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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

不明門通をさらに北へ進むと……





不明門通仁丹町名板


 詰所のある東本願寺界隈

 前回につづき、不明門通(あけずどおり、あけずのもんどおり)を歩きます。

 楽しい念珠店のあった上珠数屋町通から北へ。
 歩いていると、町家から着物の女性が出て来られました。看板を見てみると……

 となみ詰所

 「となみ詰所」と書いてあります。
 「となみ」は、砺波なのでしょう。越中(富山県)の地名です。

 この詰所というもの、本願寺界隈にある旅宿です。もともとは、本願寺のご門徒が設けられた滞在所でした。
 江戸後期から幕末にかけて、東本願寺は4度も焼亡し、そのたびに堂宇の再建がなされました。この事業に、全国のご門徒が奉仕に参集され、滞在所となったのが詰所です。
 禁門の変で焼けた御影堂や阿弥陀堂は、明治28年(1895)に完成したので、その後、詰所は本山に参拝される方たちの宿となりました。現在では、一般の方も宿泊できます。

 明治中期には50軒近くあったという詰所も、いまでは5軒に。
 この砺波のほか、富山県、飛騨(岐阜)、伊香、東浅井(滋賀)です。

 そういえば、今年2月の京都新聞に、東浅井詰所の建て替え工事が完了したという記事がありました。前にあった昭和10年(1935)築の入母屋造、木造2階建を改築(4階建)したというものです。施設維持のため、詰所8室を確保したほかは、賃貸マンションにしたそうです。 
 滋賀県の旧東浅井郡には、真宗大谷派の寺院が163か寺もあって、もともとはそのご門徒が詰所に宿泊されていました。ところが、近年は湖北からも日帰りできるようになったため、一般の旅行者にも門戸を開放していたそうです(京都新聞2015年6月11日付、2016年2月7日付)。

 このあたりの事情は、境内にマンションを建設する神社の問題とも似て、いかに維持していくかという苦心がにじみでています。
 代表理事の方は「守っていくための変化」だと述べておられます(京都新聞)。

 こういう記事を見ていると、なんとなく泊まりたくなってきましたねぇ、詰所に。


 意外な老舗もある五条通以北

 となみ詰所からさらに進むと、東西の細い街路と交わっていきます。

 仁丹町名板

 「的場通不明門西入 下平野町」。

 クルマ1台ほどの幅のある的場通と交差します。

 的場通
  的場通

 ここで一番の驚きは、角のお宅が的場さんだったことでしょうか。
 こちらが通り名の由来? と思うと、ちょっとすごいですね。

 付近図
  矢印が的場通との交差点

 ここまで来ると、もう五条通が見えて来ます。

 五条通
  五条通

 横断できないので、一旦烏丸通の交差点を渡ります。
 さらに北上すると、マンションの一画に吉水稲荷神社がありました。

 吉水稲荷神社
  吉水稲荷神社

 私が気になったのは、その向いのお店でした。

不明門通

 普通の町家に看板が出ています。

 板前洋食弥生

 「板前洋食 彌生」

 別の看板には、

 板前洋食弥生
 
 「逸品欧風料理/独特 彌生弁当/板前洋食 彌生」

 この「板前洋食」という表現、すごく気になりますね。
 
 昔、河原町の映画館で、幕間のCMで「板前にぎり金兵衛」というのをよく見たんですね。これは、板前さんが握る寿司屋という意味でしょう。
 そうすると、板前洋食は、板前さんが作る洋食店ということですね。割烹と洋食の融合というか……

 看板が少々古びているので、てっきりお休みされている店かと思いましたが、帰宅後調べてみると、ちゃんと営業されていました。どうやら私が通ったのが午後2時頃だったので、ランチタイムが終わっていたらしい。営業中は、のれんを掛けられるようです。

 ここにも、ぜひ一度入ってみたくなりました(笑)


 そして、因幡堂へ
 
 その後も、不明門通を上がって行くと、松原通に至ります。
 真正面に、因幡堂(いなばどう)が見えて来ます。

 因幡堂前

 因幡堂は、平等寺とも言い、薬師如来を祀ります。
 平安京の昔からこの地にありました。平安京内には、東寺と西寺のほかは原則的に寺院は置かれませんでしたが、お堂は例外で、六角堂や革堂、因幡堂などは存在していたのです。

 ということは、不明門通よりも因幡堂の方が前からここにあったということでしょうか、因幡堂で不明門通は突き当りになっています。
 前回から保留にしていた「不明門」という名前の由来ですが、因幡堂の南門が常に閉ざされていたので、不明門の名が付けられたとも言われます(『京都坊目誌』)。

 因幡堂

 現在、因幡堂には門らしい門はありません。「都名所図会」(1790年)を見ると、南に門があり、門前に川が流れていますが、この門を閉じるとお寺に入れませんね……
 ちょっとこの由来説も、疑問が拭えません。

 ちなみに、「京羽二重」には「因幡堂つきぬけとをり」という名称も併記されており、他にも「薬師突抜」(薬師如来を祀ったため)という呼称もあったようです。不明門通という名前以外にも、このようなストレートな呼び方もあったのですね。


 通りは途切れるけれど……

 ということで、不明門通はここで終了。
 ものの本では、この通りは因幡堂のある松原通から七条通、あるいは塩小路通までなどと記載されています。
 ただ、因幡堂の裏に道があるのも事実。

 因幡堂横

 因幡堂の左へ回り込みます(地図の矢印)。

 付近図

 そこを北へ進んで右折すると、不明門通のつづき? のような道が。

 因幡堂裏

 これですね。
 
 ただ、この道も北にある高辻通で突き当りになります。
 ところが、高辻通から先も、狭い路地がつづいているのも事実。

 高辻通

 ここは、匂天神社(においてんじんしゃ)があり、この路地は匂天神町の町内です。
 路地は一旦突き当たって、カギの手に曲がり、さらにつづいています。

 匂天神町 「匂天神町」の文字が

 匂天神町

 味わい深い長屋のある路地ですが、片側はすでに駐車場になっています。
 この路地には名前があって、竹之辻子(たけのずし)と呼ばれているそうです。

 ここを抜ければ、仏光寺通へ。

 仏光寺通
  仏光寺通

 でも、目の前にはビルが聳え立っています。
 
 この北にも、実はまた路地があるのですが(上の地図の青矢印)、際限がないのでこの辺で。

 ところで、この不明門通、因幡堂の前の松原通で途切れているのですが、約1.2㎞も北方の姉小路通で再び始まっているのです。ただ、名前は車屋町通と変わっているのですが。
 これを見ると、この通りが豊臣時代に造られた新たな街路で、市街中心部の鉾町だけ新街路が出来なかったということをよく表しているようです。

 車屋町通は、また機会があれば歩いてみましょう。




 不明門通

 所在  京都市下京区烏丸通松原上る因幡堂町ほか
 見学  自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年
 碓井小三郎『京都坊目誌』(『京都叢書』所収)
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年


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不明門通という魅惑的な名前の通りを歩いてみる





不明門通


 京都駅から歩ける通り

 京都府の旅券事務所は京都駅にあり、そこに立ち寄った帰り、駅前にある大地図を前に、私は腕組みをしていました。

 これからどの通りを歩こうか、と。

 5分近く腕組みをしたあと、ここが面白そうだな、という通りを発見。
 それは、烏丸通と東洞院通の間にある細い街路でした。

 通りの名を「不明門通」と言います。

 東本願寺
  東本願寺

 まず東本願寺に参拝して、そのあと、広い烏丸通を東へ横断。
 このあたりは、本願寺の門前町らしく、念珠店、法衣店、仏教書専門店など、お寺関係の老舗が多いところです。

