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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

旧開智小学校は、立派な間知石積みの石塀を持つ





学校歴史博物館


 学校歴史博物館になった旧開智小学校

 明治初期、京都に作られた小学校は「番組小学校」と呼ばれ、多くの学校は明治2年(1869)に開校しました。
 その頃の貴重な遺構に、成徳小学校(下京第九番組小学校)の講堂玄関があり、それについては先日紹介したところです。

 記事は、こちら! ⇒ <転用されて残っていた旧成徳小学校の校舎は、学校歴史博物館に移築されている>

 その明治8年(1875)築の玄関が移築されているのが、京都市学校歴史博物館です。

 学校歴史博物館
  京都市学校歴史博物館(旧開智小学校)

 この博物館は、かつての開智小学校(下京第十一番組小学校)を再利用したものです。
 展示室は戦前の鉄筋コンクリート造の校舎なのですが、正門は堂々としていますね。

 この門は、開智小学校の正門で、明治34年(1901)に造られました。校地拡張にともなって、大正7年(1918)、現在の場所に移されています。立派な高麗門で、国の登録有形文化財になっています。
 こういう門は、やはり懐かしいですね。

 学校歴史博物館
  旧開智小学校正門


 立派な石塀

 この学校の前(御幸町通)を通るたびに気になっていたのが、門の両脇にある石塀でした。写真の右端に、ちらっと写っています。
 北側から写してみると……

 学校歴史博物館
  旧開智小学校石塀

 門の脇は、塀が曲がっていますので、カーブを付けています。

 学校歴史博物館

 こういう感じがとても見事で、いつも見ほれていました。
 実は、この石塀も登録有形文化財になっています。どういうものなのか、文化庁のウェブサイト「文化遺産オンライン」から引用してみましょう。

 大正期の敷地拡張時に建設された。正門南北に延び,門廻りの隅は円形に築く。京都白川石を用いた重厚な間知石布積で,通り側は丁寧な瘤出仕上げとする。頂部には笠石を置き,現在は土盛に芝を張っている。往時の有様を伝えるとともに,街路景観を整えている。

 文化財の解説は、だいたいこんな具合に記述するのが常ですが、一般人の理解を退けるものがありますね(笑)
 でも、その情報は、なかなか興味深いのです。


 「間知石布積」とは?

 まず、「白川石」というのが出て来ます。これは、石材の名前です。
 北白川(左京区)あたりで採れる花崗岩のことです。花崗岩(かこうがん)は、よく「御影石(みかげいし)」とも呼ばれますが、これはもともと神戸の御影あたりで産出するものを地名で呼称したものです。白川石も、それと同じですね。
 北白川は、江戸時代から現在に至るまで石材店が多い土地柄。「都名所図会」(1780)を見ても、石材の切り出し風景が描かれています。

 都名所図会より「北白川」
  「都名所図会」巻三より「北白川」

 ただ、石材の判定は素人にはなかなか難しいので、この石塀も白川石だと言ってもらわないと分かりませんね。

 解説文のそのあとには、さらに「重厚な間知石布積で」と書いてあります。あんまりさらっと書いているので、読み飛ばしてしまいそうです(笑)
 「間知石布積」は、「間知石」と「布積」に分かれます。読みは、「けんちいし・ぬのづみ」。

 学校歴史博物館

 まず、布積みです。
 石垣の積み方の一種で、石と石との境目(目地)が、水平方向に通っている積み方です。
 上の写真を見ると、石が横に真っ直ぐ並んでいますね。
 ちなみに、「布」という語は、建築の世界では水平、長手、横方向を表す言葉です。反物の長いイメージなんでしょうか。「布引滝」というのもありますしね。

 下の写真も、布積みです。

 東本願寺
  布積みの例(東本願寺)

 ふつう縦の目地はそろわず、ジグザグになっています。

 この積み方は、石と石とのかみ合わせがイマイチ強くないようですが、お寺や学校の石垣なら、これで十分ですね。
 ブロック塀も、布積みです。現代のものは、コンクリートで固められるので強固なわけです。

 下の写真は、大阪城外堀の石垣。1625年頃に構築されている部分です。

 大阪城
  大阪城外堀(南側)石垣

 目地が水平に一直線というほどではないですが、横方向への志向がうかがえますね。


 間知石とは?

 次に「間知石」。
 読みは、一般的には「けんちいし」です。
 「間(けん)」を知る、ということで、この石を6つ並べると1間(約1.8m)になる、という話があります。1個の横幅が、30cmという計算。ただ、実際にはいろんな寸法の間知石があります。これは、ひとつの語源説だと思っておきましょうか。

 学校歴史博物館

 この間知石、実は形が独特です。
 上の写真では内部が全く分からないのですが、別の場所で露出している間知石を見付けました。

 間知石
  間知石

 上から見たところ。
 奥に行くほど、上下左右がすぼまっていく形です。四角錐(すい)の先端を切り落としたような形。

 間知石
  間知石(模式図)

 およそ、こんなものです。はんこみたいですね。

 並べて見ると……

 間知石

 こういう具合になります。

 彰国社『建築大辞典』には、次のように定義されています。

 間知石  石材の形状による分類の一。大小二つの面(つら)を持った截頭四角錐状の石材。石垣に用いられる。見付きの大きい面を面(つら)、胴尻の小さい面を友面と称し、長さを控えという。「間知」ともいう。

 間知石は日本独特のものとも言います。
 このような形で、一定の大きさにしたものを積んでいくわけです。

 北垣聰一郎『石垣普請』によると、間知石の石積みは、17世紀の寛永年間(1624-1644)から使用例があると言います。
 日光東照宮がその例なのだそうですが、間知石が採用された理由として、

 ・大型石材を必要とせず、同質材の大量生産が可能
 ・構築も、規格石を用いるため、比較的容易
 ・石垣としての出来上がりが美しい

 といったことがあるそうです。
 お城の中でも高石垣を築くことは無理ですが、寺社の石垣や低い石垣を作るにはもってこいの存在となったわけです。
 明治以降になって、さらに多用されていきます。

 明治39年(1906)に出版された中村達太郎博士の『日本建築辞彙』は、間知石についてこう記しています。

 石垣用ノ石ニシテ後方ニ至ルニ従ヒ窄(すぼ)マリ居ル形ノモノ。
 間知ハ相州硬石又ハ豆州ノ田賀及ビ雲見ヨリ産スル凝灰石ノ出来合石ナリ。


 そして、相州、すなわち相模国の硬(堅)石の間知石には、面(つら)の幅が1尺(約30cm)以内から1尺5寸(約45cm)以内のものまで6種類があるとしています。
 また、豆州、つまり伊豆国の田賀(多賀)や雲見の間知石は、並、中、大、尺弐(しゃくに)の4種類があると言い、7寸×8寸のサイズから始まり、最大が「尺弐」(つまり1尺2寸=約36cm)まであるそうです。
 どうやら、明治時代の関東では、神奈川・静岡方面で作られる間知石がポピュラーだったようですね。


 瘤出し仕上げとは?

