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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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地域のブランド力とは? - 滋賀県の“県名変更”に考える -

その他




金閣寺


 「滋賀」の県名を変更 !?

 京都新聞は、京都府とともに滋賀県を販売エリアにしています。そのため、滋賀のニュースも掲載されます。
 
 今日、みんなが驚いたニュースといえば、“「滋賀」県名変更しては?”というものでしょう(2015年2月26日付)。
 
 2015年2月25日の滋賀県議会で、滋賀のブランド力が低いので「県名を変更しては」という提案があったといいます。
 記事によると、同じような提案は2009年にもあって、その背景には、「滋賀」より「近江」の方が知名度がある(つまり「近江県」に変えてはどうか?)ということのようです。

 第一印象は、滋賀県の議員さんは自らの県名に愛着がないんだろうか? という素朴な疑問。
 次に思ったのは、背に腹は代えられぬ、名(県名)より実(経済)を取るということなのか、という感想。
 そして最後に考えたのは、これも最近自治体で流行っている“自虐キャンペーン”の一種なのかな?、という深読み。

 議会を傍聴していないので、どういう雰囲気で言われたのか分かりませんが、県名変更とは穏やかではありません。


 地域ブランド力の調査

 滋賀県のブランド力が低いという論拠ですが、日経リサーチという調査会社が隔年で発表している「地域ブランド戦略サーベイ」の2013年版に拠っているようです。
 
 この調査によると、「滋賀」の認知度は全国37位でしたが、「近江」は29位(旧国名88のうち)だったそうです。近江の方が少し有名だということですね。

 一方、京都では、府名を変えようという議論は、これまでおそらく出たことはないでしょう。
 この調査でも、京都は都道府県ブランド力ランキングで、2位となっています(前回も2位)。
 ちなみに、1位は北海道、3位・沖縄、4位・東京、5位・大阪です。6位以下は、神奈川、鹿児島、福岡、兵庫、奈良の各県になっています。
 ちなみに、香川県は前回調査24位から14位へ急上昇。これは、例の「うどん県」への“改名”が功を奏したらしいのです。

 それを裏付けるかのように、名産品ブランド力ランキングでも、

 1 讃岐うどん
 2 博多辛子明太子
 3 白い恋人
 4 夕張メロン
 5 京都八ツ橋

 となっています。

 それにしても、夕張市は財政破綻したのに、「夕張メロン」だけは有名とは、なんという皮肉でしょうか。


 国名を付けた都道府県はない

 そういえば、近年の市町村合併で、京都の「京丹後市」「京丹波町」をはじめ、「丹波市」「伊賀市」「阿波市」「伊予市」「出雲市」「南さつま市」「さつま町」「伊豆市」「伊豆の国市」「甲斐市」などなど、数々の旧国名を付けた地方自治体が誕生しました。
 おそらく、いずれの市町も、旧国名の知名度の高さを生かしたかったのでしょう。

 しかし、旧国名を付けた都道府県は、ひとつもないのです。
 これは、国と都道府県が別次元の存在だからです。

 黒田日出男氏の説明によると(平凡社『大百科事典』の「国」)、「1871年7月の廃藩置県で藩が県にかえられ、11月には県が合併整理されたが(改置府県)、県は統治機構の名であって支配の及ぶ範囲ではなく、したがって地方行政の対象としての国は残った」 「宮武外骨の《府藩県制史》によれば、国を廃止する告示は出されないので、国名が廃止されたことはないのである」と説明されています。

 つまり、国は「地方行政単位」であり、県は「統治機構」で、まったく別の概念なのです。
 都道府県は、藩を引き継ぐものですから、そこに旧国名を付けるのは概念の混同といえなくもありません。

 たまたま今日、雨降る中、滋賀県の近江八幡市を訪れたのです。
 図書館で町の歴史を瞥見し、八幡宮に参拝してから、古い町並みや掘割、ヴォーリズの近代建築を眺め、NPOの人たちとおしゃべりして、つくづく歴史のある良い町だなと思いました。
 こういった美しく、麗しい地域が、滋賀県にはたくさんあります。

