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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

着々と拡幅されている四条通、混雑緩和の効果が





四条通の拡幅


 新年度に向けて拡幅工事中

 年度末は道路工事が多いというのは、昔からのお約束ですね。
 けれども、ここでは年度をわたって工事が継続中です。

 京都一の目抜き通り・四条通。
 昨年11月から、この通りの歩道拡幅が行われています。

 四条通の拡幅
  拡幅されたバス停(高島屋前)

 2015年3月30日の様子です。
 高島屋京都店の前のバス停。
 右端のタイル舗装がこれまでの歩道、アスファルト部分が拡張された歩道です。見た目では、2倍くらいの幅に拡がっているように見えます。

 このバス停、昨年の写真と比較してみると……

 四条通歩道拡幅
  拡幅前(2014年11月)

 四条通の拡幅
  拡幅後(2015年3月末)

 拡幅前は、歩道一杯にバス待ち客が発生し、一部、高島屋の敷地内で待っている人もいます。
 ここを通過するときは、待ち列を迂回して歩く必要があり、週末などは大変でした。

 拡幅後は、拡がった部分にバス待ち客が固まっており、歩行者は手前をスムーズに歩いています。
 整理員さん(オレンジのジャンパー)がいるので整然としている面もありますが、拡幅の効果はあるようですね。
 しばらく見ていると、歩道上を自転車を押して通過していく人もいて、これまでなら考えられない状景でした。


 歩道の幅が約2倍に!

 この改良工事で、四条通の歩道の幅は、約3.5mから6.5mになります(場所により異なります)。
 その代わり、車道は4車線から2車線に減少です。
 
 詳しくは、以前書いた記事をご覧ください。 記事は、こちら! ⇒ <1年後に歩道の拡幅が完成する四条通、その後どうなる?>

 四条河原町付近で西を眺めた状況。

 四条通の拡幅

 ちょっと拡げすぎ !? と思えるほど、広くなりました。
 6.5mというと、歩道というより車道の幅員ですから、広いのもうなずけます。
 
 唯一心配なのが、減少する車道ですね。片側1車線になります。
 これまで四条通では、路上駐車が頻繁にみられました(これは河原町も同様で、京都や大阪ではお馴染みの風景ですが)。
 1車線になると絶対路上駐車はできないので、むしろスムーズに走行できる可能性も?
 もちろん、バス停やタクシー乗り場は集約して設置され、乗降や業務用の荷降ろし場所(アクセススペース)は確保されます。
 
 完成は、今年(2015年)10月末の予定。
 総工費は約29億円ということですが、これだけ海外ツーリストが増え、歩道が混雑すると、その出費も意味があるというものです。

 “歩くまち”を標榜する京都市。
 次に期待するのは、“三条通の歩行者天国化”でしょうか。

 寺町通-烏丸通間、700mほどあると思いますが、京都文化博物館やオシャレなショップもたくさんあり、観光客も大勢歩いています。しかし、道幅は狭く、路上駐車も多く、とても歩きにくいですね。
 これを車両通行禁止にする--寺町通から東洞院通(烏丸通の1本手前)まででもいいですね。

 ちょっと無理ですか?
 でも、実現すれば、とても楽しいと思います。




 四条通

 所在 京都市下京区御旅町ほか
 交通 地下鉄「四条烏丸」、阪急電車「烏丸」下車、すぐ
 



 【お知らせ】
  4月9日(木)19:52~22:00、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」に出演します。
  新番組の初回2時間スペシャルで、テーマは<徹底捜査「本能寺の変」の真相を追え!>
  このブログでも紹介した明智光秀公の首塚などについてコメントします。
  よろしければご覧ください。


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【新聞から】琵琶湖疏水の観光船下り、試験運航の抽選倍率は 21倍 !

洛東




  琵琶湖疏水


 試験運航の第1期 乗船倍率は21倍 !!
 各紙 2015年3月27日付


 いよいよ今日(2015年3月28日)から、琵琶湖疏水の観光船の試験運航が始まりました。
 滋賀県・大津から京都・蹴上(けあげ)に下る遊覧です。

 運航の詳細については、こちらの記事をご覧ください。 記事は、こちら ⇒ <琵琶湖疏水の船下り、試験運航の概要決まる>

 2月に乗船者を募集していたわけですが、当然、応募多数により抽選となりました。
 各紙の報道によると、第1期(3月28日~4月19日)と第2期(4月25日~5月6日)、定員はそれぞれ576人でした。

 そこへ、第1期分は、なんと1万2,258人!(6,297件)の応募があったそうです。
 倍率は、なんと21.3倍 !!
 全国39都道府県から申し込みがありました。

 また、第2期は未集計だそうですが、6,500人を超えているといいます。

 私たちも、“どのくらいの応募かなぁ”と、漠然と高倍率を予想していたのですが、21倍とは、とてつもない人気でした。
 もちろん、私も仲間と何通か応募したわけですが、当然のように全部はずれました……

 もし当選して乗船できた方には、ぜひ感想をうかがいたいです!

  琵琶湖疏水 インクライン

 今回はテスト運航なのですが、これで本格実施へ弾みがついたとも言えます。
 もちろん、以前の記事で紹介したように、コスト面が気にかかるところで、一説には“1人当り1万円”かかるとも指摘されています。実現に向けては、船下り単発ではないビジネスモデルの創出が求められます。
 
 ちなみに、先日、同業者と四国旅行した折、四万十川の川下りをしました。
 そこで、みんなに大受けしていたのが、船頭さんのトークでした。
 
 疏水でも、船下りに食べ物+トーク(軽妙な観光ガイド)をセットすれば、とても楽しいのでは?

 近い将来、希望者みんなが乗船できるよう、そして京都観光の新しいプログラムになるよう、期待しています!


元三大師の象徴 “角大師” は、いったい何の姿?