 開智小学校の石塀で使われた間知石は、表面が「瘤出仕上げ」になっていると解説されています。
 文字も難しいですが、「こぶだししあげ」と読みます。

 つまり、石の表面をコブ状にする、ということですね。
 中村博士の『日本建築辞彙』には、「石面仕上ゲノ一。「えどぎり」ノ類ナレド縁ト突出部トノ境不規則ニシテ突出面モ瘤出又ハ源翁払(ゲンノーバライ)ナリ」とあります。

 この説明自体、また解説が必要ですが(笑)、くどくなるので省略しましょう。
 「えどぎり」は「江戸切り」で、このような仕上げを関西ではそう呼んだそうです。
 現代風に言うと、「粗い凹凸面を付けた仕上げ」のことです(『建築大辞典』)。

 この仕上げは、西洋建築では「ルスティカ(ラスティカ)」と呼ぶんですね。
 いま英和辞典を引いてみると、rustic は「田舎の、素朴な、粗野な」といった意味があります。
 なるほど、ルスティカというと、開智小学校の塀よりも、もっとゴツゴツした粗い仕上げのイメージですものね。

 大阪府立中之島図書館
  ルスティカ (大阪府立中之島図書館)

 それで分かりました、瘤出し仕上げを「江戸切り」という意味が。
 昔の上方(京阪)の人からすれば、粗野な仕上げは江戸風に感じられた、ということなんでしょう。
 なんだか、変な話になったところで、切り上げておきましょうか。




 旧開智小学校石塀(登録有形文化財)

 所在  京都市下京区御幸町通仏光寺下る橘町
     京都市学校歴史博物館
 見学  自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 北垣聰一郎『石垣普請』法政大学出版局、1987年
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年
 『建築大辞典 第2版』彰国社、1993年
 「河川の景観形成に資する石積み構造物の整備に関する資料」国土交通省河川局、2006年
 文化庁ウェブサイト「文化遺産オンライン」


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【大学の窓】最終講義で考えた

大学の窓




キャンパス


 初体験「最終講義」

 この時期になると、各地の大学で「最終講義」というものが行われます。
 定年退職を迎える大学教授が、お名残の記念講義を行うものです。

 やり方は、大学や先生によってさまざまだと思います。
 通常授業の最終回ではなく、別に日程を組んで、いつもより大きな教室で学外の方の聴講も歓迎、というパターンもありますね。
 だいたい、最後に花束贈呈などが行われます。
 
 私はこれまで、テレビでそういう風景を見てきたのですが、今回、初めて実体験することになりました。
 そう、私の恩師が退職するため、最後の講義があったのです。

  キャンパス


 授業を聴講

 2016年1月某日。
 寒い朝、母校に赴き、図書館で少し調べものをした後、最終講義がある校舎に向かいました。
 この建物は私の在学中からあって、その2階は、今は亡くなったN先生やA先生、F先生をはじめ、多くの日本史・西洋史の授業を受けたところです。古文書学の大家N先生が、最初の授業2コマを使って「私の古文書遍歴」という話をされたのも、確かこの部屋でしたね。

 15分ほど前に教室に行くと、部屋の中には多くの学生がおり、顔見知りもいましたので、その横に座らせてもらいました。
 定刻の5分前に、先生がおいでになりました。ちょっと早くて、びっくり。
 ブザーがなると、すぐに授業が始まりました。

 最後の授業だけれど、特段いつもと違う話をするわけではないこと、卒業生が聞きに来てくれていること、など少々前置きをされてから、授業が始まりました。
 その授業を聞くのは、おそらく30年ぶりくらいになると思います。
 正直言って、当時のことは全然覚えていません(すみません…)
 今日の話は、戦国時代に来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスの著作でした。

  ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』

 フロイスが見た日本の社会と文化。その欧州との比較。
 彼の記述を読み上げ、先生のコメントが付されます。
 教室は一言の私語もなく、ただコツコツとペンでノートを取る音だけが響いていました。

 私自身、こうして大学の授業を聴くのは何十年ぶりなのでしょうか。
 正直、いいなぁ と思いました。
 若い人たちが熱心に学んでいる。今日ここで聴いたことはすぐには役立たないだろうけれど、それが血となり肉となって、いずれ学生たちの力になっていく。そう感じました。


 ラッキョウ型とコンペイトウ型

 90分の講義は淡々と進み、最後に総まとめが行われました。
 この授業は、日本文化の形成に及ぼした外来文化の影響、といったテーマのようで(初めて聴くもので…)、むかし人から聞いたことだがと前置きして、こう言われました。
 
 ラッキョウ型とコンペイトウ型。

 日本文化に影響を及ぼした外来文化をひとつずつはがして行くと、結局なにも残らない、というのが “ラッキョウ型”。ラッキョウを剥いたら、特に芯(しん)はないですよね。
 その逆に、なんらかの芯があって、そこにいろいろなものがくっついて日本文化が出来た、というのが “コンペイトウ型”。でも、その芯が日本文化の核というより、そうして大きくなっていったもの自体が日本文化だ、というわけです。

 正反対の考え方だけれど、どちらなのかな?

 そんなふうに考えながら、無事授業は終了。
 壇上で花束贈呈が行われました。

 この花束は、授業中、封筒を回して学生にカンパを募って贈呈しました。あとで中身を確認したら、百円玉はもちろん、五十円玉や十円玉が入っていて、とても微笑ましかったです(笑)

 終了後、院生らと一緒に、先生と昼食を共にしました。
 後日、先生を囲む会を開くことも本決まりとなり、とてもよかったと思います。

  椅子

 やっぱり、大学はいいですね。

 人が知的であることは、いいことだと思います。若い人たちが、その「知」をカラダの中で育てていき、将来、社会を築き、支えるために使ってくれる。そう思うと、基礎的な学力を応用しながら「考える力」を付けていく高等教育は、とても重要だと感じられます。

 最近、日本の大学の学費が余りに高額であることが問題になっています。あの国会ですら、その話題が出ていますね。
 国際的に見て、日本では学生自身の学費負担が極端に大きくなっていて、授業料は国公立で約54万円(年)、私立になると平均で100万円(年)を超えます(施設費を含む)。また、奨学金は、返す必要のない給付型は例外で、ほとんど貸与、つまり卒業後に返済するローンです。ある調査によると、年収400万円の家庭は1000万円の家庭の半分しか大学進学率がありません。
 
 大学教育の可能性をますます強く感じる昨今なのですが、運営についての情報ももっとオープンにしてもらえるといいかなと思っています。享受者(学生)にこれほど高い経済的負担を強いている限りは、政治家じゃないけれど “説明責任” があるような気がするのですね。

 そんな私も、また4月からは学生を教える立場。
 心して、よい授業を行うよう胆に銘じています。



きょうの散歩 - 国立文楽劇場・初春公演でおもしろい言葉をさがす - 2016.1.25 -

その他




文楽初春公演


 引退披露狂言では口上も

 暖冬が急に寒くなったここ数日。「初春」公演というには、ずいぶん遅いのですが、大阪・国立文楽劇場の初春公演(第一部)に行ってきました。

 文楽初春公演 
  国立文楽劇場

 この公演は、文楽太夫で人間国宝の豊竹嶋大夫さんの引退興行でもあります。
 その披露狂言「関取千両幟」では、口上もあって、門下の呂勢大夫さんが述べたのですが、それが立派で、いろんな感慨がこみ上げてきました。

 文楽初春公演
  中央バナーが「関取千両幟」

 たまたま昨日、大相撲で琴奨菊関が初優勝したものですから、劇中の取り組み場面で、人形の相撲取りが “琴バウアー” をやってみせて、場内大受けでした!