 念珠店看板
  風格のある念珠店看板

 東本願寺の御影堂門の向い側に、法衣店があります。

 法衣店

 このお店の2階外壁に、仁丹の町名看板が掲げられています。

 仁丹看板

 「正面通不明門東入 廿人講町」と書いてあります。

 ここは正面通と不明門通の交点の東です、という意味ですね。
 ところが、その上に掲出してある新しい表示板には、次のように記されています。

 「正面通烏丸東入ル 廿人講町」

 ん~、こちらは烏丸通になっていますね。

 そうなんです、実は、この念珠店のあたりは、かつては不明門通が南北に通っていたのですが、明治末に烏丸通が拡幅されて、不明門通が消滅してしまったのでした。

 烏丸通
  広くなっている烏丸通

 附近図

 東本願寺の上(東)に「不明門通」がありますが、本願寺前だけ烏丸通に “飲み込まれている” ことが分かりますね。


 不明門通の南端部

 この不明門通、音読みすると「フメイモン」通となりますが、さすがにそうではありません。
 では、と普通に読めば「あかずのもん」通となるでしょうか。
 
 そう、それでも間違っていませんし、「あかずもん」通という読み方もあります。

 次に、この写真を見てください。

 町名表示

 ここには「akezudo-ri」、つまり「あけず」通となっています。
 なるほど、門を省略した読みですね。

 『京都市の地名』は、「不明門」に「あけず」というルビを振っていて、江戸時代の「京羽二重」には「あかずのもん通」とある、と書いています。
 また、『京都の大路小路』は「あけずのもんどおり」としていて、別称もあるとのことですが、それについては改めて触れることにしましょう。

 同書によると、不明門通の南端は、京都駅前の塩小路通ということです。
 実際、駅前あたりは、細い路地のような表情で、旅館などが建っている地区です。
 その道が七条通を越えると、まもなく烏丸通に吸収されてしまうのでした。


 念珠店も楽しい

 先ほどの法衣店のところから100mほど北へ進むと、烏丸通と別れを告げて、単独の不明門通が始まります。

 不明門通
  右端をまっすぐ伸びる通が、不明門通

 写真の右角(赤いクルマが停まっているところ)は、念珠店です。
 この店が、なんとなく面白いんですね。

 念珠店

 近代的なビルの入口に、ふたりの僧が……

 お顔を拝すると、やはり親鸞上人でした。

 ショーウインド。

 念珠店

 魅力的な品物が多いです。
 一番上には、たぶん売り物じゃない「未来くん」が!
 これは、ずいぶん昔の京都国体のマスコットで、牛若丸がモチーフです。
 
 未来くんの下のオブジェ? も興味深いけど、これがイチオシ ! !

 合掌人形

 「合掌人形 貯金箱型」

 貯金箱型というか、たぶん貯金箱なんでしょうね。男女あります。1体648円也。
 絶対、手で彩色してます。細かい仕事!

 ウインドの先には、こんな貼紙も。

 念珠店貼り紙

 「数珠(じゅず)製造職人さん募集中(パート・内職)」

 初心者でも丁寧に指導してくださるらしい。
 確かに、この店ではないけれど、ここらを歩くと、店内で女性が数珠を作っておられる場面が見受けられます。数珠もやっぱり手作りなんですね。
 本当に本願寺の門前らしい。

 そういえば、この付近は東西の通り名も、上珠数屋町通、中珠数屋町通、下珠数屋町通ですよね。

 結構おもしろそうな不明門通なのですが、まだ150mしか進んでいない!
 つづきは、次回に。


 (この項、つづく)




 不明門通

 所在  京都市下京区不明門通上珠数屋町ほか
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年


【大学の窓】京田辺で史跡見学、古刹・観音寺へ

大学の窓




観音寺


 南山城の古刹へ

 非常勤で出講している(仮称)上京大学の授業では、年に2度ほど史跡見学を行っています。
 今年も、60名ほどの学生たちと、京田辺市にある観音寺を訪ねてきました。

 観音寺

 観音寺は、古代からこの地に続く名刹で、かつては大きな伽藍を持ち、大御堂という別称もあります。
 立地は、JR・近鉄の三山木駅から2.5kmほど離れ、周囲は田んぼです。ちょうど田起こしをされていました。

 観音寺
  観音寺 本堂

 観音寺

 本堂の前には蓮池が造られ、来月頃はハスの見頃のよう。
 戦後建築された本堂には、天平年間に造立された十一面観音立像(国宝)が! いつ拝しても素晴らしい尊像です。

 
 近代的な建造物も

 このような古刹なのですが、当然、現在に至るまでの歴史を持っています。
 寺院は地域のつながりの中心にもなるため、明治以降に造られた構築物もありました。

 慰霊塔

 近代の慰霊塔。
 「慰霊塔」という表現が、戦後的な響きを感じさせます。

 背面に廻ってみると、

  慰霊塔

 「忠魂碑」の文字が。
 こちらは戦前の言葉ですが、文字は埋められており、戦後「慰霊塔」として再生されたことが分かります。

 こんなプロセスを学生に質問を重ねながら考えてもらいます。

 慰霊塔

 台座上には、もともとは鎖をつないだ柵があったのですが、いま鎖はありません。
 なぜなくなったのか? 、こういう点も考えてもらったりするのです。


 日露戦争の記念碑

 この慰霊塔の脇に、少し小ぶりの石碑が立っています。

 記念碑

 苔むした、年月を感じさせる記念碑。

  記念碑
 
 碑面には、このように刻まれています。
 毎年、まずこの6字を読ませるのですが、案外読めないのがこの文字。

  記念碑

 どうでしょう?
 読めるでしょうか。

 毎年、質問してみると、ほとんどの学生が、

 「戦後」

 と読みます。
 
 でも正しくは「戦役(せんえき)」なのです。
 「役(えき)」って、日本史の授業で「前九年の役とか後三年の役とか習ったやろ」と、「役」が戦争を意味することを話します。

 そのあと、日露戦争は何年に起こった? と質問すると、学生は1904年と答えます(たいてい答えられます)。
 ところが、いじわるに「じゃあ、明治何年?」というと、だいたい答えられません(笑)

 実は、碑の下部には「明治三十七八年役」と書かれています。
 私たちは、教科書でこの戦争のことを「日露戦争」と学習したけれど、当時の人たちの多くは、明治三十七八年戦役などという表現を取っていたのです。

 でも、学生たちの受験日本史では、日露戦争であり、1904年~05年の戦争。

 明治の人たちは、たいがいは元号で年を考えていたのですから(昭和でも、そうでしたものね)、西暦は意識になかったでしょう。
 こういうズレを敏感に感じ取っていくことが、過去を考える際には重要です。
 今日のように、実際に史跡を訪ねてみると、教科書にある “翻訳” された知識ではない、生の現実が分かっていいですよね。 




 観音寺

 所在  京都府京田辺市普賢寺下大門
 拝観  400円
 交通  近鉄・JR「三山木」下車、徒歩約30分


【新聞から】ご当地情報に密着する地元紙 - 五輪代表選出の報道から -

その他




比叡山


 上田、リオ五輪決定 トライアスロン代表
 京都 2016年5月20日付 


 一昨日、トライアスロンのリオデジャネイロ五輪代表が決定しましたね。
 上田藍、加藤友里恵、佐藤優香と、田山寛豪の4人です。
 上田選手は3大会連続、田山選手は4大会連続です。

 ご存知のように、トライアスロンは、スイム+バイク+ランという3つを合わせて行う競技。

 まったく私ごとなんですが、私は陸上競技は大好きでよく観戦するし、自転車も好きですが、水泳が子供時代から大の苦手で、まぁ、いわゆるカナヅチに近いというか、あまり泳げないわけです。それで、水泳の授業や夏休みのプールは大嫌いだったんですね。
 そのくせ、中学校は水泳部が強くて、同級生でもいい選手がいて、卒業後には立派な50mプールまで完成したんです。公立中学で50mプールとは、すごいですよ(京都では我が母校だけらしい)。ほんと、卒業したあとでよかったです(笑)

 そういうわけで、水泳を含んでいるトライアスロンは、なんとなく感情移入できなかったというか、テレビ中継をやっていても、自然とチャンネルを変えていたというか、そういう感じでした。

 けれども、リオ代表決定の一報は、スポーツニュースで見ていました。
 そこで、上田藍選手(32)のコメントが映し出されて、こう言っていたんです。

「いま一番脂がのってきています」 

 サンマじゃあるまいし! と思わず突っ込んでしまった ! !

