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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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歩行者天国に変貌した平安神宮前、かなりスッキリした印象に

洛東




岡崎公園


 博覧会跡地が岡崎公園になった

 京都の観光名所のひとつ、平安神宮。
 京都の神社仏閣の中では、約120年前に誕生した新しい神社ですが、誰もが一度は訪れるスポットですね。

 平安神宮
  平安神宮

 平安神宮のある一帯を岡崎公園と呼んでいます。
 京都会館、京都市勧業館(みやこめっせ)、京都府立図書館、京都市美術館、京都市動物園など文化施設も集中しています。
 このような特徴は、歴史的な過程の中で形成されてきました。もともと明治28年(1895)に開催された第四回内国勧業博覧会の会場がここに置かれたからです。博覧会の跡地利用で、このようになったのです。

 京都市美術館
  昭和3年(1928)に出来た京都市美術館


 神宮道が歩行者専用道に

 京都の人は、岡崎公園には必要のあるとき、必要のある施設に行く、というイメージでしょう。
 私なら、いつも行く府立図書館。古本市で毎春訪れる勧業館。たまに展覧会を見に行く京都市美術館と国立近代美術館。稀に入る京都会館。そして、時折り参拝する平安神宮と、ずっと行っていない動物園……

 とにかく図書館にはよく行くので、岡崎公園はまあまあ縁のある場所と言えます。

 その岡崎公園で、先日から道路工事が行われていました。

 岡崎公園
  工事中の神宮道(2015年5月撮影)

 平安神宮の楼門(応天門を復元したもの)前から南の交差点まで。通りで言えば、冷泉通から二条通まで。この間の神宮道が工事されていました。

 それが、2015年8月、このように変貌しました。

 岡崎公園
  工事の終わった神宮道(2015年8月下旬撮影)

 なんと、クルマを締め出して、歩行者専用道になったのです。
 南北の長さ121m、道幅は17m。
 オープニングセレモニーは9月1日ですが、もう歩けます。事業費は、3億7000万円だそうです。

 改修前の様子。
 図書館に行くときなどに、ちょこちょこ撮影していました。

 岡崎公園

 とにかく、路肩に停車しているクルマが多かったですね。
 まあ、市民は余り通る区間ではなかったので、歩行者専用にしてよかったと思います。

 岡崎公園

 南を見ると、大鳥居が望めます。
 西を向くと、公園も整備され、京都会館(ロームシアター京都)が見通せます。

 岡崎公園

 「市民しんぶん」9月1日号によると、この区間の愛称は“岡崎プロムナード”というそうです。

 やはりなるべく、クルマを使わず、歩いて楽しめる街がいいですね。


  京都府立図書館 京都府立図書館




 岡崎プロムナード (神宮道 冷泉通-二条通間)

 所在 京都市左京区岡崎最勝寺町
 通行 自由
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩約10分


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豊国廟に建設された五輪塔は、石段の上にある高さ10mの巨大石造物

洛東




豊国廟


 石段上にある廟所

 豊国廟を訪れた今回。
 太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広場まで到達し、拝殿をくぐって石段を登り始めます。

 豊国廟

 心地よいリズムで登れる石段は、おそらく西洋的な設計。
 しかし延々と続きます……

 やはり5分以上かかったでしょうか。
 ようやく平坦なところに至りました。

 豊国廟

 少し鬱蒼とした雰囲気。
 
 『京都名勝誌』より「太閤坦」
  『京都名勝誌』(1928年)

 昭和3年(1928)の同じ場所。廟所の整備30年後の様子です。
 樹木が少なく、見通しが開けています。画面中央には、さらに上へと続く石段が写っています。

 現在は、整備から約120年。感じが変わるのも無理はないです。

 写真の左右に、灯籠が建っています。

  豊国廟 平瀬露香寄進の石灯籠

 前回登場した、大阪の粋人・平瀬亀之助(露香)が奉納した石灯籠です。

  豊国廟

 背面に、「明治三十一年四月一日/平瀬亀之輔源春愛」とあります。
 頂部が取れていますが、ちょっとおしゃれな灯籠ですね。


 唐門も立派!

 この平坦地に唐門があります。

 豊国廟

 設計段階の図。唐門と築地塀です。

 豊国会趣意書
  『豊国会趣意書』

 豊国会趣意書  側面図

 現状は銅板葺ですが、当初は桧皮葺だったと言います。かなり落ち葉も積もっており、屋根の管理も大変なのでしょうね。

 豊国廟

 ところで、今回資料を見ていて気付いたことがありました。
 明治31年(1898)の廟所整備以前、この阿弥陀ケ峰に登って秀吉の墓所を参拝するには、山道を登って行ったのです。その山道は、廟所整備の後も残っていたらしく、唐門の脇から上に続いていたようです。
 『新撰京都名勝誌』(1915年)には、

 唐門より右方に間道あり、之[これ]より登るを、俗に女坂といふ。

 と記されています。
 お寺の参道などで、通常、急な方を男坂、緩い方を女坂と呼びます。男坂は石段のことが多いのですが、女坂は迂回する坂道だったりするのです。

 ここで、思ったのは……
 もしかすると、この豊国廟の旧・女坂が、京都女子大学前の現・女坂に受け継がれたのではないだろうか?
 直接の証拠はないのですが、なんだかそう思える「女坂」の登場でした。


 高さ10mの五輪塔

 門の向こうには、立ち塞がるような急階段が!

 豊国廟

 最後だから、と言い聞かせて登ります。
 秀吉の廟所は、標高196mの阿弥陀ケ峰の頂上にありました。

 豊国廟
  豊臣秀吉廟所

 今回、参道から石灯籠が数多くあったのですが、五輪塔の玉垣外の左右には、旧徳島藩・蜂須賀家(当時の当主は蜂須賀茂韶=もちあき)寄進のものがありました。こちらも立派ですね。

  豊国廟 蜂須賀茂韶寄進の石灯籠

 ちなみに玉垣内にある一対は、特定の人の奉納ではない位置付けらしく、氏名などは刻んでありません。

 豊国廟

 高さ10mあるという五輪塔。
 設計は、建築家・伊東忠太だそうです。

 豊国会趣意書 『豊国会趣意書』

 この山頂に、この巨大な五輪塔。
 なんだか秀吉らしい、という感想が湧いてきます。

 豊国廟
  背面より

 『新撰京都名勝誌』より「豊公墳墓」
  『新撰京都名勝誌』(1915年)

 竣工後17年くらいの姿。随分すっきりしています。

 周囲の玉垣など、造作も立派ですね。

 豊国廟

 江戸から明治、およそ280年にわたり荒れるに任せていた豊臣秀吉の墓所は、見事に生まれ変わったのでした。


 造営時の事件とは?
 
 と、ここで終わるはずの豊国廟のレポートでしたが、最後に少々つけたりを記しておきましょう。
 
 湯本文彦という人がいます。
 明治時代、京都で活躍した歴史研究者で、平安京の調査研究を行い、『平安通志』を編纂。平安京遷都千百年祭(1895年)というイベントにも深く関与しました。
 ちなみに、この千百年祭の際、平安宮の大極殿を復元して建設されたのが平安神宮です(拝殿が大極殿の縮小復元)。そして、その共同設計者の一人が、伊藤忠太。豊国廟の五輪塔の設計者でした。

 湯本文彦は、明治39年(1906)1月、「史学雑誌」に「豊太閤改葬始末」という報告を発表しました。
 これは、豊国会が行った豊国廟の整備に当たって起きた、ある事件について記したものです。

 湯本は、豊国廟が立派に整備されることは「千歳の快事」と評価します。しかし、その「墓標」が仏式(五輪塔)であることは、歴史的にも、また官幣社となっている現状からしても不都合なのではないかと述べています。つまり、廟の具体的設計には賛成できず、豊国会にも意見したのですが、計画は東京の方で決定されてしまいました。
 後日、伊藤忠太の設計書を見ると、大五輪塔がプランされていました。これは、重量が大きいために墓の中まで地固めをする必要がある、それは墓に鍬を入れることになり、「不敬に当る」と考えます。

