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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【新聞から】中心街の信号撤去でどう変わる?





三条東洞院交差点


 信号撤去したら事故減った
 京都の中心部、安全意識向上も
 京都 2016年6月28日付 



 京都市街の中心部、とりわけ中京区、下京区のあたりは、自動車や人の交通量が多い割りに道路は狭いままです。
 まぁ、「古都」なんだから仕方がないとはいうものの、市民生活にも観光にも不便かつ危険な状態を招きかねません。

 私も、たまに中京、下京の街路をクルマで走ることがありますが、ほんとに狭い所があるんです。
 例えば、仏光寺通(四条通より2本南の東西の通り)の柳馬場通より東。これは、とっても狭い!
 地図を見てもらえば分かりますが、富小路通との交差は食い違いになっていて危険。さらに、御幸町通との交差のところは、御幸町南行きから左折するのに難渋するような狭さです。
 もちろん、クルマで走行できるのですが、本来はクルマで入ってはいけないような街路(もちろん一方通行です)。まぁ、クルマのない時代に出来た道なのだから、仕方ないんですけどね……


 信号を撤去した三条通、東洞院通

 三条東洞院交差点

 いま言ったところは、下京区です。
 今回、京都新聞に載ったところは、中京区。御池通-烏丸通-四条通-河原町通に囲まれたエリアです。
 この地区で、信号機を撤去し、制限速度を20㎞に下げる(三条通)という施策が昨年(2015年)10月下旬に実施されたのでした。

 上記のエリアは、先ほどの仏光寺通のような超狭い道はありません。あっても、錦小路通や新京極通のように車両は入れないアーケード街になっているわけです。
 ただ、三条通や東洞院通は少々道幅が広くて、信号機も設置されていました。

 ・三条東洞院 ・三条高倉 ・三条柳馬場 ・東洞院蛸薬師

 この4か所に信号機があったそうです。 
 これを取り払って「止まれ」にしました。

 三条東洞院交差点
  新設された一時停止の標識(三条東洞院)

 念のため、というわけではないのですが、2014年撮影の写真です。

 三条東洞院交差点
  三条東洞院にあった信号機(2014年1月撮影)

 歩行者用信号を含む信号機が設置されていましたね。

 三条東洞院交差点
  信号機を撤去した三条東洞院(2016年5月撮影)

 こちらは今年撮影したもので、信号機は撤去されています。

 京都新聞の記事では、撤去前の2015年3月~8月、三条通の烏丸-柳馬場間での人身事故は4件あったけれど、実施後の2015年10月~16年4月は無事故だったそうです。
 交通量はほとんど変化していないということで、ドライバーが注意して走行するようになったからでしょうか。

 三条東洞院交差点
  東洞院通は屈曲している


 通りと町

 この施策は、通学路の安全性向上など、地域の交通安全のためであることはもちろんだと思います。加えて、「歩くまち京都」というビジョンの一環として、四条通の歩道拡幅などと関連付けて捉えられるものです。
 そういう意味では、交通施策だし、歩行者優先のまちづくりの具体化だと言えます。

 私が注目したいのは、京都における街路=通りの意味です。
 京都における住民のコミュニティは「町(ちょう)」と呼ばれてきました。
 これは、空間的には両側町と呼ばれ、街路=通りを挟んだ “お向いさん” が1つの町を形成します。
 つまり、街路は町と町の境界ではなく、町の真ん中に存在するスペースなのです。

 京都では家の外のことを「カド」と言いますけれど(漢字では「門」)、この言葉は、家の前の空間を自分に関係がある空間として捉える暮らし方を示しているのだと思います。
 そこは主婦たちが井戸端会議する場だったり、行商人から品物を買う場だったり、子供が遊んだりお年寄りが夕涼みしたりする場所だったりして、荷物を置いたり駐車したりすることも含めて(今日では違法かも知れませんが)、多目的に使える空間だったのです。
 だから、通りは狭くてもいい、というより大通りでは困るし、自動車にビュンビュン走られても困るわけです。
 
 このような観点に立つと、中京や下京の街中の通りは、出来るだけ自動車が通行しないようにして、ひとが生かせる空間にする方がよいのでしょう。

 来月は祇園祭ですが、鉾や山が立つと自動的に車両は通行止めになってしまいます。
 このような使い方が本来自然なわけで、京都の街路は単なる道ではなかったのでした。



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七本松通にある観音寺の山門は、伏見城から移築の伝承を持つ





山門門扉


 お寺が多い七本松通

 京都市内を南北に走る大通りと言えば、東から、東大路通、河原町通、烏丸通、堀川通、千本通、西大路通など。
 これらの大通りも、堀川通や烏丸通を除き、基本的には片側2車線。他都市に比べれば随分と狭いものです。
 その大通りの間に、中くらいの通りが走っています。

 千本通と西大路通の間にある中くらいの通りに、七本松通(しちほんまつどおり)があります。片側1車線の道路です。
 子供の頃から、ここはクルマでよく通りました。印象として、景色が開けているなあ、と感じます。

 七本松通
  七本松通

 高いビルがないせいもありますが、お寺が多いので、空が拡がっているのでしょう。

 七本松通は、豊臣時代の都市改造を経て、新たに造られた街路です。元和元年(1615)の開通ともされています。江戸時代では、およそ市街の内と外の境目にあたる辺りで、寺院が集まっています。『京都の大路小路』は、「「西の寺町通」といってもよいほど」と言っています。


