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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

まいまい京都のツアー & 京都新聞の記事

その他




小西家住宅


 京都新聞「凡語」に紹介

 折にふれてお世話になっている<まいまい京都>さん。
 京都の街を歩くさまざまなツアーを企画、実施されています。

 まいまい京都
  まいまい京都でガイド中(粟田口編)

 その<まいまい京都>が、京都新聞の「凡語」欄(「天声人語」のようなコラム)で紹介されました(2016年3月30日付)。
 コラムによると、3月で発足5周年だそうで、のべ参加者数は2万2千人以上にのぼるといいます。
 1ツアー15人から20人なので、1,000ツアー以上実施したことになりますね。

 記事では「専門家でない市民自らが案内する」ガイドぶりがユニークだとして、「知識を押し付けず、地域の愛し方や見方を参加者と共有し一緒に楽しむ」という点が評価されています。
 
 そうなんですね、ガイドする人の「愛」を全面に出して案内するところが<まいまい京都>のおもしろいところです。
 私も、最初のときに、言われたんですね、「愛を出してください」って(笑)
 語る人の熱っぽさが参加者に伝わって、聴く方もおもしろくなってくるという好循環があるのです。

 凡語子は「多様で奥深い京都観光の在り方を開拓する貴重な活動を見守りたい」と締めくくっています。

 いちおう「京都観光」となっていますが、<まいまい京都>のツアーは、いわゆる「観光」ではないですよね。といって、勉強会や研究会でもない。“知的な楽しみ” を共有するサークル活動といったところでしょうか。


 <まいまい京都>で、大阪ツアー ! ? 

 ということで、記事が出るとも知らず、その数日前、私も案内してきました。
 今回は、いつもと違って大阪遠征です。

 タイトルは「びっくりポンな商いのまち! 学芸員と大阪歴博から船場まで~豪商が軒を連ねた大阪の中心地、モダン大阪ものがたり~」。
 こういったキャッチは、いつも事務局が考えてくださいます。とっても上手で、人気の秘密のひとつでしょう。

 ということで、タイトルだけで、どこに行ったか分かるのですが(笑)、いちおう紹介。

 大阪歴史博物館(中央区・谷町四丁目)で、小1時間ほど模型などを見てお勉強したあと、そこから歩き始め。
 まず、谷町周辺の背割り下水の痕跡を探ります。これは地形ウォッチングでもあり、両側町の理解でもあります。
 そのあと、西町奉行所跡へ。ここは現在、大阪商工会議所になっていて、まさに「びっくりポン!」の ディーン・フジオカ像、じゃなかった、五代友厚像があります(って現地で言ったんですよ、ネタくりすぎですね)。

 本町橋 本町橋

 でも、その銅像の写真はないので……、本町橋を代わりに載せておきます。100年余り前に出来た名橋。

 そのあと、鉄商として著名な岸本家を訪れ、東横堀川と水運について考えたり。壁をなでながら、人造龍山石の話をしたり。

 岸本瓦町邸 岸本瓦町邸

 接着剤ボンドで有名な小西家で表屋造を見て、その裏で町割りについて考えたり。三越百貨店の昔話をしたり。ちなみに、三越は三井越後屋で、このあたりの地所も三井が所有していたので、あさちゃんの実家に関係ありですね。

 小西家住宅 小西家住宅の裏

 そこから堺筋を越えて、船場の近代建築を見たりしながら、淀屋橋で解散しました。

 日本基督教団浪花教会
  オペラ・ド・メーヌ高麗橋と浪花教会

 徒歩で4㎞ほどあったようですが、2時間でやり遂げてしまいました。
 
 参加者の過半数は、大阪の方でした。地元にお住まいでも、その歴史は案外知らないもの。再認識の機会になったでしょうか。
 また、9割方が女性でした。これはもう、朝ドラの影響でしょうね!
 
 5周年を迎えた<まいまい京都>の発展を応援したいと思います。


  まいまい京都



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堀川を越えて、再び椹木町通を歩く





椹木町通


 昼食、そして堀川通の西へ

 御所の西から歩き始めた椹木町通(さわらぎちょうどおり)。
 前回は、堀川に架かる椹木町橋まで歩きました。

 堀川通
  椹木町橋と堀川通

 ところが、不思議と言えば不思議なのですが、この橋を渡っても、堀川通を横断することはできません。
 横断歩道もなく、中央分離帯があるので、横切れないのです。
 仕方ないので、丸太町通に出て、昼食をとることにしました。

 堀川
  堀川

 今日の昼食は中国料理店なのですが、最近私の職場で話題になっていた店です。
 堀川通丸太町東入ルにある「チャーミングチャーハン」というお店。

 チャーミングチャーハン

 店名も変わっているのですが、メニューはもっと変わっています。
 というのも、焼き飯にチャーハンがつくセットがあるのです(笑) 頼むと、チャーハンが2皿出てくるという、なんとも言えないメニューです。
 これがおかしくって、一時かなり話題になったそうです。

 要は、いろんな料理をチャーハンセットにできるということなのです。
 だから、チャーハン+チャーハンも可能ということ。
 でも、店内でよく確かめてみると、大盛りもできるようなので、そちらでよいと思うのですけれど……
 まぁ、夫婦善哉(めおとぜんざい)みたいに、2人で行ったときに頼むのかな?

