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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

年末に、ちょっと振り返る 2015年の京都 - 極私的な感想など -

その他




梨木神社


 2015年 京都の諸々

 1週間ほど前、京都新聞を見ていたら、今年の京都10大ニュースが掲載されていました。
 それを見た瞬間、思ったのは「たいしたニュースなかった」という率直な感想。1年、平穏無事だった証しです。
 詳しくは、京都新聞のウェブサイトをご覧いただくとして、第1位は「悲願34年、京都縦貫道全通」でした。他県の方からすると、とてもローカルな印象でしょうか? まあ、ローカルな十大ニュースを選んでいるので、当然なのですが……
 逆に、ちょっとおもしろいのは、同紙の<HPアクセスランキングTOP10>で、1位が「佐野氏デザインまた「酷似」 京都の老舗、ブログから削除」というもの。
 確かに、こっちは関心高かったですよね、ひと頃。

 今回は、暮れも押し詰まって、極私的に今年の京都を振り返ってみるという企画。
 といっても、いつも行っている新聞を見ながら考えるというものです。


 1.激増する中国人観光客と文化理解

 読売新聞の「編集委員が読む」に、「京都 中国の人 多いですね」という解説が出ました(2015年12月27日付、森恭彦編集委員)。
 この記事の指摘で興味深かったのは、「中国では「唐宋時代を見たければ日本へ行け」という言い方をする」という話。

 「北方民族が支配した元や清の時代に失われた文化が、それを懸命に輸入した日本に残っているから」ということです。中国で、京都のことを「小長安」と呼んでいるという話も、びっくりぽん! ですね。
 森氏は、敷衍して、中国人観光客が舞妓の着物に魅力を感じるのも、和服が中国から入ってきたという由来をどこかで感じ取っているのかも、と言っています。
 唐(618-907)や宋(960-1279)は漢民族の国だけれど、中国では北方民族の圧力が強いので、支配者が交代すると以前の文化も破壊されてしまうため、こういう言い方になるのでしょう。

 中国の過去が日本の現在に保存されている、ということは前から言われているけれど、来日観光客(インバウンド)と関連づけて考えるとおもしろいですね。

 清水寺
  清水寺

 「爆買い」に代表される中国人観光客の激増は止まるところを知りませんが、森編集委員が言う「隣国に毎年毎年、数百万人ずつ日本理解者が増えていく」という見方はポジティブです。もちろん、時間はかかるし、いろんな仕掛けも必要でしょうけれど。


 2.消える鎮守の森と苦悩する神社

 日本経済新聞は「かれんとスコープ」欄に、「都会の神社 存続へ奇手」を出しました(2015年12月27日付、福山絵里子記者)。
 神社の境内にマンションを建設し、収益を上げるケースが全国で相次いでいるという記事で、「社会に波紋を広げている」

 私も東京の話は知らなかったのですが、すでに2010年に新宿区の赤城神社で、社殿の横にカフェを併設するマンションが造られたそうです。設計は、新国立競技場で話題の隈研吾氏。その後、同区・成子天神社でも27階建のタワーマンションが建設されたのだそうです。
 京都では、今年、鳥居と社殿の間の境内地にマンションを建てた梨木神社が話題になりました。

 梨木神社
  梨木神社

 そして、下鴨神社のマンション建設計画も問題視されました。式年遷宮にあたり、約30億円必要だったが、10億円ほどの寄付しか集まらず、やむを得ない選択だったという話ですね。

 梨木神社も下鴨神社も、50年程度の定期借地権契約を結んで、収入を得る仕組み。下鴨神社の場合、年間8千万円の土地収入が見込まれるといいます。
 記事は、「生き残る神社と、消えていく神社」があると指摘。
 確かに、梨木神社は萩の名所として知られるのですが、ご祭神も三条実萬・実美公で明治時代に創建された神社。著名なご利益も宣伝されていないので、観光客も余り来てなさそうに見受けられます。
 中国人観光客も、さすがに梨木神社には行かないだろうし、下鴨神社もそうですかね。お守りを売っても、たいして儲かりません。

 記事中にある「宗教法人の公益性が理解されるためにも、何らかの形で [収支計算書が] 公開された方がいい」(石井研士國學院大学教授)という意見に私も賛成です。
 宗教法人って、もうかっているイメージがありますよね。でも、それは一部の話。行政的には「宗教」の扱いは難しいけれど、文化財という側面に限ってみれば、社会の共通理解を得て守っていく必要があります。そのためには、理解をしてもらうための透明性=情報公開も必要になってくるでしょう。
 今回、下鴨神社の問題は大きな反響を呼んだので、社会的な議論を始める種をまいたのではないでしょうか。いい意味で、「社会的な波紋」を広げてもらいたいものです。


 3.歩道拡幅と歩くまち

 そして、今秋完成した四条通の歩道拡幅。
 広い箇所では、歩道の幅が約6mになりました。そのかわり、車道は片側1車線ですね。

 四条通
  四条通

 とにかく、この施策には反対意見が多いですね。
 私は、基本的には賛成なのですが、先日もクルマで寺町通から四条通に右折するとき、余りにクルマがあふれていて大変だったので、つい「歩道を広げるから……」と思ってしまいました(笑)
 なんだか、昔、市電が走っていた時代の混雑ぶりを彷彿させます。

 歩行者としての感想は、“そんなに便利でもないか”(笑) という印象でしょうか。
 広くなった分、歩行者が歩道一杯に無秩序に広がって歩くものですから、対向の人を避けるのが難儀ですね。

