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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

割拝殿って、なぜか魅力的! それも階段付き!! - 豊臣秀頼が造営した鞍馬・由岐神社の拝殿 -





由岐神社拝殿


 鞍馬寺にある由岐神社

 洛北の山寺・鞍馬寺(くらまでら)。
 その鎮守として、山内にある神社が由岐(ゆき)神社です。「鞍馬の火祭」を行うことで著名な古社ですね。

 由岐神社
  由岐神社

 鞍馬寺に参詣する際、ケーブルカーに乗らず、長い坂道を上って行くと、おのずと由岐神社に行き当ります。


 珍しい懸造の割拝殿

 この由岐神社の拝殿は、割拝殿(わりはいでん)というスタイルです。

 割拝殿。

 あまり聞かれたことがないかも知れません。
 分かりやすい写真で説明すると……

 藤森神社拝殿
  割拝殿の例 (藤森神社 拝殿)

 建物の真ん中に通路(土間)がある拝殿のことです。

 京都の神社を巡っていると、割拝殿には結構お目にかかります。私の実家の近くの小さな神社も割拝殿で、子供の頃から馴染み深い形でした。
 上の写真の藤森神社や御香宮神社(いずれも伏見区)が著名ですね。

 由岐神社拝殿
  由岐神社 拝殿

 このように、建物のほぼ中央に通路がある割拝殿です。
 ところが、通路といっても平坦ではなく階段になっています。

 そう、由岐神社の拝殿は、清水の舞台のような懸造(かけづくり、舞台造)になっているのです。

 由岐神社拝殿
  懸造になっている拝殿(右側面から見る)

 拝殿で懸造とは珍しいですね。
 そのため、上り切った側から見ると……

 由岐神社拝殿

 ちょっと建物が“浮いている”感じに見えるでしょう!
 ここが何とも素敵ですね。

 組物も、いい感じ。
 写真上の左に飛び出しているあたり、木鼻にクルッと若葉の彫り物があります。のちにふれるように桃山時代の建築で、全体に大仏様の要素がうかがえます。

 由岐神社拝殿

 由岐神社拝殿

 こちらは、通路上にある蟇股(かえるまた)です。

 由岐神社拝殿

 随分ひしゃげた形で、左右にひれ状に伸びています。真ん中の彫刻は牡丹のようです。
 
 
 左右非対称の建物

 由岐神社拝殿

 山の上側から見た全体像です。
 桁行は六間と偶数間です。ふつう寺社の建物は、柱間が奇数になります。出入口を中央に付けるためには、奇数間にする必要があるからです。
 
 この拝殿のように、六間で通路を設けるとなると、その通路は真ん中には作れません。
 写真を見ると、通路の左が二間、右が三間あります。

 なぜ偶数間にしたのか? よく分かりません。
 例えば、吉野水分神社(奈良県)のように、十間と偶数間の拝殿もありますが、それは割拝殿ではないので収まりはよいわけです。
 あえて、割拝殿として左右非対称を目立たせるという、奇をてらった行き方なのでしょうか。

 由岐神社拝殿

 そこに唐破風を付けているので、よりインパクトがあります。薄くて綺麗な唐破風です。

 由岐神社拝殿

 軒も、疎垂木(まばらたるき)で、薄めの印象です。品がよいですね。

 側面から見ると、オーソドックスな姿です。

 由岐神社拝殿
  向かって右側面

 屋根は入母屋造。梁間は二間です。


 豊臣秀頼の寺社造営
 
 この拝殿は、国の重要文化財に指定されています。
 慶長15年(1610)、豊臣秀頼により再建されたものです(擬宝珠銘による)。

 秀頼が、慶長年間(1596-1615)に数多くの寺社や橋梁の造営を行ったことは、よく知られています。
 その数は、90件にものぼると指摘されています(木村展子「豊臣秀頼の寺社造営について」)。
 多くは再建や修築ですが、山城国で行われた主なものは、木村氏によると次の通りです。

 慶長4年(1599)  豊国廟
 慶長5年(1600)  方広寺塔・講堂・廻廊、醍醐寺金堂
 慶長7年(1602)  清凉寺釈迦堂
 慶長8年(1603)  東寺金堂、寂光院本堂
 慶長10年(1605)  相国寺、東寺南大門、石清水八幡宮大塔、
           金戒光明寺阿弥陀堂
 慶長11年(1606)  安楽寿院多宝塔、南禅寺法堂、北野経王堂、
           醍醐寺西大門ほか
 慶長12年(1607)  北野天満宮、与杼神社
 慶長13年(1608)  鞍馬寺
 慶長15年(1610)  由岐神社拝殿
 慶長17年(1612)  方広寺大仏殿
 慶長18年(1613)  金戒光明寺御影堂

 山城の主なもので以上の通りですが、もちろん摂津や河内、和泉、大和などでも多くの造営を行っています。
 上の一覧を見ると、鞍馬寺全山の再建に続いて由岐神社拝殿も造営されており、全体の中でも最後の方に実施されていることが分かります。

 秀頼が造った建物は、大規模で立派なものが多いのですが、由岐神社拝殿はとてもユニークな建築です。桃山建築の面目躍如と言えますね。
 鞍馬詣での折に、ぜひご参拝ください。




 由岐神社 拝殿 (重要文化財)

 所在 京都市左京区鞍馬本町
 拝観 鞍馬寺拝観 大人300円ほか
 交通 叡山電車「鞍馬」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 濱島正士『寺社建築の鑑賞基礎知識』至文堂、1992年
 木村展子「豊臣秀頼の寺社造営について」(「日本建築学会計画系論文集」499、1997年)


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昔の人は、誕生日をどう祝っていた? - ある歌舞伎俳優の日記から -

人物




絵看板


 突然ですが、日記と誕生日の話題です

 少し先に、ある人物の話をする機会があって、最近そのことを考える時間が多くなっています。

 その人物の名は、市川箱登羅。

 いちかわ・はことら。
 明治半ばから昭和初期に活躍した歌舞伎俳優です。
 「活躍した」と書きましたが、華々しいスターではなく、キラリと光る通好みの脇役、と言った方がいい人。昭和19年(1944)に亡くなっていますから、もう没後71年で、いまでは誰も知らないでしょう。

  市川箱登羅招き看板

 私は、もともとこの役者に興味があったわけではありません。
 最近仕事の関係で、初代中村鴈治郎にかかわることになったのですが、彼が鴈治郎一座の番頭格の役者だったことから、ちょっと気になり始めました。