 私は、さすがにチャーハン2皿はためらわれたので、ラーメン+チャーハンのセット(650円也)を注文しました。
 どちらも美味で、おいしくいただきました。


 “下駄履き住宅” 堀川団地

 満腹になったところで、再びスタート。
 堀川丸太町の交差点を横断し、1筋北の椹木町通を進みます。

 椹木町通
  堀川通から西を望む

 すると、こういう階段があるのですね。

 堀川団地

 得も言われぬ雰囲気が漂っています。
 堀川団地です。

 堀川団地は、昭和20年代後半に堀川通の西側に建てられた鉄筋コンクリート造の店舗付き集合住宅。
 もともと、堀川の西には「堀川京極」と呼ばれる商店街がありました。戦時中、そこが建物疎開で撤去され、終戦後に幅員の広い堀川通が誕生。通りに沿って団地が建設されたのです。

 3階建の住宅なのですが、1階は店舗になっています。俗に言う「下駄履き住宅」で、日本初なのだそうです。

 堀川団地
  堀川団地(椹木町団地)

 堀川団地は、中立売通から丸太町通までの間に、6棟建設されています。
 いま見ているのは、椹木町団地。一番南にあって、昭和28年(1953)に建てられました。

 ちょっと思い出したこと。
 昨秋、大正初期の西陣の芝居と劇場について調べていたのですね。その関連で言うと、この場所は西陣エリアの東南隅に当たるところで、西にも劇場があり、東の堀川の向こう側にも大正初めに劇場が新設されたのです。
 つまり、この辺は「京極」みたいに賑わう商店街があり、劇場もあって、西陣の端だけれど生き生きとした地区だったということですね。

 でも、いまはちょっとひっそり。
 団地については機会を改めるとして、また椹木町通を西へ進みましょう。


 あの人の実家の酒造会社も

 さらにぶらぶらと歩きます。
 すると、老舗らしい酒造会社が見えて来ました。

 佐々木酒造
  佐々木酒造

 佐々木酒造です。日暮通との交点にあります。
 いまさら言うまでもない有名な話になりましたが、俳優の佐々木蔵之介さんのご実家です。

 やはり佐々木酒造というと、「聚楽第」「古都」なんかを想起しますね。

 聚楽第

 明治26年(1893)創業の老舗。
 京都市街真ん中の造り酒屋さんということで、貴重な存在です。

 佐々木酒造
  椹木町通側の佐々木酒造


 そして千本通へ
  
 佐々木酒造を過ぎ、智恵光院通を渡ると、まもなく二条城北小学校です。

 椹木町通

 浄福寺通で通りは南へ屈折し、そのまま千本通へと至ります。 

 椹木町通
  椹木町通の西端(向こうが千本通)

 千本通に出て振り返ると、角に古い町家あるのが目立ちました。

 椹木町通
  千本通から東を望む

 東西に僅か1.5㎞の椹木町通。
 短いけれど、京都らしい風情もあり、老舗も多くて、愉しい通りでした。


  佐々木酒造 杉玉




 椹木町通

 所在  京都市上京区北伊勢屋町ほか
 見学  自由
 交通  市バス「丸太町智恵光院」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『京都の大路小路』小学館、2003年 
 ウェブサイト「堀川団地再生まちづくり」京都府住宅供給公社
 「堀川団地'やわらかい'まちづくり再生ビジョン」京都大学大学院工学研究科建築学専攻居住空間学講座、2012年


椹木町通は、狭い通りだけれど風情ある老舗がいっぱい





椹木町通


 御所から西へ延びる椹木町通

 今日は堀川丸太町辺に少し用事があったので、幸い天気もよいし、その近くを歩いてみることにしました。

 椹木町通。
 読みは「さわらぎちょうどおり」。丸太町通を1本北へ上がったところにある通りで、御所(京都御苑)の西=烏丸通から真っ直ぐ西へ延びています。
 
 椹木町通
  椹木町通(烏丸通から西を望む)

 椹木町通は、平安京の中御門大路(なかみかどおおじ)に相当するそうです。そのため、中御門通という呼称もあり、また魚棚通(うおのたなどおり。上魚棚通)という別称もあります。
 江戸時代の地誌「京雀」(1665年)には、通りの東の方は椹木町通と言い、西の方は魚棚通と言うと記されているそうです。

 この通りの北は下立売通(しもだちうりどおり)、南は丸太町通です。丸太町通は現在では大通りで、下立売通も2車線あってこのあたりでは狭い街路ではありません。2つの通りに挟まれた椹木町通は、車線もない東行き一方通行の道で、トラックなどが来ると、歩行者は立ち止まって避けなければなりません。

 その分、と言うべきか、古い町の面影が少しばかり残っているのです。
 今回は、この通りを東から西へ歩いてみることにしましょう。


 いきなり長屋門

 椹木町通

 烏丸通から西へ入ったところ。
 いきなり、こんな風景です。

 椹木町通

 大きな長屋門ですね。
 このあたりは、御所の西隣ですから、かつては公家屋敷や藩邸もあった地区です。この真南、烏丸丸太町の角(現・大丸ヴィラ)辺には、讃岐丸亀藩邸(京極家)がありました。また真北、下立売烏丸の角には、唐門や長屋門を持つ京都地裁の所長官舎があって、これは有栖川宮邸を移築したものです(現在は平安女学院が所有)。

 京都市明細図(京都府立総合資料館蔵)を見ると、戦前、ここは「古賀邸」だったと記載されています。しかし戦後には空地になったようです。
 現在は、航空写真によると更地ですね。
 この古賀さん、いったい誰なんでしょうか。
 ちなみに、西隣は「三井別邸」、道路の向いの南西には「島津邸」があったようです。

 椹木町通


 武衛陣町という町名

 少し歩くと、室町通と交差します。
 ここの町名は変わっていて、武衛陣町(ぶえいじんちょう)と言います。

 椹木町通

 椹木町通の北側、室町通を挟んだ両側町です。

 椹木町通

 平安女学院の脇に碑が建っています。碑自体は大正時代に建てられたようです。
 室町時代、幕府の管領・斯波(しば)氏の邸があったことから、この名が付いたと言います。五百年も六百年も前の話で、なんというか、感心するというか、ちょっと放心しますよね、このスパンの長さに。


 日赤病院と釜座通

 しばらく歩くと、第二赤十字病院が見えて来ます。

 第二赤十字病院

 通りの上に空中通路が見えてきて、京都ではこの光景は珍しいと思います。
 私は最近ここによく来ているので、慣れ親しんだ場所になってきました。

 第二赤十字病院
  第二赤十字病院

 日赤病院の前、街路樹のある広い通りは釜座通(かまんざどおり)です。
 丸太町通より南側は、ふつうの狭い通りですが、北は側道を持つ幅広い道です。これは北に京都府庁があるためでしょう。

 釜座通
  釜座通からみた京都府庁舎

 このあたりは、幕末は京都守護職があったところなので、それがなくなって広い土地が確保されたというわけです。
 いまでも、府庁、府警、日赤など官庁街的な色彩を示しています。