 じゃあ、これをやめたらいいかというと、そうとも言えません。繁華街や観光地には、クルマを乗り入れないように変えていくことが必要。徐々にでも。クルマに乗って観光したり遊んだりするのは、おもしろくないでしょう? やっぱり、歩いた方がダンゼン愉しいです、少なくとも私には。
 もちろん、営業・ビジネスの関係や交通ルートの関係で、簡単に規制できないのは分かります。けれども、長いスパンで考えると、この方向は間違っていないと思われます。行政の方でも、うまい形で市民の理解を取り付けられればいいですね。平安神宮前の歩行者天国化は好評なようですから。

 着物in寺町通


 4.変わりゆく祇園祭と温故知新

 このほかでは、祇園祭の動向に注目ですね。
 昨年(2014年)、後祭(あとのまつり、あとまつり)が復活し、今年はもう定着しましたね。
 今後は、巡行の当事者サイドが言われているように、昔の巡行ルートの復活が課題ですね。例えば、後祭でいえば、三条通や寺町通を通るということです。
 これもすぐ気付くように、アーケードをどうするの? という話になってきます。しかし、長い時間をかけて議論していけば不可能なことではありません。観光化した祭りで失われた信仰的側面を思い出すためには、巡行ルートを戻すのがとてもいい案だと思います。

 吉田孝次郎氏(前祇園祭山鉾連合会理事長)が「月刊京都」7月号に寄せられた稿には、

 「いずれは三条通の巡行も復活できればと思っていますが、それに呼応するように寺町まちづくり委員会では電線撤去の声が上がりつつあり、美しい都心部の再現という意味でも、その兆しが見え始めています。そして今、つくづく感じますのは、“古きを訪ねるほどに大事なことに気づかされる” ということ。古きは古びることとは違うのです」
 
 とあります。
 地域の方々の努力には敬意を表します。

 祇園祭山鉾巡行
  祇園祭山鉾巡行 (後祭)


 古いけれど新しい、ローカルだけれどインターナショナル
 
 こんな感じで、4項目あげてみた年末雑感。
 変わっていないようで、少しずつ変わっていますね、京都も。

 よく言われるように、「伝統」は単に古いものを守っているだけでは駄目で、常に新しいことに挑戦していく気概が求められます。京都は、そういう町ですね。
 年末のニュースでも、フランスの有名ブランド(おそらくジバンシィ)が京都の金箔や友禅染の技術に注目しているという報道がありました。

 古いけれど新しいのが京都。
 同時に、東京や大阪のようなメガシティとは異なった、ちょっとローカルだけれど尽きない奥深さがある都市が、京都。そこに国際性もあります。

 京都の価値がますます認識されて、多くの人たちへ楽しみや発見を提供していければ喜ばしいことです。

 来年の京都は、どのような1年になるのでしょうか。


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繁華街の真ん中にある路地、そして長屋、長屋





路地


 四条通にある路地

 四条通といえば、東西に伸びる京都の目抜き通りです。
 烏丸(からすま)通との交差点「四条烏丸」は、かつては四つ角にクラシックな銀行が建っていて、“京都のビジネス街”という場所でした(もちろん今もそうですが)。
 昼間、このあたりを歩いていると、やはりスーツのビジネスマンも多いし、なかにはオシャレな出で立ちの方もおられて、地区の性格をよく表していますね。

 そんなビジネス街も、少し西へ歩くと様相が変わり始めます。
 祇園祭に山鉾を出す鉾町(ほこちょう)のエリアになるのですね。
 烏丸通の1本西は室町通、その西に先頃紹介した「撞木辻子(しゅもくのずし)」という細い道があり、そのさらに西が新町通になります。

 撞木辻子については、こちら! ⇒ <撞木形の路地があるという話をしていたら、その名も「撞木辻子」があるというので行ってみた>

 ところが、撞木辻子と新町通の間に、1本細い路地があるんですね。

 路地

 実は、この路地も “撞木形” をしています。撞木形とは、T字形ということです。

 撞木形の路地が多いという話は、数回前にしましたので、ご覧ください。

<京の路地と長屋、少しカッコよく言ってみた “撞木形” の路地とは?>

 要は、道路から、すーっと細い路地を入って行くと、奥が突き当りになっているけれど、そこから左右に路地が続いているパターンです。
 この場合、タテ長の路地には、玄関を開いている長屋はなくて(そこは両脇の家の壁になっている)、奥の左右の路地に面して数軒の長屋が建っています。

  路地 右の看板が洋服店

 こちらは、四条通から入って行くと、両側は壁です。ところが、右側の家は奥が塀になっているので(昔は中が裏庭だったのでしょう)、今そこに入口がついて、洋服店になっているのです!
 テーラーみたいですが、私が訪問したときも若いカップルが服を取りに来ていたけれど、改めて驚いていましたね、この立地に。

 そして、左側ですが、よく見ると壁の奥に続いて1軒、家が建っていますね。
 これは住宅なのです。

 そして、路地の突き当りを見ると、長屋が見えますよね。


 路地奥の長屋

  路地

 突き当りから左を見た図。
 左は、先ほどの住宅の壁。右は長屋。奥にも1軒の家があります。
 長屋には出格子が付いていて、ちょっと立派な雰囲気。

 今度は、突き当りの右を見た図。

 路地 路地

 長屋があり、奥には写真館が!
 お地蔵さんも祀られています。

 ということで、この撞木形の路地には、家が8軒あるようなのです。
 並び方は、<5-2-1>という、なにかサッカーのフォーメーションみたいですが……
 Tの上辺に横並びの五軒長屋があり、その右と左に1軒ずつあり、タテ路地の左に1軒別に建っている、という形。