 箱登羅は、40余年にわたる克明な日記を残しています。「市川箱登羅日記」で、その筋ではちょっと知られた存在です。長年、歌舞伎学会の会誌「歌舞伎 研究と批評」に、菊池明氏によって翻刻が続けられています。
 翻刻の存在は以前から知っていたのですが、読んだことはありませんでした。それを今回読んでみようという気になったわけです。

  「歌舞伎」 「歌舞伎 研究と批評」

 箱登羅は、慶応3年(1867)に浅草田町で生まれた“江戸っ子”ですが、明治22年(1889)、大阪にやってきて、のち初代鴈治郎の芝居に出演します。大スター鴈治郎とは7歳ほど年下ですが、そのもとで舞台の表裏で重要な役回りをしていて、一座には欠かせないベテラン役者でした。
 そのため、明治35年(1902)から残されている日記には、大阪や京都のことがたくさん出てきます。明治後期から昭和初期の関西の劇界のことはもちろん、人々の生活、風俗、世相など、当時のことを考えるネタの宝庫と言えます。
 何を食べた、いくら使った、どこで遊んだ、誰から何をもらった、何時に寝た、などなど、几帳面な人だったらしく、こまごまと日記に付けています。芝居のことに限らず、庶民生活の全般について、いろんなことが記されていて、これを読まない手はない、と思ったわけです。


 昔の人の誕生日祝い

 市川箱登羅は、幕末の慶応3年生まれです。では、誕生日はいつか? 私は最初、ここで引っ掛かったのです。
 ある種の情報には、10月9日生まれ、と書いてあります。
 これはおそらく、没後まもなく、この日記を紹介された河竹繁俊氏の論文に10月9日と書かれているからでしょう。

 でも、いろいろ見ていくうちに、10月19日という記載も出てきました。「1」があるかないかなので、どちらかが間違っているのだろう、と思いました。

 ここで私が興味を持ったのは、「昔の人って、どういうふうに誕生日のお祝いをしているんだろうか」ということです。

 まず思い浮かぶのは、昔は数え歳、つまり正月に1つ歳を取るのだから、誕生日自体はさほどお祝いしないのではないか、というものです。

 けれども、以前調べた大阪の豪商・鴻池家では、明治時代、当主(11代善右衛門)の誕生日に、親戚一同が集まって宴会を開き、最後に“福引大会”で締めていた、ということが分かっています(御子息の回想録による)。
 明治時代になると、誕生日祝いをするケースもあったわけです(鴻池家は一般庶民とはとても言えないですが)。

 では、箱登羅さんはどうだったのか? 10月9日と10月19日と、念のため両方の日付を毎年調べてみました。

 やっぱり、何も書いてない……

 ということは、誕生日のお祝いはしなかったし、意識すらしなかったのか……やはり昔風だな、などと思ったのです。


 いつが誕生日なのか?

 ところが、日記を読み進めていくと、おやっ !? という記述に出会いました。
 明治36年(1903)12月7日のところ。この日、箱登羅は京都・南座で興行中でした。

 十二月七日 月 晴/南座九日目 (中略) 此日我等のたん生に付伏見いなりへ参詣ニ行 (後略) 

 「我等(われら)」は、この日記では「私」の意味。
 つまり、12月7日の今日が自分の誕生日で、芝居の合間に人力車に乗って伏見稲荷に参詣に行った、ということなのです。

 12月7日って、10月じゃないんですか? あなたの誕生日は……

 「市川箱登羅日記」

 しばし考えて、思い付いたのは、新暦と旧暦、ということでした。
 
 明治36年はもちろん新暦(太陽暦)ですが、箱登羅が生まれた慶応3年(1867)はまだ旧暦(陰暦=太陰太陽暦)を用いていました。
 旧暦の日にちは、新暦になるとズレが生じます。いまでも、お盆など「旧盆」でやる地域がありますね。

 実は、明治36年12月7日は、旧暦に換算すると10月19日だったのです!

 私もこれまで意識したことがなかったのですが、新暦の「今日」が旧暦の何月何日に当たるのかは、計算するとすぐ分かるのだそうです。インターネット上にも、たくさん換算サイトがあります。

 そこで、そのサイトを使って、毎年、旧暦10月19日がその年の何月何日になるか、調べてみました。

 例えば、明治35年は11月18日。明治37年は11月26日。明治38年は11月15日。でも、何も書かれていません。そのあとも何もない日が続くのです(日記が欠けている年もある)。

 ようやく出てきたのが、明治42年(1909)、12月1日でした。

 十二月一日/晴/京都南座初日 (中略) 此日旧十月十九日ニ当リ 我等がたん生日也 (後略)

 確かに「旧十月十九日ニ当リ」と書いてあります! はっきりと旧暦に換算して、その日を自分の誕生日と考えていたわけです。
 そしてまた、箱登羅丈の誕生日が10月9日ではなく19日であることも、確実になりました。

  市川箱登羅紋


 あまりお祝いしない? 明治時代の誕生日

 現在翻刻済みの大正2年(1913)までで、明瞭に誕生日と記載があるのは、たった3日です。12年で3回とは、ちょっと少ない? 誕生日に対する意識が、現在より低いのでしょうか。

 大正元年(1912)には、短く 「但[ただし]此日我等たん生日 旧十月十九日」とだけ記しています。
 現在のように、みんなでパーティーをするというのは、ごく一部の人たちに限られていたのでしょうか。

 ちなみに、新暦と旧暦の対比をどのように知ったかというと、おそらく暦(こよみ)を見たのだと思います。
 箱登羅日記には、年末に新年の暦を購入する記事もあり、暦には今日が旧暦の何日に当たるかが分かるようになっていたからです。


  暦




 【参考文献】
 菊池明「市川箱登羅日記」(「歌舞伎 研究と批評」第4号~連載中)
 河竹繁俊「市川箱登羅の日記(抄録と解説)」(『歌舞伎叢攷』中央公論社、1949年)
 船越幹央「鴻池家の日々」(『豪商鴻池』東方出版、2003年)


梅鉢紋がアクセントの北野天満宮文鎮は、実用性満点 - 私の文鎮収集(4)-





北野天満宮文鎮


 学問の神さまと書初め

 私の文鎮収集も第4回。

 今回は、神社です。
 北野天満宮。
 ふつう、ただ “天神さん” と呼んでいて、これでもう北野天満宮です。私の母の実家はこの近所だったのですが、「天満宮」という言葉は聞いたことがありません。

 京都の人は、神さまでも仏さまでも何でも “さん” 付けですねと、よく言われるのですが、ほんとうです(笑)

 祭神は、学問の神さま・菅原道真。
 その関係で、お正月には参拝者が書初めを奉納します。

 北野天満宮書初め
  北野天満宮 書初め (絵馬所)

