶民的なものにしようかと思い、考えついたのが「路線図」でした。

 路線図。
 電車や地下鉄に乗るとき見るアレですよね。
 路線図の歴史は、鉄道の歴史とともにあるわけですが、どの国・地域も最初は1本の線から始まります。延伸・増設されるにつれて、路線図も網の目のように複雑になってゆきます。

 路線図研究? で最も興味を集めている存在は、ロンドンの地下鉄(チューブ)のようです。
 ロンドン地下鉄の路線図は、20世紀の初頭に始まりますが、とりわけ1930年代に考案されたものは画期的なデザインだと評価されています。すでに美術的価値も認められていて、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)やニューヨーク近代美術館(MoMA)でも収集・展示されているそうです。

 論文
  ロンドン地下鉄の路線図についての論文

 その路線図は、水平の線と垂直の線、そして斜め45度の線だけで構成されるシンプルなもの。実際の地理から掛け離れた図案的なものです。
 考案者はハリー・ベック(Harry Beck)と言い、プロのデザイナーではありませんでした。図の雰囲気から「電気回路図をヒントに作った」と、まことしやかにささやかれていて、これは都市伝説かも知れませんね。

 いずれにせよ、地図、あるいは実際の地理に捉われないベック型の路線図は、現在の路線図の主流となっています。


 路線図と運転系統図

 ひとくちに鉄道線の図と言っても、細かく分けると、路線図と運転系統図があります。

 路線図というのは線路と駅を示したもので、線路が1本の線で描かれています。

 路線図
  路線図の例

 一方、運転系統図は、昔の市電(路面電車)などでよく使われました。これはバスでも用いられます。
 市電やバスは「○号系統」といった運転系統によって運行されていますが、その運行ルートを示した図なのです。だから、1つの線路(道路)上に何本もの線が引かれています。
 なので、かなり複雑です(笑) 私も、たまに京都市バスの運転系統図を見ますが、複雑すぎて、どれがどこを走っていくのかよく分かりませんね。

 かつて都市交通の花形だった市電の場合、市街地に縦横無尽にレールが敷かれていました。そこを電車が曲折しながら走っていたのですが、利便性のため多様な運転系統が設定されていたのです。それを図示したのが、運転系統図です。

 運転系統図
  運転系統図の例(色分けで示している)
 
 戦前は、市電全盛なので、運転系統図がさかんに作られていました。
 地理から離れているといっても、完全に地図的要素を払拭できません。例えば、北が上になる、というのはその典型です。
 ところが、井口悦男氏の研究によると、6大都市のなかで、東京市電(都電)の路線図だけは<西が上>になるものが多いのだそうです。不思議ですが、これは西を上に描く江戸時代の絵図以来の伝統なのだそうです。
 大阪の場合、私が調べたところ、川や堀を忠実に図示する傾向が強いようです。堀や川は市電と直接関係がないとも言えますが、大阪ではそれが地理を把握する大切な要素になっていたのかも知れません。

 市電の路線図は、地下鉄と異なって地上を走っているため、どうしても地理と無関係ではないようです。
 現在でも、地下鉄の路線図はシンプル、バスの路線図は複雑(運転系統図のため)といった特徴があります。

 路線図も、細かく見ていくと、なかなか面白そうです。




 【参考文献】
 吉田武夫「路線図の典型はいかにつくられたか」(「東海大学紀要 教養学部」32、2001年)
 井口悦男「東京市電(都電)運転系統図の推移とその特色」(「地図」33、1995年)


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【新聞から】京都御所の事前予約なし通年公開が始まった





紫宸殿


 雨にしっとり、京都御所の通年一般公開スタート
 京都 2016年7月26日付 


 かねて話題になっていた京都御所の事前予約不要の公開が、7月26日(2016年)から始まりました。
 これまで予約なしの一般公開は、春と秋の年2回のみでした。

 今日は、あいにく朝から強い雨が降り続きましたが、京都新聞の見出しは「雨にしっとり」。
 
 休みは月曜日と年末年始、行事のある日で、それを除いて年間を通して公開。
 時間帯も、午前9時から午後5時まで(入場は4時20分まで)と、博物館・美術館などと同様の幅広い公開となりました。
 入場料も必要なく、無料です。

 京都御所清所門
  入口となる清所門

 清所門から入り、紫宸殿や清涼殿、さらに小御所、御学問所、御常御殿などを見られます。
 初日も、雨の中、外国人観光客も含む人たちが見学しました。

 希望者には、日本語・英語でのガイドツアーもあると言います。

 仙洞御所、桂離宮、修学院離宮でも、8月10日から、予約枠に加えて当日受付け枠(人数限定、先着順)が出来るそうです。

 清涼殿
  清涼殿

 この公開の目的については、検討段階での東京新聞の記事に次のように書かれています(2016年3月26日付)。

 [国の施設の] 一般開放の拡大をめぐっては、菅義偉官房長官が国施設の有効利用の観点から河野太郎行政改革担当相に検討を指示していた。訪日観光客の増加に向け、観光ビジョン構想会議(議長・安倍晋三首相)が今月中に取りまとめる新たな観光戦略に盛り込む。

 日本を訪れる海外ツーリストを意識したもので、観光振興の一環です。
 国の所有施設に限っての取り組みですが、文化財の「保存」から「活用」へとウェイトを移していこうとする試みです。文化財保護の観点に鑑みて、慎重に考えなければなりません。
 これについては、以前記事に書きましたので、ぜひご参照ください。

