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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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東本願寺の文鎮は、陶製でキュートな仕上がり - 私の文鎮収集 -





東本願寺文鎮


 趣味の文鎮収集

 みなさんは、神社やお寺を訪ねた際、おみやげに何を求めますか?
 神社は、お守りやおみくじが主流ですが、お寺はグッズ販売コーナーが充実してきて、目移りすることが多いですね。

 そんな中、私が好んで買う品物があります。
 それが、文鎮!

 たぶん珍しいと思います、文鎮を集めている人。
 特に書道をやるわけでもないのですが、もう四半世紀前から、折にふれては文鎮を買っています。
 最近、京都の寺社でも面白い文鎮が増えてきたので、追々紹介していこうと思う次第です。

 伊勢神宮文鎮
   最初の頃に買った伊勢神宮文鎮
   造営の残材で作られている


 東本願寺で文鎮を発見!

 寺社の文鎮には、大きく分けて2つの“流派”があります。
 ひとつは、実用に徹したもの。もうひとつは、デザインの面白さを追求したもの。最近は、後者が増えています。

 今回取りあげるのは、東本願寺。
 下の写真は、<総合案内所 兼 お買い物広場>で、たぶん昔の茶所を改装した建物です。スペースも広いので、絵本、書籍から御香、珠数まで数々のグッズが販売されています。

 東本願寺総合案内所・お買い物広場
  東本願寺 総合案内所 兼 お買い物広場

 トートバッグとかTシャツとか、なかなかのデザインで欲しかったりするのですが、ちょっと宗教的な色彩も強いので、二の足を踏んでしまいます。
 ところが、先日、ここで文鎮を売っているのを発見したのです!

 東本願寺文鎮
  東本願寺 文鎮

 白い箱に入っていて、「真宗本廟[註:東本願寺のこと]参拝記念/御影堂屋根瓦葺土入 文鎮」と書かれています。
 絵は、御影堂です。

 東本願寺の御影堂(ごえいどう)は、明治28年(1895)に再建されたものですが、東大寺大仏殿などと並ぶ大規模な木造建築で、2004年から2008年にかけて修復がなされました。

 東本願寺御影堂
  東本願寺御影堂

 この建物は、畳敷きで言うと、927畳! もあるのですが、屋根も巨大です。瓦が、17万5,000枚もあるのです。
 寺院などの伝統的な瓦葺きは、屋根に土を置いた上に瓦を並べていきます。瓦の重量に加え、葺(ふ)き土の重さもプラスされるため、建物には莫大な負荷が掛かります。
 今回の修理では、それを軽減するために、葺き土を使わない空葺き工法が採用されました。ステンレス釘や銅線で留める方法になったのです。

 不要になった葺き土は、約1,000トン。その一部は、地震時のねじれを抑制する土壁としても再利用されたそうです。
 
 長々と説明してきましたが、箱に書かれた「屋根瓦葺土入」というのは、この土が混ぜられているというわけですね。


 なんの変哲もないデザインに見えるけれど……

 東本願寺文鎮

 白い焼き物の文鎮です。
 真ん丸ではなく、表面にも凹凸があり、色も純白ではない、味わいのある逸品です。
 直径は9cmあるので、かなりボリュームがあります。

 東本願寺文鎮
  「東本願寺」の刻銘がある

 制作は、長谷川治氏。
 底面には、グリーンのフェルトが貼ってあります。

 東本願寺文鎮

 こう見ると、なんの変哲もないデザインに感じられます。
 けれども、鈕(ちゅう)-印章などのつまみの部分-は、あっと驚く意匠になっています。

 東本願寺文鎮

 御影堂の形になっています!

 鈕は、獅子の形とか、あるいは有名な金印(福岡・志賀島で発見された)では蛇になっていますね。他にも亀や羊など、印では多くの場合、動物の形です。
 ところが、この文鎮は建物です。意外なデザインですけれど、御影堂の修復記念と、すぐに分かります。

 お寺の文鎮は、その特徴を端的に表すものが多いのですが、お堂そのものを意匠化した文鎮は珍しいのでは?

 あたたか味のある陶製文鎮を紹介しました。

 


 東本願寺

 所在 京都市下京区烏丸通七条上る
 拝観 自由
 交通 JR「京都」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『御影堂御修復のあゆみ』真宗大谷派(東本願寺)、2012年


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京野菜スープを食べてみた! - 海老芋のポタージュ仕立てが濃厚な味わい -

その他




京野菜スープ


 近郊で栽培された「京野菜」

 大都市の近郊では、江戸時代にもなると、いわゆる蔬菜(そさい)栽培が盛んになります。京、大坂、江戸、どこでも同じですが、都市の人々の食を支えるため、近郊農村で野菜を育て、都市に売りさばいたのです。

 「花洛名勝図会」より聖護院大根
  聖護院大根の栽培(「花洛名勝図会」巻4)

 幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)に描かれた聖護院大根(しょうごいんだいこん)の栽培風景。
 聖護院(左京区)といえば、大根や蕪(かぶ、かぶら)の名産地でした。

  聖護院大根 聖護院大根

 「花洛名勝図会」には「太蘿蔔」、“ふとだいこん”と記されています。蘿蔔(らふく)は、大根の漢語ですね。
 確かに、絵を見ると、太い大根です。

 現在では、さらに太くというべきか、丸に近い特異な形になっています。
 上の写真は、千本釈迦堂の「大根だき」の際に撮影したものです。これは淀(伏見区)で栽培されたものなのですが、名称は聖護院大根。つまり、ブランド名なのですね。
 煮崩れしないので、煮物に好適です。

 これは一例ですが、京都の周辺ではいろいろな野菜が栽培されてきました。いわゆる「京野菜」ですね。
 産地名が冠されたもので言えば、「賀茂(かも)なす」「壬生菜(みぶな)」「九条ねぎ」「鹿ケ谷(ししがたに)かぼちゃ」「堀川ごぼう」「聖護院かぶら」などなど。これらは、江戸時代から栽培されていたといわれるものです。


 京都では、スーパーで“京野菜スープ”を売っている

 下の写真は、京都の北郊・上賀茂(北区)です。いまでも、住宅の間に野菜を栽培する畑が拡がっています。

 上賀茂の畑
  上賀茂の野菜栽培 ハウス栽培も多い

 今日(4月下旬)、畑を見ると、ねぎ、さやえんどう、いちごなどが栽培されているようでした。時期によっては、なすなども目立ちますね。

 戦前の書物にも、野菜を行商する女性が多いことが紹介されています。

  『日本地理大系』より「賀茂の女」 「賀茂の女」(『日本地理大系 7 』)

 カゴに南京(かぼちゃ)を入れていますね。行商は、最近ではほとんどなくなったと思いますが、戦後もずっと行商で野菜を売っていました。

 ということで、前置きが長くなったのですが、今回紹介するのは、このような京野菜を使ったスープです。

 京野菜スープ
  食べる京野菜スープシリーズ

 スーパーで売っているのを見付けて、「海老芋(えびいも)」と「聖護院大根」を買ってみました。
 売り場では、他にも、京竹の子、聖護院かぶらを売っていました。調べてみると、賀茂茄子や京甘藷もあります。
 
 パッケージには、「京都の八百屋さんと野菜ソムリエが共同開発」と書かれています。
 京野菜販売協同組合の販売するレトルトスープで、お値段は540円(税込)。

 では、さっそく食べてみましょう!