 そういえば、最近、京都でもアメリカ旅行雑誌のランキングで1位になったことが喧伝されています。
 ランキングをPRに使うのも広報戦略なのだと思いますが、余り上品とは思えません。数字にとらわれずに、大人の議論をしたいものです。



<お知らせ>
 3月3日(火)、関西テレビ「スーパーニュースアンカー」(16:48~19:00)の17時台の特集「ニュースの熱点」に出演します。
 早い時間帯ですが、よろしければご覧ください。
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小栗栖で没した明智光秀の首と胴は、どこに行き、どうなったのか?

洛東




日ノ岡名号碑


 “明智藪”で討たれた光秀の首は…

 本能寺の変のあと、天王山の戦い(山崎の戦い)で敗れた明智光秀は、勝竜寺城から夜中ひそかに逃れ、坂本城に落ち延びる途中、醍醐あたりで土地の人々に命を奪われました。
 この場所が、地元では今でも「明智藪」として伝わっていることは、前回お話しました。

 今回は、討たれた光秀の首、そして胴は、どこに行ったのか? という疑問の解決編です。

 明智藪
  明智藪


 付近には胴塚もあった

 明智藪から街道筋に戻り、山科方面(北)へ歩を進めます。
 15分ほど歩くと、西側の路傍に石碑を見付けることができるでしょう。山科区勧修寺御所内町で、西側の歩道を歩いていれば見落とすことはありません。

 明智光秀胴塚

 これが、明智光秀の胴塚と称されているものです。

 明智光秀胴塚

 明智光秀胴塚 明智光秀胴塚

 碑には、単に「明智光秀之塚」と記してあります。碑自体は、昭和45年(1970)に山科の方が建立されたものです。
 台石などは古そうですが、それが元からこの塚で使用されていたものか、何かを転用したものかは不明です。
 古くから胴塚であるとの伝承がありますが、塚という感じの土盛りもありません。かつては田んぼの中に、塚があったのかも知れませんね。
 竹村俊則氏よると、昭和30年代にはすでに塚の形をとどめず、1坪余りの空地に卒塔婆を立てていたそうです。
 また、その北方には光秀が乗っていた馬を埋めた馬塚があったが、灌漑用の池になったといいます。結構、念入りですね。


 当時の日記の記述には…

 同時代の日記を見ると、山科言経(ときつね)の「言経卿記」には、天正10年(1582)6月15日条に、郷人に一揆として討たれた光秀について、「首、本能寺へ上げ了(おわ)んぬ」と書かれています。
 里人に討たれ、その首は京都・本能寺へ持って行ったというのです。

 吉田兼和(兼見)の「兼見卿記」の同日条には、光秀は醍醐辺で一揆に討ち取られ、その頸(くび)は村井清三、三七郎殿へ持参されたと記されています。
 村井清三は、信長の重臣・村井貞勝の家臣です。三七郎殿は、信長の三男・織田信孝。信長や貞勝の亡き後、残った彼らに首が届けられたというのです。
 つづく16日条には、「向州[日向守=光秀のこと]頸、筒体、本応寺[本能寺]にこれを曝すと云々」という記事があり、光秀の首と胴体が本能寺に晒されたと分かります。

 奈良・興福寺の「多聞院日記」6月18日条には、本能寺には光秀をはじめ首3000ほどがあったというと記されています。

 このことについて、ルイス・フロイスの「日本耶蘇会年報」を見ておきましょう。少々グロテスクなので、ご注意を。

 明智、莫大の黄金を与ふるを約し、坂本[城]に入るまで救助せんことを土民等に頼みしが、彼等[土民ら]は刀及び背に負ひし僅少の品物を奪はんと欲し、彼[光秀]に一槍を附け、其首を斬りしが、彼等は其首を三七[織田信孝]に献ずる勇気も悪意もなく、他の一人、此務をなしたり。
 而して城中[勝竜寺城]の諸人、其他多数を熱心に斬首し、都の信長の御殿に差出せしもの、一度に千余級に達し、供養のため、悉[ことごと]く整列せしめ、(夏の真中なりしかば)臭気甚だしく、彼の傲慢なりし暴君[信長]に相当せりと思われたり。
 風、同方向より吹寄する毎に、臭気の為め、我等の会堂に居る能(あた)はざる程なりき。