 とうふ、ふ、仕出し、老舗の町

 釜座通を渡ると、いきなり道は狭くなります。先ほどよりもかなり狭い印象。

 椹木町通
  釜座通から西を望む

 まず、南北の道、西洞院通(にしのとういんどおり)と交差します。
 どちらの通もたいへん狭いのです。日赤に来るとき、よく西洞院通をクルマで通るのですが、この交差点は要注意で必ず徐行しますね。
 
 西洞院通の南北には、名の知られた老舗があります。
 南には、柿傳(かきでん)という茶懐石の仕出しの店。仕出しとは、平たく言うと料理のケータリングで、こちらは表千家などお茶の方面が主だそうです。創業は享保年間と言いますから、もう300年ですね。
 北には、麩嘉(ふうか)という生麩の店。
 こちらも、江戸後期の文化・文政期にはあったそうですから、もう200年近い老舗です。

 麩嘉
  麩嘉

 この西は、東魚屋町。
 最初にお話ししたように、魚棚通という別称にふさわしい町名です。江戸時代には、魚市場があったということらしいのです。
 ちなみに、ここは上魚棚通です。
 中魚棚通が錦小路通(中京区)、下魚棚通が六条通(下京区)にあたります。
 いずれの通りにも、東魚屋町という町名があります。マップで検索してみると、3つ出来てきますね。京都では、こういう同じ町名が幾つもあるというのが多いんですね。ややこしいですが。
 
 二和佐
  二和佐(米屋町)

 小川通を越えて、油小路通と交わる手前にも、古いお店があります。
 こちらは、二和佐(にわさ)という仕出し店。
 上方、つまり京阪には、昔から仕出し店が多いのです。来訪した客人をもてなすのに、料理だけは外から出前で取るわけです。法事などもそうですね。加えて、京都では茶事がありますから、先ほどのように茶懐石の仕出しもあるという次第。東山三条の辻留なども有名でしょう。
 
 二和佐

 こちらは、大正6年(1917)の創業だそうです。大正と聞いて「新しい」と思ったら、もう神経がマヒしています。百年前ですよ。

 その斜向かいには、とうふ店。

 入山
  入山(東魚屋町)

 なんとも言えません。
 創業は、文政年間だそう。文政で驚かないのも、またマヒしている証拠です。

 入山

 この辺のお店は、別に文化財でもないし、老舗々々しているわけでもない。ふつうに地元の人が買ったり頼んだりできる店。
 こういうのがいいですね。あまり名店ぶるのもよくないですし。

 両店とも、表の雰囲気がとってもよくて、今度はとうふを買ってみることにしましょう。

 入山
  油小路通から東を望む(左は入山)

 油小路通を過ぎると、もう堀川通です。
 
 堀川通
  椹木町橋

 堀川に架かる椹木町橋。
 ここには横断歩道もないし、時間も午後1時を回ったので、一旦丸太町通に出て昼食をとってから、再開したいと思います。

(この項、つづく)




 椹木町通

 所在  京都市上京区東魚屋町ほか
 見学  自由
 交通  地下鉄「丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年 
 「京都市明細図」京都府立総合資料館蔵


京都と大坂、似ていて異なる町並みをさぐる - 伊藤毅『町屋と町並み』 -

京都本




  『町屋と町並み』 伊藤毅『町屋と町並み』山川出版社・日本史リブレット


 まいまい京都の大阪ツアー

 京都の町歩きを開催されている団体<まいまい京都>。
 今回は、ご一緒に京都を飛び出して、大阪ツアーを行うことになりました。(申し込みは既に終了しています)

 主に、上町から船場を歩くもので、3~4㎞ほどのコースです。
 この会のツアーは、いつも和気あいあいとしていて楽しいのですが、今回もマニアックな目線で大阪を理解する手掛かりを発見していきたいと思っています。


 ともに碁盤目状の町だけれど…
 
 よく知られているように、京都は平安京以来、碁盤目状の町並みです。
 そして大阪も、同様に碁盤目状の整然とした町になっています。

 伊藤毅氏の『町屋と町並み』は、江戸時代の京、大坂、江戸という三都を比較した書物です。
 100ページほどのブックレットで、平安京から中世、そして近世の京都について説明し、さらに豊臣期から近世に至る大坂の発展と、巨大都市・江戸についてふれています。図版も80点入っており、理解を助けます。

 京都も大坂も、町(ちょう)は「両側町」だと、よく言われます。

 京都の両側町
  京都の両側町(『町屋と町並み』より)

 図の網掛けになっているところ、冷泉町です。
 この町は、室町通の両側で1つの町内になっているのです。

 現代人の感覚だと、4つの道路に囲まれた四角いブロックが1町だとイメージします。ところが、京都や大坂では、道の両側が1町になるのでした。

 ところが、両者で異なる点があるのですね。

 両側町模式図
  京都の両側町模式図(『町屋と町並み』より)

 京都の町の形は、このように菱形になっています!
 もちろん模式図なので、実際にはギザギザの菱形ですね。

 例えば、インターネットのマップで、「京都市中京区山伏山町」とか「中京区鯉山町」と検索してみると、町の形が分かります。おおむね菱形で、室町通をはさんだ両側町になっているのが理解できます(模式図の黒い菱形)。

 一方、例えば「中京区橋弁慶町」を検索すると、東西の街路である蛸薬師通をはさんだ両側町だと分かりますし、「占出山町」を調べると、錦小路通をはさむ両側町として現れます(模式図の白い菱形)。

 このように、京都の場合、南北の通りにも町があるし、東西の通りにも町がある、という特徴が見られます。

 鯉山町 鯉山町


 違うパターンの大坂の町

 京都のほかに、名古屋なども菱形スタイルだそうです。
 ところが、大坂は違っているんですね。

 マップで、「大阪市中央区道修町1丁目」と検索してみてください。

 どうでしょう、横長の長方形の両側町が登場するでしょう。

 大坂の両側町
  大坂の両側町(『町屋と町並み』より)

 先ほどの道修町(どしょうまち)の南にある平野町の模式図。マップで見ても、現在もこの町が生きています。

 大坂の中心街・船場(せんば)の町の特徴は、原則として、東西の街路に沿って両側町が造られている、というもの。
 南北の街路沿いに展開している両側町がないのです(堀川沿いなど例外はあります)。