 海老芋のポタージュスープを食べてみた

 今回食べるのは、海老芋(えびいも)を使ったポタージュ仕立てのスープ。

  京野菜スープ 京野菜スープ・海老芋

 レトルトなので、熱湯で5分ほど温めると出来上がり。

 京野菜スープ

 おいしそうなポタージュスープですね!

 京野菜スープ

 海老芋がサイコロ状にカットされていて、ごろっという感じで入っています。

 京野菜スープ

 スープは、ふつうのポタージュよりも濃厚な味わい。
 海老芋は、里芋の一種ですが、じゃがいもよりもサクッと感があるようで、濃いスープにマッチしています。
 にんじんとたまねぎも入っていて、とても美味です。

 パンにつけて食べてもおいしく、朝食や昼食の友になりそうですね!
 
 スープとしては、まあまあ高価な品だと思うのですが、味は太鼓判。おすすめです。

 野菜によって、中華風スープやクリームスープと、異なる味覚が楽しめます。

 最後に、パッケージにある海老芋の説明を引用しておきましょう。

 江戸安永年間、東山青蓮院の門跡が、九州の巡業から持ち帰り農民に栽培させたところ、海老のように縞模様のある反り返った良質の芋が出来たのが始まり。京の冬の伝統野菜のひとつで、ねっとりとした食感ときめの細さが、料理に高級感と上品さをもたらします。


  上賀茂の畑




 食べる京野菜スープシリーズ

 販売者 京野菜販売協同組合
 購 入 スーパーなどで。ネット販売もあり
 価 格 540円(税込)



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『日本地理大系 7 』改造社、1929年
 鎌田道隆『京 花の田舎』柳原書店、1977年


90周年を迎える叡山電鉄は、出町柳の駅舎も見逃せないスポット





出町柳駅


 叡電の平坦線も、開業90周年

 前回、比叡山に登る叡山ケーブル、ロープウェイが、今年(2015年)90周年を迎えることを紹介しました。
 ケーブルにつながる鉄道路線(いわゆる「平坦線」)も、もちろん90年の節目となります。

 叡電90周年ヘッドマーク 記念ヘッドマーク

 平坦線は、京都北郊への入口・出町柳駅と、比叡山麓・八瀬の間、5.6kmを結びました。大正14年(1915)9月27日のことです。
 ケーブルは、それに約3か月遅れで(12月20日)、ロープウェイは昭和になってから(昭和3年10月21日)、開業しています。
 当時の運営者は、京都電灯株式会社。昭和17年(1942)に、京福電気鉄道が設立され、戦後ずっと経営してきました。現在の叡山電鉄(叡電=えいでん)は、昭和60年(1985)の設立です(翌61年営業開始)。


 隠された駅舎

 叡電・出町柳駅です。

 出町柳駅
  叡山電鉄 出町柳駅

 よくある普通の駅舎ですね。
 構内に入ってみましょう。

 出町柳駅

 ホームを先(北)に進んで振り返ると、まったく違った様相を呈します。

 出町柳駅

 なにやら、お寺の屋根のようなものが!

 出町柳駅

 入母屋造(妻入り)の簡素な屋根。
 しかし、破風には飾りの懸魚(げぎょ)も取り付けられています。

 出町柳駅

 下にぶら下がっているのが懸魚ですね。かぶら懸魚ふうな姿です。
 上に飛び出しているのは鬼瓦というわけですが、和風ではなく、西洋のアンテフィクス(植物文様の屋根飾り)をイメージしているのでしょう。
 つまり、和様折衷で、近代の鉄道駅舎らしい感覚です。

 この駅は、開業当時、比叡山延暦寺へのアクセスポイントだったわけですから、寺院風のデザインにしたのでしょう。
 全国の鉄道駅舎を見ると、神社仏閣に近い駅の多くで、このような意匠が取り入れられていること分かります。


 堂々たる鉄骨造

 この屋根の下に入ってみます。

 出町柳駅

 堂々たる鉄骨造ですね。
 屋根がトラスによって支えられていることが分かります。構造は、洋式だったわけです。
 できるだけ柱を少なくして、広い空間を確保するように努めています。

 出町柳駅

 開業当初は、この入母屋造の部分だけで営業していたようです。古い写真は、『京福電鉄50年の歩み』などにも掲載されていますが、かなり格好いいです。
 現在では、北側にホームを覆う屋根を増設しています。

 出町柳駅
  ホームに設置されている屋根 手前が古い駅舎部分

 90年の重みですね。
 前回紹介した八瀬比叡山口駅(旧・八瀬駅)も、古いたたずまいが残っています。

 八瀬比叡山口駅
  八瀬比叡山口駅

 これらの駅舎は、特段、文化財に指定・登録はされていないようですが、誇るべき近代化遺産、鉄道文化財です。
 平成元年(1989)に京阪電鉄鴨東線が出町柳まで延伸され、叡電出町柳駅も4年後(1993年)にビル化されました。
 しかし、その内側に古い駅舎が残されたのです。

 駅の外(南側)に出て、見えないかなぁと下がっていくと……

 出町柳駅

 見えました!
 
 ちょっと懸魚が傷んでいるみたいだけれど、うれしい姿です。 

 私の妄想は、今度駅ビルを建て替えるときは、この旧駅舎を露出させて、古式ゆかしい駅に戻すこと。
 そうしたら、きっと延暦寺や鞍馬寺、貴船神社にアプローチするにふさわしい、京都らしい駅になるのではないでしょうか?