 記事は、こちら! ⇒ <京都御所が通年公開されるという報道、今年度中にも実現?>

 今日の報道は、おおむねストレートな事実を伝える程度のものでした。
 私は、以前書いたように、今回の通年公開については手放しに喜べるものではないと思っています。どんな組織が、どのような考え方、意図のもとに、これを進めているのか考える必要があります。
 京都御所などは宮内庁の所管で、文化財ではあるものの、文部科学省、文化庁とは一線を画したところに置かれています。陵墓(天皇陵古墳)と同じ構図ですね。

 今後も動きを見守ってゆきたいと思います。




 京都御所

 所在  京都市上京区京都御苑
 見学  無料
 交通  地下鉄「今出川」下車、徒歩約5分


きょうの散歩 - 祇園祭後祭の宵山をぶらり - 2016.7.23 -





橋弁慶山会所


 後祭の宵山を訪ねる

 職業柄、土日も出勤のことが多く、先週末は仕事でした。
 それで先祭は行けなかったのですが、代りに今週の後祭を訪ねてみました。

 今日、7月23日は宵山ですが、訪ねたのは午後1時からで、「宵」とは言えない真昼間です。でも、聞いていた通り、今年は何だか涼しかったです、意外に。

 北観音山
  北観音山

 祇園祭の山鉾は、北は姉小路通から、南は松原通まで、その間に分散しています。
 端から端までの距離、約1200m。遠いような近いような。

 7月17日に巡行のある先祭の山鉾は、南の方、蛸薬師通以南に点在しています。
 一方、24日に巡行する後祭の山鉾は、北の方、錦小路通以北に集まっています(大船鉾だけは四条通の南にあります)。数も10基なので、コンパクトに見て回れます。

 今日は、地下鉄「四条」駅から、まず大船鉾に行き、そのあと室町通を北上していきました。

  南観音山 南観音山

 南観音山は、昨年会所が新しく建て替えられました。でも、なにかうまく納まっていて違和感がないですね。
 ここは場所も駅に近いせいか、とても賑わっています。山なのですが、上にあがれるのも人気の理由でしょう。

 浴衣姿


 鷹山は休み山

 そのあと、北観音山、八幡山と回っていきます。
 室町通を終えると、三条通を東行し、休み山の鷹山へ。

 鷹山
  鷹山会所

 鷹山は、文政9年(1826)から巡行を休んでおり、幕末の禁門の変でも一部焼けてしまい、現在は巡行に参加していません。
 ご神体の顔などは焼失を免れたので、居祭として町内のメガネ屋さんに据えられています。
 現在、復興に向けて地道な活動を続けておられ、その目標は2026年ともそれ以前とも言われます。

 
 黒主山では詳しい解説を

 黒主山

 
 そのあと、新町通に転じ、黒主山を訪ねました。
 会所にはご神体がおられ、山にかけられる懸装品が並べられています。

 ちょうど町内の年配の方が説明を始められるところで、話をうかがうことにしました。

 こちらは町名を烏帽子屋町と言い、辺りは呉服屋の彩りから「五色ケ辻」と呼ばれたそうです。
 ご神体は、六歌仙のひとり大伴黒主で、その出身地は近江だとのこと。その大友郷を訪ねてみると、いまでも大友姓のお宅が多いとか。
 目の前のご神体は、寛政元年(1789)に彫られたということで、着衣もその翌年のものだそうです。
 懸けられている綴錦の見送は、原品が240年前とか300年前の古い品だと言い、現在は近年復元したものを使用されています。

 いやー、たぶん20分位、熱心にお話いただいて感激ですね。なかなか、ひとつひとつ丁寧に見ないですものね。

 黒主山会所
  黒主山会所

 私たちの後には、ツアーの団体さんが入って来られました。
 説明のご主人、休む間もないですね。


 役行者山は護摩供養
 
 さらに、鯉山、そして蛸薬師通に折れて橋弁慶山に行きました。

 橋弁慶山の観衆
  橋弁慶山会所

 ここも人気ですねぇ。
 やっぱり牛若丸と弁慶ですものね。人だかりがすごいです。

 牛若丸と弁慶
  
 こちらは夜に見ると、とってもきれいですね。

 そのあと、北にある浄妙山、さらに鈴鹿山を拝見。
 一番最後に、姉小路通室町下ルにある役行者山に向かいました。

 すると、ものすごい人、人、人……

 なにかと思えば、煙が上がっています!
 
 実は、山伏さんによる護摩供養が行われていたのでした。

 役行者山護摩供

 人垣がすごすぎて、全然見えませんでしたが、煙と声で何となく様子が分かりました。

 「月刊京都」から、その模様を紹介しておきましょう。

(前略) 7月23日の13時半頃から15時にかけて行われる護摩供養だ。

 当日は、修験道の大本山である聖護院から山伏姿の僧侶らが参詣し、読経後に、山伏問答を繰り広げる。6本の矢が東西南北と護摩壇、鬼門に放たれ清められた後、山のすぐそばに据えられた護摩壇が点火され、空に向かって白煙をあげる。護摩壇に人びとの願いを託した護摩木が次々にくべられると、いよいよ厳粛な空気に包まれる。

 終わる際には、見物客らが、厄除のご利益が授けられる護摩壇の檜葉を持ち帰るのも毎年の光景だ。(「月刊京都」2016年7月号、15ページ)


 役行者(えんのぎょうじゃ)は、修験道を開いた伝説的な人物ですよね。
 他の山鉾のお祓いは八坂神社の神官によって行われるそうですが、役行者山は修験道に則って行われるわけです。

