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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

かなの崩し字、石造物で調べてみると……





大原口道標


 平仮名と歴史的仮名づかい

 この前、石造物の変った漢字について見てみました。
 今回は、平仮名。特に、崩し字です!
 おそらく、1回では終わらないので、手もとにある写真からピックアップして、10字ほど集めてみました。

 灯籠、鳥居、道標などの石造物を見ていくと、平仮名が多いのはやはり道標です。
 道しるべは、いろんな旅人が見ますから、分かりやすく仮名で書かれているのでしょう。
 もちろん、お寺の境内などにも、平仮名を使った石造物があったりします。

 ということで、まずこちらの写真。

  革堂

 なんと書いてあるでしょうか?

 文字は、なんとなく読めますね。

  「一条かうだう」 

 でも、「かうだう」って何だろうか?

 実は、昔の仮名を読む際に、崩し字以外にもうひとつの難題があります。
 それは、歴史的仮名づかい(遣い)。旧仮名づかいとも言います。

 例えば、「大阪」は現在では「おおさか」ですが、歴史的仮名づかいでは「おほさか」です。
 「京都」は「きやうと」。つまり、「京」は「きゃう」であり、詰まった音も小さな文字(ゃ)で書かず、大きいまま(や)なので、こうなっています。
 「観音」だと、「くわんおん」となります。

 一定のルールがあるわけですが、覚えるより慣れろ、というわけで、やってみましょう!

 上の写真。「かう」ですが、これは「革」の読み。現在では「こう」です。また、「だう」は「堂」で、「どう」になりますね。
 つまり、この石標は「一条革堂(いちじょうこうどう)」と書いてあるわけです。
 寺町丸太町下ルの行願寺(通称・革堂)の前に建っています。


 仮名の崩し字

 この中に、ひとつ変わった仮名がありました。

 革堂

 これですよね。
 先ほどは、「か」と読みました。
 読みましたが、今の「か」とは少し形が違っています。

 実は、「か」という平仮名は、「加」を崩して出来たので、「加」から「か」へ変化する途中の姿として、このような形が登場するのです。

 でも、これは大丈夫です。十分読めます!

 次の写真。

  荒神橋

 斜めの写真で、すみません。
 上の3文字は、「くわう」ですね。これも歴史的仮名づかいで、「荒」(こう)を読んだもの。

 問題は、その下でしょう。何文字あるのかも、よく分かりません。

  荒神橋

 この部分、「しんはし」と書いてあります。
 あわせて、「くわうしんはし」 → 「荒神橋(こうじんばし)」。
 そう、これは鴨川に架かる荒神橋の親柱でした。

 難しいひとつめは、「しんはし」の最初の文字。
 この「し」は、漢字の「志」を崩したもの。
 実は、現在私たちが使う「し」は、漢字の「之」を崩したもので、「志」とは全く違います。だから、馴染みがないのですね。

 その下は「ん」として、次の「は」も難解です(写真も悪いです)。
 この「は」は、「者」を崩した文字なのです。なんとなく漢字の面影がありますか?
 明治生まれの私の祖母の名前は「はつ」でしたが、「者」を崩した「は」を用いていました。
 今、私たちが使っている「は」は、「波」の崩し字。こちらも由来が異なるのです。

 「志」や「者」を崩した平仮名は、昔はふつうに使われていました。石造物でもよく見かけます。


 まだまだ難解な文字が!

 余談ですが、世の中には “崩し字マニア” のような方が大勢おられます。上のような崩し字(もちろん漢字も含む)を読むのが楽しい! という方ですね。各地で開催されている古文書講座は、いつも盛況です。

  白川橋道標

 京都市内で現存最古の道標として知られる白川橋道標。
 2行ありますが、なんと書いてあるでしょうか?

 1行目は漢字まじりで、「是ゟひだり」 と書いてあります。
 「是(これ)」の後の「ゟ」は、前々回ご紹介した合字というもので、「よ」と「り」が合体した文字「より」です。
 
 その下の「ひだり」も難しそう。「だ」に見えませんよね。
 私たちが使っている「た」は、「太」の崩し字です。よくよく「た」を見ると、傾いた「太」みたいに見えて来ませんか?
 ところが、道標にある文字は、「多」を崩した「た」なのです。
 この字も、結構よく使います。

 2行目。

   「ちおんゐん」 (知恩院)

 まず、2文字目が難解。
 「お」なのですが、この仮名は、漢字の「於(おいて)」を崩して出来ました。
 この道標では、「於」に近い書体になっているのです。

 そして、4文字目。
 
 「ゐ」

 これは、わ行の「ゐ」(い)。
 カタカナで書くと「ヰ」です。よく「ウヰスキー」と書いてある、あの字の平仮名です。

 つまり、「院」は歴史的仮名づかいでは「ゐん」なのでした。


 まだまだある!

 平仮名は、現在とは異なる字体が多いですね。
 次は、吉田本町道標。京都大学の脇にあります。

  吉田本町道標

 5文字あります。
 4字目が分かりづらいですね。

  「百まんへん」 (百万遍)

 百万遍(ひゃくまんべん)は、地名です。
 やはり、「へ」が……

 現在使われている「へ」は、漢字「部」の旁(つくり)「阝」を崩したもの。
 ところが、この「へ」は「遍」の崩し字なのです。「遍」が変わったと思えば、なんとなく想像できますね。

 同じ道標の別の面です。石が割れていて読みにくいですが、2行とも地名です。
 
  吉田本町道標

 ここは志賀越え。
 滋賀県の地名が刻まれているのです。

  「さかもと」 (坂本)
  「からさき」 (唐崎)

 1行目と2行目に、それぞれ「か」が出て来ます。
 2行目冒頭の「か」は、先ほど出てきた「加」の崩しでよいとして、では、1行目の2字目の「か」は何でしょうか?

 これは、「可」を崩した仮名なのです。
 横棒(ー)の下に、クルッと一回転したような文字。
 ここでは横棒が省略されて、単にクルッと、「の」のような字体になっています。

  大原口道標 大原口道標

 別の例ですが(大原口道標)、右の行の「下かも」では、より漢字の「可」に近い形態になっています。


 ゐ、ゑ、を

 ところで、わ行には、「ゐ」(い)、「ゑ」(え)、「を」(お)の仮名が配されています。
 同じ大原口道標に「ゑ」があります(右の行)。

  大原口道標

  「ひゑい山」 (比叡山)

 ところで、「ひ」ですが、仮名とも漢字とも読める形ですねぇ。「ひ」は、「比」を崩したものなので、似通っていて当然です。
 まあ、ここでは比叡山ですので、漢字でも仮名でも同じなのですが……

 最後になりました。

  誓願寺迷子しるべ石

 新京極・誓願寺にある石標。最後の3文字。

 最初は「し」、一番下は先ほど読んだ「へ」(遍)でしょう。
 問題は真ん中の文字ですが、どんな漢字に似ていますか?