  叡電90周年ポスター 90周年ポスター




 叡山電鉄 出町柳駅

 所在 京都市左京区田中上柳町
 乗車 鞍馬・貴船口、八瀬比叡山口方面へ
 交通 京阪電鉄「出町柳」下車、すぐ



 【参考文献】
 『京福電気鉄道50年の歩み』京福電鉄、1993年


京都から比叡山に登る叡山ケーブルは、今年90周年を迎える





叡山ケーブル


 比叡山へはケーブルカーで

 京都盆地の北東にそびえる比叡山。広大な寺域を持つ延暦寺のある山上へ登るには、いくつかの方法があります。

 かつては、もちろん徒歩で雲母(きらら)坂などを登りましたが、この道は今も登山道として残されています。
 一方、戦後のモータリゼーションのなかで、昭和33年(1958)4月に開通した比叡山ドライブウエイを自動車で上がる方法もあります。
 そして、鉄道で登り口までアクセスし、ケーブルカーやロープウェイを使って上ることもできます。

 ケーブルカーは、京都側と滋賀側の双方にあり、それぞれ叡山ケーブル、坂本ケーブルと呼ばれています。今回は、叡山ケーブルを紹介したいと思います。


 叡電「八瀬比叡山口」から

 八瀬比叡山口駅
  八瀬比叡山口駅

 京阪電鉄の終点「出町柳」で、叡山電鉄(叡電)に乗り換えると、15分ほどで「八瀬比叡山口」に行くことができます。
 この駅舎、実に古そうですね。

 八瀬比叡山口駅

 八瀬比叡山口駅

 このトラスの架構など、なんとも言えない工学美を呈しています。

 叡電は昭和60年(1985)に設立された会社なのですが、この路線自体は古く、大正14年(1925)に開通しました。
 つまり、今年で90周年を迎えるわけです。

 当時、この路線は叡山平坦線と通称されていて、出町柳ー八瀬(現・八瀬比叡山口)5.6kmを結ぶ鉄道でした。大正14年9月27日に開通しています。
 もちろん、比叡山へアプローチするために建設されたもので、『京福電気鉄道50年の歩み』には、次のように記されています。

 (前略)当時、京都近郊の交通機関は、国営鉄道(現・JR)を除けば、東に京津電気鉄道(現・京阪京津線)、南に京阪電鉄(現・京阪本線)、西に嵐山電鉄があったが、景勝地と名高い洛北方面にはまったく交通機関がなかった。とりわけ、天台宗総本山延暦寺があり、古来、霊山として名高い比叡山へは、登山道が険しく、屈強の若者でも1日はかかるという状態であったから、京都市民はもとより、京都を訪れる観光客の登山はきわめて困難な状況であった。

 そのため、この方面に鉄道を敷設し、比叡登山を便利にすることは、京都市民の長年にわたる宿願で、明治後期からいくたびか計画された。しかし、山肌の傾斜がきつく、技術的に難しい工事が予測され、膨大な工事費がかかるため、いずれの計画も採算面から挫折していた。(6ページ)


 こんな状況下、計画を実施したのが、当時の京都電灯株式会社でした。
 出町柳から八瀬まで鉄道を敷設し、そこから先は急勾配を上る鋼索線(ケーブルカー)を建設するというものです。
 
 山上からの眺望

 とりわけ、ケーブルカーは難工事でした。
 高低差が日本一の561mもあって、平均勾配が40分の1と急であったこと。国内で初めて、S字のカーブをつけたことなどが要因といいます。
 平坦線を含めた総工費は、500万円。現在との換算は一概には言えませんが、数十億円から百億円といった計算になると思います。

 鋼索線は、西塔橋(現在のケーブル八瀬)と、標高686,5mの四明ケ嶽(現在のケーブル比叡)1.3kmを結びました。平坦線に少し遅れた大正14年12月20日に開通しました。

 なお、経営面ですが、昭和17年(1942)3月に京福電鉄が設立され、この路線を経営することになります。同年8月には鞍馬電鉄を合併します。鞍馬電鉄は、山端(現・宝ヶ池)-鞍馬8.8kmを結ぶ路線で、昭和3年(1928)12月に開業していました。
 この時点で、現在の叡山電車の全路線(といっても2つですが)が、京福電鉄の傘下に入ったということです。

 この平坦線の経営は、昭和61年(1986)からは叡山電鉄に引き継がれましたが、ケーブル線などは現在も京福電鉄の直営となっています。

 まったくの余談ですが、現在の叡電の路線は、出町柳-鞍馬間がメインのように感じられますが、歴史的には八瀬へ至るルートの方が主だったということですね。


 ケーブルカー今昔

 ケーブル八瀬駅
  ケーブル八瀬駅

 今年90周年を迎える叡山ケーブル。
 ここからは、戦前の絵葉書を見ながら今昔比較をしてみましょう。

 叡山ケーブル

 先日(2015年4月)撮影した現在のケーブル車両です。
 戦前は、どうだったかというと……

 「叡山ケーブルカー京都口線路(其ノ二)」 「叡山ケーブルカー京都口車両其一」

 窓は小さいものの、現在と比べても遜色ありませんね。

 「叡山鋼索鉄道四明終点」

 横から見たところ。四明ケ嶽駅に着いた様子です。

 ご存知のように、ケーブルカーは上り下りの2車両が路線の中間点で離合するようになっています。

  叡山ケーブル

 かつては……

  「比叡山ケーブルカー京都口車輪離合所」

 こんな感じですね。撮影アングルが違うので比較しにくいですが。
 建設まもなくなのか、樹木もなく、見晴らし抜群ですね。

 軌道全体の絵葉書もあります(右は現在の車窓から)。

  「叡山ケーブルカー京都口全景」 叡山ケーブル


 大きく逆S字を描いていることが明瞭に分かります。

 「叡山ケーブルカー京都口車両其三」

 横から俯瞰すると、急勾配も見て取れますね。


 山上駅も古い

 平坦線、鋼索線とも、駅舎も古風で見逃せません。
 平坦線の出町柳駅や八瀬比叡山口駅の駅舎も、改造されたりしているものの当初の建築のようです。山上のケーブル比叡駅も、同様と見られます。

 ケーブル比叡駅
  ケーブル比叡駅

 外装はお色直しされていて現代的ですが、柱など細部を見ると明らかに戦前の建築です。

  ケーブル比叡山駅

 戦前の着色絵葉書では……

 「比叡山ケーブルカー四明ケ嶽駅」

 四明ケ嶽駅と言っていた頃の様子。
 白とスカイブルー? のツートンカラーもモダンですね。

 山上からの眺望

 昔も今も、京都市街が一望できます。


 戦前にロープウェイ !?
 