 このうち、1軒は写真館を営まれており、もう1軒(長屋のうち1つ)はホテルなんだそうです!
 まぁ、ホテル、というか、旅行者が一晩貸切ってステイできる1戸ということですね。興味ある方は、インターネットで調べてみてください。

 ちなみに、そのサイトを見ると、間取り図が載っています。
 それによれば、玄関を入ると、右に出格子のある2畳間があり、その奥に4畳間と4畳半間がタテにつながっています(廊下はありません)。そして裏には坪庭があるという構成。2階は、4畳半と6畳です。
 結構広いなぁ。私の実家より広いです(いつも自分基準ですみません)。
 長屋というと、こぶりなイメージがあるかと思います。でも、こちらは、玄関の次の間(2畳)を除いても4部屋あります。もちろん、京間でしょうから、畳が大きいです。京間の6畳は、広いですよ。


 新町通にある路地

 撞木辻子と新町通の間は、現在ではこの路地しかないのですが、かつてはこの路地の左右に1本ずつ路地があり、計3本もあったのです。
 あとの2本は直線的な路地でしたが、ビルが建ったため、なくなったのでしょうか。ただ、うち1本はビルの谷間に隠されているような気もするのですが……

 余勢をかって、新町通へ。
 四条新町を北に曲がると、すぐにタバコ屋さんがあります。
 かなり目立つタバコ屋なのですが、ここは京都タバコ会館というらしく(!)、昔から煙草組合があるところです。

 その向い(西側)の風景。

 路地

 なんの変哲もない京町家なんですが……

 実は、注意して見ると……

 路地

 あ~、ここにもありましたね、路地が。

 この路地は、タテ形のように見えるのですが、奥がちょっとだけ右手に曲がっている逆L字です。つまり、最奥にも家があるわけです。
 もちろん、タテ路地のところでは、長屋は路地に面して並んでいます。3軒ですが、全部空き家でした。

  路地 左はビル境界の壁

  路地 路地の三軒長屋

 ちょっとオシャレなのは、格子が竹だったこと。

 路地

 そして、路地の入口の表札掛け。

 路地

 かつては、5軒あったわけですね。
 <2―3>のフォーメーションだったのでしょう。

 この路地、現在は随分きれいな路面になっています。
 実はこの道が西側のマンションの裏口になっているためです(奥に駐輪場でもあるのかな)。
 ここからは推測ですが、この路地と長屋、そして通りに面した1軒の町屋(いずれも空き家)は、マンション建設に伴って買収されたのではないでしょうか。そして、長屋を廃して通路化されたような。まぁ、憶測なので違うかもしれません。

 路地と長屋は、いくら探訪しても尽きないので、今日はこのくらいにしておきましょう。


  路地




 撞木形の路地

 所在  京都市中京区四条室町東入る月鉾町
 見学  一般住宅もありますのでご配慮ください
 交通  地下鉄「四条」、阪急電車「烏丸」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京都市明細図」京都府立総合資料館蔵


【大学の窓】退職記念の論文が、ようやく書けた……

大学の窓




論文


 苦闘の4か月余

 お盆の頃、このブログで、恩師が退職するので退職記念の論文を書かなければいけない、とお話しました。

 締切りまで時間が短く、テーマも決まっていない…… 
 いったい、何を書くのか? と。

 それから4か月。
 ようやく、年の瀬になって完成したのでした!

 もちろん、締切りから3週間遅れです。編集担当の先生には申し訳ないです。
 ただ、恩師を送る論文を書けたことで、よしとすることにしましょう。

 論文


 マイクロリーダーで新聞と格闘!

 ブログでお話したときは、名所図会なんかを使って書けないかなぁ、と漠然と思っていました。
 ただ、“漠然” の怖いところで、その方向では全く書けませんでした(汗)

 結局、ちょうど1年ほど前、NHK「ブラタモリ」で、タモリさんとご一緒した “新京極” で出来ないかな、と思い至りました。
 これは少しばかり勉強していたし、何か書けるかな、と。

 ところが、やっているうちに、ほかによい場所が見つかったんですね!
 その場所は、新京極よりはマイナーだけれど、百年前には結構メジャーだった場所。そして、僕にとっても、両親や祖父母らとも縁があるような地域なんですね。
 それがどこかは、このブログをいつも読んでいただいている方には分かるのではないでしょうか。この間、何度か書いているところです。

 テーマ

 そのテーマを調べるために、我ながら頑張って昔の新聞を読みました。
 例のマイクロリーダーという、フィルムになった新聞をクルクル回転させながら読める機械を使って。
 もちろん、仕事のある日はクルクル回せませんから、休みの日に回転させに行くのです。
 すると、自分の前に、百年前のいろんな出来事が魔法のように立ち現れて来たわけです。あぁ、これで書ける、という安堵感。

 もちろん、実際には、その新聞記事をどう料理するかが難しかったのですが、自分なりにほぼ納得できるものが書けました(他の人がどう思うかは別にして)。
 印刷・製本されるのは年明けですが、いずれ読んでいただける形で刊行されることでしょう。

