「月刊京都」2015年7月号 1か月つづく祇園祭 祇園祭の季節が近付いてきましたね。
祇園祭というと、“7月17日の山鉾巡行”というイメージ(日程変更については後述)や、それに先立つ「宵山(よいやま)」に目が向くものです。
実際には、7月1日から31日まで、丸一か月かけて行われる祭事で、見所も満載です。
もちろん、遠方から来られる方は1か月も滞在できないし、京都市民だって仕事や用事もあるから毎日見に行くわけにはいきません。
私も、宵山や巡行は行くように努めているのですが、なかなか行き難く、朝早くや仕事帰りに鉾町を訪ねることが多いですね。ちなみに、早朝はおススメです!
6月も末になると、今年は何を見に行こうかと愉しみになってきますね。

何が「帰ってきた」? 祇園祭
老舗雑誌「月刊京都」では、2015年7月号で祇園祭を特集しています。
そのタイトルは、「帰ってきた祇園祭、再び。」
ひと目見て、“何が帰ってきたの?”と思われる方も多いでしょう。
祇園祭は、およそ50年前から、「山鉾巡行は7月17日の1回のみ」になっていました。
しかしこれは、昭和41年(1966)からのことで、それまでは前後2回に分かれて巡行していたのでした。先に行う方を「前祭」(さきのまつり/さきまつり)、後に行うものを「後祭」(あとのまつり/あとまつり)と呼びます。
昨年(2014年)、半世紀ぶりに「後祭」が復活し、7月14日と24日に2度巡行が行われたのでした。
昨年の“復活”については、こちら! ⇒ <2014年、祇園祭の新しいスケジュールは? - 半世紀ぶりに「後祭」が復活!->
「月刊京都」の“帰ってきた”とは、この後祭が復活したことを指していて、それが今年復活2回目になるので“再び”というわけなのです。
形と心と
「月刊京都」の巻頭には、祇園祭山鉾連合会の吉田孝次郎理事長の談話が掲げられています。
その話を読むと、後祭の復活という「形」だけが重要なのではなくて、それを支える人々の心根、また結び付きを復活させていくことが肝心なのだ、ということがよく分かります。
祇園祭を通して、町のあり方や住民の紐帯が変化していく。昔の形を知ることで、その背景にあったものを理解し、それを現在の町や暮らしに生かしていく、ということ。
氏が言われる「古きを訪ねるほどに大事なことに気づかされる」というのは、まさにその通りだと思います。
いずれは三条通の巡行復活も、と言われる吉田理事長。
本当にそうですね。
あの昔ながらに狭い三条通を鉾が通ったら、どれだけ素晴らしいことでしょう。御池通で見る巡行は観光的ページェントですけれど、三条通を巡行すれば、それは地域の人々がこの町で生きていく意味を再確認する行事になるのですから。
なお、かつての巡行コース等については、2013年の記事をご覧ください。
記事は、こちら! ⇒ <祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活>

今年は、新装の四条通で巡行
今年の巡行の関心事のひとつは、車道が狭くなった四条通での巡行です。
歩道が約6m(場所により異なる)に拡幅され、私たちの見物場所が広くなり、かつ山鉾との距離が近くなるわけです。
いまでも、新町通あたりで、帰ってくる鉾を見物すると、“ひかれる!”と思うくらい、道幅すれすれにやって来るのですね。
四条通はそこまでの臨場感はないでしょうが、従来より近くで見られるのは愉しみです。
このところ、四条通の歩道拡幅は、車道が狭まってクルマが渋滞すると評判が悪いようです。
けれども、山鉾巡行を新しい四条通で見たら、その印象も少し変わるのでは? そして、私たち自身が少しずつ考え方を改めていって、新しい社会を作っていけるようになればと思います。
「月刊京都」2015年7月号、主な目次
*帰ってきた祇園祭、再び。
*知られざる宮本組~神事を支える氏子たち
*山鉾図鑑 (郭巨山、橋弁慶山)
*芸妓たちの祇園祭
*鷹山お囃子復活
*祇園祭をごみゼロに。リユース食器で大作戦!
あまり知られていない「御土居」 NHK「ブラタモリ~京都~」が放送された際、3つの話題(琵琶湖疏水、新京極、御土居)のひとつとして、「御土居」が取り上げられました。
オンエア後、それを見た他県出身の方から、「御土居って知らなかった」と言われ、少し驚きました。
確かに、御土居は全国区ではないし、観光地でもないので、知らない方も多かったでしょう。
京都市内でも、もっぱら北の方で育った私は、青少年時代、御土居のそばをうろうろして過ごしていたような気さえします。それだけ馴染み深く、いつも目にしていたのですが、意外にじっくりとは見ないもの。
今回、改めて見直してみました。
京の外周を囲った土塁
御土居(おどい)。
豊臣秀吉が京都を治めたとき、町の大改造を行いました。
特に、町の外周を土塁と堀で囲む大土木工事は「御土居」の名で知られています。
御土居の位置(鷹峯旧土居町の案内板)
南北に約8㎞、東西に約4㎞弱の拡がりを持つ大土塁。
北端は堀川通の御薗橋の南方辺、南端は京都駅のあたりまで。東西は、およそ鴨川と紙屋川の間と考えておけばよいでしょう。
この土塁の内側が「洛中」、外が「洛外」となりました。