 驚くことに、比叡山には戦前からロープウェイが架設されていました。
 ケーブルの終点から延暦寺まで、谷越えの山道が長かったので、ロープウェイを架け、新道を通して延暦寺へのアクセスを改善したのです。
 
 完成は、昭和3年(1928)10月21日。高祖谷-延暦寺0.6kmです。
 全長は642m、所要4分。総工費30万円。日本初のロープウェイでした。

 「比叡山空中ケーブル進行」

 これが90年近く前にあったのですから、すごいことです。
 絵葉書のタイトルも「比叡山空中ケーブル進行」と、なんだかスゴイですね。

 大正時代から昭和初期にかけて、国内の山岳寺社には数多くの山岳鉄道やケーブルカーが敷設されました。関西でいえば高野山、京都でいえば愛宕山が有名でしょう。
 そのなかで、叡山ケーブルとロープウェイは規模や新規性で群を抜く存在で、絵葉書も誇らしげです。

 ロープウェイは、残念なことに戦時中の昭和19年(1944)に不急不要の施設として撤去されました。

 叡山ロープウェイ
  叡山ロープウェイ

 現在のロープウェイは、戦後、昭和31年(1956)7月5日に復活したもので、四明-比叡山頂0.5kmを結びました。

 霊山の開放というべきか、やはり大正から昭和初期は“大衆の時代”だったということが、ケーブルカーの歴史からも分かります。
 この流れは、戦後加速して、比叡山では山上遊園が開発され、回転展望閣や人工スキー場なども造られていきます。
 
 聖地の静謐性の維持と、宗教の普及という相反することについて、どうバランスを取っていくのか、なかなか難しい問題をはらんでいそうです。


  叡山ケーブル




 叡山ケーブル、ロープウェイ

 所在 京都市左京区上高野東山ほか
 乗車 ケーブル 大人片道540円、ロープウェイ 大人片道310円 ほか
 交通 叡山電車「八瀬比叡山口」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『京福電気鉄道50年の歩み』京福電鉄、1993年
 『京阪百年のあゆみ 本文編』京阪電鉄、2011年


鞍馬寺にある阿吽の虎像は、超絶的な造形を誇る秀作





鞍馬寺阿吽虎像


 毘沙門天と虎

 京都の北郊にある鞍馬寺。
 出町柳駅から叡山電車で30分。ちょっとした小旅行には最適の地です。最近は、欧米のツーリストがものすごく増えているのも特筆されます。

 この鞍馬寺、伝えによると、平安京が出来た後の延暦15年(796)、王城の北の地に造営されました。
 祀られたのは、毘沙門天。
 四天王でいえば多聞天に当たりますが、北方の守護神です。平安京では、南の羅城門にも毘沙門天を安置したので、南北の守りに毘沙門天を配したということになります。

 その毘沙門天の使いと言われているのが、虎です。
 毘沙門天が寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に出現したためとも言われ、これを祀る寺院には虎の造形が目につきます。

 鞍馬寺金堂
  鞍馬寺本殿金堂

 標高400m余の高みにある鞍馬寺の本殿金堂。
 その脇にも……

 鞍馬寺阿吽虎像

 散り初めの桜とともにたたずむ虎。

 そう、このお堂の左右にも、狛犬の如く一対の虎像が配されているのでした。

 鞍馬寺阿吽虎像
   阿形

 鞍馬寺阿吽虎像
   吽形

 向かって右が、口を開いた阿形(あぎょう)。左が、閉じた吽形(うんぎょう)です。
 仁王さんや狛犬と同様、阿吽(あうん)になっています。


 その造形に瞠目!

 この像は、昭和26年(1951)8月、京都の石田理七郎の寄進によって建てられました。石田理七郎は、戦前には本殿金堂前に銅灯籠一対も奉納しています。
 台座には、「昭和二十六辛卯年八月/奉寄進 京都 石田理七郎/鋳造高尾銅器本店/石匠芳村茂右衛門」と記されています。

  鞍馬寺阿吽虎像  鞍馬寺阿吽虎像

 180cmもある立派な石製の台座に載せられた虎像。像高は、95cmといいます(『守口市史』)。
 
  鞍馬寺阿吽虎像 

 正面から見ると、ごくふつうの獰猛な虎を表しています。
 ところが、これを横から見ると……

 鞍馬寺阿吽虎像

 なんという盛り上がり!
 それも渦巻 !!

 体躯全体が渦巻のように背中へ向かって盛り上がっています。
 しっぽも渦巻。毛に渦巻いている部分も。

  鞍馬寺阿吽虎像  吽形

 背後から観察すると、渦巻が左右にあることも判明。
 巻貝のようにも見えます。

 なんだか、この山の神秘な霊気を表現したようでもあり、特異な虎像といえます。


 作者は、黒岩淡哉

 実は、私がこの虎像に興味を持ったのは、落款からでした。

 鞍馬寺阿吽虎像

 「八十翁/淡哉作(花押)」と立派な字で記されています。

 関西で「淡哉(たんさい)」と言えば、黒岩淡哉かな? と直感しました。
 私のなかで黒岩淡哉は、明治36年(1903)に開催された第五回内国勧業博覧会(大阪)で、会場内の噴水池に楊柳観音像を制作した人物として記憶されています。
 この楊柳観音、写真も残っていますが、塑像で妖艶な観音の姿を表し、足元に童子らを従えている造形。なかなかの力作ですが、博覧会の出品だったので、おそらく会期後に失われたのでしょう。

 調べてみると、淡哉は大正時代に東京から大阪に移住し、昭和初期から没するまでは大阪府守口市にアトリエを構えていました。その詳しい伝記が『守口市史』に掲載されています。

 鞍馬寺の虎像に「八十翁」とあるので、気になるのは生年月日です。
 『守口市史』によると、明治5年(1872)生まれとあります。虎像は1951年制作ですから、ちょうど80歳ですね。やはり黒岩淡哉作でした。
 

 淡作の履歴

 黒岩淡哉について詳細にまとめたものは少ないようなので、ここで『守口市史』によって、その履歴を紹介しておきましょう。

 黒岩淡哉(くろいわたんさい)は、本名・高木倉吉。明治5年(1872)2月8日、東京・芝に生まれました。のち黒岩家に養子として入り、二松学舎を卒業後、明治22年(1889)、東京美術学校に入学します。彫刻(木彫)を学び、明治27年(1894)卒業。いくつかの職を経て、明治31年(1898)、東京美術学校の彫刻科助手兼教務掛となります。

 明治33年(1900)、パリ万博に「子守」を出品、見事金牌を得ました。鋳銅製、子守の女性の半身像だったそうです。
 大正3年(1914)には、東京美術学校から、大阪府立職工学校に出向しました。昭和5年(1930)に、勲六等瑞宝章を受けています。還暦の昭和6年(1931)、同校を退職しました。
 守口市には、昭和11年(1936)の少し前頃に移住し、亡くなる昭和38年(1963)3月1日までここで過ごしたということです。

 主な作品に、普賢菩薩像(昭和5年、四天王寺)、蓮如上人像(昭和9年、山科)、楠木正行像(昭和12年、飯盛山)、芭蕉像(昭和32年、高野山普賢院)、菅原道真像(昭和33年、福岡・水田天満宮)などがあります。