 討たれた光秀の首と、他の1000ほどの首が本能寺に並べられたというのです。
 夏場のことなので、その臭気ははなはだしく、イエズス会士たちは会堂にいられないほどだったと伝えています。

 此斬首は可なり長く続き、多くの場所にて行われたり。
 其後二日を経て、パードレ・オルガンチノ、他の一人のパードレと共に、右信長の御殿の前を過ぎしが、首級三十余を、羊か犬の頭にてもあるが如く、一本の縄に貫きて、売らんとする者を見たり。此憐れむべき人々は、此の如き棒物をなすを以て、最も彼の霊を喜ばすものなりと信ぜるなり。
 明智の首も亦、其死骸と共に同所に持ち来れり。是れ日本全国を覆すの野心を抱きし者の、憐れなる最期なり。神の正義は、彼の恐るべき陰謀を企てし後、十二日以上の生命を彼に許し給はざりき。
 彼の首級は、先づ信長の遺骨の前に捧げられ、其後、三七[信孝]の命に依り、胴と継ぎ合せ、市外にて十字架に架せられたり。


 光秀の首は、その死骸(胴体)とともに本能寺に持って来られ、信長の遺骨の前に献じられたといいます。その後、信孝の命によって、首と胴はつなぎ合わされ、市外で「十字架に架せられた」、つまり磔(はりつけ)にされたのです。

 惨いと言えば余りにも惨い、この処断。父を誅した逆臣の首と胴を縫合して、磔にしたのです。遺児・信孝の思いは、いかばかりだったでしょうか。


 首塚を築く

 念のため、他の史料も見ておきます。

 「言経卿記」7月2日条には、粟田口に去る○日(日は空白)に、明智日向守の首とむくろなどを接合したものが張り付けに懸けられた、斎藤利三も同じである、と書かれています。
 斎藤利三は光秀の重臣で、捕らわれて六条河原で斬首されていました。
 そのあとに続けて、「其外(そのほか)、首三千余、同所ニ首塚ヲ築かれ了(おわ)んぬ」とあって、光秀と利三が磔になった粟田口に首塚が築かれたと記しています。

 首塚については、「兼見卿記」6月23日条に、「頸塚を粟田口之東□□之北に築くと云々」とあり、村井清三らを奉行として22日から築き始めたと記されています。

 ここまでを整理すると、次のようになるでしょう。

・6月13日、勝竜寺城を脱した明智光秀は、山科、醍醐あたりで郷人に討たれ、首を取られた。
・その首と胴体は、本能寺に運ばれ、他の首(1000、あるいは3000)とともに並べられた。
・首と胴体は接合され、斎藤利三の遺骸とともに、粟田口で磔にされた。
・6月23日、粟田口の東に首塚が築造された。

 史料から見ると、光秀の胴体は本能寺に持って来られたようなので、醍醐あたりに埋葬された可能性は低いといえるでしょう。


 粟田口の刑場を訪ねて

 明智光秀の遺骸が、粟田口に磔にされたという衝撃の事実に、その場所を訪ねないわけにはいきません。
 京の東端・粟田口は、東海道が大津方面とつながる出入口です。現在の地下鉄東西線の駅名でいえば、「東山」から「蹴上」付近に当たるでしょう。
 