 なんか、コメントがおもしろいし、元気。
 いい会見でしたね。

 ところで、その後、京都新聞に上田選手の代表選出の記事が載りました。
 驚いたのは、上田選手、なんと私の中学校の後輩だったんです!

 全然知らなかったわけですが、知らなくて当然で、全国紙やテレビでは出身中学など報じられません。
 ところが、さすが地元紙、出身中学・高校まできっちりと書いてある。ありがたいですね!

 私よりもかなり若いので、後輩というのもおこがましいのですが、中学時代は水泳部だったそうで、例の50mプールで練習されたのでしょう。
 朝日新聞では、ご両親は手描き友禅の職人さんだと報じられていて、こちらも京都らしいですね。

 今回、カバー写真が比叡山になっていますが、どう関係あるの? ということで --
 実は、われわれの(もう一緒にしてしまってる)中学校の校歌に、

 自然の教え山にあり 比叡仰ぎてうつし世の……

 という歌詞があるんですね(作詞は歌人・吉井勇)。
 詞の通り、校庭から東に比叡山が見えるのです。

 そんな比叡山の姿は、私たち卒業生の “京都” イメージと切っても切り離せないものになっています。
 なので、写真は比叡山。

 上田藍選手、リオ五輪で健闘してほしいですね!



新京極から祇園に移った「花月」、そして関西の喜劇について

洛東




祇園会館


 懐かしの吉本新喜劇

 今日は休みだったんですが、たまたまテレビをつけたら、NHK「スタジオパークからこんにちは」をやっていました。
 司会の竹下景子さんが鮮やかな黄八丈の着物姿で出ておられて、ちょっとびっくりしたのですが、ゲストは吉本新喜劇の座長・辻本茂雄さんでした。

 辻本茂雄といえば “アゴ” キャラで知られ、近年は「茂造」という、じいさんキャラで人気を呼んでいますね。番組でも、これを大きく取り上げ、後半では辻本さんが茂造に扮して再登場しました。

 竹下さんと一緒に司会を務める伊藤雄彦アナは大阪の出身だそうで、吉本新喜劇にも親近感があるようでした。
 もちろん私も、ずっと関西ですから、吉本新喜劇は小学校時代からいつも見ていました。ただ、見ていたと言っても、土日のお昼にやっているテレビ番組です。生で観劇したのは、実は去年が初めてでした。

 私たちの少年時代の話ですが、関西の小中学生(特に男の子)なら誰でも吉本新喜劇を見ており、学校でいつもその話をし、贔屓の役者もいて、そのギャグが教室で流行していたものです。
 岡八郎、花紀京、原哲男、船場太郎、山田スミ子、間寛平、木村進、平参平、谷茂、桑原和男、浜裕二(チャーリー浜)などなど、多彩な役者陣が揃い、みんな個性的でおもしろかったですね。


 新京極にあった京都花月

 劇場「花月」といえば、大阪になんばグランド花月(NGK)があり、かつては大阪・キタにも梅田花月がありました。
 そして、京都には、もちろん京都花月があったのです。
 場所は、京都随一の興行街であった新京極。

 京都吉本ビル
  京都花月跡(現・京都吉本ビル)

 現在、京都吉本ビル・パッサージオがあるところ。
 昭和62年(1987)まであったので、私も記憶にあるのですが、残念ながら中に入ったことはありませんでした。


 関西喜劇の二大潮流

 ところで、日本では悲劇に比べて喜劇が低く見られている、という見方があるようです。
 木津川計氏は、文学に「純文学」と「大衆文学」があるように、演劇にも(仮に言えば)「純演劇」と「大衆演劇」があるのではないかと述べ、大衆演劇は多くの場合、喜劇的なドラマで、日本では低くみなされるというのです(『上方芸能と文化』)。
 もちろん、木津川氏はそのような考え方に疑義を呈しているのですが、ひとつのおもしろいエピソードを紹介しています。

 あるとき、「上方お笑い大賞」の大賞をミヤコ蝶々さんに贈ろうとしたのですが、本人に意向を確かめると「私は女優ですから、お笑いの賞はいりません」と断られたのだそうです。
 やはり、お笑いは一段低いものなのでしょうか。

  上方喜劇 三田純市『上方喜劇』(白水社)

 いま手もとに三田純市『上方喜劇』という書物があります。関西の喜劇の歴史をその前史ともいうべき俄(にわか)から説き起こした通史です。1993年に出版されました。
 この本は、副題に「鶴家団十郎から藤山寛美まで」とあります。藤山寛美の名から分かるように、松竹新喜劇の歴史なのです。

 松竹新喜劇は、明治後期に生まれた曽我廼家五郎・十郎の喜劇の系譜に属しています。つまり、大阪で誕生した日本的な意味での喜劇のメインストリームなのです。
 私たちも、これまた子供の頃、藤山寛美さんの松竹新喜劇をテレビで見たことは、楽しい思い出です。

 一方、吉本新喜劇の歴史は比較的浅く、戦後、昭和34(1959)に発足しました。
 『上方喜劇』には、この吉本新喜劇のことはほとんど触れられておらず、短い最終章でちょこっと登場するのみです。
 
 三田氏は吉本新喜劇について特段の評価を書かれていません。ただ、吉本新喜劇は「上方喜劇の嫡出子としてのそれ(松竹新喜劇)へのパロディ」として看板を掲げた、としています。
 言い換えると、<松竹新喜劇は上方喜劇の嫡流=正統だ。正統でない吉本新喜劇は、それを逆手に取った戦略に出た>ということです。

 吉本の文芸部長(当時)だった竹本浩三氏の「うちの芝居はあくまでも漫才、落語などにはさまれた芝居」という言葉が紹介されています。
 吉本では、新喜劇を単体で勝負するのではなく、劇場で行われている演芸と一緒に上演するものとして捉えたのです。これは現在でもそうで、吉本興業の劇場では<演芸(漫才等)+新喜劇>という構成が取られていますね。


 祇園の花月へ

 先日から、このブログでは、「女義太夫」とか「吉本せい」とか、雑誌『上方芸能』休刊とか、いろんな芸能について綴ってきています。
 その理由は、今週2度ばかり人前でお話する必要があって、その下調べをしていたからなのです。
 もっとも、女義太夫とか吉本興業の話は、ほとんど出てこない。出てこないけれど、電車の中ではそんな本を読んでいる、というところなのです。

 祇園会館
  よしもと祇園花月(祇園会館)

 新京極の京都花月は、ずいぶん以前に廃絶していたのですが、現在は「よしもと祇園花月」として、祇園石段下にある祇園会館で公演が行われています。
 映画館時代の祇園会館には、しょっちゅう行っていた私ですが、吉本になってからはまだ訪れていません。
 こういうふうに書いていると、1度行ってみたくなってきましたね。




