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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

高塀の家を訪ねて - 京のしもたや(その1)-





富小路の家


 意外に多かった高塀の家

 前々回、京都には塀をめぐらした家が少ないのでは? という記事を書きました。

 記事は、こちら! ⇒ <塀のある家は、京都の感覚では余り見掛けない家?>

 大阪で “塀のある長屋” を見たことに端を発し、京都でも塀付き住宅があるのか関心がわいてきたのです。
 気になると確認せずにはおられず、先日、御池あたりに買物にいくついでに、丸太町通-四条通間の塀付き住宅について、調べてみました。買物と言いながら、2、3時間も住宅巡りしてしまいました(笑)

 結果から言うと、京都の中心部(今回は中京区)には、意外に高い塀をめぐらした “しもたや” が多いことが分かりました。
 「しもたや」とは、「仕舞屋」とも書き、商売を辞めた(仕舞った)家という原義です。
 京都や大阪では、商売をやっている家は、街路に面して店を構えています。ところが、商売を辞めて引っ込むとなると、ちょっとした塀を立てて、道路から遮断されたところに住まったりするわけです。

 綾小路の家
  大塀造(高塀造)の例

 このような塀のある造りを大塀造(だいべいづくり)とか高塀造(たかべいづくり)とか言っています。
 古いたとえですが、“粋な黒塀 見越しの松に” という流行歌謡「お富さん」のような家なわけで、別宅風なイメージもあります。

 実際に家を見る前に、辞典の定義を引用しておきましょう。

 大塀造り
 主として京阪地方の町屋において、主屋は表通りより引っ込めて建て、表通り沿いには塀を建て回したもの。塀の高さ、構造には関係ないが、普通は人間の背より高い板塀とする。塀には、しばしば覗きのために釣り出格子を設ける。明治以後行われる。(『建築大辞典 第2版』)


 文中の「釣り出格子(つりでごうし)」は、上の写真に見える塀に付けられた出窓のことを指しています。

 今回は、中京区の大塀造の家レポート第1回です!


 共通するスタイル

 丸太町あたりから歩き始め、もちろん隈なく東へ西へと歩いたわけではないのですが、まず出くわしたお邸がこちらです。

 二条の家
  二条の家

 典型的な大塀造の家。
 古くから二条通でご商売をしている方のお宅のようで、お店のビルの裏手に建っています。

 南寄りに門を設け、北に7間の塀が続きます。
 塀からは、2本の見越しの松がのぞいています。

 二条の家

 門は格子戸で、塀より切り下げた瓦葺の庇(ひさし)が付いています。
 格子戸の前には、立派な踏石を置いています。これはなんでしょうか、鞍馬石ですかね?

 二条の家

 また、格子戸の右方は、板壁のように見える隠し扉が付いています。これはよく考えられていますね。

 北側に続く高塀。

 二条の家

 一番下の立ち上がりは石(花崗岩)を置き、その上が杉板。黒塀らしい雰囲気を出しています。
 板塀の上は聚楽壁になっていて、その上に瓦を乗せます。

 つまり、石、板、土壁という3段構成になっています。これが高塀の基本スタイル。3つの比率は変化するのですが、だいたいこのバリエーションが多いのです。
 もっとも例外もありますので、それは次に見てみましょう。


 犬矢来のある黒塀

 二条通から御池通を南へ渡り、姉小路通にやってきました。
 目立った黒塀のお邸が。

 姉小路の家
  姉小路の家

 塀の内には、東隣にある美術商さんの茶室「好日庵」があるのだそうです。写真で拝見すると、お庭も素敵そうですね。
 昭和16年(1941)の建築というので、約70年前ということになります。

 姉小路の家

 東端に門を開け、塀は5間あります。
 こちらの塀は、板塀で、土壁の部分はありません。
 ただ、下部には犬矢来(いぬやらい)を置き、塀の上には目隠しを付けています。
 このような上部の目隠しは、しばしば使われるようです。

 姉小路の家


 町家に付随する塀

 三条通を過ぎ、六角通まで歩いてきました。
 通りの南に、こんな家があります。

 六角南側の家
  六角南の家

 よく見ると、道路に面した左の町家と、塀のある右側の家とは、同じお宅のようです。
 このような<町家+大塀造>のパターンもあることが分かってきました。
 おそらく、最初は全部町家だったのを、のちに一部だけ大塀造の仕舞屋に改造したのでしょう。

 六角南側の家

 こちらのお宅の場合、改造も比較的新しそう。
 塀の前に駐車スペースを設け、低めの塀の上に目隠しを付けて、のぞいている樹木は楓です。他を見ても、松以外に楓というパターンもあるようです。

 そして、振り向くと、北側にも同様のお宅があります。

 六角北側の家
  六角北の家

 左側に町家、右が高塀の家。
 同じスタイルです。

 こちらは、高塀の中が日本料理店になっています。かつて仕舞屋として作った住まいが、いま店舗に改装されるとは面白いですね。

 六角北側の家

 下は、西側(左)から見た写真。

 六角北側の家
 
 左端に格子戸があるのが分かりますか?
 この戸の内には、なにがあるのか ??

 六角北側の家

 実は路地が続いていて、奥に4軒ばかりのお宅があるようなのです。
 今回、ぶらぶら歩いていて、このパターンもよく見掛けました。京都の場合、碁盤目状の町並みですので、各グリッドの内側には空閑地が出来やすいのですね。それを有効活用するために、通りに面したところには商家を建て、裏には貸家などを造るわけです。
 ここは戸が付いていて中に入れないので、どんな住宅が建っているかは不明でした。


 高塀の集中する富小路へ

 今度は、南北の通り、富小路通を進みます。
 旧生祥小学校の前に、こんな家が建っています。

 富小路の家
  富小路の家

 現在は小料理屋さんになっている、この邸。
 左右のお宅はつながっておらず、別々の家のようです。

 富小路の家

 塀の南端に、潜りのような入口があって、塀は4間あります。塀の上部に窓が開けてあるのが特徴です。

 富小路の家

 窓に5本ほど、まばらに格子がありますが、これは竹です。
 このスタイルの窓を付ける例も、結構あります。

 ところで、こちらの家は隣が空地になってしまったので、奥まで見渡せるのです。

 富小路の家

 一番奥に蔵が見えますが、あのラインまでが奥行きです。
 “うなぎの寝床” と言うにも、余りに奥深い京町家ですね。

 建物の背面も見えるのですが、写真は憚られるので、壁の裏側だけ見ておきましょう。

  富小路の家

 こんなわけで、二条通から順々に見てきました。
 もちろん、ご紹介していないもの、見落としているものもありますから、意外に多くの大塀造の家があるわけです。
 そして、富小路通には、この造りのお宅が多数残っています。次回は、そんな建物を見て行きましょう。