人物




角大師


 大阪・四天王寺で元三大師に会う

 前回ご紹介したように、比叡山の御膝元の京都では、元三大師(良源、慈恵大師)が広く信仰されています。
 大師の信仰は、京都にとどまらず日本全国に及び、例えば東京では深大寺が有名ですが、お隣の大阪にも元三大師を祀るお堂があるのです。

 四天王寺の元三大師堂。

 四天王寺元三大師堂
  四天王寺 元三大師堂

 四天王寺(大阪市天王寺区)は、古く聖徳太子によって創建され、現在は和宗総本山です。
 この大師堂は、境内の北端にあります。江戸時代前期に建てられたものですが、当初は元三大師は祀られておらず、江戸時代の途中から加わったと思われます。

 こちらで、大師の護符をいただくことができました。

  四天王寺元三大師堂角大師 四天王寺元三大師堂の護符

 高僧のお札と言いながら、もはや人間の姿ではありません……
 四天王寺では、このお札を「鬼大師護符」と呼んでおられます。


 元三大師の護符の種類

 元三大師の護符でよく知られたものとして、「豆大師」と「角(つの)大師」の2種類があります。

 豆大師は、文字通り、豆粒のような小さな元三大師が33人も刷られているお札です。
 伝説的になりますが、元三大師は大変な美男子! だったので、宮中に参殿する折は女官たちが群がって、かえって難儀したそうです。そのため、見えないように豆粒くらい小さく変身して、参内したというのです。「豆大師」と呼ばれるゆえんです。
 なかなかすごいお話です。
 また、33人という人数なのですが、大師は観音菩薩の化身だとする考えがあったためです。のちの天台座主・慈円の「愚管抄」には「観音ノ化身ノ叡山ノ慈恵大僧正」と記されています。観音さまは33の姿に変化されますので、それをなぞったということでしょう。

 なお、当て字で「魔滅(まめ)大師」と書かれることもあります。

 残念なことに、私は豆大師の護符をいただいたことがありません。関西では、余り出されているところがないのでしょうか。

 もう1種類が、角大師です。
 これは、文字通り、角(つの)のある姿なのですが、それにも大別して2種類があります。
 ひとつが、四天王寺のような姿。

  四天王寺元三大師堂角大師

 この像の特徴は、こんな感じ。
 まず、鬼のような姿で、壇上にひざまずいており、両手を膝についています。
 頭には2本の角があり、頭頂部にも縮れた髪の間に1つ尖がりがありますが、これは宝珠のようです。
 身体は裸ですが、ふんどしを付けています。体のラインがあらわですね。
 右手には、密教法具の独鈷(とっこ)を握っています。

 およそこのような姿ですが、何を意味しているのでしょうか。
 最も注目されるのは、独鈷。密教の加持祈祷の際に用いられる法具です。本来は、鬼がこんなものを持つはずもなく、この人? が僧であり、元三大師の変化した姿であることが推察されます。
 頭にも宝珠が載っていますが、これは如意宝珠。如意とは、意の如く(思うままになる)ということで、強い法力を与えるマジカルな玉ですね。これも元三大師を象徴するにふさわしいでしょう。
 ここから想像すると、元三大師が加持祈祷をしているうち、鬼気迫って、鬼のような姿になった--そういうイメージを表した像だと思えてきます。験力の強かった彼ならではです。

 この像は、鬼のような姿なので、「鬼大師」と称されることもあります。 


 ユーモラスな角大師

 角大師のもう1種類は、こんな像です。

  比叡山横川角大師 延暦寺横川(四季講堂)の護符

 比叡山延暦寺の横川(よかわ)にある四季講堂。いわゆる元三大師堂で、以前もらった角大師の護符です。
 とてもユーモラスな姿をしていますね。
 この像が、全国の多くのお寺に流布しているポピュラーなものです。

 前回紹介した東山・尊勝院の護符も同じような図像です。

  尊勝院角大師 尊勝院の護符

 横川のものと全く同じと言ってよい姿です。

 一見、西洋の「悪魔」にも見えるこの像。何をかたどっているのでしょうか?

 私の見立ては、先に紹介した鬼のような像(鬼大師)がデフォルメされてこうなったと考えています。

 四天王寺元三大師堂角大師 比叡山横川角大師

 2つを見比べてみましょう。
 大きな違いが、向いている方向。右向きと左向きです。そして、壇に載っているか、いないかの違い。

 けれども、それ以外はよく似ているのです。
 右の角大師ですが、2本の角があり、頭頂部の尖がり(もとは宝珠)もあります。
 姿勢も、ひざまずいているように見え、両手も膝の近くに置いています。
 そして、右手(てのひら)ですが、独鈷は持っていないものの、不自然に上を向いています。これは独鈷を持っていた時の形の名残りなのではないでしょうか。
 そして、逆三角形の白帯でフンドシが表現されています。
 胸はアバラがあらわですが、体のラインを強調するという意図でしょう。
 左ひじの半円形ラインも、よく似ていますね。

 なんとなく悪魔じみた角大師ですが、比較してみると、鬼大師を的確にデフォルメしていることが分かるでしょう。
 もちろん、なぜデフォルメする必要があったのか、それもこれほど“ヘタウマ”ふうに? という疑問は残りますが……

 この、ひょろっと長い角については、元三大師は長い眉毛の持ち主だったので(そう描かれた肖像画もある)、それをモチーフにしたものだろうという考えもあります(『元三大師良源-比叡山中興の祖』)。傍証としても、豆大師に長い眉毛を描いたものがあるので、そういう推理も成り立つかも知れませんね。

 ちなみに、角大師について従来説かれている解釈を以下に引用しておきましょう。

(前略)二本のつのを生やし裸形で胡坐する異様な姿を摺った角大師といわれる護符などを頒[わか]っている。角大師の護符を家の門に貼っておくと疫病神の災厄から逃れることができるという信仰は現代でも根強く生きている。
 この異様な角大師の護符の起源については、疫病神が良源[元三大師]を襲おうとしたので、試みに小指の先に疫病神を宿したところ激痛が全身を走り、高熱を発したという。これによって疫神除去のため自ら降魔の姿を示現(じげん)して、これを護符に写しとらせたというものだ。(平林盛得『良源』213ページ)


 元三大師とその図像。
 なかなか興味が尽きませんね。
 ほかにも、彼が創始したという「おみくじ」の話題もあるし、本当におもしろいお坊さんです。

 大師の誕生地は、現在の長浜市(滋賀県)なのだそうです。
 その場所に、いま玉泉寺というお寺が建っていて、もちろん角大師の護符も授与してくださるそうです。
 近いうちに、一度行ってみようと思います。

 