 これは、「留」を仮名にした「る」なのです。
 石碑の字をずっと崩していくと、「る」になるという、その雰囲気は何となく出ていますね。
 これは、迷子しるべ石というものでした。

 いろいろ見て来ると、意外に現在は使われていない形の仮名が多かったことが分かります。
 また、江戸時代や明治頃の人たちが、多様な仮名を使っていたこともうかがえますね。一見狭そうな平仮名の世界ですが、なかなか奥が深そうです。

 残された文字も含め、機会を見付けて続編をやりたいと思います。




 大原口道標 (京都市登録史跡)

 所在 京都市上京区寺町通今出川東入る表町
 見学 自由(路上にあります)
 交通 地下鉄「今出川」下車、徒歩約10分
 


 【参考文献】
 『くずし字用例辞典』東京堂出版、1981年


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【大学の窓】マイクロ、キーワード、検索、索引…… 史料調査あれこれ

大学の窓




演芸画報


 マイクロフィルムで新聞調査

 このところ、暇を見付けては新聞を読んでいます。
 といっても、今日の新聞ではなくて、百年前の新聞です(笑)

 考えてみると、百年前の新聞が今でも読めるということが驚きですね! 史料を保存するというのは大切なことです。

 私が新聞を読みに行くのは、主に京都府立図書館と京都府立総合資料館。大阪では(いま休館中ですが)大阪府立中之島図書館などです。
 今日は、総合資料館に出掛けました。

 京都府立総合資料館
  京都府立総合資料館

 ここは、学生時代から利用させてもらっていますが、ここのところはマイクロフィルムで大正時代の京都日出新聞を見ています。

 フィルムを見る機械はマイクロリーダーと言い、ここには3台あります。
 私の場合、一旦始めると、ずっと画面とにらめっこで、帰りの時間まで休みなしに作業します。

 何時間たった頃か、背後で、職員さんと利用者の男性との会話が聞こえてきました。どうやら、学生らしい利用者がマイクロを閲覧し始めるところでした。
 私が聞き耳を立てたのは、彼が言った次のひとこと。

 「キーワードで検索したいんですが、できますか?」


 アナログと索引の時代

 マイクロフィルムは、ロールフィルムで、何十メートルもの長さがあります。閲覧するには、最初から順番に見ていかなければなりません。
 途中や最後に飛ぶこともできなければ、もちろん「検索」もできません。

 実は、かなり以前から、新聞もデジタルで閲覧できるようになっています。各新聞社がデータベースを構築していて、朝日新聞の「聞蔵(きくぞう)」や読売新聞の「ヨミダス」がその代表的なものです。図書館と新聞社が契約しているので、利用者は端末から無料で閲覧できるシステムです。
 しかし、デジタル化されていない新聞は、マイクロフィルムで見るしかありません。

 背後で話している彼は、今の学生です。インターネットやデータベースを使って「検索」できることを知っていて、いつも利用しているのでしょう。当然、デジタル世界の住人です。
 しかし、マイクロフィルムはアナログなので、検索はできません。だから私のように、各月の新聞を1日から31日まで順々にリールを回して見ていくことになるのでした。

 そういえば、私が学生のとき(もちろんインターネット以前)、「索引」を活用していたのを思い出しました。
 例えば、数十冊もある全集や十数冊ある事典などには、ほとんどの場合、索引が付いていて、調べたい言葉(今風に言うとキーワード)を索引で引いて、各巻に当たるのでした。

 私が座右に置いてよく使っていたのは、『明治文学全集』の索引。
 明治時代の小説がセレクトされたこの全集は、全部で百巻ありました。そのすべてについて、主要な語を索引で引くことができるのです。この索引が完成したとき、学界や出版界で話題になるくらい、膨大な時間と労力が必要な大事業なのでした。
 近年、“辞書を作る”ことが注目されていますが、索引づくりも同様に大変な仕事であったのです。


 検索から遠く離れて

 今日、「検索」せずに(あるいは出来ずに)、ひたすら新聞を見ていた私は、どんな記事に出会ったのでしょうか?

一両日以前の昼、第二京極・中央館の裏手塀を乗り越へ、同館内に立入りて写真を見んとする三人の子供あり。
折柄、同館の下足番等、斯[か]くと見て、“不埒[ふらち]の小僧”と大喝を喰はしたる処、内二人は吃驚[びっくり]敗亡。又々二人の塀を越へて逃亡せしが、残る一人は同館内便所に立入り、隠れ果さんとせしも、早くも是亦[これまた]館員が認め、便所の戸を押開けば、姿見へず。
コハ如何にと、尚[な]ほも凝視すれば、子供は黄金中に漬りて藻掻[もが]く最中に鼻持ちならず、コレハコレハと二度吃驚、引出したるものゝ叱る訳にも行かず、洗ひやりて将来を戒め、放ちやりたりと
 (京都日出新聞 大正2年(1913)6月1日付、句読点は適宜付けました)

 第二京極
  第二京極と呼ばれた辺り

 新京極の東側に、明治末に開かれた第二京極。いくつかの映画館や劇場があり、そのひとつが中央電気館(中央館)でした。
 その裏側の塀を乗り越えて、活動写真をタダ見しようと、3人の子供が侵入。
 下足番たちが発見し、2人は逃げたのですが、1人はトイレに隠れました。
 トイレの中を探してみると、なんと、便槽につかった状態で子供が隠れていたのでした!

 「子供は“黄金中”に漬りて」と、詩的な表現をしているのが笑えます。

 この記事、何月何日と明確に書かれていません。記者が、たまたま新京極でこの話を耳にして、余りにおかしかったので冗談半分で書いたのではないでしょうか。
 「将来を戒め、放ちやりたりと」という括り方が、なにか「今昔物語集」を思わせます。“現代の説話”といったところでしょう。
 ちなみに、この記事のタイトルは、「自業自得、糞壺の中」でした。


 化猫、老婆を気絶せしむ

 次は、「化猫、老婆を気絶せしむ」という妙なタイトルが付けられた記事。

千本中立売上る東入、俳優・石黒源蔵(四十一年)は、目下、西陣・寿座に出演し居り、毎夜 “猫騒動”の幕にて化猫の姿に扮して、花道や舞台に吊しある丸太を伝ふ曲芸を演じて、観客を唸[うな]らせ居れるが、
当人、大の酒豪者とて、[五月]十六日午後四時頃から酒を呷[あお]り付け、同夜十時頃、舞台に出る前に又もや「正宗」二合瓶数本を平らげ、シタゝか泥酔して出演し、
さて、愈々[いよいよ]肝腎の化猫の丸太乗りの一段となり、花道の上の丸太に乗りたる迄[まで]は良かりしが、忽[たちま]ち酒の効能で体の中心を失ひ、引つ繰り返り、其[その]機[はづ]みに花道の右側にて観劇中なりし日暮出水上る、織職・早田久兵衛・妻てい(五十一年)の右胸部に右腕を烈しく打ち付けたる為、ていは其場に“ウン”と悶絶せし騒ぎに、
上長者町署よりは兵頭巡査出張、医師をして手当を加へしめ、漸く蘇生したるが、源蔵は本署に引致して、取調中
 (京都日出新聞 大正2年5月18日付)

 西陣京極の寿座に出演していた俳優が、したたか酒を飲んで泥酔し、化け猫に扮して演技したが、引っ繰り返って観客の女性をたたいてしまい、悶絶させたという話。
 なんとも、おおらかな時代の芝居での出来事ですが、“化け猫が老婆を気絶させた” という切り口で、ユーモラスな一篇を作り上げた--そんな記事です。
 往時の西陣京極のにぎわい、活気をよく表現していて、よい話だと思えます。酒を飲んで他人を怪我させるのはよくないけれど、なんだかホッとするんですね、この手の話は。

 2つの記事は、大正初期の京都の劇場で起こった珍事です。
 こんなものは、検索しても出て来ようもないし、検索する人もいないでしょう。
 それでも、くるくるとマイクロフィルムを回して紙面を見ていくと、このような記事にも出くわします。そこには、データベースにも「正史」にも漏れ落ちた、この街にかつて生きた人々の姿が記録されているのでした。

 先の記事で言えば、私もすでに「老婆」ならぬ「老爺」の年齢。なるべく検索は止して、コツコツと読んでいきたいと思います。


石造物に見られる “ヘンな字” は、いったいなに?





北野天満宮


 北野天満宮で見かけた変わった文字

 北野天満宮(上京区)の参道には、たくさんの石造物があって、本当にあきませんね。

 今回は、こちら。

 北野天満宮
  北野天満宮 石灯籠

 参道のなかば辺りにある、一対の石灯籠。

 北野天満宮

 京都の紙商の人たちが寄進したもので、大きく「京都紙商」と刻まれています。
 
 ところが、この文字なのですが……
 ちょっと字体が変わっているでしょう。

 北野天満宮

 「京都」が、「亰」と「者邑」に!

