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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

明治時代に懸けられたおみくじの額、いったい何と書いていた?

洛東




おみくじ額


 見どころが多い粟田神社

 東山区の粟田神社。秋には、剣鉾の出る例祭でも知られます。

 粟田神社
  粟田神社

 この神社は、小さな見どころが満載で、お詣りに行っても飽きることを知りません。

 粟田神社本殿
  本殿

 本殿にお詣りすると、正面左上に1枚の額が掲げられているのに気付きます。

 粟田神社本殿
  赤丸が額


 おみくじの額

 この額、近付いて見てみると……

 おみくじ額

 額縁に、「奉納/明治廿三年四月吉日/堤町若中」と記してあります。

 明治23年といえば、1890年。日清戦争の少し前の時代です。
 堤町というのは、ここから500mほど西方、白川の西にある町名。

 額の真ん中にびっしりと文字が書いてあります。

 おみくじ額

 上の方をよく見ると、「吉」とか「凶」とか。

 そう、おみくじなんですね、これは!

 神さまの前でおみくじを引いて、その番号と額の文とを照らし合わせるわけです。
 引き方は後で説明するとして、おみくじに何と書いてあったのか、読んでいきましょう。


 明治時代のおみくじの文面とは?

 明治の半ば、神主さんが考えたのか、1番から12番までのおみくじの文面が書かれています。
 「心」や「日」などのほかは、ほとんど平仮名で、誰にでも読めるようになっています。ここでは、私たちに読みやすいように、漢字を交えて紹介してみましょう。

 壱  吉  正直を心にこめて願ひなば 我も力を添へて参らん 

 1番は、吉でした。
 <参拝者が心をこめてお願いしたら、私(神さま)も力添えをしましょう>というもの。
 いきなり、神さまが「我」という一人称で現れるのに驚きます。明治の参詣者は、じかに神さまの声を聴いているような気持ちになったのでしょうか。

 二  半吉  急ぎなば 叶ふ願ひも変はるらん よし遅くとも退屈をすな

 2番は、半吉。
 <急いだら叶う願いも変わってしまうよ。もし遅くなっても退屈しないように>
 なるほど、気を長くして待ちなさい、という意味ですか。半吉らしいですね。

 三 吉  ただ願へ 願ふ心の直[すぐ]ならば 自然と我も力を添へん

 これは1番に近いですね。また神さま自身が登場しました。

 おみくじ額


 「凶」の内容は……

 そして、4番。
 いよいよ凶が出てきます。

 四  凶  明け暮れに足らはぬことのあるならば 神に誓ひの心尽せよ

 <毎日、足りない(不満足な)ことがあるのなら、神に誓いの心を尽くしなさい>
 おまえは不満ばかり言うけれど、もうちょっと真面目にお詣りしなさいよ、という厳しいお言葉。もっともですよね。

 五  吉  親しみの深き互ひの仲なれば やがて嬉しき月や冴ゆらん

 六  凶  願ひだに あらば願へよ 叶はぬと言うことはなく 大切にせよ

 吉凶が交互に現れるおみくじ。
 6番はまた凶で、願い事が叶わないと思う人は「叶わない!」と言うんじゃなくて、その願いを大切にしてお願いし続けなさい、というのです。

 おみくじ額
  1番から6番

 七  吉  朝夕に歩みを運ぶものならば 願はずとても我も守らん
 
 7番は一転、着実に歩みを進めれば、神さまにお願いしなくても守ってあげよう、というものです。
 やはり真面目に生きることが大切。

 八  凶  産まれ子の心になりて願ふべし 二た道[ふたみち]掛けし人の悪さよ

 いわゆる二股をかけるのはよくない、という御託宣。産まれたばかりの赤子のように素直な心になりなさい。

 九  吉  今日はよき願ひの日なり 心をば陰日向[かげひなた]なく持てよ 守らん

 十  凶  何事も心のままになりぬれど 道はかゆかぬ老の足取り


 果たして大吉は?

 いよいよ、あと2本。

 十一  末吉  遅くとも懸けし願ひ 叶うべし 心変はらず楽しみて待て

 遅くはなるが願いは叶う、という末吉。
 そして……

 十二  大吉  晴れ棄つる雲井にちかひかけはしの 天上人の来る日ともがな

 最後は大吉でした。
 「誓いを懸ける」と、雲に「かけはし(梯)を掛ける」の掛け言葉。優美な句。天上人の来臨という目出度い大吉です。

 おみくじ額
  7番から12番

 いかがでしたか。
 神さま自身が登場する、このおみくじ。祈願することの大切さを説き続けていますね。
 お気付きのように、各番の文句は五・七・五・七・七の和歌になっていました。神さまの託宣らしい気分になります。

 一方、私たちがよく引くおみくじには、漢詩のものもあります。

 おみくじ

 このような五言絶句のスタイル(5字×4行)が多いのです。
 漢詩の下に、分かりやすい解釈を付けています。


 おみくじを入れるボックスもあった

 本殿の右サイドを見ていると、こんなものがありました。

 くじ函

 何の箱だろう?

 正面に書かれた白い文字。かなりかすれていて読みにくいですね。
 どうも、右の1字は「䦰」のようです。

 䦰 = くじ。

 では、左は?
 「木」偏に「函」のようですね。
 実際には、そんな字はないのかも知れませんが、意味は「函」と同じでしょう。

 函 = はこ。

 䦰函(くじばこ)でした。
 おそらく、この函の中に、おみくじを入れておいたのですね。それを引いて、上に懸けてある額で確かめるわけです。

 今では、函にフタのように板が付けられていて、塞がれています。

 くじ函

 函の右側面には、「明治二十三年/一月吉祥日」と書いてあります。
 額と同じ奉納年ですね。

 あとは寄進した人たちの名前が記されています。

(右側面)
  大阪南久宝寺町三丁目
 煙管商 林庄太郎
  大阪
 同 商 井上卯之介
  東姉小路町
 細工所 北村常次郎

 
(左側面)
 東姉小路町
       田中増三郎
 同   町
       紀伊馬耕吉
 同   町  
       神村彦治郎
 石泉院町
       西村米吉 


 東姉小路町や石泉院町は、この神社の近く、地下鉄東山駅の北側です。

 右側面には、大阪の2人の煙管(キセル)商の名が書かれています。
 調べてみると、東姉小路町あたりは、かつて煙管の細工をする職人が多かったところなのです。煙管は、鍛冶(かじ)の技法を使って金属の管を作りますから、おそらく刀鍛冶から派生した仕事だったのでしょう。

 この䦰函は、京都と大阪の煙管職人、煙管商らが奉納したものだと分かります。

 地元の人たちが奉納した、おみくじ一式。
 素朴な信仰の姿がうかがえます。




 粟田神社

 所在 京都市東山区粟田口鍛冶町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「蹴上」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『粟田沿革史』粟田小学校、1969年


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<まいまい京都>で、粟田口コースを歩きました

洛東




粟田神社


 粟田口に寺社の変遷をさぐる

 京都で街歩きツアーを企画する <まいまい京都> さん。
 今日は、洛東・粟田口を約20名のみなさんと歩きました!
 いつも参加してくださる方、遠方から来ていただいた方、大勢お集まりいただき、ありがとうございます。

 まいまい京都
 【まいまい京都写真部かわかみさん撮影】

 「研究者とタイムトラベル!江戸時代の名所図会を片手に ~異界との境目、裏道に潜む摩訶不思議な伝説を訪ねて~」というコース。
 地下鉄「東山」集合で、明智光秀公首塚 → 植髪堂 → 尊勝院 → 粟田神社……と、メインストリートの三条通から一本南の脇道を歩きました。

 明智光秀首塚 明智光秀首塚

 光秀公の首塚では、和菓子店・餅寅さんの「光秀饅頭」を賞味。
 おみくじの元祖・元三大師を祀る尊勝院では、おみくじを引きました!