 このため、大坂の町屋は、東西の街路(「通り」と呼ぶ)に入口を開いていて、南北の街路(「筋」と呼ぶ)には入口はない、というのが基本です。上の模式図でも分かりますね。
 もっとも、これは原則なので、江戸時代にも「筋」に入口のある家はあったし、現在もそうなっています。ただ、基本的には「通り」がメインストリートなのが大坂です。

 小西儀助商店
  道修町の小西家住宅(重要文化財)

 なぜそうなっているのか、3つほど理由が考えられます。

 1つは、秀吉が先に造った伏見の町にならった、という考え方。
 2つめは、大坂城が町の東端にあるということ。そのため、東に向かう通りがメインストリートになるという考え方。
 もう1つは、船場の東端にある東横堀川付近から、西端にある西横堀川へ下水が流れているため、という考え方。大坂では、模式図にあるように、背中合わせになった町の境界に下水の溝(背割り下水)が通っていました。この流れが、東→西なのです。


 似ているけれど違う京、大坂

 4つの街路で囲まれた町のブロックも、京都は基本60間(約120m)四方ですが、大坂の船場は40間(約80m)四方で、異なっています(ちなみに江戸は60間四方)。

 また、「○○町」の読み方も、京都は「○○ちょう」に対して、大坂は「○○まち」。例えば、道修町=どしょうまち、平野町=ひらのまち、淡路町=あわじまち、なのですね。
 もちろん、例外もあって、大坂でも「ちょう」のところはあります。例えば、上町になりますが(天満橋駅の近く)、「船越町」というのがあるんですよ、誰かの名前と同じですが(笑)
 これは「ふなこしちょう」です。
 俗説のようですが、町人の住むところは「まち」で、お侍の住むところは「ちょう」だという話も。
 確かに、この船越町は、5600石の大身の旗本(幕臣)船越氏が蔵屋敷を置いていたところだとか。江戸時代、官庁街であった上町には、ほかにも鈴木町(すずきちょう)など、「ちょう」町名があります。

 京都と大坂が、見た目似ているけれど少し違う、などと言うと、“もとから全然違うぞ” とお叱りを受けそうです。
 今回は<まいまい京都>の大阪ツアーということで、あえて比較してみました。




 書 名 『町屋と町並み』
 著 者  伊藤 毅
 出版社  山川出版社(日本史リブレット35)
 刊行年  2007年 
 

信濃善光寺から考えた巨大な仏堂

建築




西本願寺御影堂


 久々の信濃善光寺

 このあいだ、久しぶりに信州に行ってきました。友人との単なる温泉旅行なのですが、帰りに善光寺にお詣りしてきました。

 善光寺
  善光寺(長野県)

 善光寺も、たいへん長い間、参拝していませんでした。
 改めて本堂を拝すると、その立派さに感動を覚えます。

 このお堂の特徴は、建物を上から見ると T字形をしていることです。
 そう、撞木(しゅもく)の形をしているので、撞木造と呼ばれています。

 とてもざっくり言うと、タテ向きのお堂とヨコ向きのお堂をT字形につないでいるのです。
 ただ、軒の出は揃っているので、航空写真で見ても長方形なのですが、棟の形がT字なのです。

 そのため、奥行きが深い建築になっています。

 善光寺 横から見た本堂

 柱間でいうと、間口が7間に対して、奥行きが16間もあります。
 実際の長さにすると、23.85m×53.65mで、ヨコ・タテ比がほとんど1:2ですね(mは両端の柱の間の寸法。以下同じ)。

 日本の木造建築は、桁行(けたゆき)方向には延々と伸ばしていけます。
 善光寺は、妻入りなので、どんどん伸ばしていって、こんな奥行きの深い建物になったのです。伸びていった部分は、大勢の参拝者を受け入れるスペースになっています。
 
 宝永4年(1707)の建築で、江戸時代のものらしく背の高い仏堂。東大寺大仏殿とほぼ同じ時期の建物です。
 木造の古建築では、奥行きが最も深いのが、この善光寺本堂でしょう。


 長さのトップは三十三間堂

 いま私が参照している数字は、文化庁監修『国宝・重要文化財大全』によっています。
 それによると、東大寺の大仏殿は、7間×7間で、端の柱から端の柱までが、間口57.01m×奥行き50.48mです。
 確かに奥行きは善光寺の方が3mほど長いのですが、間口は長大ですね。

 もっとも、桁行が日本一長い木造の古建築は、三十三間堂です。

 三十三間堂
  三十三間堂(蓮華王院本堂)

 この建物は、柱間は35間×5間です。
 三十三間堂という呼称は、内陣の柱間が33あることによっていると言われています。35間というのは、外陣の柱間で、外から眺めると柱の間が35数えられます。
 昔の人は、三十三間堂の「間」を長さの単位・間(けん)と考えていて、長さが60mほどある建物だと思っていたのです。

 しかし、実際の長さは、118.22m。
 先ほど言ったように、桁行を延々と伸ばしていった結果が、このような建物を造ってしまったわけです。
 
 建築年代は鎌倉時代の文永3年(1266)ですから、善光寺や東大寺大仏殿より440年ほど古く、何度も修理を重ねているとはいえ、寿命の長さに驚かされます。


 東西本願寺 御影堂の規模

 国宝や重文に指定されている建造物で言えば、西本願寺の御影堂や阿弥陀堂も大規模です。
 特に、御影堂は、54.89m×39.48mあります。

 西本願寺御影堂
  西本願寺御影堂

 浄土真宗の仏堂は、通常規模が大きいのですが、明治維新以前のものでは、これが最大です。
 寛永13年(1636)に建てられました。
 内陣と外陣の畳数を合わせると、700畳以上あると言います。
 いつでも参拝者が堂内に入れるのも、ありがたいところです。

 もっとも、明治以降ということで言えば、西本願寺より東本願寺の御影堂の方が大きいのです。

 東本願寺御影堂
  東本願寺御影堂

 明治28年(1895)の竣工で、登録有形文化財なのですが、間口が63.63m、奥行きが45.45 m。軒の出まで入れると、間口は76mに及ぶそうです。
 建築面積も2,891.98㎡あるといい、こちらの方が大仏殿(2,877.86㎡)より大きい、という向きもあるようです(『両堂再建』)。

