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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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かつて盛んに行われた土用の虫干し、真如堂の虫払会もそのひとつ

洛東




真如堂


 真如堂の宝物虫払会

 暑い盛りの7月25日の土曜日、真如堂へ行ってきました。

 真如堂
  真如堂

 天台宗の古刹、正しくは真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)と言うのですが、そう呼ぶ人は誰もおらず、みな「真如堂」(しんにょどう)と呼びならわしています。
 そういえば、お隣の金戒光明寺も、「黒谷さん」と通称されています。

 真如堂

 本堂に近付くと、テントの受付があります。大きな荷物やペットボトルは持ち込み出来ないとか。
 なぜなら、今日は宝物の虫払い(むしはらい)を行っているからです。

 広い本堂の中に、200点ばかりの書画の掛軸や書状の巻物などをズラッと並べています。
 写真でご紹介できないのが残念ですが、なかなか壮観です。

 お堂の長押(なげし)にフック状の金具が取り付けられていて、そこに掛軸が掛けられています。数が多いので、重なっているところも。
 真如堂縁起絵巻(写本)などは、台に置かれていて拝見でき、お坊さんが解説してくれます。小野篁のお軸の前でも、ちょっと絵解き風にお話をしてくださいました。

 額や聯の元の書も掛けられていました。

 真如堂
  「真如堂」の額

 本堂の扁額の書も、額の下の堂内にありました。

 京都新聞によると、約600人の方が拝観に訪れたそうです。

 真如堂

 ひと通り拝見してから、薬湯の接待を受けました。枇杷(びわ)湯だそうで、ハッカのようなスッとする味わいでした。

 真如堂
  薬湯の接待


 梅雨明けに土用干し

 この虫払い、衣類や書画などを風に当てて虫害などを防ぐものです。
 虫干し(むしぼし)とか、曝涼(ばくりょう)という表現もよく用います。

 真如堂の虫払いは、ちょうど鰻を食べた「土用の丑の日」の翌日でした。

 土用は、立春、立夏、立秋、立冬の前の時期を言います。なかでも立秋前の夏の土用は、鰻を食べるので有名ですね。
 夏の土用は、7月下旬から8月上旬。梅雨明けに当たります。じめじめした梅雨の後は、虫干しを行う絶好の時期。そのため、この虫干しを土用干しと呼びました。俳句の季語にもなっています。
 
 多くの宝物を持つ寺社でも、この時期に好んで土用干しを行ったのです。


 江戸時代の“虫払いブーム”

 江戸時代に著された「日次紀事」(ひなみきじ、黒川道祐、1676年)には、「此月、土用中、諸神社・諸仏寺、霊宝虫払」と記し、またの呼び名を「土用乾(ほし)」と言っています。

 「日次紀事」には、土用干しを行う京都の各寺を載せています。
 それによると、

  ・東寺
  ・大徳寺
  ・南禅寺ほか五山寺院
  ・仁和寺
  ・大雲院

 をあげています。
 大雲院は、かつては四条通寺町下ルにあった浄土宗の寺院で、現在では円山公園の南側に移転しています。祇園閣のあるお寺ですね。

 このことは、他の書物にも見られます。
 「都林泉名勝図会」(1799年)では、実に熱心に土用干しを紹介しています。
 
  ・大徳寺
  ・建仁寺
  ・南禅寺
  ・東福寺
  ・妙心寺
  ・天竜寺

 こちらは禅寺ばかりですね。
 
 「都林泉名勝図会」より東福寺虫払 東福寺

 「東福寺什宝(じゅうほう)」として、虫払いに出される什物をリストアップしています。
 例えば、「兆殿司筆 百三十幅/雪舟筆 二十幅」などと記されています。
 兆殿司(ちょうでんす)は、「瓢鮎図」で知られる東福寺の画僧・明兆(みんちょう)のことです。130幅すべてが虫干しに登場するのか分かりませんが、ものすごい量ですね。雪舟もぜひ見てみたいです!

 他の寺院では、お堂のどの部屋にどんな什物が出されるのか、図示しています。

 「都林泉名勝図会」より妙心寺虫払 妙心寺

 「妙心寺方丈虫払体(むしはらいのてい)」とあって、花園・妙心寺の方丈で行われた虫払いの様子を図示しています。
 右の部屋を見ると、やたらと綸旨(りんじ。天皇が出す文書の一種)が多いですね。図の感じでは、たぶん掛軸になっていて、壁に掛けているのでしょう。リアルな配置図です。

 「都林泉名勝図会」のように、一般に手に取ることができる書物に、ここまで詳しく虫干しが紹介されているとは! 当時の人たちが、いかに寺社の宝物に感心を持っており、それを見られる虫払いに期待していたか、よく分かります。
 一種の“虫払いブーム”だったと言えるでしょう。

 現在では、土用に限らず、春や秋にも寺院の虫払いが行われています。
 日程をリサーチして、いろいろ見に行くのもおもしろいかも知れません。

 


 真如堂(真正極楽寺)

 所在 京都市左京区浄土寺真如町
 拝観 宝物虫払い会は年に一度(有料)
 交通 市バス「真如堂前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年
 「日次紀事」(『新撰京都叢書』所収)


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祇園祭の巡行を終えた山鉾は…… - 後祭を見る -





鯉山会所


 後祭は10基の山鉾で

 2015年の前祭は、台風11号の影響であいにくの雨中の巡行となりました。
 1週間後の後祭は、一転、晴天となって猛暑の中の実施です。

 朝、巡行の1時間前(8時半頃)、四条通から見物を始めました。
 四条新町まで行くと、すでに大船鉾は出発地点(烏丸御池)に向い始めています。私もそれを追って、新町通を北上。
 ところが、三条新町を越えたあたりでした……

  大船鉾

 なんと、鉾の吹流しが電柱に巻き付いたのです!
 西風が強かったのでしょうか。

 電柱には、トランスなどにすべて黄色いネットが掛けられて保護されているので安全ですが、ほどくのにかなり時間を要しました。

 しかし、無事に外せて出発。一安心。

  大船鉾 新町通の大船鉾


 御池通に集結!