 役行者山護摩供の観衆
  結界の注連縄が張られている

 いやー、珍しいものを拝見できた、と思って宵山をあとにしたのですが……

 帰ってから気付いたのです。
 役行者山の会所には、肩こりや腰痛に効き目のある役行者腰掛け石があるのです。
 最近、ちょっと腰痛になった私。
 この石を撫でて帰ればよかった、と後悔したのでした。

 仕方ない、ここに写真を掲げて撫でておきましょうか。

 役行者腰掛け石
  役行者腰掛け石




 祇園祭 後祭 宵山

 所在  京都市中京区の姉小路通-四条通間の一帯
 拝観  自由(一部有料)
 交通  地下鉄「四条」または「烏丸御池」下車



 【参考文献】
 「月刊京都」2016年7月号


真如堂にある荼枳尼天で敷石に信心の一端を見る

洛東




だきに天敷石


 真如堂を訪ねて

 前々回から続いている吉田山の散歩。
 前回は、吉田神社末社の竹中稲荷社を訪ねました。今回も、実は似たような神さまです。

 真如堂にやってきました。
 
 真如堂
  真如堂(真正極楽寺)本堂

 幕末の門前の様子です。

 花洛名勝図会より真如堂
  幕末の真如堂門前(「花洛名勝図会」より)

 右端が真如堂の参道口ですが、手前には茶店が何軒か並んでいますね。
 今日でも、形を変えて健在です。

 真如堂門前

 ここもまた、仕事で運転するドライバーさんたちの休憩所ですね。
 
 今日は、真如堂の門前北側にあるスポットを訪ねてみましょう。


 門前にある鳥居は?

 そこにあったのは……

 だきに天

 鳥居。
 神社ですかね。

 社号標には、

  社号標

 「ダ枳尼天」と書かれています
 「ダ」は、<口へん+乇>。

 つまり、ダキニ天ですね。
 漢字では「荼枳尼天」など、いろいろな表記があります。

 『国史大辞典』には、「荼吉尼天」として、次のように説明されています。

 大黒天の眷属(けんぞく)ともいわれるが、原形は夜叉神の一種。インド起源で、サンスクリットのダーキニーの音写。荼枳尼・陀祇尼とも音写。
 (中略)
 わが国では稲荷神(豊川稲荷など)と同一視され、特に後世は狐の背にのり、剣と宝珠を持つ三面二臂(にひ)像が多くつくられた。(後略) 


 荼枳尼天は、上にあるように、キツネのイメージがあります。また、キツネにのった女性(天女、美女、鬼女)といった図像もありますね。

 そう思って、幕末の「花洛名勝図会」を見てみると……

 花洛名勝図会より門前稲荷社

 右にある鳥居を潜り、参道を進んで本殿に至りますが、そこに「稲荷大明神」と記されています。
 この図のタイトル部分も「門前稲荷社」です。
 荼枳尼天とは言わず、単にお稲荷さんになっています。

 だきに天
 
 本殿に参拝。
 と言いつつも、神社と寺院が習合しているみたいで、ここは法伝寺という寺院でもあるようなのです。

 真如堂付近住宅図

 住宅地図にも「いなり神社」と「法伝寺」が同居していますね。

 おそらく、この荼枳尼天は真如堂の鎮守だったのでしょう。当然、明治維新の神仏分離で切り離されて、たぶんお寺(法伝寺)になったのではないでしょうか。でも、その後、改めて鳥居を建てて神社にした--という感じなのでしょう。


 関東の人からも信仰

 境内の石造物を見ると、日清・日露戦争頃に整備がなされているようです。

 例えば、これ。

 敷石

 参道に敷かれた石畳です。
 
 敷石と記念碑

 敷石の右手に、それを整備した際の記念碑が建てられています。

 敷石記念碑

 「敷石寄附連名」と書かれており、

 敷石記念碑ウラ

 裏面に、明治28年(1895)5月建立と記してあります。

 連名とあるように、敷石を寄付した人たち30人ほどの名前が刻まれています。
 こういうのは、ひとりひとり名前を読んでいくのが愉しいんですよね。

 すると、おもしろいことが分かってきました。

 敷石記念碑

 ほとんどが、武蔵国の人なのです。

 現在の東京都の23区外や埼玉に住んでいる人たちです。

 八王子、青梅(東京都)、所沢、川越、飯能、伊奈(埼玉県)、さらには高崎(群馬県)など。
 数としては、青梅と八王子が多いのですが、おおむね東京都北西部と埼玉県南西部の近い範囲です。

 敷石記念碑下部

 発起人は、青梅の平岡久左衛門という人です。
 ちなみに、お世話をしたのは京都の島甚右衛門と、このお堂を守る村山善十郎。村山の肩書きに「天堂守」と書いてありますから、明治半ばには「天堂」、つまり「荼枳尼天堂」と呼ばれていたのでしょう。

 それにしても、なぜ武蔵の人たちが京都の荼枳尼天を信仰したのか?

