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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

高瀬川の取水口・樋ノ口は、二条大橋近くにある





高瀬川樋ノ口


 高瀬川の取水口「樋ノ口」

 高瀬川といえば、京都の繁華街・木屋町を流れる細い川。京都らしい情緒を醸し出しています。
 この川は、よく知られているように、江戸時代の初め、角倉了以によって人工的に開削された運河です。

  角倉了以翁顕彰碑 角倉了以翁顕彰碑(旧立誠校前)

 運河は、二条から始まり、七条を経て伏見に至ります。
 伏見からは、宇治川を経由して、淀川の水運で大坂と結ばれていました。
 まさに高瀬川は、「天下の台所」(物資の集散地)であった大坂と、京都市街を結ぶ大動脈の一部だったのです。

 高瀬川
  高瀬川

 この高瀬川、地図を見ると二条通あたりから始まっています。
 実はこの地点の鴨川側に、取水口があるのです。

 鴨川には、川の西側に並行して小さな川が流れています。これを「みそそぎ川」と言うんだそうです(京都の人も知りません)。

 鴨川
  鴨川とみそそぎ川

 みそそぎ川は、加茂大橋の下流から分岐して、最初は暗渠になっています。
 姿を見せるのは、丸太町橋の南、およそ夷川通あたりです。その場所は、私も確認したのですが、暗渠の出口に「みそゝぎ川」の銘板がありました。
 この川が開渠のままでリッツカールトンホテル(ホテルフジタ跡)の横を通り、二条大橋をくぐって流れていきます。
 
 二条大橋の下流です。

 高瀬川樋ノ口

 真ん中の樹木が茂っているあたりが、がんこ寿司(がんこ高瀬川二条苑)。高いビルが、京都ホテルオークラです。
 堤防上の植え込み部分が、みそそぎ川です。

 高瀬川樋ノ口

 このポイント、左、真っ直ぐ、右と、三方に水流が分かれます。
 ここが、高瀬川の取水口なのでした。

 高瀬川樋ノ口

 左に曲がると、取水口。
 歴史的な雰囲気は余りありません(笑)

 余った水は、逆方向に落ち、鴨川へ排水。

 高瀬川樋ノ口
  鴨川への落し口

 この写真の左側に、案内板が立っているのですが、ものすごく退色していてほとんど読めません。目を凝らして見てみると、やはり高瀬川取水口と書いてあります。

 この取水口のことは、昔は「樋ノ口(ひのくち)」と呼んでいました。
 樋(ひ)とは水門の一種。樋が設けられた地点が、樋ノ口、樋口なわけで、こういう地名は各地にあります。
 実は、この二条にも、かつては樋ノ口屋敷(いまふうに言うと水門管理事務所)が設置されていました。その名残として、現在も樋ノ口町の町名が残っています。


 高瀬川の始点から一之船入へ

 取水口から入った水は、がんこ高瀬川二条苑の庭園内を通っていきます。
 ここは旧山県有朋別邸で、川の水を取り込んだ回遊式の庭があります。水流はそこを通り抜け、邸外に出ていくのです。

 がんこ高瀬川二条苑
  がんこ高瀬川二条苑の外壁(通りは木屋町通)

 大きな石垣の内が、がんこ。
 石垣前に橋の高欄が見えますが、この下に暗渠となった流れがあります。
 木屋町通をくぐると、いよいよ高瀬川となるのです。

 高瀬川樋ノ口

 おー、こんな感じですね。
 
 割とこぢんまりしています。
 ただ、この下流側に一之船入があるために、史跡らしい雰囲気になっています。

 高瀬川一之船入碑
 高瀬船
  復元された高瀬船
 
 
 船入を訪ねて

 高瀬川は、舟運のための運河だったので、そのための施設がありました。
 最も代表的なものが、船入(ふないり)や船廻しです。

 船入は、二条から四条の間に9か所造られていました。川の西側に設けられ、荷降ろし、荷積みができる場所でした。
 船廻しは、四条以南にあって、船の方向転換をするスペースでした。

 現存している船入は、一之船入だけです。
 ただ、例えば、旧立誠小学校の北にある七之船入跡は、昔から広場のようになった場所が残されていて、船入跡であることがしのべます(今は自転車置き場になりました)。

 その一之船入。

 高瀬川一之船入

 高瀬川からの入口。
 船入自体も、かつてよりは狭くなっているそうなので、入口も狭まっているのでしょう。

 高瀬川一之船入

 京都ホテルオークラの北側の押小路通に、見学者入口があります。
 中に入ると……

 高瀬川一之船入
  旧一之船入(西から東を望む)

 奥行の深い水面が拡がっています。
 南と西は、レストランなどのお店。北側は日本銀行京都支店で、その昔は角倉屋敷があった場所です。
 かつてよりは、狭くなっているそうで、周囲の石垣もそんなに古くなさそうです。もちろん、この石垣では荷降ろしができませんから、廃止後に築かれたものなのでしょう。

 高瀬川は、往時は今よりも川幅が広く、船は川岸の曳き手によって曳かれていました。
 明治28年(1895)に市街電車が通ることになり、木屋町通が出来、高瀬川の景観も変わっていきます。
 大正9年(1920)に舟運が廃止。史跡として今にその面影を伝えています。




 高瀬川取水口(樋ノ口)

 所在  京都市中京区東生洲町
 見学  自由
 交通  地下鉄「京都市役所前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』平凡社、1979年
 川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年


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懐かしき京の面影、京ことば - 吉村公三郎『京の路地裏』-

京都本




  京の路地裏 吉村公三郎『京の路地裏』岩波現代文庫


 映画監督の京都エッセイ

 吉村公三郎というと、「夜の河」などで知られる映画監督です。
 私らの世代からすると、ちょっと前の監督かなという感じがします。

 吉村家は滋賀県の旧家で、吉村公三郎も膳所(現・大津市)で生まれたそうですが、子供時代は京都で過ごしています。明治44年(1911)生まれなので、大正時代のことになります。
 家は、西洞院五条下ルということで、市内中心部よりは少し南ですね。

 その吉村公三郎が書いたエッセイ集が『京の路地裏』です。

 少し長めのエッセイ12本からなる本書。
 タイトルにもなった路地については、「すまいと路地」の章に書かれています。

 京都には路地が多い。

 (中略)

 路地のことを京都の人たちは「ろーじ」と引っぱっていう。これにはいろいろの種類があって、「ぬけろーじ」というのは表通りから真っ直ぐに向こうの通りへ抜けるもの、「かぎろーじ」というのは表通りと直角の横丁へ鍵形に、途中で折れて抜けられるもの、それから俗に「パッチろーじ」というのがある。

 路地は向こうへ抜けない袋小路が原則で、「パッチろーじ」もその変種である。

 入り口を入ってまっすぐ行くとつきあって左右に分かれ、また曲がって奥まで続く。「パッチ」(もも引き)みたいな形だからこの名がある。(238ページ)


 このような話でいえば、タイトルになっている「路地裏」という言葉が、なんとなく違和感があるのです。路地は路地で、路地の裏はないのだから、と。余り使わない言葉です。
 けれども、なんとなく裏話っぽい本書のエッセイには、この題名が似合うような気もするのでした。

 先斗町の路地


 昔使った京ことば

 この本を読んでいると、そういえば昔こういう言葉を使ったなぁ、というものが出て来ます。

  安産のお守りさんは
  常は出ません
  今、明晩限り
  御信心のおん方様は
  つけてお帰りなされましょう

 祇園祭の宵山といえばすぐ思い出すのは、この女の子達の呼び声である(今も行われているかどうか知らない)。(51ページ)