 今回は、江戸時代の名所図会、特にこのブログでもよく登場する「花洛名勝図会」と現地を対比しながら歩いてみました。

 配布資料 配布資料

 幕末から現在まで約150年。意外に変遷が激しいのですね。

 粟田神社 粟田神社

 粟田神社では、この鳥居を建てた家族に迫ってみたり。
 倒れている石造物に目をこらしてみたり。
 なくなったお堂を想像してみたり。

 昔と今を行ったり来たりする、ちょっとしたタイムトラベルでした。


 やはり、元三大師は偉大なり

 「東山」駅から「蹴上」駅まで。地下鉄では1駅の区間を2時間半かけて歩きました。
 狭いエリアでも話題は尽きず、この倍の時間でも出来そうです。やはり京都は奥が深いですね。

 ご参加いただいたみなさま、スタッフのみなさま、改めて御礼申し上げます。
 今度は別のエリアで、名所図会を片手に歩いてみましょうか?
 またのご参加、よろしくお願いします ! !

 ところで、今日私が驚いたことは……

 尊勝院で引いたおみくじ。
 祀られている元三大師は、おみくじの元祖とされていて、くじは一番から百番まで、100枚あります。
 
 今日、私が引き当てたおみくじは、三十六番でした。

 帰宅して、先日、下見のときに引いたおみくじを見ると……

 尊勝院おみくじ

 やはり三十六番でした。

 二度とも同じ。
 元三大師の法力の強さを改めて感じ、信仰というものの大切さが身に染みる思いでした。


  まいまい京都 まいまい京都写真部かわかみさん撮影



 
 粟田神社

 所在 京都市東山区粟田口鍛冶町
 参拝 境内自由
 交通 地下鉄「蹴上」下車、徒歩約10分

【新聞から】形を変えるラジオの宗教番組

寺院




ラジオ


 教え説くラジオ 時代の波
 東本願寺、64年の番組に幕
 朝日 2015年9月23日付 


 日頃、京都の神社仏閣を訪ねていると、数々の文化財に目を奪われ、その美しさに感動します。
 しかし、そのような体験を重ねるにつれ、素晴らしい文化財を生み出した信仰の心、ひいては宗教について、関心を抱くようになってきます。

 お寺や神社を参拝した際、関係の方と少々の会話をすることはありますが、宗教や信仰について深くお話することは、なかなかありません。
 そのため、文化財には詳しくなるけれど、それぞれの宗教、宗派が持つ肝心の「教え」を学ぶ機会は少ないとも言えます。

 教えを学ぶ簡便な方法に、テレビやラジオの視聴があります。NHKでは「心の時代」(テレビ)や「宗教の時間」(ラジオ)をオンエアしていますね。私も、放送は時間が合わないのですが、テキストを買って読んだりします。

 ところが、意外なことと言うべきか、各宗派などでも独自にラジオ放送を行っているのです。仏教、神道はもちろん、キリスト教や新宗教も。

 例えば、

 「法然さまの時間」(浄土宗)
 「西本願寺の時間」(浄土真宗本願寺派)
 「東本願寺の時間」(真宗大谷派)
 「高野山の時間」(真言宗)
 「伊勢神宮便り」(伊勢神宮)
 「天理教の時間」(天理教)


 などなど。

 海外でも宗教放送はさかんですが、日本にも結構あるのですね。

 東本願寺 東本願寺

 そんな中、朝日新聞に「東本願寺の時間」が放送終了になるという記事が出ました。
 ラジオの朝日放送で、昭和26年(1951)に放送開始。これまで64年間、3,400回にわたって続いてきたそうです。約10分の短い放送ですが、全国13局ネットと言います。

 朝日放送では午前4時50分からのオンエア、KBS京都でも5時からということで、さすがに聴いたことはありません。宗教番組は、早朝に放送されるものが多いので、なかなか聴く機会がないですね。

 記事によると、最後の放送は朝日放送が9月24日、KBS京都が9月25日。
 10月からは、ウェブサイト「浄土真宗ドットインフォ」内で動画配信を始めるそうです。

 一方で、「みほとけとともに 西本願寺の時間」は、昨年8月、番組のスタイルをリニューアル。ジャズボーカリストで真宗寺院の坊守でもある徂徠真弓さんをパーソナリティーに起用。ウェブでも聴くことができます。

 さっそく、試しに聴いてみました!

 8月に放送された「ドイツ生まれのお坊さん」(ラングナー寺本さん)や、9月放送の「若者に「戦争」を伝えるには」(藤丸智雄さん)などを聴きました。
 基本的に、ひとりのゲストの方が1か月(4回ほど)出演されるようで、時間は各6分ほど。
 ラングナーさんの回は、プロテスタントから浄土真宗に入られた女性が、お寺でどういうことを行っているのか、仏教に入ったきっかけは、といった話題を語っています。
 大学でも教鞭を執っている藤丸さんは、若者の戦争への意識を紹介しながら、どのように歴史を次代へ伝えていくかを述べておられます。

 聴いた感想は、もちろん宗教的、真宗的な話は出て来るのですが、そんなに宗教色は濃くなく、すっと入っていける内容でした。もちろん、ふつうのラジオ番組に比べると、話題は結構まじめ…… でも、NHKよりは遥かに柔らかいです(笑)

 西本願寺 西本願寺

 今回 “体験聴取” してみると、なかなか新鮮で、おもしろく感じられました。朝早い生放送だけだと接しづらいけれど、ウェブで聴けると、時間や場所を問わないので便利だと思います。

 6月に出演された釋徹宗さん(真宗寺院住職、大学教授)は、伝統的な宗教教団がラジオ番組を継続していく意味として、

・浄土真宗は、かっちりと枠があるタイプの宗派だが、そこを少し低くする役目を果たしている
・真宗では「お聴聞」が大事だが、ラジオは草の根型で、聴く姿勢を育てる

 
 と述べています。

 確かに、本願寺に行くと、気軽に堂内に入ってお詣りできるけれど、法話を聴く機会は余りないですよね。
 それをいつでも聴けるのですから、敷居が低くなるし、傾聴する姿勢も身につくでしょう。

 蛇足ながら、聴いていると、やはりしばしば真宗ならではの用語が登場します。
 上に記した中でも、

  「坊守」
  「お聴聞」 


 などが、そうですね。

 簡単に言うと、「坊守」(ぼうもり)とは<住職の奥さん>、「お聴聞」(おちょうもん)とは<法話を聴くこと>のようです。
 私は、「坊守」という言葉は初耳でした。釋さんの解説(2014年8月放送)でおかしかったのは、禅宗などは長く妻帯が認められていなかったので、奥さんを指す言葉がなく、最近では 「ジテイフジン」 などと呼ぶということ。

 私は、てっきり「自邸夫人」だと思いました。自宅にいる奥さんという意味で。
 ところが、調べてみると「寺庭婦人」なのだそうです……

 いろいろおもしろい宗教ラジオ。機会があれば、ぜひ聴いてみてください。




 東本願寺

 所在 京都市下京区烏丸通七条上る常葉町
 拝観 自由
 交通 JR「京都」下車、徒歩約5分


牛で荷物を運んでいた時代、三条通の白川はどう渡った?