 山鉾巡行は、もちろん巡行の最中も華やかで楽しいのですが、その前後(朝の準備中や終わった後)もおもしろいのです。
 大船鉾も、出発地点である御池通に出るまでに1時間以上かかりました。その間、狭い新町通を進み、また新町御池で辻回しをするなど、9時半の出発時刻までも楽しめます。

 大船鉾

 新町通から御池通に出てきた大船鉾。壮観です。
 そして、辻回し。

 大船鉾

 引っ張る方向に、ラグビーのラインの如く、曳手が並びます。
 だいたい3度くらいで90度回します。

 大船鉾

 最後のひと曳きは、鉾に対して鋭角にラインが出来ます。おもしろいですね。

 そして、御池通にすべての山鉾が集合すると、巡行が開始されます。

 大船鉾
  御池通の大船鉾


 御池通から河原町通へ

 近年、御池通には高層マンションも多く、現代都市の中に古式ゆかしい祭礼が組み込まれた印象です。

 南観音山
  御池通を進む南観音山

 御池通は歩道も広く、人出も多くないので、ゆっくりと見られます。特に、西の方は空いています。ビルや街路樹も多いので、南側の歩道は陰になって涼しく見物できます。
 東に行くほど人出は増えます。特に、寺町通あたりより東は大混雑。市役所前には有料観覧席があり、その関係でスピーカーによる解説が流されて少し……ですね。
 
 角を曲がると、河原町通です。
 
 橋弁慶山
  河原町通に入った巡行(先頭の橋弁慶山)

 ロイヤルパークホテル前に差し掛かった巡行。
 後祭は10基ですが、先頭はくじ取らずの橋弁慶山。ここで一旦ストップします。

 橋弁慶

 行列からお二人が進み出てきて、手には粽(ちまき)を持っています。

 橋弁慶山

 これを祇園甲部の舞妓さんに渡します。

 舞妓さん

 あでやかで微笑ましい風景。

 橋弁慶山

 お返しに、たぶん御神酒をもらって戻ります。

 各山鉾とも、これを行います。
 そのあと再出発です。
 それでも、100mほど進むと、河原町三条の交差点で一服。熱中症になるといけませんからね。

 役行者山
  河原町三条の役行者山


 壮観! 四条通の巡行

 先回りして、四条寺町あたりで待ち受けます。
 今年は、四条通の歩道が拡幅され、観覧者も大勢です。

 北観音山
  四条通に現れた北観音山

 南観音山
  藤井大丸(四条寺町)前の南観音山

 歩道の道路側に立つと、山鉾が実に大きく見えます。

 北観音山 北観音山

 山も個性があっていいですね。
 こちらは鯉山。左甚五郎作といわれる鯉が跳ねています。

 鯉山
  鯉山

 くじ取らずで殿(しんがり=最後尾)を務める大船鉾。四条寺町にやって来ました。

 大船鉾
  藤井大丸をバックにした大船鉾

 大船鉾
 
 迫力満点です。
 

 巡行を終えた山鉾は…

 四条高倉(大丸角)まで大船鉾の巡行を見た私は、そのあと巡行コースを離れて、鉾町へ向かいました。

 室町通蛸薬師の角。
 黒主山や鯉山が町内に戻ってきました。いささか暑そうですね。

  鯉山 鯉山

 当然のことですが、巡行を終えた山鉾は、四条通をはずれ、室町通や新町通を通って各町内へ戻ります。

 鯉山

 町内の皆さんも、拍手で出向えです。皆さん嬉しそうですね。

 鯉山の会所は、室町通蛸薬師を上がったところにあります。

 鯉山会所
  鯉山の会所

 ところが、山は会所の前を素通りして、北の方に行ってしまいました……

 なぜ?

 鯉山

 近所の会社の社員さんも拍手で出迎えですが、いったいどこまで?

 1本北の六角通まで行きました。

 鯉山

 そこで、なんと一回転して、こちらへ戻ってきたのです!

  鯉山 会所に戻る鯉山

 沿道の人(たぶん町内の方)によると、六角通までが鯉山町の町内なのだそうです。つまり、町の端まで行ってから会所に帰着するというわけです。

 なるほど。

 鯉山町は、室町通を挟む両側町です。通りのお向いさんが同じ町内なのが京都です。
 北端は六角通、南端は蛸薬師通になります。

 さほど広くはない町内ですが、きっちり端まで行ってから終了するところに、山鉾巡行が町によって支えられていることがよく表れています。

 鯉山
  会所前に戻った鯉山

 会所に帰ってきた鯉山の前で、皆さん手打ちをして無事終了です。
 暖かい光景ですね。

 華やかな巡行の前後にも、祇園祭を理解するさまざまな風景が見られます。
 こういったところも、祭りをみる愉しさですね。

 
  芦刈山の少年 




 祇園祭 後祭 鯉山会所

 所在 京都市中京区室町通蛸薬師上ル鯉山町
 拝観 会所内は祇園祭宵山の期間中
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約10分


きょうの散歩 - 後祭の山鉾が建ち始めた鉾町へ - 2015.7.21 -





北観音山会所


 やはり昼間は暑すぎて…

 7月21日といえば、祇園祭の前祭が済み、後祭の山鉾が建て始められる時期になります。

 昨年から、祇園祭も旧例に復し、前祭(さきのまつり、さきまつり=7月17日)と、後祭(あとのまつり、あとまつり=7月24日)と、前後二度の巡行が行われます。
 前祭は23基の参加ですが、後祭は10基。そのうち9基までは山で、鉾は昨年復活した大船鉾のみです。

 大船鉾
  後祭唯一の鉾、大船鉾

 大船鉾は四条町の鉾ですが、池坊短大の西側の新町通に建てられます。
 鉾が大きい上、道幅も広くないので、宵山のピーク時は大混雑かつ一方通行。できれば、すいているときに、ゆっくり見たいですよね。
 今日は、“宵々々山”に当たる日で、なおかつ真昼間(正午頃)なので、人出も夜ほどは多くありません。
 なので、祀られている神功皇后をお参りし、ゆっくり鉾を見たり写真を撮ったり。

 ただ、大変なのは、暑いこと!