 北野天満宮書初め
  出品要項

 ふだんの絵馬所が書初め場所に変わって、1月2日から4日まで、書初めすることができます。
 写真の出品要項によると、紙代は50円、出品料は200円だそうです。
 審査の上、各賞も出され、1月下旬に展示されます。

 これもやはり、道真公の御前で書くということが大切なのでしょうね。書道上達祈願、学業成就のお祈りというわけです。
 

 文鎮も、書道仕様で実用的

 そんな天神さんですから、文鎮も書道で使える実用的なものになっているようです。

 北野天満宮文鎮

 長さは18cmあって、重さもズッシリ。
 色目的には、緑青(ろくしょう)っぽい青緑がかった仕上げがなされています。

 これまで紹介したお寺の文鎮は、デザイン重視のお土産系だったのですが、こちらは実用一点張り、棒状の文鎮です。

 北野天満宮文鎮

 筆と墨で書道するときに用いるものなので、文鎮の端が筆置きにもなるのです。

 北野天満宮文鎮

 両端にある3筋の切込み。ここが筆を置く部分ですね。
 あくまでも実用的。ありがたい工夫です。

 ただし、天神さんの神紋、梅鉢紋が中央に配されていてアクセントに。

 北野天満宮文鎮

 道真公といえば、東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花、ですから、神紋も梅なのです。
 裏面には、神社の名前が。

 北野天満宮文鎮

 こういう誠実な文鎮も、好感が持てますねぇ。ただ、写真が単調になってしまうのですが……

 文鎮シリーズ、さらに続きます!


 北野天満宮の牛




 北野天満宮

 所在 京都市上京区馬喰町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「北野天満宮前」下車、徒歩すぐ


【新聞から】鎮守の森の喪失から考える、伝統的なものを支える社会のあり方とは?





木立とマンション


 世界遺産周辺の景観規制強化へ
 京都市、最大61地域対象
 京都 2015年5月21日付


 最近、京都で話題になっていることのひとつに、下鴨神社のマンション建設計画があります。
 左京区にある下鴨神社(賀茂御祖神社)。その境内にひろがる社叢・糺の森(ただすのもり)の南方に、マンションを建設するという計画です。間近に迫った式年遷宮のための資金捻出が理由です。

 これまでの報道によると、式年遷宮には約30億円の経費が必要で、国の補助8億円に加えて寄付を募ってきたものの目標額に達せず、50年の定期借地権を設定して分譲マンションを建設させ、資金を調達しようというものです。敷地は、神社南端の約9,600㎡で、地上3階建8棟(約100戸)を建設。2015年11月着工、2017年2月竣工の予定です。
 神社は年間8,000万円を得るということですので、50年では40億円になる計算です。単純に考えれば、今回の式年遷宮はもちろん、次回(21年後)の遷宮費用も賄える勘定になるでしょう。

 ところが、下鴨神社は世界遺産で、建設地はそれに隣接するバッファゾーン(緩衝地帯)に当たるため、その当否が議論となっています。

 下鴨神社
  下鴨神社

 京都市内では、それ以前にも、京都御所に隣接する梨木神社(上京区)のマンション建設が問題になりました。本殿や拝殿などの修復費捻出が目的です。
 市議会でも取沙汰されましたが(後述)、現在、工事は進行中で、まもなく竣工します。「イーグルコート京都御所東 梨木の杜」というマンション(30戸余り)です。
 こちらも、60年間の定期借地権が設定され、梨木神社は地代を得ることになっています。気になって計算してみると、年間800~900万円程度になるようです。戸数が少ないので、下鴨神社よりはかなり少額です。

 梨木神社
  梨木神社(工事前の様子)

 梨木神社は、御所に沿って南北に長い境内を持っています。その南端に写真の一の鳥居があります。
 マンションは、この鳥居の内側に建てられます。つまり、一の鳥居と二の鳥居の間の参道だったところ(実際には駐車場化していましたが)にマンションが出来るわけです。
 マンションのウェブサイトを見ると、「京の憧憬、御所東の地に かつてない邸宅を。」「緑深き神聖なる領域、鎮守の杜に棲む。」「他に類を見ない、御苑に隣接した立地。」と、御所の脇にあることや、神社の境内にあることが強調されています。
 販売が進められており、2015年6月から入居も始まる予定だそうです。

 このような状況を踏まえて、冒頭の京都新聞の記事になります。
 京都市では、世界遺産に隣接するバッファゾーン(緩衝地帯)を含んだ景観規制を強化する方針を固めたそうです。
 2017年度を目途に、条例制定も含めて検討し、建物の高さやデザインの規制、森林の保全などを図ります。
 世界遺産のバッファゾーンに加え、京都御所や伏見稲荷周辺にも及ぶ模様です。

 バッファゾーンの開発については、すでに醍醐寺や慈照寺(銀閣寺)周辺でも問題になってきました。
 梨木神社のマンション建設については、2013年10月2日に京都市議会で、中止を含めて事業者と協議するよう市に求める決議案が可決されています。与野党の多数が賛成して緊急決議されたわけですが、法的拘束力はないため、結果的にはマンションは建てられました。
 2017年というと2年後なのですが、市によって規制化が薦められることになるわけです。
 
 もともと神社は、拝観料を取るでもなく、墓地経営もありません。そのため、私の学生の頃(30年ほど前)でも、鎮守の森を伐採して駐車場にする(している)ところがありました。月々の収入を得るためです。
 しかし、社殿の造替や修理は、ふつう億単位のお金がかかります。国や地方自治体の補助もありますが、神社自身も経費を工面しなければなりません。市内では、社殿が著しく痛んでも修復の目途が立たないところも見受けられます。
 中京区の由緒ある神社では、痛みの激しい京都市指定の本殿などを修復する計画ですが、総額3億円ほどが必要といいます。寄付などで所有者負担分を賄う必要がありますが、景気がよいとは言えない今日、簡単な金額ではないでしょう。

 神社が人々の信仰的紐帯の要であった時代、修復や造替の費用は氏子たちが負担したり、場合によっては時の為政者が拠出してきました。
 今日では、その社殿などは「文化財」として、市民や国民の財産となったわけですが、所有者の負担はいまだ莫大なものがあります。
 鎮守の森は伐らず、マンションや駐車場は建設しない方がよい、と考える方がほとんどでしょう。けれども、神社とてカスミを喰って生きていくわけにはいきません。社会として、どのように支援していくのか、新たな援助の形を考えるべきときに来ています。


萬福寺の文鎮も、これ以外にない! ベスト・デザイン - 私の文鎮収集(3)-

宇治




萬福寺文鎮


 萬福寺にも、ぜひとも求めたくなる文鎮が

 「私の文鎮収集」、第3回。

 今回は、宇治市にある黄檗山萬福寺です。
 江戸時代に中国から入ってきた黄檗宗の大本山だけあって、異国情緒にあふれる伽藍が魅力的です。

 売店も充実していますが、やはり文鎮が置いてあるのですね。

 少々前に求めたので、箱はどこかに行ってしまいました。
 文鎮は、こちら!