洛東




京津国道改修碑


 粟田口の白川橋を渡る

 最近、しばしば粟田口(あわたぐち、東山区)を訪れています。

 そのたびに渡るのが、白川橋。

 白川橋
  白川橋

 三条通に架かっています。
 かつて三条通は、東海道でした。京の都から外へ出るのがこのあたりで、そのため粟田“口”と呼ばれていました。
 「口」は、もちろん出入口の意味で、京都には俗にいう “京の七口” があったのです。

 三条通は、大正2年(1913)に、粟田神社前までを幅8間、つまり15m弱に拡幅しました。たぶん、現在もその道幅だと思われます。白川橋も、そのときに架け替えられたものでしょうか。
 それ以前の道幅は、約6mほどだったといいます(3間余ということになります)。
 享保2年(1717)に京都町奉行所が編纂した「京都御役所向大概覚書」には、白川橋は寛文9年(1669)に、五条橋の古材を用いて石橋に架け替えられたと記されています。以前の木橋は、地震によって壊れたらしいのです。
 長さは6間4尺(約12m)、幅は3間5尺(約6.9m)と言いますから、三条通の道幅とも合致します。


 名所図会に登場する牛と荷車

 白川橋あたりの風景は、江戸時代の名所図会にも登場します。
 私がいつも気になり、何度も見返してしまうのは、この図です。

 「花洛名勝図会」より「白川橋」
  「花洛名勝図会」より「白川橋」

 左右の道が東海道。この図では「大津海道」という別名が書かれています。大津(滋賀県)につながる道だから、この呼称なのですね。
 右方へは、「知恩院道」が分岐しています。

 当時は、人も徒歩ですが、荷物の運搬も、牛を使うパターンが一般的でした。牛の背に背負わせる場合と、荷車を曳かせる場合があり、当然荷車の方がたくさん運べます。

 「花洛名勝図会」より「白川橋」

 画面右下に、背中に荷物(俵?)を背負う牛が1頭います。
 そして、橋の向こうに、荷車を曳く牛が2頭、連なっていますね。

 この2頭ですが、橋を渡らずに、白川に入って行きます。
 あれ、橋を渡ればいいのに、と思いますよね。
 なぜ、わざわざ川を渡るのでしょうか。

 白川
  白川

 牛が曳く荷車は、米俵などを積んでおり、数百キロの重さなります。それが渡ると、橋を痛めることにつながります。そのため、荷車は橋を迂回して、じゃぶじゃぶと川を渡って行ったわけです。
 まあ、牛ですので、それくらい大丈夫なのでしょう。
 同様のことは、東海道の起終点、三条大橋でも行われていたようです。

 先ほどの「京都御役所向大概覚書」を見ると、おもしろい記載があります。
 堀川に架かる中立売橋は、長さ7間4尺(約13.8m)、幅4間5尺(8.7m)もある幅員の広い橋でしたが、「車留めの石杭、これあり」と書かれています。つまり、荷車が通れないように、わざわざ車止めを設置していたことが分かります。

 
 荷車専用レーンを通れ!

 「花洛名勝図会」(1864年)の続きの場面。

 「花洛名勝図会」より「白川橋」

 白川橋の少し西、粟田神社の社頭です。
 ここでも3頭の牛が荷車を曳いています。その足元を見ると、四角い石が敷いてあるのが分かるでしょう。
 石敷きは、左右2列になっていて、右の轍(わだち)と左の轍の下にあります。その間に、牛が通る1mほどのスペース(こちらは土の道)が作ってあります。
 このレーンを車道(くるまみち)と言い、敷石を車石(くるまいし)と言います。
 
 当時、京都の出入口あたりの “交通量” が多いところ(東海道、竹田街道、鳥羽街道など)では、荷車のための専用レーンがあり、車石が敷かれていました。


 日ノ岡に残る車石

 とりわけ有名なのが、ここから西の峠・日ノ岡に敷設されたものでしょう。

 九条山の車石

 ちょっと分かりづらいですが、荷車が車石の上を通る様子を復元しています。

 九条山の車石

 メモリアルに置かれた車石。

 九条山の車石
 
 轍が通る部分がへこんでいます。あらかじめ掘られていたとも、多くの車両が通るから減っていったとも言われています。
 なぜか、恐竜の歯みたいだ、などという感想が湧いてきます。

 日ノ岡を山科の方へ下ると、昭和初期の京津国道(国道1号線)の改修記念碑が建っています。

 京津国道改修碑 京津国道改修紀念碑

 その台座に、車石が用いられています。

 京津国道改修碑

 車石は花崗岩製が多いのですが、ものすごく掘れています。
 このような石の道を通るわけですから、当時の荷車は車輪の幅が規格化されていたことがうかがえますね。

 もちろん他の場所にも、車石は残されています。
 例えば、伏見区の御香宮神社。

 御香宮神社の車石
  御香宮神社の車石

 竹田街道に敷設されていた石だそうです。リアルな雰囲気で保存されています。

 それにしても、牛と人が一緒に暮らしていた日常が懐かしいですね。
 いま急に、子供の頃、近くの農家のおじいさんが、牛を曳いて家の前をよく通っていたことを思い出しました。牛は、運送のほか、農作業にも活躍していたのです。
 牛を飼っている家なんて、もう郊外でもほとんどないでしょう。少し寂しい気もします。
 
 


 白川橋

 所在 京都市東山区三条通白川
 見学 自由
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩すぐ



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年


“おみくじの元祖” 元三大師のふるさとは、近江ののどかな村里だった

人物




玉泉寺


 旧虎姫町の三川を訪ねて

 ある晴れた日、遠く近江(滋賀県)に出掛けました。

 今日の目的は、元三大師(がんざんだいし、慈恵大師良源)の故郷を訪ねることです。
 元三大師は、このブログでも何度もふれているのですが、“おみくじの元祖” として知られ、また無類の法力の持ち主で “角大師” の護符のモデルとなった僧。平安時代の人で、比叡山延暦寺で天台座主(天台宗のトップ)まで務めた高僧です。

 元三大師の紹介記事は、こちら! ⇒ <比叡山延暦寺の高僧・元三大師は、京都でも広い信仰を集めてきた>

 角大師のお札は、京都でも民家などにしばしば貼られるのですが、大師の出身地は京都ではありません。
 近江国、それも湖北の地。現在の滋賀県長浜市三川町。

 このあたりは、今では合併して長浜市になっていますが、かつては東浅井郡虎姫町という農村的なところでした。それでも、古くから真宗大谷派の五村別院という大寺があり、JR北陸本線の虎姫駅も設けられています。

 三川の町並み

 あたりは一面に田んぼが広がり、その中にポツリポツリと集落があるという地域。三川も、そのような地区のひとつです。
 こんなのどかな農村が、元三大師の生誕地でした。

 いま、その場所には玉泉寺というお寺が建立されています。

 玉泉寺
  三川の集落から見た玉泉寺

 遠くから見ても、玉泉寺の屋根が集落から突き出しているような風景で、おのずと「大廈」(たいか)という言葉が想起されます。

 玉泉寺
  玉泉寺 本堂

 本堂は、地元の方が「井伊さん」という彦根藩主井伊家から寄進された建物。安永9年(1780)建立。
 江戸後期によくみられる裳階(もこし)付きの建物なので、二階建ふうに見え、背が高いのが特徴です。

 その前に、比較的新しいものと見受けられますが、「元三大師御誕生所」の石標が建っています。
 
 ちなみに、お寺の入口には、

  玉泉寺

 「国宝 元三大師」という石柱があって、おや? という印象。
 大師が国宝ってなに? という感じですね。

 もちろん、元三大師が人間国宝! というわけではなくて、ご本尊の大師の坐像が重要文化財に指定されているのです。戦前は、文化財保護法以前の指定ですので「国宝」となっています(いわゆる「旧国宝」)。
 その像は、鎌倉時代の作ですが、秘仏なのでご尊顔を拝することはできません。