 発起した平岡久左衛門という人は、青梅町長も務めた実業家で、文久元年(1861)に生まれています。地元の電鉄会社の社長もしている資産家だったようです。
 また、最初に名を連ねている所沢の向山小平次(むこうやまこへいじ)は、織物で財を成した実業家。
 この2人と親族が、かなり寄付していますね。

 ほかにはよく分からないけれど、地元の方が見れば、おっ、これは! という人もいるかも。

 大阪の人が京都の寺社を信心する例はよくあります。でも、ここまで離れた土地の人たちが信仰するのは、なぜなのか? 出来た時期が、日清戦争のすぐ後というのも気になります。

 いまはこれ以上分からないので、この問題は少し寝かせておきましょうか。




 真如堂 (だ枳尼天)

 所在  京都市左京区浄土寺真如町
 拝観  境内自由
 交通  市バス「真如堂前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『国史大辞典』吉川弘文館、1979年


吉田山にある竹中稲荷社は、不思議な雰囲気を醸し出す

洛東




竹中稲荷神社


 吉田山を散歩

 前回、吉田神社の大元宮まで歩いた吉田山散歩。
 今回は、さらにその奥へと進んでいきます。

 東へ100mほど進むと、右手に宗忠神社の入口が見えます。こちらは裏側ですね。この神社は、幕末に開かれた新宗教である黒住教(くろずみきょう)の神社です。開祖の黒住宗忠(むねただ)を祀っています。
 興味深いのですが、今日は目を左に向けて……

 すると、こんな鳥居がありました。

 竹中稲荷神社

 竹中稲荷社。
 鳥居の額には「正一位 竹中稲荷大神」と記されています。
 
 参道は北に向かって長く、200mくらいでしょうか、続いています。
 千本鳥居のように、ややまばらに鳥居が並んでいますが、右側が駐車場や道路になっているために、開放的な雰囲気です。

 朱塗りの玉垣が築かれています。

 玉垣

 左端に「永末英一」という奉納者名があるでしょう。
 この人、懐かしい名前です。
 ごっつい縁のメガネをかけて、独特のオールバック。あのインパクトのある顔のポスターは、一度見たら忘れられないでしょう。

 京都選出の民社党の国会議員で、最後は民社党委員長も務められました。亡くなってから、もう20年余りになるようですが、僕ら世代にはお馴染みの人物です。

 玉垣の記載で、永末さんがこの神社の講社会長だったことが分かります。


 手水鉢、石灯籠、拝殿

 この竹中稲荷社は、現在は吉田神社の末社です。
 神社のウェブサイトによると、祭神は宇賀御魂神、猿田彦神、天鈿女神で、「竹中稲荷社と称し、商売繁盛の御神徳をお授け下さいます」とのこと。
 現在地には、天保11年(1840)に造営され、明治5年(1872)、吉田神社の末社となりました。

 竹中稲荷神社

 長い参道が終わると、朱の鳥居。
 右には社務所がありますが、左にはこんな石造物が置かれています。

 延宝7年の手水鉢

 手水鉢ですね。

 いまでは使用されていませんが、一見して古そうなもの。
 かがんで刻銘を見てみると、「延宝七己未年」と記されています。延宝7年というと、1679年。徳川綱吉が将軍になる前年。300年以上前のものでした。

 鳥居を潜ると、数基の石灯籠が立っています。

  石灯籠

 いつ頃のものだと思いますか?

 かっちりと造られているし、蓮華座の彫刻も綺麗ですね。
 答えは、裏側に……
 
  灯籠裏面

 大正2年(1913)。
 割と新しかったですね。

 境内を見てみると、鳥居や石造物に大正時代のものが多く、その頃に少し整備されたのかも知れません。

 拝殿です。

 竹中稲荷拝殿

 小ぶりの拝殿。
 よく見られますが、舞殿ふうになっています。
 こちらも、そんなに古くはなさそうですね。

 拝殿の蟇股

 拝殿の蟇股(かえるまた)です。

 意匠は、古式ゆかしい感じですね。鎌倉時代のような雰囲気。
 ということは、本当の鎌倉建築ではなくて、明治・大正時代頃に、いにしえの様式にならって復古式で造営された建築なのでしょう。
 誰が設計したんでしょうか。よく分かりません。


 本殿の背後には……

 そして、本殿に参拝です。

 竹中稲荷本殿
  竹中稲荷社 本殿

 流造で、手前に拝所が設けられています。

 ということで、参拝はおしまい……ではないんです。
 実は、背後に奥社があります。

 竹劔稲荷社

 竹劔稲荷神社。2字目は、社号標には<金へん+刄>という文字。異体字ですかね。
 この場所も、ちょっと奥まっていて雰囲気があります。
 けれども、もっとすごいのが本殿と奥社の間なんですね。

 御塚

 たくさん石の墓標のようなものが立っているでしょう。これが「お塚」です。
 お塚と言えば、伏見稲荷大社が有名。社殿の背後にある「お山」に無数のお塚が林立しています。いま無数と言いましたけれど、昭和40-41年(1965-66)の調査では、7,762基あったあそうです。現在では1万を超えるという話も。昭和14年(1939)には2,500しかなかったとされていますので、戦後爆発的に増加したことになります。

 竹吉大明神

 お塚は、お稲荷さんを「○○大明神」「○○大神」などと号して個人的にお祀りしたものです。上の写真のような感じですね。
 ここ竹中稲荷社の本殿背後にあるお塚ですが、やはり近代、大正、昭和に造られたものが多いみたいです。
 石を立てただけのものもありますが、鳥居などを持つ立派なものもあります。

 鳥居のある御塚
  鳥居のあるお塚

 神社の中にありながら、私的かつ自然発生的に造られていったお塚。
 どういう信心が秘められているのか知りたいけれど、ちょっと怖いような気もしますね。


 竹中稲荷の狐




 竹中稲荷社 (吉田神社末社)