 萬福寺文鎮

 ただのサカナじゃありません。
 萬福寺に行かれた方なら、何かすぐ分かるでしょう。

 そう、魚の形をした板、開梆(かいぱん、魚梆)ですね。
 斎堂の前に吊るされていて、儀式や食事など時刻を知らせる際に叩きます。木魚のルーツともいわれますね。
 魚は不眠不休なので、怠惰を戒めるために叩くそうです。
 これをモデルにして文鎮を作りました。

 萬福寺魚梆
  開梆

 私は、子供の頃、ここを訪れたことがあるのですが、記憶に残ったのは、この魚板だけでした。
 それだけインパクトのある存在ですね。

 この文鎮も、かなりリアルなので比べてみましょう。

 萬福寺文鎮 文鎮

 萬福寺魚梆 開梆

 紫色の紐を付ける部分が出っ張っているところ、ここだけが少し違いますね。


 開梆を彷彿とさせる出来栄え 

 萬福寺文鎮

 迫力ありますねぇ。
 口には玉をくわえています。

 胴には、「黄檗山万福寺」の名入り。

 萬福寺文鎮

 タテから見ると……

 萬福寺文鎮

 若干左に傾いているでしょう。
 つまり、名前が入っている方が前なんですね。

 私はいつも複数の文鎮を机上に載せ使っています。この文鎮は、そのひとつ。
 文鎮としては背が高くて不安定。使いにくいわけですが、ウェイトは通常の文鎮より重いので、しっかり押さえることができます。他の文鎮と組み合わせて用いると便利です。

 デザイン優先で置物的と思える萬福寺文鎮ですが、意外に役立つ実用品でした。




 萬福寺

 所在 宇治市五ケ庄三番割
 拝観 大人500円ほか
 交通 JR、京阪電車「黄檗」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『黄檗山萬福禅寺』大本山萬福寺、2001年


信者の篤志で修築されてきた赤山禅院の堂宇、その建築年代に頭をひねる





赤山禅院


 広壮な寺域を持つ赤山禅院

 前回に引き続き、左京区にある赤山禅院です。

 赤山は、中国の地名で、入唐した円仁(慈覚大師)が立ち寄った場所。その地の赤山大明神(=泰山府君)を勧請したものが、比叡山西麓の赤山禅院です。
 このように延暦寺と関係の深い天台宗寺院で、都の北東にあることから「皇城表鬼門」と称しています。

 「都林泉名勝図会」より「赤山社」 「都林泉名勝図会」より

 修学院離宮から目と鼻の先のところで、いまでこそ住宅に囲まれていますが、往時は田畑の中に木立があり、その奥に位置していたのでしょう。
 もちろん洛外で、京の都から、ゆるゆると歩いて参詣すれば、絵のような女性の足なら一日ががりというわけです。

 「都林泉名勝図会」より「赤山社」
  「都林泉名勝図会」(1799年)

 本殿、拝殿があるほか、摂末社もあって、池泉をめぐる回遊式庭園風の境内です。

 「都名所図会」(1790年)には、本殿、拝殿のほかに、絵馬所や本地堂があります。

 「都名所図会」より「赤山社」
  「都名所図会」(1790年)

 ところが、いま訪れると、他にも地蔵堂、不動堂をはじめ、福禄寿殿や弁財天堂、御滝堂など数多くの堂宇があります。
 今回、実地でそれらを見ながら、それぞれがどのように建てられたのか、頭をひねったのでした。


 「愛宕郡村志」と「都名所図会」

 赤山禅院は、江戸時代の地誌にも登場しますが、個々のお堂についてまでは記されていないようです。
 明治時代になり、明治44年(1911)刊の『京都府愛宕(おたぎ)郡村志』には、「境内堂宇」として次のように紹介されています。

 神殿  方丈  拝殿  不動堂  茶所  末社三ケ所  

 「神殿」は本殿です。
 気付くことは、「不動堂」があることです。

 この不動堂、江戸時代にはなかったような……

 もう一度、「都名所図会」を見てみると……

 「都名所図会」より「赤山社」

 赤山禅院の石段の右に、「雲母不動道」と記されているのです。この「不動」が、実は関係あるのですね。

 赤山禅院の東方は、比叡山への登り路に当たりますが、この山道を「雲母坂(きららざか)」と言います。その登り口にあったのが、雲母寺(うんぼじ)でした。
 『愛宕郡村志』には、次のように書かれています(句読点は補いました)。

 雲母寺跡
 拾芥抄載するところにて、元慶年中、相応和尚の開基なりといふ。音羽谷の南面に在り。延暦寺に属す。
 境内二千六百余坪、堂宇も完備せしか、明治十八年、滋賀県に属し、其後廃寺となり、堂宇は毀撤して空しく荒墟となれり。其不動堂のみは赤山禅院に移築せり(107ページ) 


 雲母寺は、延暦寺に属する寺で、明治18年(1885)には延暦寺と同じ滋賀県の管轄下となった。しかし、その後、廃寺となって堂宇は荒廃したが、本尊・不動明王を祀る不動堂だけは赤山禅院に移築された、という内容です。

 つまり、先ほどの「不動堂」は、雲母寺の本堂が移築されたものなのでした。


 拝殿と本地堂

 この不動堂がいつ建立され、移築されたのか、当然知りたいところです。

 しかし、『京都府の近世社寺建築』(1983年)には、赤山禅院については調査されていません。うがった見方をすれば、当院の堂舎は近代のものだから対象外になった、と考えることもできます。
 では、『京都府の近代和風建築』(2009年)を見てみました。すると、当院については、拝殿と地蔵堂が明治44年(1911)築と記されているのが分かりました。

 赤山禅院
  拝殿

 赤山禅院
  地蔵堂

 地蔵堂は、もとの本地堂にあたります。赤山明神の本地仏が地蔵菩薩であると考えられていたからです。
 「都名所図会」にも、「本地堂」として登場していますね。

 赤山禅院
  本地堂(「都名所図会」)
  
 この2つのお堂が、明治末の建築とされています。

 拝殿の前に、このような石柱が立っています。

  赤山禅院

 「拝殿改築 大阪 友親会」とあります。
 裏面には、「明治四十四年十月 発起人 辻井安治郎/福原源次郎/津田□太郎」と、改築年と発起人3名の名前が記されています。