御土居の断面図(同前案内板より)
「土居」という語が示すように、大きな土塁を築いて、その外側に深い堀を造りました。このため、「御土居堀(おどいぼり)」という呼称がふさわしいという研究者もおられます(中村武生『御土居堀ものがたり』)。
巨大構築物だった御土居ですが、江戸時代以降、町の開発に伴って徐々に取り壊されていきました。
例えば、繁華街・河原町通も、その西側にずっと御土居が構築されていました。いまでは、その面影もありませんが、にぎやかな三条-四条間の西側歩道の西方には、かつて御土居が続いていたのです。
玄琢下に御土居を見る
しかし、上図を見ると、黒い印で示された史跡指定地はは、北辺と北西辺が中心です。
今回は、北西角に近い部分を見てみましょう。

京都市北区大宮土居町。
もっとも、この場所は、地元では玄琢下(げんたくした)と通称されています。写真の急坂を上ると玄琢(地名)に至ることから、そう呼ばれています。
坂の上り口の左手(南側)に、フェンスに囲まれた御土居があります。

久々に、まじまじと見たのですが、かなりの土盛りです。

ここの御土居は、ほぼ東西に走っているのですが、写真は北側から見たところ。5m位の高まりが認められます。

土塁と堀
左の高まりが土塁、中央のくぼみが堀の跡です。
写真の左方が市街の内(つまり洛中)で、右方が外(洛外)になります。
かなり大規模な土塁と堀があったことが理解できます。
さらに西へ
ここから坂を上ると、南方に御土居が続いていることになります。
途中、玄琢南公園のあたりから御土居を眺めてみました。

西から東を望む
公園は坂上にありますので、見下ろすような谷になっています。
写真では分かりづらいのですが、インターネットで航空写真をご覧いただくと、一目瞭然です。
北側(写真左手)が堀で、南側が土塁になります(先ほどの玄琢下と逆の関係ですね)。

ほぼ南方を望む
ここに、ほぼ左右に堀が走っていたのでしょうか。現地で下を覗くと、相当な谷になっています。
右上は、自動車学校です。自動車学校の東から玄琢下まで、約300mにわたって御土居が保存されているわけです。
鷹峯の御土居
このさらに西方、鷹峯(たかがみね)にも御土居は残されています。
北区鷹峯旧土居町です。

鷹峯街道
千本北大路から北に続く鷹峯街道。この上に、本阿弥光悦の“芸術村”で著名な光悦寺などがあります。

フェンス内に、御土居が保存されています。
この場所は、御土居全体の北西隅の位置です。このすぐ向こうで、土塁は南に曲がります。

北側から見たところ。奥の屈曲部は見えません。
このあたり、私は高校時代にさんざん通ったのですが、御土居があったことなどほどんど記憶にありません。地元の方に尋ねたところ、以前は御土居の前にスーパーが建っていて、ほどんど隠されていたとか。道理で気付かないわけです。
現在ではその建物もなくなり、見学スペースも出来ています。なかに入れないのは残念ですが……
春には、御土居上に咲く桜が綺麗だそうです。
御土居をかたどった和菓子「御土居餅」
この御土居の真向いにあるのが、和菓子の光悦堂。

光悦堂

御土居餅
こちらの名物が、御土居餅です。
1個135円。
手作り感のあふれる店頭とパッケージ。


羽二重餅の中に、こしあんが入っています。
餅の上には、きな粉がふられています。
これが、御土居の形をイメージして作られているのだそうです。
お店の方によると、もう50年ほど前から作っているとか。