 これはどういうことでしょうか。

 「亰」も「者邑」も、「京」「都」と同じ字なのですが、形がちょっと違うのですね。
 このような文字を“異体字”といいます。

 異体字(いたいじ)とは、「漢字やかなにおいて、同字ではあるが、標準と考えられている字体とは違った形をとるもの」のことです(『日本国語大辞典』の「異体文字」)。

 現在では、漢字や仮名は “1つの字体しか認められない” というような厳格なイメージがあります。
 ところが、かつては、漢字も仮名もいろいろな字体が通用していました。

 例えば、「傘」(かさ)。
 この異体字に、「仐」があります。現在でも、使うことがあるでしょう。 
 あるいは、「卒」。
 これも、「卒業」と書くところを「卆業」としているのを見たことはありませんか。

 この「仐」や「卆」が異体字です。

 異体字は、別に間違っているというわけでもありません。ただ形が違うだけ。昔の人は、今と違っておおらかだったわけです(笑)

 先ほどの「亰」も「者邑」も、異体字というわけでした。
 「亰」の字は、明治時代などには結構よく使われています。有名なのが、東京を「東亰」と書き習わしていたという話。トウキョウではなく、トウケイと読んでいたそうです。明治初期によく使われ、その時期を「東亰(とうけい)時代」と呼んだりします。

 「者邑」の方ですが、これは旁(つくり)が「阝」(おおざと)の本来の形「邑」(むら)に代わっているものです。
 「都」という漢字は、「者+邑(阝)」なので、間違いどころか、こちらの方が正しいという気さえする異体字です。
(少し細かいことを言うと、「都」は篆書体では「者邑」のようになるので、石に刻む文字としては「者邑」でしっくりくるように思われます。)


 石造物に異体字を探してみた

 というわけで、京都の石造物にどんな異体字があるだろうかと、写真で探してみました。
 
 まあ、いざ探すとなると、案外出てこないもの(苦笑)
 でも、いくつか見つかったのです。

 まず、ライトなものでは……

  今宮神社 今宮神社 石灯籠

 今宮神社(北区)の石灯籠。
 「今」の字が「ヘ+一+フ」でなく、「ヘ+一+テ」になってますね。
 自分もこう書いてるよ、という方、おられるでしょう。それは、異体字なんです、いちおうは(笑)
 これは異体字とすら認識されていませんね。

 次です。

  因幡堂 因幡堂 石灯籠

 因幡堂こと平等寺(下京区)の石灯籠です。南参道にあります。
 この「因幡薬師」の「因」の字なのですが……

  因幡堂

 よく見ると、「冂」に「太」となっているでしょう。「口」に「大」ではありません。
 こんな字体は辞書にもないけれど、なんだか嬉しくなってくる文字ですね!

 ちなみに、「因」の異体字でよく用いられるものは、「囙」でした。


 敵は、本“能”寺にあり!

 次の写真をご覧ください。
 
  本能寺 本能寺 石標

 寺町御池下ルにある本能寺(中京区)の門前にある石標です。
 これもよく見ると、「能」の字が違うでしょう。普通に用いる「能」では、旁(つくり)が「ヒ」2つなのですが、「本能寺」の方は異体字を使っているのです。
 本能寺ウェブサイトによると、同寺は5度の火災で焼失したため、火を嫌って「ヒ」ではない異体を用いているそうです。

 なるほど。


 ひらがなにも、いろいろあって……

 漢字の異体字は数知れず。歴史研究者の使う便覧を見ると、いろいろ載っています。
 
 一方、ひらながにも異体がさまざまありますが、これは数的には限られてくるのですね。
 例えば、「は」は、漢字の「波」を崩してできた字体ですが、「者」を崩した字体もあり(ここにはフォントの都合上書けませんが)、そちらもよく用います。
 あるいは、「の」は、漢字の「乃」を崩した形ですが、「能」を崩した形もあります。

 このあたりについては、機会を改めてお話するとして、今日は「合字」についてふれておきましょう。
 合字(ごうじ)とは、2つ(以上)のかななどが合体してできた文字です。

 よく見掛けるのが、これ!

  白川橋道標 白川橋道標

  白川橋道標

 右の行に、「是(これ)ゟひだり」と書いてある「ゟ」が代表的な合字。

 「よ」と「り」が合体して、「より」になりました(笑)

 よく使うから、便利なように合わせてしまったのですね。

 近代になって、時折り見掛けるのには、こんなものがあります。

  京都日出新聞 京都日出新聞

 一見して、「と」だと思うでしょう。
 でも、よく見ると、「と」の上に横棒がありませんか?

 これは「͡と」。

 「こ」と「と」が合体して、「こと」になったのです。写真の文章は、「何のことはな(い)」と読みます。

 そのカタカナ版が「ヿ」(コト)。
 知らないと絶対読めませんね。

 ほかにも、いろいろあるので調べてみてはいかがでしょうか? 




 北野天満宮

 所在 京都市上京区馬喰町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「北野天満宮前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『大字典』講談社、1918年
 『日本の歴史別巻 日本史研究事典』集英社、1993年
 佐藤進一『古文書学入門』法政大学出版局、1971年


【大学の窓】北野天満宮でお勉強、初の昇殿体験も





北野天満宮


 “学問の神さま”を訪問

 非常勤で行っている上京大学(仮称)の史跡見学会。
 毎年、春と秋に1回ずつ実施していて、秋は京都市内の探訪です。
 今回は、北野天満宮(上京区)。

 学生約60名と、先生方や院生とともに訪れました。
 専門の先生に説明いただきながら、拝観します。

 天神さんこと菅原道真公は、学問の神さまとして知られていますが、他にもご神徳があるといいます。
 天神縁起などによると、正直の徳を守り、孝道を擁護し、冤罪を晴らすというご神徳があるそうです。
 また、天神さんの本地が十一面観音であることから、極楽往生に導いてくれる神という考え方もあると言います。境内脇の東向観音寺には十一面観音が祀られています。
 いろいろな面を教わって、勉強になりますね。

 北野天満宮
  北野天満宮

 そのあと、本殿に昇殿して、お祓いを受けました。
 天神さんには子供の頃から数え切れないくらい来ていますが、昇殿するのは初めてです。
 天満宮の社殿は、権現造(ごんげんづくり)なので、昇殿させていただいた部分と道真公らが祀られている部分との間に、石の間という窪んだ空間があり、これが大きな特徴です。
 神社の方の話では、歴史的にみると、お詣りする方の地位によって、低いところで詣るか高いところで詣るかが決まったそうです。
 
 お詣りの後は、境内に残る御土居を見たり、宝物殿を拝観したりしました。
 宝物殿では、国宝の北野天神縁起絵巻(承久本)や、長谷川等伯が描いた大きな絵馬など、社宝の数々を拝しました。


 細かいところもおもしろい

 ところで、私はやはり細かいところが気になってしまい、参道を歩いていても、石灯籠などに目が向いて、いちいちストップしてしまいます。

 例えば、こういうもの。

  北野天満宮

 スリムな石灯籠ですが、胴の部分に、次のように書かれています。

  北野天満宮

 「寄附/網代敷石/東西弐間四分/南北百拾五間」

 幅2間4分(約3.6m=東西方向)の敷石が、長さ115間(約200m=南北方向)にわたって敷かれている、ということです。もちろん、参道の敷石で、側面には明治27年(1894)に敷設されたと記されています。

 その敷石は、「網代敷石」だと言います。
 「網代(あじろ)」って、分かりますか?