 この「改築」をどう考えるかですが、前の建物を壊して、新築したとすれば、現在の拝殿は明治44年(1911)建築ということになります。
 地蔵堂も、同時に建て替えられたということでしょう。


 増築された不動堂

 では、不動堂はどうなるのでしょうか。
 少なくとも、明治18年までは雲母寺にあったわけなので、移築は明治中期から後期ということになるでしょう。

 現在の不動堂を見てみましょう。

 赤山禅院

 まず正面から見ると、桟瓦葺きの入母屋造(平入)で、桁行は三間。こぢんまりとしたお堂です。

 横に回ってみると……

 赤山禅院

 おや、入母屋造の建物の後ろに、宝形造の建物が連結されています。
 
 反対側の左(北)側面。

 赤山禅院

 方三間の宝形造のお堂です。右側に、入母屋造のお堂がくっついてます。
 なかに入ると分かりますが、お不動さんを祀る堂宇は、宝形造の方です。そして両堂の間には仁王像が安置されています。入母屋造の方は、広間のようになった拝所なのでした。

 この建物を見て、私が考えたことは、こうでした。
 雲母寺から移築された不動堂は、後ろの宝形造の建物です。おそらく明治後期頃に移して来られたのでしょう。それが、のちに改築され、前面に拝所が造られたのだ、と。

 こう考えた理由は、これです。

  赤山禅院

 不動堂の右側にある、この石柱。
 「不動堂大修繕 大阪 友親会」と記されています。
 裏面には、「大正四年九月 発起人 辻井安治郎/福原源次郎/津田□太郎」とあります。
 先ほどの拝殿と同じく、大阪の友親会が尽力して、不動堂を修繕したのでした。

 では、どういった修繕をしたのでしょうか。
 この写真を見てください。

 赤山禅院
  親柱に「大坂/友親会」と刻まれている

 お堂の拝所に入る石段を友親会が造っています。

 素直に考えると、大正4年(1915)の修繕(それは「大修繕」というほどの規模)の際、宝形造の不動堂の前に、入母屋造の拝所(桁行三間、梁間三間)をつなげた、と考えられます。
 では、その拝所はどうしたのかというと……

 赤山禅院
  拝所の側面

 拝所の細部を見ると、梁などはある程度古いのですが、建具はそれに比べると随分新しいのです。明らかに、作られた時期が違います。
 私が思ったのは、この拝所は何かの建物の転用なのではないだろうか、ということ。

 そこで思いついたのが、これです。

 「都名所図会」より「赤山社」

 「都名所図会」に描かれていた絵馬所の建物。
 これに建具を付けて、再利用したのでは?

 そう思って、いま拝所に入ると、中にはたくさん絵馬が懸けられていて……
 なんだか、そう思えてくるのですが。

 ぜひとも、証拠をつかみたいと思って、さらに調べてみました。
 竹村俊則氏の『新撰京都名所図会』。昭和33年(1958)刊。寺社境内の鳥瞰図が掲載されている本。
 
 ところが、です。
 竹村氏が描く赤山禅院の境内図には、宝形造の不動堂はあるのですが、その前の拝所は描かれていないのでした……

 このことは、昭和57年(1982)刊の『昭和京都名所図会』でも同じでした。

 ……。

 いい推理だと思ったのですが、やれやれ。

 この問題、しばらく解決が付かないと思うのですが、もし分かればご報告します。




 赤山禅院

 所在 京都市左京区修学院開根坊町
 拝観 自由
 交通 叡山電車「修学院」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「都林泉名勝図会」1799年
 『京都府愛宕郡村志』1911年(『洛北誌』大学堂書店、1970年、所収)
 『京都府の近世社寺建築』京都府教育委員会、1983年
 『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
 竹村俊則『新撰京都名所図会』白川書院、1958年
 竹村俊則『昭和京都名所図会』駸々堂出版、1982年
 

都の鬼門にある赤山禅院を描いた名所図会には、意外なものが !?





赤山禅院


 都の鬼門に位置する赤山禅院

 赤山禅院(せきざんぜんいん)は、京都市街の北東にあります。
 この方角は鬼門(表鬼門=東北)にあたることから、古くから方除けの信仰を集めてきました。

 京阪電車の出町柳駅から、叡山電鉄に乗り換え、修学院駅で下車。
 駅の西方には、三千院で知られる大原に通じる道(大原街道)が走っています。その街道を東に分岐すると、赤山禅院へ至る道となります。

  赤山道道標 「東 赤山道」の道標

 明治17年(1884)に建立された道標。ここから、赤山禅院まで「六丁」(約650m)と記されています(実際には、もう少しありそうです)。

 白川通を越えて、音羽川に沿って北東に進みます。案内板もあるので道には迷わないでしょう。
 駅から、およそ20分。
 石鳥居が見えてきます。

 赤山禅院

 背後の山は、比叡山です。とても近くに見えます。
 このロケーションには意味があるのです。

 もともと赤山明神は、中国の泰山府君にあたります。
 円仁(慈覚大師)が入唐した際、帰国の途次、船が登州に着いてしまい、しばらく赤山法華院というところにいたそうです。円仁は、本願を遂げれば帰国後禅院を建てて祀る、と誓いました。しかし、それが叶う前に没してしまい、のちに弟子らが仁和4年(888)に祀ったと伝えられています。

 先日、比叡山の横川を訪ねましたが、そちらにも赤山明神が祀られていました。叡山と関係の深い神さまなのです。
 比叡山の東麓の守護神が日吉大社、西麓の守護が赤山大明神というわけです。


 江戸時代の絵図には… 

 赤山禅院

 鳥居をくぐって進むと、高麗門。
 「天台宗修験道 総本山管領所」「赤山禅院」の木札が掛かっています。

 赤山禅院

 さらに歩を進めて、僅かな石段を登ると拝殿が目に入ります。

 赤山禅院
   拝殿

 拝殿の前に立っても、本殿は全くうかがえません。少々距離があるのです。

 本殿は、大きな三間社流造。屋根の勾配が、とても急ですね。

 赤山禅院
   本殿

 赤山禅院 象鼻

 赤山禅院 手挟

 細部を見ると、木鼻はゾウの形をした象鼻です。手挟(たばさみ)も、菊の籠彫りになっています。
 雰囲気からして、江戸後期から明治時代の造営でしょうか。

 この赤山禅院、本殿の背後や奥にも境内が広がっていて、摂末社も数多くあり、なかなか結構です。
 その様子を江戸時代の絵画で振り返っておきましょう。

 「都名所図会」より「赤山社」
  「都名所図会」より「赤山社」

 「都名所図会」(1780年)に描かれた赤山明神。
 昔は、この絵のタイトルのように赤山社とか、石灯籠に刻まれているように赤山大明神などと呼ばれていたのでしょう。
 
 石鳥居を入って、参道は緩やかにカーブしています。この頃は、高麗門はないようです。

 「都名所図会」より「赤山社」

 拝殿は、舞殿風のもの。
 やや離れて、玉垣に囲まれた流造の本殿があります。 
 右方には絵馬所が、左方にも本地堂が描かれています。


 拝殿上の猿

 ところで、鬼門除けといえば、猿(さる)でしょう。
 猿は、方位の申(さる=西南西)に通じ、鬼門(北東)の逆方向であることから、鬼門除けになると考えられています。
 この猿が、拝殿の上に鎮座しているのです。