 角大師護符

 授与 元三大師を祀る寺院(京都では廬山寺、尊勝寺、三千院など)で授与



 【参考文献】
 平林盛得『良源』吉川弘文館、1976年
 『元三大師良源-比叡山中興の祖』大津市歴史博物館、2010年
 寺島典人「良源像のイメージと姿について」(『美術フォーラム21』22号、2010年所収)



比叡山延暦寺の高僧・元三大師は、京都でも広い信仰を集めてきた

洛東




尊勝院


 元三大師・良源という僧

 平安時代、天台宗の高僧に良源という人がいました。諡号は、慈恵(じえ)大師、生まれは延喜12年といいますから、912年のこと。
 没したのは、永観3年(985)ですが、正月3日に亡くなったため、「元三(がんざん)」大師という呼び名も生まれ、その後、庶民の間ではこの呼称が通用することになります。

 天台宗のトップ・天台座主(ざす)となり、延暦寺の伽藍を整備して、叡山中興の祖ともいわれます。一方で、僧兵を用いた初めの人とされたり、いやそれを統制しようとしたのだという評価もあったりさまざまですが、当時は山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の対立が激化し、各勢力が衝突していた時代ですから、比叡山にも“剛腕”が求められていたのでしょう。

 良源は、宗派の運営においても指導力を発揮したのですが、同時に“法力”も強い僧として知られています。
 たぶんに伝説的な話ですが、宮中で祈祷をしている最中、その姿が不動明王に変わったと言われ、その験力の強さが伝えられています。


 京都で信仰される元三大師

 このような良源の存在は、没後、比叡山でも崇められ、さらに山を下って都の宮中でも信奉されました。
 寿永元年(1182)、妹・八条院の瘧(おこり)病の祈祷を行った後白河院は、その布施として、「慈恵僧正の五鈷(ごこ)」(または「劔」)を受け取ったといいます(「玉葉」「吉記」寿永元年7月1日条)。「五鈷」は密教法具の一種、劔も同様と考えてよいでしょう。
 すでに良源没後200年が経っていますが、その法具が(良源が使ったものかどうかは別にして)、上皇の祈祷の布施とされているところが、彼の法力が信じられていたことの証しとも言えるでしょう。

 時代は下って、良源への信仰は、都の人々にも広がっていきます。
 江戸時代にもなれば、京都の町中に「元三大師」をお祀りするお堂がいくつも建ったのです。

 盧山寺
  廬山寺 元三大師堂

 例えば、京都御所の東にある廬山寺(ろざんじ)。
 節分会で有名ですが、この寺は、もとは良源が船岡山の南麓に開いたといわれています。天正年間になり、秀吉の都市改造で寺町の現在地に移転してきました。
 いま門を入ると、正面に元三大師堂が立っています。当寺における元三大師の重要性がうかがえます。
 護摩壇のある暗い堂内には、元三大師像などが祀られています。

 このお堂自体は、天明の大火(1788年)で焼失した後、天保6年(1835)に再建されたものです。
 前には石灯籠が立っています。

  盧山寺 盧山寺

 正面に「元三大師拝前」、側面に「安永九庚子年/正月三日/御戸帳講中」とあって、「再建世話人」として近江屋藤兵衛ら3名の名前が刻まれています。
 安永9年というと1780年ですから、天明の大火の前から立っているものということでしょう。
 「正月三日」というところが、元三大師らしい建立月日というわけです。

 「都名所図会」より廬山寺
  「都名所図会」より廬山寺


 東山の尊勝院にも

 円山公園の北には、知恩院や青蓮院といった寺院がありますが、青蓮院の東方に尊勝院というお寺があります。
 こちらにも元三大師が祀られています。

 尊勝院
  尊勝院への道

 青蓮院の北側の道(三条通の1本南の道)を東に進むと、左手に小学校のグラウンドがありますが、右手に写真の道標が現れます。
 「元三大師」とズバリの道しるべですが、文化2年(1805)に建てられたものです。
 道なりに進み、粟田山荘の前を左折すると石段になり、上るとお堂が見えてきます。

  尊勝院

 少し長い道でしたが、尊勝院です。

 尊勝院
  尊勝院 本堂(京都市指定文化財)

 眼下に、京都の街が見渡せます。

 尊勝院

 尊勝院は青蓮院に属する天台宗の寺院です。写真の本堂が、元三大師堂になります。
 文禄年間(1592-96)、秀吉により再建されたお堂といいます。建築様式からみても、桃山時代のものとしてよさそうで、京都市の指定文化財となっています。
 幕末頃の様子は、「花洛名勝図会」(1864年)に描かれています。

 「花洛名勝図会」より尊勝院元三大師堂
  「花洛名勝図会」より尊勝院元三大師堂

 さまざまな小祠があり、信仰のオンパレードという感じの場所ですね。一番上に「元三大師」と書かれ、入母屋造の堂宇が描かれています。
 本文には、「元三大師 座像二尺余自作南面大師と号す」とあります。2尺(約60㎝)ばかりの大師の座像(大師が自分で彫ったもの)があり、南を向いているということですね。

 上の絵を見ると、建物は平入りの入母屋造のようで、前に拝所が付いているように見受けられます。「都名所図会」(1780年)には拝所は描かれていませんので、その後、数十年の間に参拝者も増え、拝所が造られたのでしょう。
 確かに、図では右上が南になりますから、南面大師という称もうなずけます。

 いまは、この図の場所からは移動しているということです(大正4年=1915年、現在地に移築)。


 失われた元三大師堂も……

 かつては存在したけれど、現在ではなくなってしまった元三大師堂もあります。

 「花洛名勝図会」より祇園社元三大師堂
  「花洛名勝図会」より祇園社

 この図は、同じ「花洛名勝図会」(1864年)から、祇園社(八坂神社)の部分図です。
 左端の「西楼門」が、四条通の突き当りにある朱塗りの門ですね。ここをくぐって、やや左前方に進むと、元三大師堂があります。後ろに見えるのは、絵馬堂。
 宝形造の方三間くらいの小さなお堂ですね。そういえば、尊勝院のお堂も、当初は宝形造だったそうです(『京都市の文化財』)。

 祇園社は、10世紀より延暦寺に帰属することになったので、天台座主・元三大師のお堂があるのも不思議ではありません。
 「花洛名勝図会」の本文には、「元三大師堂 薬師堂の北にあり。本尊大師の像二尺余、脇士不動尊、如意輪尊、又北の方に歓喜天を安す」と記されています。ここでも、元三大師像は2尺ほどの像なのです。
 ただ、このお堂も近代になって廃絶してしまいました。