 北野天満宮

 こんな敷石なんです。
 石の敷き方が、網代(網代組)のようになっている、という意味。

 網代組

 竹や薄い板、あるいは籐(とう)などの編み方で、このようなものがあって、単に網代(あじろ)、あるいは網代組、網代編と言っています。これならご存知と思います。
 建築でも、天井や垣などによく見られ、数寄屋風になります。

 石畳でこう敷くと、かなりオシャレですね。
 やっぱり史跡見学はおもしろいです。




 北野天満宮

 所在 京都市上京区馬喰町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「北野天満宮前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『建築学用語辞典』岩波書店、1993年


きょうの散歩 - 日曜の朝に、旧今出川通を歩く - 2015.10.18 -





旧今出川通


 日曜に、ぶらっと今出川散歩

 いま、日曜日の正午。
 先日からレポートしている千本中立売にある喫茶店に入って、これを書いています。

 今日は、午後から北野天満宮に行く予定。出講している上京大学(仮称)の見学会で、天神さんを訪ねるためです。

 ここのところ、西陣への関心が高まっているので、“そうか、天神さんまで歩いて行くか”、ということになった次第。
 天神さんは、この千本中立売から徒歩10分くらいのところにあるのです。

 今出川通

 スタート地点に戻って。

 御所の北側。冷泉家と上京大学(仮称)。
 このあたりから、今出川通を西へてくてくと歩きます。

 烏丸通、室町通と過ぎると、道はゆるやかに右(北)へ曲がります。

 今出川通

 ところが、よく見ると、左にも細い道があるでしょう。
 こちらの方が真っ直ぐ続いているんですよね。

 すぐに、ピンと来ました。
 こちらが「今出川通」なんだろう、と。

 「問題」は、突然やってくるんですね。何の準備もないところに。

 左の道が本来の今出川通であることを証明せよ。

 んー……

 附近図

 ちょうど地図がありました。
 誰が見ても、現在地から直進している上(南)の道が、もともとの今出川通で、下(北)の斜めの道は後から造られたと思うでしょう。

 とりあえず、前へ。

 旧今出川通

 細い道を入ってすぐのところには、こんな古い町家が。やはり道路も古いのでしょう。
 その横に、ここ「堀出シ町」(珍しい町名!)の地図がありました。

 附近図

 現在地の横に、「旧今出川通」の文字。やはり!


 趣きのある看板も

 少し進んで、新町通を横断し、先へ。
 すると、由緒のありそうな酒店がありました。

 酒屋看板

 いい感じ出してますね。

 さらに先には、仁丹の町名板が。

  仁丹町名板

 しっかりと、「舊[旧]今出川通」と書いてあります。

 ところが、この道はここで行き止まりになるのでした……

 旧今出川通

 
 道はどこへいった?

 途切れた旧今出川通。
 どこへいったのか?

 西へ回り込んで探すと、突き当りの住宅の向こうには、旧小川小学校がありました。
 どうやら、それで道路が途絶えたらしい……

 小学校の西には、さらに道があったのです。

 旧小川小学校
  左が旧小川小学校

 この右に出ている道が、たぶん旧今出川通の続きかな?

 そして、少し進むと、もう堀川通でした。

 旧今出川通
  堀川通側から望む

 ここにも古い町家が建っていますね。いい感じです。

 日曜朝の散歩。
 外にいるので資料がないのですが、たぶんここまでが旧今出川通かな。
 堀川通より西、この街路に相当するところには、中筋通が通っています。それが今出川通の延長かどうか、また調べてみましょう。

 西陣の喫茶店も、正午過ぎになり少々混んできました。
 ここらで、おいとま致しましょう。




 旧今出川通

 所在 京都市上京区堀出シ町ほか
 見学 自由
 交通 地下鉄「今出川」下車、徒歩約5分


千本中立売には、かつてシネマパラダイス “西陣京極” があった(その2)





千本日活


 西陣の範囲と中心

 引き続き、西陣の劇場と映画館のことを書いていきます。
 前回、「西陣、西陣」と、余りにも漠然と使ってきたのですが、改めて西陣について説明してから、本題に入ることにしましょう。

 西陣という地域は、もともと応仁の乱の際、西軍(山名宗全方)が陣地を置いたところから「西陣」と呼ばれるようになりました。
 「元禄覚書」(1700-1703年)には、西陣の範囲は「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺・今宮旅所限り、南は一条限」とされています(地・17)。

 つまり、北限は現在の北大路通あたりということや、東西の堀川通から七本松通というのも、現在の私達の感覚と合致するでしょう。
 ところが、南限の一条通というのが、少し北寄りではないのか? という印象も抱きます。史料は元禄時代の話なので、今ではもう少し南まで含んでもよいような気もします。

 一方、西陣の織屋さんの中心地とされる糸屋町八町は、大宮今出川の周辺に拡がっています。
 かつて大宮通と今出川通の交差点は、「千両の辻(千両が辻)」と呼ばれました。私の学生時代でも、四つ角には銀行が立ち並んでいたものです。


 千本一条から先には……

 前回、一条通を下がったところにあった長久亭跡まで紹介しました。
 その南隣にも、かつて劇場がありました。大正8年(1919)から、大黒座が置かれ、昭和になると映画館・西陣キネマとして観客を迎えました(名称には細かな変遷があります)。
 昭和59年(1984)に閉館し、その後はパチンコ店や駐車場になっていました。

 私が訪ねた日は……

 西陣キネマ跡

 なんと、食品スーパー・デイリーカナート イズミヤのオープン日でした!
 開店後まだ2時間ほどでしたから、安売り目当ての来店客と、警備員、店の人などで、ごった返していました。
 通りの向い側から写真を撮っていると、横で新聞社の人も写真を撮っていました(笑) 目的は全然違うのですがね。

 上の写真をよく見ると、イズミヤの右側に路地があり、黒っぽいゲートが設けられていることが分かります。
 これから、この中に入って行きましょう。

 西陣キネマ跡

 ゲートをくぐり、中へ入ったところ。
 左(北)はイズミヤになりましたが、右手には提灯をぶらさげた飲食店が並んでいます。明らかに、かつての路地裏の表情です。
 西陣キネマの玄関は、この小路に面していたのだと思います。

 さらに進むと……

 西陣京極

 右側には庶民的な食堂などがあって、左は民家ですが……
 確かこの左側にも、かつて映画館があったのです。
 古くは明治末、寄席・福の家として始まり、昭和になって映画の帝国館に転換。戦後は西陣大映などと称した映画館。最後は、シネフレンズ西陣という館名で、平成17年(2005)まで営業していました。
 私が訪れた30年ほど前、この路地の北側に成人映画を上映する館があったことを覚えています。それが、当時の西陣大映だったのです。いま訪れた印象より、もう少し狭い路地であるような感じがしました。今回ここに立って、どこにあったかなぁ、と見回して、なかなか分かりませんでした。やっぱりこの住宅が建っているところしか考えられないので、たぶんそこに西陣大映があったのでしょう。まったく痕跡はありません。

 かつて、この狭い路地が入り組んだ場所が「西陣京極」でした。

 西陣京極

 広報板の貼り紙に「西陣京極町」とあるでしょう。もちろん、正式にはそのような町名はなく、通称名です。
 けれども、ここは、やはり西陣京極なのでした。

 西陣京極 街路灯


 西陣京極をめぐる

 西陣京極は、北の一条通、南の中立売通の間に、十字形の狭い街路によって形成されています。
 いま私は、西側の千本通から入って行ったのでした。

 十字の交点から、東を見た写真。

 西陣京極
  西陣京極

 両側に飲み屋が並んで、雰囲気を残しています。

  スナック黄昏(たそがれ)、とうふ料理やっこ……

 店名も、おのずと哀愁を帯びているように感じられます。

  西陣京極
  十字の東端から西を見る

 十字の北東角のあたりには、明治43年(1910)に開業した芝居小屋・京極座があって、昭和46年(1971)まで西陣東映として営業していました。
 また、その北には、同じ年に朝日座が置かれ、昭和62年(1987)まで千中ミュージックというストリップ劇場でした。30年前には、まだあったはずですが、なぜか記憶にありません。