 現在もまだ行われている祇園祭の宵山の、子供たちが呼び掛ける声。
 歌のように節をつけて唄うのですが、私の気に留まった言葉が「常」。

 京都では、いつも、ふだん、のことを「常」というのです。
 もちろん、一般にも「常」という語は使うでしょうが、京都では日常の口語でこの言葉を使います。

 147ページにも、こう書かれています。

 「この辺は常(いつも)には、人通りが割りに少のうて、あいさに(時どき)問屋はん悉皆屋はんの自転車、染めもんを晒し屋へ運ぶリヤカーが通らはるくらい。

 「夜の河」の原作小説のモデルになった木村孝(たか)さんの語りを起こしたものです。
 いつもは、ということを、常は、というんですね。

 もちろん、本書にも「京言葉」の一章が設けられて、いろいろな言葉が紹介されています。
 私も聞いたことがない「オムシ」(味噌)、「ハシジカ」(上り口)などという言葉がある反面、そういえば、という言葉もあります。
 
 監督がいう「えぞくらしい」。
 本書に何度か出て来ます。私は「えぞくるしい」と聞いていた記憶があります。「えぞくろしい」もあるみたいですし、「えぞ」が「えず」の場合も。

 「えぞくらしい」は、もっとむつかしい。
 粗野な、野暮な、不調和な、感じだがそれだけでは十分でない。時にはグロテスクな意味もあり、ドギツイ場合もある。(65ページ)


 そうですねぇ、「グロテスク」、それに近いかも。
 “ぞっとする” 気色悪い感じを表す言葉ですね。
 もっとも、私自身は使ったことはありません。母が言っていましたね。かなり古めかしい言葉でしょう。

 
 シブチンな京都人

 「シブチン」というのもまた、京ことばでしょう。
 渋い人、という意味で、端的に言えば「ケチ」のことです。

 吉村監督は、この「シブチン」という一章を設けて、京都人の倹約ぶりについて滔々と述べています。

 倹約のことは、京都では「シマツ(始末)」と言います。
 監督が上野さんという人から聞いた実例は、本当にえげつないシブチンの話です。例えば……

 味噌汁のだしは、近所のうどん屋で、出し殻をわけてもらい、干しておいて少しずつ使う。汁の身はもちろん仁和寺の畑のものだ。[注:仁和寺の近くに畑を持って自家栽培している]

 出し殻は使った汁のそのまた出し殻を捨てはしないで、煮つめて佃煮にし、朝や昼のおかずにする。
 「その佃煮ももったいないさかいちゅうて主に塩を使こおてお醤油はちょっぴりしか使わはらしまへんさかい、何やしらん色の薄い佃煮やそうどす」
 と上野さんの描写は細かい。

 (中略)

 スキヤキの牛肉は、近所の寺町の肉屋からコマ切れを買って来る。
 「済んまへんけど、ワンワンさん(犬)にあげるのどすさかい、切り出し(コマ切れ)百五十グラムほどおくれやす」
 といって、呉服屋のお女将さんが買っているのをみた近所の人が
 「犬なんて飼うてはらしまへんのになあ」
 と笑って話していたことがあるそうだ。(117-118ページ)


 ハハハ、ありそうな話ですねぇ。
 犬にやると言って安物の肉を買うのもありそうだけれど、それを「犬なんか飼(こ)うてはらしまへんのに」という陰口も言いそう(笑)

 監督も書いているのですが、京都の人が隣近所を監視? するという話は、よくあるんですね、たぶん。
 そのへんは、私も読んでいて、なんだか昔を思い出して、ちょっと複雑な気分でした。なので引用はやめておきましょう。

 だいどこ

 シブチンをもうひとつ。

 ところがこのうちも、内裏はケチケチしているのに、外には格好よいところを見せたいらしいのはこれも、やはり京風の常である。

 お歳暮の挨拶に、舞鶴の方の漁師町の得意先から、生きのよい鯛をもらったその翌朝、早く表へ出て、声高に話し合う。

 「昨夕[よんべ]の鯛は美味しかったなあ」
 「ほんまどした。片身はおつくり(刺し身)にして片身は塩焼き、頭はあら煮き、そのほかはお汁のおだしにして食べたんやけど、やっぱり鯛みたいなもんは新しいのに限りまんな」

 と近所近辺によく聞こえたようだと見定めると家へ引っ込んだ。「不断シブチンやシブチンやとぬかしてるけど、どうや、鯛みたいな上等の魚を食べてるんやゾ」とデモったわけである。(123-124ページ)


 ありそうな話。
 まあ、さすがに21世紀の現在ではないでしょうけれど、昭和にはありましたね、このメンタリティー。


 魅力を覚える京都人

 吉村監督は、若い時分は神社仏閣や古い建物などには興味を抱かなかったと言っています。
 そのかわりに、「つまるところ魅力を覚えるのは「京都人」であった」(231ページ)。

 確かに、人間って興味が尽きないですよね。
 そんな数々のエピソードの中から、最後にひとつ。

 夏の夕方、四条の大橋からもひとつ下流[しも]の団栗橋で川風に吹かれていたら、こんな風景をみた。

 若い娘がめかしてやって来るのに、反対の方から来た中年のおばはんが声をかける。

 「××ちゃん、綺麗さんにして、どこいきどす」
 「へえ、ちょっと……」
 「いやア、そうどすか。お早ようにお帰りやす」
 「へえ、おーきに。さいなら」
 「さいなら」

 と二人はすれ違って行く。
 すれ違いながらのやりとりが、まるで歌うが如くである。そこで私は考える。

 「どこいきどす」

 とたずねられたのに対し娘は

 「へえ、ちょっと……」とだけしか答えない。
 それなのに、
 
 「いやア、そうどすか」とまるでわかったような返事をする。

 要するにこの二人のやりとりは、ただ声を交すだけのことで何の意味もない。
 「お早ようにお帰りやす」といっても、別に早く帰ろうが遅く帰ろうがどうでもよいことなのである。いってみるだけだ。
 このような女どうしの無意味な対話はつねによくみられる。しかし、こうした対話をしないと「あの娘[こ]は」、あるいは「あのおばはんは」愛想なしといわれる。(136-137ページ)


 こういうやりとりは、なかなか含蓄があり、興味深いものです。
 言葉としては何の意味もないけれど、「言ってみるだけ」が意味を持つことがあるーーそんな人間関係の真理が表れていますね。

 本書の原箸が刊行されたのが、昭和53年(1978)。
 当時すでに、懐かしくもあった京都のしきたりは、揶揄されるものにもなっていました。
 それから40年近く経った今日、そんなものも改めて見返してみると、学ぶところがあるのかなと思ったりするのでした。




 書 名 『京の路地裏』
 著 者  吉村公三郎
 出版社  岩波書店(岩波現代文庫 文芸107)
 刊行年  2006年

鴨川や高瀬川沿いにあった「生洲」は、京の人々の遊興の場所





鴨河原


 鴨川、高瀬川付近に多かった生洲

 前回、「いけ吉」という生洲(いけす)について紹介しました。
 今では誰も知らないけれど、江戸時代、四条先斗町を上がったところにあった料理屋です。

 「花洛名勝図会」のいけ吉
  幕末のいけ吉(「花洛名勝図会」より)
 
 江戸後期から明治時代頃には、いけ吉のような生洲と呼ばれる料理屋が鴨川や高瀬川近辺にたくさんありました。

 今回は、この生洲特集です。

 まず、上の絵が載っている「花洛名勝図会」(1864年)の挿図を見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」
  「花洛名勝図会」より「四条橋 其二」(部分)

 四条大橋の西詰。橋につづく大通りが四条通です。そこから左上に分岐する小道(ページの境目)が先斗町です。
 つまり、先斗町の入口辺りを描いた絵です。

 先斗町

 現在では、先斗町入口の右側が交番、左のシャッターが閉まっている店がタバコ屋さん。
 この交番があったところは、幕末には料理屋が建っていました。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」

 藤屋。
 暖簾に書いた「ふぢや」という表記が、なんとも江戸時代。
 よく見ると、右端の掛け行燈(あんどん)などに「萬川魚(よろずかわざかな)」と記してあります。つまり、この店もまた生洲だったわけです。
 2階にも座敷があって、飲食する人が描かれています。

 入口左の横長の掛け行燈には、どうやら出される魚の名などが書かれているようですね。
 また、その下の路上に “フジツボ” みたいなものが2つ置かれていますが、これは魚を入れるビクでしょう。
 ビクは「魚籠」と書き、竹で編んだ魚を入れておくカゴです。釣りでよく使いますね。
 結構リアルに描いてあります。