 そんなことでヘソを曲げた湯本は、豊国会の委員会にも出席せず(どうらや委員になっていたようです)、修築工事は明治30年(1897)4月13日、起工式を迎えます。
 しばらく経った5月8日、醍醐寺で調査に当たっていた湯本は、京都府庁からの緊急連絡により、寺町二条・妙満寺内にあった豊国会の事務所に向かうよう指示されます。到着すると、すでに事務長以下、主だった人たちが会議をしていました。
 いったい何事かと問うと、「工事中、はからずも秀吉公の遺骸を発掘した。誠に恐惶の至りではあるが、慎重に改葬しないといけない。改葬するとなると、墓誌(埋葬者の事績などを記して、墓の中に入れる文章)が必要なので、その作文をしてほしい」ということでした。湯本は、たいへん驚いて、事情を聞きました。それによると……

 4月28日の夕方、墓の地固めを行うため土を掘ると、3尺(約90cm)ほど掘ったところで銅の針金で束ねた瓦がいくつも見つかった。見てみると、朱で経文を書いた瓦だった。
 その瓦を取りのけてみると、胞衣(えな)壺のような壺が2つ出てきた。その中には、骨灰のようなものが入っていた。
 その下には、平たい石があって、さらに掘ってみると、ひと抱えほどある壺が出てきた。掘った時に当たったのか、壊れた部分があった。内部には、掌を組んだ遺骸が西向きに足を組んで座っていた(または、うずくまっていた)。
 工事人は大いに驚き、豊国会事務所に報告した。

 このような次第でした。そのあとの混乱ぶりは言うに及びません。
 
 経文を書いた瓦は、どうやら秀吉の150年忌に妙法院宮堯延親王が供養したもののようでした。
 また、遺骸の入っていた壺は、高さ3尺弱の粗末な品で、へらで「ひねりつち」という文字が彫ってあったそうです。
 駆けつけた幹事らが壺を取り上げようとしたところ、遺骸はバラバラに砕けてしまいました。その骨片は、拾い集めて保管したと言います。

 この事態を聞いた湯本は、激怒しました。
 これまで何度も注意してきたが、今回の事故は請負人に任せ切りで監督者も置かず、ついに「(秀吉)公の遺骸暴露の惨事」に至ってしまった。“もし秀吉公の霊があったならば、墓の修繕を喜ばれるのか、それとも遺骸の暴露を恨まれるのか”。
 こう言った湯本ですが、しかし、悪意を持って行ったことではないので法の責めも免れるのではないか、正当な手続きによって改葬を行うべきだ、と述べています。

  豊国廟
 
 その後、墓の改葬が行われ、バラバラになった遺骨は絹に包んで桐箱に朱詰めし、それを銅の櫃(ひつ)に納めて、湯本が書いた墓誌(銅板製)を添え、それらをさらに石櫃に入れて、砕けた壺片や経文を書いた瓦などともに埋葬されました。
 湯本の墓誌には、この顛末も記載されています。改葬したのは、湯本によると「発掘」から2週間後の5月10日となっていますが、実際にはもっと後になったようです。

 のちに、湯本が歴史学者の三上参次から教えられたところによると、秀吉の墓はすでに元禄元年(1688)より少し前に盗掘されていたことが、公家の日記に記されていると言います(「野宮定基卿記」元禄元年11月1日条)。その際、おそらく副葬されていたであろう甲冑や太刀などは盗まれたと思われます。
 推測では、秀吉の遺骸は元は木棺に納められていたものが、盗掘時に例の壺に移し替えられたのではないかと考えられています。というのも、明治30年の「発掘」の際に、墓域に別の穴があってそこに木棺片が観察されたからでした。

 私は、この報告を何度読んでも、なかなか信じられませんでした。この通りだとすれば、慶長4年(1598)に亡くなった秀吉の遺骸は丁重に埋葬され、盗掘は受けたものの、形を保ったまま、明治時代になっても西方を向いて合掌し、座っていたわけです。
 明治30年の春の出来事について、このほかにも報告があるのでしょうか。なにやら謎のまま、眠っているようです。


  豊国廟




 豊国廟

 所在 京都市東山区今熊野北日吉町
 拝観 有料(大人100円ほか)
 交通 京阪電車「七条」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 『豊国会趣意書』若松雅太郎、1897年
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五冊』京都府、1923年
 湯本文彦「豊太閤改葬始末」1906年(「史学雑誌」17-1)
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 

太閤さんの威光は健在、明治31年に整備された豊国廟は “女坂” の終点にある

洛東




豊国廟


 明治時代に再建された豊国神社

 東山七条の界隈といえば、三十三間堂、智積院、京都国立博物館など、見所がたくさんあります。
 国立博物館の北側には、豊臣秀吉を祀った豊国神社が鎮座しています。

 豊国神社
  豊国神社 唐門(国宝)

 大阪では「ほうこく」神社と呼ぶのですが、京都では「とよくに」神社です。もっとも、通称は「ほうこくさん」。豊臣秀吉を祀った神社です。
 慶長3年(1598)に亡くなった秀吉は、翌年、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ケ峰(あみだがみね)に埋葬されます。そこは、秀吉が大仏を造立した方広寺の東に当たる場所でした。そして、「豊国大明神」という神さまとして祀られますが、それが豊国神社で、廟所の麓にありました。

 ところが、大坂の陣(1615年)で豊臣家が滅亡した後は、豊国神社は廃絶されることとなり、社殿は朽ちるに任せたと言います。徳川の時代、それも世の定めだったのでしょう。

 それから250年。時は明治となり、秀吉の祭祀が復活されます。
 明治元年(1868)、阿弥陀ケ峰の墓前を神祇官に祀らせ、明治6年(1873)には別格官幣社としています。その後、大仏殿の跡地に社殿が造営され、遷座します。明治13年(1880)のことでした。これが、いま私たちが参拝する豊国神社です。
 ちなみに、大阪の豊国神社は、その別社として創建されています。

 この豊国神社は、みなさんよく参拝されると思いますが、今回はその背後にそびえる阿弥陀ケ峰に登り、秀吉の廟所をお参りしたいと思います。


 豊国廟へ“女坂”を上る

 京都国立博物館の東側。
 東大路通から東に延びる坂道が、豊国廟への参道です。

 女坂

 この長い坂道は、通称「女坂」と呼ばれています。
 坂上に、京都女子大学(通称・京女=「きょうじょ」)や、同中学・高校などがあり、女学生の通学路となっているのです。この「女坂」の名称の由来については、また別に触れたいと思います。

 ちなみに、宗教系の大学が多い京都で、京都女子大学は仏教系、西本願寺の系統になります。

 女坂

 「豊国廟参道」と大書された、背の高い石標が建っています。これは明治34年(1901)に建立されたものです。
 ずっと坂を上って行くと、そびえ立つ鳥居が目に入り、道は左右に分かれます。

 豊国廟
  豊国廟 一の鳥居

 左に行くと豊国廟、右に行くと新日吉神社。
 江戸時代、荒廃した豊国廟は“封印”されていたため、その参道を塞ぐように新日吉神社が鎮座していたそうです。明治以降、右手(南)に遷りました。

 この鳥居が、豊国廟の一の鳥居です。明治31年(1898)に建てられたもの。
 この鳥居をくぐって進んでいくのが、明治後期以来の参拝路なのですね。


 豊国会による廟所の整備
 
 明治30年(1897)に発行された「豊国会趣意書」という小冊子があります。
 そこには、この鳥居の図が掲載されています。

  豊国会趣意書  「豊国会趣意書」より

 「壱之鳥居之図」「弐之鳥居之図」と書かれています。

 この豊国会、どのような団体だったのか?
 明治の初めに豊国神社は整備されたのですが、肝心の秀吉の墓所は手つかずのままでした。
 そこで、明治20年代になって、豊臣家の旧臣である黒田家、蜂須賀家、前田家、鍋島家など(当時は華族です)が集まって、整備団体を作ったのです。会長は、黒田家13代当主の黒田長成(ながしげ)でした。
 廟所整備の目標は、明治31年(1898)の完成。秀吉没後300年に当たり、三百年祭を行おうというわけです。