 西陣京極
  京極座跡 現在は料飲組合事務所や駐車場になっている


 明治末、西陣京極のにぎわい

 京極座が出来た頃、そこを訪れた新聞記者のレポートがあるので、それを紹介してみましょう。
 明治45年(1912)1月の記事です(句読点は適宜補いました)。

 [一月]十九日の午後八時、中立売千本で電車を降りると、繽紛たる雪は万象を染めて満目暟々たる光景で、行人の影も暫時絶える。美しい灯の流るゝ狭い西陣京極を東すると、藪入の終ひの日とて此辺のミニートスコープや空気銃屋は丁稚[でっち]や織子[おへこ]で充溢、寿座の前は通行も出来ぬ程の人集り、何事かと覗いて見ると、大木戸に一人の俳優が扮装のまゝ木戸番と是れ見よがしに雑談してるのだ。流石[さすが]は西陣宗、是れある哉と感服し、更に東して正面の京極座を潜つた。(京都日出新聞 明治45年1月21日付) 
 
 記者は、私同様に、千本通から西陣京極に入ります。「寿座」の記述があるので、どうやら十字の左辺のどこかに、この芝居小屋があったようです。
 その前で、わざと衣裳を着たままの俳優が出てきて、客の気を引いている、というのです。
 他にも、「ミニートスコープ」や空気銃の店があって、商家の丁稚どんや、西陣の織子さん(「おへこ」と言った)が群がって遊んでいます。ちょうど藪入りで休暇中なのです。
 西陣京極の雰囲気をよく表していますね。

 京極座は、水澤国太郎が率いる新劇・水澤一派が長期公演中でした。なんと2年にもなる! と言いますから、劇団四季並みです(笑)
 入場料は、12銭均一。いまの価格で言うと、500円か1000円というところでしょう。
 お芝居は、記者から見ると、「何処までも甘い十年も前の壮士芝居其のまゝのもの」ですが、ここの客にはそういうのが大受けで「破れる様な喝采」が起きる、と書いています。


 懐かしの銭湯も

 十字の交点から北へ上がると、かつて千中ミュージックがあったところ。
 けれども、最後は火災で焼失したので、もう痕跡はありません。

 風情のある風呂屋さん・京極湯が残っています。

 京極湯

 京極湯 京極湯

 この都会の真ん中に、いまだに煉瓦煙突が残っていることが奇跡的ですが、青空に映えて美しいですね。

 西陣京極の北端には、一条通が通っています。その北には、江戸時代、浄福寺と大超寺がありました(浄福寺は今もあります)。
 お寺の南は、江戸後期の地図を見ると、畑と記されています。明治以降も、あんず畑だったという話もあります(『西陣の史跡…』)。明治末、そこに西陣京極が開かれたのです。

 昭和初期の西陣京極について述べた文章を引いておきましょう。

 [かつては]勿論、賑やかな千本通も、一台の人力車だけしか通れないといふせまさだつたから、二十五日の天神様の日は東北の人々の御幸道である千本今出川から西は、押すな押すなの人出だつたといふ。

 それが大正二年[1913]の電車の開通から、ひらけにひらけてしまつて、今はすつかり趣を異にした、時代にふさはしい千本通が出来上つてしまつて、俗に西陣京極とさへ呼ばれて、西陣の娯楽の中心となり時代の雑音を響かしながら、近代的な刺激を与へようとしてゐる。数知れずある飲食店、喫茶店がジヤズをならし、流行の小唄を歌ふ。それがやがて、こゝを慰安所に集ふ女織手の髪容[かみかたち]までを当世ぶりに変へてしまつた。そして各撮影所が第二の京極として、活動写真館を設けてからは、層一層織手達がこゝに集まつて、十日十五日にはとてもの賑ひを呈する。(橋本由紀子「西陣京極界隈」、『京都新百景』所収)



 五番町の千本日活

 かつては、劇場や映画館が多数建っていた西陣京極、そして千本中立売界隈ですが、今ではそのほとんどが姿を消しています。
 その中で、唯一往時の姿を残しているのが、千本日活です。

 千本日活
  千本日活

 千本中立売を下がって、西に入ったところ。通りの突き当りにあります。

 千本日活

 昭和36年(1961)に五番街東宝として開館しました。のちに千本日活と名を改めましたが、前回紹介した千本日活(旧千本座)とは全くの別物です。
 建物も半世紀経つと風格が出てきますね。

 千本日活

 看板も貫禄がありすぎて、なにか油絵のような感じがします。

 千本日活

 現在では、成人映画を上映。自転車でも分かるように、それなりにお客さんは入っているようです。

 ここは、五番町という町名です。秀吉の時代、一番町から七番町までの町を作って、武士を居住させました。その名残の町名のひとつが五番町です。
 ただ、この地名が特に有名なのは、水上勉の小説「五番町夕霧楼」のせいでしょうか。
 それからも分かるように、この一帯には、戦後まもなくまで五番町遊廓が置かれていたのでした。付近には、北野天満宮の社頭に上七軒や下之森の遊廓がありました。五番町は、上七軒遊廓が発展して出来たものです。また、北新地という名称でここを指すこともあります。
 渡会恵介『京の花街』によると、上七軒は旦那衆の行くとこ、五番町は職人の行くとこ、とされていたそうで、その性格を表しています。 

 千本日活の場所は、明治初期の地図によると、お茶屋があり、その北側に検番(組合事務所)があったようです(「京都府下遊廓由緒」付図)。戦後の売春防止法の施行に伴い、いわゆる赤線が廃止され(昭和33年=1958年)、再開発されたのち、この映画館が出来たのでした。

 五番町界隈
  五番町界隈

 この界隈もまた、西陣機業の活気によって、かつては繁栄していたのです。現在ではその面影は消え去り、ふつうの町となって、500円で見られる千本日活の利用者も年配の方が多いように見受けられます。

 産業の盛衰や社会の変化で、街も移り変わっていく ーー そんな一例を千本中立売界隈に見て、もう少し過去の世界に浸っていたい、という気持ちが湧いてくるのでした。
 



 千本日活

 所在 京都市上京区上長者町通千本西入ル五番町
 見学 映画館として営業中
 交通 市バス「千本中立売」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都新百景』新時代社、1930年
 「元禄覚書」1700年(『新撰京都叢書』所収)
 「改正京町絵図細見大成」1831年(『新撰京都叢書』所収)
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書』所収)
 渡会恵介『京の花街』大陸書房、1977年
 川嶋将生・鎌田道隆『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年 
 田中泰彦編『西陣の史跡 思い出の西陣映画館』京を語る会、1990年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』各巻、八木書店


千本中立売には、かつてシネマパラダイス “西陣京極” があった(その1)





千本中立売


 千本中立売の記憶

 戦前生まれの私の父は、子供の頃、中立売のあたりで育ちました。
 「中立売」は「なかだちうり」と読み、東西の通りの名前です。もっとも、ふつうに発音すると「なかだちゅうり」となるでしょうか。
 育った家は、千本通と大宮通の間で、小学校は正親(せいしん)小学校でした。

 上京区役所のウェブサイトによると、その学区は、南北は一条通から下長者町通、東西は松屋町通から千本通のエリアで、地図を見ると、とても狭いことが分かります。
 西陣織で知られる機業地・西陣の一角ですが、その中でも最も繁華なエリアであったと言えるでしょう。