 今度は、反対のタバコ屋さんのところ。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」

 余談ですが、画面左端に画かれている縦長の看板には「かんざし」とあって、たぶんこの店は今もありますね。
 2軒描いてある左の店は、餅屋さん。右の店が「萬川魚」と掛け行燈に書いている生洲です。店名は、ちょっと不明瞭ですね。

 こちらも店構えは藤屋と同様で、入口の左側には小窓状の部分があるので、ここはテイクアウトする場所なのかも知れません。


 西石垣という場所

 鴨川や先斗町の付近は、昔の京都でいえば街の東のはずれです。
 平安京の東京極(ひがしきょうごく)大路は、現在の寺町通に相当します。その後、豊臣秀吉が御土居(おどい)という土塁で京都を囲みますが、その東のラインは河原町通の西辺りでした。

 江戸時代になって寛文10年(1610)、鴨川の両岸に長大な堤が造られます。とりわけ、三条から五条の間は石垣を積みました。
 この石垣の堤防を「東石垣」「西石垣」と呼んでいます。読みは「とうせき」「さいせき」です。もとは石垣の名前だったはずですが、いつしか地名のように使われました。

 東石垣は、現在の宮川町筋にあたり、西石垣は先斗町の四条通以南を指します。
 西石垣は、四条大橋畔の東華菜館の脇を入って行きます。

 西石垣 西石垣の入口

 東華菜館の南には、ちもとという料亭があり、細い通りが延びています。

 西石垣
  西石垣 左が京料理ちもと

 いま西石垣通というこの通りは、四条通から南へ延びて、木屋町通に合流するまでの約100mの細道です。
 現在では木屋町通の脇道のようになっていますが、江戸時代にはこの辺りには木屋町通はなかったので、四条から南に行くにはこの西石垣を通りました。

 「花洛名勝図会」には、西石垣の入口辺が描かれています。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」 ← 西石垣通

 150年前の東華菜館の場所。
 入口に「うどん」の提灯を掲げた小店があり、右の建物には、やはり「萬川魚」の行燈が掛かっています。ここも生洲だったわけです。店の名も書かれていますが、どうも読めないのですね。

 ちなみに、明治16年(1883)に出た「都の魁」には、四条大橋西詰の3軒が書かれています。
 先斗町入口の右が藤や(つまり幕末のまま)、左は浪花楼です。そして、東華菜館のある場所には京屋と記されています。

 西石垣
  鴨川から望んだ西石垣 (橋は四条大橋)


 生洲いろいろ

 「商人買物独案内」(1831年)など、古いガイドブックをもとに、かつてこの近辺にあった生洲をリストアップしてみましょう(読み方は便宜的なものです)。

 ・生 亀(いけかめ)……木屋町三条上ル
 ・藤 屋(ふじや)………先斗町四条角
 ・生 吉(いけきち)……先斗町四条上ル
 ・扇 長(せんちょう)…同上
 ・亀 吉(かめきち)……同上
 ・平 長(ひらちょう)…木屋町四条上ル
 ・大 儀(だいぎ)………河原町四条下ル
 ・生 亀(いけかめ)……木屋町松原上ル

 滝沢馬琴や司馬江漢らは、松源や柏屋といった名もあげています。
 馬琴によると、柏屋は先斗町に出店があったようです。いま先斗町四条上るに「柏屋町」という町名が残っているのは、その名残なのでしょうか。
 上記では、生吉と2軒の生亀は著名だったようです。
 
 北の方の生亀があったあたりの現状。

 三条木屋町
  木屋町三条(北を望む)

 高瀬川に面したこのビルのあたりに、生亀があったらしいのです。

 高瀬川
  高瀬川


 生亀の実態とは?
 
 この生亀(いけかめ)と思われる生洲が「都名所図会」に取り上げられています。

 「都名所図会」より「生洲」
  「都名所図会」より「生洲」

 こんなふうに説明されています。

 生洲といふハ、高瀬川筋三条の北にあり。川辺に楼をしつらひ、もろもろの魚鳥を料理[し]て客をもてなし、酒肴を商ふ
 (中略)
 しかしながら婦人の来集、琴・三弦の音曲を禁ず。むかしより此所の掟[おきて]となんいひ伝へ侍る  


 「魚鳥を料理」するとありますが、江戸時代、魚と鳥を一緒に扱う店も多かったようです。
 そして、女性を侍らしたり、歌舞音曲は禁止ということで、純粋に飲み食いする料亭だったようですね。

 「都名所図会」より「生洲」

 高瀬川に面した縁側に出て飲み食いしたり、川に盃を流して楽しんだり。

 「都名所図会」より「生洲」

 よく見ると、座敷の奥に、魚が泳ぐ生洲がありました!

 夏場など、涼しさ満点で、さぞかし楽しかったでしょう ! !

 ガイドブックや、滝沢馬琴、司馬江漢らによると、ウナギ、コイ、フナ、ハモなどを供したようです。鯉の洗いとか鱧の落しとか、おいしそうですね。
 かの本居宣長も、京都に滞在した折に、しばしば先斗町や西石垣などの生洲を利用していたようです。ちょっとしたブームがうかがえますね。




 先斗町の生洲跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る柏屋町
 見学  自由
 交通  阪急電車「河原町」、京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年
 「商人買物独案内」1831年(『新撰京都叢書』)
 「工商技術 都の魁」1883年(同上)
 川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 加藤政洋『京の花街ものがたり』角川選書、2009年


以前の記事の落穂拾い的に「いけ吉」について調べてみた





いけ吉手水鉢


 裏寺町にあった大龍寺

 ずいぶん前になりますが、かつて四条河原町にあった大龍寺について書いたことがあります。
 正確には、四条河原町の北西、いまOPAがある辺りにありました。
 高島屋前の横断歩道を北に渡ると、みずほ銀行がありますが、その宝くじ売り場の左脇の路地(これを「うすさま辻子」という)の奥に、山門があったのです。
 なので、裏寺町にあったと言った方が正しいでしょう。

 この大龍寺は、昭和52年(1977)に右京区に移転しました。
 本堂は新築されたようですが、かつての烏須沙摩(うすさま)明王のお堂は、移築されたもののようでした。

 大龍寺
  烏須沙摩明王堂

 お堂に懸った絵馬には、裏寺町にあった頃の風景が描かれています。

 大龍寺

 以前の記事は、こちらをご覧ください! ⇒ <四条河原町の喧騒の中に「烏須沙摩辻子」はあった>


 手水鉢の奉納者「いけ吉」とは?

 大龍寺の烏須沙摩堂の前に、石の手水鉢が置かれています。

 いけ吉手水鉢

 露天で置かれています。
 これは裏寺町にあったものですから、当時は手水舎があり、井戸とセットになっていたのではないでしょうか。
 ちなみに、後ろの灯篭も裏寺町から持って来られたものです。

 いけ吉手水鉢

 前面には、奉納と大書されています。この素朴な雰囲気から、古いものだと分かります。
 左側面に、奉納年が記されています。

 いけ吉手水鉢

 写真では、まったく読めません(笑)
 実際には「文政六/癸未年/六月」と書いてあるようなので、文政6年(1823)のものということになります。

 そして、裏面には奉納者名が刻まれていました。

 いけ吉手水鉢

 「願主/いけ吉」。

 表面と同様、大きく願主の名が記されています。
 1年半前、この「いけ吉」が何者か、よく分かりませんでした。まあ、何かの屋号ではあるのですが、あまり深く考えなかったのです。
 
 その後、幕末に刊行された「花洛名勝図会」の挿図を見ていた時でした。

 「花洛名勝図会」より「四条橋」
  「花洛名勝図会」より「四条橋」(部分)

 鴨川と四条大橋周辺を描いた絵。
 アップにすると……

 「花洛名勝図会」より「四条橋」

 あっ! こんなところに「いけ吉」が ! ! 