 この日の京都の最高気温は、33.8℃ !! 
 それも正午すぎに観測していますから、私が見て回っていた頃にはすでに30℃以上の熱気だったわけです。


 伝説の腰掛け石

 後祭の鉾町は、北の方に集まっています。大船鉾以外は、すべて四条通より北側です。
 いつも、烏丸通姉小路にある鈴鹿山から見始めて、南に下りながら見ていきます。

 こちらは、室町通三条上ルの役行者山。

 役行者山会所

 山の右にある町家が会所です。
 こんなものに気付きました。

 役行者山会所

 役行者神腰掛け石。

 役行者(えんのぎょうじゃ)は、修験道における伝説的な人物で、とても強い法力を発揮して、各地に足跡を残しました。役小角(えんのおづぬ)とも言います。
 伝説もたくさん残っていて、ゆかりの石も多いのです。こちらは腰掛け石ですが、投げ飛ばした石なんていうのもあります。
 
 当地の腰掛け石は、役行者が修行中に腰掛けたとされるもので、この石に手を当てて身体の凝りをほぐしたのだそうです。
 そのため、肩こりに特に効く、と書かれていました。
 私も、念のため、肩こりと腰痛、両方の箇所をなでておきました。


 建て直される会所
 
 山や鉾が建てられている脇には、会所(かいしょ、町会所)と呼ばれる建物があります。

 会所については、こちら! ⇒ <祇園祭は、山鉾だけでなく、バリエーション豊かな会所にも注目するとおもしろい>

 江戸時代の町家を使い続けているところもあれば、ビルに建て直した町もあります。
 昨年、私も2階に上がり、観音さまや善財童子を拝した南観音山(百足屋町)。
 今年は、会所が建て替え中でした。

 南観音山会所

 山と黒いビルの間に、工事中の鉄骨が見えています。
 そのため、今年は山に上がるために、直接道路から階段を作っておられました。

 南観音山会所

 旧の建物がいつ頃の建築だったのか、写真を見直してみると、どうも近世というほど古くはなく、比較的新しい町家のようでした。

 南観音山会所
  昨年までの南観音山会所(2014年7月撮影)

※追記  京都新聞の報道によると、今年は一般の方は山には上れないそうです。また、昨年9月に取り壊された会所は、鉄筋コンクリート造4階建に改築され、10月末完成予定といいます。


 近付く巡行に向けて

 橋弁慶山の会所です。

 橋弁慶山会所

 会所の中では、1階には五条橋が、2階には牛若丸と弁慶が据え付けられたところでした。

 橋弁慶山会所

 2階の窓が完全に取り払われ、ワイドなフレームが出現します。
 町内の人たちが汗をかきながら準備中です。

 昼日中の鉾町の見物は、正直言って暑いです。それでも、結構大勢の人たちが訪れていて賑わっています。
 やっぱり宵山は晩やな、と思いながらも、たまには昼もいいのかも、と思ったのでした。




 役行者山会所

 所在 京都市中京区室町通三条上ル役行者町
 拝観 祇園祭宵山の際に可能
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 谷直樹ほか編『まち祇園祭すまい』思文閣出版、1994年


昔の祇園祭の写真に、活気ある巡行風景をみる





『京都』


 戦前、戦後の祇園祭風景

 今年(2015年)の7月17日、前祭は台風のため大雨の巡行となりました。
 私は、台風が来ると自分の職場が大変になる!ため、祇園祭には行けませんでした。
 後祭は晴れになって、よい巡行になればいいですね。

 そんなことを願いつつ、前祭と後祭の間に、祇園ちご餅を食べてみました。三條若狭屋の名物です。

 祇園ちご餅  祇園ちご餅

 求肥(ぎゅうひ)に少しだけ入っている白味噌のほのかな味わい。疫除けのもので、今宮神社のあぶり餅などと相通じますね。
 3本入り388円です。

 そんな中、少々古い書物をひもといて、写真を紹介してみましょう。

 『新撰京都名勝誌』 『新撰京都名勝誌』

 『新撰京都名勝誌』という本。京都市が編纂した案内書で、大正4年(1915)10月に出版されました。つまり、11月10日に京都御所で行われた大正天皇の即位礼(御大典)記念というわけです。

 本の装丁ですが、祇園祭と葵祭がモチーフとなっています。

 『新撰京都名勝誌』

 金色に浮かび上がる鉾。
 なかなか上品ですね。

 もちろん、本文でも祇園祭が取り上げられています。
 そこに掲載されている写真が、こちらです。

 『新撰京都名勝誌』
  『新撰京都名勝誌』

 コーナーを曲がる辻回しの光景。
 この「辻」、つまり交差点はどこなのでしょう?

 画面の右端に、「カドヤ商店」という看板が写っています。
 角にある店なので「カドヤ」とはそのままですが、この店舗は四条寺町の北西角にあったのです。いま、リプトンがある場所ですね。
 昭和9年(1934)の地図には、「カドヤ カーテン」とあって、カーテンを商う店だったようです。大正時代の扱い品は不明ですが……

 写真は、大正4年、あるいはその少し前の巡行を撮影したものでしょう。
 このときの巡行コースは、現在とは全く異なっていました。

 現在のコースは……

 【前祭】 四条烏丸―四条河原町-河原町御池-新町御池
 【後祭】 烏丸御池―河原町御池-四条河原町-四条烏丸


 これに対し、かつてのコースは……

 【前祭】 四条烏丸―四条寺町―寺町松原―烏丸松原
 【後祭】 三条烏丸―三条寺町―四条寺町―四条烏丸


 京都の方でないと、通り名がよく分からないかも知れません。
 この時代の前祭のコースは、四条通を東へ向かい、寺町通を右折して南進。4本目の松原通で曲がって西進します。
 つまり、現在は四条烏丸をスタートして反時計回りするのですが、昔は時計回りでした。
 また、後祭は、三条烏丸を出発して東へ進み、寺町通を南下。四条通に出て西に向かいます。
 これも、時計回りですね。

 それを知った上で、もう一度先ほどの写真を見てみましょう。

 『新撰京都名勝誌』

 山の前に2人の音頭取りが乗っているので、こちらに向かって進んでいると分かります。
 すると、これは右折している(画面では左に曲がっている)ことになります。

 まさに、寺町通から四条通に出てきて、西の方に進んでいるのですね。

 そして、このコースを進んでいるわけですから、これは後祭になります。すると、写っている山鉾は、北観音山と南観音山ということでしょう。


 にぎわいのある祭りの風景
 
  『京都』 『京都』

 こちらは、昭和4年(1929)に出された写真集『京都』に載っている祇園祭の風景です。
 電車の線路が敷かれているので、四条通でしょう。
 路傍の家は二階屋が中心のようで、その2階から鉾を眺めています。いまで言えば、室町通あたりの風景に似ていますね。

 四条通の山鉾巡行

 現在では、鉾はビルの谷間を通ります。
 その雄大な高さは、実感しづらくなっています。

 ちなみに、同じ『京都』に掲載された「四条通」という写真。

『京都』

 四条大橋東詰の菊水ビルから西を向いて撮影しています。橋詰の大きなビルは、矢尾政(現・東華菜館)。
 よく見ると、画面の向こうに西山の山並みが写っているのが分かるでしょう。それほど高い建物がなかったということです。