 大師の産湯の井

 本堂に上がり参拝を済ませて、堂外に出ると、地元のおじさんが、どこから来たのと声を掛けて来られました。
 見ると、境内の端に碑を建立されている最中でした。

  玉泉寺

 御影石で出来た立派な石碑。絵柄の部分は陶板で、地元の人たちが作ったのだそうです。
 
 おじさんは、このあたりの町おこしに力を入れておられるそうで、いくつか見所を紹介してくれました。
 それに従って、見ていこうと思います。

 まず、お寺の前にある元三大師の産湯井。

 元三大師産湯井

 長方形の石の井桁(いげた)なのですが、その上に唐破風の屋根が掛けられています。とても大事にされているのですね。
 そのため、井戸の中は覗けません。

 さらに、道を西へ100mほど進むと、「月子之墓」というものがあります。

 月子墓

 この月子という方は、大師の生母なのです。
 大師の誕生や両親については、諸説あるのですが、山田恵諦『元三大師』を参照しながら紹介しておきましょう。

 月子姫は、もとは湖北の物部氏の娘でした。12歳の時、宇多天皇が竹生島に行幸されたとき接待の役に当たり、その縁で16歳になって、宮中に奉仕するようになりました。そこで天皇の寵愛を受け、懐妊したのです。
 御産のため、湖北の豪族・木津頼重の邸に身を寄せ、観音さまを祀る大吉寺にお詣りなどをしていました。
 延喜12年(912)9月3日、男の子が誕生。のちの元三大師です。観音に祈願して生まれた子ということで、観音丸と呼ばれたということです。

 この話に従えば、元三大師は宇多天皇のご落胤ということになります。しかし、土地の豪族の子とする考えもあるようです。千年以上前のことですので、諸説あるのはやむを得ないでしょう。

 月子墓
  月子姫の墓

 あとで地元の奥さんとお話しました。その方によると、やはり地元では宇多天皇落胤説は採らないようで、また現在残る月子姫の墓も疑問符が付くという話でした。


 角大師のお札授与

 地元の方の話では、玉泉寺のご住職は御年101歳! ということです。
 元三大師はおみくじの元祖として知られますが、そのおみくじは僧侶に引いてもらい、お話をうかがうスタイルです。そのため、住職が高齢になられた玉泉寺では、現在おみくじを出すことは出来ないということでした。
 それはちょっと残念でしたが、角大師の護符だけは授与していただきました。

  玉泉寺の角大師 近江 玉泉寺の角大師

 「元三大師御誕生所」「江州浅井玉泉寺」と記されています。
 角大師の護符を出す寺院はたくさんありますが、当寺のお札はスモールサイズでした。
 タテの寸法が、約12cm。
 比叡山横川の元三大師堂でいただけるお札は、約23cmですから、ほぼ半分の大きさです。

  比叡山横川の角大師 比叡山横川の角大師

 角大師の絵柄は、お寺によってさまざま。これについても、以前の記事をご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <元三大師の象徴 “角大師” は、いったい何の姿?> <比叡山・横川の元三大師堂では、4種のお札がいただける有り難さ>


 田んぼアートを見る!

 お寺を離れ、近くにある虎御前山に行きました。虎姫の名の由来になった小さな山です。
 おじさんが、出会って最初に薦めてきたのが、山上の展望台から見える “田んぼアート” でした。

  田んぼアート

 地元の虎姫地域づくり協議会が取り組んでおられるもので、今年で3回目。
 どんなものかなぁ? と思いながら、展望台の階段を上ります。
 そして、下を眺めてみると……

 田んぼアート

 伊吹山を背景に、広がる田園風景。
 そこに登場した田んぼアート。

 田んぼアート

 なんと、角大師の図柄でした!

 これには、ほんとに感動 ! !

 玉泉寺のお札と比べてみてください。
 実に、よくできていますね。

 田植えから始まり、徐々に絵柄がはっきりしてくるようです。今は、一番くっきり見える時期なのですね。いい時に来ました。

 元三大師の生誕地をめぐる小トリップ。
 湖北・虎姫で、愉しい時間を過ごしました。




 玉泉寺

 所在 滋賀県長浜市三川町
 拝観 自由
 交通 JR「虎姫」駅下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 山田恵諦『元三大師』第一書房、1959年


きょうの散歩 - 近江で京都ゆかりの建物に会う - 2015.9.15 -

寺院




大通寺


 ぶらり近江散歩

 ふだんは京都市内をぶらつくことが多い私ですが、今日は近江(滋賀県)へ。

 京都に本山がある西本願寺と東本願寺は、全国に別院を持っていますが、近江にももちろん、いくつかの別院があります。
 特に気になるのが、湖北にある東本願寺(真宗大谷派)の別院、五村別院と長浜別院大通寺です。

 実は、今日訪れたのは、このふたつの別院でしたが、なぜかとても近くにあるんですね。
 クルマで10分程度でしょうか。距離を測ってみると、わずか4㎞しか離れていません。

 五村別院
  五村別院 本堂(重文)

 そして、いずれも本堂が重要文化財に指定されているのです。
 上の写真の五村別院本堂は、桁行九間、梁間七間という大きなお堂。享保15年(1730)の建立です。

 一方、長浜の街中にある長浜別院大通寺。

 大通寺
  大通寺 本堂(重文)

 こちらも、大きな本堂ですね。奥には、重文指定の広間などが連なっています。
 この本堂、寺伝では京都・伏見城から移築された建物とされています。欄間彫刻など彩色も美しく、これだけ立派であれば、さもありなんという感じですね。遠く湖北で、京都とつながりのある建物に接して感無量です。

 もっとも、こちらに限らず、史実としての “伏見城の遺構” がどこかにあるのか、という話はまた別です。
 文化庁のデータベースなどによると、大通寺の本堂は明暦3年(1657)に建築されたと考えられています。

 さらに素晴らしいのが山門。

 大通寺
  大通寺 山門(長浜市指定文化財)

 天保12年(1841)に竣工しました。
 上層には、釈迦三尊像が祀られているということです。

 興味深かったのは、門の解説板に書かれていたこと。
 この山門が、京都・東本願寺の門を模して造られたという話です。
 それはありそうなことなのですが、東本願寺の御影堂門はその後、幕末に焼失してしまいます。ところが、その再建時に、大通寺の山門が逆に参考にされたというのです。

 なるほど。
 確かに、今の東本願寺の御影堂門(明治44年=1911 竣工)も、こんな雰囲気です。“コピーのコピー” というわけでしょうか。

 近江にも京都あり、という逸話でした。




 五村別院

 所在 滋賀県長浜市五村
 拝観 自由
 交通 JR「虎姫」下車、徒歩約10分

 長浜別院大通寺

 所在 滋賀県長浜市元浜町
 拝観 自由 (広間などは有料)
 交通 JR「長浜」下車、徒歩約10分


いくつもあった! 元三大師と庚申さんを祀る尊勝院へ登る道標

洛東




尊勝院道標


 青蓮院の上にある尊勝院

 鴨川に架かる三条大橋を発って、三条通を東進すると、“東海道五十三次” の世界へ。
 京都の東の出口は、七口のひとつ、粟田口(あわたぐち)です。

 その付近。三条通と神宮道(じんぐうみち)が交わる交差点を真っ直ぐ南へ下がると、青蓮院にたどり着きます。
 尊勝院は、その東方の丘の上にあります。

 尊勝院
  尊勝院 本堂(京都市指定文化財)