 この小冊子は、要はその寄付金集めのパンフレットです。
 そのため、建設予定の鳥居や社殿の完成予想図が掲載されているのでした。

  豊国会趣意書

 これは墓所に建てる五輪塔の図ですが、このように立面図と平面図が載せられていました。
 
 「豊国会趣意書」を読むと、設立の目的は、「本会は明治三十一年ヲ期シ京都阿弥陀峯豊太閤ノ墳墓ヲ修理シ之[これ]カ保存ノ道ヲ設ケ并[ならび]ニ同年ニ於テ三百年祭ヲ挙行スル」ためとなっています。

 募金額の目標は、17万円。そのうち12万円が、社殿などの建築費でした。
 当時の17万円というと、いまの5億円とか10億円くらいの感じでしょうか。
 ちなみに、昭和6年(1931)に復興した秀吉ゆかりの大阪城ですが、この際の募金で集まった金額は150万円でした。現在の感覚では30億円くらいですね。大阪あげてのビッグイベントでしたが、これを思うと、明治の豊国廟修理も気合の入った事業だったと分かります。
 会の趣旨に賛同した人には、侯爵や伯爵といった偉い人(例えば山県有朋、伊藤博文……)から始まり、東京、京都、大阪、名古屋の財界人、著名人が名を連ねています。
 

 石灯籠の数々

 参道には、各所に一対の石灯籠が建てられています。
 一の鳥居脇には、このような灯籠が。

  豊国廟

 こちらは京都米穀取引所の人たちが寄進したもの。明治31年(1898)4月建立。
 火袋には、豊臣の紋である桐紋が刻まれています。
 この次に現れる灯籠も、京都の株式取引所の関係者が奉納したもので、京都の経済界が協賛したことが分かります。

 さらに進むと、京都女子大学前に至ります。

 豊国廟

 ここには一際大きな石灯籠が建っています。

 豊国廟

 豊国廟

 奉納したのは、「大阪六遊廓」とあります。明治31年5月建立。
 裏を見ると……

 豊国廟

 新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部と、大阪の6つの花街の名が彫られています。側面には、個人名もあります。

 でも、なぜ花街なのか? という疑問がわきますね。

 知人に教えてもらったところによると、平瀬亀之助(号・露香)という人が関係しているのだそうです。
 この人物は、豊国会の名簿にも名前が入っています。幕末の大阪で両替商の当主として、明治以後は財界人として活躍したのですが、茶道、俳諧、和歌など多彩な趣味を持つ粋人でした。そのため、花街とのつながりも深かったのです。
 平瀬自身、この廟所整備の中で石灯籠を寄進していますが(のちほど出てきます)、大阪の花街にも薦めて、これを寄進してもらったというのです。
 なるほど、という話ですね。


 太閤坦に上る

 さらに坂は続き、いよいよ石段が見えてきました。

 豊国廟

 これを上ると……

 豊国廟

 二の鳥居があり、広々としたスペースが広がっています。
 ここが「太閤坦(たいこうだいら)」。
 いい名前ですねぇ!

 秀吉没後まもなく、豊国神社が築かれていた場所なのです。
 しかし今では、芝生の空き地やバスプールなどに変貌してしまいました。

 けれども、明治31年の整備では、ここにいくつかの建物が置かれています。
 二の鳥居、手水屋、拝殿、御供所、廟務所です。

 まず手水屋。

 豊国会趣意書 「豊国会趣意書」

 豊国廟

 趣意書の図面と同じで、感動。よく残っています。

 豊国廟
 
 蟇股(かえるまた)には、やはり桐紋が。

 豊国廟
 
 そして、この四角い端正な手水鉢なのですが、これが当初の豊国神社のものだと言われています。
 およそ400年前のものということですか。
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』(1923年)には、「今太閤坦廟務所ノ南方花崗岩ニ作レル高サ二尺六寸三分[約80cm]、巾四尺[約120cm]、長六尺五分[約2m]ノ巨大ナル長方形ヲナセル手水鉢アリ、伝フル所ニヨレバモト豊国廟ニアリシモノニテ近時妙法院ヨリ移サレタリト云フ」(30ページ)とあります。
 北野天満宮の手水鉢を模したものと言われ、かつては「石船」とも称されていたようです。

 手水屋の左手(北)には……

 豊国廟

 植え込みに隠れがちなのですが、廟務所(社務所のようなもの、左)と、御供所(お供えを調えるところ、右)があります。

 豊国廟
  御供所

 豊国会趣意書

 御供所は、図面では妻入りですけれど、実際には平入りになったようです。


 拝殿から、さらに…

 この先に進むと、拝殿が見えてきます。

 『新撰京都名勝誌』より「太閤坦」
  『新撰京都名勝誌』より「太閤坦」

 こちらは、100年前の『新撰京都名勝誌』(1915年)に載せられた太閤坦の写真。
 奥の建物が拝殿です。
 手前の左右に銅か鉄の灯籠が写っていますが、これは今はなかったような。おそらく戦時中に供出で失われたのでしょう。

 豊国廟

 現在の拝殿。

 豊国会趣意書

 「趣意書」では、舞殿のような形で、床を張った建物です。しかし実際には、床はなく、門のように通り抜ける形の平入りの拝殿になりました。

 現在では、この拝殿の手前で拝観料(100円)を払って、廟に参拝します。

 拝殿を抜けると……

  豊国廟

 木陰で暗いのですが、切り立った石段が続いています。

 下りてくる人も、一人、二人……
 勇気を奮って、登ってみましょう。


 (この項、つづく)




 豊国廟

 所在 京都市東山区今熊野北日吉町
 拝観 有料(大人100円ほか)
 交通 京阪電車「七条」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 『豊国会趣意書』若松雅太郎、1897年
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告 第五冊』京都府、1923年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年


研究成果が俯瞰できる“最前線”シリーズ - 『秀吉研究の最前線』 -

京都本




  『秀吉研究の最前線』  『秀吉研究の最前線』(洋泉社)


 戦国ものも多い洋泉社の歴史新書y

 京都の街を歩き、史跡をめぐっていると、さまざまな歴史事象に出会います。
 当然、自分が全く知らない事柄も多く、そのたびに新しい知識を身に着けるように努めています。

 インターネット時代ですが、やはり単行本や論文は情報の豊かさ、正確さで秀でています。
 また、新書は未知のジャンルへの入門書として、たいへん重宝するものです。

 今回紹介するのは、洋泉社・歴史新書y の新刊、日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』。副題は、“ここまでわかった「天下人」の実像”。

 洋泉社の歴史新書には、ただの歴史新書と歴史新書y があって、どう違うのかいまひとつ把握していません。知っているのは、y はカバーが薄緑色だということくらいです(笑)
 書店では、あまり置かれていないのか、見付けるのに苦労するし、既刊本でも棚にないものが多いのです。まあ、インターネットで注文してね、ということでしょうか。

 この新書は、戦国時代が中心のようです。『長篠の戦い』『桶狭間の戦い』『本能寺の変』『戦国武将と男色』『伊達政宗の戦闘部隊』……
 シリーズの過半が戦国ものです。

 日本史では、古代史、戦国時代、幕末維新が人気の時代なので、こういうテーマ選びも喜ぶ方が多いでしょう。


 要領よくまとめられた“最前線”シリーズ
 
 私は、戦国時代には余り感心がなかったのです。
 ところが、京都を歩いていると、必ず豊臣秀吉の事績にぶつかるし、本能寺の変も大きな話題なので、織田信長、明智光秀が登場してきます。
 特に、現在の京都の町の基盤は、秀吉の都市改造によって作られたとも言えるので、秀吉はとても重要な人物です。以前、テレビの収録で高島礼子さんとご一緒したとき、高島さんが、どこへ行っても秀吉が出て来る、と驚いておられました。そのくらい、京都と秀吉の関係は深いのです。