 伏見城から移築の伝承

 大きなお寺としては、立本寺(りゅうほんじ)があり、他は小ぶりの寺院が並んでいます。
 その中で、目に留まったのが、観音寺。

 観音寺
  観音寺

 この山門が、伏見城の牢門を移築したものと伝えられています。
 罪人を釈放する際には、この門前で百回むち打ったので「百叩き門」と呼ばれたと言います。

 観音寺山門

 また、門のくぐり戸が風で開くとき、泣き声を発したとも言われます(『京都市の地名』)。ちょっと怖いですが、いまは釘付けされていて開かないとか。

 その門扉なのですが、クスノキの一枚板で出来ているそうです。

 山門門扉

 木目が横に走っていて、風格を感じさせます。

 山門門扉

 よくあるヒノキとは、若干違う感じですね。

 山門門扉

 懸魚はかぶら懸魚で、ひれが付いていて立派です。

 山門懸魚


 よなき地蔵と観音さま

 寺内に入ると、いくつかのお堂があります。

 よなき地蔵

 よなき地蔵尊

 よなき地蔵尊。
 怪異譚かと思いきや、こちらはどうやら赤ちゃんの夜泣きを抑えるお地蔵さんのようです。堂内の提灯に、かん虫封じとありますからね。

 千人堂

 千人堂扁額

 千人堂。
 数多くの人から信心されたということで、この名前が付いているそうです。疫病除けなどに信仰され、聖観音像が祀られています。
 この観音さんは、もとは一条戻橋のたもとにあったとも言われ、僧・浄蔵が父・三好清行を葬送時に蘇生させた際、祀った像とも伝えられます。

 石標

 「洛陽廿七番観音寺」とあるように、江戸時代には洛陽三十三観音の27番札所でした(現在とは異なる)。
 幅広く信仰を集めたわけですが、いまではひっそりとしています。




 観音寺

 所在  京都市上京区七本松通出水下る三番町
 拝観  境内自由
 交通  市バス「千本出水」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』平凡社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年
 竹村俊則『新撰京都名所図会 3』白川書院、1961年



きょうの散歩 - 初めて入った、ある建物とは - 2016.6.21 -

洛東




天理教河原町大教会


 丸太町にある現代の和風建築

 河原町あたりを買物&散歩して、まっすぐ帰るのもつまらないので、さらに散歩を続けた、この日。

 鴨川の東側を歩いて北上すると、丸太町通に出ました。
 川端丸太町の手前に、こんな施設が……

 天理教河原町大教会

 あぁ、これは前から見ている建物だけれど、写真を撮ったことがないので、ちょっと見てみよう--と、敷地の中に入ってみました。

 今日は天気もよく、改めて見ると、よく出来た建築です。

 天理教河原町大教会

 横方向に長い建物で、うまく数えられないけれど、桁行(けたゆき)は9間ほどありそうです。
 入母屋造平屋建で、左側に大きな入母屋の車寄せを取り付けています。
 主屋の部分は古風な感じもしますが、この車寄せが近代的な印象。江戸時代なら、中央に向拝を付けるところでしょう。おそらく、ここで “和風” というインパクトを出しているのですね。

 天理教河原町大教会

 構造は、鉄筋コンクリート造のようです。
 なので、細部もご覧の通り。

 天理教河原町大教会

 意匠として、和風っぽく仕上げています。

 高欄もしっかり造られており、擬宝珠も控えめな感じに取り付けられています。

 高欄


 なんの建物か? 

 では、この建物は何の用途に使われているのでしょうか?

 もしこれが戦前(昭和初期)に建てられたとするならば、公共建築であってもおかしくありません。
 この近くにも、こんな建物があります。

 京都市美術館別館
  京都市美術館別館

 岡崎公園の京都会館(ロームシアター)敷地内にあり、先ごろまではその別館でした。
 戦前の市の公会堂で、昭和5年(1930)に建てられました。

 入母屋造、銅板葺の屋根。その右端に千鳥破風を付け、階段を上って入る玄関には大きな唐破風が目立ちます。鉄筋コンクリート造の建物です。
 俗に言う “桃山風” に見える近代建築ですね。

 今回の建物は、しかし戦後に建てられたので、もう少しスッキリしていて、しかも公共建築ではありません。

 実は、この建物……

 標石

 宗教建築、それも天理教の教会なのです。

 天理教河原町大教会。
 少しあやふやなのですが、1989年の建築のようで、竹中工務店によるものと聞きました。竹中工務店は、天理教の建築を結構手掛けています。

 これまで、天理教の建築をほとんど意識的に見たことがないので分からないことも多いのです。もちろん、各々の教会や建築時期によってもスタイルは異なるのでしょう。

 天理教河原町大教会

 この建物、見た目の印象は、城郭とも寺院とも取れるような意匠です。
 しかし、壁面が少ないので、余り城っぽくありません。どちらかというと、お寺のイメージでしょうか? 
 