甘すぎない上品な味で、少し塩味も利いているようです。きな粉も、京都らしいですね。
ふつうの大福餅よりは柔らかめだと感じました。

由緒書には光悦垣が
無骨な土木構築物が、典雅な和菓子に。
こういうところも、史跡めぐりの愉しみですね。

御土居
所在 京都市北区大宮土居町ほか
見学 自由(フェンス内には入れません)
交通 市バス「玄琢下」下車、すぐ
【参考文献】
中村武生『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター、2005年
京都市文化財ブックス 『剣鉾のまつり』
剣鉾との遭遇 昨秋、このブログで次のような記事を書いたことがあります。
記事は、こちら! ⇒ <江戸時代の京都ガイド本「京城勝覧」に沿って、三条大橋から嵯峨・嵐山へと歩いてみた - 前編 ->
三条大橋から松尾大社まで歩いていく途中、花園・妙心寺の近くで、こんなものに遭遇したのでした。
剣鉾(けんほこ、けんぼこ)。
武器である鉾(ほこ)が、祭器になったものです。
祭礼の際、この剣鉾を差し歩く(応援団の大旗のようにして持って歩く)、あるいは台車に載せて練り歩く、ということが行われます。
京都で「鉾」と言えば、祇園祭の鉾をイメージしますが、市内各所の祭礼でこの剣鉾が登場するのです。
ただ、これまで剣鉾について手軽に読める参考文献がありませんでした。
そんな中、京都市文化財ブックスの1冊として、『剣鉾のまつり』が刊行されました。市内の剣鉾について通覧できるビジュアルな好著です。
京都市役所・情報公開コーナーや京都駅の総合観光案内所などで、1,500円で販売されています(私は、いつも京都市考古資料館で買っています)。
市内に広範に残る剣鉾
山路興造氏の序文によると、剣鉾のまつりとは次のように説明されています。
平安時代、京都の支配者であった朝廷や公卿たちは、この疫病を平安京遷都の政争で敗れた者たちの霊が祟ると考え、「御霊」を祀る法会や祭礼をあちこちで執行した。
(中略)
疫病の流行は、都に住む人々の階層を問わず、死をもたらしたが、その原因を「御霊」の祟りとは考えず、疫神の蔓延によると考えて、それを集めて追い払うことに専念する行事も行われた。それが「剣鉾のまつり」である。
(中略)
鉾は当初から、悪霊を追い払う武具的要素と、神を迎える神座(かむくら)としての要素を兼ね備えていたのである。(2ページ)
剣鉾は神が降りて来る依代であり、人々は鉾を持ち歩いて疫神を集めて回り、それを除去したというのです。
花園今宮神社の神幸祭(右京区)
24~27ページには、京都市内の剣鉾が出る祭礼の一覧と地図が掲載されています。
市内52か所で確認されており、地域もまんべんなく分布していて、意外な多さに驚かされます。
年に一度、春か秋に行われるのが通例で、春は主に5月、秋は9月から10月に執行されているようです。
出される剣鉾の本数は、都合300ほどにも上ります。
最も多くの剣鉾が出るのは、粟田(あわた)神社の粟田祭で、18本。ついで、岩倉の石座(いわくら)神社の火祭りが10本、紫野・今宮神社の今宮祭りが9本などとなっています。
なかでも、次の4つは京都市の無形民俗文化財です。
・一乗寺八大神社の剣鉾差し
・西院春日神社の剣鉾差し
・嵯峨祭の剣鉾差し
・梅ケ畑平岡八幡宮の剣鉾差し

住吉大伴神社の秋祭り(右京区)
剣鉾は、神社の所有物ではなく、地元の鉾町や鉾仲間が守っておられるのだそうです。
これは祇園祭などと同様ですが、地域の結び付きを強める役割を果たしているのですね。
お祭りの季節になったら、本書をガイドとして見て回りたいと今から愉しみです。
書 名 『剣鉾のまつり』(京都市文化財ブックス第29集)
執 筆 福持昌之(京都市文化財保護課)
発 行 京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課
刊行年 2015年3月
再び病院にて 週末はもちろん週明けまで風邪でダウンし、ようやく仕事に復帰したと思ったら、また別件にて病院通い。
前回登場したF病院ですが、病棟はまだ真新しく、設備も整っていて、利用しませんでしたが有名ホテルが経営するレストランも入っているそうです。

このF病院、京都府立医科大学附属病院のこと(以下、府立医大病院と略します)。
河原町通に面した正門を入ったところから、北を見て撮った写真。大きな外来診療棟です。
この病棟は、北側にある中央診療棟とつながっています。その廊下の北端まで進むと、廊下の壁に石碑の拓本が掲げられています。

題額には、「療病院碑」と書かれており、この病院の沿革が記されています。撰文は、第2代京都府知事・槇村正直で、明治13年(1880)のものです。
明治5年(1872)、粟田口の青蓮院内に仮の療病院が開かれたことが、府立医大病院の起源です。しばらくして、明治13年、つまりこの碑の建った年、現在の場所に移転してきました。創立以来、140年以上の歴史がありますが、同校のウェブサイトには次のような一節があります。
日本の多くの医科大学・医学部では、まず大学などの教育施設ができ、その研修の場として附属病院が作られてきました。
しかしながら、京都府立医科大学においては、府民の医療を第一とする病院がまず作られ、次にこの病院での医療・医学を担う人材を養成する場として大学が位置付けられました。つまり、現在よく言われている地域医療を先取りした形で進んできたのです。このとき以来、京都府立医科大学は地域社会の要請に応えることのできる、質の高い医師・医学者を養成するという使命を担ってきました。
今日に至るまでこの設立方針が堅持され、親しみを込めて「府立医大」や「府立医大病院」と呼ばれ、府民から絶大な信頼が寄せられています。
確かに、国立大学の附属病院は、まず大学ありき、だったのでしょう。府立医大の場合、附属病院とは言うものの、実は大学が病院に附属して成立したわけですね。
昭和初期のモダニズム建築
府立医大では、大正末から昭和初期にかけて校舎や病棟の新築が進んだのですが、施設の性格上、そのほとんどは建て替えられて残っていません。
唯一保存され、京都府の指定文化財となっているのが、旧附属図書館棟です。