 こちらは、戦後の写真。昭和34年(1959)刊の『日本地理風俗大系 7』掲載写真。

 『日本地理風俗大系』
  寺町通を曲がる船鉾(『日本地理風俗大系 7』)

 前祭の船鉾です。
 前祭は、昭和30年(1955)までは前述のコース(四条通から寺町通を南下するコース)でしたが、昭和31年から寺町通を北上して御池通に抜けるコースに変更されました。御池通に、初めて有料観覧席が設置されたのも、この年です。
 このコースは、昭和35年(1960)まで続きました。
 そして、翌36年からは、寺町通でなく河原町通を北上することになります(現在のコースと同じ)。

 ということは、この写真は僅か5年間(昭和31年~35年)だけ行われた寺町通を北上する鉾を捉えた貴重なカットということになります。

 当時は、寺町通にアーケードもなく、鉾の巡行が可能でした。そして、道が狭いので人々が密集していますね。2階からも見ています。

 昭和41年(1966)、前祭と後祭が統合され、コースも幅員の広い大通りだけを巡行する形になりました。観光には便利になったのですが、山鉾と人との距離は離れ、あの狭い京都の町で行われていた祇園祭も変貌したように感じられます。

 祭りと人とのかかわりを考えながら、今度は後祭を拝見することにしたいと思います。 




 祇園祭

 所在 京都市中京区、下京区の鉾町にて
 見学 7月17日「前祭」、24日「後祭」
 交通 地下鉄「四条」ほか



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『京都』京都市役所、1929年
 『日本地理風俗大系 7 近畿地方(上)』誠文堂新光社、1959年
 『京極と其の附近案内』1934年
 米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』NHKブックス、1986年


豊臣秀吉が築いた石垣を比べてみる(その2) - 聚楽第、方広寺の巻 -

洛東




方広寺石垣


 発掘された聚楽第の石垣

 豊臣秀吉が築いた石垣を比較する試み、その2回目は、聚楽第と方広寺です。

 京都の中心部に造られた聚楽第(じゅらくだい)は、秀吉の甥・秀次の居所となりました。しかし、秀吉の変心によって秀次は切腹に追い込まれ、聚楽第も壊されました。文禄4年(1595)のことです。
 そのため、聚楽第の名残りは今では見られず、その遺構としてほぼ確実視されるのは大徳寺の唐門(国宝)くらいのものでしょう。

 大徳寺唐門に関する記事は、こちら! ⇒ <国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構>

 いま現地に行っても、いくつかの石標によってその場所が示されているに過ぎません。
 ところが、2013年、聚楽第の遺構と考えられる石垣が発掘されたのです!

 聚楽第石垣
  発掘された聚楽第石垣(2013年12月撮影)

 聚楽第本丸の南堀に当たると思われる場所の石垣です。
 東西方向に、約32mにわたって出土しました。

 聚楽第石垣

 花崗岩で出来た石垣は、下から3~4段分が残っていました。最も高いところで2.3mあるそうです。上の方は、壊れていて残っていません。

 聚楽第石垣

 写真の右側が、外に見えている石の面です。ピシッとそろっていることが分かります。
 豊臣期の石垣は、自然石をうまく積み上げた野面(のづら)積みです。石の大きさも不揃いで、隙間に小石を詰めたりするので、切石よりは美しくありません。しかし、秀吉の石垣は、平らな面をそろえて立派に見せる術を心得ているようです。

 石は、西から東に行くにしたがって、大きくなっているといいます。これは、東方に門があったためと思われます。門の脇の石を大きくして、豪壮に見せたのでしょう。

 聚楽第石垣

 聚楽第石垣

 石垣の裏側には、小石をたくさん詰め込んでいます。裏込め(うらごめ)というもので、排水を良くします。

 発掘された聚楽第の石垣は、素朴な野面積みで、巨石とまでは言えませんが、秀吉の石垣らしい“見栄え重視”の積み方になっているようです。

 発掘当時のレポートは、こちらをご覧ください! ⇒ <聚楽第の石垣発掘は、秀吉の栄華を彷彿させる>


 方広寺の巨石に驚く

 東山・京都国立博物館の北側にある方広寺(ほうこうじ)。かつて、豊臣家が大仏を安置した寺として知られています。
 その造営は、聚楽第がほぼ完成した翌年、天正16年(1588)に開始され、文禄4年(1595)頃までに大仏も大仏殿も完成しました。
 ところが、文禄5年(慶長元年=1596)、大地震によって倒壊してしまいます。この地震は、前回紹介した伏見・指月城を崩壊させた、あの地震でした。

 その後、秀吉が没し、息子・秀頼によって再建が開始された大仏も、鋳造中の出火、炎上するなど、紆余曲折を経ました。落慶供養が慶長19年(1614)に行われるはずでしたが、鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」に徳川方から横やりが入って法要は中止……といった感じで、翌年、豊臣氏も滅亡してしまうのでした。

 このように、方広寺の大仏は造営経緯が複雑なのですが、石垣は明快です!

 方広寺石垣
  方広寺石垣

 まさに、“秀吉らしい”と思わせる巨石群です。
 写真は、京都国立博物館の正門(西門)北側。大和大路に沿って南北に延びる石垣が、東に曲がるコーナー部分です。
 人の背丈の倍ほどもありますね。

 方広寺石垣
 
 角の石をクローズアップしてみると、このような迫力です。
 また、指月城や聚楽第に比べて、かなり加工が施されているようで、石を割る際に付けた矢穴も随所に見られます(矢印)。

 方広寺石垣
  矢穴

 この石垣の特徴は、2つほどあります。
 ひとつは、こちら!