 所在  京都市左京区吉田神楽岡町
 拝観  境内自由
 交通  市バス「京大正門前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 直江廣治編『稲荷信仰』雄山閣出版、1983年


新築された吉田神社大元宮の手水舎

洛東




吉田神社大元宮


 東一条から吉田山へ散歩

 今日は必要があって、京都大学のある東一条から、吉田山へ向かって歩きました。
 暑い7月のお昼でしたが、曇り気味で少し助かりました。

 吉田神社
  吉田神社

 京大の正門前の道路、ここは東一条通ですが、突き当りに吉田神社の鳥居がそびえています。
 今日は、この鳥居を潜らずに、右折して南に進みます。

 こういう、ふらっと街歩きの楽しいところは、意外なものに出会えることですね。
 通りを曲がってすぐ、こんな建物がありました。

 吉田の二軒屋

 二戸一(にこいち)とも言うべき、戸建て住宅です。
 長屋ではないのですが、板塀は続いており、2軒セットの住宅のように見えます。

 京都市内では、中心部に高塀を持つ住宅が数多く建てられています。いわゆる大塀造(だいべいづくり)と言われるものですが、ちょっとステイタスな都市住宅でした。

 吉田の場所は、郊外と言える土地ですが、京都大学に近く、少々上等な住宅も建てられました。
 この住宅も、コンパクトですが少し高級感のあるものになっています。


 大元宮の手水舎

 少し歩くと、吉田神社の南参道に至ります。
 緩やかな石段を上ると、大元宮にたどり着きます。

 吉田神社大元宮
  大元宮

 ここに来るのは約1年ぶりなのですが、ちょっと気になるところがありました。
 写真に写っている手水舎です。

 手水舎
  手水舎

 立派な手水舎ですね。
 水は出ていないのですが、石製の手水鉢は天和元年(1681)の銘がある古いものです。

 手水鉢

 私が気になったのは、この手水舎が新しそうに見えたのと、1年前に訪ねた折には確かなかった記憶していることでした。

 昨年(2015年)撮影した写真です。

 昨年の大元宮
  2015年8月撮影

 写真の左端に手水鉢が写っていますが、手水舎はありません。
 手水鉢のクローズアップ写真を見ても、ありませんね。

 昨年の手水鉢
  井戸(左)と手水鉢(右) 2015年8月撮影

 どうやら、ここ1年の間に新築されたものらしいのです。


 今春できたばかり

 たまたま神社の方が近くで作業されていたので、尋ねてみました。
 すると、次のような答えが聞けたのです。

 この手水鉢の上には、2、3年ほど前までは古い手水舎が掛っていたそうですが、老朽化したので取り壊されました。
 そのため、しばらく屋形はなかったのですが、この春、新たに建てたということです。
 ただ、まったくの新築ではなく、ある寺院で不要になった建物をもらいうけて移築したのだそうです。
 そのため、ちょっとお寺風なんです、と言っておられました。

 念のため、50年余り前の様子を描いた『新撰京都名所図会』を見ると、確かに手水舎が描かれています。 

 手水舎

 組物や鬼瓦などがあって、お寺っぽくも見えますね。
 
 さらに驚いたのは、この建物、元は手水舎ではなく鐘楼だったということ!
 その証拠に、中央には鐘の吊元が残っていました。

 手水舎

 なるほど。
 これは言われなければ気付きませんね。
 そう聞くと、手水舎の “脚” の広がり方が鐘楼っぽいですよね。ちょっと「ハ」の字形に、外に開いてるような……

 さらに、新旧2枚の手水鉢の写真を見比べると、手水鉢と井戸の隙間がかなり狭くなっています。おそらく手水舎内に納まるように、間隔を詰められたのでしょう。

 納得できたところで、さらに吉田山の先へ進んで行ったのですが、続きは次回に。




 吉田神社 大元宮

 所在  京都市左京区吉田神楽岡町
 拝観  自由
 交通  市バス「京大正門前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 竹村俊則『新撰京都名所図会 巻1』白川書院、1958年
 

「世界ふしぎ発見!」で、明智光秀の特集 ! !  

洛西




明智風呂


 「世界ふしぎ発見!」で “新説 本能寺の変 434年目の真実” 放映

 7月9日(2016年)の夜、なんとなくテレビをつけると、「世界ふしぎ発見!」(TBS)が放送されているところでした。
 どうやら、明智光秀の特集らしい。

 そういえば、新聞のテレビ欄にそう書かれていたけれど、すっかり忘れていました……

 もう9時半も回っており、ちょっと見ただけでチャンネルを変えました。
 でも、しばらくたってもう一度見ると、いよいよ “ラストミステリー” の問題で、こんな映像が出て来ました。

 妙心寺 (テレビ画像ではありません)

 「妙心寺」とテロップが入ってる。

 このブログの愛読者なら、ここで答えが分かるはず ? !