 赤山禅院

 御幣と鈴を持つ猿。
 絵馬にも登場します。

 赤山禅院
  絵馬 赤山明神と猿

 御所の猿ケ辻にも猿像はあるし、ここまでなら、余り驚かないわけですが。

 「都林泉名勝図会」より「赤山社」
  「都林泉名勝図会」より「赤山社」  左端が本殿

 「都林泉名勝図会」(1799年)に描かれた赤山明神。
 左方に拝殿と本殿があり、上方には池があり、少々庭園風になっています。

 参詣者が大勢いますが、右端あたりに注目してみてください。
 なにか、いませんか?

 実は……

 「都林泉名勝図会」より「赤山社」

 なんと、オリの中に2匹のサルが!

 参詣者がエサをやっています。

 なんということでしょう。リアルなサルを飼っていたとは !!
 たしかに、像よりは本物の方が効き目はあるかも?

 赤山禅院、なかなかおもしろい。
 もう1回、つづきます。

 (この項、続く)



 赤山禅院

 所在 京都市左京区修学院開根坊町
 拝観 自由
 交通 叡山電車「修学院」下車、徒歩約20分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「都林泉名勝図会」1799年
 『望月仏教大辞典』


龍安寺の文鎮は、これしかないという超レア・デザイン - 私の文鎮収集(2)-

洛西




竜安寺文鎮


 寺院の文鎮は、やはり珍なるデザイン

 「私の文鎮収集」の2回目は、龍安寺。

 京都でも人気寺院のひとつで、虎の子渡しと称される方丈の石庭は、人気の的です。海外ツーリストも、とても多いですね。

 こちらの売店にも、文鎮が置いてあり、求めてみました。

 竜安寺文鎮箱

 箱は、至ってふつう。中に「京の鉄器」という紙片が入っていて、制作は“アトリエYOU”という工房のようです。

 中を空けると……
 
 竜安寺文鎮

 なんと! 石庭をかたどった文鎮なのです。
 その名も「石庭文鎮」。

 こんなデザインありか? と思わせる奇抜なアイデアです。龍安寺も、やるなぁ。

 竜安寺文鎮

 鈕(ちゅう=つまみの部分)が、庭の石なのですね。
 ちゃんと、砂の波紋も作られていて、細かい作品です。


 どの石がモデルなのか?

 それにしても、いい文鎮だなぁ、と悦に入って見ています。が、実際、どの庭石をモデルにしたのだろうか? という疑問が沸々と湧いてきます。

 竜安寺石庭

 右から左まで、大きく分けると5つ石の固まりがあります。
 江戸時代の「都林泉名勝図会」では、このようになっています。

 「都林泉名勝図会」より「竜安寺方丈林泉」
 「龍安寺方丈林泉」(「都林泉名勝図会」4)

 当時は、庭に人がおりているところが驚異的なのですが、まぁそれはおくとして。
 どれなんでしょうか?

 竜安寺石庭

 右方の2つの固まり(上の写真)は、どうも違うみたいです。
 また中央奥の方も、明らかに違う形。
 そうすると、これでしょうか……

 竜安寺売店

 左端にある、この石。
 竜安寺文鎮

 これに間違いなさそうですね。

 なぜこれなのかは不明ですが、単につまみに適した形だったからでしょうか。
 立石から少し離れた左右にある平たい石も、ちゃんと作っています。
 けれども、それぞれの石はそれほど写実的でもないように見受けられます。


 他にも石庭グッズが

 龍安寺の売店は古風だけれど、充実しています。
 文鎮も、複数売っています。

 竜安寺売店

 右端のものが、私が購入した文鎮。
 中央は、石庭全体をかたどった文鎮で、つまみは土塀! なんという意匠でしょうか。
 また、左端は「つくばい栓抜き」。方丈の裏手にある「吾唯知足」の蹲(つくばい)を栓抜きにしてしまった !!
 
 龍安寺、かなりイケてるぞ!

 極めつけは、これ。

 竜安寺石庭

 石庭屏風。
 
 「都林泉名勝図会」の絵を屏風にしたのです。
 実は、これも欲しかったんですね。でも、お値段が……
 日本人より海外ツーリスト向けのグッズかも知れません。

 写真に文鎮のお値段が写っていますが、文鎮は土産物としては適当な価格なのです。どの寺社でも、1000円前後で良い品が買えます。
 実用的で、腐らないし、虫も喰わないし。

 竜安寺文鎮

 まだまだ紹介していきたいと思います。




 龍安寺方丈石庭(国特別名勝・史跡)

 所在 京都市右京区龍安寺御陵ノ下町
 拝観 大人・高校生 500円ほか
 交通 京福電車「龍安寺道」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年 


双子の兄弟が、新時代の歌舞伎を切り開いた - 新京極は松竹あけぼのの地 -





旧ピカデリー・松竹マーク


 新京極から立身した兄弟

 関西を代表する歴史的経済人って、誰でしょう?(活躍中の方は除いて)
 そして、京都の出身者は?

 一番有名なのは、やはり松下幸之助でしょうか。
 でも、この人は和歌山出身。京都じゃない。

 阪急東宝グループの総帥、アイデアマンとして知られる小林一三(いちぞう)。
 宝塚歌劇を作った人で、大臣を務めたこともあるけれど、出身は山梨。

 住友の近代化をリードした初代総理事・広瀬宰平(さいへい)も、著名な経営者ですが、彼も近江(滋賀県)出身ですよね。

 フランスのリュミエール兄弟と知己で、日本初の映画興行(シネマトグラフ)に貢献した稲畑勝太郎。
 映画史には、必ず出て来る名前。
 染料商・稲畑産業の創始者で、この人は京都の真ん中の生まれだけれど、みんな余り知らないですか……

 ノーベル賞の田中耕一さんを出した島津製作所。
 京都を代表する理系企業で、創業者は島津源蔵。この人は、名前のイメージとは違って、京都の人。跡を継いだ二代目も源蔵で、蓄電池の発明をしました。昔は、バッテリーにそのイニシャル「GS」と入っている商品があったけれど、有名な名前とまでは……

 考えあぐねるうちに、みんなが知っている名前がありました!