 と、ここまで書いてきてなんですが、何が一番かは尺度の違いもありますので、余りこだわるのも変な話でしょう。
 三十三間堂を除いて、江戸時代の寺院建築は、こちらにあげたもののほかにも、清水寺、知恩院、長谷寺(奈良)など大きな仏堂がたくさんあります。庶民への信仰の普及によって、大勢の参拝者を収容できる堂宇が造られていったことがよく理解できます。
 
 信濃の善光寺は、私が訪れた日もたくさんの参拝者で賑わっていました。
 そういう光景を見ることは、やはりうれしいものです。




 西本願寺御影堂(国宝)

 所在  京都市下京区堀川通花屋町下ル
 拝観  自由
 交通  JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『国宝・重要文化財大全 11 建造物・上』毎日新聞社、1998年
 『両堂再建』真宗大谷派宗務所出版部、1997年


この春も頑張る京都出身の力士たち - 大相撲大阪場所から -

人物




大相撲大阪場所


 満員御礼つづきの大相撲大阪場所

 ここのところ、また大相撲ブームになっていますね。
 3月になると、恒例の春場所(大阪場所)の見物に行きます。

 大相撲大阪場所

 この写真、幕内土俵入りの際に撮ったもの。
 「満員御礼」の垂れ幕が出ていますけれど、今日は正味の満員ですよ。いや、いつもは満員御礼と言いながらも結構空席が目立ったのですが、今年は本物。チケットも十五日すべて完売状態です。僅か5年前、この春場所が中止になったのが嘘のようですね。
 やはり多くの人に喜ばれ、興行が盛況になるのは結構なことです。

 ところで、相撲見物に行くとき、困るのがタイムテーブルが分かりづらいこと。
 朝から始まって、夕方6時に打出しになるわけですが、相撲協会のウェブサイトを見ても、ざっくり書いてあるだけで、詳しくは分かりません。
 そこで今回は、取組表と実際の時刻を参照しつつ、紹介してみましょう(時刻は、およその目安です)。

 前相撲    8時30分
 序ノ口    8時45分
 序二段    9時
 三段目   11時
 幕 下   13時
 十 両   14時15分
 幕 内   16時
 打出し   18時


 序二段と三段目は番数(取組数)も多いのですが、1番当り2分弱で進んでいくので、スピーディーでとても楽しめます。
 十両・幕内ももちろん面白いけれど、下の方がむしろ楽しめるような気もするのですね。


 増えてきた京都出身の力士

 一昨年(2014)春場所の際、京都府出身の力士についてレポートしました。

  記事は、こちら! ⇒ <京都出身の大相撲力士、少ないながらも奮闘中!>

 2年前、京都府出身の力士は、たった5人でした。
 ところが、今年は10人に倍増です!

 さっそく紹介してみましょう。

 千代栄 (西 幕 下 31)・・・九重部屋
 北勝芯 (東三段目62)・・・八角部屋 【旧四股名・森垣】
 琴名和 (西三段目81)・・・佐渡ケ嶽部屋
 今 福 ( 同  93)・・・二所関部屋
 一心龍 ( 同  100)・・・山響部屋
 大勇人 (西序二段 7)・・・峰崎部屋
 岩 上 ( 同  51)・・・峰崎部屋
 花 井 (東序ノ口10)・・・伊勢海部屋
 海 渡 (西序ノ口17)・・・宮城野部屋
 泉 川 ( 同  20)・・・峰崎部屋


 残念ながら、現在、京都出身の関取(幕内・十両)はいません。
 最上位は、千代栄。この力士は、福知山出身(京都共栄高校出)となっていますが、生まれは兵庫県丹波市春日町だそうです。
 三段目の北勝芯は、森垣が改名したものです。

 海渡という変わった四股名の力士がいますが、「うみわたり」と読むそうです。調べてみると、海渡海渡! 「うみわたり・かいと」。そうか、本名が海渡クンで、それを四股名にしたわけだ。

 今年は、新弟子検査を受けた京都出身者も1名いて、また力士が増えますね。


 若手もベテランも奮闘!
 
 今日、三日目に見た5力士を紹介。

 岩上
   岩上(左)

 まだ若いですね。19歳。
 昨年デビュー。自衛隊を辞めて、好きな大相撲に入ったという力士。細いけれど、筋肉質です。

 大勇人
   大勇人(左)

 昨年はケガで苦しんだようです。
 この力士も、岩上も、峰崎部屋。ちなみに、序ノ口の泉川も峰崎で、京都出身が3人いる部屋です。峰崎親方は、三杉磯(元前頭)ですね。

 琴名和
   琴名和(左)

 昨年デビュー、19歳の若手。
 佐渡ケ嶽部屋ですので、本名に「琴」が付いています。

 北勝芯
   北勝芯(左)

 以前は、本名の森垣で取っていました。
 昨年九州場所、北勝心に改名。八角部屋(親方は元横綱・北勝海)なので、「北勝」+本名「(森垣)心」。今年初場所に「心」を「芯」に変えています。

 一心龍
   一心龍(右)

 ベテラン力士。32歳。
 下の名前は「太助」。まさに、一心太助から来てますね。
 北の湖部屋でしたが、親方が亡くなったので、現在は山響部屋に所属。元の北の湖部屋にはベテラン力士が多いです。

 今日の一心龍は、今場所初めて土俵に上がった石橋(高砂部屋)との取組でした。
 石橋は、学生相撲の近畿大学出身で、注目の新人力士。もちろん、髷も結えていません。
 
 そして取組。
 応援むなしく、一心龍は寄り切られてしまいました。
 どんな心境なのかなと、いつもは考えない力士の気持ちに思いを巡らせてしまった……

 上の写真でも分かるように、たくさんのカメラマンが石橋目当てにフラッシュをたいていました。
 翌日のスポーツ紙には、石橋の初白星の記事が。
 
 テレビ中継やマスコミの報道だけでは分からない場所での相撲。
 幕下までは会場もガラガラだけど、そこには一番に全てを懸ける男たちがいます。

 大相撲大阪場所




 【参考文献】
 『平成二十六年度 大相撲力士名鑑』ベースボール・マガジン社、2014年


【大学の窓】京都の町に住みながら、学ぶということ - 新年度の授業へ -

大学の窓




新京極


 年度末から新年度へ

 ここしばらく、京都市内にある上京大学(仮称)に非常勤講師で行っています。
 授業は、実質上1月で終わったので、長い春休みを迎えているところ。
 
 そして3月の声を聞くと、そろそろ新年度のプランを考え始めます。

 私の担当授業は、1回生の演習で、テーマを決めてグループで1年間 “研究入門” してもらうものです。
 2班を受け持っているのですが、大きなくくりは「建築」と「写真」で、出講当初からずっと変更していませんでした。