 富小路の家

 所在  京都市中京区富小路通六角下る骨屋之町
 見学  飲食店として営業
 交通  阪急電車「河原町」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『建築大辞典 第2版』彰国社、1993年


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きょうの散歩 - 紅葉の名所・東福寺で観楓 - 2015.11.26 -

洛東




東福寺


 人出がすごい東福寺

 今日は、紅葉の名所として名高い東福寺に行ってきました。なかでも通天橋はビュースポットとして知られています。

 東福寺が好きな私は、ふだんは何もない時期に建物を見に行ったりしています。ところが今日は、駅から物凄い人出でした。
 通天橋にも臨時券売所や売店が出来るほど。

 東福寺

 ツアー団体が多いのですが、ここでもアジアからのお客さんが大勢押し掛けているのでした。

 肝心の紅葉は、まだ色付いていないものもあるようですが、そろそろ見頃という印象。例年よりも少し遅めなのでしょうか。

 東福寺 通天橋からの眺め

 東福寺
  紅葉の名所・通天橋

 写真撮影している方が多いんですね、やはり。
 そこで気付かされたのは、スギゴケの上に散った紅葉を撮るということ。
 さっそくマネしてみました。

 東福寺

 今日はカメラがコンパクトだったので、こんな感じです。
 ちなみに、コケって外国の方には珍しいのか、若い青年が熱心に撮影していましたね。

 建物好きの私は、通天橋を渡ったところにある開山堂(常楽庵)を美しく感じました。

 東福寺
  東福寺 開山堂

 人混みが激しそうですが、この週末、訪れてみられるのもいいかも。
 たまには、風情のある観楓もよいなと思った次第でした。




 東福寺

 所在  京都市東山区本町
 見学  通天橋は大人400円など
 交通  京阪電車・JR「東福寺」下車、徒歩約10分


塀のある家は、京都の感覚では余り見掛けない家?





丸太町の家


 塀に囲まれた家

 最近、大阪・阿倍野区で建物見学会をやりました。
 そこで私の心に引っ掛かったのは、“塀のある長屋” でした。

 私も子供の頃から長屋暮らしでしたが、京都の長屋で塀があるものを見た記憶がありません。
 ところが、大阪では割合にそういうタイプがあるようで、研究者の中には「塀型」長屋と言っている方さえあります。

 その長屋は、木造2階建、1階の表に玄関と台所が並んでおり、奥に居室がある、2階も2間ある、という私が育った家と同じ形なのです。
 ところが、道路に面して高い塀があり、そこに門が穿たれている。塀と家の間には、小さな坪庭がある ーー この、塀がある、というところが異なっていて、少し珍しく感じたのでした。

 半世紀を越えた私の人生の中で(ちょっと大袈裟ですね)、「塀のある家」は、余り見掛けないものでした。
 ところが、テレビで「サザエさん」や「ドラえもん」、「ちびまる子ちゃん」などを見ていると、どれも家の周りに塀がめぐっているのです。ご近所も同じで、道路は塀と塀に挟まれています。その中を、カツオやのび太やまるちゃんが歩いて行くわけです。これは、私の感覚からすると、随分違っている、あるいは新しく思われる雰囲気でした。


 道路に面する京都の町家

 京都の街中では、家は基本的に道路に面して建っています。

 長江家住宅
  長江家住宅 (中京区)

 このように、道路ぎわに家が建っています。
 京都だけでなく、大阪もこのスタイルでした。

 京阪の街中では、古くは、家の表で商売をやり、奥が住まいになっているという住宅が多かったのです。
 このうち、商いスペースと住宅スペースが別棟になっているものを表家造(おもてやづくり)と言いました。この場合、庭は道路側ではなく、一番奥にあるのでした。

 このような商売と住まいが一体化しているものを併用住宅と呼んでいます。
 昔は、この併用住宅が多かったのです。

 併用住宅の逆、つまり住まいだけの家を専用住宅と言います。
 時代が新しくなるにつれて、専用住宅が増えてきました。

 長屋は、庶民的な専用住宅というわけです。
 一方、お医者さんの家とか、お金持ちの別宅とか、そういう専用住宅を俗に「しもたや」と言ったわけです。漢字で書くと仕舞屋、商売を仕舞った(やめた)家という原義です。


 京の仕舞屋

 そう思うと、京都の街中でも結構仕舞屋を見掛けます。

 例えば、こんなお宅。

 綾小路の家
  綾小路の家

 高い塀があり、門が設けられている家。
 烏丸綾小路あたりのお宅ですが、このあたりとしては異彩を放っていて、通るたびに目に留まります。

 綾小路の家

 塀の右手(東)に、塀より切り下げた庇(ひさし)付きの門があります。また、塀の中ほどには格子を嵌めた出窓が設けられており、“なかはどうなっているのか?”と考えさせられます。
 塀自体は、下部は板張りですが、上の方には壁を塗っています。
 そして、見越しの松。

 私は、古い人間なので、こういうお宅を見ると必ず「お富さん」を思い出してしまうのです。春日八郎さんの歌ですね。
 「粋な黒塀 見越しの松に 仇(あだ)な姿の洗い髪」という歌い出し。昭和29年(1954)に発表されたという、芝居の玄冶店(げんやだな、源氏店)をモチーフにした流行歌。
 このイメージなんですね、高い塀のある家は。

 丸太町の家
  丸太町の家

 こちらは、少し小ぶりの家。
 丸太町あたりにあります。ここは三本木という場所。かつては花街でもあり、幕末の志士たちが行き交ったこともあるのでしょう。
 そういう土地柄にふさわしいお宅です。

 丸太町の家

 こちらも、右端に1間だけ塀があり、塀より切り下げた門を穿ち、左側に2間分の塀を建てています。塀からは背の高い見越しの松がのぞき、前栽(せんざい)の存在をうかがわせます。そして、北端には2階建の洋館を造ります。
 このような洋館を付けるパターンもよく見掛けます。
 隣が医院でしたが、この洋館も元は医院棟だったのでしょうか?


 郊外の家

 少し郊外、といっても下鴨ですが、こんなお宅もあります。

 下鴨の家
  下鴨の家

 下鴨神社の南あたり。
 こちらは、北側に蔵を置いています。

 下鴨の家

 塀の下に、犬矢来(いぬやらい)を付けています。これも京都らしいと言いましょうか。
 門のところには、白い軒灯が見えますね。この感じも、らしいですね。

 今回見てきたような、高い塀を持つ住宅を大塀造(だいべいづくり)とか高塀造(たかべいづくり)とか言うそうです。
 代表的な仕舞屋のスタイルですね。

 思うに、サザエさん的な塀に囲まれた家は、武家住宅の流れをくんでいるのでしょう。少し関東的という感じもします。一方、京都の塀のある家は、同じ塀でも高塀で、サザエさんとは随分異なった印象です。
 家と塀について考えるのも、ちょっとおもしろそうです。




 丸太町の家

 所在  京都市上京区俵屋町
 見学  個人宅ですので、ご配慮ください
 交通  京阪電車「神宮丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 寺内信『大阪の長屋』INAXアルバム、1996年
 西山卯三『すまい考今学』彰国社、1989年


鴨川に架かる荒神橋の脇にあるナゾの小道とは?