 祇園会館(よしもと祇園花月)

 所在  京都市東山区祇園町北側
 見学  劇場として興行中
 交通  京阪「祇園四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 三田純市『上方喜劇』白水社、1993年
 木津川計『上方芸能と文化』NHKライブラリー、2006年


吉本せいの生涯をモデルにした山崎豊子「花のれん」は、明治・大正の興行界をリアルに描き出す

人物




  花のれん 山崎豊子『花のれん』新潮文庫


 山崎豊子の直木賞受賞作

 作家・山崎豊子といえば、現在もテレビドラマでやっている「沈まぬ太陽」や、大学病院の内幕をえぐり、田宮二郎の映画・ドラマでも話題になった「白い巨塔」をはじめ、「華麗なる一族」「不毛地帯」「二つの祖国」など、ほとんどの作品が映像化されていることで知られています。イメージとしては、“社会派” の作家で、長編が多いなぁ、という印象です。

 山崎豊子は、大正13年(1924)に大阪・船場の昆布商に生まれ、学校を出たあとは毎日新聞に勤務していました。
 つまり根っからの大阪人で、最初の頃書かれた小説は大阪ものです。デビュー作は生家をモデルにした「暖簾」で、市川雷蔵が主演して話題になった「ぼんち」も代表作なのですが、今回紹介するのは「花のれん」です。

 山崎豊子は「花のれん」で直木賞を受賞して、作家専業になりました。昭和33年(1958)のことです。
 この小説は、吉本興業の礎を築いた吉本せいをモデルにしていると言われています。
 主人公は「河島多加」となっていて、その夫は「吉三郎」ですが、それぞれ、せいと夫・吉本吉兵衛(吉次郎、通称・泰三)に当たるわけです。

 実際の吉本家は、もとは本町橋(現・大阪市中央区)で荒物問屋を営んでいましたが、小説では呉服屋という設定になり、夫・吉三郎の芸人道楽で商売が苦境に陥り、多加が節季の支払いに汲々としている場面から作品はスタートします。
 しかし、いくら頑張っても商売は順調にはゆかず、吉三郎は遊びにうつつをぬかすばかり。
 ここで、多加は「それやったら、いっそのこと、毎日、芸人さんと一緒に居て商売になる寄席しはったらどうだす」と吉三郎にけしかけます。
 まさに “逆転の発想” なのですが、この小説の全編にわたって、こんな多加のアイデアマンぶり、才気煥発なところが強調されます。

 大阪天満宮の裏手の寄席を手に入れたところからスタートして、やがて松島にも、もう1席の寄席を経営することになります。


 リアルな下足の扱い

 そんなころ、多加の寄席でちょっとしたトラブルが起きました。
 当時、寄席や劇場は、草履・下駄などの履物を脱いで観覧していました。そのため、脱いだ履物(下足=げそく)は入り口で預かっていたのでした。

「表の下足で、お客さんに粗相がでけまして」
 聞くなり、小走りに表方へ出てみると、大島紬の対を重ね、黒の繻子足袋(しゅすたび)を履いた男客が、むっつり押し黙っている。
「すんまへん、只今、席主と相談致しまして堪忍して戴きますよって、ちょっとお待ちを―」
 しきりにもみ手をして、権やんが吃り、吃り、詫びを入れている。男客は下足場一杯に立ち塞がるように突ったって、インバネスの下で両腕を組んだまま、権やんの顔を見ている。大きな声で、怒鳴り散らさないだけに、ことが難しい。多加は、横合いから足袋のままで土間へ飛び下りるなり、
「席主でござりますが、お気の悪いことになりまして、えらいすんまへん」
 敷台に頭をこすりつけた。
「あんたが、ここの席主ですか」
 初めて口をきいた。重味のある声だった。
「正月早々に足もとを取られるのは縁起の悪いもんで」
「へえ、ほんまに申しわけおまへん、すぐさまお気のすみますようにお足もとを揃えさして戴きまっさかい、ちょっとお憩みしておくれやす」  (五) 


 そのあと、多加は人力車に飛び乗って、履物屋で1円30銭もする桐台の高級下駄を買い、お客に差出し、急場をしのいだのでした。
 大正初めの話、一流の寄席の木戸銭が20銭の時代。1円30銭といえば、現在の1万円くらいの感覚でしょう。

 ぞうり


 ところで、この下足の扱い、具体的にはどのように行っていたのでしょうか?

 「花のれん」には、このように描かれています。

(前略)多加は、すぐ紋付の袂を身八口(みやつくち)にはさみ込み、褄を裾短かにつまみあげて、土間に下り、自分も客の下足を取った。
「へえ、毎度おおきに、あんさんのお履物は三十八番さん!」
 客の脱いだ履物を受け取って、合札(あいふだ)を渡す。下駄は、鼻緒をすげた表側同士の上合せ、靴は底合せにして、下足札のついた紐でくるっと、廻しにしてくくる。この場合、下足紐は履物を吊る掛釘にかかるだけのワサ分を残して結ぶことと、履物を掛釘に吊った時すぽっと脱け落ちぬよう、履物の中程をうまい工合にくくり込むことが下足取りのコツだった。 (五)


 私がまず感心したのは、下駄など鼻緒のある履物は、鼻緒同士を合わせてくくり、靴は底を合わせてくくる、ということです。
 確かに、鼻緒にひもを掛けると、鼻緒が傷んでしまうので、それを防ぐ工夫なのでしょう。

 そして、もっと驚いたのが、くくった履物にワサ(輪っか)を作って、壁などに打ったクギに引っ掛ける、ということでした。
 
 これまで、漠然と抱いていたイメージでは、下足は下足箱(下駄箱)に入れて収納しておくのでは、というもの。
 みなさんも、お寺などの拝観に行かれると、入口に大きな棚のような下足箱があるでしょう。あのイメージだったのです。

 ところが、クギに掛ける(吊るす)という……
 なんだか虚を突かれた思いでした。

 それで、事典を調べてみました。
 ちゃんと「下足」という項目があり、次のように書かれています(加太こうじ氏による)。

 客などが座敷へあがるためにぬいだ履物を下足という。
 江戸時代から芝居小屋、料亭、寄席、遊郭、集会所、催物場などが、下足番を置いて客の履物をあずかって下足札をわたした。旅館も客の履物をあずかるが、昔の旅客はわらじ履きだったので下足札はわたさなかった。それゆえ旅館では下足とはいわない。

 明治末から東京にデパートが開店したが、初期には店内に緋もうせんやじゅうたんなどを敷きつめて、客の履物をあずかってスリッパあるいは上草履(うわぞうり)に履き替えさせて下足札をわたしたこともある。1923年の関東大震災以後は履物を履いたままはいれるほうが便利なので、下足番を置くところは少なくなった。

 下足札は10cm×5cmぐらいの長方形の板で番号などが書いてあった。
 すし屋でイカの足をゲソというのは下足からきた符丁である。
 花柳界では下足とはいわないで、<おみあし>といった。(平凡社『大百科事典』)
 

 下足札の大きさについては、「花のれん」にも、札が足りなくなったので慌てて2寸×1寸(約6cm×3cm)の木札を作ったとありますから、そのくらいの大きさだったのでしょう。

 いつから下足預かり制から土足OKになったのか、これはよく言及される点ですね。
 劇場などでも、大正時代になると、席まで自分で履物を持ち込むところも登場します。

 ところが、預かった履物をどのように管理するのかは、なかなか分かりません。
 江戸時代でも、明治以降でも、百人単位の大人数が集まる機会はいろいろとあったでしょうけれど、履物をどのように管理していたのか、とても気になるところです。
 この小説の記述がほんとうなら、ちょっと疑問が解消したと言えるでしょう。