京都府立医大 旧附属図書館棟
鉄筋コンクリート造3階建(地下1階)、昭和4年(1929)に竣工しました。設計は、京都府の建築技師・十河(そごう)安雄。
当初は、1階と3階が教室、2階が図書館として使用され、地下に柔剣道場などが置かれていたそうです。3階の階高が見るからに高そうですが、これはこの階に階段教室が設けられていたからです。
響いてくる楽器の音に吸い寄せられて中に入ると、現在では生協の売店などが入居しています。他に学生のクラブボックスが入っているそうです。先進医療を司る大学の中枢部とは、少し離れた利用をされているわけです。

全体のフォルムは、ネオ・ゴチックというもの。
西欧中世の教会建築などで盛んに行われたゴチック様式が、近代になって復興して用いられたデザインです。
ゴチック様式の特徴のひとつに、尖頭(せんとう)アーチという、頭のとんがったアーチがあります。
この建物も、出入り口や窓の頂部が、みな尖頭アーチになっています。
また、壁面にはバットレス(控え壁)という出っ張りが付くのも特徴です。これは、もともとは煉瓦壁の構造を強化するための“つっかえ棒”のような存在です。
鉄筋コンクリート造になると必要ないのですが、ゴチック様式のお約束としてデザイン上残ります。この建物にも、窓と窓との間にバットレスが付いています。
特にすばらしいのは、正面入口部のバットレスです。


V字形をした珍しい意匠で、要の部分にはテラコッタを貼り付けています。とても華やかですね。
外壁全体は、当時ふつうに用いられた茶褐色のスクラッチタイルが貼られています。地味になりがちですが、アクセントの効いたゴチックのデザインと、白っぽくて大ぶりなテラコッタの多用で、おとなしい建物に終わっていないところが素敵です。
ステンドグラスなど
中に入ってみましょう。
やはり、ステンドグラスでしょうか。

正面玄関を入った内側です。
アールデコですね。特に、左3分の2のデザインは、当時よく見掛けた抽象的な図柄です。
そして、もうひとつ素敵なのは……

その裏側。建物の外側から見たところ。
格子が入っているでしょう。これが繊細ですね。
ステンドグラスより、むしろこちらの方が美しい……
もっと見たかったのですが、今日は時間がなくて駆け足でした。もう一度、しっかり見る機会を作りましょう。
そして、最後に言い添えたいこと。
この建物は、府立医大病院の改築計画の中で、取り壊しになるはずでした。敷地の容積率の関係で、残すことが難しかったからです。
ところが、この歴史ある建物を何とか保存できないものかと関係者が熟慮され、北側に離れてあった病院駐車場を病院敷地内に取り込んで敷地面積を増やし、この建物も保存できるように工夫したのです。
それ以前、病院と駐車場の間には、細い道路が通っていて、両者は分断されていました。この道路は市道でしたが、これを駐車場の向こう側(北側)に移し替え、両者を一体化したのです。府立医大が京都市と協議し、また関係者や府とも諮って実現しました。
そして、2008年に、旧附属図書館棟は京都府の指定文化財になったのです。
知らなかったけれど、関係者の努力でひとつの文化財が保存されたわけです。
病院通いも、いろいろ勉強になるなぁ、と思った一日でした。

京都府立医科大学 旧附属図書館棟(京都府指定文化財)
所在 京都市上京区河原町通広小路上る梶井町
見学 大学キャンパスとして利用されています
交通 市バス「府立医大病院前」下車、すぐ
【参考文献】
『京都府の文化財 第26集』京都府教育委員会、2009年
山岸久一「京都府立医科大学 旧図書館の保存に至るいきさつ」(「図書館メールNEWS」177、2011年、京都府立医大附属図書館)
山形拓史「旧附属図書館棟の改修工事」(「My CO-OP」2009年秋、京都府立医大・府立大生活協同組合」)
今週末は風邪…… この週末は、風邪をひいて完全にダウン。
約3年前にこのブログを始めてから、風邪をひくのは2回目です。
前回はすぐ治ったけれど、今回はなかなか熱も下がらず、とりわけ喉の痛みがひどい。
金曜日、発熱してきたので、夕方、近所の内科医院に行きました。
おじさんの先生が一人でやっている、いわゆる町医者です。
風邪だと明瞭なせいか、診察も3分くらいで、すぐに終了。
ここで懐かしかったのが、カルテでした。
紙のシートに、ペンで症状を書いていく。机上に、4種類ほどのゴム印も置いてあって、適宜それを押す。
記載はもうドイツ語ではない感じですが、昔ながらの病院風景でした。
大病院の現代風景
この風邪とは全く別件で、この春から頻々と複数の大病院を訪れています(私自身のことではないのですが)。
市内中心部にあるN病院や、鴨川の側にあるF病院など。
F病院は、近年、新病棟を建設しました。
写真は、工事中に撮ったもので、保存された古い建物を写しています。、