 ということで、大人の事情もあって、原稿一式を持参しないといけないので、明日大学に持っていきます ! !
 今日は久々に安眠できそうです(笑)



きょうの散歩 - 工事で現れた京都文化博物館の古い石畳 - 2015.12.14 -





京都文化博物館


 京都文化博物館は一部工事中

 不思議なもので、ひとはブラブラと歩いていると、なぜか同じ道を通ってしまうもののようです。

 今日は、四条西洞院あたりから、三条寺町あたりまで歩こうとしたのですが、なぜか早々に三条通に出てしまいました。どうしても三条通を歩いてしまうことが多いのです。
 できれば、あまり歩かない道を歩きたいものですから、少々がっかりしたわけです。

 ところが。
 そのおかげでよいものを見たのでした。

 京都文化博物館

 おなじみの京都文化博物館。
 正面玄関の辺を工事しています。

 なにかな? と思って近付いてみると……

 京都文化博物館

 これは、すごい!
 玄関の階段が浮き上がってる ! !

京都文化博物館

 もちろん、浮き上がってるんではなくて、下がったわけですね。

 これまであったウッドデッキのような床材をはがして、古い地面が露出したのです。
 それも、ただの地面じゃなくて、花崗岩の石畳ですよ、これは。

 京都文化博物館

 これって、もしかすると、建設当初の石敷きなんでしょうか?

 京都文化博物館の別館は、もとは日本銀行京都支店で、明治39年(1906)に竣工しました。重要文化財に指定されています。

 京都文化博物館
  京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)

 出来た時の石だったら、百年以上前のものになりますが、果たしてどうでしょうか?

 京都文化博物館

 この工事が何か、ちょっと調べてみると、どうやら耐震工事のようなのです。
 来年(2016年)3月まで実施されるそうです。博物館は開館しながらの工事ですね。
 重文建築の耐震補強ですから、経費も1億円余りかかるみたいです。

 私は、露出したこの石畳を見て、珍しそうにパチパチ写真を撮ってしまったのですが、以前は私もこの石畳を見、踏んでいたんでしょうね、おそらく。
 久々に懐かしいものに再会した、ということでしょうか。




 京都文化博物館別館(重文)

 所在  京都市中京区三条通高倉西入ル菱屋町
 見学  外観自由
 交通  地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約5分


近江の国、元三大師からの贈り物

人物




角大師厄除米


 9月に訪ねた湖北の田んぼアート

 “おみくじの元祖” とも呼ばれる元三大師(がんざんだいし)には、ずっと関心を持っていて、今年(2015年)9月には生誕地である滋賀県長浜市の虎姫を訪れました。

 玉泉寺
  玉泉寺(滋賀県長浜市)

 三川という、のどかな集落の中にある玉泉寺が生誕地で、大師をお祀りしています。

 その帰り、地元の方に勧められて、山の上から “田んぼアート” を見ました!

 田んぼアート
  田んぼアート (虎御前山より2015年9月撮影)

 田んぼの稲が、元三大師の護符「角大師(つのだいし)」の絵柄になっていて、感動したのでした。

 虎姫訪問、田んぼアートの記事は、こちら! ⇒ <“おみくじの元祖” 元三大師のふるさとは、近江ののどかな村里だった>


 忘れた頃に届いた贈り物

 それから3か月。

 茶封筒の郵便物が届きました。
 見ると、「虎姫地域づくり協議会」と書いてあります。

 思い出しました。
 田んぼアートを見に行った時、展望台の下にノートがあったのです。
 感想ノートなのですが、そこに住所・氏名を書き添えると、田んぼのお米を収穫後、抽選で送ってくれると書いてあったのでした。

 それが、いま届いたのです。
 
 角大師厄除米

 お米が届くというイメージからすると、かわいい小袋で、内容量は50g。
 添え状は「田んぼアート観賞のお礼」というタイトルです。

 それによると、展望台の芳名帳には500名を超える方がメッセージを残されたといいます。
 収穫祭は10月4日に行われ、そのお米(厄除米=濃紫米)は玉泉寺で祈祷されました。
 当初は抽選で送付する予定だったのですが、多くの方がメッセージを残してくれたので、少しずつ全員に送ってくださったようです。

 文章は、「また来年、当協議会では「田んぼアート」に挑戦したいと考えています。来年はどんな絵柄になるか…お楽しみに!」 と結ばれていました。
 
 角大師厄除米 厄除米

 お米を炊く時、小さじ1杯くらい混ぜるといいそうです。
 早速いただいてみたいと思います!


撞木形の路地があるという話をしていたら、その名も「撞木辻子」があるというので行ってみた





撞木辻子


 撞木と辻子

 前回、T字形の路地を少々古風に “撞木形” の路地と言ってみました。
 撞木(しゅもく)とは、お寺などで使う鉦(かね)を叩く用具です。T字形をしているのですね。

 その後、同じく「撞木」の語が付いた街路があることを知りました。
 その名も「撞木辻子(しゅもくのずし)」。
 四条烏丸の近くにあります。

 今回は、早速そこを訪ねてみたわけですが、行ってみる前に「辻子(ずし)」について少し説明しておきましょう。
 辻子の研究と言えば、歴史地理学者・足利健亮氏の本を見よ、というくらいで、みんな『中近世都市の歴史地理』を参照します。
 そこで紹介された辻子の特徴をまとめると…… 

 京都の「町(ちょう)」は、通りを挟んで対面した家並みから構成されています。道の両側(向い側)で1つの町を作ることから、両側町と呼びます。
 この通り(町通り)に対し、横丁のように直交方向に通っている道が、辻子なのです。つまり、辻子という道に対しては、家は正面を向けないわけです。
 辻子を歩いていると、家の入口は現れなくて、塀の脇を通って行く、というイメージになるのです。横丁だと覚えておくのが分かりやすいでしょう。

 これを頭に置きながら、いよいよ撞木辻子を訪ねてみましょう。


 撞木辻子へ行ってみた

 四条烏丸の交差点から、四条通を西へ。
 次の新町通との交差点の北西角には、住友生命京都ビルがあります。1階(西側)には喫茶店が入っています。
 このビルの西端の写真です。

 撞木辻子

 北側へ細い道が伸びています。
 これが、撞木辻子(しゅもくのずし)です!