 尊勝院は、青蓮院に属する天台宗の寺院です。
 少し奥まったところにあるので、観光の方は余り訪れないでしょう。でも、見晴らしがとてもよく、本堂も桃山時代の造営なので、隠れた名刹ですね。


 三条通神宮道下ルの道しるべ

 この尊勝院に行くには、平安神宮の大鳥居の真南、三条通神宮道の交差点から1本南に進みます。青蓮院の手前の交差点ですね。
 ここに、1基の道標があります。

 尊勝院道標
  三条通神宮道下ルの道標

 この道路、東西に続いていて、尊勝院、粟田神社、佛光寺本廟などにアクセスできます。
 道標を少し詳しく見ていきましょう。

  尊勝院道標

 まず正面(西面)なのですが、「尊勝院 庚申堂参道」と書いてあります。
 尊勝院の下に、庚申(こうしん)堂ともあるので、同院にはご本尊に加え“庚申さん”も祀られていると分かります。

 ちなみに、この庚申信仰というのは、庚申待ちとも言って、庚申(かのえさる)の日、夜を明かして過ごすことを言います。なぜ夜明かしするかというと、カラダの中にいる「三尸(さんし)」という虫が抜け出して、天帝にその人の罪悪を告げ口してしまうと信じられていたからです。
 仏さまとしては、青面金剛(しょうめんこんごう)を祀るのですが、庚申の「申」が十二支のサルを意味するので、サルと結び付いた信仰に変化していきました。このサル、ちょっと覚えておいてください。

  尊勝院道標

 左面(北面)には、「将軍塚登口」
 尊勝院からさらに奥へ登ると、将軍塚に至るのです。

  尊勝院道標

 裏面(東面)には、「昭和十四年七月 建之」とあります。
 比較的新しいですね。表の「尊勝院」の文字の筆遣いなどからも、新しさが感じられます。

 最後に、右面(南面)。

  尊勝院道標

  「寄進 吉水園菓舗 結城専輔/粟田口住 木田主計」
 この道標を建てた人の名前が記されています。
 道標に限らず、石造物には建立者(寄進者、施主)の名前が刻まれていることが多いのです。ところが、その人が誰か? というのは、なかなか分かりません。この道しるべも、“?”と思いつつ通り過ぎたのですが……


 寄進者の答えは、近くにあった!

 道標を見て、そのまま尊勝院に進みかけたのですが。
 なぜか気が向いて、左(北)に少し歩むと……

 住宅地図

 路傍に、この付近の略図がありました。こういうのは、つい見入ってしまいますね。
 ところが、そこで発見したのです、道標の寄進者「吉水園菓舗」を!

 なんと、地図に「吉水園」とあり、現在地のすぐ横です。
 行ってみると、

 吉水園
  京菓子司 吉水園

 ありました、和菓子店・吉水園。
 銘菓「京おんな」の老舗。

 道標から、僅か数十メートル。こんな近くに寄進者の家があったとは、驚きです。
 ちょっと珍しいケースかも知れませんね。

 吉水園


 もうひとつの道標

 元の道に戻り、道標から学校のブロック塀に沿って、東に100mほど進みます。
 すると、右の分岐点に、また道しるべが建っています。

 尊勝院道標
  
 「元三大師」と大書しています。
 実は、尊勝院は、平安時代の比叡山延暦寺の僧で、天台座主も務めた慈恵大師良源(じえだいし りょうげん、912-985)が本尊です。彼は、またの名を「元三(がんざん)大師」と呼ばれました。1月3日に亡くなったからです。
 後世の庶民には元三大師の名の方で知られ、ユニークな“角(つの)大師”の護符は大ブームでした。この辺については、以前書いた記事をご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <比叡山延暦寺の高僧・元三大師は、京都でも広い信仰を集めてきた>

  尊勝院道標 尊勝院道標


 なぜか溝ブタの上に置かれていて、不安定な感じがする道標。
 右側面には、「文化二乙丑年建之」とありますので、今から200年余り前の文化2年(1805)建立と分かります。

 裏面には何も書かれていないのですが、左側面には文字があります。

  尊勝院道標

 ちょっと写真では読めないでしょうか。
 「多賀大社」の4文字が認められます。

 多賀大社といえば、滋賀県の湖東にあるお宮さんですね。由緒ある式内社で、「お多賀さんへは月参り」と言われたほど信仰を集めた神社です。
 しかし、ここに書いてあるということは、尊勝院の中にも多賀大社があるということでしょうか? 

 幕末にさかのぼって、「花洛名勝図会」(1864年)を見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より粟田口付近
  「花洛名勝図会」より「元三大師」

 いつもながら、詳しく描いてありますね。
 クローズアップです。

 「花洛名勝図会」より粟田口付近

 一番上に「元三大師」のお堂が画かれています。当時「南面大師」と呼ばれたように、南向き(右向き)に建っています。
 その右に白い屋根が見えますね。これが「多賀社」です。ここに近江から勧請された多賀大社があったわけです。昔は神仏習合ですから、お寺と神社が一緒にあっても一向にかまわないのですね。


 移転した多賀大社

 ところが。
 いま尊勝院に行っても、多賀大社はないのです。
 元三大師のお堂の場所は、大正4年(1915)に上図の位置から現在地に移転しています。そのため境内も狭くなっています。いずれにせよ、多賀大社はありません。
 では、どこに行ったのか?

 粟田神社
  粟田神社 本殿

 尊勝院のすぐ東に粟田神社があります。
 その本殿の左脇にたくさんの摂社・末社が並んでいます。

 粟田神社
  本殿脇にある摂末社

 その一番左に、ありました、多賀社。

 粟田神社の多賀神社

 おそらく、明治維新の際の神仏分離で、尊勝院から遷されたのでしょう。よくあることですね。

 粟田神社のウェブサイトを見ると、この並びにある出世恵美須神社も、維新の時、かつての金蔵寺から遷ったと記されています。


 金蔵寺という廃寺

 そう、金蔵寺(こんぞうじ)。
 この寺、今は廃絶してしまったのですが、かつては青蓮院の付近にありました。寺地は、最初の道標の辺り一帯に拡がっていたというイメージだと思います。
 その金蔵寺は、江戸時代は「粟田の庚申」として信心されていたのです。絵図などにも、ズバリ「庚申」と記載されているものもあります。そして、ご本尊は、米地蔵(よねじぞう)。

 ということは……

 実は、先ほどの「花洛名勝図会」に描いてあった境内は、金蔵寺の境内だったのです。
 
 「花洛名勝図会」より粟田口付近

 図中の記号を整理すると……

  A 「元三大師」堂・・・現在は尊勝院へ
  B 「多賀社」・・・現在は粟田神社末社に
  C 「米地蔵」・・・現在は尊勝院に祀られる
  D 「おさる堂」・・・同上
  E 「門出えびす」・・・現在は粟田神社末社に

 「おさる堂」は、まさに御猿堂。庚申信仰と結び付いた猿で、別名を三猿堂とも言い、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿です。
 「門出えびす」は、現在は出世恵美須とされています。

 このように、旧金蔵寺にあったお堂やお宮は、明治維新後、分離されて、現在の尊勝院や粟田神社に祀られるようになったわけです。


 粟田神社境内の道しるべ

 そんなことで、今回は尊勝院に続いて粟田神社にも参詣したのでした。
 すると、また道しるべに遭遇してしまったのです。

 粟田神社
  粟田神社

 神社の鳥居の左側に小さな道しるべが。

 粟田神社

 昭和13年(1938)12月に建立されたものですが、ここにも「庚申堂 登口」「将軍塚」と書かれています。

 ん~、「庚申堂」は尊勝院に移ったのではなかったのか? これは昭和13年なので、たぶんそのはず……

 などと思いながら、境内に上り、ぶらついていると。
 またまた道標が!