 方広寺石垣

 やはり、表面を平らにそろえているのです。
 のちの近世城郭のように、綺麗な切石ではないのですが、面がフラットになっています。大きな石をさらに立派に見せているようです。

 もうひとつの特徴は……

 方広寺石垣

 例えば、この石。
 非常な巨石に思えます。

 ところが、側面から見てみると……

 方広寺石垣

 あれ? 意外に薄いのです。

 平らで大きな面が見えるので、巨大な石垣に感じられるのですが、石垣の奥行き自体はごく浅いのです(だいだい石1~2列くらい)。
 イミテーションっぽいと言うか、見栄え重視の秀吉の本領発揮というところでしょうか。

 大仏殿も大仏も、現在では残っていない方広寺ですが、石垣だけは往時をしのばせてくれます。
 
 2回にわたって、秀吉の石垣を見てきました。
 これ以外にも、現・大阪城(徳川家が造営)の地下に眠る豊臣期石垣があります。将来、見学施設も作られる予定ですので、楽しみに待ちたいと思います。




 方広寺石垣

 所在 京都市東山区茶屋町
 見学 自由
 交通 京阪電車「七条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年
 網 伸也「京都市考古資料館文化財講座 方広寺」同館、2010年




豊臣秀吉が築いた石垣を比べてみる(その1) - 伏見・指月城の巻 -

伏見




指月城石垣


 石垣の時代

 私たちは「お城」と聞くと、立派な天守閣と高い石垣をイメージしますね。
 このイメージに合う城郭が出来始めるのが、織田信長と豊臣秀吉の時代です。それまでの戦国時代の山城とは一変したので、専門家の間では「織豊期城郭」という呼び方もされています。

 信長の安土城が先鞭をつけ、秀吉の諸城が続きます。
 その特徴は、天主(天守)、石垣、瓦にある、という指摘もあるように、私たちの持つ“お城イメージ”が作られたのでした。

 今回は、その中から石垣をピックアップして、豊臣秀吉の築城を例にしながら見ていきたいと思います。


 秀吉の伏見城、その変遷

 2015年6月、京都市伏見区で、豊臣秀吉が築いた「指月城」の一部が発掘されたと報道され、大きな関心を呼びました。
 6月20日に行われた現地説明会には、2500人もの市民が詰め掛けたそうです。

 といっても、「指月城」って、いったい何と読むのでしょう?

 この名前、むしろ山口・萩城の別名として有名かも(読みは「しづき」)。
 伏見の場合、「しげつ」と言い習わされています

 昭和の模擬伏見城
  昭和の伏見城模擬天守

 秀吉が伏見に造った城といえば、「伏見城」であると思いますよね。
 でも、そう単純ではないようです。

 甥・秀次に関白職と聚楽第を譲った秀吉は、伏見に「隠居所」を造ります。文禄元年(1592)のことでした。
 これが、指月屋敷とされるもので、宇治川を望む地に造られた城郭風の邸宅でした。

 翌年、秀吉には実子・秀頼が誕生。これにあわせて、指月屋敷を改築して本格的な城郭・指月城とします。文禄3年(1594)頃には、ほぼ完成していたと考えられています。
 しかし、文禄5年(1596=慶長元年)閏7月、大地震が発生し、指月城は倒壊します。

 地震後、秀吉は、指月の北東にある木幡(こわた)山に、新たな城を造ることにしました。これが木幡山の伏見城です。
 現在の伏見桃山陵(明治天皇陵)や旧キャッスルランドなどを含む広大な城郭でした。

 慶長3年(1598)、秀吉はこの城で没します。その後、伏見城は徳川家康の支配下に入りますが、関ヶ原の戦い(1600年)に先立つ合戦で、豊臣方に攻められて落城、焼失してしまいます。

 関ヶ原の戦い後、勝利した家康は、焼失した伏見城の縄張りを生かして、城を再建しました。これが、徳川期の伏見城です。
 家康は、ほとんどの期間をこの伏見城で過ごしたため、江戸幕府というよりも「伏見幕府」と言えるくらいだ、という話もあります。
 2代将軍・秀忠、3代家光も、この城で将軍宣下を受けました。この城が廃されたのは、家光の将軍宣下のすぐ後、元和9年(1623)のことでした。建物や石材は、他所でリユースされ、また石垣などは徹底的に破却されたのです。

 つまり、

 指月屋敷 ⇒ 指月城 ⇒ 木幡山の豊臣・伏見城 ⇒ 木幡山の徳川・伏見城 ⇒ 廃城

 となるわけです。

 ちなみに、各所の言い伝えで、「伏見城」の建物などが移築されたと伝わっているケースがあります。けれども、指月城は地震で倒壊し、豊臣の伏見城も焼失したので、秀吉が造った伏見城が移築されたということは、理屈としては考えづらいでしょう。一方、徳川の伏見城なら、その建物が移築された可能性はあるわけです。


 発掘された伏見・指月城

 ということで、ひと口に、“秀吉の伏見城”と言っても、大きく分けると、指月(しげつ)と木幡山(こわたやま)の2期に分かれるわけです。
 先ごろ出土した指月城は、先に造られた方の城だったのですね。

 では、その遺構を見ていきましょう。

 指月城石垣
  指月城跡の発掘現場

 この写真は、発掘現場(伏見区桃山町泰長老)の東端を北から撮ったものです。
 この部分で、指月城のものと思われる石垣が発掘されました。

 指月城石垣
  石垣と堀が発掘された指月城跡

 南北に約36mにわたり、石垣が出土しました。

 指月城石垣
  石垣

 また、石垣の西側には堀もあることが分かりました。

 指月城石垣
  堀

 堀は、現状でも2m以上の深さがありますが、当時は3~4mあったのではないかと推測されています。
 その東に土を盛り、石垣を築いています。石垣は、最下段から1~2段だけ検出されました。おそらく、それより上の部分は、以前建っていた建物を造る際に壊されたのでは、と想像されます。

 指月城石垣

 指月城石垣

 石垣は、花崗岩や堆積岩などで構成されています。
 一見して分かる通り、近世城郭のような、きっちりとした切石を積み上げているわけではありません。割り石が少なく、多くの石が自然石です。それを野面(のづら)積みしています。

 大きな石の間に、こぶし大くらいの間詰め石を詰めています。
 石垣の背後には、裏込めとして多数の小石が入れられていて、排水なども配慮したものです。
 また、石は、どちらかというと短辺が外側に見える形で積まれています。

 そして、見えている面が平らになっているものも観察されます。この点は、秀吉の石垣を考える上で重要なポイントですので、チェックしておきましょう。

 写真では、1~2段しか残っていないので、やや迫力に欠けますが、これが何段も高く積み上がっていたら壮観でしょう。
 いずれにせよ、これまでほとんど謎だった指月城の遺構が確認できたことは、画期的です。
 地形的には、発掘現場の東方が小高くなっていますから、そこに天主があったのかも知れません。そうすると、この石垣と堀は天主を囲っていた重要な存在ということになります。