 意外な出会い。
 鴨川の西岸ですから、どうやら先斗町(ぽんとちょう)にあったようです。
 
 川に面したところにある「いけ吉」という店。
 これで、何の店かは想像が付いてきました。

 「いけ吉」の「いけ」は、生洲(いけす)の生だと思いました。
 吉は、もちろん、吉兵衛とか吉右衛門とか吉助とか、名前の1文字でしょう。「美濃吉」なんかと一緒ですね。
 つまり、“生洲吉兵衛”(例)みたいな感じですね。

 ちなみに、いま京懐石 美濃吉のウェブサイトを見ると、こんなことが書いてあるのです。

 その後、代々当主は「美濃屋吉兵衛」を名乗ります。
 川魚生洲料理屋としての形をととのえ、江戸時代後期には京都所司代から認可を受けた川魚生洲八軒のうちの一軒として川魚を主体とする料理屋を営むようになりました。


 えっ! 美濃吉も生洲だったのか ! !
 知らなかった。
 
 美濃吉は、戦前まで鴨川東岸の三条縄手にあり、「川魚料理 縄手美濃吉」と名乗っていた時代もあるそうです。


 生洲って、なんだ?

 少し先走ってしまいました。
 そもそも「生洲(いけす)」って何でしょう?

 魚を獲って、それを生かしたままにしておく装置――それが生洲ということに、まずはなるでしょう。
 海や川に網や竹かごなどで作る場合も多く、今だったら水槽を使うものも生洲と言ったりしますね。そのため、もともとの文字は「生け簀」です。

 ところが、第2の意味があるのです。
 それは、魚料理を出す料理屋、というもの。生洲を持っている店ということで、少し意味が拡大したわけです。

 ただ、この言い方は上方(京大坂)独特らしく、江戸では言わないそうです。
 三都の風俗を比較した「守貞謾稿」は、

 京坂ともに皆、表掛行燈(かけあんどん)に万川魚(よろずかわざかな)と書き、生洲と称して鰻(うなぎ)かばやき・鯉(こい)・鮒(ふな)の類を兼ね、今は海魚を専ら交へ調す。

 と書いています(巻5、生業上・鰻屋)。

 つまり、「生洲」というのは店の呼称で、もとはウナギ、コイ、フナなどの川魚を供していたけれど、現在では海の魚も出している、ということです。
「守貞謾稿(もりさだまんこう)」は、天保8年(1837)以来の見聞をまとめ、嘉永6年(1853)に一旦まとめられた書物です。江戸時代終わり頃の状況を示しています。

 食文化は、上方と江戸では大変異なることは周知の通りです。
 例えば、江戸で「刺身」というものを京坂では「造り」「お造り」と言う類です。守貞謾稿には、江戸にあって京坂にないもののひとつとして「刺身屋」(カツオ、マグロの刺身を出す店〉を上げているくらいです。

 京坂では、海の魚と川の魚を扱う業者が別々なのが基本でした。そのため、川魚専門店が数多くあったのです。
 特に、生洲と言えば、川魚を扱う料理屋とされていました。

 実は、先ほどの「花洛名勝図会」の絵にも、先斗町入口の両側の店には、「萬川魚」と書いた掛け行燈が下がっています。
 四条大橋のたもとの店は藤屋という屋号ですが、そこから先斗町を少々北に上がったところに、いけ吉がありました。

  先斗町 先斗町


 ガイドブックに登場する「いけ吉」

 この先斗町や西石垣あたりは、幕末でも料理屋が多いところでした。
 西石垣は、「さいせき」と読み、先斗町の通りの四条通以南を指します。

 「花洛名勝図会」の「西石垣」の項には、次のように書かれています。

 さる程に青楼(ちゃや)、貨食(りやうりや)檐(のき)を列ね、河海の鮮魚、諸鳥の煮売、魚類、精進の酒飯の饗応(もてなし)、饂飩(うどん)、蕎麦切(そばきり)、鮓(すし)、饅頭、菓子、木果(くだもの)其余新奇の食類店、日々夜々に増益して酒池肉林に勝りたり

 いろいろと珍しい食べ物を扱う店が出来て行って「酒池肉林に勝っている」なんて、すごいですね。
 さらに、

 就中(なかんづく)生洲の楼、東山一望にして月雪殊に絶景なり

 と、生洲についてふれ、鴨川に臨む店から東山の眺めが絶景だったと述べています。

 いけ吉は、江戸後期から明治時代のガイドブックにも、ちゃんと出て来ます。

 まず、天保2年(1831)の「商人買物独(ひとり)案内」。
 ここには、「御料理/西石垣四条上ル/生洲 いけ吉」と登場。

 また、明治初期の絵入り商工ガイド「都の魁」(1883)にも、大きく紹介されています。
 ここでの店名表記は「生洲 生吉楼」。
 絵によると、先斗町の通りの西側に2階建の大きな店舗を構えていて、2階の座敷からは確かに鴨川や東山が一望できそうです。ちなみに、「花洛名勝図会」の図も、よく見ると、通りの西側に店があったことが分かります。
 さらに、通りの東側(鴨川側)にも、平屋の座敷があって、川に張り出す床(ゆか)のようなものも造られています。また、河原にも出られるようになっていて、たいへん大きな料理屋だったようです。
 
 鴨河原
  かつて「いけ吉」があったあたり (四条大橋から望む)

 いや、生洲のことがおもしろくなってきて、すっかり大龍寺の手水鉢のことを忘れていました。

 いけ吉手水鉢

 先斗町のいけ吉があった場所から、約200m西に行ったところが大龍寺でした。つまり、ご近所だったわけです。
 大龍寺の烏須沙摩明王は、このあたりで芝居する役者や青楼の芸妓らも信心するなど、幅広く信仰を集めていました。いけ吉の主人らも、この明王の篤信者だったのかも知れません。

 落穂拾い的に気付き、調べた「いけ吉」ですが、なかなか愉しいので、もう一回、生洲について取り上げてみましょう。

 (この項、つづく)




 いけ吉跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る鍋屋町
 見学  自由
 交通  阪急電車「河原町」、京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『近世風俗志(守貞謾稿)』岩波文庫、1996年
 「商人買物独案内」1831年(『新撰京都叢書』)
 「商工技術 都の魁』1883年(同上) 


吉水弁財天で、秘仏の弁天さまを見てしまった僧侶の運命は……

洛東




吉水弁財天


 日本的な弁才天の造形

 先日、滋賀県のある博物館で展示を拝見していたら、立派な弁才天(弁財天、弁天)の座像が陳列してありました。竹生島に奉納されたものだそうです。

 その造形なのですが、通常の一面八臂(いちめんはっぴ。顔が1つで手が8本)の弁才天の頭上に、おじいさんの頭が乗っかっているのでした!
 このおじいさんは、宇賀神(うがじん)というもので、老翁の顔をしていますが、カラダは蛇です ! !
 
 弁才天は、インドから日本に入りましたが、学問・技芸から戦さまで、さまざまな功徳が説かれるようになります。しかし、もともとはサラスヴァティーというインドの川の女神でした。つまり、水の神さまだったわけで、五穀豊穣をもたらす神だったのです。
 一方、宇賀神は日本生れの穀物の神さまです。その起源は、宇迦之御魂(うかのみたま)に由来するともいわれますが、定かではありません。
 弁才天と宇賀神は、ともに五穀豊穣を叶える神さまということで、ふたつをくっつけるとダブルの効果? が得られるわけです。
 このミックスは、仏経典には見られないらしく、日本オリジナルということです。


 京都の弁才天

 そんな像を見て滋賀県から帰ってくると、京都の弁才天が気になり始めました。
 「京羽二重(きょうはぶたえ)」(1685年)をひもとくと、「弁財天二十九ケ所」というのが出ています。京都にある著名な弁天さん29をリストアップしたものです。
 それを見ると、ほとんどの弁天さんが単独ではなく、お寺の中に祀られていることに気づきます。
 例えば、廬山寺、清荒神、天性寺、大雲寺、四条道場、安養寺、長楽寺、東寺、壬生寺などなど。江戸時代では有名な寺院が多いです。