荒神橋の車道跡


 鴨川に架かる荒神橋

 荒神橋(こうじんばし)は、鴨川の橋の中でも余り知られていないもののひとつかも知れません。今出川橋と丸太町橋の間に架かっています。

 荒神橋

 ここは、洛中から洛外に向かう「京の七口」のひとつ、荒神口(今道口)があったところ。
 今でも、この辺りはその名で呼ばれています。

  荒神橋 荒神橋の親柱

 この前、“かなの崩し字” の回で、荒神橋=「くわう志んはし」の写真がよろしくなかったので、撮り直してみました(笑)

 河原町通から荒神橋に向いて撮影すると、こんな雰囲気です。
 奥に見えるのが、大文字山。

 荒神橋

 ここは道幅も広く、南側に公衆トイレがあるため、タクシードライバーの格好の休憩スポットになっています。

 荒神橋

 左角が公衆トイレですが、中央に南に伸びて突き当たっている道があります。
 左は小公園になっています。

 荒神橋の車道跡

 今回の主人公は、この小道です。


 ゆるく曲がった小道のナゾ

 道は20mぐらいで、京都府立医大の青蓮会館に突き当たり、左手にゆるく屈曲します。
 すると、鴨川が見えて来ます。

 荒神橋の車道跡

 総延長60mほどの道。
 これに何か意味があるのでしょうか?

 鴨川の河川敷まで歩いてみると……

 荒神橋の車道跡

 なにやら轍(わだち)のようなものが。
 これ、見覚えがありませんか?

 御香宮神社の車石

 そう、車石(くるまいし)風ですよね。

 実は、先ほどの道は、牛が曳く荷車が通る「車道(くるまみち)」の跡だったのです。

 およそこんなイメージですね。

 「花洛名勝図会」より「白川橋」
  車道を通って白川を渡る荷車(「花洛名勝図会」より)

 重い荷物を積んだ荷車が橋を渡ると、橋が傷むので、荷車は橋の下流の川の中を渡ったのです。
 上の絵の白川橋もそうですし、三条大橋もそうでした。

 荒神橋は、幕末に至るまで仮橋しか架かっていなかったようで、それを保護するため、荷車用の車道を造って、下流を通したようです。
 ここで鴨川を渡れば、志賀越え(山中越え)で近江(滋賀県)に抜けられますから、交通量も多かったのでしょう。

 いま河川敷に敷かれている車石風のモニュメント。
 解説板などがなくて、ちょっと分かりづらくなっています。

 ちなみに、幕末に出された「花洛名勝図会」(1864年)には、

 花洛名勝図会
  荒神橋付近を渡る荷車(「花洛名勝図会」)

 こんなふうに、川の中州に牛の曳く荷車が描かれています。
 
 三条大橋の方は、もっとはっきりと、

 花洛名勝図会
  三条大橋の下流(東側)を渡る荷車(「花洛名勝図会」)

 橋の下流に車道が描かれており、川に入って行く牛の姿が見えます。
 鴨川は今でも浅い川ですが、当時はもっと水量が少なかったのでしょうか。
 当時の絵図などを見ると、おそらく川床にも石を敷くなどして、荷車が通りやすくしてあったようです。

 荒神橋の西詰は、今では “タクシードライバー天国” みたいになっていますが、もしかすると江戸時代も、牛の御者たちが一服する溜まり場だったのかも知れませんね。

 なお、白川橋の車道については、以前の記事をご覧ください。
 
 記事は、こちら! ⇒ <牛で荷物を運んでいた時代、三条通の白川はどう渡った?>




 荒神橋 車道跡

 所在  京都市上京区上生洲町
 見学  自由
 交通  京阪電車「丸太町」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』平凡社、1979年


鞍馬寺の虎の石像、新聞記事になっていたので像の刻銘と比べてみると……





鞍馬寺仁王門虎像


 洛北の古刹・鞍馬寺と毘沙門天

 京都市街の北郊にある鞍馬。
 いにしえ平安京の北の護りといえば鞍馬寺で、毘沙門天を祀ってきました。
 いま宝物殿を訪れると、重要文化財の毘沙門天立像をはじめ、数躯の像に出会うことができます。

 鞍馬寺については、こちらもご覧ください! ⇒ <きょうの散歩 -鞍馬寺に虎とムカデを探して->

 叡山電車の終点「鞍馬」で下車すると、すぐに鞍馬寺です。

 鞍馬寺仁王門

 石段の上に、朱塗りの仁王門が見えて来ます。

 この門の手前、左右に一対の虎の像があります。

 鞍馬寺仁王門虎像

 毘沙門天は寅の日に出現したと考えられており、虎はその使いとされていたのです。そのため、毘沙門天を祀るところでは狛犬のように一対の虎像が置かれるのでした。

 狛犬同様に “阿吽(あうん)”になっており、右が “阿”(口を開けている)、左が “吽”(口を閉じている)像です。

 
 虎像の刻銘を見る
 
 寺社や屋外で石造物を見付けると、前後左右に回って、詳しく観察してしまいます。これはもう癖で、裏側とかを見ないと落ち着きません。
 この虎像の場合も、台座を中心に見ていきました。台座には、文字が彫ってあることが多いのです。

  鞍馬寺仁王門虎像 吽の虎

 まず、左側の吽の像。
 表面には、虎の下の台に 「鞍馬山」 と大書してあるだけです。

 鞍馬寺仁王門虎像

 では、裏は?

 ありました。建立年が記されています。

 鞍馬寺仁王門虎像

 「大正二年一月初寅日」

 大正2年(1913)ですが、毘沙門天の縁日にちなんで、初寅の日(1年で最初の寅の日)に完成ということになっています。


 誰が寄進した?