 粟田神社 粟田神社

 これも同じく昭和13年12月に建てられたもので、「庚申堂参道」「将軍塚登口」と記されています。
 けれども、その先の山道は鉄扉で閉ざされていて、登ることはできません。

 聞いてみるか、と思い、社務所で尋ねました。

 「庚申堂参道という道しるべを登って行くと、今でも庚申堂があるのですか?」

 宮司さんの答えは、少し意外でした。

 「ええ、尊勝院さんに行けるんです」

 なるほど。
 つながっていたのか。

 ナゾが氷解したところで、神社を後にしたのでした。




 尊勝院 道標

 所在 京都市東山区粟田口三条坊町
 見学 自由
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年

文化財になった道しるべ、大原口道標と五条別れ道標





大原口道標


 京都市内に5つある文化財の道しるべ

 志賀越えを紹介する中で、京都大学の東西にある道標を紹介しました。
 北白川西町道標と吉田本町道標です。

 記事は、こちら ⇒ <北白川にある道標と石仏は、志賀越えの追分をしのぶよすがとなっている> <300年前の道しるべは、京大構内を通っていた志賀越えの記憶>

 このふたつの道しるべは、京都市登録文化財になっています。
 実は、京都市の文化財になっている道標は、5つあります(【 】内は建立年)。

 1.今出川通寺町東入表町(大原口)道標【1868年】
 2.北白川西町道標【1849年】
 3.吉田本町道標【1709年】
 4.三条通白川橋東入五軒町(三条白川橋)道標【1678年】
 5.御陵中内町(五条別れ)道標【1707年】

 いずれも昭和62年(1987)に史跡として登録されています。
 長い名称なのですが、道しるべにもともと名前が付いているはずもないので、「町名+道標」のネーミングになっています。( )内は、その地点の分かりやすい通称です。

 このうち、4 の三条白川橋道標は、今から340年近く前に建てられたもの。京都市内で現存最古の道しるべで、ここでも以前紹介しました。
 記事は、こちら! ⇒ <京都市内の現存最古の道しるべは、三条通・白川橋のたもとにある>

 
 寺町今出川にある大原口道標

 ということで、これまで3つの文化財道標を取り上げてきたのですが、今回は残りの2つを紹介しておきましょう。

 まずは、1 の大原口道標。

  大原口道標 大原口道標
  
 大原口は、京都を囲む土塁である御土居(おどい)に開けられた“京の七口”のひとつ。北郊にある大原へ向かう街道のスタート地点です。
 今出川通寺町の交差点の北東角に建ってます。歩道上にあるので、ここを歩けば自ずと目に入ります。

 幕末の慶応4年(1868)に建てられたもので、5つの中では最も新しい道標ですが、ひときわ立派なのです。
 
  大原口道標 大原口道標
  大原口道標

 四面に、東西南北の方位が記されていて、その下に行き先の地名と距離(○丁)が細かく記載されています。
 地名は全部で22あります。

  北の面:上御霊、上加茂、くらま、大徳寺、今宮
  西の面:内裏、北野、金閣寺、御室、あたご
  南の面:かう[革]堂、六角堂、六条、祇園、清水、三条大橋
  東の面:下かも、比ゑい山、吉田、黒谷、真如堂、坂本城

  大原口道標 南面

 崩し過ぎず、分かりやすく書かれた流麗な文字。
 立派な道標ですね。
 『京都市の文化財』には、「京都の道標の最優作であり、おそらく日本全国の道標の中でも最優品の一つといえるでしょう」と評価しています。


 東海道・五条別れの道標

 次は、5 の五条別れ道標。
 山科区御陵(みささぎ)中内町にあります。京都薬科大学の北東にあります。

 五条別れ道標

 この道が、何を隠そう昔の東海道なのです!

 三条大橋から出発する東海道。まずは三条通を真っ直ぐ東へ向かいます。ところが、ウェスティン都ホテル京都がある蹴上(けあげ)を過ぎて日ノ岡峠を越えると、旧の東海道は国道1号線から右手に分岐します。
 少し進むと再び1号線に合流。そのあと、天智天皇陵、JR線を過ぎると、左へ分かれます。

 そこから約300mの地点が、五条別れ。道標があるポイントです。

 五条別れは、東海道から渋谷街道に至る道の分岐点。南に歩いていくと渋谷街道にぶつかり、西へ進むと五条通につながります。五条(大橋)へ行く分岐だから五条別れなのです。

  五条別れ道標 五条別れ道標

 北面には「右ハ三条通」と書いてあり、東面には「左ハ五条橋」とあって、左右に「ひがし 六条大仏/にし 今ぐまきよ水 道」と刻まれています。
 こちらも、なかなかいい字ですよねぇ。
 東西本願寺のある「六条」や、方広寺の「大仏」、西国巡礼札所の観音寺や泉涌寺がある「今ぐま(今熊野)」、清水寺を案内しています。

  五条別れ道標

 裏面(南面)に「宝永四 丁亥 年十一月吉日」と、1707年に建てられたことが分かります。これも300年前のものなのです。

 西面には、「願主 沢村道範」の名があります。これは、京都大学脇にある吉田本町道標と同じ願主です。

  五条別れ道標

 くっきり刻まれた文字で、石も良質なのでしょうね。

 今回紹介した2基は、出来もよく、保存状態も良好です。京都市の道しるべを代表するものといってよいでしょう。

 三条白川橋の道標には、“京都に不案内な旅人のために立てる”と、彫られています。善行を積む(積善)という仏教的な心持ちから建立されたものです。
 江戸時代から、京都には大勢の旅人がやって来ました。道が分からず困っていた人たちが、道しるべに助けられていた様子がしのばれます。
 
 300年経った現在も、街角で地図とにらめっこする海外ツーリストをよく見かけます。東京五輪が近づいてくると、現代の “道しるべ” が増えるかも知れませんね。


  三条白川橋道標 三条白川橋道標




 大原口道標(京都市登録文化財)

 所在 京都市上京区今出川通寺町東入表町
 見学 自由
 交通 京阪電車「出町柳」下車、徒歩約10分

 五条別れ道標(京都市登録文化財)

 所在 京都市山科区御陵中内町
 見学 自由
 交通 JR「山科」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『京都市の文化財(記念物)』京都市文化観光局、1992年



北白川にある道標と石仏は、志賀越えの追分をしのぶよすがとなっている





北白川阿弥陀石仏


 志賀越えの「追分」

 先月の記事で、京都大学の脇にある300年前の道標について紹介しました。

  記事は、こちら! → <300年前の道しるべは、京大構内を通っていた志賀越えの記憶>

 思えば、道しるべで「300年前」というのも物すごいですが、これは古い街道跡に建つ道標でした。
 
 その街道が、志賀越え(しがごえ)。
 ざっくり言うと、鴨川東岸(京都市左京区)から、比叡山を越えて、琵琶湖岸(大津市)へ抜ける山道です。そのため、山中越えとも呼ばれ、また京都市街の部分は白川道などとも言われます。
 「志賀」越えというのは、京都から滋賀に抜ける道だからですね。

 江戸時代には、随分往来があったのですが、このあとの話でも分かるように、おそらくもっと古い道だったのでしょう。

 今回は、地図を作ってみました!