 手水鉢
  立派な手水鉢も


 思い切って内部へ

 私は、いい歳になったせいか、お寺でもキリスト教会でも、中に入ってよいところは遠慮なく参拝させていただきます。けれども、いわゆる新宗教と呼ばれる宗派の建物には、ほとんど内部に入った記憶がありません。天理教もそうでした。

 今日も写真だけ撮って帰ろうかと思いましたが、一人のおばさんが入って行かれたのと(信者さんでした)、玄関が広く開放的だったので思い切って入ってみることにしました。

 内部は、とても広い空間です。目分量でも、300人とか楽に入れそう。
 南北に長い空間ですが、東西の幅も結構あります。上手である南の方に結界(柵)があり、その上に祭壇が祀られています。ここには、親神(天理王命)や教祖(おやさま=中山みき)、御霊が祀られています。それぞれが、中央と左右に祀られているわけです。
 上部には、御殿風の御簾が掛っています。

 誤解をおそれずに言えば、空間的には浄土真宗の御影堂などによく似ています。
 この教会は、信者さんの集まる空間が桁行5間、梁間3間あって、結界内の祭壇部分が桁行3間くらいのようでした。これらの周囲には広縁がめぐらされており、現代的に言うと3方が廊下に取り巻かれている感じです。
 おそらく、数百人規模の信者を収容し、かつ祭礼を執り行うには、おのずとこのような空間になるのでしょう。

 平屋なのですが、地下があって、そこは駐車場ということでした。

 天理教河原町大教会
  
 玄関の両脇に片流れの屋根が付いていますが、ここが地下へ降りる階段部分です。

 地下駐車場誘導路

 車両は、敷地南端の誘導路から入ってきます。
 このあたりは、とても現代的ですね。

 また、建物は棟が南北方向に伸びているのですが、航空写真などで見ると、少しだけ南東に振っています。
 これは、その方向が天理の教会本部に当たるからのようです。つまり、信者さんは参拝すると、教会本部を向いて拝んでいることになるのでした。

 しばらく座っていると、5人の外国人ツーリスト(欧米人)が入ってきました。
 やはり建物を見て、宗教建築と分かったのでしょうか。

 そのあと、今日こちらに詰めているという大津の教会の方と、いろいろお話しました。
 ここは「大教会」で、その下に250ほどの「分教会」があるということです。
 ご本人の入信理由も含め、興味深くお聞きし、改めてこの宗派への関心が湧いて来ました。機会があれば、天理の本部にも行って、詳しく建築を見てみたいものです。




 天理教河原町大教会

 所在  京都市左京区川端通丸太町東入ル東丸太町
 参拝  自由
 交通  京阪「丸太町」下車、すぐ



今年、週1冊の割合で読んでいる本は、例えば……

京都本




書籍


 今年は週1冊、本を読むことにしたが……

 昔から本が好きで、いまも文系の研究をなりわいとしているからには、本を読むのも仕事のひとつと言えます。

 個人的な事情を言えば、通勤電車に乗っている時間が長いので、そこを読書の時間に充てています。
 特に今年は、できれば週1冊くらい本を読みたいな、という目標を立てて、濫読を試みています。
 もちろん、電車中なので文庫・新書中心で選ぶことになります。

 今回は、ここ3か月の間に読んだ本の一部を紹介してみましょう。


□吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書)
  同   『大学とは何か』(岩波新書)


 吉見俊哉氏の大学論2冊。
 『「文系学部…』は、ひろく大学人にショックを与えた “文系学部は不要だ” という騒動を過去の経緯も含めて事実関係を検証し、さらに学問が「役に立つ」とはどういう意味か、という根本的議論へ展開しています。
 『大学とは…』は、西洋と日本の大学の歴史をたどり直し、大学ってなにか? という問いを考えていきます。

 大学で非常勤講師をしている私ですが、特に後者を読んで、大学について全く不勉強だったと反省した次第です。
 余りにも基本的なことのようですが、大学における研究と教育の両立(フンボルト型大学)という理念は、今に至っても大きな課題だと思わざるを得ません。

 教育の焦点を、すでに知っていることを教えるのではなく、いかに知るかを教えることに転換すること、つまり「内容」としての知から「方法」としての知に転換すること--それには従来の講義中心からゼミナールや実験室中心へとカリキュラムの再編成が必要となる。(88ページ)

 本当に、そうですよね。高校までの授業が知識を覚え込むことに終始してる関係で、大学において「方法」を教授することは大変むずかしくなっています。私も演習を担当しているので、この問題は重いですね。


 社会に横たわる諸問題

□今野晴貴『ブラックバイト』(岩波新書)

 労働や雇用の問題について研究しているわけではないのですが、ずっと以前から「働く」ということについて関心を抱いてきました。
 鎌田慧『自動車絶望工場』にはじまって、川人博『過労自殺』、あるいは黒井千次『働くということ』といった、労働の意味や諸問題をルポ、考察する本を、折に触れて読んできました。
 この『ブラックバイト』も、そんな一冊で、現在深刻な問題となっている学生アルバイトが抱える問題を報告した新書です。
 「雇う側(企業)の論理」と「働く側(学生)の意識」を分析しながら、なぜブラックバイトは発生するのか、なぜ学生はそこから逃れられないのか、という疑問に答えていきます。

 常にあることなのですが、強いる側にもそうせざるを得ない構造的な問題が背後にあり、一方で強いられる側にも労働者の権利に対する無知や団結の欠如があります。
 労働の “初心者”であり、仲間への思いやりを大切にする現代の大学生が被害に遭うという、不合理な事実がレポートされています。


□宮崎学『ヤクザと日本』(ちくま新書)

 最近また過激化している山口組の抗争。
 ヤクザ、暴力団については、猪野健治氏の著書(『やくざと日本人』など)が基本文献だとも思いますが、とりあえず『突破者』などアウトローもので知られる宮崎学氏の本を読んでみました。
 