 建立年が分かったところで、次は誰が造ったかですね。
 これにはふたつの意味があって、お金を出して像を奉納した人と、像を彫刻した人、そのふたつです。

 まず寄進者。

 鞍馬寺仁王門虎像

 「名古屋市南桑名町四丁目/寄附主/川口文左衛門」
 
 と記されています。

 名古屋の人ですか。
 「南桑名町」は、今はなくなっていて、中区栄2丁目に当たるそうです。確かに、地図を見ると、桑名町通というのがありますね。
 
 川口文左衛門という人について、調べてみました。

 この人、明治時代、名古屋で活躍した七宝作家だったようです。
 名古屋市博物館の報告書によると、万延元年(1860)の生まれ。明治中期から、内国勧業博覧会(第3回~第5回)や海外の万国博覧会に盛んに出品しています。
 明治22年(1889)のパリ万博では銀賞、明治37年(1904)のセントルイス万博では金賞を受賞するなど、高い評価を得ました。
 報告書には「蜻蛉文七宝手箱」という銀胎有線七宝の作品が写真掲載されていました。銀色の地にたくさんのトンボが飛び交う優雅な作品です。

 有名な人とは分かったのですが、それにしても、七宝作家と鞍馬寺、毘沙門天が、どうして結び付くのでしょうか?
 名古屋辺りの人が京都の寺社に寄進することは、よくあるのです。それ自体めずらしいとは言えませんが、なぜ鞍馬寺なのか。もう少し考える必要があるようです。

 次に、右側の口を開いた虎です。

  鞍馬寺仁王門虎像 阿の虎

 こちらにも台座に寄進者名が記されています。

 鞍馬寺仁王門虎像

 「京都市松原通新町東入/寄附主/藤井善次郎」

 とあります。
 こちらは京都の人ですね。十分調べていないせいもあり、いまのところ不詳です。

 灯籠などでもしばしばあることですが、左右で別の人が奉納していますね。

 そして、像を造った人、つまり石工なのですが、台座には 「石工 伊藤寅□□」 とあって最後まで読めませんが、「寅太□」のようなので、たぶん伊藤寅太郎でしょう。毘沙門天にふさわしい名前です。


 新聞記事との遭遇

 そんな石像を見てから、随分時間が経過していました。
 ところが、先日、まったく別件で古い新聞を見ていたら、この虎像のことが出て来たのです。

●鞍馬寺の虎と建碑
 洛北・鞍馬寺仁王門前に今回建設する石造の大虎二基は、台石とも総高さ一丈余にして一月九日の初寅までには悉皆建設を了(おわ)る由にて、施主は松原通新町東入・藤井善次郎、名古屋市南桑名町・川口文左衛門の両氏にして、石工は西陣・伊藤寅太郎請負ひ、総費金六百円を要すべし、と (後略) (京都日出新聞 大正元年12月27日付、句読点は適宜補いました)


 完成の前年の暮れ、12月27日の新聞記事。
 先ほどの2人が寄進して、台座もあわせて高さ1丈(約3m)余りの像を建設するという記事です。ちゃんと、年明けの初寅の日に間に合わせると書いてあります。
 石工も、やはり伊藤寅太郎でしたが、西陣の人だったのですね。
 総工費が600円ですから、いまの感覚では数百万円というところでしょうか。かなり掛かっています。

 新聞記事と像の刻銘とが、きっちり一致して気持ちいいですねーーと言いたいところですが、なんだかつまらないですね、同じでは(笑)
 学問的には、裏付けが取れて結構でしたが、もう少し食い違っていたりして、スリリングだった方が愉しいのも事実です。

 ちなみに、山上の金堂前の虎像については以前書きましたので、ご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <鞍馬寺にある阿吽の虎像は、超絶的な造形を誇る秀作>

 鞍馬寺黒岩淡哉作虎像
  金堂前の虎像(黒岩淡哉作)




 鞍馬寺

 所在  京都市左京区鞍馬本町
 拝観  大人300円ほか
 交通  叡山電車「鞍馬」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『名古屋市博物館調査研究報告Ⅲ 明治期博覧会出品七宝工総覧』名古屋市博物館、1996年


数ある京都の国宝建築、どれがおススメか、独断的に考えてみると……(その2)

建築




三十三間堂


 旧市街最古の寺院建築

 前回に引き続き、京都国宝建築めぐりです。

 京都にある国宝建造物のリストは前回をご覧いただくとして、さらに私の好きなおススメ建築を紹介していきましょう。
 先にあげた醍醐寺五重塔。
 一番上の五重目は、一番下の初層の6割しかないそうで、スーッとすぼまった格好良いスタイルです。

  醍醐寺五重塔 醍醐寺五重塔

 京都市内に残る最古の建築なのですが、こちらは伏見区の醍醐なので洛外になります。洛中、いわゆる旧市街で最も古い現存建築は、大報恩寺本堂です。

 千本釈迦堂
  大報恩寺本堂

 大報恩寺と言っても、聞き馴染みがありません。通称「千本釈迦堂」で知られています。12月の行事「大根(だいこ)だき」は有名です。

 「大根だき」については、こちら! ⇒ <きょうの散歩 - 千本釈迦堂の大根だき - 2013.12.8>

 この本堂は、鎌倉時代の安貞元年(1227)に建てられています。
 ご承知のように、京都では応仁の乱(1467~1477)によって市街が焼けましたから、それ以前の建物は貴重です。
 また、千本釈迦堂がある西陣界隈は、江戸時代の天明の大火など、何度か大火災に見舞われています。それを掻い潜って残って来たのは、仏さまの功徳というべきか、素晴らしいことですね。

 千本釈迦堂
 
 あまりいい写真じゃないですね。本当は美男子なのに、写真写りが悪いんですよ、釈迦堂は。

 横から見ると、薄い屋根が伸びやかに広がっているのが美しいです。
 参拝者が上がっていくところ、向背(こうはい、ごはい)といって、ひさしが前に突き出ています。
 入母屋造の屋根が △ に合わさる部分は、猪子扠首(いのこさす)です。

  千本釈迦堂

 外観は、“御殿風”に見えますよね。和様の建築で、開口部は半蔀(はじとみ)などで寝殿造のようですね。
 堂内に入ってみると、参拝する外陣と内陣が区切られていて、内陣には黒い敷瓦が敷かれ、四天柱が立っています。真言宗なので、密教的な雰囲気に満ちています。
 静かな空間なので、建築美を堪能するには最適ですね。

 国宝建築としては意外に知られていないと思いますが、これは優品です。
 北野天満宮から徒歩で行けるので、ぜひ訪ねてみてください。


 ひなびた山里にも……

 南郊まで足を延ばすと、浄瑠璃寺がいいですね。

 浄瑠璃寺
  浄瑠璃寺本堂

 本堂は、9躯の阿弥陀仏が安置される九体(くたい)阿弥陀堂です。
 阿弥陀さんは横並びなので、横に長い建物で、桁行は十一間あります。
 堂内に入ると、狭い空間に金色の阿弥陀さんが並んで座っておられます。平安貴族の夢の空間。まさに極楽浄土です。
 この建物は、中に入らないと良さが分かりませんね。

 浄瑠璃寺

 遠いせいもあって、長らく訪ねていません。こちらには国宝の三重塔もありますし、久しぶりに行ってみたくなります。


 クラシックな趣きの建築

 阿弥陀さんが9躯の浄瑠璃寺も壮観ですが、もっとたくさんの仏さんを造ってしまおう、というのが、こちらです!