 妙心寺にある明智光秀にゆかりのあるものは? みたいな問題なのですが、そのものの画像まで映し出されました。

 明智風呂

 そう、明智風呂ですよね。

 光秀公は生前、妙心寺と近い関係でしたので、本能寺の変後、彼の菩提を弔うために建てられたのが明智風呂です。
 詳しくは、以前の記事をご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <妙心寺の浴室は「明智風呂」>
 

 首塚や餅寅さんも

 ラストの前には、白川三条下ルにある光秀公の首塚や、それを守っておられる和菓子店・餅寅さんも登場していました。

 明智光秀首塚
  明智光秀首塚

 餅寅
  和菓子店・餅寅

 首塚の記事は、こちら! ⇒ <明智光秀の首塚は、幕末から明治、歌舞伎役者たちによって整備された - 光秀饅頭も美味!->

 いつものように、餅寅のおかみさんも登場されて、元気なお声が聴けました。
 光秀饅頭も紹介されましたが、「世界ふしぎ発見!」は、それを食べたりするシーンはないんですね。禁欲的な番組です(笑)

 光秀饅頭 光秀饅頭

 そんなことで、妙心寺のところで解答者の答えが示され、案外正答が多く(!)、野々村真クンが「露天風呂」と書いたりして他のゲストに突っ込まれたり。
 見ていた私は、CMになったので正解まで見ずに、テレビを消してしまいました。

 そして、一夜明けて……

 番組のこともすっかり忘れ、朝、いつものようにブログのアクセス数をチェックしてみると……

 なんと、ふだんの4、5倍ものアクセス数になっているではありませんか!
 それも、21時台に集中している!

 あっ、と気付いたのは「世界ふしぎ発見!」のこと。
 調べてみると、「明智光秀 妙心寺」「明智光秀 風呂」といったキーワードで、いっぱい検索されていたのでした。

 この番組は、やっぱり人気なんですねぇ。
 改めて長寿番組の実力を知らされた出来事でした。




 妙心寺 浴室(明智風呂、重要文化財)

 所在  京都市右京区花園妙心寺町
 拝観  浴室・法堂 大人500円ほか
 交通  JR「花園」下車、徒歩約3分


京町家と行事からみた祇園祭の姿とは? - 谷直樹ほか『まち祇園祭すまい』 -

京都本




  まち祇園祭すまい 『まち祇園祭すまい』(思文閣出版)


 宵山に訪ねたい鉾町の町会所

 7月になり、祇園祭の本を紹介するシリーズになっていますが…… 意外に祇園祭の細かなところは知られていないようなので、もう1冊紹介してみましょう。

 谷直樹・増井正哉編『まち祇園祭すまい』(思文閣出版)です。
 副題に「都市祭礼の現代」とあり、山や鉾を出す町内の現在について、調査をもとにまとめています。

 巻頭に、60ページにわたるグラビアページがあります。

  都市祭礼・祇園祭
  町なみの演出
  京町家と屏風祭
  町会所と会所飾り


 そのあとに続く本文の目次は、次の通り。

  第1章 都市祭礼としての祇園祭
  第2章 町会所と会所飾り
  第3章 山鉾町の町家とそのなりたち
  第4章 屏風祭の変遷
  第5章 宵山飾りの民俗空間
  第6章 都市祭礼における空間利用と演出
  第7章 まち祭すまい 


 本書でとても勉強になるのは、宵山などで私たちが訪れる町会所(ちょうかいしょ、会所)について、詳しく紹介されているところです。

 町会所の建築は、大きく2つに分かれると言います。
 ひとつめのタイプは、建物が通りに面しているもの。そのため、宵山の際には、1・2階の建具や窓を開放して、人形などの飾り物を見えるようにしています。本書では「表棟型町会所」と呼んでいます。

 山伏山会所 表棟型町会所の例(山伏山町会所)

 もうひとつのタイプは、通りに面した部分は普通の町家風ですが、脇に路地があるもの。路地を奥に入って行くと、そこに町内の人たちがおり、飾り物があったりお守りを頒けていたりします。「奥棟型町会所」と呼ばれています。

 霰天神山会所 奥棟型町会所の路地(霰天神山町会所)

 この2つのタイプの会所が鉾町に混在しており、最近ではビルに改築された会所も増えてきています。

 宵山に行くと、各町会所のご神体やさまざまな飾り物に目を奪われるのですが、建物のスタイルに注目してみるのも面白いかも知れません。
 

 かつての屏風祭

 宵山に特徴的な屏風祭についても調査しています。
 屏風祭は、すでに江戸中期には盛んに行われていたようで、明治時代になると行う地域は減少傾向にあったものの続行されていきました。
 本書の記載で興味深いのは、明治後半ともなると、新聞に「御屏風拝見」などといった記事が掲載され、各戸が “展示” する屏風を具体的に紹介することです。
 例えば、明治35年(1902)には次のような屏風が出されています(一例です)。

 伊禰太 応挙筆「松鶴屏風」、光琳筆「竹四曲金屏風」など
 千總  友松筆「琴棋書画屏風」、南蘋筆「群鹿屏風」など
 市田  呉春筆「漁夫」
 鳩居堂 大雅堂「山水屏風」
 伊藤  栖鳳「烏図金屏風」など 

 
 円山応挙、呉春などの四条派を中心とする近世絵画がほとんどで、同時代(明治時代)の画家は竹内栖鳳や岸竹堂など僅かだと言います。
 上記は一例ですが、こういったものが新聞記事になって関心を持たれていたところが、なんだか京都らしいというか、おもしろい現象だと思います。

 宵山風景


 京町家を味わう祇園祭

 こういうふうに見て来ると、祇園祭の宵山は京町家を味わうよい機会ですね。
 ふだんなかなか入ることが出来ない京町家に入らせていただけるーーこういう有り難みを感じて宵山を楽しんでみてはいかがでしょうか。