 南の四条通から北の錦小路通まで、120m続く辻子。

 もちろん、「撞木」辻子なので、T字形になっているはずですよね。

 歩いて行くと……

 撞木辻子

 ちょうど中間地点で左(西)へ枝分かれしていました!
 これぞ、撞木形ですね。

 撞木辻子
  東西の道

 西へ進んでいくと、両側には小さな飲食店が何軒も並んでいます。
 しかし、昔はおそらく、しもたやが並ぶひっそりとした住宅街だったのでしょう。

 例えば、このお宅。

 撞木辻子

 中央の一軒が、たぶん戦前から建っている家。
 先日ご紹介した “塀のある長屋” なんですね。

 さらに先に行くと……

 撞木辻子

 これは “塀のある家”、いわゆる大塀造(だいべいづくり)の門ですね。おそらく、門の右側に昔は高塀があったのでしょう。

 また、この狭い辻子から、さらに小さな路地が伸びている部分もあります。

 撞木辻子

 門を入って路地を進むと、奥に2軒ばかりのお宅があるようです。

 このように、この辻子は、かつてはひっそりとした住宅地区だったと想像されます。


 西の入口は……

 辻子を西へ抜けると、新町通に出ました。
 振り返ると……

 撞木辻子

 ああ、ここですね。放下鉾の会所(左の建物)のところでした。
 辻子の入口左側(北)には、このように町家が建っているのですが、右側(南)は駐車場です。

 撞木辻子

 辻子に並ぶ3階建の建物が見えています。


 北側は……

 辻子の南北路の北側に来てみました。

 撞木辻子

 こちらは、左(東)はマンション、右は駐車場(つまり空地)です。
 もう辻子という雰囲気ではないですね……

 ここを入って行くと、マンションなどがあるのですが、下の写真の部分。

 撞木辻子

 2つのビルの間に隙間があるでしょう。
 実は、ここに昔は路地があったのです!
 その奥の左右に2軒ほどの家があったようです。

 辻子そのものも細いけれど、その中にまた路地があったり。
 複雑ですね。

 撞木辻子は、15世紀末には出来ていたらしいのです。
 南北路の東向こうは室町通。町で言えば、菊水鉾町です。そのため、南北路の東側は菊水鉾町の背面になります。現在は、ビルの側面か背面になっています。
 一方で、南北路の西側と東西路の両側には、家が建っていきました。そのため、新たな町・観音堂町が出来たのです。

 地図を見ると、撞木辻子のある観音堂町は、
  ・東の菊水鉾町(菊水鉾)
  ・西の小結棚町(放下鉾)
  ・北の天神山町(霰天神山)
  ・南の月鉾町(月鉾)
 に囲まれています。この4町は、いずれも鉾町です。

 ところが、新しく出来た観音堂町は、山鉾は出せないのでした。
 このあたりにも、辻子と町の成り立ちが反映しています。

 なお、観音堂町という町名の由来は、かつてこの場所に竜福寺というお寺があったことによります。そのため、辻子は別名、観音堂の辻子とか観音堂東辻子などとも呼ばれました。

 名前に魅かれて行ってみると、意外に奥深かった撞木辻子。
 この付近、まだまだ面白い辻子や路地がありますので、また紹介してみましょう。




 撞木辻子(しゅもくのずし)

 所在  京都市中京区観音堂町
 見学  自由
 交通  地下鉄「四条」、阪急電車「烏丸」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年
 『京都市の地名』平凡社、1979年
 「京都市明細図」京都府立総合資料館蔵、昭和初期


京の路地と長屋、少しカッコよく言ってみた “撞木形” の路地とは?





高倉錦の家


 高塀の家と路地と長屋

 京都の町の中心部は、区で言うと中京区ですね。

 もっとも、室町時代の昔から、京都は上京と下京の2つの町に分かれていたので、中京(なかぎょう)という区分はありませんでした。
 昭和になって、上京区の南側と下京区の北側を合わせて「中京区」としました。昭和4年(1929)のことです。
 およそ御所の南、丸太町通から四条通の間の地域です。