 そのため、『秀吉研究の最前線』(2015年8月刊)は、とても有益な書物といえるでしょう。
 本書は、若手研究者らによる“最前線”シリーズの2冊目。第1冊は、『信長研究の最前線』でした(2014年10月刊)。

 『秀吉研究の最前線』は、次の5部から構成されています。

  第1部 政治権力者としての実像とは
  第2部 誰もが知っている秀吉が命じた政策
  第3部 秀吉の宗教・文化政策の実像
  第4部 秀吉の人生で気になる三つのポイント

 
 この4部に、16の項目が配されています。

  方広寺石垣 方広寺石垣

 本書は、京都と秀吉をテーマにしたものではないので、直接京都に関する事項(例えば御土居、天正の地割など)は、余り取り上げられていません。また、文献史学による成果が中心なので、近年、考古学的な成果が目覚ましい聚楽第や伏見城も登場しません。
 京都関係の主なものは、方広寺の大仏と北野大茶会くらいでしょうか(「秀吉は、なぜ京都東山に大仏を造立したのか」、「秀吉の人生にとって「茶の湯」とは何だったのか」)。

 もちろん、京都々々と言うのはないものねだりというもの。
 「刀狩」「太閤検地」「五大老・五奉行」「朝鮮出兵」といった誰でも聞いたことがある事項について、現在の研究成果がコンパクトに分かるのは、たいへん有り難いですね。
 『信長研究の最前線』とあわせて、ぜひ一読してみたい新書です。




 書 名 『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』
 編 者 日本史史料研究会
 出版社 洋泉社(歴史新書y 55)
 刊行年 2015年8月



大谷本廟に架かる円通橋、その脇でかつて売られていた意外な名物とは?

洛東




大谷本廟円通橋


 西大谷と東大谷

 京都で本願寺といえば、西本願寺と東本願寺。
 宗祖・親鸞上人を祀る墓所も、それぞれ別の場所にあります。

 西本願寺(浄土真宗本願寺派)は、東山五条の地、つまり清水寺から下ってきたところにある大谷本廟。通称「西大谷」です。
 東本願寺(真宗大谷派)は、八坂神社や円山公園の南側にある大谷祖廟。通称「東大谷」です。
 通称を見ると、東西に並んでいるのかと勘違いしますが、実際は、東大路に沿って北の方にあるのが東大谷、南にあるのが西大谷。ややこしいのですが、西本願寺=西大谷(大谷本廟)、東本願寺=東大谷(大谷祖廟)という理解ですね。

 いずれも、門徒さんの広大な墓地が付随していて、お彼岸やお盆には参詣者が絶えません。殊に、地方の門徒さんが団体で参拝されることが多いのも特徴です。


 西大谷の入口に架かる橋

 大谷本廟
  大谷本廟

 西大谷(大谷本廟)です。
 東大路に面しています。このあたりは清水寺への上り口だけに、いつも観光客でにぎわっています。

 参拝のために必ず渡るのが、この橋です。

 大谷本廟円通橋
  円通橋

 円通橋。
 皓月池(こうげつち)という池に架けられた石橋です。
 池は蓮池なので、欄干に寄りかかって下を眺める参拝者が多いところ。見頃は、6月下旬から7月といったところでしょう。

 「新撰京都名勝誌」より「西大谷」
  「新撰京都名勝誌」(1915)より

 百年前の円通橋。
 驚くほど今と変わっていないですね。

 この石橋、見たところ幅1間(約1.8m)ほどの敷石が3枚敷かれているので、3間くらいの幅員に見えます(実際は約6mだそうです)。
 目立つのは、高欄。

 大谷本廟円通橋

 大谷本廟円通橋

 ねぎ坊主のように突き出したところは、逆蓮柱。ハスを逆さにした意匠なので、逆蓮(さかばす、ぎゃくれん)と言われます。

  大谷本廟円通橋

 横方向への反り返りが場合によってさまざまですが、こちらのものは反り返りもほとんどなく、端正な意匠です。
 上部の形は擬宝珠(ぎぼし)なので、逆蓮+擬宝珠という体裁なのでしょう。

  興正寺経蔵 興正寺経蔵

 ちなみに、こちらは興正寺経蔵の逆蓮柱。
 反り返りが少々ありますね。 

 大谷本廟円通橋

 鉾木(ほこぎ。上の丸い棒)を支える握蓮(にぎりばす)。一見、雲形に見えますが、これもまた蓮を意匠化したもの。上の丸棒を握って支えるものですが、石なので板状になっています。

 南禅寺三門 南禅寺三門

 南禅寺の三門にある握蓮。
 木を彫っているので、リアルな造形。ハスだとよく分かります。

 次は、格狭間(こうざま)。眼象(げんじょう)という言い方もあります。

 大谷本廟円通橋

 石をくり抜いていて、向こうの景色が見えます。

 こんなふうに、見所が多い橋ですね。


 幕末に完成、名所図会にも紹介される

 この円通橋、竣工したのは安政3年(1856)のことだそうです。
 当時、親鸞上人の六百回大遠忌にあたり、門前の庭園などが整備されたそうです。そのとき、皓月池が掘られ、円通橋が架けられました。六百回遠忌は、文久元年(1861)のことなので、先立つ5年ほど前に改修を行ったことになります。

 その頃の様子が、「花洛名勝図会」(1864)に紹介されています。

 「花洛名勝図会」より大谷本廟
  「花洛名勝図会」より「大谷」

 唐門(左ページの上)の前に、南北に長い池が造られ、そこに円形の2つのアーチを持つ石橋が架けられました。長さは、40mほど。

 「花洛名勝図会」より大谷本廟

 京都の人には珍しかった石のアーチ橋の誕生でした。
 図を載せた「花洛名勝図会」には、当時の様子が詳しく紹介されています。

 もともと、この本廟は老樹が鬱蒼とし、建物が林立していたがと述べたあと、近年の造成に触れます。

 頃年ますます開造成て、唐門の前面なる谷を填[うず]めて池を作り、中央には奇巧を尽せし石橋を畳みわたせり。しかのミならず、池辺の桜樹ハ芳野山より移し植られ、柳ハ西湖の種なりとそ。三春にわたりて其ながめいはんかたなし。殊に夏日池中の芙蓉ハ翠蓋水を掩[おふ]ひ、清香欄を撲[うつ]て馨[かんば]しく、傍の飛泉[たき]ハ音羽の流れをひく。

 近頃、さらに庭の造成を進めて、谷を埋めて池を造り、奇巧をこらした石橋を架けた。
 池のほとりの桜は大和・吉野山より移植し、柳は中国・西湖の柳の種だという。
 眺めは素晴らしいが、特に夏、池に咲くハスは水面を覆って、芳しい香りがする。滝は、音羽川の流れを引いている。

 この庭がいかに素晴らしいか、言葉を並べて讃嘆しています。
 そして、東山の新名所となったこの庭は、浄土真宗の繁栄を物語るとし、門徒のみならず、都の人々が集って茶店で憩いながら景色を眺めると述べています。


 アーチは「めがね橋」と呼ばれた

 また、次のようにも書かれています。

 此橋、靉靆[めがね]の形に似たれハ、俗に目がね橋とも称せり。石工巧[たくみ]を尽す。
 
 そのアーチの形から、眼鏡橋と呼ばれたのでした。
 もちろん、この呼び名は、日本ではアーチ橋によく付けられる呼称ですね。

 では、いま幕末と同じように眼鏡橋を見ると、どうなるのか?
 絵と似た角度から。

 大谷本廟円通橋

 北から見てみると、樹木が邪魔でほとんど見えません。
 今度は、西側(東大路側)に回ってみます。

 大谷本廟円通橋

 これは絵に近い!
 下部が植え込みで見えませんけれど、眼鏡橋と言える雰囲気です。

 続いて、南側へ。

 大谷本廟円通橋

 かなりアップで見られます。
 池には、たくさんのハスも繁茂していますね。

 大谷本廟円通橋

 「花洛名勝図会」より大谷本廟

 この蓮池、橋の南側には「紅蓮」が、北には「白蓮」が咲いていたことが、図会の書き込みから分かります。
 いまでは一種類だけのようですが。

 また、池の北東には、洗心滝があって、音羽川の水がここから池に注ぎ込んでいたのでしょう。
 
 「花洛名勝図会」より大谷本廟

 いまでは、はっきりとは分かりません。

 大谷本廟円通橋


 茶店の名物は?