 キムラ 寺町・キムラの下足番


 法善寺横丁の「お茶子」

 その後、多加は法善寺横丁へ進出します。
 ここは道頓堀の南側に位置し、水掛け不動や「夫婦善哉」があることで知られている横丁です。格の高い寄席(紅梅亭と金沢亭)がありました。

 どうしても法善寺に寄席を持ちたかった多加は、金沢亭の買収をもくろみ、交渉の末、手に入れます。
 小説では「花菱亭」、史実では「南地 花月」というのがこれに当たるそうです。

 ここでも多加は策を弄し、ライバル紅梅亭に出ている落語家を獲得するために、まず紅梅亭のお茶子を籠絡するのでした。

 お茶子とは、客の世話をする女性スタッフです。
 牧村史陽編『大阪ことば事典』には、「劇場で、客の送迎接待や、その他の芝居における一切の雑用をする女の称」とあり、「また寄席では、高座の装置・小道具などの出し入れや、楽屋で芸人の世話をする女の人のことをいう」ともあります。

 このあたりの事情、とりわけお茶子を取り仕切る「お茶子頭」について、「花のれん」には次のように描かれています。

 寄席のお茶子頭は、ちょうど料理屋やお茶屋の仲居頭のようなものだった。お茶屋で仲居頭の裁量一つで、座敷の良し悪しや芸者の顔ぶれが定まるように、寄席でもお茶子頭の裁量で出番や楽屋内での人気が定まり、特に御贔屓筋の受けが違って来る。上客を桟敷に案内しながら、旦那はん、次の番替り(十五日毎に替る)からは文団治師匠が出はりますねん、どうぞその節は御贔屓にと、念を入れて貰って置くと、人気が違って来る。それに古顔で年増のお茶子頭なら、師匠達のうだつの上らない駈出し時代に、ちょいとした借りもある。それだけに、一口に寄席のお茶子ぐらいがと云い切ってしまえぬことがあった。 (七)

 小説では、「お政」という、紅梅亭から引き抜かれたお茶子頭が個性を発揮しています。
 策略家の多加は、まずお政に好きなお酒を飲ませて味方にし、それを伝手に落語家の大師匠をくどいて、花菱亭の舞台に上げたのでした。

 お茶子は、桟敷客などの上客から心付けをもらうので、お茶子頭ほどになると1日に10円ほども稼いだと言います。今でいうと、1~2万円ほどの額になります。

 このような「古きよき時代」があったのですが、劇場が椅子席になり、近代化していくと、下足預かりも必要なくなり、お茶子の出番も減っていきます。

 大阪歌舞伎座 大阪歌舞伎座(番付より)

 昭和7年(1932)に新築開業した千日前の大阪歌舞伎座は、鉄筋コンクリート造7階建(地下1階)、3,000席を擁する近代的な劇場でした。
 その開業時の番付を見るとおもしろいことが書かれています。

 「御履物は、靴、草履が御便利です」とあり、「地階にお履物をお預りする用意がございますが、場内はなるべく靴、草履がご便利です」と記してあります。
 ここで預かってくれる「お履物」は、下駄を指していると思われます。
 以前は博物館などでも、下駄から履き替えるスリッパを置いているところがありました。下駄は、カランコロンと床に響いてうるさいのです。
 そのため、靴や草履を履いてもらい、下足預かりを極力やめるようにしました。

 また、お茶子ならぬ「案内人」については、次のように記されています。
 「案内人へ御祝儀のお心付は堅く御辞退申上げます。総て案内人には(番号)が付けてありますから不行届の点は御面倒ながら事務室までお知らせ願ひ上げます」。

 どうも今と変わらないなぁ、と思わされます。
 昭和の初め頃、興行界でも「大衆化」が進んで、現在に続くシステムが出来上がっていったのでした。

 作品では、お茶子頭のお政について、このように締めくくっています。

 多加は(中略)下駄や靴のままで入れるようになった高麗橋の三越を見て、寄席も下足なしにしなければと気付いた。昔ながらの寄席気分を味わう通の客の多い法善寺の花菱亭を除き、あとの寄席は桟敷だけを残して全部、椅子席にし、お茶子の案内や下足なしで気軽に入れるようにした。これを機会(しお)に、四十を過ぎても甲斐性無しの亭主と別れられず、急に白髪の増えたお茶子頭のお政は、
「椅子席の寄席ができるようでは、お茶子の先も見えてるわ」
 と、祝儀を蓄め込んだ金で、小料理屋の権利を買った。千日前の播重の近くに開く店のために、多加は、金一封二千円を祝い、屋号を、『花衣』と、付けてやった。 (十二)





 書 名 「花のれん」
 著 者  山崎豊子
 刊行者  新潮文庫
 刊行年  1961年(原著1958年)



庶民が弓を射ることがブームだった明治時代、けれども円山公園には今でも射場がある

洛東




園山大弓場


 大正時代の日記にも登場する「大弓」 

 昨年から途切れ途切れに、市川箱登羅(はことら)という歌舞伎役者の日記を読んでいます。

 最近読んでいた大正2年(1913)のところに、こんな記述が出て来ました。

 四月二十六日 (中略) 夜飯後芦辺館へ行 九女八の安宅ヲ見物いたし 帰り掛け晴月へ立寄久々ニテ大弓を引 (「市川箱登羅日記」菊池明 翻刻) 

 箱登羅は、中村鴈治郎の長男・林長三郎と一緒に、大阪・千日前にある劇場・芦辺倶楽部(あしべくらぶ)へ行きました。そこで、市川九女八(くめはち)という女性俳優の「安宅」(あたか、歌舞伎の舞踊)を見ました。
 帰り、久しぶりに「晴月」に立ち寄って、大弓を引き、夜遅くに帰宅したのです。

 この中で、私が興味を持っているのは、市川九女八という俳優と、それを箱登羅が見たということなのですが、どうしても引っかかるのが「大弓を引」という一節なのです。

 そういえば、この箱登羅日記には、しばしば大弓を引いて遊ぶ記述があったような……
 これって、どういうことなんでしょうか。


 円山公園にある大弓場

 そんな春の一日、何の用事の帰りだったか、岡崎公園から知恩院へ歩を進め、円山公園に入りました。
 そうそう、この辺は「いもぼう」のお店がたくさんあったなぁ、この店、学生時代に来たことがある、などと思いながら、公園の北端の道を西へ歩いていました。

 そろそろ公園を抜けようというそのとき、目に留まったのが、この店でした。

 園山大弓場

 あれ、これは!

 園山大弓場

 「健康は弓から/大弓射場/園山」と書いてある。

 へぇ、今どき弓を引く店があるのか、と思って内を覗くと、確かに営業されている様子。
 さすがに入る勇気はないのですが、写真だけは撮影。

 軒下の看板は、年季が入っています。

 園山大弓場 「弓場」の額

 後日、インターネットで調べてみました。
 すると、園山大弓場というウェブサイトが出て来たのです。

 それによると……

 園山は「えんざん」と読み、歴史は幕末にさかのぼります。
 浪人となった萩藩士・福井元造は、日置(へき)流弓術の免許皆伝の腕前で、文久2年(1862)、現在の円山公園の一画(山鉾収蔵庫の辺り)に大弓場を開いたと言います。
 幕末の政情の中、元造は捕えられ獄死しますが、その後も大弓場は息子・長次郎、孫・清之助に引き継がれました。
 明治20年(1887)頃、北方の現在地に移転し、いまのご当主は6代目なのだそうです。

 ということは、150年の歴史を持っているわけで、老舗ですね。

 ウェブサイトを見ると、ふつうに毎日営業されていますし(定休日あり)、一見の人(非会員)でも練習できるよう。800円からと値段もリーズナブルです。しっかり指導もしていただけ、用具も貸してもらえるそうなので、初心者でも手ぶらで行けそうですね!