 このあたりを歩いていると、ビルの間に古い町家が残っていることがあります。
 近年、かなりビル化したとはいえ、まだまだ多数の町家が見られます。

 高倉錦の家
  高倉の家

 これは高倉通にある仕舞屋(しもたや)です。
 門と高い塀を持つ家屋で、洋館を付属させています。典型的な大塀造(だいべいづくり)のお邸です。

 大塀造については、こちら! ⇒ <高塀の家を訪ねて(その1)><高塀の家を訪ねて(その2)>
 
 この塀をよく見ると、左端にイタリア国旗が見えるでしょう?
 今回は、この部分が話題です。

 高倉錦の家

 国旗の下に門がありますね。

 高倉錦の家

 門の中が通路になっていますね。
 ちなみに、ちょうちんの下る左隣の家にも、門と通路があります。

 高倉錦の家
 
 右の家は、こんな感じ。
 よく見ると、奥にイタリアンレストランがあるのでした。

 左の方も、奥に入ってみると、通路はカギの手(逆L字)に曲がっており、お店があります。

 いま「通路」と呼びましたが、やはり「路地」と言った方がよいでしょう。
 ふつうには「ろじ」だけれど、関西風に言うと「ろーじ」となります。

 中京区を歩いていると、このような路地が数多く見られ、その奥に長屋が建っているのです。


 「ろーじ」解剖

 例えば、こんなふうですね。

 高倉の家
  高倉の家(2)

 表通りに面したお宅自体、二軒長屋ですが、右端に門が付いています。
 
  高倉の家

 門には、上の方に表札を掛けるスペースが作ってあります(現在、表札は外れています)。
 門をくぐると路地になっており、こちらの場合、路地に並行して三軒長屋が建っていました。

  高倉の家

 この路地は、長さ約30m、直線状で行き止まり。突き当りには、コンクリートの塀が立っています。塀の向こうは、大型マンションの敷地のようです。

 次は、こんな例です。

 柳馬場の家
  柳馬場の家

 右に住宅、左がパーキング。その奥にも家が建っています。

 もちろん、かつてはパーキングの場所にも住宅が立っていました。
 そう、表通りに面した住宅と住宅の間に路地があり、奥に二軒長屋が建っている、という構造。

 柳馬場の家

 矢印の部分が、路地だったところ。
 正面から見ると、よく分かります。門も残っていますね。

 柳馬場の家

 この路地、奥に突き当たると左右に分かれるT字形。
 T字形というのも味気ないので、古風に “撞木(しゅもく)形” とでも呼んでおきましょうか。
 ちなみに、撞木とは、鉦(かね)などを叩く道具のことです。シュモクザメの撞木ですね。

 京都の各町(ちょう)は奥行きが深いので、奥まった部分に別の家(多くは長屋)を建てて、効率的に利用するスタイルがこれなのです。
 この撞木形の路地は、写真の少し北にもあります。行ってみると、いまでは奥の家がチョコレート店に改装されていました。
 京都の真中だけに、商業利用に転換したわけです。


 路地を探るツール

 このような町の作られ方を学び、路地を知るため、役に立つツールがあります。
 せっかくの機会ですので、私が利用しているものをご紹介しておきましょう。

(1)グーグルマップ
 いまや誰でも使っている地図。説明は不要でしょう。
 この地図で有益なのは、やはり航空写真が見られること。今回取り上げたような路地や、1軒1軒の家、そして棟の方向まで、つぶさに知ることができます。

(2)住宅地図
 ビジネスで頻繁に利用されている地図。ただ、購入するとなると、1冊が1万円などという高級品。
 ところが、今では便利なものが登場しました。使い始めた「ゼンリン住宅地図プリントサービス」。
 なんと、コンビニのコピー機で住宅地図がプリントできるのです! 1枚300円は決して高くありません。
 私は、店名や入居者名を見るのではなく、家の建ち方や路地の付き方を調べていきます。
 縮尺は1/1,500と大きく、先ほど触れた撞木形の路地なども反映されています。
 航空写真と併用すれば、各町の詳細が分かって来て面白いです。

(3)地籍図
 一筆ごとの土地について、境界や地番、所有者が分かる地図です。
 最新のものは法務局などで見られると思いますが、私に必要なのは昔のもの。
 これには過去に刊行されたものがあって、「京都地籍図」と言います(大正元年=1912年)。
 地図が1枚ずつのシートになっていて、所有者については別冊でまとめられています。
 明治末の京都の土地のあり方、土地所有者の住所・氏名が分かる優れた資料です(不二出版から冊子体で復刻されています)。
 残念なのは、土地の所有者は分かるものの、居住者(いま住んでいる人)は分からないこと。ここが住宅地図と違うところですね。

(4)京都市明細図
 京都府立総合資料館が所蔵する地図。
 縮尺1/1,200の精密な地図で、昭和2年(1927)頃の火災保険図です。
 戦後の昭和25~26年(1950-51)の書き込みもあり、戦前戦後にわたる情報がつかめます。
 立命館大学と共同で、現在の地図と重ね合わせた「オーバーレイマップ」も製作され、インターネットで閲覧できます(もちろん無料)。
 土地の境界、地番といった地籍図的な情報に加え、各戸の商売の記載、敷地内の建屋の記載など、詳細な情報が満載です。
 例えば、今回2番目に紹介した細い路地の奥に塀がありますが、その塀の向こうは現在は大型マンション。では、戦前は何だったかというと「銀行集会所」だったと、この地図で判明します。
 いますぐ見てほしい素晴らしい地図です。
 昭和初期時点の情報が分かるだけでなく、他の地図や資料と組み合わせることによって、その前や後の時期についても類推できる資料となります。

 この4つは、いずれも手軽に利用できるものです。
 特に、(4)京都市明細図は、見ていて飽きないスグレもの。先日も、同僚にこの地図を紹介しながら、何十分も見てしまいました(笑)
 一般の都市地図や国土地理院の都市図などと併せて使えば有益でしょう。