 
 “お染・久松”- 新版歌祭文

 最近、文楽に行くと、「床本」というものを見ながら聴いています。床本(ゆかほん)とは、太夫が語る言葉を文字にした冊子です。
 これをチラチラ見ながら、義太夫節を聴いていると、おやっ、という言葉が次々に出て来るんですね。今日は、その特集です。

  「さし」

 「新版歌祭文」、いわゆるお染・久松ものですが、まずは「座摩社の段」が上演。
 大坂の座摩(ざま)神社で、商家の若旦那がお百度参りをしています。その部分。

 山家(やまが)屋の佐四郎は、お百度のさしの数さへ九つ時

 という詞章。
 私が引っ掛かったのは、この「さし」という語です。
 お百度参りをするときは、百回参ったことを勘定したいといけませんね。そのために、例えば、棒やこよりを使って数えます。
 どうも、この佐四郎さん、「さし」というものを用いて回数を数えているらしい。

 関西の方言で、「さし」と言えば、「ものさし」をいう場合があります。念のため、牧村史陽『大阪ことば事典』を引いてみても、立項されています。
 でも、さすがに物差しでは勘定しないだろう……、じゃあ、なんだ?

 もう本筋は上の空になり、人形の手もとばかり凝視するのですが、席が遠くて見えない(笑)

 ところが、ストーリーが進んでいくうち、疑問を解消してくれるようなセリフが出てきたのでした。

 山家屋の佐四郎とも言はれる者が、恋なればこそコレこの銭さしを見てたも。お百度参りぢや
 
 おー、「銭さし」の「さし」だったのか!
 銭差しとは、穴の開いたコインに紐(ひも)を通して一括しておくもの、ですね。そう、銭形平次が持っていた、あれです(笑)
 例えば、一文銭を百枚、紐で通しておいて「百文差し」にしておくと便利ですよね。そういった使い方。
 そして、百文差しだったら、お百度の回数カウントに最適じゃないですか! 

  「ひと切り」

 お染は、下女お伝を伴って、座摩神社へやってきました。すると、うまい具合に恋仲の久松と出くわします。“あ~、会いたかった” という二人。
 ところが、こうなると下女お伝がお邪魔になります。そのとき、呑み込みのよいお伝が言うセリフ。

 申し御寮人様、私や、あの綱八の芝居がひと切り見て参りたい

 舞台上をよく見ると、確かに下手に「綱八座さん江 ひゐき」などと書いた幟(のぼり)が立っており、むしろの小屋掛けが見えています。いわゆる宮地芝居をやっているのでしょう。
 お伝は、芝居を見に行きたいと言って、二人の時間を作ってあげようとしたわけです。

 このとき、彼女が言った「ひと切り」という語。これは、なんでしょうか?

 文楽ファンの方なら、「切」という言葉を御存知でしょう。
 「ただいまの切、相(あい)務めまする太夫、豊竹嶋大夫」なんて言いますよね。
 切(きり)というのは、芝居などの最後の幕、段を指す言葉で、「切場(きりば)」とも言います。テレビ「笑点」でおなじみの「大切(おおぎり)」も同じ意味です。

 ところが、今回の場合、「ひと」切りと言っているので、特段最後というわけではないようです。
 切りは、区切りとか段落の意味もありますから、ひとつの幕、段を指している、ということになりそうです。
 現在でいう「幕見(まくみ、一幕見)」のような感じでしょうか。

 ちなみに、このお伝のセリフを受けて、お染は、

 ほんに、そなたは芝居好き、藪入でなけりや行かれぬに、今日は幸い勝手に行ておぢや。随分ゆるりとだんないぞや

 と言っています。
 江戸時代、奉公人はフルタイム拘束ですから、そう簡単に芝居見物も出来ません。しかし、正月と盆の藪入りには仕事から解放されるので、お芝居も見られたのですね。

  「だんない」

 ところで、いまのセリフの中に「だんないぞや」というのが出て来ました。
 この「だんない」、どういう意味か分かりますか?

 文脈からは、大丈夫、というような感じですね。
 『大阪ことば事典』によると、「大事ないの約。差支えない。かまわない。(略)」としています。
 大事ない、が縮まって「だんない」になった、ということです。

 現在では死語ですが、いまふうに言えば「かまへん、かまへん」という感じでしょうか。

 文楽初春公演

  「盆代」
 
 出会ったお染・久松の二人は、誰もいない山伏の小屋に入って、いちゃいちゃします。この山伏は、占い師をやっているので、神社に小屋掛けしているのでした。
 戻ってきた山伏、二人に気付きますが、中に入るわけにもいきません。
 そのうち、二人は裏口からこっそり出ていきます。そのときの山伏のセリフ。

 ヤテモ素早い奴、もう逃げをつた。さては今のが、かの前髪[久松のこと]であつたな。やう盆代を喰ひ逃げしをつた

 「よう、盆代を喰い逃げしおった」と言っています。
 この「盆代」って、なんだと思いますか?

 私が愛用している松川二郎『全国花街めぐり』の京都の部分に「新京極の盆屋、その他」というコラムがあります。
 そこには、「京極の裏町にはボン屋といふのがあつて、まるで西鶴そのまゝであつた。淡い蝋燭の光の中で、牛屋(ぎゅうや)の女中や小料理屋の女中と出会ふのである」と書かれています。
 つまり、盆代とは、盆屋の代金のことなのでした。
 
 『日本国語大辞典』には、盆代について「盆屋(ぼんや)の席代。待合茶屋など密会所の部屋代。人がいないで席料を入れる盆だけが置いてあったところからいう」とあって、用例に「新版歌祭文」のこの箇所があがっています。
 この盆屋、京都にも上記のようにありましたが、大阪でも例えば道頓堀の裏側あたりをはじめ、いろいろあったようです。

 山伏はセコイので、おれの小屋、タダで使いやがって、と怒ってみせたわけです。

 以上、座摩社の段から拾ってみました。現在とは違った、おもしろい言葉がいろいろありますね。
 「新版歌祭文」は、安永9年(1780)初演なので、京都でいえば「都名所図会」が刊行された年の作品にあたります。いまから200年余り前ですね。
 そう思うと、200年も経てば、言葉も随分変わっていることが実感されます。分かっているはずのことですが、やはり驚き、新鮮ですね。

 今回の公演、興味深い言葉はまだまだたくさんありそうですが、ちょっと切りがないので、今日はこのあたりにしておきましょう。


 文楽初春公演




 国立文楽劇場

 所在  大阪市中央区日本橋
 見学  劇場として公演あり
 交通  大阪市営地下鉄「日本橋」下車、徒歩すぐ



 【参考文献】
 「文楽床本集」国立文楽劇場、2016年1月
 松川二郎『全国花街めぐり』誠文堂、1929年
 牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、1984年
 『日本国語大辞典』小学館、1972年