 昭和初期の京都帝大附近(『皇陵巡拝案内記』)
  昭和初期の京都帝大附近(『皇陵巡拝案内記』所載地図を加工)

 昭和8年(1933)頃の地図をベースに作成しました。
 左下から右上に続く赤い線が、志賀越えです。
 左下端、鴨川に架かる橋が、荒神橋(こうじんばし)。京の七口(都への出入口)のひとつ、荒神口があったところ。そこから斜めに進んで、京都帝国大学が出来たので、道は一旦途切れます。この途切れたところ(東大路東一条)が、前回の道標があった場所です。

 白川道
  京大の東の白川道

 京大の右上から、また道が始まっています。すぐに電車道と交差します(青いAの辺り)。この電車道が今出川通です。昭和初期に現在のように拡幅、整備されました。もっとも、それ以前にも、この西方には百万遍の知恩寺という大きな寺などもあり、道は通っていたのです。ただし、田圃の中の細い道だったと思われますが。

 A地点より先、道は少し坂道となり、いよいよ山中越えらしい様相を呈し始めます。
 地図に「追分(おいわけ)」という地名が書いてあります(赤丸)。これがポイントです。
 このあたりは、昔は愛宕(おたぎ)郡白川村の追分というところでした。「追分」の文字の場所は、今は北白川西町ですが、その西隣は現在も追分町です(ほとんど京大構内ですが)。

 追分という地名は、一般に、街道の分岐点に付けられます。
 では、ここも分岐点?

 そうなんです。ここも別れ道、“追分”なのでした。


 160年前の道標が立つ

 昭和初期の京都帝大附近(『皇陵巡拝案内記』)

 この地点(青いA)は、斜めの志賀越え(白川道)と、東西の現・今出川通との分岐点なのです。「フ」の字形に分かれているんですね。今出川通は、古くはもっと細い道でした。
 
 ここに別れ道らしく、1本の道標が建っています。
 北白川西町道標。
 嘉永2年(1849)に建てられました。

  北白川西町道標 北白川西町道標

 とても背が高く、2m12cmあるそうです。四面に文字が刻まれています。

  北白川西町道標 北白川西町道標
  北白川西町道標

 左上の写真から、北面、西面、南面です(東面はお堂の陰で撮れていません)。
 刻んでいる文字は、次の通り。

(北面) 北/右 北野天満宮 三十五丁 平野社/下上加茂 今宮 金閣寺
(西面) すく/比ゑいさん 唐崎 坂本/嘉永二年己酉仲夏吉辰願主某 石工権左衛門
(南面) 南/左 三条大橋 二十五丁 祇園 清水/知恩院 東西本願寺 一里半
(東面) 東/吉田社 三丁 真如堂 五丁/銀閣寺 黒谷 六丁  


 3つの面の一番上に「北」「南」「東」と方角が書いてあります。これは、その面が向いている方角を示しているのでしょう。コンパスのようなものですね。
 この道標は、おそらく道路整備の中で動かされているかも知れませんが、方角は維持されているようです。

 そして注意すべきは、「右 北野天満宮……」と「左 三条大橋……」の部分。
 この道しるべが、東から歩いてきた旅人に、右=現・今出川通を行けば北野天満宮などですよ、左=志賀越え(白川道)を行けば三条大橋や祇園、清水へ行けますよ、と教えているのが分かります。
 つまり、この道標は、西面(すぐ 比叡山……)以外は、山を越えて京都に入ってきた人に向けて建てられたものなのです。
 もっとも、西面だけは、京都から滋賀方面に行く人に向けています(唐崎、坂本は滋賀の地名)。

 この道しるべからも、この場所が滋賀方面から来た人にとっての「追分」であったことが理解できます。


 旅人を見守る石仏

 地図のA地点には、道標のほかに石仏も祀られています。

 北白川阿弥陀石仏

 高さ1m余りの素朴な2躯の仏さま。

 北白川阿弥陀石仏 北白川阿弥陀石仏

 いつ頃に造られた像だと思いますか?

 実は、思いのほか古くて、鎌倉時代のものだと考えられています。
 石造美術研究の第一人者・川勝政太郎氏の解説を引いておきましょう。

 向つて左のは大きい自然石の表面に整つた姿の定印弥陀坐像を刻出し、右のは二重光背式に作つた前に大きく定印弥陀坐像を彫つてゐる。
 共に面相も円く藤原系の表現をもつてゐるが、衣文の具合など鎌倉時代中期前のものと思はれる。殊に右の像の衣文は美しく整へられて居り、保存もよい点は珍しい。この像の光背には月輪中に梵字を現はしたのが数多くめぐらされてゐる。京都には定印弥陀の石仏が多いが、これらは花崗岩製、高さ五尺ばかりで、大きく且つ古い優作である。(『京都石造美術の研究』116ページ)


 戦後すぐ(1948年)に出版された『京都石造美術の研究』の解説です。
 川勝博士の研究によれば、京都の石仏の中で古いものとして、比叡山西塔の香炉岡弥陀石仏があるそうです。これは鎌倉初期の作と認められると言います。
 北白川の右の像は、同じ系統に属すそうで、それに次いで古いものということになります。
 また、同じ頃の作に、上京区の石像寺(釘抜きさん)の弥陀三尊石仏があります。これは元仁2年(1225)作と銘から確認できます。

 北白川の像は、石灯籠などには「大日如来」と刻まれていますが、像としては阿弥陀如来です。
 鎌倉時代というと、800年ほども前のもので驚かされますが、さらに古く見る意見もあるようです。

 北白川阿弥陀石仏
  石灯籠には「大日如来」とある

 また二躯の石仏の後ろを覗くと、さらに小さな石仏が置かれていました。

 北白川阿弥陀石仏

 このあたりが、街道筋の追分に当たるため、昔から石仏が数多く置かれていたのでしょう。この事情については、もう少し考える必要もありそうです。

 なお、この場所から今出川通を北に渡ったところに、子安観音と称される大きな石仏もあります。


 掘り出された石仏群

 北白川阿弥陀石仏

 いま、今出川通の脇道になってしまった白川道。かつては、このような風景でした。

 『京ところどころ』
  石仏と道標(『京ところどころ』より)

 石仏には覆い屋はなく、露仏です。
 道の向こうの右側には、石造でしょうか、2基の層塔も見えます。もしかすると石材店の店先かも知れません。北白川は石材が名産ですから。

 『京ところどころ』

 クローズアップすると、こうなります。

 この写真は、昭和3年(1928)に刊行された『京ところどころ』という随筆集に掲載されているものです。
 タイトル通り、京都のいろいろな場所を、そこにゆかりの著名人(特に住んでいる人)が自由に綴ったものです。もとは、大阪毎日新聞京都附録に掲載されたもので(おそらく昭和2年頃)、編者は京都支局長だった岩井武俊です。岩井は、考古学をはじめ歴史、文化財に造詣が深い、学者肌の新聞人でした。少し調べたことがあるのですが、それについてはまた別の機会に。

 その『京ところどころ』に、河田冰谷「京の鬼門 百万遍附近は太古は大湖水の渚」というエッセイがあり、その挿図がこの写真なのです。サブタイトルが、「白川口の名物=石仏 一帯急激なモダーン化」とあります。
 河田冰谷は、河田嗣郎のことで、京都帝大の先生(法学博士)でした。この本が出された頃、大阪商科大学(現・大阪市立大学)へ移り、学長を務めています。
 その河田博士が、近所に住んでいたわけです。大学の近くで便利だったのでしょう。

 その一文に、二躯の石仏のことも書かれています。

 私の住ゐ[すまい]の界隈は、皇城鎮護の延暦寺の裏の参詣口に当つて居るのだから、昨今こそ斯[こ]んなに登り客の通行が少なくなつたけれど、昔は中々重要な又神聖な地域であつた。だからこそこの附近には大日如来や地蔵菩薩の石の尊像が、道のほとりなどに多数に鎮座ましますわけだ。農大正門の入口には、いわゆる二つ地蔵が半ばうもれながら、衆生済度の慈眼を垂れて御座る。何人の心尽くしぞ花やしきみの絶えたことはない。