 <松竹>

 知ってるでしょう。
 映画を作っている会社で、歌舞伎の興行など演劇もやっていますね。

 人名じゃない?
 いえ、この「松竹」という社名、実は“人名の一部”に由来するのです。

 松次郎と竹次郎。
 二人の「松」と「竹」を取って、「松竹」なのですね。

 この松次郎・竹次郎の“松竹兄弟”は、京都の出身。つまり、大企業・松竹株式会社の生みの親は京都人であり、その事業のルーツもまた京都にあったのです。
 今年は、松竹にとってはアニバーサリーの年らしいので、今回は、その歴史を少しひもといてみましょう。

 松竹マーク 松竹社章 松に竹を合わせる


 夷谷座と阪井座から

 大谷栄吉・しも夫妻が、明治10年(1877)に授かった双子の兄弟。それが松次郎と竹次郎でした。
 栄吉は、相撲の興行関係者でしたが、新京極の阪井座の共同出資者でもありました。弟・竹次郎は、父に代わって数え二十歳のとき、その仕事を継いで阪井座の木戸に座ります。
 兄の松次郎は、同じ頃、白井八重と結婚し、白井家に養子に入りました。養父の白井亀吉は、新京極・夷谷座の中売り(売店経営者)でした。この頃、松次郎は芝居の興行を始めており、双子の兄弟は演劇の世界に生きることになりました。

 白井松次郎 大谷竹次郎
 白井松次郎      大谷竹次郎
 (『松竹関西演劇誌』より)

 兄・松次郎の養父・白井がいた夷谷座は、新京極の誓願寺前にありました。
 先頃(2014年)まで、ダイエーのグルメシティがあったのですが、そこはかつて京都ピカデリー劇場でした。

 旧ピカデリー・松竹マーク

 ビルの壁面には、ピカデリーの英字と松竹の社章が付けられています。
 ここが松竹のゆかりの地のひとつですが、

  夷谷座(明治9年~昭和13年)
    ↓
  松竹劇場(~昭和29年)
    ↓
  京都ピカデリー劇場(~平成13年)

 と、変遷してきました(「京都市劇場史略図」、『近代歌舞伎年表 京都篇』所収)。
 少し動きはあるものの、明治後期からは松竹の経営となりました。大正8年(1919)からは映画の常設館になっています。

 もうひとつの故地とも言うべき阪井座は、四条通新京極上ル、東側にありました。

  四条道場芝居
    ↓
  阪井座(明治25年~33年)
    ↓
  歌舞伎座(~昭和11年)
    ↓
  京極映画劇場(~昭和24年)
    ↓
  SY京映(~昭和37年)
    ↓
  SY松竹京映(~平成13年)

 と移り変わってきました。歌舞伎座の時代が長く続きましたが、のち映画館に変わりました。
 現在、ここは松竹京都第三ビルとなり、1階にはカジュアルファッションのライトオンが入っています。ビルの壁面には、松竹の紋が取り付けられています。

 旧松竹座・松竹マーク

 松竹の社史によると、明治28年(1895)、兄弟がこの劇場の興行主になったことをもって、会社の創業年としています。つまり、今年2015年は、松竹創業120年に当たるというわけです。


 南座も松竹の経営
 
 松次郎・竹次郎兄弟が「松竹」と初めて呼ばれたのは、明治35年(1902)のことだそうです。
 明治35年1月3日の大阪朝日新聞に、「松竹の新年」という記事が載り、二人が初めて“松竹”と合わせて呼ばれたのでした(『松竹百年史』)。このあと、松竹合資会社(のち合名会社)という社名になっていきます。

 不思議なことですが、初めは他人から言われた呼称だったのですね。
 ちなみに、当初は「しょうちく」でなく、「まつたけ」という読みでした。

 ところで、現在、京都を代表する劇場といえば、これはもう南座をおいて他ありませんが、こちらも経営は松竹です。

  南座 南座

 江戸時代以来の歴史を持つ劇場で、明治39年(1906)に松竹が経営することとなりました。
 昭和4年(1929)、当時はやりの“桃山風”の近代的な建物に改築されました。
 かつて官許の証しであった櫓には、松竹の紋が染め抜かれています。

 南座


 松竹の経営方針

 松次郎・竹次郎の兄弟は、明治38年(1905)、大阪の名優・中村鴈治郎(がんじろう)と提携します。そして翌年、鴈治郎を擁して、京都から大阪・道頓堀(どうとんぼり)に進出。歌舞伎界を席巻していくことになります。
 記念すべき鴈治郎との提携が成って興行した劇場が、新京極の歌舞伎座。いまライトオンが入っている、あの場所なのでした。

 歌舞伎座跡(松竹京都第三ビル)
  歌舞伎座跡(松竹京都第三ビル)

 明治40年代から大正ヒトケタにかけて、道頓堀の「五座」(5つの主要劇場)を次々と買収していきました。大正8年(1919)夏には、最後に残った弁天座を手中にし、道頓堀を制覇しました。
 これによって、いったい何が起こったのか?
 道頓堀の各劇場が、それぞれに特徴を持った施設となったのです。いまふうに言うと、差別化がなされたのですね。
 
 道頓堀には、「五座」と呼ばれる5つの劇場がありました。
 浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座です。
 加えて、大正末には、松竹座が開業しました(大正12年=1923年)。
 
 この6つの施設が、各々の個性を持っていたのです。
 大正15年(1926)に刊行された『大正大阪風土記』には、その特徴が明瞭に記されています。その要点を引用しておきましょう。

 ・中座 「富裕者の娯楽場」
     「主として旧劇[歌舞伎のこと]を上演」
 ・浪花座「中流階級を標準に」
     「旧劇・新派を通じて新作者を上場する方針」
     「中央平場の一等席を全部椅子席」
     「手軽に芝居を見られるように経営」
     「二部興行にして一回の観劇料を比較的低下した」
 ・角座、弁天座
     「一般民衆を相手に」
     「中央平場を椅子席」
     「低い入場料で観覧せしめてゐる」
 ・朝日座「松竹キネマの封切館」
     「一般民衆のために、本邦優秀映画を提供」
 ・松竹座「海外の優秀映画を」
     「西洋の優秀映画」
     「松竹楽劇部[レビューのこと]の完成品を紹介」