創立は明治5年(1872)と古く、現在のベッド数は1,000を超える大きな病院です。
いまひとつのN病院も、歴史は明治末年からと長く、病床数も600以上あります。
このような大病院では、カルテはもちろん電子カルテです。
診察室にディスプレイとキーボードがあって、先生がそれにカチャカチャと入力していくシステムです。
私も、4、5年ほど前、近所の中規模病院で初めて電子カルテで診察を受けたのですが、先生がこちらを余り見ず、ディスプレイに入力ばかりしていて、ちょっと不安になったことがありました。
もちろん、電子カルテが悪いというのではなく、医療が高度化されると、こういった方向に進まざるをえないのでしょう。
会計や予約も、もちろん電子化されているので、非常にスムーズに事が運びます。
特に会計は素早くなったので、診察が終わったら、一瞬で帰れます(笑)
私は、医療や病院経営については全く素人です。
その私が、この間、病院通いして改めて認識したのは、ここにくる患者さんが如何に多くて、その大部分がお年寄りだということです。
そして、検査や手術などの医療技術は格段に発達し、これまで助からなかったような病気が治癒するようになったこと。
そのことがますます高齢化社会を促すだろう、ということです。
科学の進歩は、人を幸せにするのか。科学の進歩に欠けている部分を補える<智>は何なのか。
少しばかり哲学的に考えてみる必要があると思いました。
平等院の文鎮は? 宇治にある国宝・平等院鳳凰堂。

平等院鳳凰堂
ここの文鎮は、どんなものなのか?
やっぱり鳳凰?
それとも、お堂の形?
などなど、想像が膨らみますね。
実際は、このようなものでした。

上品な紙箱に、「鳳凰堂扉止鐶(とびらどめかん)文鎮」と記されています。
フタを開けると……

これは品のよい文鎮ですね。
扉止めの鐶(かん=輪)をデザインしたものだそうです。
扉止め鐶とは、どのようなものかというと、同封されている説明書に写真が掲載されています。

なるほど。
現地で気を付けて見たことはないのですが、本物はさぞかし立派なことでしょう。しかし、文鎮も負けず劣らず立派です。
説明書には、次のように書かれています。
この文鎮は鳳凰堂の扉のあおり止めの為取付けられてある金具を象ったものであります。
実物は鉄地に宝相華、菊華を鍍金、銅、象嵌又は浮彫りしたもので、その用途の為の力強さと、まわりの荘厳さとに調和した美しさは当時の美術工芸の粋を極めたものであります。(後略)
などと書かれています。

ひもの色は2色

朱色の綺麗な紐(ひも)が付いています。本物の扉止めには、ここに鐶=輪が付いているわけです。
そこに紐を付けるとは、なかなか考えましたね。
記憶では、紐は2色あって、もう1色は確か紫だったと思います(ずいぶん以前に買ったので不確かですみません)。
この文鎮でおもしろいのは、紐のスペアが付いているところ。

わざわざ「スペア紐」と書いているところが、なんとも!

青銅風で、金も使っていてゴージャス感がありますね。
裏面には、「平等院」の名称が。

国宝の一部を意匠化した文鎮だけに、なかなか豪華でした。
平等院鳳凰堂
所在 宇治市宇治蓮華
拝観 大人600円ほか
交通 京阪電車「宇治」駅下車、徒歩約10分
昭和9年4月17日の火災 岡崎にある金戒光明寺。
「こんかいこうみょうじ」という読みが難しいせいか、地元では「黒谷さん」で通っている寺院。
幕末には、京都守護職の会津藩が陣を置いたので、維新の史跡という色合いも帯びています。