 何しろ此界隈はそんな霊域だが、昨年だつたか、あの二つ地蔵のつい鼻の先で四人殺しの惨事が演ぜられ、神聖の地域を汚してしまつた。これも末世の象徴といふものか。仏罰であるのかも知れない。(183-184ページ)


 殺人事件のことが妙に引っかかりますが、一応それは置いておいて。
 この石仏が、地元では「二つ地蔵」と呼ばれていたことが分かります。また、他にも多くの石仏が鎮座していようですね。

 私が気になったのは、次の部分でした。

 仏罰といへば理学部の生物学や地質学などの教室があの区画内に出来た時の話を知つて居る人があるであらう。

 石仏の北に農学部正門があり、そこには農学部や理学部の建物があります。
 理学部の建物は、大正後期から順次造成されていきました。煉瓦造の理学・生物学教室が出来たのは、大正9年(1920)のことと言います(『新版日本近代建築総覧』による)。次の話は、おそらくその工事の際、あるいはそれに続く校舎工事の際の出来事と思われます。

 あの建物の出来る時地下工事をするに当たつて多くの石仏があつたのを心なき土工連中が邪魔になるといふので、地下室の下の深い深い大きな穴の中へたゝき込んでしまつた。すると仏罰立所[たちどころ]に現れ、土方が怪我をするやら病気にかゝるやら、棟梁が変死するやら大学営繕課の人が病気するやら、大変なことになつてしまつた。

 初めは誰もその理由を知らないで、たゞ恐れをなして居るばかりだつたが、その中[うち]それが仏罰であることが きつねおろし か何かでわかつて、早速その罪の赦免を請はなければならぬことになつた。

 そのおわびの為に作られたのが今理学部の東南の角の所に人家との間に祀られてある石仏群だ。白川口を知る人はあつても、このくしき因縁話のついて居る石仏壇を知る人も、見た人も少からう。(184-185ページ)


 何やら、怖い話です。
 大学の建物工事中に、地中から多数の石仏が掘り出された。地下室の穴に埋めておいたら、関係者に次々と災いが起こった。「きつねおろし」で尋ねると、石仏の祟りだということが分かった。それで、石仏群を手厚く祀ることになった。

 なにやら、ツタンカーメンの発掘譚のような話……

 私は気になって仕方なく、ある雨の日にクルマを駆って京大北部構内を訪ねてみました。

 今出川通から様子をうかがうと、それらしきものが…… 

 京大理学部脇の石仏

 確かにキャンパスの南東隅、民家と接するところに覆い屋がありました。

 京大理学部脇の石仏

 20数体はあろうかという石仏群。
 前掛けをかけて丁寧にお祀りされていて、「追分町大日奉賛会」の文字が見えます。こちらでも大日如来として祀られているようでした。

 京大理学部脇の石仏

 京大理学部脇の石仏

 下の写真の右端は、五輪塔のようですね。こちらも前掛けを付けて祀られています。
 
 現場にお詣りに行って、少しほっとしました。
 
 私が行ったとき、近所の方でしょうか、2歳くらいの女の子を連れたお母さんが来ておられました。雨の日、ちょうど屋根があって、ここで遊んでおられたのかも知れません。
 なにかそんな風景も、心なごむ一コマであったのです。

 

 
 北白川西町道標(京都市登録文化財)、北白川阿弥陀如来坐像

 所在 京都市左京区北白川西町
 拝観 自由(路傍にあります)
 交通 市バス「北白川」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 岩井武俊編『京ところどころ』金尾文淵堂、1928年
 川勝政太郎『京都石造美術の研究』河原書店、1948年
 川勝政太郎『京都の石造美術』木耳社、1972年
 『京都市の文化財(記念物)』京都市文化観光局、1992年
 『新版日本近代建築総覧』技報堂出版、1980年
 江崎政忠編『皇陵巡拝案内記』皇陵巡拝会、1933年


やはり昔の史料は、いいものですね - 『豊公三百年祭図会』 -

京都本




『豊公三百年祭図会』


 古書、新聞を見る毎日…

 日々ニュースを見ていると、事件やトラブル、諍いなど、新聞種は尽きません。
 もちろん、それは現代に限ったことではなく、過去の社会でも常に耳目を集める話題に事欠きませんでした。
 過去の人々の営みをリアルに知りたいと思う私は、ここのところ時間を見付けて、明治、大正時代の古い新聞を閲覧しています。
 そこには、歴史の教科書にはない“生”の出来事があふれているのです。
 見ていて飽きないものですが、ちょっと頭が痛い(目が疲れるため?)のが難点でしょうか……


 豊国廟に関する雑誌

 ところで、豊臣秀吉を祀る豊国廟については、先日レポートしたところです。

 記事は、こちら! → <太閤さんの威光は健在、明治31年に整備された豊国廟は “女坂” の終点にある> <豊国廟に建設された五輪塔は、石段の上にある高さ10mの巨大石造物>

 その際には、『豊国会趣意書』から設計図などを紹介しました。

  『豊国会趣意書』

 そのレポートを書いている最中。
 近頃は、古書をインターネットで簡単に購入できるため、また関連資料を買ってしまいました。

  『豊公三百年祭図会』 『豊公三百年祭図会』

 雑誌「風俗画報」の臨時増刊、『豊公三百年祭図会』。明治31年(1898)5月刊。
 ほんとうに、いろんな出版物が出ていたんですね。

 『豊公三百年祭図会』

 口絵は、色刷りで豊国神社から阿弥陀ケ峰にある豊国廟までを克明に描いています。

 ページをめくると、豊国廟の修築や、三百年祭の模様などを、文と絵で紹介していきます。
 今回は、先日紹介した豊国廟の現状写真と比べる意味で、明治31年時点の廟所のイラストを取り上げてみましょう。
 
 『豊公三百年祭図会』

 豊国廟

 一の鳥居です。
 現在では、左側に道路、右側に新日吉神社の参道が出来たので、石垣がカットされていますね。
 神社の入口にふさわしい威厳のようなものが失われました。

 『豊公三百年祭図会』

 拝殿です。三百年祭の儀式をやっているところ。
 このあたりは現状も、ほとんど変わっていません。

 『豊公三百年祭図会』

 豊国廟

 唐門のある中腹の平坦地。
 廟所の完成当初は、樹木が少なく、山上の五輪塔の先まで見えています。


 阿弥陀ケ峰の頂は…

 そして、秀吉が眠る五輪塔。

 『豊公三百年祭図会』

 正面向かって左(北側)から描いた絵。
 いま、この角度から写真を撮ることは、引きがなくて難しいです。

 興味深いのは、本書に掲載された整備前の挿絵。

 『豊公三百年祭図会』

 「豊公 旧墳墓ノ図」。
 木柵で囲われた中に、石が転がっており、木が生えています。
 これを見れば、整備しようと思うのも、うなずけます。

 ちなみに、これとは別に当時の写真を見ると、簡単な鳥居も建っていたようです。

 「風俗画報」は、出版物にまだ写真が使えなかった明治中期に創刊され、石版画によって現場の雰囲気をリアルに再現した雑誌です。
 出来事では、祭りから博覧会、戦争まで、何でも取り上げる対象になりました。元祖グラフ雑誌として、興味深い史料ですね。




 書 名 『豊公三百年祭図会』(「風俗画報」臨時増刊 第164号)
 出版社 東陽堂
 刊行年 1898年