 近代のヤクザが、港湾や水運の労働者の手配から成長したというのは、興味深いことです。そのため、北九州や神戸、横浜といったところで近代ヤクザが発生します。山口組も、元々は神戸の沖仲士=港湾荷役の組でした。

 のちには、芸能の興行にも展開していきます。『ヤクザと日本』によると、山口組も田岡組長の時代、浪曲に手を出していったということです。


□兵頭裕己『<声>の国民国家』(講談社学術文庫)

 一番最近に読んだ本。文庫化されたのは2009年でしたが、ずっと積ん読でした。
 この本は、副題に「浪花節が創る日本近代」とあるように、浪花節(浪曲)をテーマとしています。

 浪花節が、チョボクレ、浮れ節から発展するさまが詳しく説明されています。また、明治後期に浪花節界のスターとなる桃中軒雲右衛門の特徴もよく理解できます。
 全体的に概念的なきらいもあるのですが、社会の底辺から現れて大衆を魅了した浪花節について、大いに考えさせられます。

 こう見て来ると、なんかブラックな本? ばかり読んでいる印象ですか ? ?

 そうそう、『<声>の…』の前に読んだ新書は、春日太一『市川崑と『犬神家の一族』』(新潮新書)でした。
 時代劇論の第一人者が著した映画論ですが、撮影の技法と思想に迫って出色。主演の石坂浩二のインタビューもあって、おもしろく読みました。
 まぁ『犬神家の一族』も、ブラックというか、かなり暗いですか?

 いずれにせよ、なんだか歴史屋っぽい本が多いなぁと再認識する次第でした。



幕末の案内書「花洛名勝図会」に描かれた八坂神社の周辺、細かなリアルさに目を見張る

洛東




花洛名勝図会


 幕末の八坂神社

 梅雨の時期には、晴耕雨読というわけで、少し書物をひもといてみましょう。

 幕末(1864年)に刊行された「花洛名勝図会」。このブログでも、おなじみのガイドブックです。
 とても詳しくておもしろいのですが、鴨川の東しか取り上げられていないのが残念なところ。続編を計画していたようなのですが、頓挫したのですね。

 今回開いたのは、この部分。

 「花洛名勝図会」より「祇園大鳥居」

 「祇園大鳥居」と記されています。
 現在のこの場所ですね。

 八坂神社南門

 八坂神社の南の入口です。

 ふつう八坂神社に参拝する場合、四条通を突き当り、西楼門から入ることが多いと思います。
 しかし、本殿は南を向いていますので、その先には南楼門があり、鳥居もあります(かつては西にも鳥居があったのですが)。

 写真を見て分かるように、現在の鳥居は「花洛名勝図会」に描かれている鳥居のままです。
 意外に古くて、正保3年(1646)に建てられました。石造の明神鳥居で、国の重要文化財に指定されています。
 鳥居で重文とは、すごいですね! 全国にも、厳島神社の大鳥居(広島県)など十数件しかありません。

 絵で分かる通り、鳥居の下には大勢の参拝者が集まってきます。そのため、付近には茶店も建っていました。

 「花洛名勝図会」より栂尾、ふぢや

 鳥居をくぐる前の西側(左側)には、栂尾(とがのお)という店がありました。現在、京料理 古都梅という店がある場所です。
 栂尾という名前、紅葉の名所として知られる京都の「三尾(さんび)」=高雄(高尾)、栂尾、槇尾のひとつから取っているようで、あたかも山深く落ち着いたところにいるという風情を醸し出しています。

 鳥居を入った左側には、ふぢや(藤屋)という茶店がありました。
 その向いには……

 「花洛名勝図会」より中村屋

 中村屋がありました。現在の中村楼です。
 この2軒をあわせて、二軒茶屋と呼んでいました。

 中村楼
  中村楼

 二軒茶屋と栂尾を上から見た図。

 「花洛名勝図会」より二軒茶屋

 建物の裏には、樹木が茂った庭がありますね。

 目をこらすと……

 「花洛名勝図会」よりふぢや

 藤屋の庭ですが、藤棚があるでしょう!
 これが店名の由来かと思うと、ちょっと感動します。


 名物・祇園豆腐の二軒茶屋

 この二軒茶屋の名物が、豆腐でした。

 下は、中村楼の看板の料理写真ですが、右上の串にさしてあるものが、田楽豆腐。
 これが、江戸時代より名物だったのです。

 中村楼メニュー

 当時、二軒茶屋の前に行くと、赤い前垂れをした女性が客の呼び込みをしていて、旅人らのお客さんは、そこに引きつけられてしまったのです。
 それに加え、店頭で豆腐を切る包丁さばきが見事で、これも売りものでした。

 豆腐は、豆腐百珍という言葉もあるように、いろんな料理ができます。田楽は、焼き豆腐に味噌をつけたシンプルなものですが、それだけに愛されたのでしょう。「祇園豆腐」という異名を持っており、南禅寺の豆腐と並んで有名でした。

 とりわけ中村屋は立派な造りだったので、旅人にも評判だったようです。一方の藤屋は、建物も古びていて、だんだんさびれていったと言うことです(『京の花街ものがたり』)。

 その結果、と言うべきか、現在では中村楼のみが残り、藤屋の跡はご覧の通り。

 ふぢや跡
  二軒茶屋・藤屋跡

 空也上人ゆかりの井戸というものもあります。

 藤屋の井戸

 往時のにぎわいとは打って変わって、静かな石鳥居周辺です。

 中村楼の壁


 円山公園あたりには……

 南楼門から境内に入ると、江戸時代の八坂神社にはぎっしりと社殿などが建っていました。
 本殿のまわりには摂社、末社も数多く見られます。

 この図は、本殿の東側部分。

 「花洛名勝図会」より祇園社

 現在もある美御前社をはじめ、荒神、稲荷、熊野、蛭子、愛宕、毘沙門などの小社が並んでいます。
 左手には「うら門」があり、知恩院の南門に出ると記してあります。そのあたりは祇園北林と称していました。

 私が、はっと思ったのは、その右でした。

 「花洛名勝図会」より円山の弓場

 なんと、みんなで弓を射ているではありませんか!