 毎年、「来年度はテーマを替えよう」と思いながら、踏みとどまっていました。

 しかし……今年は替えることにしました。
 2つのうち1つをやめて、「繁華街」について研究してもらおうと思います。

 新京極 新京極

 繁華街かぁ。
 我ながら「歴史学」的じゃないというか、他の学問のテーマみたいというか……

 私自身、学生の頃から「都市」が好きで、学部の卒論は都市論のようなもの、でした。
 勤め始めてから、必要に迫られていろいろなことをやってきましたが、最近はもしかすると都市回帰なのかも知れません。

 「繁華街」というテーマで、学生が何をやるかは自由です。自由ですが、今年は京都の繁華街でやってもらおうと思っています。


 過去と現在が重層する都市

 言うまでもなく、現在は過去の上に成り立っています。
 個々の都市も、過去から現在に至る経緯の中で形成され、変化していきました。
 そういう意味で、京都だけが歴史的な都市ではないのですが、京都はそれがくっきり分かる都市のひとつだと思います。

 もちろん、古い神社仏閣が残っているから京都は歴史都市だ、というわけではありません。
 いま毎日を暮している私たちが、過去の上に生きているんだ、ということが実感しやすいということなのです。

 例えば、最近、豊臣秀吉の聚楽第について注目される報道がありました。
 京都大学の研究チームが、表面波探査という技法により、その外堀跡の位置や天守台跡の高まりなどを検出したというものです(京都新聞等をご参照ください)。
 
 聚楽第石垣
  聚楽第の石垣(2012年12月の発掘)

 その記事で私が驚いたのが、天守台は40m四方あり、現・今新在家町と新白水丸町(上京区)の付近にあったらしい、という点です。
 その場所は、中立売通智恵光院上るです。
 正親学区で、私の父が育ったおじさんの家があったところなのです。

 地図をみると、どうやらおじさん宅が天守台の上に載っていたわけではないようなのですが(笑)、まあ、目と鼻の先なんですね。

 例えば、父と話してみると「裏門通」という通り名などを知っているわけですが、そこは聚楽第の裏門があった通り(?)という由来なんですね、おそらく。
 たぶん父などは聚楽第の辺りに住んでいたという認識はないかなと思うのですが、意識的には知らないけれど過去の上に乗っかって生きているという姿が、この町ではふつうにあるわけです。

 西陣 西陣の一画

 もちろん、聚楽第の時代(16世紀後半)から現在まで、400年以上の歳月が流れています。聚楽第が急に民家に変わったわけではありません。そこには、年々歳々姿を変えてきた町があります。そういうことを追っていける町が京都であり、それを考えることが「過去の上に生きている現在の私」を考えるスタートになると思うのです。

 学生に、京都の繁華街を研究してもらう理由は、ここにあります。
 文献史料や絵画資料によって机上で学ぶだけではなく、現地に行って、調べたり体感したりすることもできる。過去から現在への変遷を追うこともできる。
 例えばですが、前回のブログ記事(大丸横の袋小路)で言えば、そこにあるラーメン店に入って昼食をとることもできるわけです。そういうことを “歴史と関係がない” と思うのは、歴史は古い昔の事柄を意味するのだ、という誤解なんでしょう。

 大切なのは、過去から現在に向けて流れてきた時間の推移を、その最終地点に立っている自分がどう捉えるか、ということなのです。
 それを感じられたとき、「歴史」という言葉の認識は変ります。

 こんな感じで、新年度の授業をやってみたいと思います。
 もちろん、実際にカラダを動かし頭を回転させるのは、学生自身ですね。



繁華街にある袋小路は、なぜか魅力的な趣き





東洞院の路地


 街中にある袋小路

 いきなり問題なのですが、この写真の場所は、どこにあるでしょうか?

 東洞院の路地

 お店の看板がたくさん見えるので、街なかだとは分かりますね。
 奥の方には高いビルも建っています。
 さほど広くもない道に路上駐車もあって、少々狭苦しい雰囲気。さらに、突き当りで行き止まりの袋小路になっています。
 写っていませんが、写真の右側はコンビニになっています。

 実は、この場所、京都の方なら一度や二度は通られたことがあるところだと思います。

 このビルの近くにあります。

 大丸四条店

 四条通に面した大丸京都店。
 大丸は、南北の通りで言うと、高倉通(東側)と東洞院通(西側)に挟まれています。

 先ほどの袋小路は、東洞院通から西に延びている小道で、大丸の西向いにあります。
 
 東洞院の路地

 奥から東(大丸の方向)を振り返った写真。
 大丸の増築部が見えています。


 都市の狭い街路

 この袋小路、道幅は4m弱だそうで、「路地」と呼ぶかどうか迷います。
 行政では、建築基準法に基づいて、幅4m未満の道路を「細街路」とか「狭隘(きょうあい)道路」と称しています。同法の42条2項にかかわる道路であるために「2項道路」と言われるものです。
 建築基準法では、建物は幅4m以上の道路に接している必要があります。しかし、昔からの路地に面して接しているような建物は、この基準を満たしていません。そのため、建て替えが出来なくなるのですが、特例として、道路の中心線から2m後退したら建てられる、ということが認められています。
 これに該当する4m未満の道が、2項道路なのです。

 京都や大阪といった大都市には、この道がいっぱいあります。
 京都市指定道路図提供システムで調べてみると、2項道路が水色で浮かび上がってきます(京都市の呼び名は「狭あい道路」だと思いますが)。
 この袋小路も、どうやらこれに該当するようです。
 また、例えば先斗町や裏寺町の通りはこれに当たるようですし、このブログでも紹介した撞木辻子(しゅもくずし)もこれです。