 さらに、現在では参拝できない寺院となっていますが、上京区の般舟院(はんじゅういん、般舟三昧院)に元三大師堂がありました。
 「都名所図会」には、門の脇にお堂が描かれています。

 「都名所図会」より般舟院
  「都名所図会」より般舟院

 ちなみに、貞享2年(1685)に出版された「京羽二重(はぶたえ)」には、観音、地蔵、弁天、不動など、さまざまな験仏が上げられており、その中に「元三大師」もあります。4か所上がっており、

 比叡山  横川[よかわ]飯室
 粟田口  尊勝院
 寺 町  盧山寺
 須磨町通大宮の西  般舟院


 が、元三大師を祀る寺院として紹介されています。

 そんなわけで、たいへんな験力によって後世の人々からも広く信心された元三大師。
 彼の話になると、その「お札」について触れないわけにはいきませんが、長くなりますので次回の続きとしましょう。

【 この項、続く 】




 尊勝院

 所在 京都市東山区粟田口三条坊町東部
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年
 「京羽二重」(新修京都叢書)
 「玉葉」
 「吉記」(増補史料大成)
 『京都市の文化財 第14集』京都市文化市民局、1997年
 『元三大師良源-比叡山中興の祖』大津市歴史博物館、2010年
 寺島典人「良源像のイメージと姿について」(『美術フォーラム21』22号、2010年所収)
 衣川 仁『僧兵=祈りと暴力の力』講談社選書メチエ、2010年


【お知らせ】
 3月27日(金)、NHK総合「ブラタモリ~京都・完全版~」に出演します。22時~23時08分のオンエアです。
 1月に放映された「ブラタモリ 京都」で、時間の都合によりカットされた映像も含めて、拡大版として再編集されました。ぜひご覧ください。

 

公示地価発表、京都で地価が一番高い場所は…





四条河原町


 商業地の地価が上昇

 3月18日、国土交通省から全国の公示地価が発表されました。
 住宅地、商業地、工業地の区別がありますが、一般に注目されるのは商業地です。
 全国の商業地では、北陸新幹線の開業でわく金沢の上昇率が高く、17.1%の上昇でした。
 関西では、大阪・ミナミの復権が顕著で、上昇率トップは戎橋北詰東側の「Luz心斎橋」(大阪市中央区宗右衛門町)で、11.3%のアップ、価格は701万円(1㎡当り)、上昇率2位も心斎橋筋でした。

  四条河原町 四条河原町交差点

 京都ですが、商業地の全体は1.2%上昇。11区のうち、9区がアップしています。特に、繁華街の中京区は4.0%です。
 府内の商業地で最高価格地点となったのは、四条河原町交差点の北西角、みずほ銀行四条支店の場所(下京区四条通寺町東入2丁目御旅町51)。価格は354万円で、5.0%の上昇です。
 いつもおなじみの地点で、33年連続で最高地点でした。
 他の地点では、中京区の烏丸通六角下ル七観音町が205万円などとなっています。

 前年度と比べると、中京区や東山区のすべて、下京区のほとんどで上昇したということです。背景に、観光客増加に伴うホテル用地需要の高まりがあるといいます。特に東山区は7.6%も上昇し、店舗需要の増大も要因となっています。

  四条河原町

 多くの方に京都を訪れていただき、その魅力が伝わることは大変うれしいことです。ただ、それに伴って、さまざまな資本が入り混じり、京都らしい地域的な特色が失われないか危惧されます。すでに大阪では、道頓堀や心斎橋筋、新世界などでこのような現象が見受けられます。他山の石とすべきでしょう。


仁和寺経蔵で、戸閉まりについて考える

洛西




仁和寺経蔵


 江戸時代の建物の宝庫・仁和寺

 「御室」の呼称で知られる仁和寺。
 現在、私たちが目にする伽藍は、江戸時代の前半に整備されたもので、寛永年間から正保年間(およそ1640年代)に建てられた建築が多数を占めます(国宝の金堂は、慶長18年(1613)築の内裏・紫宸殿を移築したもの)。
 国指定の建造物が多く、金堂は国宝、二王門、中門、五重塔、観音堂、鐘楼、経蔵、御影堂などは重文となっています。

 今回は、経蔵に注目です。

 仁和寺経蔵
  仁和寺 経蔵


  輪蔵がある経蔵

 この経蔵の中には、八角形の輪蔵(りんぞう、回転するお経の収納庫)があります。かなり大ぶりの輪蔵ですね。
 引き出し状になった768の経函があり、そのなかに仏教の経典集・大蔵経(一切経)が収められています。

 特別公開で、その内部に入れたのですが、気になったのが扉でした。

 仁和寺経蔵
  正面向かって右側面(南側)

 扉は、背面を除く3面に1か所ずつ付いています。
 両開きの桟唐戸(さんからど)で、藁座(わらざ)によって吊り込まれ、外開きになっています。上下に付けられた白色の部材が、藁座ですね。
 扉を藁座で吊り込むのは、禅宗様のやり方です。仁和寺は真言宗なのですが、この建物だけは禅宗様で建てられています。浄土宗・知恩院の経蔵も禅宗様ですから、経蔵は禅宗様で造るという了解があるのでしょうか。

 仁和寺経蔵

 寺院建築の場合、基本的に扉は外開きです。
 例外的に内開きになるのは、門と蔵です。
 経蔵は、蔵の一種だから内開きだろう、と思いきや、外開きになっています。仁和寺だけでなく、知恩院、妙心寺、大徳寺は言うに及ばず、各地にある国指定の経蔵を見てみると、みんな外開きになっていることが分かります。

  仁和寺経蔵 仁和寺経蔵
  外開きの扉  (左)正面 (右)北面

 今回、気になった点は、“戸締り”でした。カギの問題ですね。
 この扉、どうやってカギを掛けているんだろう、ということです。


 扉のカギは、どうなってる?