 また、母は正親学区の西に隣接する仁和(にんな)学区の出身です。そのため、京都市内の西北部に当たるこの地域は、少年時代から私にとっても親しみ深い地域でした。

 中心点となる千本中立売、つまり千本通と中立売通の交差点は、記憶に残る場所でした。

 千本中立売
  千本中立売の交差点

 交差点の南西に建つ時計塔のある建物は、誰の記憶にもある象徴ですが、さて何のお店だったのか、思い出すことは出来ません。
 アーケードに「きたの」と書いてありますが、ここから西方に続いている北野商店街です。
 北野天満宮の南に位置し、かつては路面電車の終点でもありました。母の実家では、この商店街のことを「下の森(しものもり)」と呼んでいました。


 久しぶりの西陣

 千本中立売付近に、昔、たくさんの映画館があったことは、学生時代から知っていました。父の話では、映画フィルムを積んだ自転車が西陣と新京極の間を行き来していたと言います。それほど映画が大繁盛し、フィルムが使い回されていたのでしょう。

 かつて劇場や映画館があったエリアは、南北は北大路通から丸太町通、東西は千本通から堀川通に囲まれた区域です。このあたりが、およそ機業地の西陣に相当します。
 『近代歌舞伎年表 京都篇』の附図には、このエリアに劇場・映画館が17軒示されています。
 また、『西陣の史跡 思い出の西陣映画館』の地図によると、29軒の映画館があったと記載してあります。
 すべてが同時代に並立していたわけではありませんが、新京極界隈にも匹敵する劇場・映画館があったことが分かります。

 この西陣の劇場・映画館(ほとんどすべて跡地ですが)を久しぶりに廻ってみたのが、今回のレポートです。
 たぶん30年ぶりくらいになるかも知れません。


 北から、岩神座跡へ

 「今出川智恵光院」でバスを降り、浄福寺通を北へ。
 上立売通浄福寺東入ル、いま広場になったあたりに、岩神座がありました。

 岩神さん
  岩神座跡

 古く明治2年(1869)からあり、日露戦争期の明治37年(1904)に新築されました。
 川上音二郎の流れをくむ新派劇を比較的多く掛けた劇場ですが、喜劇や少女劇から、浪花節、女義太夫まで、さまざまなジャンルの出し物が見られます。
 明治41年(1908)には松竹に買収され、その後は歌舞伎も掛けられたり、楽天会という松竹系の喜劇も上演されています。
 折にふれて、活動写真も上映され、牧野省三のデビュー作「本能寺合戦」が掛けられたこともありました。

 新京極の劇場や南座などよりは小さかったと言われますが、明治40年(1907)8月13日の火災の際には、「二百五十余名の観覧者」がいて、「二階より我れ先にと飛び下り」とありますから、2階席もある劇場だったと分かります。

 現在では、上の写真のように、岩神さん(岩神神社)という祠があり、大きな岩に注連縄を張ってお祀りされています。

 岩神さん
  岩神さん

 授乳祈願がなされるこの岩が、岩神座の名の由来になっているわけです。


 尾上松之助出世の地、千本座

 千本今出川の交差点を南へ。
 この千本(せんぼん)通は、いにしえの平安京の朱雀大路に相当する道路です。
 南に3本ほど進むと、通りの東側にビルが建っています。

 千本座跡
  千本座跡

 このビルの場所は、かつては西友、近年では無印良品がありました。
 実は、明治13年(1880)、千本の芝居が置かれた場所です。
 その後、明治20年(1887)に千本座となりました。

 千本座は、日本映画史上では、つとに知られた名前です。
 明治後期、この劇場の経営者は牧野省三でした。牧野は、初期の映画監督として名をはせた人物。のちにマキノプロを設立し、日本映画の父と呼ばれます。

 千本座の経営者として、牧野が見出した俳優が「目玉の松ちゃん」として人気者になった尾上松之助です。
 松之助は、明治42年(1909)、千本座の座頭となり、派手な演技で観衆を魅了します。そして、牧野とコンビを組み、映画に出演。独自のキャラクターでスターになったのでした。

  尾上松之助像 尾上松之助像(鴨川公園)

 まさに、尾上松之助飛躍の地が、ここ千本座なのでした。


 一条通の長久座など

 資料によると、千本座の南あたりに、西陣電気館があったようです。ただ、『西陣の史跡…』にも記載されていません。

 長久亭跡
  千本一条付近

 一条通を越えると、東側に長久亭がありました。落語などを掛ける寄席で、明治44年(1911)の開場。席数は、200余りでさほど広くなかったようです。
 昭和に入って映画館となり、長久館、長久座と改称しました。

 長久亭跡
  長久座跡

 長久座のあったところは、現在はローソンになっています。
 敷地はよく分かり、北南東には、ぐるっと路地がめぐっています。

 長久亭跡

 北側の路地跡。
 右手がローソンとその駐車場で開放的になったため、雰囲気がなくなっていますが、往時は “らしい” 感じだったのでしょうね。

 このように、千本通に面したところは、劇場・映画館の痕跡はほとんどありません。
 ただ、この先、少し路地裏に入ると、何となく雰囲気のある街区があるんですね。
 それは、次回にご紹介しましょう。

 (この項、つづく)




 千本座跡

 所在 京都市上京区千本通一条上ル泰童片原町
 見学 跡地のみ
 交通 市バス「千本中立売」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『近代歌舞伎年表 京都篇』各巻、八木書店
 田中泰彦編『西陣の史跡 思い出の西陣映画館』京を語る会、1990年
 上京区役所ウェブサイト


きょうの散歩 - 鴨川の西に近代建築を訪ねて - 2015.10.9 -





鴨沂会館


 出町柳から南へ、ぶらり

 今日は、京都で仕事。
 同僚のS君と一緒に、来月行う近代建築見学会の下見を行いました。

 集合は、京阪「出町柳」駅。
 ここから、鴨川を西へ渡り、南へ向かって近代建築を見て歩きます。

 S君は建築史が専門なので、事前に候補となる建物をリストアップしてくれています。
 実際には、それにプラスアルファする物件もありますし、省略するものも出てきます。

 予定では出町から南下し、河原町丸太町を西進して、御所の西側にある京都府庁あたりまで行くつもりでした。
 しかし、御所を横切る道程が長いので、それは中止し、河原町丸太町を南に歩いて、京都市役所(河原町御池)辺まで行くことになりました。

 岡田商会
  岡田商会
 
 スタート地点に程近い、出町の精肉店・岡田商会。
 特にリストアップされていない建物でしたが、見ていきます。
 
 「銀行だったかな」
 「大正時代でもおかしくないね」

 こんな感じで、観察したり写真を撮ったり。

 ずっと南下して……
 寺町通、現在改築中の鴨沂(おうき)高校の北側にある建物。

 鴨沂会館
  鴨沂会館

 昭和11年(1936)竣工。
 S君が、完成度が高いと絶賛した建物。
 3階部分の切り替えがアクセントとして効いていますね。とてもモダンな印象を与えます。


 村野藤吾の隠された建築も

 丸太町通に出て。
 河原町丸太町の交差点から東を望むと……

 スカイマンション
  河原町スカイマンション

 これまで、何度見たか分からない、このマンション。
 河原町スカイマンションと言い、なんと村野藤吾が設計したのだそうです。昭和50年(1975)の竣工。
 村野建築とは余り知られていないそうです。ファンとしては嬉しい限り。
 彼の作品だと聞くと、いきなりほめ始めたりする自分が恥ずかしいです(笑)

 出窓の形状などは、1960年代によくデザインした多角形の出窓を彷彿とさせますし、ベランダと窓とを段違いに開口する構成も美しいです。

  スカイマンション

 タテに長く、上方に飛び出す階段室。
 現地で見てみると、「スカイマンション」という名にふさわしい背の高い建築です。
 S君によると、村野の作品集には掲載されていないらしく、本人としては余り重視していない作品だったようです。でも、隠れた秀作だと思います。