 池の北辺は、竹垣で区切られており、逍遥路のように歩けるところがありました。
 茶店もあって、床几(縁台)が置かれています。みんな、ここで茶を飲んで、眼鏡橋の奇景をめでたのでしょう。

 「花洛名勝図会」より大谷本廟

 茶店のアップ。
 店名は、その形からか「三角楼」。
 そして、横には名物の名前が記されています。

  「目がねせんべい」
  「目がね餅」


 なんという名物なのでしょう!

 眼鏡せんべいと眼鏡餅とは……

 いったい、どんな菓子だったのか?
 眼鏡のように、丸いせんべいや餅を2つくっつけたものだったのか。
 あるいは、ドーナツ状に穴が開いた形だったのか。

 想像力の乏しい私には、いまひとつリアルな姿が思い浮かばないのでした。

 現在、そのあたりは小さな商店の裏側になっています。
 ソフトクリームは売っていても、めがね橋の菓子を扱っているはずもありません。

 大谷本廟脇の商店

 橋を見たあと、本廟に参拝しました。
 お盆の翌週でしたが、地方からでしょうか、門徒さんが団体で参拝されています。

 集合写真を撮るとき、セルフタイマーがうまく使えず、私にシャッターを切ってくれるよう頼まれました。
 2カットほど撮影して、カメラを返すと、みなさんから御礼の言葉を掛けられました。

 最後に、引率のお坊さんが、「ひとつ功徳を積まれましたね」とおっしゃったのが、なんともこの場所らしく、微笑みながら本廟を後にしたのでした。


  大谷本廟




 大谷本廟 円通橋

 所在 京都市東山区五条橋東
 拝観 自由
 交通 京阪電車「清水五条」下車、徒歩約15分 



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年


【大学の窓】退職記念に論文を

大学の窓




論文


 投稿の依頼

 お盆休みも最終日。通勤時間帯は、電車も道路も空いていますね。
 私は、今日も出勤です。

 今ひとつ頭を悩ませていることがあります。

 先日、母校の先生(たぶん准教授)になっている人から丁重な手紙が届きました。封を切って文面を読むと、私の恩師が来年3月に定年退職になるので、大学の雑誌に論文を投稿してほしいという依頼なのです。
 実は、この話、少し前に当の恩師から軽く聞いてはいたのです。
 ところが、少々戸惑ったのは、その締切りが4か月後ということでした。

 自分の予定として、今年は職場の研究紀要に簡単な論考を書くことにしていました。
 その締切りが、10月末。

 その1か月後が期限……
 ふたつ並行して書くのか?

 このお盆、私の頭を最も悩ませているのが、このことでした。


 何について書く?

 依頼の手紙をもらってから、あっという間に2週間が過ぎ、「何を書こう?」という5文字が頭の中をグルグル回り始めました。
 研究者の中には、論文のテーマなんて一杯ある、という人も多いようです。常日頃からテーマをたくさん温めていて、機会があれば書くわけです。

 ところが、私はそういうタイプでもありません。
 どちらかというと、テーマ探しに手間がかかるタイプ。ちょっと構えてしまうタチなのかも知れません。

 それでも、考えていくと、1つ2つのテーマはありそうな気もします。
 しかし、今すぐに「見通し」が付かないのです。

 見通しとは、これからそのテーマをさらに調べて行って、“ゴール”までたどり着けるかということ。
 もし途中で道を失ったら、あと4か月しかないのですから、たぶんアウトでしょう。

 そのことが、妙な緊張感をもたらします。


 このテーマで書ける、かも…

 ということで、ここまで書いてから、小一時間が経過しました(笑)

 何を書くか、考えていた!

 これまでのメモを見直してみると、確かに1、2、これならどうかなぁ、というテーマがあったのです。
 例えば、こういうものを使って。

 「花洛名勝図会」より大文字送り火
  「花洛名勝図会」より「大文字送火」

 いつも登場する名所図会の類。
 
 名所図会というと、どうしても俯瞰図で描かれた景観に注目しがちです。
 ところが、そこには大勢の庶民が描かれていますね。

 「花洛名勝図会」より大文字送り火

 大文字の夜、鴨川の川辺にしゃがんでいる人たち。
 いったい何をやっているのか?
 
 よく見ると、火を燃やしています。
 そして、たぶん蓮の葉だと思うのですが、その上に火を灯して流しているのが分かるでしょう(画面右下)。
 灯籠流しのような感じです。
 
 大文字は、今では、五山に火を灯してそれを眺める行事のようになっています。
 ところが、江戸時代の人々は、お盆の終わりに河原で火を焚いて、また流して、あの世へ帰って行く先祖を送っていたのです。まさに「送り火」ですね。

 こんなふうに、改めて名所図会の絵を見詰めていくと、これまで見落としていた庶民の姿と心が浮かび上ってくるのではないだろうか? そう思えてきたのです。

 これはもう、論文のテーマというより、絵を読み解きながら往時の人々の心に寄り添っていく試みなのかも知れません。

 うまくいくかどうか、しばらくやってみることにしましょう。


  船形



ご愛読ありがとうございます! - ブログ3周年 -

その他




比叡山


 360本の記事をアップ

 お盆ですね。
 暦の上では “秋” ですが、まだまだ暑い日が続きます。いかがお過ごしでしょうか。

 私は、お盆期間中も、毎日出勤 !!
 まぁ、電車は空いており、職場は冷房も効いていて、案外快適なものです (笑)

 そして、この ≪ 京都発!ふらっとトラベル研究所 ≫ も、おかげさまで3周年を迎えました!
 これもひとえに、いつもご愛読くださるみなさんのおかげです。改めて御礼申し上げます。

 3年間に書いてきた記事は、360本。
 3日に1度書いているわけですから、3年続けると「1年365日」と同じような数字になるわけですね。

 過去の記事は、画面右上の “ARCHIVE” のタブをクリックするとリストが出てきます。ぜひご覧ください!


 “すべては、つながっている” 

 このブログを書くことで、興味関心の幅が広がり、また大いに勉強させられ、有益な日々が続いています。
 そして副産物なのですが、テレビや新聞・雑誌といったメディアから取材を受ける機会も増えてきました。

 特に、正月と3月に放送された NHK 「ブラタモリ 京都」 は、多くの方にご覧いただき、好評でした。タモリさんと歩いた新京極を、町歩きツアーにしていただき、大勢の方と歩いたことも。

 私自身は、生まれ育った京都を多くの方に伝える機会を頂戴し、大変うれしく思っています。もちろん、自分の力不足はそのたびに痛感! ますます勉強しなければ、と身が引き締まります。

  錦天満宮鳥居 新京極・錦天満宮

 最近よく思うことは、過去の出来事は、現在とも必ずつながっているし、あるジャンルで起こったことは、別のジャンルとも関係している、ということです。

 世の中の出来事は、当たり前ですが、すべてつながっている、ということ。

 100年前に起こったことが、今日の社会に影を落としていたり。
 欧州やアフリカの状況が、日本に影響を及ぼしたり。
 ある企業の仕事が、個人の人生を大きく変化させたり。