 これは、以前取り上げた円山公園に残る「園山大弓場」のいにしえの姿ではないでしょうか?

 園山大弓場
  園山大弓場(円山公園)

 この弓道場は、文久2年(1862)に現在の円山公園に開かれ、明治20年(1887)、現在地(公園内北端)に移転したそうです。
 もしかして、その弓道場が描かれているのでは ? ?

 前の記事は、こちら! ⇒ <庶民が弓を射ることがブームだった明治時代、けれども円山公園には今でも射場がある>
 
 「花洛名勝図会」は、元治元年(1864)に成立していますから、時代的にもつじつまが合います。
 その本文には、「この林中、借馬の馬場、大弓の射場、楊弓店、栗飯の貨食家等あまたありて、遊客常に群集ひ、暑寒をいとはず賑はし」とあって、大弓の射場や楊弓(ようきゅう)店があったことを記しています。
 
 ほんとうに「花洛名勝図会」は細かいというか、リアルというか、いろいろなものが描き込まれていて驚嘆させられます。
 



 二軒茶屋跡

 所在  京都市東山区祇園町北側
 見学  中村楼は料理店として営業、藤屋跡は自由
 交通  京阪「祇園四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 加藤政洋『京の花街ものがたり』角川選書、2009年
 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年


【大学の窓】恩師の退職記念パーティーで、久しぶりに旧友と

大学の窓




記念パーティー


 30年ぶりの先輩たちとも

 日曜日、パーティーに出席してきました。

 大学でお世話になった恩師が、この3月末で退職されたので、先生とかつてのゼミ生が集う会が催されたからです。

 「催された」と受け身で書くよりも、「催した」とする方がいいかも知れません。というのも、私は幹事の一人だったからです。
 うちの先生は、古代・中世の宗教文化史が専門で、大学では37年間教鞭を執っておられました。その間、お世話になったゼミ生は二百数十名にのぼります。
 今日は、全国各地から50余名の先輩後輩が集まってくれました。

  記念パーティー

 私は大学院を出てからでも四半世紀くらい経過していますから、学部時代の先輩などでは30年ぶりに会う人もいました。やっぱりテレビの効果は大きいようで、「ブラタモリ」の出演を見てくれていたりしました(笑)
 久々の再会もあり、また年代の離れている人同士は初対面も多く、それでも同窓生のよしみで話に花が咲いていました。

 日本史の専攻という、やや特殊な? ジャンルのせいか、みなさんの仕事も、大学の先生や文化財行政に関する仕事、学芸員、そして作家など、専門性を生かして仕事をしている人が多いようです。
 先生は包容力があるので、ご自身の専門以外のテーマも許容してくださり、いろんな勉強をした学生が多いですね。私もまったく場違いな近代史だったのです。

 もちろん、まだまだお元気な先生、一層充実した研究を行われることを楽しみにしています。

 一次会、二次会、そして三次会と、幹事としては長丁場でしたが、みなさんに喜んでいただいて、ほっとしています。
 たまには、旧交を温める会もいいものですね。次は5年後かな?



老舗の薬房もある車屋町通をさらに歩く





車屋町通の雨森敬太郎薬房


 二条通界隈

 車屋町通を歩くのつづきです。

 その昔、クルマ関係の商売が集まっていた、そんなところに名の由来を持つ車屋町通。
 しかし今は、交通量も少なく、快適に歩けます。

 押小路通を上がったところに、蕎麦の老舗・本家尾張屋があり(前回紹介)、さらに北には、こんな構えの店舗があります。

 雨森敬太郎薬房

 正本家 雨森敬太郎薬房。黒壁に虫籠窓のある商家です。
 真っ白な暖簾には、「すいだしの膏薬/雨森 無二膏」と書かれています。

 雨森(あめもり)家は、もとは湖北の医家でした。湖北と言えば、朝鮮からの通信使と交わった雨森芳洲が知られますが、その一族ですね。
 江戸前期に、雨森良意が京に上り、腫れ物を吸い出す膏薬(こうやく)を作りました。これが「無二膏」です。

雨森敬太郎薬房の暖簾

 現在でも販売されていて、腫れ物や切り傷に効くそうです。
 軒に上がる看板は、ひときわ立派です。

  無二膏看板
   無二膏の看板

 通りに垂直に掛っている突出し看板ですが、切妻の屋根が付いています。
 伝統的な意匠ですが、よく見ると、ガラスのシェードが付いた電球もあって、ちょっと近代的でもあります。


 少将井の御旅所旧跡

 少し進むと二条通に交わります。

 二条車屋町
  二条車屋町の交差点

 写真の右奥が烏丸通。わずか5、6軒の距離です。
 次の通りは、家具店の多い夷川通で、その北は京都新聞社の裏手になります。町名で言うと、少将井御旅町(しょうしょうい おたびちょう)。
 