転用されて残っていた旧成徳小学校の校舎は、学校歴史博物館に移築されている





旧成徳小学校


 明治2年にできた番組小学校

 前回、高辻通室町西入るにある旧成徳小学校の校舎を紹介しました。
 その校舎は、戦前は尋常小学校で、戦後になって中学校に変わりました。

 成徳小学校の創立は、明治2年(1869)のことで、下京第九番組小学校として開校しました。
 京都では、全国に先駆けて明治2年に64の小学校が出来ました。市内中心部の小学校は、町組(ちょうぐみ。町の連合体)を再編成した番組(ばんぐみ)ごとに設置されました。これを番組小学校と呼びます。
 当初は「上京(下京)第○番組小学校」というように番号で呼ばれていたのですが、のちに平安京の条坊名など美称を付けた校名に変わっていきました。

 このあたりについては、以前書いた記事をご覧ください。
 記事は、こちら! ⇒ <今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮>


 残された明治初期の旧校舎

 成徳小学校は、明治2年の創立時は新町通四条下るにありました。
 6年後、室町通綾小路下るの白楽天町に移転します。ここは、その名の通り、祇園祭の白楽天山を出す町です。この校地に、明治8年(1875)から昭和6年(1931)まであったわけです。
 
 実は、この明治8年の学舎の一部が、いまも残されています。

 学校歴史博物館 学校歴史博物館

 下京区にある学校歴史博物館。この博物館は、もとの開智小学校を利用しています(開智小学校は下京第十一番組小学校でした)。写真の高麗門も、かつての校門です。
 門を入るとグラウンドがあり、正面の校舎(現・展示室)の入口に、古い木造建築が取り付けられています。

旧成徳小学校

 これが、明治8年(1875)に建てられた成徳小学校講堂の玄関です。

 旧成徳小学校
  旧成徳小学校講堂玄関(登録有形文化財)

 学校歴史博物館のウェブサイトによると、成徳小学校は明治8年12月に、教室、講堂、土蔵などを新築します。これは、明治初期の日本人が西洋建築を見よう見まねで模倣した擬洋風(ぎようふう)建築でした。
 
 この建物は、明治42年(1909)に改築されるのですが、その際、講堂は京都府城陽市寺田にある高岳寺に移築され、本堂として用いられました。
 高岳寺が本堂改修を計画されたため、平成18年(2006)に調査が行われました。その結果、棟札の記載などにより、高岳寺が成徳小学校の旧講堂を明治42年10月に買い取って移築し、本堂に転用したことが判明。当時の売却額は、1,200円だったといいます。
 平成19年、その車寄せ部分が学校歴史博物館に移築・保存されることになったのです。

 木造建築では、バラして移築することは普通に行われるので、成徳小学校の建物が城陽のお寺に移築されていても不思議ではないでしょう。擬洋風といいながらも、和様折衷的な趣きで、お寺にもフィットしたのでしょう。


 擬洋風の学舎

 移築されたのは車寄せの部分だけです。

 旧成徳小学校

 第一の特徴は、屋根のカーブですね。
 上の方にふくらみを持っている屋根。京都などで言うところの「起り(むくり)」です。

 旧成徳小学校

 ただ、これは町家の屋根に見られる起りというよりは、洋風のアーチのような屋根形を模したものと考えられるようです。

 川島智生氏は、同様の擬洋風校舎である龍池小学校講堂について、「正面車寄はアーチ形にも似た切妻の起り屋根となり、二階にはベランダが廻り、いずれの開口部の上部も扁平アーチの形状となる」(『近代京都における小学校建築』21ページ)と述べています。

 従来の建築だと、この部分は山形(△)をした千鳥破風などになるところでしょうが、それを洋風っぽくしたわけです。
 二階には、さらに軒唐破風を付ける例もあって、こういったものが当時の学校建築で流行したのでしょう。
 このスタイルの建築としては、明治12年(1879)築の梅逕(ばいけい)小学校の建物が長く移築利用されていたのですが、十数年前に惜しくも焼失してしまいました。


 珍しい細部意匠

 屋根瓦には「成徳」の文字。
 この瓦も擬洋風でしょうね。

  旧成徳小学校

 そして、柱なども珍しい印象があります。

  旧成徳小学校

 よく見ると、柱の上がすぼまっています。
 ギリシア神殿などに見られる “エンタシス” 風なのです。日本人が西洋の柱をまねると、なぜかこうなるんですね、いつも。

  旧成徳小学校

 柱の上部。
 柱頭のところが、まるで洗面器のように、美しい曲面になっています。トスカナ式、ドリス式あたりの模倣のよう。
 ところが、水平に延びている梁(はり)は、あくまでも日本建築のままなのです。

 旧成徳小学校
  柱は洋風、虹梁(水平部材)は伝統的なスタイル

 上の写真で分かるように、柱以外は、それまでの伝統的な工法のままなのです。

 柱の足元。

 旧成徳小学校

 礎盤、礎石と二重に石を置いて柱を乗せるスタイルも伝統的です。

 そして、もうひとつ移築されている部分は……

 旧成徳小学校

 玄関の階段ですね。
 140年前の小学生たちが上っていたと思うと、また別の感慨が湧いてきます。

 明治初期の学校建築というと、長野県松本市の開智学校(明治9年=1876竣工)などを思い出しますが、京都にも部分とは言え同時期の小学校建築が残っていることは嬉しい限りです。




 旧成徳小学校講堂玄関車寄(登録有形文化財)

 所在  京都市下京区御幸町通仏光寺下る橘町 
     京都市学校歴史博物館内
 見学  外観自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市学校歴史博物館ウェブサイト
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年



アーチが美しい旧成徳小学校の校舎は、龍山石の魅力を生かした近代建築





旧成徳小学校


 昭和初期に建てられた校舎

 前回は、丹波・亀山藩京屋敷の跡を紹介しました。現在は、小さな祠・亀山稲荷神社が建っています。

 その裏側(北側)には、旧成徳中学校があったと書きました。
 現在、中学校は統合されて下京中学校となりましたが、グラウンドは今も使用されているそうです(下京中学校成徳学舎)。
 今回は、亀山藩京屋敷跡から、ぐるっと裏へ廻って、この学校の校舎を見てみましょう。

 道幅が広い高辻通に面して、鉄筋コンクリート造の校舎が建っています。

 旧成徳小学校
  旧成徳小学校(中学校)校舎

 横に長い3階建の校舎。
 玄関は左端(東端)で、中央(水色に見えるところ)に児童昇降口(出入口)があります。右側(西側)の白っぽい部分は近年改築された建物です(成徳会館)。

 古い校舎は、戦前の昭和6年(1931)に完成しました。
 この場所には、もともとは京都市立第二高等女学校(のち二条高等女学校、現・二条中学校)がありました。昭和の初め、それが移転して、跡地に成徳小学校を建てたのです。
 戦後は成徳中学校となりましたが、校舎はそのまま使い続けられました。

 旧成徳小学校

 東西に長い外壁には、小学校らしく数多くの窓が穿たれています。しかし、1階、2階、3階と、違ったデザインにしてあって、特に1階は連続アーチ窓で優美さを醸し出しています。連続アーチにすると、ちょっとロマネスク風で南欧っぽいイメージです。色合いも調和しています。