 淡哉は無口な人だったそうですが、この虎像は彼の内に秘めた気迫を雄弁に物語っているように思えます。
 余り知られた彫刻家ではないのですが、この虎を見ると、他の作品にも興味が湧いてきます。


  鞍馬寺の桜




 鞍馬寺

 所在 京都市左京区鞍馬本町
 拝観 大人300円ほか
 交通 叡山電車「鞍馬」下車、金堂までは徒歩約30分(ケーブルあり)



 【参考文献】
 『守口市史 本文編 4』守口市、2000年


比叡山・横川の元三大師堂では、4種のお札がいただける有り難さ

人物




元三大師堂


 比叡山・横川には、元三大師が祀られている

 以前、比叡山延暦寺の高僧・慈恵大師(良源)について取り上げ、そのお札について紹介しました。 ⇒ 記事は、こちら! <元三大師の象徴“角大師”は、いったい何の姿?>

 大師は、正月三日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれ、この呼称で多くの人たちに信心されています。

 今回、比叡山に上る機会があったので、大師がお祀りされている横川(よかわ)の元三大師堂(四季講堂)を訪ねました。


 横川へはシャトルバスで

 比叡山には、京都、滋賀、どちらからでも上れます。
 今回は、京都・八瀬(やせ)から上るコースで行きました。大阪や京都市内からは、京阪電鉄が発売している「比叡山1dayチケット」がお得で便利です(発売期間にご注意ください)。

 出町柳駅から、叡山電車の「八瀬比叡山口」行きに乗車し、終点・八瀬比叡山口駅で降ります。ここから、ケーブル、ロープウェイと乗り継ぎます。山上では、京阪バスのシャトルバスが頻発しており、東塔、西塔、横川を結んでいます。

 京阪バス・シャトルバス シャトルバス

 ロープウェイを降りて、5分ほど歩くとバス乗り場。そこから約20分で横川へ着きます。

 比叡山横川 横川

 横川(よかわ)は、比叡山内でも最も北のエリアで、横川中堂や元三大師堂があります。かつて元三大師の住坊があったところです。

 拝観券を求めて進んでいくと、石灯籠にも「元三大師」の文字が刻まれています。

  比叡山横川

 こういった字句を目にすると、ゆかしい心持ちというか、早く大師堂にお参りしたという気分が募ります。
 その足元には、古い道しるべも。

  比叡山横川

 「元三大師道 三丁目/大坂 林成[  ]」とあって、下の部分は埋もれています。
 どこから3丁(約330m)というのか、ここからまだ 5丁位はあるでしょうか。

 先に横川中堂をお参りしてから、大師堂へ向かいます。


 角大師に出会う元三大師堂

 元三大師堂

 元三大師堂にやって来ました。久しぶりです。
 右を見ると、こんな石標も!
 
  元三大師堂 「元三大師と角大師の由来」

 入る前から角大師(つのだいし)と対面とは、意外な展開。前の記事でお分かりのように、この図柄がお札の絵そのままなのですね。

 元三大師堂
  横川・元三大師堂

 靴を脱いでお参りすると、外陣は狭いのですが、参拝者は意外にたくさん来られています。
 尼さんがひとりおられたのですが、参拝のご婦人が熱心に感謝の意を述べておられ、篤く信心されている方と見受けられます。
 今日ここに来たのは、改めて元三大師にお参りするとともに、お札を求めるためでした。
 迂闊にも下調べしていかなかったのですが、なんと4種類ものお札が置いてあり、驚かされました。

 まず、もっとも著名な「角大師(つのだいし)」のお札です。

  元三大師堂護符 角大師
 
 下に「比叡山横河」とあって、2本の角が目立つ御像です。
 現代的に見ると、なんだかユーモラスで人気ですね。

 次に頂戴したものが、これです。

  元三大師堂護符 降魔大師

 「降魔(ごうま)大師」のお札。「出楞厳定 悪魔降伏」と書かれています。
 鬼のようなので、俗に「鬼大師」とも呼ばれるものです。
 前回の記事では、大阪・四天王寺の元三大師堂に同様のお札があることを紹介しました。ふたつの御像をよく見比べましたが、すべてにおいて全く同じ図像でした。
 ただ、名称については、四天王寺は「鬼大師護符」と呼んでおられるようです。


 ついに“豆大師”に出会う!

 そして、3種類目。

  元三大師堂護符 魔滅大師

 「魔滅大師」のお札です。「魔滅」と書いて「まめ」と読ませますが、もちろん「豆」に通じます。いわゆる「豆大師」ですね。

 豆粒のように小さな元三大師が、33人おられる図柄です。大師は観音菩薩の化身とも言われたので、33に変化する観音にちなんで33人です。

 豆大師の由来には、諸説あります。
 よく聞くのが、元三大師美男子説。大師は余りの美男子であったので、宮中に参内したとき、女官に騒がれて困りました。それで豆粒のように小さくなり、こっそり訪れた--というもの。
 また、山田恵諦『元三大師』に出ている話。河内・寝屋川(大阪府)で大師を信仰する男性が、大雨の際に田の無事を祈ると、33人の童子が現れて田の水を汲み出すなどして救ってくれた-ーというものです。

 元三大師堂護符

 拡大すると、よく分かりますが、頭から右方へ1本飛び出していますよね。これ、眉毛なのです。
 元三大師は、眉毛が長かったと言われていて、そのように描かれている肖像画もあります。

 そこで、4つめのお札です。

  元三大師堂護符 元三大師

 御簾のうちに坐しておられる元三大師。リアルなお姿です。

 元三大師堂護符

 厳しい表情ですけれど、眉毛が長いのが分かるでしょう。
 これを見てからもう一度、豆大師を見ると……

  元三大師堂護符 魔滅大師

 四角い壇に右を向いて坐し、衣にはひだ(しわ)がたくさん入っており、手に珠数(小さい点々)を持っている。そして、眉毛が長い--リアルな御像の特徴を的確に捉えています。

 というわけで、4種のお札を授与していただきました。
 前回もお話したように、角大師は降魔大師(鬼大師)がデフォルメされた図像でしょう。
 一方、魔滅大師(豆大師)は、1人ずつが小さいため、リアルな元三大師像を大胆に簡略化したものだと分かります。
 つまり、図像的には、2系列に分かれていると考えられます。
 
 ついに豆大師のお札をいただけて、たいへんうれしかったのですが、あとで元三大師堂のウェブサイトを見ると、なんと通販していたのです!
 角大師、降魔大師、魔滅大師は、各600円(送料込み)で受け付けておられます。
 ただし、元三大師像のお札は除かれているようです。
 ちなみに、お堂では各500円で授与していただきました。




 元三大師堂(比叡山横川)

 所在 滋賀県大津市坂本本町
 拝観 大人700円(東塔、西塔、横川共通)ほか
 交通 比叡山内シャトルバス「横川」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 山田恵諦『元三大師』第一書房、1959年


【大学の窓】京都で歴史を学ぶ大学生の出身地 2015

大学の窓




祇園祭の「サクラ」


 新学期が始まって1週間。
 どの大学でも、初々しい新入生がキャンパスを歩き始めました。

 私が出講している京都・上京大学(仮称)の日本史専攻でも、新たに73人の学生を受け入れました。
 今年も、昨年一昨年に引き続き、学生の出身地を集計してみました! 