 考えてみると、建物は外観だけを見学することが多く、扉の内側は余り見ません。見ても、カギのことまでは気に掛けないものです。

 この写真をご覧ください。

  仁和寺経蔵
  扉に付いた金物

 開いている扉の写真です。
 扉の内側の両端に、タテ長の金物が付いています。
 上下にスライドするようになっていて、下端はL字形に曲がっています。

  仁和寺経蔵 ← の部分がL字形に曲がっている

 実は、これがカギなのです。

 建物側を見ると、足元の貫(足固貫)に、こんな穴が開いています。

 仁和寺経蔵

 この2つの穴こそ、タテ長の金物が刺さる穴なのです。

 この金具、いわゆる「落とし」というやつで、現在の建物でもドアを留めるための「フランス落とし」などが使われていますね。
 
 3か所の入口には、各2つ、合計6つの落としが付いています。
 頭が鈍いものですから、“内側から6つとも閉めると、外に出られなくなるなぁ”なんて疑問も湧いてきます。
 いろいろ考えたのですが、最後に閉める落としは、貫に着地させてから、そっと閉めていくと、穴のところで勝手にコトッと落ちて閉まるのかな?--とも思いました。でも、それも無理があるなぁ、などと悩み、やはり道具を使うんだろうか、などなど、ちょっとお手上げです。

 戸締りした様子は、外から見ると全く分かりません。

 仁和寺経蔵

 ちなみに、閉めた扉を開くとき、つまり落としを上げるときは、おそらくL字形の鍵を使うのだと思いますが、それをどこから差し込むのか、こちらも不明でした。

 現在では、正面の扉の外側に錠前が取り付けられています。

 仁和寺経蔵


 落としの呼び名

 戸締り金物の一種である、この「落とし」、正確にはどう呼ぶのか、なかなか難しい問題です。
 金物だから「落とし金」と言ったり、カギだから「落とし錠」と言う場合もあるようです。
 この経蔵の『修理工事報告書』を見ると、「落としコロロ」という “?” な呼称が出てきました(28ページ)。

 コロロって?

 『日本国語大辞典』や『大阪ことば事典』によると、「コロロ」とは「枢」の漢字を当て、「戸の桟(さん)。おとし。さる」とあります。大阪などの方言で、「くるる」の転化とされています。
 『大阪ことば事典』には挿図があって、戸に落としが描かれています。

 寺院のお堂には、昔はカギなど掛けなかったということです。
 さすがに門はカンヌキ(閂)で閉めたと思うのですが、仏罰を恐れて賊も入らなかったのでしょうか。

 仁和寺経蔵
  仁和寺東門のカンヌキ
  
 いまでは、どの寺院でも警備員さんやセンサーに頼らざるを得ない時代になってしまいました。
 扉やカギからも、寺院と信仰の歴史をうかがうことができそうです。




 仁和寺 経蔵 (重文)

 所在 京都市右京区御室大内
 拝観 経蔵は通常外観のみ(無料)
 交通 嵐電「御室仁和寺」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『重要文化財仁和寺鐘楼・経蔵・遼廓亭修理工事報告書』京都府教育委員会、1993年
 『国宝・重要文化財大全 11 建造物 上巻』毎日新聞社、1998年
 牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、1984年


仁王門通の由来となった頂妙寺の門の上には、手紙が !?

洛東




頂妙寺二天門


 「仁王門通」の名前のルーツ

 鴨川の東には、二条通と三条通の間に、仁王門通という通りがあります。
 この狭い通りに南面して、日蓮宗の頂妙寺があります。

 頂妙寺
  頂妙寺(奥が二天門〔仁王門〕)

 通りの名前の由来は、異説はあるものの、頂妙寺の「仁王門」だといわれています。カッコを付けたのは、正確に言うと、持国天と多聞天(毘沙門天)の二天を祀る「二天門」というべきものだからですが、一般には仁王門で通っています。

 頂妙寺二天門
  仁王門(二天門)

 この門の持国天、多聞天は、江戸時代には篤く信仰され、門のための拝殿さえ設けられていました。

 これについては、前に書いた記事をご覧ください。 記事は、こちら! ⇒ <仁王門通の由来である頂妙寺とナゾの絵>

 
 門の上に書状の額が…

 この門は、持国天と多聞天に注目が集まるのですが、上を見上げると意外なものがあります。

 頂妙寺二天門

 この扁額。
 なにやら長文が書かれています。クローズアップすると……

 頂妙寺二天門

 中央に、枠囲みされた10数行の手紙のようなものがあり、左右の枠外にも文字が書かれています。

 枠外の右には、「天正十二年七月依/豊臣太閤秀吉公台命」とあります。
 左には、「賜当山僧正日珖御免状/洛陽 頂妙寺蔵板」と記されています。

 天正12年(1584)7月に、豊臣秀吉から、当寺(頂妙寺)の日珖にもらった免状である、くらいの意味ですね。
 この年は、本能寺の変で織田信長が没してからすでに2年、秀吉の治世になっていました。

 中央の書状、高い位置で読むのに苦労しますが、書き出しは、「先年安土法問」と読めます。これは、天正7年(1579)に行われた安土宗論のことだと分かります。
 織田信長のもとで、法華宗(日蓮宗)と浄土宗が問答し、法華宗が論破されて大打撃を受けた事件です。この問答には、頂妙寺の日珖も出席していました。

 この書状は、前田玄以判物というもので、秀吉の家臣・前田玄以(げんい)が出したものです。
 ちなみに、判物(はんもつ)とは、大名などの花押(判)がある文書で、所領を与えたり特権を付与する場合などに使われたスタイルだそうです(佐藤進一『古文書学入門』)。

 先日、頂妙寺の特別公開の折に、判物の実物を見ることが出来たのですが、そのおよその内容は、「先年の安土の問答以来、法華宗は逼迫していたが、このたび当時の誓約書を破って、以前のように戻す」というものです。安土宗論以来、退潮を余儀なくされていた法華宗が、再びお許しを得て復活できる、そんな内容でした。
 日付は7月18日、前田玄以の花押もあり、宛先は「法花宗中」。

 ところが、門の額をつぶさに見てみると、言っている内容は同じことなのですが、文章はかなり違っていることが分かります。日付も7月25日らしく、宛先も日珖上人になっています。
 お寺に所蔵されている現物と、門に掲げられたものは、ほぼ同内容だが別のもの、ということになります。この相違については、よく分かりません。

 信長没後、秀吉のお墨付きを得て、洛中で布教できるようになった法華宗。それを満天下に示すために門に書状を掲げたという珍しいケースです。
 やっぱり、この門は興味が尽きません。