金戒光明寺 高麗門
会津藩がいた頃の金戒光明寺が登場する「花洛名勝図会」(1864年)。
本堂は、このように描かれています。

「花洛名勝図会」より「黒谷金戒光明寺」(部分)
山門をくぐって石段を登ると、南向きに本堂が立っています。法然上人の御像を安置されています。
桁行(けたゆき、横方向)が七間もある大きなお堂です。
この本堂ですが、昭和9年(1934)4月17日、火災によって焼失してしまったのです。方丈など他の建物も焼けました。
寺院の堂宇は巨大な木造建築のため、火災に会うことは避けられない宿命です。金戒光明寺でも、早急にその再建が着手されました。
このため、大方丈はすぐに再建され、本堂(御影堂)も昭和19年(1944)に竣工しました。
資料を見ると、大方丈の設計者は建築家の武田五一、本堂の設計者は建築史家の天沼俊一となっています。
二人とも、京都帝国大学の教授だった人物です。
ところが、過日、ある本をめくっていると、私を困惑させる記述が出てきたのでした。
天沼博士と金戒光明寺
天沼俊一の著書に、『日本古建築行脚』という本があります。昭和17年(1942)に臼井書房から刊行された書物。全国の建築を見て歩いた随筆的な記録集です。
臼井(うすい)書房については、こちらをどうぞ! ⇒ <臼井書房の書物たち>
この本に、「黒谷の鐘楼と阿弥陀堂」という一章があり、金戒光明寺について記されています(引用文は適宜改行しました)。
京都市左京区黒谷町に黒谷といふ寺がある。本名紫雲山金戒光明寺だが、お春日さんやお多賀さんの様に、くろだにさんといってゐる様である。この方が早判りがする。
電車の停留場に「岡崎通黒谷前」といふのがある位である。人若[も]し京都の人に「金戒光明寺へはどう行きますか」と尋ねたならば、其[その]きかれた人が余程の韻照級でない限り、怪訝な顔をして口をあけるであらう。(162ページ)
エッセイのように軽い調子で始まる文章。
余談ですが、「韻照級」って何のことだか分かりましたか?
辞書を引いても全然分からず、キーボードで文字を打って初めて気付きました。
インテリ級!
現在古建築といふべきは阿弥陀堂と鐘楼とで、他にさう古いものはない。
寺にとって何より大切な本堂は「寛政年間の再建にして桁行十六間半、梁間十五間半の大堂宇なり」とある。写真でみると桁行七間梁間七間単層入母屋造本瓦葺の大建築であるが、これが昭和九年四月十七日不慮の火災で焼失、目下再建中である。
寛政年間(1789-1801年)に建てられた本堂。桁行も梁間も七間ある大建築で、これが「花洛名勝図会」に描かれたお堂ですね。
天沼博士の皮肉なところは、何かの案内文に「桁行十六間半、梁間十五間半」と、実寸(1間は約1.8m)で案内した記載に対して、“寺院建築の桁行、梁間は、柱の間の数で数えるんだ”と眉をひそめているわけです。
この文章を書いているのは、昭和10年代の半ばらしく、燃えた本堂が「目下再建中」と記されています。
筆者は大正七年から昭和十二年迄、其間にまる三年ばかりぬけたから、ざっと十七年間吉田山麓の小さな家に仮寓し、其間毎日の様に膝を容るるの安じ易きを審にしてゐたが、真如堂にせよ黒谷の本堂にせよ、比較的新しい建築なので左まで興味を惹かなかったため、焼失前唯一度あの本堂の傍を通った時、歩きながら其外側を瞥見しただけでほとんど記憶はない。
あの辺に火事のあったことも薄薄知ってはゐたが、其焼けたのが黒谷の本堂である事を知ったのは、翌日の新聞紙によってであった。
例ひ其建築が江戸中期のものであるにせよ、洵[まこと]に惜しい事をしたもので、同情にはたへなかったが、ただ心のうちでさう思ってゐただけで、寺を知らなかったから、別段同情心を表現する方法はとらなかった。
併[しか]し寺としては焼けた儘[まま]ではおけないから、早速復興すべく万端の用意をした。先[ま]づ第一期工事として大方丈からはじめることになり、設計監督等万端を T博士へ依頼されたさうで、工事は着着進行し、大方丈から座敷へかけて立派に竣工をした。
天沼博士は正直にも、本堂は江戸中期の「比較的新しい建築」なので興味がなかった、と言っています。
そして、復興事業について、第一期工事は大方丈の再建から始められ、設計・監督は「T博士」に依頼された、と書いています。このT博士が、京都帝大の同僚だった武田五一教授でした。
其後第二期工事として本堂が始まった。
何でも昭和十一年の秋頃から設計にかかったらしく、翌十二年の夏か秋頃そろそろ軌道に乗りだし、幸なことに目下屋根瓦を葺く迄になったのは、寺のために洵に慶賀すべき次第であるが、私もどの様な本堂が再建されるかと、時折拝観に出かけた序[ついで]に、K技師から黒谷では阿弥陀堂と鐘楼が古いときかされ、みると成程さう思はれたので、数図を掲げて解説をしておく事にした。
第二期として本堂の工事が、昭和11年(1936)秋頃から設計され、いまは「屋根瓦を葺く迄になった」と記しています。
そして自分は、時折り拝観に出かけた時に、古い阿弥陀堂や鐘楼を見たと言っているのです。
文章全体が、なんとも他人事ですね。
それもそのはず、この復興は当時は帝大を退官した武田五一に依頼された仕事なのですから。
実作者としての天沼俊一
しかし、最初に述べたように、いま、この本堂は「天沼俊一設計」とされています。
おかしいですね、設計している本人が、こんな文章を書くわけないですよね。
私は心配になってきて、また図書館に行って、天沼香『ある「大正」の精神-建築史家天沼俊一の思想と生活-』をはじめ、いくつかの文献を見ましたけれど、やはり金戒光明寺の本堂は天沼設計とありました。
そうすると……
どうも、このようなことなのでしょう。
最初はおそらく武田五一が仕事に掛ったのですが、武田は昭和13年(1938)2月に亡くなってしまいます。天沼の先の文では「十二年の夏か秋頃」という記載がありますから、この随筆が書かれた後、武田は没したのでしょう。
そして、その仕事の続きは、ちょくちょく現場を見に行っていた天沼に回ってきた……
天沼俊一は、建築史学の専門家ですが、実作も手掛けていました。
高野山金堂(1927年)、本能寺本堂(1928年)、東福寺本堂(1934年)、戦災で焼失した四天王寺五重塔(1940年)など、実績は十分です。
詳しくは、こちら! ⇒ <天沼俊一が設計した本能寺本堂は、登録文化財になった近代和風建築>
なにしろ建築史の泰斗で、細部様式には一際うるさい(失礼!)先生ですから、細かい部分まで行き届いた設計をするのでした。
細部意匠に凝った復古建築