 木幡山の伏見城

 今回の関心事は、秀吉の石垣をいろいろと比較してみる、ということです。
 指月城に続いて造営された木幡山の伏見城ですが、今その大部分は伏見桃山陵の中に当たっています。つまり、見学は出来ないのです。

 2009年、歴史系の学会が立入り調査を行った際、石垣を見ることが出来たそうです。しかし、よく残っている箇所は僅かに2か所ほどで、ほとんどが破却されていたのでした。

 私たちが簡単に見られるのは、これでしょうか。

 伏見城残石

 伏見桃山陵の参道にある残石です。以前発見された20ばかりの石が、並べられています。

 伏見城残石
  木幡山伏見城の残石

 多くの石に、矢穴が施されています(矢印)。
 矢穴は、石を切り出したり分割したりする際に入れるもの。ここにノミを打ち込んでいけば、石が割れます。
 先ほどの指月城では、このような石はないわけですが、こちらでは多数観察されます。

 ちなみに、付近の桃山東小学校でも、復元石垣を見ることができます。

 指月城と比較するのに最も好ましいのは、たぶん聚楽第でしょう。
 また、大仏が据えられた方広寺の石垣も、秀吉の石垣の特徴を考える上で、とても役に立ちます。

 次回は、この2つの石垣を観察してみましょう。


 (この項、つづく)




 指月城跡

 所在 京都市伏見区桃山町泰長老
 見学 発掘調査終了後は埋め戻し(マンション建築予定)
 交通 近鉄「桃山御陵前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 現地説明会資料「伏見城跡(指月城)発掘調査」京都平安文化財、2015年
 日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年


祇園祭は、山鉾だけでなく、バリエーション豊かな会所にも注目するとおもしろい





船鉾の会所


 祇園祭と会所

 祇園祭も鉾建てが始まる時期になりました。
 これから、宵山に行くと、鉾などが建っている家の中で、ご神体や見送りなどの懸装品を見せてくれますよね。
 この家の多くが、町会所(ちょうかいしょ。略して会所)というものです。

 町会所といえば、町(ちょう)の人たちが寄り合う場所。私の実家は“洛外”、つまり田んぼの中のようなところですが、子供の頃は、古くて大きい木造の町会所がありました。こういうものも、町を中心に自治が行われてきた京都らしい存在です。

 祇園祭の場合、町会所で見せる飾り付けを「会所飾り」と言ったりします。
 今回は、宵山、巡行に先だって、この会所に注目してみたいと思います!


 いろんなパターンがある会所

 南観音山の会所
  南観音山と会所(百足屋町)

 祇園祭には、鉾と山が出ます。
 山には、綱で引っ張る曳山(ひきやま)と、おみこしのようにかつぐ舁山(かきやま)があります。
 「舁く(かく)」という言葉は、京都では、かつぐ、持ち上げる、といった意味。辞書を見ると、肩にかつぐ、という意味なんですが、経験的には持ち上げることを指す感じ。例えば、「机をかく」と言ったら、何人かで机を持ち上げて運ぶ意味です。

  占出山
  舁山(占出山=うらでやま)

 会所も、鉾、曳山、舁山によって、建物のスタイルが違うそうなのです。これは、余り意識しませんね。

 まず、鉾や曳山(北観音山や南観音山)は、こういう感じです。

 船鉾の会所
  船鉾と会所(船鉾町)

 左の建物が、会所。宵山では、2階から鉾に上がれるようになります。

 放下鉾の会所
  放下鉾の会所(小結棚町)

 ふだんは、この写真のように、ふつうの町家です。
 ところが、祇園祭になると、1階の表の間や2階にご神体を祀ったり、山鉾の懸装品を飾ったりして、それを見物客に見せています。

 『まち祇園祭すまい』では、こういったタイプを「表棟型町会所」と呼んでいます。
 長刀鉾、月鉾、船鉾、放下鉾や、北観音山、南観音山の会所がこれに当たります。


 舁山の表棟型町会所

 一方、舁山(かきやま)の会所には、1階や2階の通りに面した座敷を開放して、そこに飾り付けをするところがあります。

 山伏山の会所 山伏山の会所(山伏山町) 

 山伏山の会所  2階

 これは山伏山の会所ですが、2階を開け放って、注連縄(しめなわ)を張って山伏像を祀っています。
 見物は、下からこれを見上げるわけです。

 橋弁慶山の会所  2階

 橋弁慶山の会所  1階
  橋弁慶山の会所(橋弁慶町)

 橋弁慶山の会所は、ふだんは全く別用途になっていますが、祇園祭の折にはこのように変貌。
 牛若丸と弁慶の対決の舞台となった五条橋を1階に据え、2階には牛若丸と弁慶が並び立ちます。
 夜見ると、本当に美しい光景に!

 橋弁慶山の会所

 このタイプも表棟型町会所で、舁山では、山伏山、橋弁慶山、保昌山、郭巨山が当てはまります。


 路地の奥にある会所
 
 これらとは全く違ったスタイルの会所もあります。
 奥棟型町会所とも呼ばれるもので、舁山の過半がこのタイプになります。

 ひとことで言うと、路地の奥に会所飾りが置かれる形です。

 霰天神山の会所
  霰天神山の会所(天神山町)

 霰天神山(あられてんじんやま)の会所です。
 提灯や幕があるので、少し違うなと分かりますが、一見するとふつうの町家ですよね。
 よく見ると、提灯と提灯の間が通路になっており、女性が入って行きます。

 霰天神山の会所

 ようやく人が擦れ違えるくらいの狭い路地。「路地」は、京都風の言い方だと「ろおじ」になります。
 この路地の奥に、会所の棟が建っていて、そこで会所飾りが行われています。

 霰天神山の会所
  霰天神山の会所飾り(天神山町)

 鳥居があって「天神」の額が掛かっています。天神さんを祀っているのですね。
 浴衣を着た女の子らが座ってお守りなどを売っています。この売り子さんが、かわいい小学生のこともあり、独特の一本調子の歌を唄いながら販売するのも御愛嬌です。

 さらに、奥には……

 霰天神山の会所

 土蔵です。
 ここの中には、唐破風を付けた天神祠があるそうです。
 また、蔵の左にある小さな祠は、大日如来を祀る大日堂です。

 これが舁山特有の奥棟型の会所です。
 役行者山、八幡山、鯉山、霰天神山、孟宗山、鈴鹿山、占出山がこれになります。

 鯉山の会所
  鯉山の会所(鯉山町)