 一方、赤色で示された道は「非道路」です。
 先斗町の「抜けられます」の路地は、ほとんどが非道路になっています。


 モダン建築のビリヤード店

 この袋小路、長さは約60mで、阪東屋町という町にあります。
 入って行くと、焼肉屋さんやラーメン屋さんがある至って庶民的なところ。

 東洞院の路地

 袋小路の突き当りは塀です。しかし、扉が付いており、頻繁に人の出入りがあります。どうやら裏側のビルの通用口らしい。この裏は、烏丸通に面した三井住友銀行のビルがあるのです。

 奥の北側にはラーメン屋さんがあり、その脇に路地が北へ伸びています(写真では見えませんね。すみません)。
 路地は短いT字形をしており、住宅が建っています。京都市の分類では、非道路です。
 
 奥の南側は、玉突き屋さん。
 住宅地図によると、ビリヤード喜楽というらしい。

 玉突屋

 昭和初期から終戦後にかけて書き足された京都市明細図(京都府立総合資料館蔵)には、この店も記載されています。
 モダン建築ですが、外壁をモルタルワークで仕上げた簡易的な相貌ですね。

 玉突屋 窓まわりの装飾が見どころ


 古い住宅や仕舞屋も

 ところが、お店だけでなく住宅も建っているのですね。

 東洞院の路地

 道路北側には、2階建の住宅。

 東洞院の路地

 道路南側、玉突店の手前には仕舞屋風の住宅。

 京都市明細図を詳しく見ると、この袋小路は昭和初期にはなかったらしく、おそらく終戦直後に新たに開かれた道と考えられます。
 実は、この東向いが証券取引所だったため、商売が成り立つ場所として開発されたのではないでしょうか。

 商店と住宅は、その頃から混在しています。
 小路の南側には、入口から2軒、証券会社があり、食堂があって、さらに住宅2軒があり、一番奥が玉突き。この住宅2軒が、のちに仕舞屋になったと思われます。
 北側は、入口(今のコンビニ)に大きな京都信用組合の建物があり、住宅4軒が続いていますが(これが現在残っている)、うち1軒は弁護士事務所です。その奥がパン屋で、現在はラーメン屋さんになっています。パン屋の脇にT字路地が北に伸びており、3軒ほどの家があります。最奥には、住宅1軒と印刷屋が建っています。

 ほんとうに、いろいろ交じりあっています。
 ビリヤードとかパンとか、モダンな印象ですが、証券マンの御用達だったのでしょうか?

 ふだん前を通りなが見逃していた阪東屋町の小路。
 歴史を探ってみると、なかなかおもしろいものです。




 阪東屋町の袋小路

 所在  京都市中京区四条通東洞院上る阪東屋町
 見学  自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「京都市明細図」京都府立総合資料館蔵
 「京都市指定道路図」京都市
 上田篤・田畑修編『路地研究』鹿島出版会、2013年


3月の京の気温は?

その他




桜


 暖かかった週末

 三寒四温などと言うこの時期。暖かい日と寒い日を交互に繰り返しながら、春を迎えます。
 どうでもいいことですけれど、確か谷崎潤一郎の『細雪』の、当初のタイトル案は「三寒四温」でしたね。

 この週末(2016年3月5日、6日)、京都はとっても暖かかったです。
 3月5日の最高気温は、21.4℃。6日は、21.7℃でした。

 ほんとうに、4月のような気温でしたね。
 調べてみると、昨年(2015年)の3月5日、6日の最高気温は、9.2℃、12.1℃でした。
 この落差もすごいのですが、過去を振り返ってみると、今年の “異常さ” が分かります。

 実は、この半世紀を振り返ってみて、この両日で20℃を超えた日は一度もありません。
 それだけ暖かかったと言えます。

 3月5日で探ると、
 2006年-2015年の平均は、13.0℃。
 1996年-2005年は、10.9℃。
 1986年-1995年は、11.6℃。
 私が中高生だった1976年-1985年は、11.9℃。
 幼かった頃の1966年-1975年は、8.9℃。

 3月6日でみると、
 2006年-2015年は、12.4℃。
 1996年-2005年は、12.9℃。
 1986年-1995年は、13.5℃。
 1976年-1985年は、11.8℃。
 1966年-1975年は、10.3℃。

 平均値を求めてみると、意外に5日と6日で傾向が違っています。
 ふつうは、12、13℃くらいなんですね。

 3月末になると、25℃を記録するときも稀にはあるようですが、初旬で20℃は珍しいでしょう。

 桜


 桜の開花も早まっている

 桜の開花は、積算気温によることが知られています。例えば、2月1日からの最高気温を足していって合計600℃になると開花する、などというものです。

 京都地方気象台のレポーとによると、1953年から2009年の桜の開花時期を比較したところ、半世紀余りの間で1.5日早く開花するようになったそうです。
 また、そこに引用された気象庁のレポート(2005年)では、半世紀で全国の開花は4.2日早まり、とりわけ6大都市では6.1日も早くなっているといいます。ここから、都市化による植物への影響がうかがえます。

 ちなみに、研究者の中には、京都でのヤマザクラの開花の歴史的な記録(日記等)を利用して、春季の気温について調べている人たちもおられます。
 
 京都の桜の開花は、平年で3月28日。
 今年は少し早めの予想です。満開も4月3日前後ということで、春休みが京都旅行の好適期ですね。




 【参考文献】
 「京都における開花・満開、紅葉など(生物季節現象)の変化」京都地方気象台、2010年
 



【新聞から】“京都丹波高原”が国定公園指定へ





美山


 観光ルート、利用調整 準備急ピッチ
 京都丹波高原国定公園
 京都 2016年3月3日付


 「京都丹波高原国定公園」が新たに指定されることが、2016年2月23日、答申されました。
 それをうけて、京都新聞では、指定後に向けての課題整理が行われています。

 今回、国定公園になる地域は、南北に長い京都府の真ん中あたり。
 日本海にそそぐ由良川水系と太平洋側に向かう桂川水系の分水嶺にあたる地域です。緑豊かな山間部で、芦生の原生林や八丁平湿原など特徴的な自然が残されています。
 山村で暮らす人々の生活、文化も維持され、美山の茅葺き民家群や、久多の花笠踊りなどが伝えられてきました。