 旧成徳小学校

 こちらは児童昇降口、つまりふだんの児童たちの出入口です。
 校舎の平面プランは「凵」形になっていて、左に玄関、右に児童昇降口が配置されています。児童昇降口からずっと奥に進むと、講堂があるというパターンです。
 大きなアーチが素晴らしいですね。玄関の方も同様の意匠です。

 上部の左右隅には、ブロンズのレリーフも。

 旧成徳小学校

 素朴な中に、きらっと光る感じですね。


 学校建築は龍山石がお好き

 雄大なアーチですが、石材は龍山石を用いています。

 旧成徳小学校
  アーチの足元部分

 龍山石は、黄土色をした柔らかい石材で、播州(兵庫県西部)などで産出します。
 花崗岩ほどポピュラーではありませんが、近代建築ではしばしば見掛けるもので、加工がしやすく、特に玄関回りに使われることが多いようです。少し贅沢な印象を与えるからでしょうか。

 京都の小学校建築は、龍山石がお好きなようです。
 例えば、こちら。

 京極小学校
  京極小学校(上京区)

 寺町通に面した京極小学校の玄関。
 龍山石を貼った入口を作って、柔らかさを表現しています。

 銅駝美術工芸高校
  銅駝美術工芸高校(中京区)

 こちらは、旧銅駝(どうだ)小学校。現在は、高等学校として使用されています。
 庇(ひさし)を支える大きな持ち送りが目につく玄関ですが、こちらも龍山石を使っています。
 ちなみに、1階はアーチ窓で、成徳小学校と似ていますね。

 旧生祥小学校
  旧生祥小学校(中京区)

 富小路通に玄関を開いた旧生祥小学校。こちらの校舎はタイル貼りなのですが、塀の上部に龍山石を用いています。
 柔らかいので欠けやすいのが玉に瑕ですが……

 旧生祥小学校の記事は、こちら! ⇒ <小学校の“塀”も、意外におもしろい>

 さらに、旧明倫小学校(現・京都芸術センター)。

  京都芸術センター 京都芸術センター(中京区)

 本館の玄関ですが、足元にだけ龍山石を貼っています。石の形をいろいろにした乱貼りなので、かなりオシャレな印象。さすがに豪華な明倫小学校という気がします。

 中京、下京あたりの学区では、四条烏丸近辺の鉾町(祇園祭で山鉾を出す町)がとりわけ裕福な学区でした。四条烏丸の西にある明倫学区や、東にある日彰学区をはじめ、周囲の学区はどこも富裕で、その力が素晴らしい小学校建築を生み出したのです。
 成徳学区は、明倫学区の南に位置し、鉾町の南端に当たります。歴史ある町衆の持っていた気概というものが、この校舎にも表れているのではないでしょうか。

 次回は、これより古い成徳小学校の校舎について紹介したいと思います。

 (この項、つづく)




 旧成徳小学校(下京中学校成徳学舎)

 所在  京都市下京区繁昌町
 見学  外観自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年


京都の大名火消を務めた亀山藩の屋敷跡には、朱塗り鳥居が目印の亀山稲荷がある





亀山稲荷


 江戸時代には数多くの藩邸があった

 先日、「覚馬の住んだ京都ー幕末までの京都ー」という歴史地図をもらったので、なにげなく眺めていました(「覚馬」というのは、山本覚馬=新島八重の兄ですね)。
 幕末の様子を現代の地図と重ね合わせてあるのですが、やはり目につくのが藩邸です。
 江戸時代、諸藩の邸といえば、江戸だけに置かれたようにイメージしがちです。しかし、実際には、京や大坂などの要地にも、邸を置く藩が多かったのです。

 京都の藩邸は、「京屋敷」と呼ばれていました。著名なものを紹介してみましょう。

 鴨川の東には、大きな敷地を持つ邸が多く建っていました。

 ・尾張藩(徳川家、御三家)……京都大学付近
 ・土佐藩(山内家、外様)……京都大学農学部付近
 ・加賀藩(前田家、外様)……京都市美術館・みやこめっせ付近
 ・膳所藩(本多家、譜代)……祇園町北側付近

 舟運に利用された高瀬川、木屋町通沿いにも。

 ・長州藩(毛利家、外様)……京都ホテルオークラ付近
 ・加賀藩(前田家、外様)……木屋町御池付近
 ・対馬藩(宗 家、外様)……京都ロイヤルホテル&スパ付近
 ・彦根藩(井伊家、譜代)……河原町六角下る・あじびる付近
 ・土佐藩(山内家、外様)……旧立誠小学校付近

 土佐藩邸跡には、いまも土佐稲荷がありますね。

 御所の周辺やその付近にも。

 ・薩摩藩(島津家、外様)……同志社大学付近
 ・宇都宮藩(戸田家、親藩)……鴨沂高校付近
 ・水戸藩(徳川家、御三家)……ホテル京都ガーデンパレス付近
 ・丸亀藩(京極家、外様)……烏丸丸太町・大丸ヴィラ付近
 ・肥前藩(鍋島家、外様)……智恵光院中立売・正親小学校付近
 ・淀 藩(稲葉家、譜代)……大宮中立売・ハローワーク西陣付近

 二条城、京都所司代の周辺にも置かれています。

 ・越前藩(松平家、親藩)……旧京都国際ホテル付近
 ・姫路藩(酒井家、譜代)……同所北側付近
 ・小浜藩(酒井家、譜代)……御池神泉苑付近
 ・高槻藩(永井家、譜代)……四条大宮上る・洛中小学校付近
 ・郡山藩(大和・柳沢家、譜代)……智恵光院下立売・二条城北小学校付近

 いくらあげても切りがありません。17世紀前半で、約70の京屋敷が確認されているそうです。


 亀山藩の京屋敷跡

 そんな中、街なかを歩いていて、よく通りかかるのが、亀山藩の邸跡です。

 亀山稲荷
  亀山藩京屋敷跡

 松原通室町西入るの一画。前の通りは松原通です。いまでは普通の住宅街で、小さな会社もちらほら見受けられる静かな場所です。
 ここに、亀山藩京屋敷がありました。
 古くは、広島藩浅野家の邸でしたが、のち亀山藩が入りました。

 亀山藩というと、伊勢国の亀山藩かと思いますが違っていて、ここに邸を構えていたのは、丹波国にあった亀山藩(京都府亀岡市)です。

 現在の亀岡は、明智光秀が築城したところから城下町として開けました。丹波国でも、京都近くに位置するので、このあたりを「口丹波(くちたんば)」と言ったりもします。江戸時代には、城下は亀山と称しており、明治維新後、亀岡と改称しました。
 18世紀半ば以降の藩主は、形原(かたのはら)松平家で、譜代大名、石高は5万石。
 
 亀山藩と聞いて思い出すのが、京都で大名火消を務めていた藩、ということです。
 京都の大名火消は、制度の変遷があるのですが、享保7年(1722)からは、京都の近くにいた譜代大名が、洛中や御所の火消に当たりました。4藩あったのですが、参勤交代していない2藩が1か月交代で半年ずつ当番になりました。その4藩が、淀(よど、山城)、膳所(ぜぜ、近江)、郡山(こうりやま、大和)、亀山(丹波)の各藩でした。
 これらの藩は、火消要員として、騎馬、平士、足軽、鳶(とび)など、計300人ほどを擁しておく必要がありました。なかなか大変な負担です。
 江戸時代の京都ではしばしば火災が起こりましたから、彼らも実際に出動していました。大火の場合は、城下から応援が駈けつけるケースもあり、殿様自身が出馬という場合もありました。このため、京都に近い藩がこの任に就いていたわけです。