 鯉山会所
  鯉山町会所




 書 名  『まち祇園祭すまい 都市祭礼の現代』
 編 者  谷直樹・増井正哉
 刊行者  思文閣出版
 刊行年  1994年


学生と文化人類学で迫った祇園祭のフィールドワーク - 米山俊直『祇園祭』 -

京都本




  祇園祭 米山俊直『祇園祭』(中公新書)


 祇園祭の百科事典

 7月になり、祇園祭が始まりました。

 祇園祭について考えたり、実際に祭りを見たりして、疑問に思ったことなどは書物によって答えを得ることになります。
 そんなとき、私が手にする本は、米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』(NHKブックス)です。

  ドキュメント祇園祭 米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』(NHKブックス) 

 ちょうど30年前の昭和61年(1986)に刊行されたものです。
 180ページほどのコンパクトな本ですが、米山氏自身が「祇園祭百科事典」のようになった、と言われている通り、祇園祭についてちょっと調べてみたい、というときには好都合です。

 副題は「都市と祭と民衆と」で、その目次は、

 第1章 祇園祭の歴史
 第2章 神社
 第3章 神輿
 第4章 山鉾
 第5章 花傘巡行・芸能
 第6章 マスコミ・観光・行政


 となっていて、末尾に参考文献と祇園祭行事日程が付されています。
 山鉾町の配置図、巡行ルートの変遷、神輿のコースといった地図も便利です。


 “都市人類学” ことはじめ

 祇園祭の本を書く専門家って、どういうジャンルの人なんだろう? と素朴な疑問を抱きますよね。
 神社の祭礼だから宗教学か、伝統行事だから民俗学か、歴史ある祭りだから歴史学か、よく分かりません。
 しかし、米山俊直氏はいずれでもなく、文化人類学者なのでした。

 米山氏は、昭和48年(1973)からと、昭和58年(1983)からの2回、いずれも3年間、京都大学の学生たちと祇園祭の調査を行っています。
 『ドキュメント祇園祭』は、その成果でもあるのですが、実は最初の調査の直後に刊行された書物がありました。
 それが『祇園祭』(中公新書、1974年)です。

 この本には副題があって、『祇園祭』というタイトルとは少し違ったイメージの「都市人類学ことはじめ」というものでした。
 文化人類学というと、西太平洋のトロブリアンド諸島で現地調査する(マリノフスキー)みたいなイメージがありました。ところが、これは私たちが日々過ごしている都市で、フィールドワークをやろうというのです。日本では先駆的な試みでした。
 そして、その対象として選ばれたのが、代表的な都市の祭礼・祇園祭でした。


 学生が奮闘!

 本書は、学術的という感じはなく、米山氏がエッセイ風に、あるいは時間順で、祇園祭のさまざまな面をレポートしたものです。
 章立ては、

 序章 私たちの調査の経緯
 Ⅰ章 山鉾町-祭を支えるもの
 Ⅱ章 宵山まで
 Ⅲ章 宵山と巡行
 Ⅳ章 八坂の神事と風流
 終章 歴史といまと 


 となっています。

 調査の経緯を読んでいると、驚くべきことに、4月半ばに集まった学生に調査テーマ(祇園祭を総合的に調査する)を伝えて、20数名の学生でそれをやってしまったことです。
 学生たちは4つのチームに分かれました。祭りの担い手を調査する「町衆班」、観光客やマスコミの動きを調べる「見物班」、山鉾を対象とする「だしもの班」、そして祭りとは何かという問題を考える「本質班」。なんとなく文化人類学的な気がします。

 このプロジェクトは、“祇園祭’73” と名付けられました。その名の通り、1973年(昭和48年)の祇園祭をリアルに写しとっていて、それが40年後の現在からみて、なかなか勉強になることが多いのです。

 鉾の辻 鉾の辻

 例えば……

 四条室町は「鉾の辻」と呼ばれますが、その南側に立つ鉾が鶏鉾です。
 このあたりは、現在でも、京都産業会館や市営駐車場、池坊短期大学などがあって、一般の民家が極めて少ないところです。どういう経緯でそうなったのか?

 本書によると、烏丸通に面した丸紅ビル(現COCON KARASUMA[古今烏丸=ビル名、1938年築)を戦時中、延焼から守るためにその西側を建物疎開したのだそうです。その場所が、現在、産業会館や市営駐車場のあるところでした。
 戦後、その空地は進駐軍が使っていたのですが、その後、京都市が買収したということです。
 なるほど、と思うのですが、古い地図を見ると、その一帯にも民家が建っていたことが分かります。

 これは、祇園祭の本筋とは関係なさそうな話ですが、そういう情報がなかなか面白いのでした。

 市営駐車場
  鉾建て中の鶏鉾と市営駐車場(右)

 調査者が学生であるということで、彼ららしい観察眼も光っています。
 船鉾を担当したのは、植田クンという学生でした。植田クンは、準備段階から巡行当日まで、しつこく町の人々の動きを追い、興味深い発見をしたのでした。

 いま、祭を中心になって推進しているのは、さきにのべた保存会の常任理事である中西さんたちである。中西さんは七十歳ぐらい。中肉中背、ごましお頭の、堅実そのものの感じを受ける。親しくなると非常に親切に、いろいろ話をしてもらった。

 しかし町内には、この中西さんたちより一つうえの世代の八十-九十歳代の方たち--つまり、ひと昔まえに、祭の中心にあった人々がおられる。最長老である。(中略)

 また、中西さんよりひとつ若い世代、四十-五十歳台の人たちは、現在の祭運営の実質的な力になっている。働きざかりで、商店の若いだんな、会社の社長、専務として、いわば町内を背負っている働き手である。“町衆” という古い言葉のイメージにはあたらないが、この人たちが船鉾町を実際に支えていることは、すぐにわかる。(中略)