 つい、分野とか領域とかに区切って考えがちな私たちに対し、現実はすべてが切れ目ないんだよ、と教えてくれます。

 このように捉えると、学問上の「専門」についても、少し立ち止まって考えるようになります。
 ある出来事を深く知るためには、当然、専門分化して研究することが必要です。けれども、専門のことしか知らなければ、その研究の意義を社会や歴史の中に位置づけることができないでしょう。

 かつて高等教育では、「専門」と同時に「教養」が強調されていました。そのことが、奥深く、滋味のある専門的研究を支えていたのだと思います。
 今日、ともすれば教養の意味が忘れられ、またそれと関連する文系学問の価値が軽んじられる傾向もあります。

 ひとことで言えば、学問の世界も随分せちがらくなってきて、性急に成果を求められ、分かりやすい結果を要求されることも増えてきたのですね。

 そんな中で、私がいつも考えることは、学問と社会との接点はどうあるべきか、ということ。
 むずかしい課題なのですが、いつも世の中と接しながら、世の中に即して物事を考え、発信していきたい、そんな思いです。

 ≪ 京都発!ふらっとトラベル研究所 ≫、4年目に向けてスタートします。
 ますますのご愛読をお願い申し上げます。

 
 百日紅 鴨川畔の百日紅



吉田神社の境内には、奈良・長谷寺の観音さまを写した“新”長谷寺があった - けれど、いったいどこに? ー

洛東




新長谷寺跡


 幕末の名所図会を見ると…

 神楽岡にある吉田神社。
 前回、明治時代に大元宮の周辺で大きな造成が行われた話を紹介しました。

 今回は、まずこの絵から!

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」
  「花洛名勝図会」

 幕末の元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」。
 吉田神社を取り上げた部分の「其(その)二」として、「春日社/新長谷寺」を描いています。

 春日社は、画面左上隅にあります。前回紹介した吉田神社の本宮ですね。右隣には、摂社の若宮社もあります。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」
  左端に「春日」とあり、4つの社が並んでいる

 吉田神社
  現在の本宮

 こちらについては、問題はないのです。

 問題なのは、もうひとつの「新長谷寺」。
 画面左下に描かれています。
 拡大してみましょう。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」

 ゆるい上り坂の参道があり、その左手に「新長谷寺」と書いてあります。右には、「神海霊社」という小さな社も画かれていますね。

 最初の全体図では、春日社の下に描かれているのですが、霞(かすみ)が掛かっているので、詳しい位置関係は分かりません。
 今回、私が探ってみたいと思ったのは、この新長谷寺の場所。吉田神社を創建した藤原山蔭が、奈良・長谷寺の十一面観音に感得して、模刻像を安置した寺だといいます。

 いったい、どこにあったのでしょうか?


 今はなくなった新長谷寺

 吉田神社境内図
  境内図

 吉田神社へ行くには、東一条の交差点から、京都大学正門前を通って行きます。
 大きな鳥居があり、砂利が敷かれた参道を歩いて境内へ。これが上図の「表参道」です。
 手水舎の先に石段があって、それを上ると、左に本宮(先ほどの春日社)があります。
 また、右(南)のエリアには大元宮が鎮座。
 本宮と大元宮は、山道で結ばれており、途中に菓祖神社や山蔭神社といった戦後鎮座した小祠があります。

 だいたいこんな配置が、現在の吉田神社。

 もちろん、新長谷寺というお寺はありません。

 もうお分かりかも知れません。神社の歴史では、明治維新後の廃仏毀釈で、境内にあったお寺的な要素(神宮寺など)は、取り払われてしまいました。

 廃仏毀釈とは、

 明治初年の仏教廃止運動。神仏分離令をきっかけに、旧弊打破と王政復古による神祇崇拝の風潮とがからみあって廃仏運動がおこり、寺院・仏像の多くが焼棄または売却された。
 
 というもの。なんとなく愛用している『年表式日本史小事典』には、こう説明されています。
 「神仏分離」という言葉の通り、もともと一緒にあった神社とお寺を別々にしたわけですね。例えば、神社の境内にあったお寺は廃止になるし、仏具を使ってはダメだし、神社にいた僧侶(というのが今では斬新ですが…)も還俗して神職になったのです。

 私は、このようなドラスチックな文化の変更はよくないと思うのですが、明治維新のときには、国策的にこんなふうにやってしまったわけです。


 跡地を探して…

 新長谷寺は、どこにあったのか?

 まず、京大前からの表参道ですが、急な石段は名所図会とズレを感じさせます。
 左手にある末社なども、一致しません。

 ということは、まったく別の場所になるはず。
 大元宮のある南エリアを探してみました。

 すると、大元宮から西へ下る坂道があったのです。

 新長谷寺跡

 なんとなく、あやしい……

 よく見ると、奥の方に小さな鳥居が見えます。
 
 神海霊社

 林と民家の間に、草にうずもれるようにして神社が……

 神海霊社

 望遠レンズで拡大して見ると、どうやら額には「神海霊社」と書いてあるようです。

 これこそ、新長谷寺の右横にあった神海霊社です!

 これで答えは出たようなもの。
 左側の民家が建っているあたりが、かつて新長谷寺のあった場所になりそうです。


 残っていた痕跡

 坂を下りながら観察していくと、ありました、石垣です!

 新長谷寺跡

 結構きっちり積まれているし、時代も感じさせます。最近のものではありませんね。

 新長谷寺跡

 坂道の脇に延々と続いています。
 雰囲気的には、門跡寺院にあるような立派な石垣です。

 そして、ようやく気づきました。ここがどこなのかを。

 新長谷寺跡

 吉田神社の南参道なのでした。

 今では余り参拝者が通らない参道。ここが幕末の名所図会に描かれた場所だったのです。
 上の写真の左側に、新長谷寺が建っていました。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」

 今いるのは、この場所。
 中央の大きな石灯籠は今でも残っています。絵では鳥居はありません。現在の鳥居はコンクリート製の新しいものでした。

 一対の灯籠。

  吉田神社石灯籠 南参道の石灯籠(南側のもの)

  吉田神社石灯籠 吉田神社石灯籠

 南北に一対、並んで立っています。
 南(右)のものが古くて、天保8年(1837)のもの。北側は、嘉永2年(1849)です。どちらも酉(とり)年の建立ですので、12年離れています。願主は「多那瀬氏」とあり、石工は「白川石工/井筒屋□□衛門」と刻まれています。

 写真と絵を見比べると、基壇が3段あるところとか、灯籠の底部に格狭間があるところとか、絵が写実的なのがよく分かります。

 この石灯籠の左手が、石垣の角になります。

 新長谷寺跡

 立派なものです。
 さらに、鳥居前の段などもあって、

 新長谷寺跡

 新長谷寺跡

 端の方などには、古風な雰囲気がうかがえます。


 地元の方に聞いてみた

 こんなふうに、あたりを観察していると、この石垣の上に住んでいる方が偶然出てこられました。
 
 思い切って、「こちらは、昔“新長谷寺”があったところでしょうか?」と尋ねてみました。

 すると、なんなく、そうですという返事。
 詳しく聞いていくと、かつて長谷寺があった場所は、のち民家が建っていたが、30年ほど前に分割され、現在では2軒の家が建っているといいます。
 もともと石垣に上がる道(つまり昔の新長谷寺の石段)は、西隣の学生アパートの道になるそうです。

 新長谷寺跡
  新長谷寺跡
 
 石灯籠の左に個人宅の門扉があり、その左の段々が昔の参道のようです。
 試みに上がってみると、学生アパートが数棟あって、行き止まりでした。

 もう一度、「花洛名勝図会」の絵を見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より「春日社・新長谷寺」

 石垣、石段、石灯籠、新長谷寺への入口。
 なかなか、古い状態がよく残っています。

 また、画面左下端の土塀(武士がお辞儀し合っている上)も、そのまま残っているようです。

 新長谷寺跡

 ちなみに、この土塀の西方には、吉田神社の神官を務めた鈴鹿家の社家が続いていました。今でも、その姓の家が多く、重森美玲庭園美術館はその一邸です。

 こんな具合に、廃仏毀釈前の幕末には、南参道にお寺や末社が並び、大元宮などへの参拝に通ったのです。
 今となっては、時代の隔たりを感じさせます。

 ちなみに、この新長谷寺のあったところは、藤原山蔭の邸のあった場所とも伝えられています。

 ということで、お話は終わりといきたいところですが、もうひとつ疑問が残っていますね。
 廃仏毀釈で吉田神社から追われた新長谷寺は、その後どこへ行ったのか?