 この場所には古くから刑場がありました。
 また江戸時代も刑場は置かれ、明治維新まで続きました。場所は、蹴上から大津方面に至る峠、九条山付近だったそうです。その東の地名が日ノ岡ということから、日ノ岡の刑場とも呼ばれました。

 九条山
  九条山を通る三条通(旧東海道)

 この刑場に関連のある遺物が、いまも日ノ岡に残されています。
 地下鉄「御陵」駅から西へ歩くと、すぐそこに至ります。

 日ノ岡
  日ノ岡(西を望む)

 北側の歩道を進むと、峠道に差し掛かるところに大きな碑が建っています。

  日ノ岡名号碑

 「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた名号碑。
 実は、これが粟田口刑場の名残を示す遺物なのです。碑の左側面には、「享保二丁酉七月」と彫られています。

 この由来は、『史料京都の歴史 11 山科区』所収の安祥院文書により分かります。
 建てた人は、木食正禅(養阿)という僧です。
 彼は、例年冬の夜に「六墓五三昧」を巡って念仏を唱え、「重罪之霊魂」を弔っていました。六墓五三昧とは、「南無地蔵、大谷、西ノ土手、あわた口、西所河原、元三昧」(六墓)と、「千本、蓮台寺、七条、狐つか、金光寺」(五三昧)を指し、刑場や墓地のことです。特に、粟田口と西土手(現在の円町付近)は刑場として著名です。
 これらの場所で、正禅は享保2年(1717)より回向を行っていたのですが、3年が過ぎたのでそこに供養塔を建てたのです。特に、粟田口刑場の石塔は高さが1丈3尺といいますから、約4mのとても大きなものでした。

 現在残っている名号碑の高さは約2.9mしかないそうです。
 一見して分かるように、上下で切断されています。

  日ノ岡名号碑
  「弥」の中央に左右の断裂がある
 
 また、よく見ると、縦方向にも三分割されているのが分かります。
 
 実は、この碑は、明治維新後に刑場が廃止されたあと処分され、切り分けてさまざまな石材に転用されていたといいます。それで縦長に切断されているのでした。

 ところが、昭和8年(1933)、京都-大津間を結ぶ旧国道1号線が改修された際、工事の最中に土中から発見されたのでした。
 完全な姿ではなかったので、少し補って再建したといいます。

  道路修築紀念碑 旧国道修築紀念碑

 
  切り裂かれた碑

 この名号碑の隣には、「南無妙法蓮華経」を刻んだ題目碑があります。

  日ノ岡題目碑

 昭和15年(1940)に建立されたものですが、土台の部分に分断された古い碑が用いられています。

  日ノ岡題目碑
  右に「南無妙」の文字が見える

 現地でこれを見て、石が泣いている、と思いました。
 刑場の露と消えた罪人の霊を弔った碑を、時代が変わって不要になったからといって切り刻む、その人間の業の深さ。無言の石だからこそ、私達に多くのことを語り掛けてきます。

 オランダ人エンゲルベルト・ケンペルが見た粟田口刑場の様子を紹介しておきましょう。1692年5月8日の「江戸参府紀行」の記事です。

 日岡という山の麓にある村に着くと、そこからほど遠からぬ所に南無阿弥陀仏という文字を彫った丈の高い一つの石碑が立っていた。その向いに二人の罪人が磔[はりつけ]にされていた。
 その磔の柱のすぐ近くの、しかも石碑も十字架も見えない両側に、粗末な物を敷いて一人ずつ僧侶が坐っていた。そして道に沿って七枚の板がさしてあった。察するに死んだ者の名がそれぞれ書いてあったのであろう。また板の一枚一枚に南無阿弥陀仏と書いた旗のようなものが吊るしてあった。

 漆塗りの日笠をかぶった僧は一枚の板を前に置き、その上に金属製の容器を逆さにしたような形の鐘を据え、時々たたいては、なんまんだあを唱えていた。また、そばにもう一つ手桶を置き、それに結びつけた文字の書いてある何枚かの紙片を、手桶にいっぱい入っていた水にちょっとつけた。両側には小さいシキミ[樒]の束がさしてあり、僧はその一つを小さい棒に結びつけて、それで文字の書いてある板切れを絶えず洗い浄めた。そしてその都度そこに書いてある死んだ人の戒名を、経文と一緒に唱えていた。