 その中で、今回は円山公園の奥にある安養寺の弁才天を取り上げてみましょう。


 安養寺の弁財天

 安養寺の弁天さんは、吉水(よしみず)弁財天と呼ばれています。

 吉水弁財天
  吉水の井

 浄土宗の開祖・法然上人が庵を結んだ場所。そこに吉水という水が湧いていた、というところ。
 なので、吉水弁財天です。

 吉水弁財天
  吉水弁財天  左の石段を上ると安養寺に至る

 この弁天さんのことは、以前少しだけ書いたのでご参照ください。

 記事は、こちら! ⇒ <きょうの散歩 - 吉水弁財天堂と「舞妓はレディ」 - >

 幕末の「花洛名勝図会」に、こちらのリアルな図が掲載されています。

 「花洛名勝図会」より「吉水弁天社」
  吉水弁天社(「花洛名勝図会」五)

 鳥居と立派な拝所を持つ弁天社。
 ちなみに、鳥居の左脇には、池のような吉水が描かれています。

 ただ、このお堂は、明治34年(1901)には壊れたようで、明治44年(1911)に新築されています(境内の再建記念碑による)。
 つまり、いまの弁天堂は約100年前のものということになります。龍や獅子など細部の彫り物が明治らしいですね。

 吉水弁財天

 本尊の弁財天のうしろには、宇賀神が祀られているそうです。
 先ほどの像と同じ考え方なわけですね。

  吉水弁財天 背面には宇賀神を祀る


 秘仏を見た僧!

 ところで、「花洛名勝図会」には、図以上に興味深い話が掲載されています(大意です)。

 吉水の弁才天女の尊像は、秘仏なので見ることが許されていなかった。

 少し昔のこと、住職に老僧がいたが、慢心が生じたのか、「弁才天は当山に降臨した尊天である。私もまた当山の一老職であって、毎日お仕えしているからには縁のある身のはず。いかに秘仏といっても、拝礼するのにどうして祟りがあろうか」

 皆は、これを聞いて止めたが、老僧は聞き入れなかった。
 ついに、独り壇にのぼって、扉を開いて尊像を拝したのだ。

 拝んでから、さらに見ようとした時、尊天からものすごい光線が出て、老僧の目を射たのである。
 老僧は驚いて、あわてて扉を閉じたが、そのまま気絶してしまった。

 皆で介抱して、坊に戻り、いろいろと弁才天をなだめる修法をすると、ようやく老僧は意識を取り戻し、一命は取り止めた。
 しかし、それ以後は盲目になってしまったという。  


 ちょっと怖い話です。
 秘仏を見て、目に光線(原文では「赫々たる光明」)を射かけられるなんて、聞いたことがありません。

 「花洛名勝図会」は、それに続けて、

 かゝる応験神速なる霊像なるが故、都下の良賤、ことには鴨東の妓娼等、信心崇敬し、香花を捧げて間断なく歩みを運ぶ者、頗る夥(おほ)し

 と結んでいます。
 「応験神速」、すなわちレスポンスがとっても早いので、功徳があると、京の人々、とりわけ花柳界の綺麗どころに信仰されたということです。 
 また、巳の日にはとりわけ人々が集まると書いています。
 これは、今日でもあるようで、こんな看板が懸けられていました。

  吉水弁財天

 ちなみに、大正4年(1915)に刊行された『新撰京都名勝誌』にも、吉水の弁財天は「本尊は秘仏とし、例月巳の日信仰の徒賽詣するもの多し」と記されています(142ページ)。

 弁天さんは水の神さまなので蛇(巳=み)とも関係が深く、うがった見方をすれば、冒頭の宇賀神の蛇身ともかかわりがあるのかも知れません。


  吉水弁財天




 吉水弁財天堂

 所在 京都市東山区円山町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「祇園」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「京羽二重」1685年(『京都叢書』所収)
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 中村元『図説佛教語大辞典』東京書籍、1988年
 展示図録『大湖北展』滋賀県立安土城考古博物館、2016年

 

【新聞から】「府政だより」から「府民だより」へ、昔も今も編集の苦労は変わらない

その他




府民だより


 日本海側から京都を強く
 きょうと府民だより 2016年2月号



 前回、美山の茅葺き民家を紹介しました。
 美山は、現在は京都府南丹(なんたん)市に属し、市町村合併前は北桑田郡美山町でした。

 私は京都市内に住んでいるので、ここで紹介する史跡、寺社なども、京都市内のものが多くなりがちです。
 けれども、祖父の出身地は旧船井郡日吉町、つまり現在の南丹市ですので、丹波の地とも深いゆかりがあるのでした。
 そのあたりは、南北に長い京都府の中で言うと、およそ真ん中に位置するというイメージです。
 という理由は、そこが日本海側と太平洋側の分水嶺に近い、ということにあります。

 京都市内を流れる鴨川や桂川(上流は保津川)、あるいは宇治川や木津川は、淀川水系です。
 一方、この分水嶺から北方に流れ落ちる川は、由良川水系となり、日本海に注ぎ込みます。
 私の名前は「船越」というのですが、こんな山中の村なのになぜ「船」が付く苗字があるの? と思われますが、実はこの分水嶺が船越という名の由来だと考えています。

 美山
  美山を流れる由良川源流

 暖かくなったら、そんな由良川水系の旅もやってみたいな、と思うのですが、今日は「新聞から」。
 京都府民に配布される府の刊行物が「きょうと府民だより」です。
 2016年2月号で、通巻418号。
 ということは、30年以上も発行されつづけている勘定になります。


 「府政だより」の創刊

 その歴史を軽く探ってみると、「きょうと府民だより」の創刊は、昭和54年(1979)1月のことでした。
 意外に新しいな、と思ったら、その前身として「府政だより」というものがありました。

 昭和24年(1949)4月の創刊で、京都府立総合資料館には、昭和53年(1978)1月まで161号が保存されています。いまと同じ月刊で、創刊号を見ると「毎月十五日発行」と書かれています。発行者が、広報課ではなく「弘報課」となっているところにも時代を感じさせます。
 
 この「府政だより」は、いまインターネット上から閲覧することができます(京都府立総合資料館「京の記憶アーカイブ」)。
 創刊号は、体裁も紙質も新聞のような感じで、8ページ。
 冒頭に、木村惇(あつし)知事の「発刊のご挨拶」が記されています。

 「暗く寒い忍従の冬も過ぎて、万物萌え出でる青々溌剌の春がやつて参りました」と始まる木村知事の挨拶。当然、この新しい刊行物の発行の目的を語ることになります。

 知事曰く、府の施策のうち知ってもらいたいもの、協力願わねばならないもの、逆に知りたいと思われること――それらを分かりやすく報道し、府の意図や台所事情を知ってもらい、協力や批判をいただきたい、と述べています。
 つづけて、木村知事は言います(適宜改行しています)。

 申すまでもなく、民主々義政治の下におきましては治者と被治者という区別はないのでありまして、府政について言えば、府政の主人公は府会でもなければ、知事でもなく、府民の皆様が府政の主人公である訳です。
 皆様の選挙によつて選ばれた府会議員は、皆様に代つて予算とか決算とか条例とか審議議決の面を担当し、この執行面は之又[これまた]府民の直接選挙によつて選ばれた知事がこれを担当しているに過ぎないのであります。
 それ故に、議員も知事も共に公に奉仕する立場であるに過ぎないのでありますから、府政のことは府会や府庁へまかせておけばそれだけでよいというような傍観的の考え方は民主々義の下では許されないのであります。(中略)

 従来は、知らしむべからずとまでは行かなくとも、七面倒なて数はなるべく省いて、こう決まつているんだからついて来いと言つた風な、「倚[よ]らしむべし」的な方式が国政に於ても府政に於てもともにとられていた傾[かたむき]があつたと思うのであります。
 しかし、いかにそのことが手数がかかつても、台所を担当しているものは台所の状況ありのままを主人公に報告する義務を怠つてはならぬでありましよう。同時に又、ほんとに、常に一家のことを心にかけている主人公なら、その報告を熱心に聴くばかりでなく、納 (以下、欠落) (中略)