 三十三間堂
  三十三間堂

 千体の千手観音がおられる御堂。
 三十三間堂という通称は、内陣の柱間が33あるために付けられました。外から数えると33でないため、昔の人は「長さが33間(約60m)」と考えることも多かったのです。
 ちなみに、文化庁のデータベースには、「桁行三十五間、梁間五間」とあります。この「三十五間」というのが外陣の柱間、つまり外から見た間数を表しています。

 三十三間堂

 三十三間堂もまた、建築が好きな方にも仏像が好きな方にも満足いただけるところです。
 修学旅行の定番になっていて、いつも人が大勢ですが、それに反して荘厳な宗教的雰囲気にあふれていて、私はここが大好きです。
 特に、真ん中に座っておられる観音さん(中尊)が、本当に尊いお顔お姿をなさっていて、いつも感動します。

 西側から見ると、遮るものがなくて上手く見られます。
 この建物は、鎌倉時代の文永3年(1266)に建立されたものです。しかし、その原型は後白河法皇の発願により建てられたもので、平清盛が大きな貢献をしています。つまり、院政期の建築なのですね。

 そのせいか、私の目にはとてもクラシックに映ります。

 三十三間堂

 この雰囲気。

 実に古風で、奈良のお寺を見ているような錯覚に囚われます。
 私の “古寺巡礼” は、少年時代、奈良から始まったのでした。そのせいか、「天平の甍」ではないけれど、古代のスタイルが心の底にあるみたいで……。どうしても、古典的な雰囲気に心魅かれるようです。
 今回は、そういった自分の中にある趣味嗜好が分かったような気がしました。

 みなさんも、「わたしの一棟」を探してみてはいかがでしょうか。




 三十三間堂(蓮華王院本堂)

 所在  京都市東山区三十三間堂廻り町
 拝観  大人600円ほか
 交通  京阪電車「七条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 文化庁ウェブサイト「国指定文化財等データベース」
 京都府教育委員会『京都府文化財総合目録』京都文化財団、2006年
 山岸常人『塔と仏堂の旅』朝日選書、2005年


数ある京都の国宝建築、どれがおススメか、独断的に考えてみると……(その1)

建築




東寺金堂


 数多くある国宝建造物

 京都南郊・八幡(やわた)市にある石清水(いわしみず)八幡宮の社殿が、国宝に指定されることが先月報道されていました。
 そんな中、ある団体の幹事さんの訪問を受けました。趣旨は、石清水八幡宮も国宝指定されることなので、それにあわせて京都の国宝建築を改めて見直す見学会ができないでしょうか、という相談でした。
 なるほど。こういう機会に国宝建築を通覧することも意義深いかも知れません。

 もちろん、京都の国宝建築といっても、とても数が多く、また一般公開されていないものもあり、なかなか見づらいものです。
 文化庁「国指定文化財等データベース」によると、京都府では約50棟の建物が国宝になっています。
 ほとんど京都市内にあるのですが、南部の宇治市、木津川市や、大山崎町、そして北部では綾部市にも1棟あります。


 京都府国宝建築のリスト

 今回、文化庁の国宝・重要文化財建造物のリストから、国宝だけを抜き出してみました。
 これだけでも労作? で、少し疲れ果てました(苦笑)

 そのリストです。カッコ内に寺社の通称名などを記し、京都市外のものには市町名を付記しました。1行で1棟(1基)になっています。

 賀茂別雷神社(上賀茂神社)本殿
 賀茂別雷神社(上賀茂神社)権殿
 賀茂御祖神社(下鴨神社)東本殿
 賀茂御祖神社(下鴨神社)西本殿
 大徳寺方丈及び玄関
 大徳寺唐門
 大仙院(大徳寺塔頭)本堂
 竜光院(大徳寺塔頭)書院

 北野天満宮本殿、石の間、拝殿及び楽の間
 大報恩寺(千本釈迦堂)本堂

 二条城二の丸御殿遠侍及び車寄
 二条城御殿式台
 二条城御殿大広間
 二条城御殿蘇鉄之間
 二条城御殿黒書院(小広間)
 二条城御殿白書院(御座の間)

 本願寺(西本願寺)阿弥陀堂
 本願寺(西本願寺)御影堂
 本願寺(西本願寺)黒書院
 本願寺(西本願寺)伝廊
 本願寺(西本願寺)書院(対面所及び白書院)
 本願寺(西本願寺)唐門
 本願寺(西本願寺)飛雲閣
 本願寺(西本願寺)北能舞台

 教王護国寺(東寺)金堂
 教王護国寺(東寺)五重塔
 教王護国寺(東寺)大師堂(西院御影堂)
 教王護国寺(東寺)蓮花門
 観智院(東寺子院)客殿

 慈照寺銀閣
 慈照寺東求堂
 知恩院三門
 知恩院本堂(御影堂)
 南禅寺方丈
 清水寺本堂
 豊国神社唐門
 妙法院庫裏
 蓮華王院本堂(三十三間堂)
 東福寺三門
 竜吟庵(東福寺塔頭)方丈

 醍醐寺金堂
 醍醐寺五重塔
 醍醐寺清滝宮拝殿
 醍醐寺薬師堂
 三宝院殿堂(醍醐寺、表書院)
 三宝院唐門(醍醐寺)
 法界寺阿弥陀堂

 広隆寺桂宮院本堂
 仁和寺金堂
 高山寺石水院(五所堂)

 平等院鳳凰堂中堂(宇治市)
 平等院鳳凰堂両翼廊(南)
 平等院鳳凰堂両翼廊(北)
 平等院鳳凰堂尾廊
 宇治上神社本殿(宇治市)
 宇治上神社拝殿
 海住山寺五重塔(木津川市)
 浄瑠璃寺三重塔(九体寺三重塔)(木津川市)
 浄瑠璃寺本堂(九体寺本堂)
 妙喜庵書院及び茶室(待庵)(大山崎町)

 光明寺二王門(綾部市)

 およそ、北から南へ並べました。
 1件しかない寺社も多いのですが、二条城、西本願寺、東寺、醍醐寺などには多くの国宝建築が集中しており瞠目します。


 好きなものを選ぶしかない

 これら国宝建築の中から、何を見るべきか?
 専門家でもなければ全てを訪ねることは難しいでしょう。おのずと、好みのものから見ていくことになります。

 私もこの機会に、改めて好きな建築を振り返ってみました。
 例えば、こちら。

 東福寺三門
  東福寺三門

 東福寺の三門です。
 京都には門の国宝は意外に多く8件もあり、門好きにはたまりません。私が好きなのは、大ぶりで大陸風な雰囲気のあるこの門と、小ぶりで瀟洒は大徳寺唐門でしょうか。
 この三門は、15世紀初頭の室町時代に建立されたもので、背の高さと左右のバランスが絶妙。楼上の内部も、架構がよく観察できて愉しいです。
 禅寺らしい素晴らしい三門。写真写りもいい “男前建築”!