 中座→浪花座→角座・弁天座、というふうに、高級な劇場から大衆的なところまで、お客の階層にあわせた施設を提供したのです。ちなみに、ドル箱俳優・鴈治郎のホームグラウンドは、中座でした。
 映画でも、松竹が制作した邦画を朝日座で、アメリカなどから輸入した洋画を松竹座で上映するというふうに、使い分けたのでした。
 もちろん、経営はすべて松竹なので、お客がどこを選んでも、松竹としては実入りがあります。
 『大正大阪風土記』は、「松竹合名会社が如何に、道頓堀各座を通じて出来得る限り各種の人々の趣味と欲求に応ぜんことに努力してゐるかが窺はれる」と記し、この施策に注目しています。

 このような経営方針は、小林一三や松下幸之助にも相通じる“大衆主義”だといえます。
 大正時代から昭和初期にかけて、社会は確実に変化し、企業経営もそれに見合ったものが求められました。白井松次郎・大谷竹次郎の兄弟は、それを敏感に察知し、大衆の方を向いた経営を模索。演劇を改革し、映画を手掛けたのです。
 のち、関西は松次郎、関東は竹次郎とフィールドが分かれ、京都人というイメージも薄れますが、京都が生んだ演劇人として記憶に残る兄弟です。




 歌舞伎座跡(松竹京都第三ビル)

 所在 京都市中京区新京極四条上ル中之町
 見学 自由
 交通 阪急電鉄「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 『松竹関西演劇誌』松竹編纂部、1941年
 『松竹百年史』松竹株式会社、1996年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』別巻、八木書店、2005年
 法月敏彦「関西における松竹会社の動向」(「歌舞伎 研究と批評」16 所収)
 『大正大阪風土記』同刊行会、1926年


きょうの散歩 - 岡崎・みやこメッセの古本市に行ってきた - 2015.5.3 -

京都本




京をんな


 古書を求めて

 大型連休に、毎年開催される“古本まつり”(春の古書大即売会)。
 京都古書研究会が主催される催しで、会場はみやこメッセ(京都市勧業館)です。

 同会主催では、春(GW、みやこメッセ)、夏(お盆、下鴨神社)、秋(文化の日頃、百万遍・知恩寺)と、年3回の大きな古本市が開かれます。出店数も多く、ジャンルもさまざまで、品定めにも時間が掛かります。

 私の場合、
 (1)いま仕事や研究に必要な本
 (2)以前から関心を持っている分野・著者の本
 を中心に買っています。
 コレクションするという趣味はないので、実用一点張りです。

 今日は、(1)の比重が高くなりました。
 いま、上方の歌舞伎俳優の日記を読んでいて、その参考になりそうな本がおのずと目に留まりました。
 例えば、中村鴈治郎『役者馬鹿』。二代鴈治郎の自叙伝ですが、初代の時代のことも出てきます。こんなふうな歌舞伎や喜劇の本を何冊か求めました。

 読んでいる日記には、食事のことも出てきて、お客さんが来ると、よくウナギを食べるのですね。そこで手に取った本が、これ!

  鰻通 『鰻通』

 その名もズバリ、『鰻通(うなぎつう)』。
 入江幹蔵著、昭和5年(1930)、四六書院刊。

 この出版社は、“通叢書(つうそうしょ)”というシリーズを出していて、『道頓堀通』とか『上方色街通』とか、いろいろな本があるのですが、この『鰻通』もその一冊。
 ウナギの生態、料理から、詠まれた俳句や伝説まで、ウナギの雑学事典の様相を呈しています。

 著者についてはよく知りませんが、たぶん東京の人のよう。巻末に、東京蒲焼屋案内! というのが付いています。
 ちなみに、京都では、江戸焼(東京風)に梅の井(縄手)と神田川があり、みの吉(縄手)、みの庄(御所前)も鰻をやると記されています。大谷(京都から三条通を大津へ向かう途中)にある「かねよ」も紹介されています。

 通叢書は当たり外れがあるように思いますが、『鰻通』はまずまずしっかりしています。


 京野菜の本

 先日、京野菜スープを食べたので、こんな本を買ってみました。

  京洛野菜風土記 『京洛野菜風土記』

 植木敏弌(としいち)『京洛野菜風土記』。私家版で、昭和47年(1972)に刊行されています。
 著者は、長年、京都市農会などに勤務された農業の技術指導者ということです。そのため、栽培法についても詳しく書かれています。
 この本には、半世紀ほど前に京都で栽培されていた野菜が網羅されています。

 大根だけでも、聖護院蘿蔔(だいこん)、桃山蘿蔔、松ヶ崎の茎蘿蔔、辛味蘿蔔、郡(こおり)蘿蔔、青味蘿蔔と、6種あげられています。
 また、ナスでは、山科茄子、吉田の捥(も)ぎ茄子、西院の黒茄子、鴨茄子があがっています。

 品種の区分も細かくて、例えば聖護院蕪菁(かぶら)は、早生系と晩生系に分かれるのだそうです。九条葱(ねぎ)には、浅黄種と黒種があるといいます。
 また、聖護院といえば、ダイコンかカブラとばかり思っていましたが、聖護院胡瓜(きゅうり)というものもあるのだそうです。
 結構マニアックな本と見ました(笑)
 

 美しい装丁に魅かれて

 世に“ジャケ買い”というものがありますが、本の場合も装丁に魅かれて求めてしまう場合があります。

  京をんな 『京をんな』

 田中左川『京をんな』。昭和10年(1935)、立命館出版部刊。
 発行して、すぐに5版になっているので、とても売れたのでしょう。みんなジャケ買い? という気も……

  京をんな

 京都の日本画家・富田渓仙による装丁画。
 ふたりの女性、右は黒木に腰掛ける大原女でしょうか。左は、鞍掛け(踏み台)に座って長キセルを吸う畑の姥(おば)でしょう。
 俳画のような軽みのある、いい絵ですね。

 本書は、小野小町、紫式部から、常盤御前、静御前、そして太田垣蓮月や幾松まで、30人近い歴史上の“京おんな”を取り上げています。
 その最後あたりに「近郷の女」として、「花売乙女」「小原女」「畑の姨(おば)」についてふれています。小原女は、もちろん大原女のことです。

 近在の村々から、炭や薪、黒木や花などを売りに来る女性のことは前から興味があって、ここにも書いたことがあります。
 記事は、こちら! → <戦前は“大原女”が大ブーム?!> <“畑の姥”の驚異的頭上運搬術!>

 この本を読んで、いずれその内容を紹介してみたいと思います。
 装丁に魅かれて買うというのも、古本を見る愉しみのひとつですね。


  古本市



 みやこメッセ(京都市勧業館)

 所在 京都市左京区岡崎成勝寺町
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩約10分


【お知らせ】
 5月13日(水)、BS-TBS「高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり」に出演します。午後10時~10時54分のオンエアです。
 女優の高島礼子さんと鞍馬寺を訪れます。よろしければ、ご覧ください。