 鯉山の会所飾りです。
 昨年(2014年)は、NHKで中継されていましたね。
 左甚五郎作と伝えられる鯉の彫刻が迫力です。


 ビルになった会所も

 会所の中には、ビルになったものもあります。函谷鉾、鶏鉾、菊水鉾、白楽天山、黒主山などがそうです。

 黒主山の会所
  黒主山の会所(烏帽子屋町)

 マンションだけれど、瓦屋根や格子もあって、意匠に工夫をこらしています。

 黒主山の会所 黒主山

 このように、ひとくちに鉾町の会所といっても、バリエーションがあるわけです。
 こんなところも見ながら宵山に行ってみると、なお一層愉しいでしょう。




 霰天神山(天神山町)会所 (京都市指定文化財)

 所在 京都市中京区錦小路通室町西入ル天神山町
 見学 祇園祭宵山の際に可能
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 谷直樹ほか編『まち祇園祭すまい』思文閣出版、1994年
 『京都市の文化財』第一集、京都市文化観光局、1983年


京都が、アメリカの旅行雑誌で2年連続1位に選出

その他




清水寺


 2年連続トップの評価

 アメリカの雑誌「TRAVEL + LEISURE」(T+L)の World's Top 10 Cities 2015 が7月6日発表され、京都が世界の旅行目的地として、2年連続でNO.1の都市に選ばれました。

 T+Lは、ラグジュアリー志向の旅行雑誌で、世界中のホテル、都市、島、クルーズ、エアライン、スパなどのランキングを行っています。

 都市のランキングは今年で20回目だと思うのですが、トップ5は次のようになっています。( )内は昨年-一昨年の順位です。

  1(1ー5) 京都
  2(2-7) チャールストン(米・サウスカロライナ州)
  3(4-‐) シェムリアップ(カンボジア)
  4(3-3) フィレンツェ
  5(5-6) ローマ


 以下、6位バンコク、7位クラクフ(ポーランド)、8位バルセロナ、9位ケープタウン、10位エルサレム、となっています。
 上位5都市は、順番は変動したものの、昨年と同じ。5位以下は入れ替わりが激しく、バルセロナ以外は昨年は10位以下でした。

 選ばれる大きな基準は、やはり歴史都市、伝統都市、ということでしょうか。
 京都の選評を読んでも、千年以上にわたって都がおかれた都市で、市街には2,000以上の神社仏閣がある、といった点があげられています。
 お寺では、特に三十三間堂が紹介されているのが、うれしいですね。やはり、あの観音さんは欧米の方にも好評なのでしょう。

 昨年のランキング記事は、こちら! ⇒ <アメリカ旅行雑誌で、京都が初の第1位に>


 観光地でない“街めぐり”が楽しい

 3年前、京都は9位でしたから、ここのところ評価は急上昇です。この一年、例えば京都市の広報紙「市民しんぶん」などにも、何度もこのことが出てきましたね。
 今回、市のコメントとしては、屋外広告規制による景観改善や公衆無線LANの整備などが評価されたとしています。

 昨年(2014年)、京都市を訪れた外国人観光客は、過去最高の約5,500万人になったそうです。これは、肌で感じたイメージとも合致します。とにかく、街なかを歩いていると、海外ツーリストが多いですね。

 昨年、このニュースに接して、次のように記しました。

 私としては、治安のよさを生かして、海外の方にも<歩いてめぐる京都>を堪能してほしいと思います。路地の奥や小さな寺社にも、意外な京都の魅力が潜んでいるのですから。

 今年の感想も、やはり同じ。
 日本の都市は治安がよいので、裏町に入ってもホールド・アップなんてことはありません。
 ひっそりとした路地の奥にある人々の暮らし、街角のお地蔵さんや小祠、古びた石段や灯籠。こういった全てのものに、京都の人たちがこの街で生きてきた歴史が刻まれています。
 そんな街を歩いて、自分の目で見、感じてもらえればうれしいですね。
 そうすれば、何度来ても愉しい京都、自分のふるさとのように感じられる京都が広がってくるでしょう。


 鴨川


意外にステキかも! 七夕にいけばなという時代





「都林泉名勝図会」より「西六条本願寺」


 「都林泉名勝図会」に見る七夕

 7月7日は、七夕ですね。
 竹に短冊を吊るして願い事を書く、というのは、お馴染みの七夕風景です。
 しかし、いつの時代も同じように七夕を迎えていたのではありませんでした。

  七夕

 江戸時代の京都庭園ガイドとも言うべき「都林泉名勝図会」(1799年)を見ると、少し変わった七夕風景が紹介されています。

 ひとつは、「七夕 池坊立花」。

 「都林泉名勝図会」より「七夕池坊立花」
  「都林泉名勝図会」巻1より

 座敷に、僧侶や幾人かの人たちが集まり、花瓶に活けられた花を眺めています。

 「都林泉名勝図会」より「七夕池坊立花」

 畳が一段高くなったところに台を置き、花瓶を設えています。後ろには屏風を立てています。
 右端の人物は、剃髪しているから僧侶ですが、刀を持っている人もいて、これは侍でしょう。口々に感想を述べ合っているようですね。

 「都林泉名勝図会」より「七夕池坊立花」

 こちらは、食い入るように見ていますね。熱がこもっています。
 花瓶の前に、文字を書いた札が置いてあります。右の方には、どうやら「正恩寺」と書かれており、左はよく読めないのですが、何々軒かも。
 どうやら、この花を活けた人の名前のような気がします。


 池坊と六角堂

 いけばなと言えば、京都では池坊(いけのぼう)が有名。
 そして、池坊と言えば、六角堂とのかかわりが著名です。

 六角堂
  六角堂

 烏丸通六角東入ルにある頂法寺は、お堂が六角形であることから、六角堂の名で通っています。
 西国三十三所の十八番札所で、本尊は如意輪観音。いにしえ、聖徳太子が四天王寺建立の用材を求められた場所とも伝わり、太子が池で沐浴をされたとも言われています。
 その池が後に伝わり、池の傍に住坊を営んだのが「池坊」なのでした。

 六角堂
  今も聖徳太子が祀られている

 「都林泉名勝図会」には、「六角堂池之坊」の項があります。
 その中に、七夕と関係のある記述があるのです。

(前略)毎歳、七夕の日にハ二星の手向として門子聚[あつま]りて瓶花の精妙をあらハす也。昔ハ此日 帝へも調進あり、将家へ立花を献る事、今に絶る事なし

 文中の「二星」(にせい、じせい)とは、牽牛星(ひこぼし)と織女星(おりひめ)のこと。その供花として、池坊の門弟らが集まって、花を活けたというのです。かつては、天皇へ花を献じていたこともあり、将軍家には今も献花している、と記されています。
 なるほど、ひこ星と織姫に花を供えたわけですね。