 頂妙寺 二天門(仁王門)

 所在 京都市左京区仁王門通川端東入大菊町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車「三条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 佐藤進一『古文書学入門』法政大学出版局、1971年


きょうの散歩 - 3月の雪 - 2015.3.10 -

その他




 バイクの雪


 雪が降りました。
 3月10日というのに、京都市内でも降雪です。

 少し珍しいのかなと、3月の雪について調べてみました。
 初めて知ったのが、「終雪(しゅうせつ)」という言葉。
 辞書によると、「その年の春の最後の雪。降りじまいの雪。雪の果て。名残の雪」とあります(『日本国語大辞典』)。

 この言葉は知りませんでした。気象庁のウェブサイトにも、一般的には使われない旨が記されています。

 季節の言葉だから季語にあるのかなと歳時記をひもとくと、私の小さな歳時記には載っていませんでした。どうも、この語は季語としては用いられていない、それくらい専門的な用語のようです。

 歳時記によると、春になってから降る雪を「春の雪」「春雪」「淡雪」というそうです。
 ことに、春の最後の雪は「雪の果」「名残の雪」「忘れ雪」「別れ雪」などと呼ばれます。旧暦2月15日の涅槃会の頃に降ることが多いため「涅槃雪」とも言われるそう。
 なかなか風情があります。

 上の写真は、はからずも夜の散歩で撮ったバイクに積もった雪。クルマにも、かなり積もっていました。

 調べてみると、京都の終雪の平年日は、3月20日だそうです。まだ平年より10日も前ですから、ちっとも珍しくありません。
 最も遅い終雪の記録(最晩記録)は、調べてみたけれどよく分かりませんでした。たぶん4月だと想像するのですが、何日なのでしょうか。


【新聞から】災害と文化の継承

その他




郷村断層


 文化を軸とした復興を 室﨑益輝氏
 京都 2015年2月27日付


 2015年1月7日、阪神淡路大震災から20年を迎え、3月11日は東日本大震災から4年。
 そして3月7日は、京都府北部を襲った奥丹後(北丹後)地震から88年です。

 奥丹後(北丹後)地震については、以前取り上げたことがありますので、そちらをご覧ください。 記事は、こちら ⇒ 「活断層」の提唱につながった奥丹後地震の郷村断層

 京都新聞「ソフィア 京都新聞文化会議」欄は、災害に関する提唱を掲載しています。
 2月20日は、北原糸子氏の「震災後、横浜にできた関西村」。関西の人たちが関東大震災(1923年)の復興支援を行っていたことを紹介されています。
 2月27日は、室﨑益輝氏の「文化を軸とした復興を」。
 室﨑氏は、震災後、さまざまなメディアで発言されています。私も、機会があって、ある研修会でお話を聞いたのですが、非常に幅広く、そして深く災害というものを考察されていて、その後、新聞・雑誌やテレビ・ラジオに登場されるたびに拝読、拝聴してきました。例えば、東日本大震災後、唱えられ始めた高台移転に対して、地域の紐帯や文化を守る観点から疑義を呈しておられたことを記憶しています。

  郷村断層 郷村断層(京丹後市)
 
 「ソフィア」欄には、災害復興には文化を守る視点が大切だと説かれています。
 震災が、直接的には文化財などを破壊し、間接的にも、復興過程で歴史的景観や伝統芸能を奪うということを指摘。阪神淡路大震災後にも、「風土に根差した風情のある街並み」が壊されたことに言及されています。
 人はパンのみに生きるにあらず、住宅の再建だけでは復興はなしえない、という言葉は重いものです。

 「文化は人間が守る対象でもあり、人間を守る手段でもある」という指摘は、正鵠を射ています。

 かつて、地域の結束には、社会的な組織の存在とともに、その結び付きをより強固にする神事や祭礼、芸能や娯楽が介在していました。このような(狭義の)文化は、ひとが生きる上で欠かせないもので、ベースの上に乗っかっている“お飾り”ではありません。
 地域によっては、年に一度の祭礼のために日々の仕事をしているようなケースもあります。いわゆるハレとケは、一体のものとして、ひとの暮らしの中にあります。

  長江家住宅  京都の町家

 歴史的景観については、近年ますます重要性が訴えられています。
 日本の都市では、特に火災によって町が焼き払われるケースが、歴史的に多発してきました。
 この事実は、京都でも同じです。
 私は、このブログの第1回の町家に関する記事で、京都の火事について次のように記しました。

 私が子供の頃、京都は火事が少ない町だと教えられていました。
 百万都市であるにもかかわらず、年に百にも満たない件数で、それは京都の人達にとってひとつの誇りになっていました。しかし、そういった防火の意識は、おそらくは何度も繰り返されてきた大火事の教訓ではなかったのでしょうか。
 18世紀以降も、享保15年(1730)の西陣焼け、天明8年(1788)の大火、そして幕末には元治の大火(1864)が起こり、その度毎に町は焼き払われました。
 京の町家というと、さぞかし古くから、と思われる向きもありますが、幕末の元治の大火によってその多くが焼亡したのですから、いま私達が見る町家のほとんどは明治以降のものということができます。


 火事で焼けるたびに、町の人たちは住まいを再建してきました。そして、町の景観を守る努力を続けてきたのです。

 比叡山  比叡山

 京都の都市景観を考える場合、ふたつのキーワードがあると思います。「山紫水明」と「町(ちょう)」です。
 周囲を山で囲まれ、鴨川などの河川が流れる景色は、江戸時代より、山紫水明と呼ばれてきました。山が紫とは意外に思われるかも知れませんが、比叡山などを眺めると、それは実感として迫ってきます。
 どこにいても山が見える、親しく川に接することができる ―― この自然に恵まれた落ち着き、潤いが、京都の特徴のひとつです。

 一方、町中に転じれば、町(ちょう)という地域コミュニティーによって制御された町並みの美観があります。
 突出せずにまわりと合わせる生活様式や、外には閉じながらも内側は開放的である住空間は、景観面にも反映し、同じ外観を持つ町家の連なりを形成してきました。時代による変化はあるものの、周囲との調和が是とされたのです。
 これが、もうひとつの京都の景観的特徴でしょう。