 さらに、この門とともに、重要文化財の建築群が背後に控えています。六波羅門や仁王門も好きですが、素軽い屋根の月下門(月華門)は鎌倉時代の建築で、重文ですが “国宝級” ですね。

 続いては……

 東寺金堂
  東寺金堂

 教王護国寺(東寺)の金堂です。
 京都で、大仏様の建築を見るなら、これですね。奈良に行かなくても大丈夫(笑)

 東寺金堂

 東山にあった方広寺の大仏殿にならって造られたとされますから、本当に “大仏建築” です。慶長8年(1603)の築。豊臣秀頼の寄進。

 斜め横から見た屋根の拡がりが絶妙です。
 外から見ると二階建のように見えますが、そうではなく、内部は大仏様特有の高い空間が広がっています。そこに素晴らしい仏像が鎮座しているのですから、建築好きにも仏像好きにもたまらない空間です。

  東寺金堂 大仏様の組物

 そしてこちらもまた、背後に多数の国宝・重文建築群が控えています。

  東寺五重塔 東寺五重塔

 京都イメージの代表とも言える五重塔。
 ただ、これは江戸時代(1643年)の建築なので、フォルムが江戸っぽいですよね。つまり、見た目、屋根のボリュームが大きい。
 私は、清水寺本堂など江戸建築も好きで、特に中小寺院のものは大好きなのですが、この塔は少しリズム感に欠けるような気がします。

 むしろ、国宝の塔ならば……

  醍醐寺五重塔 醍醐寺五重塔

 こちらの方が好きですねぇ。
 これは古いんですよ。平安時代です。天暦5年(952)、京都市内で現存最古の建造物です。
 下層から上層への逓減率と言いましょうか、それが綺麗なんですね、この塔。
 よりクラシックな趣きです。

 今回つらつらと国宝建築を見て来ると、自分自身の趣味もよく分かってくるのですが、“その1” はリスト作成で消耗したので、つづきは “その2” で。


【この項、つづく】




 教王護国寺(東寺) 金堂

 所在  京都市南区九条町
 拝観  外観自由(柵外から) 内部は有料
 交通  近鉄電車「東寺」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 文化庁ウェブサイト「国指定文化財等データベース」
 京都府教育委員会『京都府文化財総合目録』京都文化財団、2006年


もうすぐ、さよなら? 古い映画館の名残り、2つのビル





松竹第三ビル


 名残りも消える新京極の映画館

 この1年ほど、私の中では新京極が関心の高い地域になっています。
 そのため、四条や河原町方面に行くことがあると、用事もないのに新京極や寺町を歩いてみます。それでも、気付いてみると、ふた月三月と足を運んでいなかったということがよくあります。

 10月半ば、久々に東京から友人が来ることになって、食事に行く前に少し四条河原町界隈をぶらついたのでした。
 先斗町、河原町、裏寺町、第二京極……
 レトロな映画館建築・旧八千代館(現・WEGO)を見て、美松劇場だった今は古着屋になったビルを眺め、さて新京極に抜けようかというとき……

 こんな光景が目に飛び込んできました。

  松竹第三ビル 2015年10月19日撮影

 四条新京極上る東側二筋目の角にあるビル。
 1階にカジュアルショップ・ライトオンが入っており、上階にはダイニング・バーがあったビル。
 ところが、今日は全てのテナントが退店しています。

 いやな予感がしました。

 調べてみると、ライトオンは2015年8月9日に閉店しており、私は2か月余りもこのことに気付いていなかったことになります。


 かつては松竹の映画館だった
 
 このビルは、京都松竹第三ビルと言い、映画・歌舞伎興行で知られる松竹の所有です。
 いつものように古い記憶をたどれば、私が学生の頃、ここはSY松竹京映という映画館でした。
 当時は、新京極にもたくさんの映画館があり、数えてみるとおよそ10ばかりの館があって(スクリーン数にすると、もう少し多くなります)、新作旧作の邦画、洋画、成人映画と、あらゆる映画が見られました。

 SY松竹は、四条通から新京極に入ると、すぐ右手に見えた映画館で、洋画を上映していたと思います。学生時代の私は、結構マニアックな、あるいは芸術的なヨーロッパ映画を好み、いわゆるハリウッド映画はほとんど見ていない(というか敬遠していた)のでした。そのため、SY松竹に入った記憶がないのです。もちろん、入っていたかも知れないけれど、忘れただけなのでしょうが。

 こちらは、1年前(2014年)の秋の風景。

 松竹第三ビル
  昨秋の京都松竹第三ビル (2014年11月27日撮影)

 ライトオンに入ると、映画館だったらしい広い空間が広がっていました。
 そして、外壁には松竹マーク。

 松竹第三ビル

 よく見ると、ネオンが仕込んであるようですね。
 上部に松、下部に竹をデザインしたお馴染みのマークです。

 改めて、この場所の歴史を振り返っておきましょう。
 江戸時代、ここには金蓮寺(こんれんじ)という大きなお寺があり、四条通にあったことから俗に「四条道場」と呼ばれました。
 大勢の人が集まるので芝居が行われ、寺の通称にちなんで、道場の芝居と言われます。
 明治維新後、新京極が開かれてからも続き、明治25年(1892)からは坂井座、明治33年(1900)には歌舞伎座となりました。東京にも同名の劇場がありますが、京都にも歌舞伎座があったのです。この名称での営業は、昭和11年(1936)まで続きます。
 
 歌舞伎座は、数ある京都の劇場の中でも、格が高いもののひとつでした。
 いわゆるビッグネームの歌舞伎俳優は、一流の劇場にしか出演しません。それが明治時代の京都では、南座、明治座、京都座と、この歌舞伎座だったのです。
 ところが、明治の終りに、歌舞伎座は活動写真館(映画館)に転換してしまうのでした。
 いま細かいところまで調べていないのですが、明治45年(1912)1月の山本緑波「関西十二大劇場」には、次のように記されています。