桁行七間、梁間七間、中央に向拝を付けるというフォルムは、江戸時代のものと変わっておらず、このあたりはすでに武田五一が設計していたのではないでしょうか。
ただ、細かいところは、やはり天沼だな、と思わせる点が多いのです。

軒を見上げたところ。
いわゆる二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)という形。垂木が上下2段になっているものですが、上が □ 、下が ○ になっているでしょう。
古いスタイルで、そうそうお目に掛かるものではありません。それでも、京都や奈良の寺院では時折見られ、平等院鳳凰堂などはこれですね。
江戸時代になって、こんな面倒なことをする建物はありませんが、天沼博士は古式ゆかしいスタイルを復活させたわけです。
軒の下を見てみると……

蟇股(かえるまた)がありますが、こちらも……

正面の蟇股

側面の蟇股
こちらも、古代から中世っぽい意匠ですが、正面と側面で異なるデザインにしています。
カエルの足のラインも比較的なだらかで、中央にはクローバー状の植物意匠。さらにいくつかの猪目(いのめ、ハート形模様)を付けています。
古そうな形と言いながらも、結構近代的なデザインです。
屋根を支える工夫も

花頭窓
花頭窓も、垂直のラインが真っ直ぐで、「∩」のようになっています。これも古風なイメージです。時代が新しくなると、「A」ラインと申しますか、足元が広がってくるのですね。

このお堂は、かなり巨大ですので、屋根の四隅の出も大きくなっています。
屋根は瓦を葺いていて重いですから、年月が経つと、ずるっと垂れ落ちてくる危険があります。そのため、江戸時代や明治時代には、古建築の屋根を支えるために、四隅に控柱を立てることがよくありました。
三十三間堂などの例については、こちら! ⇒ <三十三間堂の謎の石>
ところが、後付けの柱は格好悪いですよね。
そこで、天沼博士は、最初から柱を立てておくことにしたのです。


あらかじめ、デザインの中にこれを組み込んでいるわけです。
『ある「大正」の精神』には、「建築を端正に保つために支柱を入れるというのも又、彼のセオリーの一つであった」と記されており、いつまでも建物を美しく見せようという天沼の配慮がにじみ出ている部分と言えます。

柱の上と下に蓮華様の意匠を施している
天沼自身は、新しい時代の建物には余り関心がなかったようですけれど、私達はそういった建物にも興味を抱いて見学してしていきたいと思います。
金戒光明寺
所在 京都市左京区黒谷町
拝観 境内自由
交通 市バス「岡崎道」下車、徒歩約10分
【参考文献】
「花洛名勝図会」1864年
天沼俊一『日本古建築行脚』臼井書房、1942年
天沼 香『ある「大正」の精神』吉川弘文館、1982年
パワーポイントを使わない講演 今晩は、3回前に紹介した市川箱登羅の日記について講演をします。
市川箱登羅(いちかわ・はことら)は、明治中期から昭和戦前にかけて大阪で活動した歌舞伎役者です。中村鴈治郎(初代)一座で、名脇役として、スター・鴈治郎の芸をいっそう引き立てたベテランです。
40年余にわたる膨大な日記を残しており、今宵はその話をするのです。
私は最近、各所からお招きを受けて話をするとき、必ずパワーポイントで画像を作成し、それを見ていただきながら話すことにしています。
90分話すとすれば、50枚も60枚もスライドを作るので、ほぼ画面を見続けながら聞いていただくことになります。
おそらくスライド枚数は多い方でしょう。昔の絵や写真、さらに地図、簡単なまとめなど、何でもスライドにしてしまいます。
「分かりやすくてよい」という意見がある一方、「分かりやすいせいで考える力が失われる」という批判もあります。
私の場合は、1回完結で、聴衆も大人の方ですから、大学の講義などと違って、すんなりと理解してもらえることが肝心と考えています。パワーポイントを多用する理由です。
ところが、今日の「市川箱登羅日記」の話は、全くパワーポイントを使わず、ペーパーの資料だけで話す予定です。
日記がテーマなので画像が要らないとも言えますが、たぶん他所で話すなら、間違いなくスライドを作って臨んだと思います。自分の職場で話すからこそ、私にとっては少しだけ冒険の「パワーポイントなし」を選んだのです。
さて、うまくいくのかどうか? 結果は終わってからご報告しましょう。