 このような観点が戦後から現代にかけて展開し、例えば建物の高さ制限や看板規制につながっています。全国チェーンの店舗の看板が、京都だけ違う色合いになっているのは、この表れですね。

 災害の話から、随分離れてしまいました。
 しかし、このような生活者の感受性、暮らしぶり、それは文化といってもよいと思うのですが、そのようなものが人々の結び付きの基盤にあることは否めないでしょう。


本阿弥光悦の作庭という本法寺「巴の庭」は、なかなか巴が探せない難解さ





巴の庭


 中世京都の日蓮宗隆盛

 京都の寺院には、さまざまな宗派の本山が数多くあります。
 こう言われたとき、東西の本願寺に代表される浄土真宗や、知恩院を本山とする浄土宗、さらには五山を筆頭とする臨済宗が思い浮かぶでしょう。また、東寺や醍醐寺の真言宗や比叡山延暦寺の天台宗など、密教をイメージする方もおられるかも知れません。
 そんな中、京都のお寺と言われて、日蓮宗を想起される方は少ないのではないでしょうか。

 ところが、室町時代から戦国時代にかけて、京の町衆の間では、日蓮宗(法華宗)が広く信仰されていました。その勢力は21か寺の本山を持つほどに広まり、他宗と衝突。ついに天文5年(1536)の天文法華の乱で京都退去を余儀なくされ、その後、帰洛するものの往時の勢いを失いました。

 法華宗の拡大には、精力的に布教につとめた僧たちの存在があったわけですが、その中でも迫害されながらも布教を行った僧に日親がいます。
 彼が開いた寺が本法寺です。
 現在は堀川寺之内上ルにあり、これは豊臣秀吉の都市改造に際して、寺院が集積された地区(寺之内)に移転させられたものです。
 この付近には、妙顕寺、妙覚寺、妙蓮寺、本隆寺など、日蓮宗寺院が集まっています。


 裏千家・表千家の向いにある本法寺

 本法寺
  本法寺

 堀川寺之内を上がったところ、正確に言うと、堀川通より1本東にある小川通に山門を開く本法寺。
 通りの向いには、茶道の家元・裏千家と表千家が並んでいます。この山門の左手にはいつも警備員さんが立っていて少々物々しいのですが、茶道具店なども並ぶ界隈はひっそりとした雰囲気です。

 本法寺は、江戸時代の天明の大火(1788年)で、ほとんどの建物を焼失しました。これは他の寺院と同様で、現在の伽藍はそれ以後に整備されたものです。

 「都名所図会」より「本法寺」
  天明の大火前の本法寺(「都名所図会」巻1)

 「都名所図会」は、安永9年(1780)に刊行されているので、この図は大火直前の姿になります。
 中央の広場に向かって、本堂、開山堂(祖師堂)、多宝塔などが並ぶ形は、日蓮宗寺院らしい配置です。
 本堂の北側には、渡り廊で結ばれた方丈があります。
 画面下の川(小川)に架けられた橋を渡ると門があり、さらに楼門が聳えます。その右手には、いくつかの子院があります。
 現在、楼門前の小さな門はありませんが、ほぼ天明の大火前の伽藍配置が今日も引き継がれています。

  本法寺 本法寺多宝塔

 
 光悦の作った「巴」のある庭

 日本史の教科書に、江戸時代、京都・鷹峯に“芸術村”を作ったとして紹介されている人物が、本阿弥光悦です。
 彼が出た京都の町衆・本阿弥家は、法華宗の信者で、本法寺の大檀那でした。
 そのため、当寺の庭も光悦によった作られたといわれています。

 巴の庭
  巴の庭

 書院の縁の北端から眺めた写真です。
 左右に広がる庭は、L字に曲がり、書院の南側へと回り込んでいます。一目で見渡すことはできませんし、現在は南の部分には渡り廊下が架けられています。

 そこで、江戸時代の絵図を見てみましょう。「都林泉名勝図会」(1799年)です。
 寛政11年(1799)に出された本ですから、光悦の没後160年ほど経っているわけで、作庭当初の様子とは異なっているかも知れませんね。

 「都林泉名勝図会」より「本法寺」
  本法寺「巴の庭」(「都林泉名勝図会」巻1坤)
 
 なんとなく左右に真っ直ぐ広がっている庭のように見えますが、実際にはL字形(上図では「ヘ」形)に曲がっているわけです。
 名所図会らしく、上空から俯瞰した図になっていて、実際に縁に座ってみると、このように眺めることはできません。

 本文には、「林泉は光悦の作にして、世に三巴[みつどもえ]の庭と賞す。其形、築山、泉石共に浪の紋を模す」とあります。
 図中には「巴の庭」と記されていますが、本文は「三巴の庭」。

  左三巴
  左三巴(『紋之泉』より)

 これは、三巴の紋のように巴が絡まりあっている「三巴」とも解せますが、巴が3つ庭中にあるという意味にも取れます。図を見ると、3つの巴が点在していると解釈する方がよいような気がします。

 「都林泉名勝図会」より「本法寺」

 例えば、ここですね。
 左上から右に向かって、キツネのしっぽ? のような形が見えるでしょう。これが巴というわけです。
 いま現地で見ると、うまく分からないのですが、図会ではきっちり描かれています。

 おそらく、L字の庭の両端と屈折点の3か所に巴形が配されているのではないでしょうか。

 北端近くにも、キツネのしっぽみたいな巴形が見えます。

 「都林泉名勝図会」より「本法寺」

 現地で確認すると、こんなふうです。

 巴の庭

 まったく分からないのですが、絵と同じような石があります。

 「都林泉名勝図会」より「本法寺」

 そして、屈曲部分に配された枯山水の滝と石橋。
 こちらは現在でも、この通り。

 巴の庭

 こんな感じなのですが、図会ではこの部分がクロワッサンのような形? になっており、“これが巴なのでは?”と思わせます。
 なにか判じ物みたいな、難解な庭ですね。


 モダンな蓮池の造形

 この庭を特徴付ける存在に、奇妙な形の蓮池があります。

 「都林泉名勝図会」より「本法寺」

 現在の姿。

 巴の庭

 10本の細長い切石を組み、池を形作っています。何角形とも言い難い、珍しい池です。
 白幡洋三郎氏は、次のように述べています。

 さて本法寺の庭園は、きわめて特徴的な池をもっている。幅およそ15センチメートル、長さ7、80センチから1.5メートルの切石10個で取囲み、護岸としている。円形に近い不等辺の十角形がつくられているのである。
 その池の左方に半月形の板石を2枚合わせて円形の置石がつくられている。
 一般に日本庭園といわれているものにはみられない斬新、もしくはモダンなデザインの造形ができあがっているのである。(『都林泉名勝図会』講談社学術文庫版、271ページ)