 時によつてはその報告内容は、細々と煩わしかつたり、又あまり愉快な結果が出ていないために心中不快な思いをすることもあるでありましよう。しかし、その主人公が辛抱強く、一家の生活改善について、家族の健康について熱を持つて、家計担当者と一つしよになつて努力するならば必ずよい結果を招来するでありましよう。(後略) 

 
 いま読むと、かえって新鮮です。戦後、民主主義がスタートした頃の言葉ですね。

 木村惇(あつし)という人は、戦前の外務官僚で、戦後、第31代京都府知事に就任。府のウェブサイトによると、最初の府議会でリンカーンの言葉を引いて、「府民のためを思い、府民の手によって運用する府民の政治をし、160万府民の代表者として大任を果たしたい」と述べたそうです(京都府ウェブサイト「歴代の京都府知事」)。
 その後、初の公選知事となりました。当選の2年後、「府政だより」が創刊されたことになります。
 ちなみに、木村知事の辞職後に就任する知事が蜷川虎三(にながわ・とらぞう)。私が実際に知っているのは、この蜷川府政の時代からですが、もう歴史的人物ですね。


 いまの「府民だより」

  きょうと府民だより 「きょうと府民だより」2016年2月号

 かつての「府政だより」は、昭和54年(1979)4月から「府民だより」に改題されました。
 実は、昭和53年4月に、28年! の長きにわたった蜷川府政が終わり、後任に林田悠紀夫(ゆきお)知事が就任しました。林田さんは自民党ですから、いわゆる革新府政の終焉です。
 それにあわせて「たより」のタイトルも変更されたのでしょうか。なんだか、おもしろいですね。

 そんな「府民だより」。
 今月号(2016年2月号)の主な内容を紹介してみると……

 ・クリーンエネルギーで 日本海側から京都を強く
 ・文化庁の京都移転実現に向けて、国に要望書を提出
 ・和食と「京都・和食の祭典2016」
 ・京都中丹ジビエフェア2016
 ・企業との地域活性化包括連携協定
 
 巻末の4ページは、情報ページです。
 「府民だより」は、京都市の話よりも、丹後、丹波、南山城といった地域の話が多くなります。
 今回、和食特集に続いて、ジビエが取り上げられていたのには驚きました。
 確かに、京都府内には山間部が多いので、鹿肉とか猪肉とか、いろいろ捕れるのですね。
 この「京都中丹ジビエフェア2016」は、福知山、舞鶴、綾部などのお店で、2月末まで開催されているそうです。


 「あとがき」が、おもしろい!

 今回、「府民だより」を取り上げてみようかなと思ったのは、実は編集担当者の編集後記、つまり「あとがき」でした。
 
 気付けば2月。広報担当になってもうすぐ1年が経過しますが、日々感じるのは「伝えたいことが伝わる」ことの難しさ。
 (中略)
 特に今回の特集では、未だ皆さんの目に見えない “京都の一歩” が少しでも伝わる紙面にするため、本当に悩みました。なんとか形にした内容が、1人でも多くの方に伝わることを願っています。皆さんの率直なご感想をお聞きできれば嬉しいです。


 これは、ご担当の新納麻意さんの編集後記です。
 日々考え悩みながら、編集に当たっておられる様子が、よく伝わってきます。

 実は、60余年前の「府政だより」にも、あとがきがありました。
 創刊号のあとがき(「編輯室」)には、こうあります。

▽「倚[よ]らしむべし、知らしむべからず」と云ふ官僚主義の旧套を脱ぎ捨てて「民主主義」の晴衣に着替える為、咲きそめる花にせき立てられて、漸く縫ひ上げたのが此の「府政だより」第一号です。

▽未熟者が急いで縫つた着物は、お見かけ通り体裁もよくないばかりでなく仕立て下しはどうも体にぴつたりそわない様ですが。

△編輯子の及ばざるところ次号への努力を御誓いしてお詫びを申し上げると共に今後の御指導を願ふ次第です。(後略) (第1号、昭和24年4月号) 


 時代が180度転換し、担当となった職員たちの心境がよく表れています。
 続いて、第2号のあとがきです。

(前略)
◇桜の花のほころびのうちにと晴衣を着せて兎も角もお手許迄お届けした創刊号も、親しく読んで戴いたことと存じます。皆さんに今後とも可愛がられる便りとして育つて行くためにキタンのない御意見をお願ひして止みません

◇私達の京都府をよりよいものとするために出来るだけ多くの資料を提供して、府の現状をよく知つて戴き理解の上に皆さんの御協力をお願ひすることが一番大切であると思ひますこうした小さな紙面乍[なが]ら果す使命におもひをいたしあれもこれもと編輯子も懸命です (第2号、同年5月号)


 「編輯子も懸命です」というところに、実感がこもっています。
 そして、第3号。

(前略)
◇素人揃いの編集子が額をあつめての健闘ながら、まだまだ希望通りには程遠い。待たれる「府政だより」とするまではと張切つています。

◇三つ児の魂百までという言葉があるが本紙もはや第三号をお届けすることができました。私達の京都府のありのまゝの姿を知つていただいて、正しい判断に基いた御批判や御協力をお願いする本紙の使命は百号千号に至るも変りなくと編集子は懸命です。

◇これ程頭張つている編集子にお褒[ほめ]の言葉があつてもよい頃、いやお叱りの言葉でもよい、紙切れにでも御感想を下されば。 (第3号、同年6月号) 


 おもしろいですね、「お褒の言葉があってもよい頃」とは。
 ご自身たちは、かなり努力され、自信作に近付いている手ごたえがあるのでしょう。

 第4号では……

◎号を遂うて一進一歩と自認する編集子、内外を通しての予期以上の好評に筆の運びも軽い

◎前号についての御意見頂きましたが締切後のため止むなく次号へ、この点お諒解下さいますよう。 (第4号、同年7月号) 


 「好評に筆の運びも軽い」とは、なかなか結構なことですね!
 前号の感想も届いているようです。

 このあと、あとがきのない号や欠号があるのですが、第5号(8月号)の記事には、弘報課の陣容が刷新され、部屋も本館の玄関脇になり、「文字通り府政の玄関番をつとめています」と記されています。

 第7号のあとがきには、そのことがふれられています。

(前略)
△弘報課が府庁の玄関横に陣取つて皆様の御出でをお待ちしています。皆さんの府庁をよりよくする為の御意見御要望をどしどし御寄せ下さい。

△読んでいただいている方々だけに可愛がられる府政便りに終らせないで、一人でも多くの人々に回覧していただいて、御批判や御協力を待ちたいのが編集子の切なる願いです。

△どの町どの村からも増刷要望の声に応えて努力すると共に弘報課では新しい企画として美い壁新聞の発行や弘報資料の編集を計画しています、御期待下さい。 (第7号、10月号)


 新しい時代に臨んで、はじめて広報誌を作る苦労。
 一連のあとがきには、懸命にその仕事に取り組む府職員の姿が素直に表れています。

 第8号から先、あとがきは姿を消します。
 翌年の6月号に一時復活しますが、簡潔な調子に変わり、最初の頃の調子とは変化します。なにか理由があったのでしょうか。

 昔も今も、たいへんな広報誌の編集。
 あとがきには、担当者の実感が書かれていて、読み手としては共感のできる部分ですね。
 これからも、率直な気持ちをあとがきに書いていただいて、多くの人たちに親しまれる「府民だより」になればいいですね。




 【参考文献】
 「府政だより」各号(京都府立総合資料館「京の記憶アーカイブ」)


茅葺きの里・美山を歩く





美山


 民家の「発見」

 京都は、古くから都として栄えてきた土地柄なので、あまり「鄙(ひな)びた」イメージはないでしょう。
 けれども、実際には周辺の農山村とのつながりによって、蔬菜や薪炭、材木などを得てきました。
 郊外の村々、例えば北白川であれ大原であれ高尾であれ、昔は徒歩でも日帰り圏内でした。
 学生の頃、滋賀県の仰木(おうぎ)という集落、これは京都からみると山の向こう側、比叡山の北東にある集落ですが、そこで聴いた話。仰木は、私たちのイメージでは京都とは別世界という感じで、遠く離れているのですが、地元の方によると、昔は歩いて日帰りで京都にものを売りに行っていたというのです。少々意外でしたが、峠道を大原の方へ越えて行けば、案外京都にも近いのでした。
 そんなことで、都鄙(とひ)という言葉がありますけれども、都と鄙(ひな=田舎)は密接に結び付いていたのです。