 京都大名火消に関しては、以前、膳所藩邸について書いたことがありますので、ご覧ください。
 記事は、こちら! ⇒ <いまは忘れられた “ゼゼウラ” は、町の歴史を伝えてくる>


 なごりの稲荷社
 
 この亀山藩京屋敷の跡は、北側が旧成徳中学校のグラウンド(現・下京中学校成徳学舎)、南側がマンションなどになっています。
 南の松原通に面して、小さな祠があります。亀山稲荷神社です。

 亀山稲荷 亀山稲荷神社

 参道は、ビルの谷間の路地になっています。
 それでも千本鳥居があって、稲荷社らしいです。

 亀山稲荷 

 明治維新後、藩邸の土地は民間に払い下げられ、のち小学校になりました。
 藩邸時代の鎮守を伝えるのが、この稲荷社と言います。

 亀山稲荷

 亀山稲荷

 いまは町内の方が守っておられる小さな神社。
 こんなところにも京都の歴史が潜んでいます。


  亀山稲荷




 亀山稲荷神社(亀山藩京屋敷跡)

 所在  京都市下京区松原通室町西入る中野之町
 拝観  自由
 交通  地下鉄「五条」下車、徒歩約5分



【参考文献】
 藤本仁文「近世京都大名火消の基礎的考察」(「史林」88ー2、2005年所収)
 樋爪 修「江戸時代の京都大名火消ー膳所藩を例としてー」(「近江地方史研究」27、1992年所収)
 大邑潤三ほか「京都天明大火における大名火消の実態」(「京都歴史災害研究」14、2013年所収)
 「京都観学研究マップ(上)覚馬の住んだ京都」同志社大学人文科学研究所、2015年


【大学の窓】今年度、授業を終えて考えることは……

大学の窓




校舎


 また1年を過ごして

 非常勤で行っている上京大学(仮称)では、日本史を専攻する学生に演習を指導しています。
 演習の学生といっても、入学したばかりの1回生なので、カリキュラムの上では “入門編” に当たります。

 今年度の授業も、残すところ僅か。学生たちがグループ研究した発表もすべて終わり、あとは総まとめという段階です。
 担当者は、私を含めて5名。今週の授業では、1年を総括してコメントしなければなりません。
 このコメントが、頭が痛いのです、私にとっては。

 約70名の学生に、何を伝えるのか?
 昨年、一昨年と、話した内容はメモしてあるのですが、やはり去年とは違う話でないといけません。
 今年は何をしゃべるのか? 新年早々、悩みは深まります。


 教育に関する本を読む

 お正月、書店に行くと、『下流志向』(講談社文庫)というタイトルの本が目に入りました。
 以前話題を呼んだ三浦展『下流社会』(光文社新書)を読んでいたこともあり、目に留まったのでしょう。
 著者は、内田樹氏。フランス現代思想がご専門ですが、『街場の○○論』などの幅広い評論活動でご存知の方も多いでしょう。
 『下流志向』は、タイトルの印象とは少し違って、教育・労働論です。若者が学ぶことや働くことから逃走している、という話ですね。その議論のベースには、教育学者の佐藤学氏や、教育社会学者の苅谷剛彦氏の諸論があります。

 読了した私は、また書店に行って、佐藤学氏の『「学び」から逃走する子どもたち』(岩波ブックレット)など数冊を買い、苅谷剛彦氏のものは、少し変化球を狙って、『教えることの復権』(ちくま新書)を求めました。
 そして幸運なことに、『教えることの復権』は、まさに<教えること>に悩む私に大きな示唆を与えてくれたのです。

  校舎


 「教えること」の復権

 この本は、苅谷剛彦・夏子夫妻と、大村はま氏の共著です。
 教育に携わる方なら、大村はまという名前はご存知のことでしょう。半世紀にわたって国語教諭として、主に東京の中学校で教鞭を執られた伝説的教師。著書もたくさんある、というより15巻もある全集が出ています。
 著書を開くと、ことばは平易だけれど、説くところは示唆に富み、職業人としての矜持をもった著者の気概がひしひしと伝わってくる、そんな先生です。

 本書のタイトルが示す通り、大村は、いまの教師は教えることをしない、と苦言を呈します。
 生徒が自ら学ぶのがよい、という近年の教育観のもと、教師が教えなくなったというのです。
 大村からみれば、それは逆で、入念な授業準備に基づいて、生徒を導き、しばしば助け船を出す存在が教師であると強調しています。

 大村の考えを端的に理解できる寓話があります。彼女がかつて恩師から聞いたという話。

 あるとき、仏さまが路傍に立っていると(仏教説話ふうなのです)、ひとりの男が荷車を曳いてやってきました。ところが、道はぬかるんでいて、いくら押しても荷車はぬかるみから抜け出せません。
 仏さまは、しばらくご覧になっていましたが、すっと手をお伸ばしになって、指で男の背中を触りました。すると、荷車は動き出して、ぬかるみを脱出したのです。男は何食わぬ顔で、また荷車を曳いていきました。


 この仏さまが教師、男が生徒というわけです。
 教師が生徒を援助してやるということなのですが、生徒がそれに気付かない、というところもポイントのようです。生徒に、あたかも自分の力でやれたように思わせる。そういう技量が潜んでいるわけです。

 これまで、私が思い悩んできたことが氷解したように思われました。
 演習は学生が自主的に学ぶ場なのだから、教師が誘導しすぎてはいけないーーこう考えて、それを守ってきたのです。
 もちろん、誘導するときもあるのですが、必要最小限に留めていました。
 そのせいもあってか、学生は、たぶん研究のやり方が十分理解できず、途方に暮れるーーそういう面もあったと思います。
 けれども、この問題をどう解決したらよいのか、教育の素人である私には方法が分からなかったのでした。


 大村はまの「単元学習」

 ところが、大村はまの実践談を読むにつれ、そのことが分かってきました。
 彼女が行った単元学習というもの、現在の総合学習に似たようなものと思いますが、それは私のクラスでも通用するようなものだったのです。もちろん、大村は中学校の国語の授業でやったわけですが……

 苅谷夏子氏は、中学校時代、大村はまの教えを受けています。『教えることの復権』には、彼女が覚えている2つの実例があげられています。

 ひとつは、「ことば」という言葉の意味を調べる、というもの。
 ふつうであれば、“さあ、辞書を引いてみよう” というふうになるでしょう。しかし、大村は、いま使っている国語教科書を全部読ませて、その中に登場する「ことば」という語を用いた文章をカードに写し取らせたのです。すると、1冊で80枚ものカードが出来上りました。
 カードには、「ことば」のいろいろな用例が含まれています。それを一気に分類するのではなく、1枚目のカードと2枚目のカードを比較し、同じ使われ方であれば1つの山に積み上げ、違えば別の山にするーーこの作業を繰り返していきます。
 そうすると、最後には「ことば」のさまざまな意味を示す幾つもの山が完成するのです。
 これは、生徒自身が国語辞典を作るようなものですね。とても本格的です。
 中学生がこの作業を興味を持ってやり遂げてしまうというのも驚きです。