 少将井御旅町町名板 小さく「少将井御旅町」とある

 古そうな民家があり、その柵内に小さな碑が立っています。

 少将井跡

 少将井跡碑

 「少将井旧跡」と書いてあり、水が供えられています。
 ここは「枕草子」にも載せられた少将の井という名井があったところです。
 ただ、町名からも分かるように、それに加えて御旅所もありました。

 御旅所(おたびしょ)とは、祭礼の際、おみこしなどに乗った神さまが一時的に留まられる場所です。
 この少将井御旅町にあったのは、祇園社(八坂神社)の御旅所でした。

 『京都市の地名』によると、祇園祭で渡御する神輿3基のうち、西御座がこの御旅所にやって来て、井戸の上に安置されたと言います。
 少し長くなりますが、引用しておきましょう。

 祇園会には古く「少将井駒形座」とか「少将井駒大夫」とかよばれる一団が出た。その名称は祇園会に出された3基の神輿のうち、西御座の祭神が竜王の三女、牛頭天王の妃 婆利采女(ばりさいにょ)で、この神輿が少将井の御旅所に担ぎこまれ、井の上に安置されたため、婆利采女の別名を「少将井殿」ともよんだ(中略)

 10世紀以降京都では疫病流行の時、ある特定の井戸の水を飲むと疫病を免れるという霊泉・霊水信仰が定着しており、少将井の信仰も同様であったと思われる。恐らくこの信仰が霊水ということから竜神の娘、竜女の婆利采女の神輿と結びついたものと思われる。
 少将井の神輿は、祇園御霊会の時、四条・東洞院・二条・御旅所というルートをとり、内裏の南辺を渡御したため、特に宮廷関係者の関心と信仰を集めた。(724-725ページ)


 いま祇園祭の神輿の御旅所は、四条寺町にまとめられていますが、これは豊臣秀吉の時代になってから(天正19年=1591年)。
 かつては、少将井御旅所と大政所御旅所(烏丸高辻)の2か所にありました。大政所御旅所の方は、現在は小さな祠が鎮座しています。

 祇園祭御旅所
  現在の祇園祭御旅所と神輿(寺町通四条東入ル)


 小さな地蔵さんも

 さらに北上すると、竹屋町通を越え、そろそろ御所も見えて来ます。

 御所を望む

 あいにく道路工事中ですね。

 そんな路傍にお地蔵さんがありました。

  お地蔵さん

 銅板葺の覆屋があり、その中にお堂が据えられています。
 
 近付いてみると、ちゃんとした組物があり、とりわけ木鼻がおもしろい!

お地蔵さんの木鼻

 象と獅子。
 なにげないけれど、なかなか上手なものです。
 こんなものを見付けると、ぶらっと散歩するのも愉しいなぁと思えてきますね。

 そして、800m 余りの車屋町通も、おしまいです。
 もともとは、いまの御所の南部分にも道は通っており、北端は出水通だったそうですから、1.5倍の距離があったわけです。

 これで南の不明門通から、北の車屋町通まで、烏丸-東洞院間の細い街路を歩き終えました。
 有名な観光地もよいけれど、街なかにもいろいろとおもしろいところがあって、興味が尽きませんね。


  尾張屋のクルマ




 車屋町通

 所在  京都市中京区車屋町通夷川上る少将井御旅町ほか
 見学  自由
 交通  地下鉄「丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年


不明門通の北の続き、車屋町通を歩いてみると……





亀末廣の塀


 “不明門通を歩く” の続編

 烏丸通の1本東を走る通り、不明門通(あけずどおり、あけずのもんどおり)については、先日レポートしました。

 不明門通は、京都駅前から北に向かって伸び、五条通を越えて松原通の北、因幡堂に突き当たって行き止まりでした(実際には路地のような道が続くのですが)。

 平安京の昔に造営された京都の街路は、豊臣秀吉の時代に改造されました。碁盤目状の街区をタテに二等分して、短冊状に変えたのです。街区を “カット” する際に、新たな通りがたくさん造られました。
 不明門通のような通りがそれですが、市街の中心部は “カット” されていません。有力な町人たちが住む鉾町(祇園祭に山や鉾[ほこ]を出す町)があったため、その部分は避けられたということなのでしょう。

 ということで、不明門通も、松原通で一旦突き当たり。そして、中心部を飛び越えて、姉小路(あねやこうじ)通から “再開” しているのでした。

  東洞院町名板

 姉小路通は、御池通と三条通の間にある東西の通りです。
 上の町名板は「姉小路通東洞院」に付けられているもの。ここを西へ入ると、再開する通りがあります。

 亀末広

 西へ歩き出すと、柚味噌の店、茶道具の店などがあり、こんな古い店構えの和菓子店もあります。
 亀末廣。
 “四畳半”とも称される「京のよすが」などで知られる老舗です。

  亀末広の暖簾

 この場所は、現在工事中の新風館の北側に当たります。


 姉小路通から始まる車屋町通

 亀末廣の西角から、北に向かって伸びる新しい道が始まります。

 車屋町通の南端

 これが今回の主人公・車屋町通(くるまやちょうどおり)です。

 通りの名でもあり、また亀末廣のあるところは車屋町という町でもあります。
 いかにも車と関係しそうな名前ですが、古くは車輪製造の人たちが居住したり、輸送業者・車借(しゃしゃく)がいたところなどと伝えられています。

車屋町通町名板

 町名板を見てみると、「車屋通」となっていますね。1文字省略でしょうか?