“パワポなし”の話を終えて
いま、1時間15分間、話してきました。
途中、時間に余裕ができたので少しゆっくりしていたら、最後に時間が足りなくなった!
やはり、のんびりしすぎるのも考えものです(汗)
配布資料は、A3で8枚。
長い引用文あり、表あり、地図ありで、なかなか時間を要しそうではありました。
反省したのは、日記を細かく分析した表は、一般向けの講演なので割愛し、その結論だけ話せばよかった--ということ。
結局、時間がなくて、そうなったのですが……
もうひとつは、ラストに長い引用文を持ってくるのは避けること(苦笑)
かなり端折ってしまいました。
話を聞いてくれた同僚が言っていたのは、箱登羅は大阪の人らしく感じる、ということです。実際は、江戸の生まれ(二十歳頃まで東京で育った)なのですが、上方の水が肌に合ったのでしょうね。
自分で話しながら気付いたのは、起床時間が毎日違うこと。
たとえば、今日は10時30分だが、明日は9時、というふうに。そのあと、芝居に出勤するのです。
ということは、日記には書かれていないのですが、9時に起きた日は、朝に1時間半の余裕があるわけです。そこで、いったい何をしているのか?
こういう“余白を読む”ということが、重要だと感じました。
また、彼が1日で行動した“動線”を、毎日毎日、地図にプロットして考えてみることも大切かも。
大阪という街と箱登羅との関係が浮かび上がって来そうです。
今回は初めてだったので、個々の行動の意味(つまり「書かれていること」の意味でもある)や、逆に「書かれていないこと」の意味を十分に考えることができませんでした。
これからは、そのあたりを丁寧にフォローして、「余白」を考えながら、読んでいきたいと思います。
歌舞伎役者・市川箱登羅日記を読む。また、やってみたいと思います。
「市川箱登羅日記」
翻刻 雑誌「歌舞伎 研究と批評」に菊池明氏が継続中(第4号~)
京田辺市・観音寺を拝観 非常勤で出講している上京大学(仮称)の日本史専攻では、年に2回、史跡の現地見学会を行っています。
歴史を学ぶ上で、文献史料をじっくり読むことはもちろん重要ですが、“歴史の舞台”となった現地を訪れることは同じくらい大切です。
このブログの趣旨も、実はそこにあるのですが、寺社や史跡を自分の眼で見て、よく観察し、考えることが重要です。
上京大学(仮称)の1回生は、春に京田辺市の観音寺とその周辺を訪れ、秋には京都市内の史跡(毎年変わる)を巡ります。
各1日で、物足りない気もするのですが、休日に実施するため、全員で集まるのはこれが限度でしょうか。
今回も、50数名の学生が出席してくれました。

観音寺(京田辺市)
観音寺は、古くは普賢寺と呼ばれた古刹で、ご本尊の十一面観音立像(奈良時代)は、国宝に指定されています。大御堂とも称され、京都南郊にある隠れた名刹です。
毎年、ご住職のご理解をたまわり、ご本尊を拝して、仏教彫刻を専門とする教員が学生にレクチャーします。
境内には、丘上に塔の礎石なども残り、その説明もあります。
「慰霊塔」を見る
私が、いつも学生と一緒に見るのが、こちらです。
観音寺の慰霊塔
「慰霊塔」と刻まれた、背の高い石塔。
実は、少し不思議な点があるものなのです。
まず、正面から。
何と書かれているかから始まり、石塔を見て感じる特徴などを学生に質問していきます。
塔の前に“砲弾形”の石が写っていますが、これは壇上に廻らされた柵です。この石柵には、かつて鎖が付けられていたようなのですが、今ではありません。そのあたりのことも考えます。
そして、側面を見て、そこに刻まれた15字ほどの文字を読みます。
文字は高い場所にあるのでよく見えないのですが、何を書いたものか推理します。
さらに、裏側に回ります。
裏面
裏には、「忠魂碑」という文字が書かれています。
この文字の部分をよく観察していきます。

こんなふうですが、少し不自然さを感じないでしょうか?
これが学生には意外に難しい質問のようです。
こういった Q&A を繰り返しながら、なぜ両面に文字が書かれているのかなど、考察を続けます。
最後に、かつてご住職(年配だったお父さま)にうかがった、この碑の来歴譚を紹介してまとめとします。
この脇にある、もうひとつの石碑も含めて、約20分間、石造物について皆で考えていく授業です。
日露戦争は何年に起こった? と聞かれて、「1904年」と答える学生に、「明治で言うと何年?」と問い直す意地悪な Q&A も含めて(もちろん意味あっての問い掛けですが)、いろいろと考えてもらいます。
私としては、こういう授業をいつもできたら楽しいのですが、カリキュラムの都合もあるので、これを一例として自分自身で現地見学してほしいと思っています。
また来週からは、教室に戻ってグループ研究の再開です。
観音寺
所在 京田辺市普賢寺下大門
拝観 400円
交通 近鉄・JR「三山木」下車、徒歩約30分