 左が今年、真ん中が昨年(2014年)、右が一昨年(2013年)の人数です。

【北海道・東北】 2名-3名-3名
  北海道 2-2-1
  岩手  0-0-1
  山形  0-1-0
  福島  0-0-1
 【関東・甲信越】 7名-7名-11名
  群馬  1-0-1
  栃木  1-1-0
  茨城  0-0-1
  埼玉  1-0-0
  千葉  0-0-1
  東京  1-1-1
  神奈川 0-1-1
  山梨  0-0-1
  新潟  0-1-1
  長野  1-2-2
  富山  1-0-0
  福井  1-1-0
 【東海】 6名-9名-11名
  静岡  0-5-2
  岐阜  0-1-2
  愛知  5-2-6
  三重  1-1-1
 【関西】 42名-31名-28名
  滋賀  2-3-2
  京都  7-6-6
  大阪  14-13-10
  奈良  6-1-2
  兵庫  11-8-8
  和歌山 2-0-0
 【中国・四国】 9名-8名-8名
  岡山  0-1-2
  広島  4-3-2
  鳥取  1-1-0
  山口  0-1-1
  香川  0-0-1
  愛媛  1-1-1
  高知  3-1-1
 【九州】 3名-7名-10名
  福岡  1-3-6
  大分  1-1-2
  長崎  0-0-1
  熊本  0-2-1
  鹿児島 1-1-0
 【海外】 4名-2名-2名
  中国  4-2-1
  フランス 0-0-1

 総数は、今年が73名、昨年が67名、一昨年が73名。
 ますます“西高東低”の傾向が強まりました。特に、地元関西が、28名→31名→42名と急増しています。
 大阪、兵庫は例年多いのですが、今年は兵庫県の西部(明石、姫路、高砂、淡路島)の学生が増えました。
 奈良や和歌山も伸びていますね。

 一方で、今年は東北の学生がゼロに! また、東海でも静岡県や岐阜県がゼロになりました。九州の減少も気にかかります。
 私が学生だった30年ほど前は、関東の学生も一定数いましたし、福岡県の出身者も多かったと思います。出身県が地元に集中するのは、いろいろな文化と接触する機会が減るという意味で、余り好ましいとは思えません。
 唯一の救いは、高知県の学生が3人もいたこと。南国はいいですね、鹿児島も1人いますし。

 学生の自己紹介を聞いて感じたのは、自分の出身地は田舎だ、と語る人が多いこと。なかば卑下して言っているのかも知れませんが、この国にはまだ「地方」がたくさんあり、そこで暮らす人たちも多いという事実です。あるコンビニチェーン店まで2時間かかる、と言った学生もいました。
 こういった学生は、地元に進学先の選択肢が少なく、やむを得ず(というべきでしょうか)都会の大学に入学することになります。

 私が思い出すのは、さだまさしの「案山子」という曲。

 元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る


 都会に出た子供を慮る親の気持ちを歌った曲です。

 お前も都会の雪景色の中で 丁度 あの案山子の様に
 寂しい思いしてはいないか 体をこわしてはいないか 


 私も、大学に出講し始めてから7年目になります。最近はこんなことを考えながら、学生の心情やそれを見守っている親御さんの心持ちに思いを致して、彼らに接しなければいけないと思うようになりました。
 
 さぁ、全国から集まった新入生たち。今年も一緒に学びましょう!



京の都で、おどろおどろしい魔界を探訪する - 小松和彦『京都魔界案内』 -

京都本




  『京都魔界案内』  小松和彦 『京都魔界案内』 知恵の森文庫


 異界に眼を向ける研究者

 今回紹介する本は、“魔界”の本!
 京都本としては、ちょっと意外な観点でしょうか?

 著者は、小松和彦先生。現在、国際日本文化研究センター(通称・日文研)の所長を務められています。
 私が学生の頃は、大阪大学で教鞭をとっておられ、『憑霊信仰論』という一書を刊行されました。これは、「憑(つ)きもの」などに関する研究です。高知県の山深い村・物部村などのフィールドワークを通して、憑きものの家筋などを調査された成果でした。これに続く『異人論』も読みました。村など定住民の社会を訪れる旅の宗教者などを「異人」として捉え、“異人殺し”などについて深く追究されたものです。
 憑きものや異人についての研究は、民俗学の中ではそれまでもあったわけですが、文化人類学的な視点を取り入れた小松先生の仕事は、若い私たちを大いに刺激しました。今から30年ほど前の話です。

 私自身、その後、仕事に就くと、小松先生の著書からは少し離れてしまいました。それが最近、古書で先生の旧著を手に取るようになり、いろいろ勉強させていただいています。
 昨年読んだ本が、『福の神と貧乏神』(ちくま文庫)。

  『福の神と貧乏神』 小松和彦『福の神と貧乏神』(ちくま文庫)

 これが、いい本なんですね!
 
 このような時期だからこそ、わたしたちは、日本人にとって「福」とか「富」とか「幸せ」とはなんだったのか、ということを、冷静にふりかえってみることが必要であるのではなかろうか。

 このように「はじめに」に書かれています。
 この本が出版されたのは、平成10年(1998)。バブル経済がはじけて、景気が後退しているさなかでした。
 時代に即応して、日本の民俗社会をふりかえり、古い史料をひもときながら、富や幸せについて考察したのが本書です。
 
 七福神のこと、長者の物語など、興味深いテーマが詰まっています。
 例えば、絵巻物で著名な「信貴山縁起」。奈良と大阪の境界・生駒山地にある信貴山・朝護孫子寺の由来譚で、命蓮という僧が倉を飛ばして、お米などをもらう場面が有名ですね。
 実は、この信貴山も、七福神のひとつ毘沙門天を祀った寺で、見逃しがちなのですが、「信貴山縁起」も毘沙門天の霊験を説くための物語であると指摘されています。
 また、命蓮に米倉を奪われる「山崎長者」も、もとは「下種(げす)徳人」、つまり貧しい出身であり、そこから成り上がった人物なのでした。しかし、徳を積むことを忘れた長者は命蓮に倉(富)を奪われ、貧者に戻ってしまうというわけです。
 ここにも、長者譚が含まれていると述べられます。