 併(しか)し時代の変遷といふものは怖しいもので、[大阪の]朝日座と[京都の]歌舞伎座とは先々月から活動写真の常設館に成つて了(しま)つた。再び此(この)二座で芝居を興行するのを見らるゝ日は何時であらうか、
 
 上の文によると、明治44年(1911)末頃、活動写真館に転換したことになります。他のものにも同様に書かれているので、歌舞伎をやる歌舞伎座としては明治末におしまいになった、ということでしょう。

 別の資料、浜野松風「新京極記」(大正2年=1913)には、次のように紹介されています。若干不確かな部分もあるようですが、引用しておきましょう。

 ■歌舞伎座
 四条通よりして北する事数十歩、東側に宏壮なる西洋建の大劇場、今は活動写真の常設館となつて、京都随一の活動写真館と称へられて居る、が劇場としては中々に古い歴史を有て居るもので、維新頃には四条道場の芝居と称して南北の芝居と拮抗して居たものである、
 近年まで大劇場として我當(今の仁左)橘三郎、延二郎等が殆んど定打の様に出演して居たものである、
 阪井座(今の明治座)が明治廿四年に常盤座と改まつた時、此阪井座の座主であつた西尾しかが此道場の芝居を買取つて、従来道場といつたのを阪井座と改め、荒五郎、七賀之助、多見之助、菊三郎、時蔵(今の歌六)種太郎、仙昇、愛之助、璃寛、徳三郎などの大芝居をかけたものだ、
 夫(それ)が三十三年に大浦新太郎の手に入て彼の祇園館を此処に移し、名も歌舞伎座と改め、大谷竹次郎、山川政吉等がその経営に任じたが、三十五年の秋遂に大谷白井兄弟の手に帰して了(しま)つた。
 (中略)
 三四年前活動写真流行に連れ、大阪道頓堀の大劇場朝日座が活動小屋に変つたと同じ様に、活動写真の常設館となり、本年七月から向ふ一ケ年間日本活動写真会社が小屋を借受けて経営に任ずる事になつた。


 「大谷白井兄弟」というのは、松竹を経営する大谷竹次郎・白井松次郎のことです。また、「日本活動写真会社」というのは、いわゆる日活(にっかつ)ですね。つまり、オーナーは松竹だけれど運営は日活がレンタルでやっている、ということのようです。

 そんなわけで、この場所は明治後期から百年以上にわたって、松竹が持ち続けてきた由緒ある土地というわけです。


 もうひとつのビルは……

 映画館ゆかりの場所が消えていく、ということでは、同じ新京極を上がって、新京極六角の角(誓願寺前)も同様です。
 ここには、松竹第二ビルという建物があり、私の学生時代は京都ピカデリー劇場でした。
 古い記憶をたどれば、ここで最後に見た映画は(本当に最後かは別にして)、牧瀬里穂主演の「幕末純情伝」でした。調べると、1991年公開といいます。資料では、ピカデリー劇場は2001年11月まで営業していたそうなので、その10年前。うーん、それから10年間行っていないとも思えませんが、記憶がありません。

 ピカデリー跡
  旧京都ピカデリー劇場取り壊し(2015年10月13日撮影)

 現在、取り壊し工事はほぼ終了という感じです。
 下は、今夏の様子。

 ピカデリー跡
  2015年7月9日撮影

 昨2014年7月末、グルメシティが閉店となってから、何度この場所に立って、ビルを見上げたでしょうか。
 ついにその姿もなくなったわけです。

 ピカデリー跡
  新京極側の囲い (2015年10月13日撮影)

 ピカデリー跡

 工事現場にある表示では「(仮称)京都新京極六角ホテル計画」とあります。報道によると、2017年開業をめざして藤田観光がここにホテルを建てるとのこと。
 表示板の右には、松竹120周年のマークが。

 もともとこの場所は、誓願寺という大きなお寺の境内で、人が集まるため見世物興行などが行われ、明治維新後は、夷谷座という芝居小屋が置かれました。明治9年(1876)のことと言います。
 新京極でも歴史のある劇場のひとつで、最初は身振り狂言のような簡単な芝居から始まったようですが、明治末から大正時代になると喜劇などをよく上演する庶民的な劇場になったようです。

 このふたつの劇場は、松竹のルーツと言っていい場所でしょう。松竹では、今年を120周年と位置付けていますが、それは兄弟が明治28年(1895)に坂井座などの経営を手掛けてから120年ということなのです。

 以上については、これまでも書いていますので、ぜひご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <双子の兄弟が、新時代の歌舞伎を切り開いた - 新京極は松竹あけぼのの地 ->
 もうひとつ! ⇒ <新京極・旧ピカデリー劇場の場所には、かつて夷谷座があった>

 それにしても、懐かしい建物がなくなっていくのは寂しいことです。
 時勢が移り変わり、段々こういうことが増えてきました。やむをえないことだと思うのですが、少しだけ諦め切れない気持ちも残るのでした。




 京都松竹第三ビル (歌舞伎座跡、SY松竹京映跡)

 所在  京都市中京区四条通新京極上る中之町
 見学  外観自由
 交通  阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 山本緑波「関西十二大劇場」(「演芸画報」明治45年1月号所収)
 浜野松風「新京極記」(「演芸画報」大正2年11月号所収)
 『松竹関西演劇史』松竹編纂部、1941年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』別巻、八木書店、2005年


西陣の職人仕事と懐かしい日々の暮らしを収めた一冊 - 神山洋一『写真集 西陣 美を織る暮らし』 -

京都本




  『写真集 西陣』 『写真集 西陣 美を織る暮らし』(大月書店)


 久しぶりに三月書房

 ぶらぶらと寺町通を歩いていたら、三月書房の前を通りかかりました。
 せっかくなので、久しぶりに入ってみます。

 三月書房

 ここは学生時代、よく来ていた本屋さん。
 店主は宍戸さんと言い、書店の主でありながら詩集も出しているという方でした。パイプで煙草を吸う姿が堂に入っていました。
 思想書から詩集まで、かなりマイナーな本も含めて、店主が選んだ個性的な本が古い木の棚にぎっしりと並んでいました。フーリエの『四運動の理論』などという難解な本を買ったこともありますが、そのような訳書を置いているのもここだけだったでしょう。
 
 時が経って宍戸さんは亡くなられ、今では奥さんによく似た息子さんが店に座っておられます。当時はお若かったのですが、いま学生が見れば、初老の店主というふうに感じるでしょう。
 
 今日も久しぶりに店内をひと通り見て、足立巻一『やちまた』などという懐かしい本が置かれていて、それもすでに文庫本になっており、そのずっと上の方には『井筒俊彦全集』があったりして、実に面白いのです。
 ヴィクトリア朝の歴史など英国の本があったと思ったら、その横に英語学習法の本が並んでいる……。通常の書店の配列とは全く違った、直感的で合理的な並べ方なのでした。