 しっかり今でも残っています!

 真如堂・新長谷寺

 真如堂・新長谷寺
  移転した現在の新長谷寺

 小さなお堂ながら、新長谷寺は残っていました。
 同じ神楽岡にある真如堂(真正極楽寺)。その山内にあったのです(本堂北西側)。
 いま洛陽三十三所観音の霊場となっています。

 考えてみれば、吉田神社と真如堂は、直線距離にして500mほどしか離れていません。
 移築するにも好都合だったのでしょう。
 真如堂の新長谷寺、あえていうなら“新・新長谷寺”といったところでしょうか。

 藤原山蔭が、奈良・長谷寺の観音に感得し、観音像を造立した話も興味深いのですが、余りに長くなりますので、またの機会に譲りましょう。




 新長谷寺跡

 所在 京都市左京区吉田神楽岡町
 見学 外観自由(石垣上は個人宅のため不可)
 交通 市バス「京大正門前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「京都坊目誌」(『新修京都叢書』所収)
 芳賀幸四郎監修『年表式日本史小事典』文英堂、1988年


神楽岡・吉田神社には、かつて楼門と反橋があったらしい - その痕跡を探ってみた -

洛東




吉田神社


 山蔭卿が勧請した吉田神社

 京都の鴨東、神楽岡にある吉田神社。
 京都大学の東にあります。

 吉田神社といえば、節分で有名。
 歴史をたどると、平安時代、藤原山蔭(やまかげ)という公卿が、奈良の春日神を勧請してはじまった神社です。

 吉田神社
  吉田神社 本殿

 春日さんだけに、神鹿の像も。
 かつては境内で鹿を飼っており、その代りだとか。

 吉田神社

 下がり藤紋
 
 そして、藤原山蔭が創始しただけに、神紋も藤原氏のフジにちなむ下がり藤ですね。
 戦後になると、山蔭卿を祀る山蔭神社も境内に創られました(昭和32年)。

 山蔭神社
  山蔭神社
 

 全国の神々を祀った大元宮

 ところで、吉田神社が春日さんを勧請したものというと、おや? と思われる方も多いでしょう。
 
 というのも、全国の八百万の神を祀った大元宮(だいげんぐう)が有名だからです。

 吉田神社
  斎場所大元宮(重要文化財)

 八角形をした独特の本殿は、重要文化財に指定されています。
 現在では、吉田神社の末社という位置づけだそうです。

 もちろん、江戸時代から著名で、名所図会の類にも登場します。
 今回は、幕末に出された「花洛名勝図会」(1864年)の挿図を見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より「神楽岡斎場所」
  「花洛名勝図会」より「神楽岡斎場所」

 画面の左端に大元宮があります。
 また、中央右の方には、楼門が見えますね。右端には、何軒かの茶屋も見られます。


 大きく変わった風景

 吉田神社
  現在の大元宮付近

 大元宮を南から見た風景です。
 アスファルト舗装の左右に石灯籠があり、杭列の向こうには砂利を敷いた広場があります。
 その先には鳥居があり、一番奥に中門が見えています。この門内に大元宮が鎮座しています。

 先ほどの絵にあった楼門は、どこにも見当たらないのですが……

 「花洛名勝図会」より「神楽岡斎場所」

 拡大図です。
 赤丸で囲った石灯籠。写真の一対の灯籠と同じなのではないでしょうか。

 ということは、いま砂利が敷かれている鳥居前広場に、重層の立派な楼門が建っていたことになります。
 しかし、今は、まったくその痕跡は残っていないようでした。


 深い谷と反橋

 「花洛名勝図会」より「神楽岡斎場所」

 楼門から中へ入ったところです。

 左から右へと谷があり、石垣が築かれています。そして反橋(太鼓橋)が架かっているのが分かります。
 橋の手前にも、一対の石灯籠があります。また、杉らしき木の前に手水舎が見られます。
 実は、これらは今も残っているのです。

 吉田神社

 鳥居の真ん前にある灯籠。これが描かれているものです。
 名所図会が写実的に石灯籠を画いているのが、よく分かります。
 灯籠の裏側を見ると、正徳元年(1711)という年紀が刻まれています。

 吉田神社

 こちらは、井戸(左)と手水鉢。
 名所図会に描かれているもので、手水鉢には天和元年(1681)とあります。なかなか古いものですね。

 この本殿側に谷と石垣があり、反橋が架かっていたわけです。


 石垣を探る!

 「花洛名勝図会」より「神楽岡斎場所」

 江戸時代、大元宮のあたりには、上の図のように大きな谷がありました。水はなく、空堀風です。
 大元宮の側には、城のような石垣が築かれています。

 吉田神社

 石垣を横から見た写真。右端に手水鉢が写っています。
 南から北へ、石垣が続いています。

 そうなのです。
 現在では、谷は埋められ、反橋は撤去され、鳥居が建てられたのでした。

 言葉を変えると、近代になって、この一帯で大規模な造成工事が行われ、谷が埋められたのです。

 吉田神社

 北側から見たところ。左に石垣が続いています。

 ここで私が、考えたのは……

 “古い石垣と新い石垣の継ぎ目があるはず”

 ということでした。

 造成工事をして谷を埋めたのですから、そのあと新しい石垣を築造したはずです。それは、古い石垣と接続され、そこに継ぎ目が出来るはずなのです。

 吉田神社

 谷があったと思われるあたり。
 おそらく、この桜の木の向こうに、継ぎ目が……

 草を掻き分け、石垣に近付いてみると。

  吉田神社

 ありました! 
 この部分。
 写真中央に、やや斜めにタテの線が見えるでしょう。これが新旧の継ぎ目です。

 吉田神社 古い石垣
 
 吉田神社 新しい石垣

 積み方も違います。新しい方が、ややざっくりとした積み方ですね。

 石垣の上、つまり中門前に建って継ぎ目の位置を確認してみました。

 吉田神社

 およそ、このラインのところに石垣があり、その手前が谷になっていたのです。
 
 いや~、社殿前ではまったく分からなかった痕跡が、石垣だけに残っていたのですね。なんだか奥深いです。

 では、これらの改変は、いつ行われたのか?
 吉田神社では、他の神社と同様に、明治初期、廃仏毀釈の影響を受けています。おそらくその中で、境内のさまざまな要素に手が加えられたらしいのです。

 「京都坊目誌」には、大元宮の項に、「元楼門、反橋あり。明治十年廃せり」と記されています。
 明治10年(1877)、楼門や反橋が撤去され、谷も埋められたのでしょう。
 
 さすがに140年近くも経つと、がらっと変わるものですね。
 次回は、吉田神社で発見した、もうひとつの変化をご紹介します。




 吉田神社 斎場所大元宮(重要文化財)

 所在 京都市左京区吉田神楽岡町
 拝観 自由
 交通 市バス「京大正門前」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「京都坊目誌」(『新修京都叢書』所収)
 

300年前の道しるべは、京大構内を通っていた志賀越えの記憶

洛東




吉田本町道標


 京大脇にある道しるべ

 少し調べたいことがあり、早朝、左京区・吉田神社を訪ねました。

 節分で有名な吉田神社は、京都大学の東側、神楽岡にあります。
 百万遍(ひゃくまんべん)から南に向かい、東大路の東一条、つまり京大本部の横に来ました。

 京都大学
  京都大学

 ここに、ひとつの道標があるのです。

 吉田本町道標
  吉田本町道標

 町名にちなんで、吉田本町道標と名付けられています。京都市の史跡です。
 見ての通り、ヒビが入って壊れたものを鉄枠を付けて保護しています。京都帝大で教鞭を執られた歴史学者・中村直勝博士が、道路工事で破壊されものを復元されたのだそうです(『京都市の文化財』)。これは、ずいぶん古い話かも知れません。