 『京都の大路小路』によると、車屋町通の1本東にある東洞院(ひがしのとういん)通は、竹田街道とつながる重要な街路だったそうです。
 竹田街道は、現在では京都駅の南側(アバンティの東)から南に伸びる道路で、京都南郊へ通じています。
 明治以降は京都駅ができて分断されたのですが、かつては東洞院通と連続していたのでした。

 このような重要街路、つまり車の往来が激しい街路のそばであったため、車の商売が集まったということなのです。

 なるほど。
 そう思うと、今でも東洞院通の交通量の多さが何となく理解できるような気がしますね(笑)


 御池通を渡って北へ

 姉小路通から始まった車屋町通。
 歩き始めると、すぐに御池通に至ります。

 御池通

 見ての通り、横断不可能ですので、1本西の烏丸通から渡ります。

 車屋町通御池上ル

 御池通を上がったあたり。
 これは普通の街路だなぁ、という印象です。

 それでも、京都らしく史跡は多いようで……

 石田梅岩講舎旧跡

 この小さな石碑は、「此付近 石田梅岩講舎跡」と書いてあり、石門心学(せきもんしんがく)を始めた石田梅岩の心学講舎があったことを示しています。ここは彼の自宅があった場所のようですね。

 まったく個人的な趣味なのですが、私は余り「跡」だけ残る史跡には関心が湧かなくて、どうしてもリアルに残っているものに魅かれてしまいます。
 それでここでは、碑の左側にあるこの建物に目が行くのでした。

 梅岩旧跡横の建築

 外壁はモルタルで、2階の窓枠は木製みたい。
 右端に直接2階に上がれる階段が付いています。1階と2階を別々に使えますね。
 かつては何かの事務所でも入っていたのでしょうか。
 戦後の建築だと思いますが、ちょっとモダンで気になりますね。


 老舗の蕎麦店も

 御池通の次は、押小路通。その上に、老舗の蕎麦店・本家尾張屋があります。

 本家尾張屋

 こちらは、16代、550余年の伝統があるとか。
 暖簾は「宝」ですが、名物はわりごそばの「宝来そば」です。
 出て来るお客さんも、ちょっと紳士風ですけれど、同僚によるとお値段もリーズナブルでふつうに使えるとか。

 私はどうも「花よりだんご」の逆と言いますか、あまり食べ物に頓着しない方で、どうしてもこういう店に入りそびれるのですね。
 みなさん、ぜひご賞味ください!

 本家尾張屋

 こんな老舗もある車屋町通。
 まだまだ、おもしろそうなところもあるので、このつづきは次回に。


 (この項、つづく)




 車屋町通

 所在  京都市中京区車屋町通姉小路東入る梅屋町ほか
 見学  自由
 交通  地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『京都の大路小路』小学館、2003年


禅宗建築の宝庫・東福寺から、今回は偃月橋をクローズアップしてみた

洛東




偃月橋


 深い谷・洗玉澗に架かる3つの橋廊

 今週は、少し案内する必要があって東福寺を訪れる予定です。
 東福寺は何度も行っているお寺、大好きなお寺のひとつですが、やはり人を案内するとなると、改めて下見をしないと気が済みません。
 それで、土曜日の午後、ぶらっと散歩してきました。

 仏殿
  東福寺 仏殿

 東福寺へは、JR、または京阪の東福寺駅から訪れる方が多いでしょう。この駅は、お寺の北にあります。
 いくつかの古びた門を見、多くの塔頭の間を抜けて歩いて行くと、谷間に架かった臥雲橋(がうんきょう)に至ります。この谷を洗玉澗(せんぎょくかん)と称しています。
 臥雲橋の上流を眺めると、有名な通天橋が架かっており、紅葉が美しく望めます。

 通天橋
  青もみじの通天橋

 もみじの美しさに目を奪われるのですが、下を見ると、この渓谷の深さに驚かされます。
 この川は、三ノ橋川と言い、稲荷山に発して西流し、鴨川に注いでいます。
 「花洛名勝図会」(1864年)の観楓の図を見ても、谷の深さがうかがえます。

 「花洛名勝図会」 「花洛名勝図会」より「通天橋観楓」

 この渓谷には、3つの橋廊が架かっています。下流から、臥雲橋、通天橋、偃月橋です。

 どれも素晴らしい名前ですが、「臥雲」は雲の中に横たわるという意味で、「隠居して仙道に志すこと」(『日本国語大辞典』)を言います。まったく禅寺にふさわしい橋ですね。
 「通天」は、天に通じるということ、それほど空高く架かっているという意味ですね。深い谷に架けられた橋にぴったりの名前です。
 そして「偃月(えんげつ)」。偃は伏すという字義で、偃月は半月を指します。


 偃月橋の棟札

 偃月橋
  偃月橋(重要文化財)

 屋根の付いた3つの橋廊のうち、最も上流にある偃月橋(えんげつきょう)。
 山内の端にあり、重森三玲の庭がある方丈の裏手、龍吟庵と即宗院に行く手前に架かっています。