 前を通り過ぎるすべての日本人は、僧たちに小銭を投げ与えていた。その布施に対して僧たちは、処刑者の霊のために祈願しなければならないのは当然だが、ほかの人ならば、彼ら僧たちのずる賢い顔つきから、彼ら自身の方が、ぜひとも代願が必要だと推論したくもなるだろう。


 江戸時代の様子ですが、これより百年余り前、明智光秀の遺骸も磔にされたのでした。

 そのあと造られた首塚とその移転、現状などについては、別に書いていますので、そちらをお読みください。 記事は、こちら ⇒ <明智光秀の首塚は、幕末から明治、歌舞伎役者たちによって整備された>




 明智光秀胴塚

 所在 京都市山科区勧修寺御所内町
 見学 自由
 交通 地下鉄「醍醐」、または「小野」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『兼見卿記』2(史料纂集)
 『言経卿記』1(大日本古記録)
 『多聞院日記』三教書院、1936年
 『史料京都の歴史 11 山科区』平凡社、1988年
 竹村俊則『新撰京都名所図会 5 』白川書院、1963年


本能寺の変のあと、明智光秀が落命したという明智藪は、いまも小栗栖に伝わっている

洛東




明智藪


 「本能寺の変」後の明智光秀

 天正10年(1582)6月2日、全国統一を目前にしていた織田信長は、京都・本能寺で明智光秀に襲われ、49年の生涯を閉じました。
 信長を討った光秀は、諸将の支持を取り付けようとしますが思うように行かず、備中高松から戻ってきた羽柴秀吉らと一戦を交えます。この天王山の戦い(山崎の戦い)で敗色が濃くなった光秀は、勝竜寺城(現・長岡京市)から夜中、近江の坂本城へ向かって落ち延びます……

 ここのところ、明智光秀に関心を抱いている私は、本能寺の変そのものよりも、変後の光秀が気になって仕方ありませんでした。
 光秀の最期としてよく耳にするのは、“小栗栖で農民の竹やりで突かれ、自刃した”というものです。
 これは、「明智軍記」など後世の編纂ものによって語られた内容が、巷間に広まったもののようなので、まずは同時代の史料を参照してみました。


 日記にあらわれた光秀の最期

 吉田兼和(兼見)の日記「兼見卿記」には、本能寺の変とその後について詳細に記されています。
 天王山の戦いのあった6月13日条には、山崎表での合戦で「日向守」(光秀のこと)が敗れ勝竜寺城に入ったことや、14日条には、昨夜(13日)「向州」(光秀)が勝竜寺城を退散したこと、などが記されています。
 そして、15日条には、「向州、醍醐の辺に於て一揆に討取らる」とあり、その首は村井清三や「三七郎殿」(信長の三男・信孝)のもとへ届けられたとあります。

 山科言経(やましなときつね)の日記「言経卿記」にも、6月15日条に、「惟任[これとう]日向守、醍醐辺に牢籠す、則ち郷人、一揆としてこれを打つ」とあり、首は本能寺に届けられたとあります。

 2人の日記から、京には6月15日に明智光秀が討たれたという一報が入ったことが分かり、場所は「醍醐」のあたりとされています。

 奈良・興福寺の多聞院の日記「多聞院日記」には、6月17日条に光秀最期の記事が見えます。奈良なので、情報が少し遅れたのでしょうか。
 「惟任日向守ハ、十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階[山科]ニテ一揆ニタ丶キ殺レ了」とあって、首も「ムクロ」(胴体のこと)も京へ届けられたとあります。
 一揆にたたき殺されてしまったとは、苛烈な表現ですけれど、“信長の大恩を忘れて曲事(くせごと)に及んだのだから天命である”と記す筆者としては、当然の表現なのかも知れません。
 ここでは、「山階(山科)」がその場所として記されています。