 それより若い世代、つまり二十-三十歳台の人たちとは、調査者の植田クンはほとんど接触がなかった。“相手がいない” という感じだったという。これは興味ぶかい点だ。つまりこの層の人々は、まだ祭のなかで目立った役割をしていないのであろう。むしろ植田クンの目には、それ以下の小学生、中学生が、鉾がつくられてゆく過程から、曳き初め、そして宵山と、ずっとそばでながめていたり、鉾にそっとさわってみたり、仲間同士で説明しあったりしている。植田クンは、この世代こそ祭への純粋な参加者ではないか、と思ったという。
 
 これからの祭を、若い世代が果たしてちゃんと継承してゆくかどうか。祇園祭にとってそれはひとつの問題であり、老人たちには心配のタネでもある。(中略)

 しかし、植田クンは、べつの観察もしてきた。鉾が建ち、七月十三日、にぎやかな曳き初めの興奮がすぎたあと、鉾がもとの場所におさまり、日も暮れかけて人通りもめっきり減ったころ、町内の人らしい親子連れが鉾のところへやってきた。三つぐらいの男の子が、不思議なものを見るように、じっと鉾を見つめている。その子供に、父親は語りかけた。
 --おまえも大きうなったら、これにのるのやで。

 それは観察者である植田クンにとって、なぜか妙に強く印象に残った光景であった。(46-48ページ) 

 
 祇園祭は、長い期間行われ、鉾町にはいろいろな仕事があります。そこには、リアルな町の人たちの姿があります。
 われわれ外の人間にも、それが意外と見えてきて、そういうところに祇園祭の別の面白さがあるのです。
 植田クンも、それを観察したのでしょう。

 稚児

 黒主山の吉符入りに参加した田村クン。彼は、こんな体験をしました。

 吉符入りは神事始めの意味を持ち、神事にたずさわる心の準備をするとともに、各山鉾の運営に関する具体的な取りきめをするという二元的な性格を有する。したがって出席者の服装も前者の性格にあわせて厳格であり、黒主山でも近い昔までは紋付羽織ハカマでなければいけなかったそうだが、今では背広でもよいことになっているとのこと。山口氏から出席してもよいとの許可をもらったぼくは、羽織ハカマを着てゆくべきか背広を着てゆくべきか、大いに迷ったが、結局は現実的に背広を着て出席した。(70ページ)

 田村クンは儀式と打合せに参加し、1時間余りが経過した。

 お開きは午前十一時四十分であった。ぼくを除いた出席者は、最終的には二十三名(うち女二名)で、男は全員背広だった。ぼくがまかり間違って紋付羽織ハカマで出席しようものなら、全員の注視を浴びること必至であった。ぼくは内心ホッとしたのである。(72ページ)

 学生の体験談として、吉符入りの儀礼性と現代における変化が巧みに述べられています。
 こういう学生目線が、本書の楽しいところですね。

 『祇園祭』、古書でしか手に入らないと思いますが、一風変った祇園祭案内です。


  占出山 占出山




 書 名  『祇園祭 都市人類学ことはじめ』
 著 者  米山俊直
 刊行者  中央公論社(中公新書363)
 刊行年  1974年


暑い7月は祇園祭の季節 - 「月刊京都」7月号 -

京都本




  月刊京都 「月刊京都」2016年7月号


 祇園祭の季節がやってきた

 7月になったと思ったら、耐え難い暑さですね。

 今日7月2日(2016年)の京都市内の最高気温は34.7℃。猛暑日一歩手前で、梅雨の湿気のせいもあるのか、異様な熱気を感じました。ちなみに昨日は、33.4℃だったそうです。

 そんな7月は、祇園祭の季節。
 雑誌「月刊京都」7月号も、恒例の祇園祭特集を組んでいます。「歴史からひも解く 知られざる祇園祭」と題して、

 *洛中洛外図にみる祇園祭
 *祇園祭を支える宮本組とは
 *久世駒形稚児はなぜ祇園祭に欠かせないのか

 など、渋い記事を掲載しています。

 宮本組は、八坂神社から神輿(しんよ=みこし)が渡御する際、神宝を奉持する人々で、氏子らの組織です。今回は、その原悟組長へのインタビューで、興味深いですね。祇園祭の “いま” が、さまざまな苦労話とともに語られています。

 宮本組
  宮本組

 祇園祭は、山鉾巡行(前祭・17日、後祭・24日)に注目が集まり、観光化されてもいます。しかし、本来、八坂神社の神事である限りは、神輿の渡御が重要です。
 八坂神社から御旅所へ渡御される神幸祭は7月17日の夜、御旅所から神社へ帰られる還幸祭は7月24日の夜に執り行われます。
 神輿が3基出て、暗闇の街中を進む姿は、華やかな山鉾巡行とは異なった色合いを持っています。

 神輿渡御
  神輿渡御

 私も、この神輿渡御をはじめとする神事や、鉾建て、宵山、そして山鉾巡行など、時間を見付けて足を運ぶようにしています。
 勤め人の悲しさで、なかなか都合が合わないのが悩みの種なのですが、今年も出来るだけ行ってみたいと思っています。

 ちなみに、今日は巡行のくじ取り式が行われ、前祭の「山一番」は山伏山に決まったそうです。




 書 名  「月刊京都」2016年7月号
 発行所  白川書院