 そこから、まっすぐ南下。
 銅駝(どうだ)美術工芸高校があります。

 銅駝美術工芸高校
  銅駝美術工芸高校

 かつてここには銅駝小学校があり、この建物も昭和初期、小学校時代に建てられたものです。
 京都の小学校の立派さは、どの学校を見ても感心させられます。
 銅駝の場合、小学校が高校に “昇格” した珍しいケースですね。

 実は、この辺から計画外のルートになっていました。
 ただ、銅駝美術工芸高校の北側には木戸孝允終焉の地があったりして、歴史を感じさせるところです。土手町通という通りです。


 最後は、天沼俊一の本能寺

 高校の南、以前はホテルフジタだったリッツカールトンの脇を抜けて、二条通に出てきました。

 島津創業記念資料館
  島津創業記念資料館

 二条木屋町角にある島津創業記念資料館。
 ノーベル賞の田中耕一さんを輩出した島津製作所の旧本社です。
 明治20年代、南北に2棟建てられました。
 細部の和風意匠が個性的で、近付いて見たい建物です。

 このあと、木屋町を南に進み、京都市役所へ。
 市役所の向いは、“敵は本能寺にあり” の本能寺です。

 本能寺
  本能寺

 もちろん、信長が討たれた時の本能寺はこの場所ではありませんでした。秀吉によって天正年間にこちらへ移ってきたのです。
 しかし、幕末、禁門の変の大火でも堂宇は焼け、その再建は昭和になってから。
 建築史学の泰斗・天沼俊一博士の設計で、昭和3年(1928)にこの本堂が出来たのです。

 本能寺本堂については、こちら! ⇒ <天沼俊一が設計した本能寺本堂は、登録文化財になった近代和風建築>

 本堂に上がってお詣りし、ご住職の御説教を聴いて、半日の仕事を終えました。
 約4時間の建築探訪。
 知っているつもりでも、やはり発見は多いもの。とても勉強になりました。




 河原町スカイマンション

 所在 京都市上京区駒之町
 見学 外観のみ
 交通 京阪電車「丸太町」下車、徒歩約3分


ノーベル賞の季節に、ノーベル賞受賞者のこの1冊

京都本




  『「大発見」の思考法』 『「大発見」の思考法』文春新書


 いまだに山中ファン !?

 今年も、ノーベル賞の季節になりました。

 昨日、医学生理学賞と思いきや、今日は物理学賞。もはや、日本人がノーベル賞を受賞したからといって、驚く人もいないでしょう。
 去年、青色LED、今年はニュートリノ。ニュースで説明を聞いても、なかなかよく分かりませんね。

 そんな受賞の報が飛び込む中で、私が手に取った本は、『「大発見」の思考法』。
 ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授と益川敏英教授の対談集です。

 実は、私は山中先生のファン。
 あの爽やかな風貌や語り口を尊敬しているのですが、自ら「人間万事塞翁が馬」と言われる波乱万丈の人生にも惹き付けられます。
 残念ながら実際にお目に掛かる機会はないのですが、講演録やインタビューはかなり読んでいます。

 今日改めて旧著を手に取ってみた次第です。

 京都大学
  お二人が勤める/勤めた京都大学


 研究の推進力は、驚き!

 この対談集、2011年の刊行なのです。

 2011年?

 山中先生がノーベル賞を受賞されたのは、2012年ですよね。
 つまり、受賞以前からこんな対談が出るほど注目されていました。インターネット上でも、2010年くらいになると、かなりのインタビュー記事を見ることが出来ます。2009年に、米・ラスカー賞を受賞されてマスコミ等にもクローズアップされ始めたのです。

 山中先生は、最初、整形外科の臨床医になるべく某国立病院に勤務しますが、手術が下手くそで「ジャマナカ」と呼ばれ、医者になることを断念。大阪市立大学大学院に入学します。
 院に入って最初の実験で、研究の道にのめり込むようになった驚きの出来事に遭遇するのです。

 指導教授の仮説のもと、犬を使って実験を行っていたのですが、仮説がはずれて、実験に使っていた犬の血圧が急降下。瀕死の状態に陥ります。この予想だにしない結果に、山中先生は「すごいことが起こった!」と、大興奮したのでした。

 そうなんです。後から考えると、本当にささやかな実験だったんですが、あの時の興奮は今でも忘れられません。もしも、あの実験で予想通りの結果だったり、何も起こらなかったりしたら、私は今ほど研究の虜になっていなかったかも知れません。あの興奮が忘れられないから、私はずっといまだに研究を続けているんじゃないかと思いますね。その意味で私は非常にラッキーだったと思います。(93ページ)

 やはり、研究には “知的な興奮” が大切ですね。驚きや喜びは、研究活動にとって、最も大きな推進力です。


 直線的な人生なんて

 山中先生が重視する言葉に、米・グラッドストーン研究所への留学中、上司から言われた “V W" があります。
 Vision & Hard Work.

 ビジョンとハードワーク。

これは、その方の愛車がフォルクスワーゲン(V W)だったという、洒落っぽいモットーなのだそう(笑)

 山中先生曰く、日本の研究者はハードワークは得意だけれど、ついついビジョンを忘れる、と。
 努力するのはよいけれど、何のために努力をしているのかを忘れてはダメ、ということなのです。

 本書でおもしろいなと思ったのは、人生のふたつのタイプ論。
 
 目標に向かってまっすぐに突き進む「直線型」の人生と、くるくる回転する「回旋型」の人生。
 回旋型の人生は、「ダメだ」と思ったら違うことをやり、もっと面白そうなことがあればそちらに方向転換するフレキシブルな人生です。

 益川先生曰く、日本人に尋ねたら、たぶん十人中九人が「直線型のほうがいい」と答えるだろう、と。
 山中先生は、日本では直線型でないと、人生の落伍者! のように見なされるが、米国では回旋型の人生を送っている人がたくさんいると言います。
 同じくノーベル医学生理学賞受賞者の利根川進氏の講演を聴いた際、こんな質問をしたのだそうです。
 利根川先生は、免疫分野の研究から脳科学に移った経歴がありました。

 はい。私、そのことを知って、講演会場で勇気を振り絞って手を上げ、利根川先生に質問させていただいたんです。
 「日本では研究の継続性が非常に重視されますが、それについて先生は、どのようにお考えですか」と。
 すると利根川先生は、「いったい誰がそんなことを言ってるんだ。重要で面白い研究であれば何でもいいじゃないか」という趣旨のお話をしてくださいました。私は、その答えにとても勇気づけられました。(81ページ)


 「研究の継続性」。
 これはよく分かりますね。直線的な考え方です。日本人らしいといえばそれまでなんですが、一方で「君子は豹変す」的な側面も必要だと思います。


 意外な感じの “プレゼン重視”

 本書で、最も意外で興味深かったのは、山中先生のプレゼン重視の姿勢でした。
 先生の講演は、講演録を読む限り、聴衆をあきさせず、ユーモアたっぷりに話をされていて感心させられます。
 その蔭には、米国仕込みのプレゼン力がありました。

 科学者が成功するためには、良い実験をすることだけでなく、いかにしてその実験データをきちんと伝えるかという「プレゼンテーション力」にかかっている、というのが私の持論です。自分の持っているデータや研究成果を、いかにして発信するかということが大切なのです。(132ページ)

 そして、少し衝撃的な発言が、これでした。
 益川先生に、米国でプレゼンの授業を受講して、自分がどのように変わったのか? と質問された答えです。

 研究のあり方や思考方法自体が変わったと思います。人にわかりやすく伝えるためには、聴衆に見せるスライドは、一枚目と二枚目にわかりやすいつながりがないといけない。同じように実験にもストーリーがあって、「実験Aでこういうことがわかったから、次の実験Bではこういうことをやった」という他者から見ても明確な関係が必要です。
 だから、単にプレゼン力がついたというだけでなく、実験の組み立てそのものが変わりましたし、論文の書き方も変わりました。言い過ぎかもしれないけれど、人生も変わったと思います。本当にプレゼンテーションは大切だと思います。(135-136ページ)