 このように、リアルタイムの情報では、特に「小栗栖」と特定されていなかったようで、およそ醍醐、あるいは山科あたりと伝わっていたと思われます。


 明智藪という迷宮

 ということで、京都市伏見区にある小栗栖を訪ねてみました。

 小栗栖は、「おぐるす」と読みますが、地元では「おぐりす」と言われることも多いようです。

 小栗栖 「オグルス」
 小栗栖 「オグリス」

 その場所に行くには、地下鉄東西線の石田駅が最寄りです。
 山科川を渡って、西の丘に向かって進みます。

 山科川
  山科川

 突き当りの交差点を右折して北に進みます。
 山手への入り方が難しいのですが、下の写真の場所を入って行きましょう。「本経寺墓地」の看板が立っています。石田駅からは、この写真の左奥側から歩いて来ることになります。

 小栗栖
  醍醐方面から南を見た分岐路

 まっすぐ進むと、分岐に看板が出ています。

 明智藪

 要所にこの看板があるので、矢印に従って歩きます。
 最後は道なりに進み、住宅で突き当りに見えるようなところに、その場所はあります。

 明智藪

 「明智藪(やぶ)」と刻まれた石碑。
 住宅の脇の狭いところに建っており、詳しい解説も記されています。
 地元では、光秀が討たれた場所を明智藪と称しているのでした。

  明智藪 明智藪

 この解説には、光秀は地元の飯田一党に討たれたと書かれています。飯田一党とは、当地を支配した信濃出身の飯田氏のことで、小城(小栗栖城)を築いていたといいます(『史料京都の歴史 16 伏見区』)。史料的には飯田氏が討ったということは確認できないと思いますが、『史料京都の歴史』には、「飯田家には光秀を討ったのは飯田一党であるとの伝承もある」と記しています。

 この碑から、さらに奥へ進んでいきます。

 明智藪

 手製の「←明智藪」という札の先が……

 明智藪 明智藪

 ここが明智藪 !? 

 明智藪

 地元では、深草から小栗栖へ抜ける山越えを「明智越」とも呼んでいるそうです。

 「拾遺都名所図会」(1787年)には、「明智光秀亡滅旧蹟」として「光秀死亡の藪」が登場します。本経寺の境内にあり、此の薮を所有すると災いがあるので、今はこの寺に寄付していると記されています。
 また、「惣じて此藪の竹の色、一片ハ濃く一片ハ薄黄にして縞筋の如し。これ其霊のとどまるしるしなるか」とあって、光秀の霊のために竹がまだらになっていると書いています。少し恐ろしいですね。

 こんな感じで、光秀落命の地「明智藪」は、伝承の世界に属する気もするのですが、さらに疑問が湧いてきます。

 光秀は、地元の人々に討たれたわけですが、その後、彼の首はどうなったのでしょうか?
 さらに、首から下の胴体はどうなったのでしょうか?
 
 ちょっとグロテスクになりかねない話題ですが、重要なことなので、次回に考えてみたいと思います。

 


 明智藪

 所在 京都市伏見区小栗栖小坂町
 見学 自由
 交通 地下鉄東西線「石田」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 『兼見卿記』2(史料纂集)
 『言経卿記』1(大日本古記録)
 『拾遺都名所図会』(新修京都叢書)
 『史料京都の歴史 16 伏見区』平凡社、1991年


【大学の窓】1年間の授業が終わって考えたこと

大学の窓




キャンパス風景


 目標の高い学生たち

 出講している大学の担当授業は1月中に終了し、先日、成績判定の会議も済んで、今年度はすべて終わりました。

 判定会議で、学生たちが授業に関して書いたアンケートを読むのですが、毎年深く考えさせられます。
 質問項目に、いま自分に不足している力は何か? という項目があります。
 今年目立った答えは、忍耐、根気が不足している、というもの。これは例年あまり見かけない回答です。
 一見、勉強不足のような答えに見えるけれど、裏を返せば、自己の目標が高く、それに至らない自分に不満を感じている、ということです。つまり、それだけ真面目、熱心な証しと言えるでしょう。
 