 大弓、半弓、楊弓

 ところで、この大弓、「だいきゅう」と読みます。
 今日行われている弓道で使われている本式の弓です。かつては7尺5寸(約2m27cm)ばかりあり、現在競技で使用されているものは7尺3寸(約2m21cm)が並寸です。身長によって、若干寸を詰めたり伸ばしたりするそうです。

 これより短い弓に半弓(はんきゅう)があります。
 例えば6尺3寸(約1m90cm)ほどで、座ったまま射ることが出来ます。
 
 さらに、楊弓(ようきゅう)というものもあります。
 これは、楊柳(ヤナギ)で出来たさらに短い弓で、2尺8寸(約85cm)などの長さ。遊び用の弓です。

 立射

 こういった本式の弓や遊戯用の弓が、江戸時代から併存していたわけです。
 それが明治維新以降も続いていきます。

 明治初期に開かれた新京極は、京都随一の娯楽街として発展します。この街にも、弓を射ることが出来る娯楽場がありました。
 今でも、縁日や温泉場に射的(しゃてき)場があるように、明治時代には弓を射て遊んだのです。

 明治9年(1876)、新京極には大弓を射るところ9軒、半弓が3軒、楊弓が15軒あったそうです(守屋毅『京の芸能』)。
 かなりの軒数ですが、過半数が楊弓場でした。

 同じ年に刊行された『明治新撰西京繁昌記』には、これらが詳しく紹介されています。
 大弓の店について、「播山」「柴山」「亀山」「文山」などという店があったと記しています。円山公園にある大弓場が「園山」でしたから、いずれも「山」が付いています。何か意味があるのでしょう。

 説明文に、リアルな絵が添えられています。
 片肌脱ぎをした袴姿の男が、立って大弓を射ています。足元には、4、5本の矢が見えます。
 店の奥に黒っぽい幕が張ってあり、そこにアトランダムに大小の的が取り付けられています。右の壁には、4本ほどの弓が立て掛けられており、矢のストックも置かれています。
 男の左には、煙草盆を前に座り、キセルをくわえている男がいます。連れなのでしょうか。

 的

 一方、同書には、楊弓の店も紹介されています。
 そこには、「今の楊弓ハ(中略)子供遊びの戯ふれの玩弄物」だと書かれています。

 何故か滅多無性に流行し、踵(きびす)を接ぎし遊客冶郎、夜を日に続で絶間なし。
 楊弓店の有名なる者、都山(とざん)といひ、玉山(ぎょくざん)といふ。其他名称衆多、枚挙に暇あらざるなり。


 なぜか分からないけれど、めったやたらに流行していて、お客が一杯来るというのです。ここも「山」の付く店のようです。

 ところが、読み進めていくと、? という記述が続いています。
 店の者は「皆婦女子」で、「三五の女」や「二八の娘」、つまり3×5=15歳とか2×8=16歳位の年頃の娘さんが、美しさを競って接客しているというのです。彼女らは、お客さんに対面して、右手に弓を取り左手で矢をつがえ(つまり通常の逆向きで)、見事に射るのだそう。
 これはまさに「武用に益無」い、女性との遊びと化しているわけです。
 お客も「書生」「丁稚」から「山僧」まで、さまざま。

 ここにも絵が添えられていますが、着流しに兵児帯を占めた男と、前垂れをした女が向かい合って座っている様子です。小さな衝立が、弓を射る店とも思えず、なにやら小料理屋のような雰囲気を醸し出しています。

 ちなみに、絵と本文については、国立国会図書館ウェブサイトの近代デジタルライブラリーで自由に閲覧できます。


 武道から遠く離れて

 昔、時代劇を見ていると、江戸の話なのでしょうが、矢場(やば)というものがよく出て来ました。
 弓を引いて遊ぶところで、やはり必ず女性が相手をしていて、矢が当たると「当たぁ~りぃ~」なんて言って太鼓を打ったりしていました。
 
 槌田満文氏の『明治大正風俗語典』は、楊弓店について詳しく解説しています。
 それによると、大弓はスポーツなのですが、楊弓は風俗営業なのだそうです。
 
 ここまで出てきた箱登羅日記の大弓や、円山公園の園山は、健全な運動としての娯楽です。
 ところが、楊弓は、弓を引くのは仮の姿で、実の目的は女性なのだ、ということでしょう。
 
 槌田氏は、楊弓店では「矢が的に当たれば「カチン」はずれれば「ドン」と音を立てた」(248ページ)と書いています。
 つまり、「ドンカチン」というわけですが、大阪でも明治時代の娯楽に「ドンカチン」というものがあって、これは的に当たると滑稽な造り物が上から落ちて来る、とうい類のもの。この店で、女性が出した桜の湯を飲むと、弓矢以外のことを承諾するサインになったのだそうです。

 京都でも大阪でも東京でも、同じようなことをやっていたわけです。
 しかし、これらの営業も、取り締まりの関係で明治後期には廃れたということです。




 園山大弓場

 所在  京都市東山区円山公園北林
 見学  弓道場として営業(非会員800円~)
 交通  京阪「祇園四条」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 増山守正「明治新撰西京繁昌記」1876年(『新撰京都叢書』所収)
 槌田満文『明治大正風俗語典』角川選書、1979年
 守屋毅『京の芸能』中公新書、1979年
 菊池明翻刻「市川箱登羅日記」(「歌舞伎 研究と批評」各号)
 高橋好劇「千日前覚え帳」(「上方」10号、1931年)


雑誌「上方芸能」が200号で終刊

京都本




「上方芸能」 「上方芸能」


 48年の歴史にピリオド

 関西の芸能を中心に取り上げ、48年間にわたって刊行されてきた雑誌「上方芸能」が、明日(2016年5月10日)発売の第200号で終刊します。

 文楽、歌舞伎といった、いわゆる古典芸能から、落語、漫才、さらにはテレビ番組やCMまで、幅広いジャンルを扱ってきました。
 同誌のウェブサイトにも、「雑誌『上方芸能』は、1968年4月26日に「上方落語をきく会」の会報として創刊されました。当初は落語中心の内容でしたが、徐々に上方(京阪神)の芸能全般を取り上げる雑誌へと進化していきました。
 現在では能・狂言、歌舞伎、文楽、日本舞踊、上方舞、邦楽、現代演劇、歌劇、落語、漫才など、幅広いジャンルを毎号取り扱っています」と紹介されています。


 1968年(昭和43)といえば、まだ万博(1970年)前ですね。
 テレビがお茶の間(これも死語ですが)に進出しつつあった時代で、確かに伝統芸能を省みるといった雰囲気でもなかったかも知れません。

 今たまたま手もとに25年ほど前の号があります(111号、1992年5月)。
 ページを開いてみると、実にさまざまな記事が並んでいます。

 特集は「笑いの海へ <上方お笑い大賞>の20年と演芸界」。
 バブル経済がはじけた1992年から、20年前の1972年を振り返っています。

 山口洋司・読売テレビ編成局次長は、上方お笑い大賞が創設された頃の記憶を蘇らせます。どのように審査対象となる芸人たちを探し出したのか?(適宜改行しています)

 富士正晴、小松左京、秋田實、田辺聖子、このそうそうたる四氏がはじめの審査員である。

 当時角座、新花月、神戸松竹座、うめだ花月、なんば花月、京都花月、コマ・モダン寄席と七つの寄席が賑わっており、事務局としてはどんな演者がどこに出ているか、の情報もさることながら各寄席の担当を決めて十日ごとに変わる各席を見て、毎月集約、これぞと思うものは審査員に見てもらうように計ったりしていた。