 公園の範囲は、南丹市美山町を中心とし、綾部市や京丹波町の一部、および現在では京都市内になりますが、右京区京北(旧京北町)や左京区の久多、花背、広河原などの約6万9000ヘクタールです。

 いつもの話で恐縮ですが、私の父祖の出身はこの付近の旧船井郡日吉町(現・南丹市)です。残念ながら、その場所は今回の指定範囲には入っていないのですが、ずっと以前から近くにゴルフ場なども開発されていましたので、致し方ないですね。
 いずれにせよ、この分水嶺の地域にゆかりと関心のある私としては、今回の国定公園指定は慶賀すべきことだと思われます。

 もちろん、京都新聞に書かれているように、不安な点もいろいろとあります。
 例えば、私も先月訪れた際に経験したのですが、アクセスがよくないのです。
 美山の茅葺きの里方面に向かうには、JR山陰線の最寄り駅(園部や日吉)から1時間ほどバスに揺られる必要があります。私は日吉駅から行ったのですが、バスの本数が少ない上に、途中で乗換え! するというアクセスです。個人的には、たまに行くのだから不便だとは思わないのですが、観光振興の面からみれば課題になるのかも知れません。

 また、熊野古道が世界遺産になった後にも問題になった観光過多によるオーバーユースの問題。記事にも指摘されているように、自然環境の保護と利用のバランスをどう取るのか、とても難しい問題です。
 その絡みで、どのように観光客に楽しんでもらうかも課題。
 森の京都美山推進会議では、(1)回遊システムづくり、(2)宿泊商品づくり、(3)道の駅づくり、(4)ビジターセンターの各部会で、観光メニューを検討しているそうです。

 先日訪問した折に思ったことがあるのです。
 JR園部駅を列車が出て、次の小さな駅に停車しました。誰ひとり降りない「船岡」という無人駅。車窓から景色を見ると、実にナチュラルな自然の景観が広がっていました。それを見た私は、“茅葺き民家を見に行くより、ここで降りて歩いた方がおもしろそう” と直感的に思ったのです。
 調べてみると、この駅は1日の乗降客数も50人位らしい。ほとんど地元の人しか利用していない、というか地元の人も余り利用していない。こういう駅を基点に、地形図を片手に歩いてみると、実に愉しい旅が出来そうです。
 以前、和知(わち。もう少し北の方)で、地図を見ながらぶらりと歩いたことがありましたが、とてもおもしろかったですよね。確か、鹿が出てきたような記憶も……
 
 観光開発はもちろん大事だけれど、訪れる私たちは、もっと自由に、自分なりの旅を創り出せればいいですね。
 

  美山の銀杏


本法寺の石灯籠は、享保年間に建てられた手の込んだ品





本法寺石灯籠


 気になるお寺、本法寺

 どなたにも、気になるお寺、神社というものがあるのではないかと思います。
 私の場合、なんとなく訪れて、なんということもないけれど、気に掛かってしまう、そういうところがありますね、いくつか。

 本法寺は、そのひとつ。

 小川通寺之内上ル(上京区)にある、日蓮宗の寺院。
 裏千家の向い。

 本法寺
  本法寺

 寺之内は、その名の通り寺町で、秀吉時代に形成されました。本法寺も、そのときより現在地にあります。
 以前、庭のことで書きましたね。

 記事は、こちら! ⇒ <本阿弥光悦の作庭という本法寺「巴の庭」は、なかなか巴が探せない難解さ>

 庭もおもしろいんですけれど、やはり伽藍が何とも言えないのですね。

 「都名所図会」より「本法寺」
  「都名所図会」より「本法寺」

 日蓮宗の寺院によくある、真ん中の広いスペースに向かって本堂や開山堂(祖師堂)や多宝塔が建っている伽藍配置。
 いつ行っても、ひっそり閑としていて、いい感じです。

 堂宇は、天明の大火(1788年)後に再建されたものが多く、府指定になっていたりします。この多宝塔も見事ですね。

  本法寺多宝塔 多宝塔

 多宝塔の左側(北)に、立派な松があります。

 本法寺 叡昌松

 石標には「叡昌松」と書いてあります。本法寺の山号が叡昌山なので、それから取っているのでしょう。
 松の樹下を見ると、石灯籠がひとつ建っているのが見えませんか?

 これですね。

  本法寺石灯籠

 なかなか立派な石灯籠です。「常夜灯」と刻んでありますね。


 名所図会に登場する石灯籠

 ところで、この石灯籠、「都名所図会」に描かれているのではないでしょうか?

 「都名所図会」より「本法寺」

 多宝塔があり、手水舎があって、その右。
 ぽつんと石灯籠があるでしょう。これじゃないでしょうか?
 松はないけれど、位置はここですよね。

 超拡大図。

  「都名所図会」より「本法寺」
  本法寺石灯籠

 同じ角度から撮ってないのが残念なのですが……
 
 「都名所図会」では、屋根が入母屋造になっています。実物も入母屋造です。

  本法寺石灯籠

 懸魚(げぎょ)なども彫られていて、実に細かいのです。
 側面も。

 本法寺石灯籠

 組物もきっちり造られていて、さながら寺院建築のようですね。


 享保年間に奉納された

 奉納された年も分かります。

 本法寺石灯籠

 「享保四年 己亥 正月吉日/清水氏正長」と刻されています。
 享保4年は、1719年。徳川吉宗の享保の改革の時代ですね。今から300年も昔です。
 
 「都名所図会」は、安永9年、1780年の刊行ですから、この灯籠が描かれていてもおかしくはありません。
 
 そして、名所図会から8年後に天明の大火が起こったわけですから、描かれた建物の多くは焼亡してしまい、石製の灯籠は難を逃れたというわけです。

 ちなみに、現在、石灯籠の南側に手水鉢が残っています。

 本法寺

 なかなか結構な品なのですが、文化13年(1816)のものなので、大火より後のものになります。

 「都名所図会」は、いつものことなのですが、絵空事とは侮れない細かいところがあり、興味が尽きませんね。




 本法寺

 所在  京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町
 見学  境内自由
 交通  市バス「堀川寺ノ内」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年