 大正時代になると、民俗学的な関心により、「民家」というものが発見されます。
 まぁ、地元の人は「昔から住んでたよ」という話ですが、都会の人々にとっては、その頃、田舎にある鄙びた家々が新たに関心の中に浮かび上がってきたわけです。
 全国区では、民俗学者・柳田国男や今和次郎(こん・わじろう)らの活動(白茅会)が著名ですが、京都でも藤田元春(第三高等学校教授)や岩井武俊(大阪毎日新聞記者)らが郊外の民家について記録・研究を行いました。藤田元春は美山の出身なのだそうですが、『日本民家史』という体系的な研究書があります。また、岩井武俊は『京郊民家譜』(正続)という写真記録を刊行しました。


 雪のない冬の茅葺きの里

 2月の寒い日、JR山陰本線・日吉駅からバスに乗り、途中で乗換えまでして、美山を訪れました。
 ここは、京都府南丹(なんたん)市ですが、かつては丹波国北桑田郡でした。現在でも「市」というイメージはまったくなく、いわゆる中山間地域に当ります。
 最も茅葺き民家が集中しており、重要伝統的建造物群保存地区となっているのが「北」という集落です。
 茅葺き屋根の家々が38棟も残っていて、壮観ですね。

 美山
  美山「茅葺きの里」北集落

 美山

 集落は、南に由良川(美山川)が流れ、北に山を背負った地形。集落内は緩やかな傾斜地になっています。
 川側に田んぼが拡がり、山側に住居が点在しています。

 美山
  知井八幡神社から西を望む

 今年(2016年)は暖冬で、当地でも余り雪は降らず、私が訪れた日も4日前に降った雪が融けてきたところでした。

 美山


 北山型の民家

 ここに来ると、おのずと絵画的な写真が撮れてしまいます。

 美山

 とても牧歌的です。

 ところで、ひと口に茅葺き民家と言っても、いろいろなタイプがあります。
 まず、屋根の形を見てみましょう。
 
 白川郷や五箇山で有名な「合掌造」は、切妻(きりづま)造。
 ここ美山の民家は、入母屋(いりもや)造です。

 美山
  入母屋造の屋根

 雪が積もる地域らしく、屋根の傾斜は急です。
 棟の上には、千木(ちぎ。斜めのX型の材)と雪割り(水平の材)を載せています。下の写真でよく分かりますね。

美山

 美山の民家は、もともとは妻入りでした。この写真で言うと、左の面に入口がある形です。

 また、家の中の間取りは、4間(4部屋)なのですが、右側に2間、左側に2間が並んでいます。
 ふつう4間でしたら「田」の字形に配置しそうなものですが、ここの場合、右の列と左の列が少し食い違っているところに特徴があります。

 こういう特徴をひとことで言えば、「入母屋造・妻入りで、食い違いの四間取り」ということになります。
 このタイプを「北山型」と呼んでいます。

 例えば、重文指定されている石田家住宅(美山町樫原)では、家に入ると、まず「にわ」(土間)があり、その先に囲炉裏のある「だいどこ」があって、奥に「へや」があります。へやは寝室ですね。
 右側の列には、まず「まや」(馬屋)があり、だいどこの横に「しもんで」、そして仏壇・床の間がある座敷「おもて」があります。両室の外は「えんげ」(縁側)です。

 この構成は、北集落にある民家・美山民俗資料館で実際に見られます。
 民俗資料館は、焼失した茅葺き民家を再建したものですが、この特徴がよく表れています。

 その他、土間を高く上げる「上げにわ」や、壁を板壁にするなどの特徴があります。
 北山型の民家は、丹波の東北部から若狭(福井県)に拡がっている形式だそうです。これらの地域は山間で、杣(そま)の人々が暮らす住まいでした。


 茅葺き屋根

 集落を歩いていると、こんなものに出会います。

 美山
  カヤタテ

 将来、屋根に葺くためのカヤを干しているところ。カヤタテというそうです。
 川の向こうには、カヤバといって、まとめて立てているところもあります。

 美山
  カヤバ

 茅葺き屋根は、25年から30年で葺き替えるそうです。
 手で触れてみると、案外弾力性もあります。

 美山
  茅葺き

 維持管理も大変そうですが、各戸がよく守られています。
 集落を歩いていると、こんなものが目につきます。

 美山

 消火に用いる放水銃。
 入母屋造の形をしているのが、かわいらしいです。

 防火も含め、集落の景観維持に尽力されている様子がうかがわれます。


  美山




 茅葺きの里・美山 北集落 (重要伝統的建造物群保存地区)

 所在  京都府南丹市美山町北
 見学  自由(美山民俗資料館は有料)
 交通  JR山陰本線「日吉」「園部」下車、バス



 【参考文献】
 『京都府の民家 調査報告 第7冊』京都府教育委員会、1975年
 『日本民家語彙集解』日外アソシエーツ、1985年


京都市役所の周辺は、かつても今も寺院の町





京都市役所


 時節柄、市役所について考えてみた

 京都市では、この週末、市長選挙が行われます(2016年2月7日)。
 その “市長の館” とも言うべき建物が、市庁舎。ふつうに言えば、市役所ですね。

 政令市の場合、住民票をもらうなど、ふだん市民が利用するのは区役所です。そのため、市役所に行く機会は意外に少ないもの。
 私も、建物見たさに、あるいは WC を拝借するなどの目的で市役所に入ることはあるのですが(失礼)、本当に用事があって訪れたことは記憶にないですね。
 誰でも入れるので一度行かれたらよいと思いますが、なにぶん昭和初期の建物。内部は、戦前独特の雰囲気が醸し出されています。そうそう、大正末に出来た大阪府庁なども、同じ雰囲気がします。

 京都市役所
   京都市庁舎 (1927~1931年築)

 いずれにしても、この京都市庁舎は文化財的存在になったので、今後も残って行くことになり、市民のシンボルであり続けます。
 庁舎とその保存計画については、以前まとめましたので、ご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <建て替えられる? 京都市庁舎>


 昭和初期に建てられた市庁舎

 京都市庁舎は、京都ふうに言うと、河原町通御池西入るに建っています。
 もちろん、寺町通御池東入るといっても同じことなのですが、要は、東西は河原町通と寺町通にはさまれ、南北は押小路通と御池通にはさまれた区画にあります。

 このエリアマップで言うと、図の右上端が市役所なのですね。
            このへん かな?

 周辺図

 市役所の下の広い通りが御池(おいけ)通。
 左が寺町(てらまち)通、右の少し広めが河原町(かわらまち)通。
 押小路(おしこうじ)通は、市役所の上にあって、図の外です。

 現在の市庁舎は、昭和初期に段階的に建てられました。
 まず、昭和2年(1927)4月に、東側部分が完成。

 昭和初期の京都市庁舎(『京都名勝誌』)
  竣工時の京都市庁舎(『京都名勝誌』1928年)

 これは、その当時の写真です。
 手前の道路が河原町通です。あたかも、河原町側が正面のようになっています。
 西側はまだ建っておらず、古い建築が見えますね。

 こうして眺めると、河原町側の部分(のちの右翼)だけでも、立派に建物として成り立っていますね。
 現状です。

 京都市役所
  京都市庁舎(東側=1927年竣工)

 つづく西側部分は、昭和6年(1931)8月に竣工しました。
 これで、現在見るような「山」形の庁舎が出来上がったわけです。

 京都市役所


 その昔は、お寺がいっぱい!