 高倉の家

 所在  京都市中京区貝屋町
 見学  レストランとして営業
 交通  地下鉄「四条」、阪急電車「烏丸」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『京都地籍図』京都地籍図編纂所、1912年(復刻:不二出版、2008年)
 木村大輔「『京都地籍図』の資料的検討」(「佛教大学大学院紀要 文学研究科篇」2010年所収)
 上田篤・田端修編『路地研究』鹿島出版会、2013年


京都にもあった塀のある長屋





長屋


 塀のある長屋

 ここ数回、塀のある家を紹介してきました。
 大塀造(だいべいづくり)とか高塀造(たかべいづくり)とか呼ばれるものです。

 塀付きの家を見始めたきっかけは、大阪で “塀のある長屋” を拝見したことでした。
 それを見た瞬間、懐かしさを覚えるとともに、「京都には、こんな長屋はないだろう」と思ったのです。

 ところが、その後、京都の町なかを歩いているうち、ついに “塀のある長屋” を発見してしまったのです!

 長屋

 こちらが、そのお宅です。
 二軒続きの長屋で、各戸、右側に庇の付いた門が付いています。
 この門の部分、大塀造の家の門に似ていませんか?

 富小路蛸薬師の家
  大塀造の門
 
 上の長屋の門を横から見ると、このようになっています。

 長屋
  矢印の部分が塀

 塀になっているんですね、ちゃんと。
 塀と主屋の間には、坪庭のような空間があって、これも大塀造と同じです。
 大阪の塀のある長屋も、これと同じでした。


 出格子の窓も

 細かいところにも類似点があります。

 長屋

 出格子窓(釣り出格子)。
 大塀造の場合、塀にこの出窓が付いているのですが、こちらの場合は道路に面した一室に付けられています。

 綾小路の家
  大塀造の釣り出格子

 この長屋は、現在では2軒続きですが、戦前の「京都市明細図」を見ると、3軒続きだったことが分かります。
 現在右横が空地になっていますが、ここにもう1軒あったわけです。

 長屋
  右にもう1軒あった

 昭和初期くらいの建物と想像されます。
 長屋といっても、塀と門が付くと、立派な印象になりますね。
 高塀の家にならって、このような住宅も出来たのでしょうか。
 
 よく探せば、市内にもまだありそうです。




 塀のある長屋

 所在  京都市中京区河原町通丸太町
 見学  一般住宅です
 交通  京阪電車「丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京都市明細図」京都府立総合資料館蔵、昭和初期


ありがとうございます! - 連載400回 -

その他




賀茂川


 3年4か月で400回

 早いもので、2012年8月にブログを始めてから、3年余りが過ぎました。
 3日に1度のペースで更新してきて、今回でちょうど400回を迎えます!
 ご愛読いただいている皆さまには、改めて感謝申し上げます。

 これまでも、○周年、○百回のときには、このブログを綴る感想を書いてきたのですが、先ほど300回目を見直してみたところ、いまの所感とほとんど同じでした。

 300回は、こちら ⇒ <いつもお読みいただき、ありがとうございます!-連載300回ー>

 まぁ、人間1年くらいでは余り進歩もしないということでしょうか(笑)


 新しいテーマに気付かされる日々

 それにしても、京都は奥深い、というのか、いくら汲んでも尽きない井戸のように、どんどんテーマが湧いて来ますね。
 先日から2、3回書いている高塀のある家(大塀造)なんて、これまでなにげなく見過ごしていた存在ですが、テーマに据えて実地を見ると、実におもしろいんですね。
 そして、高塀を見て歩くうちに、また違ったテーマに出会うという、そういう繰り返しになっています。
 同じ京都に住んでいながら、世界が拡がったような気分です。

 先ほど、出講している上京大学(仮称)の授業で、一緒にやっている美術史の先生が、「文字に毒されずに、モノを見ることが大切」とおっしゃっていました。私の京都探訪も、まさにそうです。
 本を読んでいるだけでは分からない “書かれざる歴史” のようなものが、街の中に転がっている気がします。
 それをひとつひとつ掘り起こして、この街に生きた人たち、この街を造ってきた人たちについて思いを巡らせることが、このブログとも言えるでしょう。

 次の目標は、4周年なのか500回なのか? 
 とりあえず、また3日後から書き始めます。


 今宮神社



高塀の家を訪ねて - 京のしもたや(その2)-





三条の家


 高塀の高さとは?

 前回に続き、高い塀を持つお邸についてレポートします。

 ところで、この前から「高塀(たかべい)」という言葉をなにげなく使っていますが、高塀っていったい何メートルくらいからを言うのでしょうか?
 中村達太郎博士の『日本建築辞彙』で調べてみると、「高塀」とは、

 普通ノ塀ヨリハ高キモノヲイフ。
 普通ノ塀ハ凡(およそ)六尺ノ高サナリ ソレヨリハ稍(やや)高キモノヲイフ。(111ページ)


 と書かれています。
 普通の塀は、6尺、つまり180cmほどなのだそうです。

 確かに、高塀は “くぐり” のようにして格子戸などが組み込まれているわけですから、6尺よりは高くなります。

 天ぷら吉川
  料理旅館 天ぷら吉川 (中京区)

 写真から分かるように、人物よりは相当高い塀です。
 お宅によって異なりますが、板塀の部分が6尺くらいとして、その上に聚楽壁が2尺ないしは3尺(約60~90cm)ほど乗るのでしょう。
 そうすると、8尺から9尺、つまり2m40cm~2m70cmの塀ということになります。
 通りからの視線を遮断するには、十分の高さですね。