 確かに、他に類をみない池です。
 私が訪ねたのは冬の一日だったので、蓮は枯れていて、ぽっかりと池がうがたれているだけでした。

 ただ、左にある2枚の半月形の石は、「都林泉名勝図会」には現れていません。いつ置かれたものなのか、詳らかにしません。

 最後に、図会には、下のような手水鉢(ちょうずばち)が描かれています。

 巴の庭

 光悦遺愛の手水鉢と言われています。
 これもおもしろい形だと思うのですが、私はせっかくの名物を見逃してしまったのでした。やはり、先達はあらまほしき事なり、というところでしょうか。



 本法寺 巴の庭 (国名勝)

 所在 京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町
 拝観 大人500円ほか (境内は自由)
 交通 市バス「堀川寺之内」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「都林泉名勝図会」1799年
 『都林泉名勝図会 上下』講談社学術文庫、1999-2000年(白幡洋三郎監修)
 『紋の泉』洛東書院、1926年
 

東本願寺の石垣に見つけた“ナゾの痕跡”とは?





東本願寺穴門


 本願寺のまわりを歩く

 東西の本願寺は、なにかにつけて、よく訪れるお寺ですね。
 あの広大なお堂を拝し、畳に座ると、連綿と受け継がれてきた信仰の重さを感じずにはいられません。

 さらに私は、両本願寺の間や敷地のまわりを歩くのが好きなのです。
 そこには、ふだんは気付かないさまざまな秘密が潜んでいます。

 今回は、東本願寺の北側を訪れてみましょう。

 東本願寺内事門
  東本願寺 内事門

 東本願寺の内事門です。
 花屋町通に面し、北を向いて開いています。
 長屋門の形式をとる立派な門で、唐破風を持つ番所が付いているのが特徴です。武家屋敷の門のようでもあり、江戸時代なら10万石以上の格式に相当する両番所を持つ門です。
 同様の門は西本願寺にもあり、台所門と呼ばれています。「台所」は、かつては「仲居」ともいって、調理をする台所の意味に加え、寺務所の意味も持っています。「内事」も同様ですね。つまり、これらの門は、本願寺の裏方へ入る門、通用口だということができます。

 西本願寺の台所門については、こちらをご覧ください。 ⇒ <西本願寺の門、門、門!>


 石垣の痕跡を観察する

 この門の右側(西)には、長い石垣が続いています。

 東本願寺石垣
  西から東を眺める(奥に小さく見える屋根が内事門)

 この石垣を見ていて、おや、変だな、と思いました。

 東本願寺石垣

 このあたりなのですが、どうでしょう?
 少し石の積み方が変だと思いませんか。

 東本願寺石垣

 さらにアップすると、この部分ですね。タテやヨコに石積みの食い違いがあって、ラインを作っています。
 ちょっと落書きしてみると、こんな感じです。

 東本願寺石垣

 念のため、上と下のアップも。

 東本願寺石垣

 東本願寺石垣

 下の写真には、少し赤ラインを引いてみましたけれど、その上だけ横長の石が積んであります。

 では、これはいったい何を示すものなのでしょうか?


 答えを探しに・・・

 考えるうちに、思い付くことがあって、東本願寺のまわりを囲む石垣に沿って歩き始めました。
 西側には、南北に長く石垣が続いていますが、新町通からは家屋に阻まれてなかなか見ることができません。

 しかし、ついに見えるところがありました。

 東本願寺石垣
  新町通から東を望む

 うまい具合に石垣が姿を現しています。さっそく奥へと進んでみます。
 すると……

 東本願寺穴門

 石垣に何かある!

 東本願寺穴門

 やっぱり、そうでした。
 門だったのです、あの痕跡は。

 東本願寺穴門

 もちろん、四脚門とか高麗門とか、立派な門とは違います。
 石垣に入口をうがっただけの穴門(あなもん)です。

 東本願寺穴門
  門の上部

 上の方には、楣(まぐさ)という横材が入っています。

 東本願寺穴門
  門の下部

 下の方は地面から少し高くなっていて、地覆(じふく)という横材が入っています。
 今は扉は外され、コンクリートで塗り固められています。つまり、不要になったのですね、この穴門は。

 しかし、こんな家の裏に穴門の痕跡が残っているとは、驚きです。
 

 さらに・・・

 しかし、これで満足せずに、さらに新町通を南へ進んでいきました。
 すると……

 東本願寺穴門

 駐車場。
 ここにも石垣が。

 そして、クルマの奥に……

  東本願寺穴門

 ありました! 穴門 !!

  東本願寺穴門 引きがなく全体の撮影は不能

 こちらは、木製の門扉が付いていました。
 なるほど、こんな感じだったのか……
 でも、今は使っていないようです。

 これで、内事門脇にあった石垣の痕跡のナゾが解けました。
 あの位置にも、元は穴門があったのです。門の前は小さな堀なので、石橋でも架かっていたのでしょう。それが、いつしか不要になったので、しっかりと石で塞いだのでしょうね。
 現在では、それが痕跡として残っていたのでした。

 これらの穴門は、東本願寺の裏方サイドに付いているので、かつては荷物などの搬入口として使われていたのではないでしょうか。今回は北の花屋町通に1か所、西の新町通側に2か所発見したわけですが、全体に何か所あったのか、現地では分かりません。
 『両堂再建』に掲載された幕末の絵図類では、西側には石垣に4か所の穴門がうがたれていたように見受けられます。おそらく、あと2か所もどこかに痕跡として残っているのでしょう。

 なお、寺の正面側(東)にも、立派な穴門があります。
 全然違った造りで、“表”の顔をしていますね。

 東本願寺穴門
  東の塀にある穴門




 東本願寺 穴門跡

 所在 京都市下京区烏丸通花屋町西入ル常葉町
 見学 自由
 交通 JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『両堂再建』真宗大谷派宗務所出版部、1997年