 そんな中で、私が見付けた本が、神山洋一『写真集 西陣 美を織る暮らし』(大月書店)。
 
 写真集だけれど、相応の解説が加えられており、西陣の理解につながります。


 写真で知る西陣の機業

現在、この地域は3キロ四方におよび、約20万人もの人が細い路地をはさんだ、密集した町家で職住一体の生活を営んでいる。そのうち約半数の人がなんらかのかたちで、織物関係の仕事にかかわっているといわれているが、正確な人数は把握しきれない。織屋をはじめ、賃機[ちんばた]、糸染、整経、図案など、30種にも及ぶ織物関連業者が混在しながら軒を並べ、有機的に結びついている。

「織屋とできものは大きくなるとつぶれる」という諺があるほど、西陣織は零細・家内工業的性格が強い。俗に「うなぎの寝床」と呼ばれている奥深い町家の瓦屋根の下には、紅殻格子でさえぎられた薄暗く湿気を含んだ工場がある。そこには、激しい機音のなかで美しい織物を織りなすため、ただそのために身を粉にして働く多くの人たちがいる。(3-4ページ)


 西陣の町並み 西陣の町並み

 この本の特徴は、西陣織の作業工程を写真で示している点にあります。
 その写真をひと目見て理解できるのは、西陣織の工程が多様な作業から成り立っており、それが分業化されて、熟練した職人によって担われている、ということです。
 長い文章を読まなくても、写真を見るだけでそれが理解できます。

 本書によると、西陣織の工程は30にも及び、大きく分けると、<企画・製紋><原料準備><機準備><製織><仕上げ>の5工程からなるそうです。
 例えば、原料準備とは、糸をより合わせる撚糸(ねんし)や、糸染めのこと。機織りに入るずっと前に、このような作業が不可欠なのでした。

 西陣で織られるものは工程がきわめて多様である。それぞれの工程に精細きわまりない技術が要求される。だから工程の一つ一つが分業化されている。西陣はこの分業によって美しいシンフォニーを奏でる世界なのだと、しみじみと思う。(95-96ページ)

 あたかも織物のような複雑な工程が、この西陣という地域で全て行われているのでした。言ってみれば、西陣全体がひとつの大きな工場のようなものなのです。
 西陣について平易に理解できる本は、実はなかなかないのですが、本書はその一冊と言えるでしょう。

 出版されたのは、すでに20年以上前の1993年です。しかし、収められている写真は、おそらくもっと古い印象を与え、私の子供時代の雰囲気も漂っています。著者によると、1975年から1992年の間に撮影されたものだそうで、納得です。
 それにしても、上半身裸やシャツ一枚で仕事をしている職人さんが、実に多いですね。昔を思い出すとともに、時代を感じさせます。
 懐かしい風俗、習慣、行事を写した写真も数多く収録されており、暖かいまなざしが感じられる書物です。

 著者の神山氏は、西陣の織屋さんの生まれだそうです。
 おじいさんは、滋賀県の「貧農家庭」の出身で、幼くして西陣の丁稚となり、この地で働いてきたと言います。
 そんなルーツへの思いもこもった写真集ですね。



 
 書 名  『写真集 西陣 美を織る暮らし』
 著 者  神山洋一
 出版社  大月書店
 出版年  1993年


きょうの散歩 - 恒例 “秋の古本まつり” in 百万遍 へ - 2015.11.2 -





秋の古本まつり


 雨あがりの古本市

 毎秋恒例、百万遍・知恩寺で開催される「秋の古本まつり」。
 今年は、10月30日から11月3日です。

 珍しいことに、私はこの5日間、休みの日がありませんでした。
 仕方ないので、古本まつりに行くために(!)、今日休みを取ったのです。

 ところが……

 ほぼ1か月ぶりに、昼間の雨降りになりました(涙)

 午後からは止むという予報だったので、午前中は府立総合資料館に行って、新聞の調査をしていました。
 これがまた、いつものように4時間も続いてしまい……、もちろんそのうちに雨もあがって、古本まつりに行けるようになりました。

 秋の古本まつり

 屋外の古本市は、晴れた日を選んで出掛けるもの。秋の古本まつりで、雨天に行く記憶はありません
 そのせいで、お寺の地面はぬかるみに。

 秋の古本まつり

 棚に入った本を見ながら、足もとにも注意しなければいけないという事態に!
 さっぱり本を選ぶ気にならないのでした。本当に購買意欲がガタっと落ちます。


 演劇本を入手

 そんな中、見付けた古書といえば。

 三宅周太郎『演劇評話』。
 昭和3年(1928)、新潮社刊。

 三宅周太郎は、歌舞伎や文楽に通じた演劇評論家。大正から戦後にかけて健筆をふるいました。
 会場を回っていると、彼の本は10種近く出ていましたね。それだけ、多くの人たちに読まれたのでしょう。
 今日は、『演劇評話』と『演劇五十年史』(鱒書房、昭和17年)の2冊を求めました。
 もう少しほしかったのですが、置く場所がないので断念しました。近頃、完全に本を買ってはいけない人になってしまっているのです。

 『演劇評話』
 
 『演劇評話』を求めたのは、はっきりとした目的がありました。
 明治30年代後半、播州で三宅少年が見た尾上松之助のことが、ここに書かれているからです(「役者尾上松之助」)。
 
 私は、ある優れた論文で、そこに三宅の「役者尾上松之助」が数行引用されているのを見て、原文を読むために入手したのでした。
 そのエッセイは、2段組で4ページほどの文章。大正15年(1926)、尾上松之助が亡くなったのをうけて書かれたものです。彼はその頃、「演劇新潮」という雑誌の編集長になっていました。
 
 三宅少年が、実家に近い姫路で松之助の芝居を見て、すっかり魅了され、贔屓になったこと。
 その松之助が、少年が住む加古川の町へ、それも父が出資して建てた芝居小屋にやってきたこと。
 しかし一座には、新入りの、松之助以上の格だとされる役者がいたこと。
 それが嫌で嫌で、悔しい思いをして。

 そして、時は流れ……

 短い随筆には、少しほろ苦く、そして暖かい、三宅周太郎の松之助の思い出が記されています。
 これを読んだだけで、本書を手にした甲斐があったというものです。

 今日はそのほか、『梅玉芸談』(復刻版)などを求めました。中村梅玉(三代目)は、女形として初代中村鴈治郎の相手役を務めた歌舞伎俳優です。この本も、ちょっと面白そうですね。
 
 さあ、明日はまた仕事です。




 秋の古本まつり

 会 場  百万遍・知恩寺
 会 期  10月末~11月上旬
 主 催  京都古書研究会