 ところが、この市役所のあった場所は、昔から市役所だったわけではないのでした。
 言うまでもなく、江戸時代に市役所はないわけで(当然!)、実はそこはお寺の境内でした。

 なんというお寺かというと、みんな知っているあの寺。

 本能寺

 そう、本能寺なのでした。

 現在、市役所のある町名は「上本能寺前町」。本能寺の町名が「下本能寺前町」。
 昔は、この本能寺の境内が広くて、市役所のあたりまで広がっていたのでした。

 さらに、本能寺の北側、(現在の押小路通の北側。ここも市の土地)には、妙満寺という寺院がありました。本能寺と同じ日蓮宗で、戦後の昭和43年(1978)、郊外の岩倉幡枝(はたえだ)町に移転しました。

 一方、本能寺の南には、昔も今も天性寺(てんしょうじ)があります。

 天性寺
  天性寺

 つまり、下図のような関係ですね。

 周辺図

 「本能寺」という文字のところが、御池通です。
 御池通は、幅員の広い道路ですが、これは戦時中の建物疎開により拡幅されました。


 ふたつの辻子
 
 妙満寺と本能寺の間には、かつて狭い道がありました。あたりに「へっつい」を扱う店があったことから、「へっつい辻子(ずし)」と呼ばれました。
 へっついとは、竈(かまど)のことです。京大坂の方言かな。

 へっつい辻子は、幕末まではありますが、その後、なくなったように思われます。これは市役所が出来たせいでしょうか。

 戦時中になり、御池通と同様、建物疎開によって、寺町通で行き止まりだった押小路通が河原町まで延ばされました。

 押小路通
  押小路通

 もう一方の、本能寺と天性寺の間にも辻子がありました。
 こちらはズバリ「天性寺辻子」。
 いまも残っている、この道です。

 天性寺辻子
  天性寺辻子

 御池通の南の道・姉小路(あねやこうじ)通は、西から延びてきて寺町通で行き止まりになっています。
 その姉小路通からカギ形に曲がるようにして天性寺辻子が東へ延び、河原町通へ抜けています(上の地図参照)。

 考えてみれば、「寺町」らしく、妙満寺-本能寺-天性寺と続くことで、二条通から三条通の間まで約500mにわたって、辻子がなければ東西の通り抜けができません。
 そのため、寺町通と河原町通をつなぐ街路として、へっつい辻子と天性寺辻子が出来たのでしょう。

 寺町通は、事実上、市街地の東端でした。そのため、東西の街路はここで突き当りになっていました。それを解消するために、こういった辻子も出来たのでしょう。

 変っていそうにない古いお寺の町も、さかのぼってみると随分変化しているものです。




 京都市庁舎

 所在  京都市中京区上本能寺前町
 見学  自由
 交通  地下鉄「市役所前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市役所、1929年
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年


滋賀・五個荘の近江商人は、京都にも展開して店舗経営した

その他




滋賀・五個荘


 近江商人のふるさと・五個荘

 2週間ほど後、仕事で滋賀・五個荘に見学会に行くので、ちょっと下見に行ってきました。といっても、休日を利用してクルマでぶらりと見に行っただけなのです。

 五個荘(ごかしょう)は、以前は滋賀県神崎郡五個荘町だったのですが、市町村合併で東近江市五個荘となりました。
 近江商人の根拠地として、近江八幡、日野、高島などと並んで知られています。

 滋賀・五個荘

 五個荘は、「てんびんの里」と言うことも多いようです。これは、天秤棒(てんびんぼう)を肩にかけて荷を運び、商いした行商人の姿を現しています。

  滋賀・五個荘 近江商人像

 
 伝建地区の町並みを歩く

 京都から、クルマで行くと1時間半から2時間というところ(高速道路を使うと、もっと早そう)。
 近江八幡、安土などとセットで観光できます。

 近江八幡は、バームクーヘンで有名な店(というか、クラブハリエ)も出来て、観光客でにぎわっています。水郷のまちとしても知られていますし、建築家ヴォーリズが活躍した場所としても著名ですね。けれども、近江商人の痕跡をたどるという意味では、八幡より五個荘の方が叶っている気もします。

 滋賀・五個荘
  五個荘の町並み

 五個荘とひとくちに言っても、ひとつの町があるわけではなく、農村地帯に点在する幾つかの集落から構成されています。
 金堂(こんどう)、川並(かわなみ)、宮荘(みやしょう)、竜田(たつた)、山本など、商人たちの居住地があります。
 このうち、金堂地区は重要伝統的建造物群保存地区(略して重伝建地区)に指定されています。言ってみれば、町並みの重文のようなところです。
 
 滋賀・五個荘
  五個荘  繖山と愛知川のあいだに集落が点在する

 金堂は、伝建地区になったので、町並みも整備されています。
 金堂まちなみ保存交流館や、「近江商人屋敷」と称される3つの邸が公開されています。今回は、それらを見学してみました。

 集落の南端に観光センターがあり、無料駐車場があります。ここは伝建地区の外ですが、クルマを停めて、集落に入って行きます。
 まず遭遇するのが、弘誓寺(ぐぜいじ)。

 滋賀・五個荘
  弘誓寺

 浄土真宗の寺院です。
 お寺のパンフレットでは、写真の山門は元禄5年(1692)築となっています。結構古いですね。細部をよく見ると、彫刻など少々新しい部分もあるようなので、今日に至るまでに手が入れられているのでしょう。

 そして、本堂です。

 滋賀・五個荘

 滋賀県には、真宗で立派な本堂が多数ありますが、これもそのひとつ。宝暦14年(1764)の建築で、重要文化財に指定されています。

 そんな弘誓寺を見終え、公開しているお邸が集中している北側のゾーンへ向かいます。


 近江商人屋敷を見る

 滋賀・五個荘
  旧大和郡山藩陣屋長屋門(勝徳寺山門)

 かつて金堂には、大和郡山藩の陣屋が置かれていました。同藩が近江国に持った所領を治めるため、この場所に陣屋を設けていたのです。その長屋門は、いま勝徳寺に移築されています。

 公開している商人の邸は4つあり、ひとつは無料の金堂まちなみ保存交流館(旧中江富十郎邸)。
 あとの3つは共通券がある邸で、外村繁邸、外村宇兵衛邸、中江準五郎邸です。

 滋賀・五個荘
  外村繁邸の水屋

 外村(とのむら)という家は、当地の有力商人です。そのひとつ、外村与左衛門は布屋の屋号で手広く商いを行いました。
 京都市中京区の東洞院通蛸薬師上るにウィングス京都(男女共同参画センター)がありますが、その向いに「外与」という会社があります。総合繊維商社ですが、読みは「とのよ」。実は、この外与が、外村与左衛門の略で、五個荘にルーツを持っているのでした。

 外村宇兵衛家は、六代目与左衛門の末子が分家したものです。
 また、外村繁邸は、作家・外村繁の生家ですが、四代目宇兵衛の婿養子が分家した家なのだそうです。

 滋賀・五個荘
 
 外村宇兵衛邸の外。綺麗な流れにコイが泳いでいます。
 小さな通水口から中へ入ると、

 滋賀・五個荘

 川戸(かわと)という洗い場になっています。敷地内に引き込んで、屋根まで掛かっているのが立派ですね。

 主屋の裏は、現在では空地になっていますが、かつては建物が建て込んでいました。
 写真は、書院の跡(礎石)。

 滋賀・五個荘

 この建物は、展示されていた昭和15年(1940)の資料によると、主屋と廊下で結ばれており、24坪あって、二面に縁をめぐらしていました。のち、京都の仏光寺に移築されたそうです。今もあるのかな? と思いながら、礎石を眺めました。

 京都絡みの話で言うと、四条通の大丸のはす向かい(四条烏丸東入る)に、外市(といち)という和装卸業のビルがあります。近年建て替えて、東急ハンズが入っている、あの建物です。
 この外市も、幕末に与左衛門家から分家した外村市郎兵衛がルーツなのです。

 五個荘の近江商人も、やはり仕入れや販売で京都にお店を持つことが多かったのでしょう。
 お隣りの滋賀県には、京都と関連のあるものが多いですね。




 五個荘金堂の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)

 所在  滋賀県東近江市金堂町
 見学  外村繁邸ほかは有料(大人・共通券600円ほか)
 交通  JR「能登川」下車、バス約10分



 【参考文献】
 「近江商人」(『国史大辞典』)