 確かに、アウトプットを意識することで、インプットやプロセスは変わりますね。
 山中先生のお話には、何度も、人生を変えたプレゼンが登場しますけれど、こういう深い考えのもとにプレゼンテーションされていたわけです。

 なかなか山中先生の講演に接する機会がないのですが、いつか生で先生のプレゼンを聴きたいものです。

 と、ここまで、ファンぶりを露呈しつつ書いてきたのですが……
 山中伸弥氏と私、実はほとんど年齢が変わらないんです!(ちょっとだけ山中氏が上)

 なんというか、自分も頑張らんとあかんなぁ、と思いつつ、本を閉じたのでした。




 書 名  『「大発見」の思考法 iPS細胞vs.素粒子』
 著 者  益川敏英、山中伸弥
 出版社  文藝春秋(文春新書789)
 刊行年  2011年


歌舞伎ファンの雑誌「演芸画報」は、鴈治郎から女優専門劇場まで盛り沢山

京都本




「演芸画報」


 明治末に創刊された歌舞伎のグラフ誌

 歌舞伎ファンの雑誌に「演劇界」というのがあります。
 私も一時期、毎号読んでいました。
 この雑誌は、戦時中の昭和18年(1943)創刊なのですが、その前身は「演芸画報」という雑誌で、明治40年(1907)までさかのぼります。つまり、百年以上の歴史があるわけです。

 「演劇界」と言いながら、内容的には歌舞伎の雑誌。戦前の「演芸画報」も、歌舞伎を中心的に取り上げた雑誌でした(若干落語なども出ては来ます)。
 画報ですから、現代風に言うとグラフ雑誌です。カラーを含む歌舞伎俳優の鮮明な写真が掲載され、またイラストもふんだんに入っています。画報という名に恥じない雑誌といえます。


 「演芸画報」を買ってみた

 今回、必要があって、「演芸画報」を少し買ってみました。もちろん、全号復刻版もあって図書館で見られるのですが、やはり自分でほしいのですね。職業病です。

  「演芸画報」 「演芸画報」大正4年1月号

 大正4年(1915)の12号が合冊されたもの(3分冊)を購入したのです。値段がとても安かったので買いました(笑)
 元の所蔵者は、もちろん1年だけでなく、10年、20年と購読されていたのでしょうけれど、古本ではこの1年分が出ていたわけです。

 例えば、こんなふうな写真ページがたくさんあります。

 「演芸画報」 「絵本太閤記」

 昭和3年(1928)の暮れ、南座で行われた恒例の顔見世。
 その中で、「絵本太閤記」が上演されました。武智光秀(明智光秀)役は、東京からやってきた市川八百蔵(写真左)。息子の十次郎は、上方歌舞伎のスター・中村鴈治郎です(写真右)。この写真の場合、バックを消して俳優だけをクローズアップしています。

 舞台の様子を示す写真も多数掲載。

 「演芸画報」 「封印切」

 部分写真なのですが、初代鴈治郎の得意な演目のひとつ、「封印切(ふういんぎり)」の忠兵衛です。
 左の女性が、遊女・梅川で中村芝雀が演じます。うしろは、大坂・新町の茶屋・井筒屋の主人おゑんで、中村魁車です。
 この写真ページは、三つ折りの大判なので、劇場で実際に見物しているようなリアルさが感じられます。

 ただ、表紙の絵からも分かるように、東京で発行されている雑誌なので、東京の動向が中心です。関西は、大阪の劇場などについて比較的詳しく取り上げられていますが、それに比べると京都は少なめです。

 南座
  南座 この建物は昭和に入って出来た


 大正時代にできた女優専門劇場
 
 そんな「演芸画報」をペラペラめくっていると、やはり京都に関する記述も出てきます。
 その中で、おや、と思ったのが、大正座という劇場です。

 名前通り、大正元年(1912)11月にできた劇場。
 場所は、新京極の裏手にありました。

 第二京極 第二京極

 裏手というと、東側のこと。
 新京極と裏寺町の間に、明治時代の末、第二京極という街区が誕生しました。数軒の映画館や劇場が建てられています。錦天満宮の裏の方ですね。
 その第二京極の東の端に、大正座ができました。
 現在、スーパーホテルのある場所。私の若い頃には、京極東宝という映画館があったところ。大正座という劇場が映画館になり、近年まで続いていたわけです。

  大正座跡地 大正座跡地

 この大正座、少し変わった劇場でした。
 女優ばかりが出演する劇場だったのです。

 ご承知のように、江戸時代の歌舞伎は、みんな男性が演じていました。
 ところが、明治維新後、演劇の世界でも女性が演技するようになる、つまり女優が誕生したのです。
 日本で女優が続々と登場するのは、明治の終わり頃から大正初めにかけてです。関西でも、松竹が大阪に女優養成所を作ったりしました。別系統になりますが、宝塚少女歌劇も大正初期に生まれています。

 「演芸画報」の大正4年1月号に、青木桜渓という人が「大正三年関西劇壇概観」という記事を書きました。
 その中に、次のような記述があります。

 京都唯一の女優劇場たる大正座では、「椿姫」「社頭の杉」「寿曽我」「新粧のポスト」を初春狂言として、以来月毎に狂言を差替へ、座員の更迭を行ふたが、成蹟は更にあがらなかつた、嘗て島村抱月氏が入洛の時、
 ==「一夜、京極の大正座といふ有楽座式の新小劇場で女優中心の新劇を見た……こゝでは花浦咲子といふ女優が中心である、白[せりふ]のアクセントが地方訛のせいか旧劇の祟りか知らないが、まだ「真」に帰つてゐない、あれを一度全くの自然に引き戻した上でなければ其れ以上の問題に這入るまい」==
 と謂はれたことがある、この一座としては傾聴すべき卓説であらう。(185ページ)


 ちょっと厳しい意見なのですね。
 大正座の演目を見てみると、喜劇、悲劇、諷刺劇、稗史劇、時代劇、世話劇など、さまざまを取り交ぜた4本立てで、毎月2度の公演を行っています。

 大正元年(1912)11月9日に始まった第1回公演は、「稗史劇 嶋の女」「諷刺劇 バンカラ」「悲劇 女心」「喜劇 相合傘」の4本。出演は、花浦咲子、榎本愛子、石川千代子らとなっていて、若干の男優も交じっていたようです。
 青木桜渓が見た大正3年正月の公演は、すでに第28回になっていました。
 当時の新聞評(京都日出新聞)では、「第二の喜劇『社頭の杉』が非常に大受けにて観客腹の皮を撚[よじ]り、第三の所作の綺麗な舞台にホッと息をつく有様にて連夜大入の盛況」と記されています(『近代歌舞伎年表 京都篇』)。

 演劇のプロからすると “?” だったのかも知れませんが、ファンはそれなりに楽しんでいたのでは、と推測したりします。

 最後に、この劇場の客層について記した新聞記事を紹介しておきましょう(京都日出新聞 大正2年2月19日付)。

 此[この]座は女優本位である丈[だけ]に矢張観客も男子が多い、悪くいへば助平、好くいへば異性に対する一種の憧憬[あこがれ]とでも名づくべきものであらう、大正座の男子客は果して何[いず]れかはそれは自ら別問題である、
 が兎に角全体の観客の内男子が九分迄[まで]と言ひたいが九分五厘は確である、それも矢張若い男子が比較的多いから愈々[いよいよ]もつて面白い訳だ、


 いまで言えば、AKB48に男性ファンが集まるようなのと同じ感覚でしょうか?
 女優さんたちの写真が掲載されていたらよかったのですが、大正4年の各号には載っていませんでした。また、別の巻を探してご紹介しましょう。


  大正座跡地 大正座跡地




 書 名  演芸画報
 出版社  演芸画報社
 刊行年  1907年ー1943年