 華やかな千年の都・京都にも、数々の“魔界”が…

 鞍馬寺
  鞍馬寺

 その毘沙門天といえば、京都では鞍馬寺が連想されますね。
 
 『京都魔界案内』では、洛中洛外の“魔界”40か所余りが紹介されています。私は、洛北の生まれ育ちなので、やはり北の方に関心が向きがちです。
 
 先日、鞍馬寺に行ったとき思い出したのが、祈雨のこと。
 鞍馬寺の建立譚のひとつに、貴船明神が示唆を与えたというものがあるように、山を挟んで対峙する鞍馬と貴船は深い関係を持っています。そして貴船明神(貴船神社)といえば、古来、降雨や止雨を願う神でした。
 当地は、平安京の北方に位置しますが、その水源地でもあり、ここに祈願することが雨を降らせたり止ませたりすることにつながったのでしょう。

 私が想起したのが、歌舞伎の「鳴神」(なるかみ)でした。
 天皇との約束を反故にされた鳴神上人は、怒って雨を降らす竜を滝に封印してしまいます。都は干ばつにあえぎ、朝廷は絶世の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を遣わして、色仕掛けで上人をくどきます。雲の絶間姫が見事、滝のしめ縄を切ると、解き放たれた竜は天に上り、雨が降り出すという物語。

 おなじみの歌舞伎十八番のひとつですが、この舞台となったのが、都の水源・洛北の地なのでした。

 『京都魔界案内』にも、「岩屋山」の項で、この話が取り上げられています。
 岩屋山は、賀茂川の上流にある雲ケ畑(くもがはた)の奥にあり、志明院という寺院もあります。こういうところが舞台に擬せられるのですが、小松先生によると、能楽「一角仙人」、白河天皇や延暦寺を呪った頼豪の伝説、竜神を隠した僧・守敏(しゅびん)と空海の雨乞い験力比べ伝説などが下敷きになっているといいます。

 雲ケ畑は、少年時代にはよく行った場所ですが、観光スポットも何もないところで、ほんとうに京都の奥という感じの土地。途中に、「大岩」と称された巨岩がありました。
 京都バスでしか行けない不便な場所ですが、一度訪ねられると「鳴神」の雰囲気が分かるでしょう。


 天狗伝説

 戻って、鞍馬なのですが、鞍馬というと「鞍馬天狗」という言葉が連想され(これは小説のタイトルでもありますが)、やはり天狗のイメージが濃厚です。

 天狗面 鞍馬駅の天狗面

 鞍馬山で修行した牛若丸こと源義経を描いた物語のひとつには、義経は天狗の顔をよく知っていて、鞍馬の天狗はもとより、愛宕山や比良山(滋賀県)の天狗まで見知っていたと記されています。
 イメージとしての天狗は、鞍馬山の専売特許ではなく、京都北辺の山々に棲息? していたということになります。 
 本書で、「天狗信仰の拠点」として紹介されているのが、愛宕山(あたごやま)です。

 愛宕山は昔から火を中心とした信仰、とりわけ火事や火傷(やけど)除けに霊験があるということで全国的に信仰を集めてきた。(中略)

 その一方、愛宕山は天狗信仰の拠点で、しかも全国各地の天狗の惣領(長男)格であるということになっており、「太郎坊天狗」と呼ばれてきた。
 天狗といえば、現在では鞍馬山のほうを想起してしまいがちであるが、じつは天狗信仰は愛宕山のほうがはるかに伝統をもっていた。(179-181ページ)


 そして、「方丈記」にも登場することで著名な安元3年(1177)の大火(京都の町中が焼亡した)が、俗に「太郎焼亡」と呼ばれるのも、愛宕山の天狗の仕業だと噂されたことによる、と説かれています。

 鬼一法眼古跡の樹 鬼一法眼の古跡

 一方で、鞍馬の項には、「天狗の内裏(だいり)」という奇妙な存在が記されています。
 鞍馬山の僧正が谷あたりは天狗の根源地だったわけですが、そこにまつわる話です。

 これと似たモチーフをもつ話が、お伽草子『天狗の内裏』である。鞍馬で学問修行していた牛若丸は、毘沙門天の導きで、僧正が谷の山奥にあるという天狗の内裏に赴く。不動堂の鬼門の方角に進むと沢がある。それを登っていくと弥陀の原というところに至る。そこに三本の道があるので、その真ん中の道を進んでいくと天狗の内裏に出るというのだ。(中略)
 
 この天狗の内裏には、全国各地の山から天狗たちが結集していて、牛若丸はその天狗の首領の案内で阿弥陀浄土に赴き、大日如来に生まれ変わった父・義朝に再会することになる。(105-106ページ)


 この話を読むと、なんだか鞍馬山に行くのが怖くなる、そんな気がします。

 さまざまな伝説と逸話が満載の『京都魔界案内』。
 現実と架空を京都の街で綯い交ぜにすると、こんな姿になる--という魅力的な一冊です。

 なお、姉妹編に『日本魔界案内』(知恵の森文庫)があります。

  『日本魔界案内』 小松和彦 『日本魔界案内』 知恵の森文庫




 書 名 : 『日本魔界案内 出かけよう、「発見の旅」へ』
 著 者 : 小松和彦
 出版社 : 光文社(知恵の森文庫)
 刊行年 : 2002年


きょうの散歩 - 国立文楽劇場・吉田玉男襲名披露公演に行く - 2015.4.6 -

その他




文楽4月公演


 大阪・国立文楽劇場の4月公演は、二代目吉田玉男の襲名披露です。
 吉田玉男といえば、あの細身のおじいさんの玉男さんしか思い浮かばないわけですが、このたび、玉女(たまめ)さんが二代目を襲名されるということで、誠に目出度い限りです。
 そして改めて、初代の玉男さんの偉大さが忍ばれます。

 文楽4月公演 二代目 吉田玉男
 
 4月6日、公演3日目。あいにくの空模様でしたが、国立文楽劇場の前には、まだ桜が残っていました。
 1階の展示室では、二人の玉男に関する展示を行っていて、亡き初代を懐かしみました。初めて見る初代の「演出ノート」の文字は端正で美しく、あの人柄をそのまま表しているようで、さらに懐旧の情がわいてきました。
 また、今回上演される「絵本太功記」の劇中、光秀が書いた辞世も展示されていました。「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」という五言絶句ですが、これを衝立に揮毫する場面が「妙心寺の段」にあります。その舞台上で書かれた文字が、2点並べられていました。
 光秀の人形が書いたーーということは、初代玉男さんの筆ですが、その見事な書きぶりにお客さんも感嘆されていました。