 たぶん、先ほどの絵の座敷は六角堂の一画だと思うのですが、そうすると、お寺の中で七夕の供養が行われていたということになるのでしょうか。


 西本願寺でも……

 同じ「都林泉名勝図会」には、こんな絵も掲載されています。

 「都林泉名勝図会」より「西六条本願寺」
 「都林泉名勝図会」巻1より

 「西六条本願寺対面所 七夕籠花」。

 西本願寺の対面所、約200畳もある国宝・鴻の間です。その南縁を描いていて、画面右隅には南能舞台(重文)も描かれています。
 庭に、大勢の人々が集まっています。
 目的は、もちろん、この「籠花」(かごはな)を見ること。

 「都林泉名勝図会」より「西六条本願寺」

 縁に、ずらりと並べられた籠花。いけばなというよりも、盆栽的な雰囲気です。
 よく見ると、右から二つ目のものは、花の輪の中央に、タイに乗った恵比須さん! がいます。その右は、ヒョウタンらしきものを持った人物が。もしかして、養老の滝?
 他の作品にも、小さな人形が置かれていて、造り物的な感じです。

 「都林泉名勝図会」より「西六条本願寺」

 こちらは、先ほどの池坊の絵に近く、立花です。
 ここでも、作者の名前を書いた札が置かれています。

 そして、見物はさまざまで、お侍、お坊さん、商人、ご婦人方、子供まで、かなり人を集めるイベントだったのですね。
 本文には、次のように記されています。

 七夕の籠花数品、家老、候人、院外より献上す。これを対面所椽側に飾りて、参詣の諸人に観せしむ

 室町時代、足利義満の応永6年(1399)には、七夕に花合が行われたという記録があります。
 また、仙洞御所や伏見宮家などでも、七夕に行われていたといいます。これらは七夕法楽とか七夕花合と呼ばれるものです。
 当時、はやりの連歌会などの際に、座敷の飾りとして立花が盛んに行われていました。七夕は五節句のひとつで、供花という意味もあるでしょうが、掛軸をかけて、その前に花瓶を置き花を立て、みんなで見て楽しんでいたのですね。

 のち、七夕に限らず、五節句(元日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)には、花合が行われるようになったようです。

 七夕は、宮中では古くから乞巧奠(きっこうてん)として行われ、のちに民間にも広く流布して、今日まで続いています。
 今回は、ちょっと風変わりな七夕風景をご紹介しました。




 六角堂(頂法寺)

 所在 京都市中京区六角通東洞院西入ル堂之前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約5分


 
 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年
 西堀一三『日本花道史』創元社、1942年
 小林善帆「たて花」(「日本研究」34、2007年)
 石村貞吉『有職故実』講談社学術文庫、1987年


きょうの散歩 - 八坂神社御旅所と冠者殿社 - 2015.7.1 -





冠者殿社


 7月になりました。
 いよいよ祇園祭の季節。四条通も、提灯が下げられて、雰囲気が出てきましたね。

 八坂神社御旅所

 四条通寺町東入ルの、この場所。
 京名物を売る土産物店ですね。以前は、四条センターと言っていたように思いますが、いまは「Otabi Kyoto」と書いてあります。

 この「Otabi」=「オタビ」って、なんでしょう?

 漢字で書くと「御旅」。
 もう一字補って「御旅所(おたびしょ)」を意味します。
 おみこし(神輿)が渡御される際、立ち寄られたり留まられたりする場所のことです。

 母の実家の方でも、北野天満宮の御旅所があるところを「おたび」と言っていました。
 なにか懐かしい響きですね。

 ここの御旅所は、八坂神社の御旅所なのです。
 
 今日から始まった祇園祭。
 山鉾巡行(7月17日と24日)に注目が集まりますが、八坂神社からおみこしが出る渡御があります。
 17日の夕方、八坂神社を出た3基の神輿は、町中を回り、数時間後にこの御旅所に着御します。
 それから24日まで、御旅所に留まるのです。

 その間だけ、土産物店が撤去されて、御旅所に早変わり!

 八坂神社御旅所

 八坂神社御旅所
 神輿が着御した八坂神社御旅所 (2014年7月撮影)

 まったく土産物店だったとは思えません!
 地元の方や近所の会社の方々も、お詣りに来られます。

 「都名所図会」巻2(1780年)には、次のように書かれています。

 祇園御旅所は四条京極の辻にあり。毎年六月七日、祇園会の神輿三基この所に神幸し給ひ、同十四日に祭礼ありて本殿へ還幸し給ふ

 旧暦では、祇園祭は6月でした。

 以前書いた記事もご覧ください。 記事は、こちら! ⇒ <きょうの散歩 - 祇園祭還幸祭 ->

 ところで、今日驚いたのは、これ。

 冠者殿社

 御旅所の右側(西側)に、冠者殿社(かんじゃでんしゃ)という小さなお宮さんがあります。
 八坂神社の境外末社です。現在のバーゲンセールにあたる「誓文払い」(せいもんばらい)のルーツが当社にあるとも言われています。

 冠者殿社
  冠者殿社

 実は、この鳥居なのですが……

  冠者殿社

 なんと、新しくなってる!

 以前は、こんな感じでした。

  冠者殿社
   2014年7月撮影

 白木の鳥居が、かなり黒っぽくなっていました。
 たぶん、つい最近だと思うのですが、新調されたのです。
 調べてみると、5月に竣成したみたいで、鳥居の材は伊勢神宮の古材を用いているそうです。そう思うと、すごいですね。

 この冠者殿社、かつては西向きに建っており、鳥居も西面していました。
 下図は、「都名所図会」に登場する冠者殿社。
 画面下にある鳥居がそれですが、明らかに西向き。社殿も西向きなのが分かります。

 「都名所図会」より「祇園御旅所」
 「都名所図会」巻2より 通りは四条通

 現在では、御旅所と商店の間にひっそりと佇んでいます。




 冠者殿社

 所在 京都市下京区四条通寺町東入ル
 参拝 自由
 交通 阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「ふるさと昔語り 冠者殿社」京都新聞2008年1月29日掲載