 こう見ると、なんでもない橋のように思えます。
 しかし、実際は重要文化財に指定されている建築で、慶長3年(1603)に造られました。

 偃月橋と龍吟庵
  奥に龍吟庵方丈(国宝)が見える

 シンプルな印象です。
 桁行は11間。「偃月」の額が掲げられています。

 偃月橋(龍吟庵側)
  龍吟庵側から見る

 振り返っても、同じ風情。

 中程の棟木に棟札が打ってあります。

 棟札

 拡大写真。

 棟札拡大

 左の行に「旹(時)慶長第八癸夘年十月日」とあって、慶長8年(1603)再造と示しています。

 修理をした大正15年(1926)の棟札(写真右)や、平成13年(2001)の棟札(左)も打たれています。

 修理棟札

 なにげなく渡ってしまう偃月橋ですが、400年も前の桃山時代の建造とは、驚きです。

 ちなみに、臥雲橋は江戸後期(弘化4年=1847年)のもので、府指定の文化財。
 通天橋は、戦後の昭和34年(1959)、台風で落橋し、その2年後に架橋された新しい橋なのだそうです。




 東福寺 偃月橋(重要文化財)

 所在  京都市東山区本町
 拝観  自由
 交通  JR・京阪「東福寺」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『大本山 東福寺』東福寺、2010年
 『京都府文化財総合目録 平成18年版』京都文化財団、2006年


【新聞から】四半世紀ぶりに南座を離れる顔見世興行、初めての空間で体験する歌舞伎に期待





先斗町歌舞練場


 今冬の歌舞伎「顔見世」、先斗町歌舞練場で
 南座休館中
 朝日 2016年5月31日付


 歌舞伎興行を主催する松竹は、今年(2016年)の顔見世を先斗町歌舞練場で開くことを発表したと、新聞各紙は報じています。

 顔見世というと、京都の冬の風物詩として知られ、招き看板を上げる風景が親しまれています。
 その舞台となる劇場・南座は、昭和4年(1929)に建てられ、鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)ながら和風の意匠をまとった名建築として国の登録有形文化財にもなっています。

 文化遺産オンライン(文化庁)には、

 桃山風の意匠を凝らした劇場建築で、総客席数1500余の大劇場を収容する。平成2年から3年にかけて改修が行われ、外観は竣工当時の姿に復元された。演劇の中心地の一つとして、また都市のランドマークとして、広く親しまれている。

 と説明されています。

 南座
  京都を代表する劇場・南座

 南座は、鴨川に架かる四条大橋の東詰にあります。
 ここは、四百年余り前、出雲阿国(いずものおくに)が「かぶきおどり」を行ったところで、歌舞伎発祥の地とも言える場所です。

  出雲阿国像 出雲阿国像(四条大橋東詰北側)

 かつて京都には、新京極や西陣をはじめ市内各所に数多くの劇場があり、歌舞伎も上演されていましたが、いま歌舞伎を上演する常設的な劇場は南座だけになりました。


 耐震工事で休館中

 ところが、その南座は今年に入って、1月下旬から、耐震工事を行うため休館中です。
 耐震診断で法の基準を満たさないことが分かったため、今後の工事に向けてお休みというわけです。

 そのため、とりあえず今年の顔見世は、南座では行えなくなりました。
 じゃあ、どこでやるの? という話ですよね。

 “代打” として選ばれたのが、先斗町(ぽんとちょう)の歌舞練場です。
 京都新聞によると、南座は現在、約1,078席あるそうですが、先斗町歌舞練場は540席だそうです。ちょうど半分のキャパシティーですね。
 今年の顔見世は、中村雀右衛門丈の襲名披露もあるだけに、半減は少し心配です。

 先斗町歌舞練場
  先斗町歌舞練場

 もっとも、先斗町歌舞練場は、このブログで何度も書いているように、近代劇場建築としては珠玉の名作です。
 設計した木村得三郎(大林組)は劇場建築の名手と呼ばれ、その代表作のひとつが先斗町歌舞練場で、昭和2年(1927)に竣工しました。南座より、2歳先輩です。舞台の間口は75尺(約22.5m)と広いのですが、敷地の関係上、奥行きが浅いのが特徴で、舞台の裏はすぐ先斗町の通りになっています。

 先斗町歌舞練場については、こちら! ⇒ <先斗町歌舞練場、狭斜の巷にそびえるアジア的な造形に見惚れる>

 この歌舞練場で顔見世が行われるなんて、どんなにステキなことかと、ファンの私にはうれしい限りです!

 ところで、新聞記事には、南座で顔見世が開かれないのは1990年以来、とあります。
 上記「文化遺産オンライン」に、平成2年から3年にかけて改修したと書かれていますが、その工事の際、1990年冬の顔見世を他のところで行ったのです(平成2年は1990年ですね)。

 その場所が……

 祇園甲部歌舞練場

 祇園甲部歌舞練場でした。

 実は、私、この甲部歌舞練場での顔見世を見ているのです。

 私が初めて南座で顔見世を見たのは、確か大学1回生のときで、その日はたまたま夜に大雪が降り、芝居が終わって外に出ると、四条通には雪が積もって、タクシーがチェーンを巻いて走っていたのを覚えています。
 それから数年後、特に意識せずに行った顔見世が、甲部歌舞練場で行われていたのでした。
 芝居の中身はそれほど覚えていないのですが、唐破風のある玄関から廊下を伝って会場に行ったことや、そのあたりに売店が出ていたことなどを覚えています。やはり役者さんと観客との距離が近かった印象があります。

 今度の先斗町での顔見世も、たぶん役者さんとの距離がグッと縮まることでしょう。
 もしかすると、先斗町で憧れの役者さんと擦れ違うこともあるかも!

  南座の櫓 南座の櫓




 先斗町歌舞練場

 所在  京都市中京区先斗町三条下る
 見学  外観自由
 交通  京阪「三条」下車、徒歩約5分