 道標の文字

 この道標、あとから触れるように、南西から伸びてきた道の分岐点に建っています。

 吉田本町道標 吉田本町道標

 写真左の面には、「左 百まんへん」と書いてあります。
 よく見ると、まだ下に続いているようで(埋まっています)、『京都市の文化財』によると、「左 百まんへん乃道」となっているそうです。

 写真右の面には、「右 さかもと/からさき 白川」とあります。
 こちらも埋まっていて、「右 さかもと/からさき 白川乃道」となっているといいます。

 この場所、道標にあるように、左方(北)へ行けば百万遍です。
 そして、昔、右斜めに伸びていた道を進むと、志賀越え道で比叡山を越し、滋賀県の坂本や唐崎へ行けるのです。


 京都から滋賀へ通じる志賀越え

 京都の町なか、いわゆる洛中から外に出る場所を「京の七口」などと言っています。
 特に、7つに限定というわけでもないのですが、そう呼びならわしているのです。

 そのひとつに、荒神口(こうじんぐち)があります。
 地点でいうと、鴨川と丸太町通が交わる北側。
 清荒神護浄院(きよしこうじん ごじょういん)があったため、その名があります。

 京都の清荒神については、こちら! ⇒ <荒神橋・荒神口の由来は、「火の用心」の神さまにあり>

 洛中から、荒神橋で鴨川を渡ると、斜めの道が続いています。
 この道が、志賀越えと呼ばれる街道です。

 旧志賀越道
  京大付近の志賀越え

 実は、かつては現在の京都大学構内を志賀越え道が斜めに横切っていたのです。江戸時代、この地に尾張藩の下屋敷が造られる際、道が分断されたのでした。

 しかし、京大キャンパスを抜けると、その道は復活して続き、北白川から比叡山中に入って行きます。
 志賀越えとも言いますし、山中越えもよく使う呼び名です。「都名所図会」(1790年)などには、志賀山越(しがのやまごえ)とも書いてあります。白川という川のそばを通ることから、白川道などとも言うようです。


 300年前に建てられた

 他の2面を見ておきましょう。

  吉田本町道標

 こちらには、「沢村道□」と1字埋もれていますが、「範」の字だということで、沢村道範という人名です。
 この人は、江戸時代、京都の各所に道標を建てた人物だそうです。同じ京都市登録文化財で、御陵中内町(五条別れ)道標も、彼が願主になっています。

  吉田本町道標

 最も見えづらい面に、建立年月が刻まれています。
 「宝永六年/己丑十一月日」、つまり1709年のものと分かります。

 今から300年も前のもの!
 古風で貴重な道しるべです。

 京都市には、文化財になっている道標が5つあります。
 志賀越えでも、この先の地点に1つあります。北白川西町道標というのですが、写真がないので、またの機会に。
 他の道標については、こちらをご覧ください! ⇒ <京都市内の現存最古の道しるべは、三条通・白川橋のたもとにある>

 吉田本町の道しるべは、京都市内の道標の中では3番目に古いものです。
 ヒビが痛々しいけれど、こうして残れば立派な文化財になります。

 道しるべを見た私は、吉田神社へ向かったのですが、その話は次回以降にご紹介しましょう。




 吉田本町道標 (京都市史跡)

 所在 京都市左京区吉田本町
 見学 自由(歩道上にあります)
 交通 市バス「京大正門前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都市の文化財 [記念物]』京都市文化観光局、1992年


きょうの散歩 - 鹿ケ谷・安楽寺かぼちゃ供養 - 2015.7.25 -

洛東




かぼちゃ供養


 鹿ケ谷にある浄土宗の寺・安楽寺

 真如堂の虫払い会に行った帰り、近くということで、鹿ケ谷の安楽寺に立ち寄りました。

 鹿ケ谷は、「ししがたに」と読みます。
 銀閣寺の南の方、東山の山麓です。歴史の教科書では、僧・俊寛らが平氏を倒そうとして密議を行った場所として紹介され、事件は「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれています。人形浄瑠璃や歌舞伎の「俊寛」(平家女護島)で有名ですね。
 いまでも、疏水沿いに哲学の道があって、木立の中に法然院などの寺院が見え隠れするようなところ。静かなよい場所です。

 法然院の南に、安楽寺はあります。

 安楽寺 安楽寺

 門前の石標には、「住蓮山安楽寺」という山号とともに、「円光大師霊場」と大書され、また「浄土礼讃根元地」とも記されています。
 このしるべ石に、寺の歴史がコンパクトにまとめられているのです。

 鹿ケ谷の陰謀から30年ほど後のこと。鎌倉時代の初めです。
 法然上人は、南都北嶺から批判されながらも、念仏を広める活動を行っていました。その弟子に、安楽坊と住蓮坊というものがおりました。とても美声で念仏を唱えるので、今で言えばアイドルのように人気を集め、多くの人たちが彼らのもとに馳せ参じました。
 その中に、宮中に仕える松虫と鈴虫という女房がおり、彼女らは安楽坊たちのもとに入信を希望します。二人は後鳥羽上皇に寵愛される身、僧たちも躊躇しましたが、結局彼女らを剃髪します。さらに、上皇が熊野へ御幸して不在の折、御所に僧らを泊めたとも言われています。
 熊野から戻ってこのことを知った上皇は激怒。関係者を厳しく処罰します。
 師の法然は四国へ、親鸞も越後へ配流されます。そして、住蓮坊と安楽坊は死罪という重い罰。世にいう、建永の法難です。

 石標にある山号「住蓮山」は住蓮坊を、寺名「安楽寺」は安楽坊の名に由来しています。
 また、「円光大師」というのは、師・法然の大師号です。そして「浄土礼讃根元地」とは、住蓮坊らが六時礼讃を唱えた場であることを示しています。

 安楽寺

 山内には、二人の眠る五輪塔もあります。松虫と鈴虫の石塔もあるそうですが、この日は参拝できませんでした。


 かぼちゃ供養は鹿ケ谷かぼちゃで

 この日、安楽寺では、かぼちゃ供養が行われました。

 安楽寺

 門前には、農家の方でしょうか、野菜の販売も行われています。

 安楽寺
 
 安楽寺

 石段を上って、ひなびた山門をくぐり、江戸時代らしい単層裳階(もこし)付きの本堂にお詣りします。
 昼前でしたが、本堂脇の廊にはすでに行列が出来ていました。
 待つこと30分。ようやく席にたどりつきました。

 安楽寺
 
 庭の方を向いて座り、かぼちゃが出来るのを待っている善男善女。
 かぼちゃを炊くのに時間が掛かりますが、この寺の子供さんなのか小学生が手伝っていたりして、ほほえましい限りです。

 そして、ようやく来たかぼちゃ。

 かぼちゃ供養

 お茶も付けていただいて、ありがたくいただきます。

 かぼちゃ供養

 ほのかな甘みがあって、おいしいかぼちゃでした。

 この鹿ケ谷かぼちゃは、一般的なカボチャと異なって、独特の形をした京野菜です。

 鹿ケ谷かぼちゃ
  鹿ケ谷かぼちゃ

 この瓢箪形がトレードマークですね。

 かぼちゃというと、冬至にふるまわれるケースも多いと思いますが、こちらは土用。ウナギみたいです。
 やはり中風除けなんでしょうね。

 おいしくいただいて、安楽寺を後にしました。




 安楽寺

 所在 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町
 拝観 かぼちゃ供養は毎年7月25日(有料)
 交通 市バス「真如堂前」下車、徒歩約10分