 午後4時から始まった第2部の演目は、「絵本太功記」「天網島時雨炬燵」「伊達娘恋緋鹿子」。
 私のお目当ては、本能寺の変で主・信長を討った明智光秀とその家族の悲劇を描いた「絵本太功記(えほんたいこうき)」です。
 今日は、十段目(「夕顔棚の段」「尼ケ崎の段」)が上演されました。

  “夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀”という一節で、つとに有名です。

 ご承知のように、江戸時代では実名をはばかって、明智光秀は「武智光秀」、織田信長は「尾田春永」、羽柴(豊臣)秀吉は「真柴久吉」です。まぁ、まるわかりですが……

 十段目の舞台は、光秀の母・さつきが閑居する尼ケ崎の田舎家です。
 そこへ、旅の僧に身をやつした久吉(秀吉)が一夜の宿を求めてやって来ます。あとから追って来た光秀は、藪の竹を伐って槍(やり)にして、抜き足さし足で座敷に上がります。そして、障子の向こうにいる久吉を一突き! ーー したはずが、突いた相手は母のさつきでした……

 驚く光秀。
 しかしこれも、主君を討った光秀を諌める母心なのでした。なんとも言葉を失う場面です。
 
 この「絵本太功記」、他の演目とは異なって13段もあり、そこに発端と大詰が付く長い構成になっています。
 本能寺の変は、史実では天正10年(1582)6月2日に起きたわけですが、「絵本太功記」では、前日の6月1日から、光秀が小栗栖で没する6月13日までを1日ずつ全13段で描きます。
 現在では上演されない段も多いわけですが、13段目「小栗栖の段」もそのひとつ。ここで光秀は、郷民の竹槍で突かれ、絶命します。

 おそらく、10段目で、久吉(実は母・さつき)を竹槍で突く場面は、この小栗栖の場面につながっているのでしょう。
 久吉を討とうとして突いた竹槍が、3日後には自分に返ってくる……。歴史の逆説というべきか、そのときの光秀の心情や如何に。

 私がイメージする明智光秀は、実務に秀でた官僚タイプで、性格は誠実。地味な人物という印象です。ところが、文楽の“武智”光秀は、ずいぶん勇ましく、派手な感じのする武将でした。
 こんな描き方もあるのかなと、少々意外でもあります。

 いつも光秀に同情的な私は、母・さつきが光秀を「逆賊非道」の「不孝者」、「悪人」と、こき下ろしているのが、少し悲しく思われます。まぁ、忠孝を重んずる江戸時代に書かれた脚本なので、それも仕方ないというべきでしょうか。

 文楽4月公演

 玉男さんが紙屋治兵衛を操る「天網島時雨炬燵」も、見所たっぷり。
 八百屋お七をモチーフにした「伊達娘恋緋鹿子」は、雪降る夜の美しい演出。
 3本とも楽しめる出し物で、これは見逃せませんね。

 二代目吉田玉男の襲名披露、文楽4月公演は、大阪・日本橋の国立文楽劇場で、4月26日まで開催中です。


  文楽4月公演




 国立文楽劇場

 所在 大阪市中央区日本橋
 交通 地下鉄「日本橋」下車、徒歩すぐ


鞍馬の町並みに、水と共に生きた証をみる





鞍馬


 鞍馬寺の門前に続く町並み

 洛北の山里・鞍馬(くらま)。

 京都市左京区とはいうものの、叡山電車の出町柳駅から30分かかる山の中にあります。

 鞍馬寺
  鞍馬寺

 しかし、古くから鞍馬寺の門前町としてにぎわい、また丹波や若狭とつながる街道の要衝として栄えてきました。
 木の芽煮(きのめだき)や山椒、黒木や火打ち石など、自然を生かした産品を都の人々に提供してきた地域です。

 鞍馬街道は、京都の郊外・市原あたりから山間の色彩を帯び、旧鞍馬村の一部である二ノ瀬に至ると、もう完全な山里です。
 その先に貴船との分岐点・梶取があり、右手に進むと鞍馬の集落に至ります。

 鞍馬
  鞍馬 下在地の街道

 鞍馬の集落は、もとは岩中町、上在地、中在地、下在地の各地区から構成されています。
 南端の下在地には、由岐神社の御旅所があります。鞍馬駅や鞍馬寺山門前は中在地で、門前で道は屈曲し、上在地へと続きます。北端の岩中町は鞍馬温泉あたりまでです。

 下在地は、庭石を商う家などもあり長閑な雰囲気。土産物店などがある中在地は観光客でにぎわい、上在地から岩中町は伝統的な町並みを感じさせます。

 鞍馬
  上在地の町並み

 岩中町には、重要文化財の滝沢家住宅(匠斎庵)もあります。

 鞍馬
  匠斎庵 (重文)

 岩神大明神の小祠も、そこここに見受けられます。

  鞍馬  岩神大明神


 鞍馬川から水路を引く

 鞍馬街道の東を流れる鞍馬川。清冽な流れです。

 鞍馬

 鞍馬川には、家々の脇にある石段で降りることができます。

  鞍馬 鞍馬川へ降りる石段

 この川の水は、溝で引水され、集落の中を流れています。

  鞍馬 鞍馬川から水を引く

 コンクリート製の樋によって水を引き、それが集落の側溝につながります。

 鞍馬 “カワ”

 この溝のことを地元では「カワ」と呼ぶそうです(『鞍馬 町なみ調査報告』)。

 各家の前には、洗い場が設けられ、野菜の下洗いなどに利用されます。

  鞍馬
  一段低くなったところが洗い場

 かつては、カワの両側に洗い場があったそうです。おそらく、昔は自動車の交通量もさほどではなく、のんびりと洗い物ができたのでしょう。
 野菜を洗うほかにも、鞍馬の火祭の際には、みぞぎの水に用いられるといいます。

  鞍馬

 古い写真を見ると、鞍馬寺の門前の道にも、中央に溝があったことが分かります。

 昔は、毎年「いであげ」と呼ばれる取水口の堰の改修工事が、地域の人たちによって行われていたそうです。このような催事も、コミュニティを保つために有効だったのですね。

 懐かしい風景が残る鞍馬街道。
 休日の散策にぴったりの山里です。




 鞍馬の町並み

 所在 京都市左京区鞍馬本町
 見学 自由
 交通 叡山電車「鞍馬」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市『鞍馬 町なみ調査報告』(『日本の町並み調査報告書集成24』海路書院、2007年所収)