 富小路の立派な家

 前回に続き、旧生祥小学校の前から富小路通を下がってきました。
 蛸薬師通との角に立派なお邸が。

 富小路蛸薬師の家
  富小路の家(1)

 大塀造(だいべいづくり)の家で、初めて角にあるものを見ました。
 塀の高さを注意すると、玄関のある側の塀(電柱の右)が、側面の塀(電柱の左)よりも少々高いことが分かります。
 そのため、玄関側の塀は、聚楽壁(土壁)の比率がとても大きくなっています。

 富小路蛸薬師の家

 正面(北側)から見たところ。
 2階のボリュームも大きく、全体に背が高い印象を受けます。 
 真ん中から左半分に、塀が4間あります。右半分は塀ではないのですが、庇(ひさし)や出窓(釣り出格子)を付けて、塀のように処理しています。このことで、左端から右端まで一体感が保たれていますね。

 富小路蛸薬師の家
  玄関

 玄関の庇から上が、通常より長くなっています。側面の塀より高くしたために、こうなったのでしょうか。

 富小路蛸薬師の家
  釣り出格子

 次に、側面を見てみましょう。

富小路蛸薬師の家

 9間の長い塀で、真中3間に窓を穿ち、左端寄りに勝手口を付けています。勝手口は、玄関より小ぶりの板戸になっています。

 富小路蛸薬師の家

 塀の前には、柵が設けられています。
 これは、意外に多く見られる工夫ですね。違法駐車や衝突を防止する目的なのでしょうか。
 そして、こちらのお宅では、柵の金物も凝っています。

 富小路蛸薬師の家

 銅製の八双金物(はっそうかなもの)ですね。
 片方の端が二股になっているもの。お寺の門扉などでよく見掛けます。
 町家でこういうのを使うと、重々しい印象です。珍しい上に贅沢です。また、2階にも細かな意匠があります。

 このお邸ほどになると、規模も大きく、贅を尽した造りで、もう文化財級ですね。中京にある大塀造の代表作のひとつでしょう。


 通りから見える2階の工夫

 引き続き富小路通を歩きます。
 こちらのお宅。

 富小路錦の家
  富小路の家(2)

 富小路通に面して建っています。
 大塀造の家としては、間口は狭い方です。そのせいもあり、塀は高く見えます。
 住居の2階が変わった外観です。

 富小路錦の家

 壁をよく見ると、鉄色と言おうか、渋い色合いのタイル貼りになっています。
 洋風とまでは行きませんが、単なる和風から抜け出すような遊びが感じられます。

 あえて推測すれば、大塀造の場合、住まいの1階は通りから見えず、逆に2階はよく見えます。その視線が集まる2階に工夫を凝らすわけです。
 隠しつつ見せる、というアンビバレントな戦略ですね。

 富小路洋風の家
  富小路の家(3)

 この家は、富小路通をずっと上がったところにあるのですが、通りから見える住居は洋風になっています。窓の格子が素敵。モダンな雰囲気です。
 実は、この洋館の後ろに、和風住宅も建っているのです。
 間口は狭いのですが、タテに<洋+和>と、2段構えになっているわけです。見せる部分には、新しいスタイルを持ってくるという感覚。なかなか面白いと思います。


 町家と蔵と塀

 同じ富小路、上の洋風邸の近所に、このようなお宅もありました。

 富小路姉小路の家
  富小路の家(4)

 2階に大きな虫籠窓(むしこまど)のある家。
 町家の左側部分に、高塀をオーバーラップさせるような建て方で、その左には蔵が建っています。
 町家と蔵の間に塀を造っている形になります。変わったスタイルです。

富小路姉小路の家

 このように、富小路通には数多くの大塀造の家がありました。なぜ富小路に多いのか、理由は不明です。少し考えてみたいと思います。


 高塀の医院

 その2の最後として、医師のお邸を紹介しておきましょう。
 
 三条の家
  三条の家

 三条通にある邸。
 門には大きめの庇を付け、右に3間の塀。塀からはヒマラヤスギ(右の木)ものぞく、ちょっとモダンな印象の家。
 にぎやかな三条通にあるので、記憶にある方も多いでしょう。

 三条の家

 実は歯科医院ですが、いま歯医者さんとして開業されているのかどうか。看板の書体がいけてます。
 中には入ったことがありませんが、おそらく1階が診察室で、2階は住居なのでしょう。
 側面から見るとよく分かるのですが、2階は大きなガラス窓になっており、採光に配慮されています。

 三条の家
  2階はガラス窓 (右隣は、1928ビル=旧大毎京都支局)

 医院は、しもたや(仕舞屋)ではありませんが、なぜか大塀造のものが多いのです。
 おそらく、明治以後に広まった新業種として、旧来の商家と区別するような意匠を取ったのではないでしょうか。

 今回、中京区内を歩いて、高塀を立てた家が意外にも多いことが分かりました。
 思い付くまま歩いても、2、3時間で15軒くらい見ることができました。後日、なにげなく中京を歩いていると、やはり初見の高塀の家に出会います。上京、中京、下京と、京都の中心部にはどのくらいの大塀造の家があるのか。とても興味がわいてきたので、引き続き調べていきたいと思います。

 


 三条の家

 所在  京都市中京区弁慶石町
 見学  外観自由
 交通  地下鉄「市役所前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年