 いまひとつの例は、自分の履歴書を書く、という授業。
 現在でも日経新聞には「私の履歴書」という欄がありますが、それにちなんだ授業です。
 生徒に、自分の履歴書を書くことにさせ、構想を練らせます。しかし、何を書くか書かないか、悩ましいわけですね。
 苅谷夏子さんは、自分は勉強が得意だけれど、そんなこと書いていいものか、そもそもこれは誰が読むのだろうか、文集のようにして皆で読むのだろうか、などと考えます。
 生徒が構想を得、メモを作ったら、作業はそこで一旦終わり。履歴書は、書いても書かなくてもいい。書き手というものが、数ある事実の中から、いろいろと考えて取捨選択し、その結果文章が出来上がるのだ、ということを生徒が理解できれば収穫、というのです。
 そのあと、本物の「私の履歴書」から生徒ひとりひとりにふさわしい人物の履歴書を選んで読ませ、その人のことをまとめる作業をさせます。一度自分で書き手の側に立ったあとに作業しますから、まったく違った読み方、考え方になるわけです。

 どちらの授業も、実によく考えられたもので、考える力を付ける上で役立ちそうなものですね。

 大村はまの授業を知って、私もアイデアが湧いてきました。
 来年度は、少し新しい試みをやってみようか。そう思わせる真剣さがありますね、大村はまには。

 そんなふうに考えながら、まだ最終のコメントを考えていないのに気付きました……


  校舎


十日戎の日、聖護院の寒中托鉢修行に出会った

洛東




寒中托鉢修行


 十日戎の帰りに……

 1月10日といえば、関西では十日戎(とおかえびす)のお詣りがにぎわいます。
 大阪の今宮戎神社や堀川戎神社、福男選びで知られる西宮神社、そして京都では京都ゑびす神社や八坂神社の境内末社・北向蛭子社など。いずれも大勢の参詣者が訪れ、福笹を求める姿が見られます。

 京都ゑびす神社 十日戎(京都ゑびす神社)

 今日は、京都ゑびす神社に参拝してきました。参拝後、裏門から出て、帰り道、建仁寺の塔頭・禅居庵にもお詣りに行きました。
 摩利支天をお祀りするお寺ですね。

 禅居庵 禅居庵

 すると、なにやらホラ貝の音が……

 近付いてみると、大勢の山伏さんに遭遇しました。

 禅居庵

 一行は、隣接する建仁寺に入って行きます。
 私も、なんとなく、ついていくことにしました。

 建仁寺を通り抜け、北門外に出ると、東へ歩いて行きます。
 すると、どうしたことか、一軒の家の前で立ち止まりました。

 寒中托鉢修行

 お宅の方が出てくると、皆で般若心経を唱え始めました。

 そう、これは托鉢(たくはつ)だったのです。
 よく見ると、持っている幟(のぼり)に「聖護院 寒中托鉢修行」と書いてあります。


 聖護院の寒中托鉢

 托鉢とは、「修行中の僧尼が経文を誦しながら各戸の前に立ち、施与される食物を鉢に受けてまわること」(『日常佛教語』)。行乞(ぎょうこつ)とも、乞食(こつじき)ともいいます。
 京都では、禅寺の僧侶が「オォー」と低い声を出しながら、町々を歩く姿をよく見掛けます。そのため、托鉢というと禅宗のイメージがあるのですが、他にもあったわけです。

 この一行は、聖護院の山伏たち。
 聖護院(しょうごいん)といえば、左京区にある本山修験宗の総本山。つまり、修験道のお寺です(そのうちの本山派というものですね)。

 寒中托鉢修行

 聖護院では、毎年1月8日から14日まで、京都の町なかで托鉢を行います。これを寒中托鉢修行と呼び、その歴史は昭和11年(1936)にさかのぼります。
 京都新聞によると、今年は76名の僧侶が12班に分かれ、市内約3,500軒を托鉢して回るのだそうです(2016年1月9日付)。
 その一班に、私は遭遇したのでした。

 寒中托鉢修行

 一軒が済むと、また次へ向かいます。
 どうやら、うかがうべきお宅は、あらかじめリストアップされているようです。

 寒中托鉢修行

 今度は、米穀店で托鉢です。
 一行は10人ばかりで、女性もおられます。
 この方々は、建仁寺の東の安井や、東大路の東の下河原を回るようでした。


 お茶屋さんへも托鉢

 町なかを進む托鉢の一行。

 寒中托鉢修行

 しっとりとした高塀の家は、祇園甲部のお茶屋さんでした。

 寒中托鉢修行

 こちらでも托鉢。
 おかみさんが出て来られ、暖簾の奥からは舞妓さん?やお客さんがのぞいておられます。
 般若心経を唱え終えると、ホラ貝を吹き、一行は立ち去りました。

 おかみさんに少々話をうかがってみました。
 かなり以前から毎年托鉢に来られるそうですが、何日の何時頃に来ると事前に連絡があるのだそうです。今年は1月10日だったわけですが、例年はもう少し遅めだといいます。
 手に持たれていた紙片を拝見すると、それは御札と添え状(節分の大護摩供の案内付き)でした。

 寒中托鉢修行

 御札には、「火難消除 家内安全」「三宝大荒神守護」「総本山 聖護院」とあります。
 添え状には、三宝荒神は「かまど」の神様で火難除けに霊験あらたかなので、この御札を台所に貼ってくださいと書かれていました。
 なるほど、お経を唱えるだけでなく、こういう御札を渡していたのですね。

 私はここで一行とお別れし、八坂神社の北向蛭子社に向かったのでした。




 聖護院寒中托鉢修行

 所在  写真は、京都市東山区祇園町南側(托鉢は市内各所)
 拝観  自由
 交通  京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約10分
 


 【参考文献】
 岩本 裕『日常佛教語』中公新書、1972年
 

【新聞から】初詣の参詣者数調査がなくなった !? 

その他




八坂神社


 初詣人出調査 歴史に幕
 中日 2015年12月30日付



 あけましておめでとうございます。
 今年も 「京都発! ふらっとトラベル研究所」 をよろしくお願い申し上げます。


 初詣の参詣者数発表は、いつから?

 お正月は、初詣にいらっしゃいましたか?
 私の初詣写真は、こちら!