 寄席だけでなくもちろん独演会などもフォローした。月に一回、天王寺[てんのじ]村にあった寄席からはみ出された古い演者を一手に引き受けて手配している団之助芸能社に出向き、ヘルスセンターや村祭りなどの演者の出演状況なども調べ、実際に現地へ出かけたりもした。和泉府中にある穴師神社の秋祭りでの出羽助・竹幸あたりの老漫才師コンビが、バイオリン片手に枯れた芸を祭りの賑わいの中で見せていたのは何とも言えない味わいであったのを覚えている。

 ジャンジャン横丁の中ほどにある新花月は、迷路のような所を抜けて、きしむ階段を上がると大部屋の楽屋だが、その裏口で七輪のさんまを団扇でバタバタ焼いていた老夫婦漫才師の姿も忘れられない。一旦舞台に上がると客席がひっくり返るように笑わす、さすがのキャリアであろう。

 その新花月に尾崎れい子という河内音頭を絶唱する19才の演者がおり、その小気味よい歌いっぷりと健康的なお色気に客席はやんやの喝采、ラジオ・テレビでなく寄席小屋が生み出すスターに注目し審査員に推奨したりもしたが、その後、誰かに目をつけられたか突然上京というようなこともあった。

 マスコミの陰に隠れている部分もなんとか拾い上げたいという気持ちから網を大きくはって来たと言える。(「寄席の芸からテレビ中心の時代へ」)


 現在からすれば、40年余り前の大阪の芸能界が、くっきりと表れています。
 演芸というものが、まだレンズやブラウン管を通さずに、生身の人間同士のなりわいとして成り立っていた時代の姿。
 筆者の山口氏は、その光景を20年経っても忘れていないのでした。

 そんなお笑いの世界も、1992年当時、すでに寄席は減少し、テレビが主体、それもトーク番組が幅を利かせるように変わる中で、笑いも「拡散」していくのでした。


 時評に歴史的意義も

 「上方芸能」は、同時代の芸能への批評に力を入れてきました。つまり、「いま」の芸能と一緒に走って来た雑誌といえます。
 例えば、同号では、トミーズの漫才がおもしろいと各所に記されています。
 いま、トミーズ(健と雅)はテレビでよく見かけるけれど、さすがに漫才は見ませんよね。でも、25年前は二人の漫才が「一番おもしろい」とさえ書かれているのです。

 四半世紀後に振り返ってみると、こういう記載はなかなか興味深いものがあります。
 おそらく、百年後に振り返る人がいたら、もっと関心が持たれるのではないでしょうか。必ずや歴史資料になります。

 また、連載も渋いものが揃っています。同じ号を見てみると……
 桂米朝「上方落語ノート」、土居原作郎「関西テレビドラマ展開史」、樋口保美「大阪朝日新聞にみる動き 明治の大衆芸能史」、権藤芳一「武智鉄二 資料集成」、三田純市「道頓堀日記」などなど。
 本になっているものも、ありますね。

 産経新聞(5月9日付)の朝刊は、「さよなら『上方芸能』」という特集記事を掲載しました。
 発行人の木津川計さんのコメントが載っています。

 大阪は「がめつい」というイメージもありますが、実際は人情の町で、文化的な平和都市です。文化芸能の発展には検証・批評し、展望する媒体が不可欠。

 などと述べられています。

 「上方芸能」は、上方(京阪)、関西の芸能を取り上げる雑誌でしたが、やはり大阪色が強かったという印象です。
 編集部も大阪市内にありますけれど、在阪テレビ局が大阪市に所在するため大阪中心になりがちなのと似たような印象があるなぁ--と京都人の私は、少し感じてしまいます。

 いま書棚を見ると、「文化のチカラ-大阪の明日へ-」という特集号(164号)があります(別に大阪特集でいいんです)。
 そこには、上方歌舞伎をどう復活させるか、大阪文学の隆盛をどうしたら取り戻せるか、ということに対して、山田庄一、服部幸雄、今尾哲也、上村以和於、藤本義一、大谷晃一、有栖川有栖といった錚々たる面々が提言を寄せています。
 私がこの号を買ったのも、上方文化の低迷を悩ましく思っていたところがあったからでしょう。
 
 その号は、2007年6月の発行。
 それから状況がよくなったとは決して言えず……

 この隔靴掻痒感が、もどかしいのです。

 「上方芸能」の表紙には、「芸能文化の広がる都市に」という言葉が掲げられています。
 この数十年、上方で、関西で、芸能文化は広がって来たのでしょうか。

 「上方芸能」は、失って存在の大きさが分かる雑誌になると思うのですが、木津川氏が言われるような “第二の「上方芸能」”の登場は、果たして実現するのでしょうか。




 書 名 「上方芸能」
 刊行者 『上方芸能』編集部
 刊行年 1968年~2016年

【新聞から】発掘調査で分かった食い違いのある街路のナゾとは…





東洞院通


 秀吉流 ずらして防御 京の町 
 戦乱想定「碁盤の目」再整備
 産経 2016年5月3日付 


 大型連休中、産経新聞の朝刊1面に大きく出た記事。
 おそらく大阪本社版だけだとは思うのですが、意外に大きな扱いです。

 もっとも、最近は豊臣期に関する発掘のニュースも多く、聚楽第や指月伏見城の石垣なども出土していますから、関心が高まっているのでしょうか。それとも、いまだに “太閤さん” 人気のなせるワザなのか? 産経は大阪色の濃い新聞なので、こうなったのかも知れません。

 記事が取り上げたのは、三条東洞院の交差点(中京区)付近。
 現在、この場所に行くと、交差点が微妙に食い違っているのが分かります。つまり、クルマで走ると、少し曲がらなければ交差点を通過できないということなのです。

 東洞院三条角
  食い違っている東洞院通(南から北を望む)

 写真でも分かるように、北東角にあるレンガの建物(中京郵便局)が飛び出していますよね。

 次は、三条通の写真です。

 三条東洞院角
  食い違っている三条通(東から西を望む)

 左奥のお店が張り出していますね。

 国土地理院の正確な測量図を見ると、確かに三条通も東洞院通も、この交差点で食い違いをみせています。
 もっとも、地図を見ていくと、このような食い違いは各所にあり、ここだけというわけではありません。

 記事では、かつての東洞院大路が、三条通との交差点を境に、直線的な街路から、ずらした街路に作り替えられていることがわかった、として、ずれた道のマージンに沿って民家が建てられてゆき、見通しを悪くしたとしています。
 その理由として、見通しがよい平安京は防御向きではないので、秀吉が戦乱を想定して、守りやすい見通しの悪い交差点を作ったと考えられる、とまとめています。

 実は、つい1週間ほど前、ある集まりでこの話が出たのですね。まさに、この東洞院通と三条通のことも。
 発掘調査を行えば、古い時代から新しい時代に至る土地利用の変化が分かります。それを追って行けば、通りをずらして家屋にしたことが分かるわけです。
 できることなら、文献史料など別の資料によって、これを裏付けられればよいですね。何らかの資料があるのだとは思いますが、残念ながら記事には触れられていません。
 


女義太夫のアイドル・竹本綾之助は美少女?、それとも美少年 ! ?