 北野天満宮 北野天満宮

 あ、晴れ着の女性ですね ―― じゃなくて。
 夜ですね、まったく……

 実際は、午後6時すぎに撮影しました。
 毎年お詣りしている北野天満宮ですが、こうしてみるとライトアップされて少し幻想的ですね。

 ところで、初詣といえば、毎年「○○神社は参拝者○○万人」というニュースが流れます。
 私も、某原稿を書く必要から、この人数を調べたことがあるのですが、内心は「信仰の度合いは数字では測れない」とも思うのです。でも、いつからかこの数字が報道され、ランキングまで発表されています。

 このように言いながら数字を書くのも憚られるのですが、明治神宮(東京)、川崎大師(神奈川)、成田山新勝寺(千葉)の3つは毎年三が日に300万人台の参拝者があるといいます。
 それに続くのが、京都の伏見稲荷大社や、鎌倉の鶴岡八幡宮、浅草の浅草寺、大阪の住吉大社、名古屋の熱田神宮などで、200万人台の参詣者があるそうです。
 これが近年の上位ですが、川崎大師と成田山は寺院なのですね(川崎大師は通称で、正しくは平間寺=へいけんじ)。

 伏見稲荷大社 伏見稲荷大社
 
 そんな中、昨年末の中日新聞に、興味深い記事が出ました。それは、初詣の参詣者数の調査が取り止めになる、というものです。
 記事によると、「全国の約八万社を束ねる神社本庁(東京)が、半世紀続けてきた初詣の参拝者数の調査を、2016年分から取りやめることが分かった」とあります。

 この記事は、調査の歴史的な経緯も紹介しています。
 それによると、「敗戦で神道への興味を失った国民」もおり、戦後の神社は苦しい状況に立たされます。しかし、徐々に参拝者数は回復。「そこで初詣を切り口に傾向を把握して信仰拡大につなげよう」という目的で、昭和34年(1959)から主要50社の調査を行い、神職向けに伝え始めたというのです。

 まとめると、

 (1)調査は、戦後、昭和34年(1959)から始まり、半世紀余りの歴史がある。
 (2)信仰拡大につなげるためのデータ収集として始まった。
 (3)神職用の情報で、一般向けではなかった。

 ということですね。

 今回、中止になったのは、「数字が本来の目的ではない観光振興などの物差しに使われることも増え」た上、「『当初の目的は果たした』と判断」されたからということです。
 冒頭に書いた「ランキング」などに利用されることが、神社本庁としてはいろんな意味で宜しくないと考えられたのでしょうか。


 参拝者数は、どう数えている?

 初詣の宗教学的研究は多くはないようですが、石井研士國學院大学教授の諸論考があります。そこから戦後の初詣の推移と調査のありようについて、まとめておきましょう。
 
 中日新聞の記事では、神社本庁の初詣調査は昭和37年(1962)から始まったと書かれています。これはおそらく同庁への取材によっているのでしょう。石井氏は、そのデータが神社本庁の月刊誌「若木」に、「全国著名神社初詣者数調査」として掲載されていると記しています。つまり、その雑誌を見れば、毎年のデータが分かるわけです。
 この数字は、神社本庁が各神社に問い合わせて掲載しているということですから、カウントは各神社が行っているということになります。

 一方、いわゆる “警察発表” をよく見掛けますが、これは昭和45年(1970)から始まったものです。都道府県警がまとめた三が日の参拝者数を警察庁が発表していました。これが新聞などに載っていたのです。
 過去形なのは、この発表はすでに平成21年(2009)を最後に取り止められているからです。
 警察が初詣の参拝者数を把握するのは、雑踏警備の必要性からで、そのデータをマスコミに提供するためにカウントしているわけではありませんでした。おそらく、たびたび尋ねられるから発表した、という話でしょう。

 いずれの数字も、一人ひとりをカウントする実数調査はごく少なく、多くは概数(例えば、単位面積×目視した人数)だろうと考えられます。
 また、各神社や各県警のカウント法も同様ではないので、比較などには注意が必要なようです。

 北野天満宮 北野天満宮の初詣


 現在の傾向は1980年代から

 石井氏の研究によると、昭和50年代後半までは、初詣参拝者数のランキングは年ごとに激しく変化していました(以下、数字は警察庁発表に基づき石井氏がまとめたもの)。

 昭和45年(1970)をみると、

 1位 鶴岡八幡宮(神奈川) 186万人
 2位 熱田神宮(愛知)   175万人
 3位 明治神宮(東京)   171万人
 4位 伏見稲荷大社(京都) 148万人
 5位 八坂神社(京都)   112万人

 となっています。以下、住吉大社、豊川稲荷、伊勢神宮、川崎大師、成田山新勝寺がベストテンです。
 鎌倉の鶴岡八幡宮がトップとは、関西人からすると少々意外です。
 ところが、昭和48年(1973)になると、川崎大師がトップに躍り出ます。人数も増えて、386万人。

 昭和50年(1975)のランキングです。

 1位 川崎大師(神奈川)  389万人
 2位 鶴岡八幡宮(神奈川) 262万人
 3位 住吉大社(大阪)   231万人
 4位 伏見稲荷大社(京都) 223万人
 5位 明治神宮(東京)   208万人

 近年トップの明治神宮が初めて首位になったのは、昭和53年(1978)のことでした。その年は、明治神宮、住吉大社、川崎大師が上位です。
 昭和50年代になると、成田山新勝寺(千葉)がベスト5に入ってきます。

 そして、昭和60年(1985)。

 1位 明治神宮(東京)   381万人
 2位 川崎大師(神奈川)  329万人
 3位 成田山新勝寺(千葉) 313万人
 4位 住吉大社(大阪)   286万人
 5位 伏見稲荷大社(京都) 278万人

 人数、寺社とも、今日の原型が出来ていることが分かります。ベスト3が、明治・川崎・成田になるのは昭和58年(1983)からです。
 
 ちなみに、警察庁発表の最後となった平成21年(2009)の順位は、

 1位 明治神宮(東京)   319万人
 2位 成田山新勝寺(千葉) 298万人
 3位 川崎大師(神奈川)  296万人
 4位 伏見稲荷大社(京都) 277万人
 5位 鶴岡八幡宮(神奈川) 251万人

 となり、以下、浅草寺(239万人)、住吉大社(235万人)、熱田神宮(同上)、大宮氷川神社(205万人)、太宰府天満宮(204万人)、生田神社(155万人)、宮地嶽神社(108万人)、豊川稲荷(107万人)、八坂神社(105万人)と続きます。


 京都の神社は?

 京都の社寺では、昔も今も多いのは伏見稲荷大社です。ここは、200万人クラスですね。
 ついで八坂神社で、こちらは100万人くらい。

 宗教学の研究では、近年では各地域で “一極集中” となっていて、東京なら明治神宮、愛知なら熱田神宮、大阪なら住吉大社など、各県1つの寺社に集中する傾向があるそうです。
 ところが、京都は伏見稲荷に加え、八坂神社も多数の参詣者を集めています。
 さらに、北野天満宮も50万人ほどの参拝者ですし、最近は少ないようですが平安神宮も1970~80年代には150万人もの人出があったのです。
 このように、京都は他県とは少し事情が違って、多極化の傾向が残っているのかも知れません。
 由緒のある著名な神社が多いせいでしょうか。

 八坂神社 八坂神社

 そんなわけで、2016年は警察庁の発表も神社本庁の発表もない三が日となりました。
 改めて1月4日付の主要各紙を見てみると、確かに初詣の参拝者数は掲載されていません。

 4日付の夕刊には、伏見稲荷大社の賽銭開きがニュースになっています。
 日経新聞は、例年より外国人の姿が目立ったという神社のコメントを載せた上で、次のように締めくくっています。

[賽銭の]総額や三が日の参拝者数は公表しないという。(日本経済新聞 2016年1月4日付夕刊)




 【参考文献】
 石井研士「初詣の実態研究序論」(「明治聖徳記念学会紀要」復刊第1号、1988年)
 同「東京の初詣の実体研究」(「神道宗教」148号、1992年)