人物





  星と輝き花と咲き 松井今朝子『星と輝き花と咲き』 講談社文庫


 女義太夫の世界にひたる

 大型連休中は、お出かけの方も多いことでしょう。
 私は、仕事柄、どちらかというと出勤の方が多いので、行き帰りの電車の中で読書にふける、というのがレジャーになっています(笑)

 しかし、おもしろい本を見付けたのですね。小説です。

 松井今朝子さんの『星と輝き花と咲き』(講談社文庫)。

 松井さんは、京都・祇園のお生まれだそうで、早稲田の大学院から松竹に入社され、のち武智鉄二に師事されたという、歌舞伎の世界のいいところを歩いて来られた方。ぴあの歌舞伎本は著名ですし、お芝居の普及に力を注がれていますよね。小説家としても時代小説を中心にたくさんの著書があり、『吉原手引草』で直木賞を受賞。
 その松井今朝子さんが、竹本綾之助という女性の人生を描いた小説が『星と輝き花と咲き』(2010年)です。

 竹本綾之助(たけもと あやのすけ)。

 といっても、いまは忘れられた存在です。
 彼女は、明治の初め、大阪で生まれ、幼少より義太夫節に天賦の才を認められ、東京に行って大活躍。今でいう “追っかけ” のファンがいっぱいできた「元祖アイドル」なのです。
 
 義太夫節というと、文楽(人形浄瑠璃)で聴ける語りものですよね。
 裃(かみしも)をつけた太夫(たゆう)さんと、三味線を弾く人がコンビになって、いろんなストーリーや登場人物のセリフを聴かせてくれます。
 義太夫節(以下、義太夫)は、大阪が発祥で、昔はふつうのおじさんなんかが稽古して、素人名人会みたいなものも盛んに行われていたほど、好まれていた芸能です。
 プロの太夫も、基本は男性なのですが、それを女性がやる場合、特に「女義太夫」とか「娘義太夫」と言いました。

 この女義太夫は、江戸時代から、江戸でも盛んに行われていました。はやりすぎて禁止になったりもするのですが、明治時代になると、大阪の竹本東玉や名古屋の竹本京枝らが東京に出て、ブームとなりました。
 もちろん、ファンは女性が語るから聴きたいという、ちょっとやらしい気持ちもあったんだと思います。だから、逆に言うと、少々軽蔑されていた芸能でもあって、「タレ義太」なんて馬鹿にされたものです。「タレ」は、人形浄瑠璃業界で「女」を指す言葉なんだそうです。大阪では、「あほたれ」など、「○○たれ」というと蔑称になるんですが、そこから来ているのかも知れません。

 その明治の東京の女義太夫界に、忽然と現れたスターが竹本綾之助だったのです。
 

 綾之助の美声と美貌

 小説の中で、綾之助は「ぼん」「坊や」、つまり男の子みたいで、いつも男の子に間違われると描かれています。
 彼女の写真はたくさん残っているので、その顔だちはよく分かります(インターネットでも検索できます)。
 面長で、目は切れ長、あまり男の子という感じもしませんけれど、表情はきりっと締まっているので、髪型や衣装次第ではそう見えるのかも知れません。なにせ10歳そこそこの話です。

 綾之助は、明治8年(1875)生まれですが、12歳でデビューしています。いくら昔と言っても早熟です。

 明治大正の民衆娯楽 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』岩波新書

 私の本棚に学生時代から並んでいる倉田喜弘さんの『明治大正の民衆娯楽』には、当時の評判記に書かれた綾之助評が紹介されています(句読点を変更し、濁点を加えています)。

 声自在に出でゝ至りて通り善く、節わだかまりなくまはりて、密(こま)かに行渡たり、怜悧(りこう)に語りこなして、仲々に貫目あり。別けて詞(ことば)巧み。(160ページ)

 綾之助の声は、とっても通りがよくて、その上げ下げも自在だったのでしょう。つまり、美声の持ち主でした。
 もっとも、大阪の義太夫界では、美声よりも味わいのある声の方が好まれる傾向があります。むしろ、「濁り」がある方がよいという見方もあります。
 このあたりのことを松井さんは作品の中で、こう書いています。

「いやいや、あっしゃ坊ちゃんの巡礼唄に心底しびれちまった。ちゃんと腹の底から出した義太夫節の声で、ああいう花のある甲声(かんごえ)が聞かせられるのは、さしずめ越路太夫か、この坊ちゃんくらいですよ」

 天下の越路太夫と比べられてはさすがにお勝の顔も面映ゆげだが、一瞬そこに何やらハッと気づいたような表情が浮かんだ。

「なるほど、そういうことだっか。太夫の名人はほかにいくらもあるのに、なんで越路さんだけが東京でそこまで受けるんか、あてはずっとふしぎに思てましたが、きっと東京のお人は高い声がお好みなんやろ。千歳座で見た菊五郎はんの踊りでも、清元たらいう地方(じかた)がえらい甲高い声でおました」 (59ページ)


 もちろん、綾之助は評判記に「容色絶倫、技芸絶妙」とあるくらいですから、義太夫が上手だったのはもちろんですが、通りのよい高い声に加え、美しい少女だということで人気が出たのは事実でしょう。

 長谷川時雨も、「わが竹本綾之助、その女(ひと)もその約束をもって、しかも天才麒麟児として、その上に美貌をもって生まれた」と書いています(『新編 近代美人伝』151ページ)。

 近代美人伝 長谷川時雨『新編 近代美人伝(上)』岩波文庫


 熱いファン “ドースル連”

 そんな綾之助ですから、ファンもめちゃくちゃ熱くて、追っかけがいたくらいでした。
 ファン層は、主に書生(学生)。
 彼らは「ドースル連(れん)」と呼ばれたのですが、その説明は、笹山敬輔さんの奇書?『幻の近代アイドル史』でみておきましょう。

 明治から大正にかけて、娘義太夫にハマったファンたちは、「ドースル連」と呼ばれていた。ドースル連は、「追っかけ連」と呼ばれることもあったように、自分の推しメンを追っかける熱心なファンのことである。
(中略)
 この名前は、曲のクライマックスで一斉に「ドースル、ドースル」と掛け声をかけたことに由来している。ここぞというところで声をあげるのだから、今のMIXやコールと同じであろう。
 なぜ「ドースル」という掛け声なのかを問うことにそれ程意味はない。(中略)自然発生的なものが定着していったのだろう。(23ページ)


 いやぁ、やっぱり、なぜ「ドースル」なのか、知りたいですよね(笑)
 
 ドースル以外にも、「ヨウヨウ」とか「トルルー」というのもあったとか……
 「トルルー」ってなに??

 幻の近代アイドル史 笹山敬輔『幻の近代アイドル史』彩流社

 当時のドースル連は、学校によって推しメンが分かれていたそうです。

 そうそう、私はこの「推(お)しメン」という言葉が分からなかったのです。
 調べてみると(笑)、イチ推しのメンバー、という意味だとか。

 それはともかく。
 「慶応は綾之助、明治は竹本小土佐、早稲田は竹本住之助であったという」(34ページ)

 学校ごとに違っているなんて、意外ですね。
 小土佐も住之助も、人気と実力を兼ね備えていました。ちなみに、俳人の高浜虚子は「われは小土佐に恋せり」と言うほど、彼女の大ファンだったそうです。

 ドースル連の若者たちは、綾之助の乗る人力車を追っかけて行ったり、新聞に投書して、さながら投書合戦の様相を帯びたりと、それは熱いものでした。
 笹山さんの本を読むと、ファン心理って昔も今も同じだなぁと、うならされます。

 そんな大ブームを巻き起こした綾之助ですが、人気が出るにつれ、意外な展開が待ち構えています。
 お話ししたいのはやまやまですが、それは読んでのお楽しみ!

 『星と輝き花と咲き』、ぜひ読んでみてください ! !




 書 名  『星と輝き花と咲き』
 著 者  松井今朝子
 出版社  講談社(講談社文庫)
 刊行年  2010年(文庫版は2013年)