 それと関連するのか、自分には知識が足りない、という答えも数多く見られました。
 1年間、歴史に関するテーマを設定して調査を行い、その「答え」を見付けていく。そんな作業をしてもらっているのですが、未知の史料や事実に対峙して、知識不足からお手上げ状態になることが多かった、ということのようです。
 この感想も、勉学意欲の高さを物語っています。


 学力の背景にあるもの

 そんな声を聞くなかで、少し衝撃的なニュースに接しました。
 お茶の水女子大学の研究チームが文部科学省から委嘱を受けてまとめた「平成25年度全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)の結果を活用した学力に影響を与える要因分析に関する調査研究」です。
 長いタイトルなのですが、要は、子供たちの「学力」の高低は、家庭環境や経済力に比例する、という報告です(乱暴にまとめてすみません)。

 報告書は、約250ページ! もあって、さすがにすべて読めませんが、概要版によると、次のようなことが指摘されています。

・家庭の社会経済的背景(SESという)と学力の関係
 SES が高い児童生徒の方が、各教科の平均正答率が高い傾向がある。
・不利な環境を克服している児童・生徒の特徴
 SESが低いからといって、すべての子供の学力が低いわけではない。学習時間は、不利な環境を克服する手段になる。
 また、生活習慣や読書の習慣が学力に影響を及ぼしている。
・保護者の意識と学力の関係
 子供への接し方として、生活習慣についての働きかけや、読書、学習、文化・芸術・自然体験などへの働きかけが多い。
 また、高い学歴への期待感や、学校活動への積極的な参加があり、教育投資額も高い。

 家庭の社会経済的背景(SES)は、一般には、保護者の「職業」「学歴」「所得」という3要素から構成されるそうです。今回の調査では、このうち学歴と所得に絞って調査しています。

 この調査でも、家庭の収入が高い方が子供の学力は高くなる、ということが明瞭になった--のですが、衝撃的なのは、格差を克服する手段である学習時間について、最もSESが低い層で毎日3時間も勉強している子供より、全然勉強していない最もSESが高い層の子供の方が成績がよい!--ということなのです。
 これじゃ報われない、ということが衝撃なのですね。

 もちろん、この研究自体はそんな点だけを強調するものではありませんが、経済資本が教育に及ぼす影響の大きさを垣間見る思いです。

  キャンパス風景


 学力と教養

 そう考えてみると、大学だって、ほとんど学力によって入学者を選抜しているわけですから、SESの影響を免れないわけです。
 今回の研究で、目がとまったのは、学力が高い子供の保護者は、子供と一緒に「博物館や科学館」「図書館」「美術館や劇場」に行っている、という点でした。
 私のイメージの中では、博物館施設や図書館、劇場などは、学力というより「教養」の領域に属するものだと思っていました。ところが、親と一緒にそういう施設に行く子供は、学力も高いということなのですね。
 ということは、教養を身につけるにも、まず学力から、ということでしょうか。

 大学では、昔は「教養課程」というものがあったくらい、教養が重視されていたように思います。ところが最近では、教養という漠然としたものよりも、社会的課題を解決する能力(問題解決力)が重視されるようになっている気がします。

 それが駄目だというつもりはないけれど、やはり教養のある学生を育てたいなぁと、思ったりもするのでした。



京都市内の現存最古の道しるべは、三条通・白川橋のたもとにある

洛東




白川橋道標


 文化財としての道しるべ

 今回は、道標、すなわち道しるべのお話です。

 昔の街道を歩いていると、各所で道しるべに出会いますね。京都だと、町なかにも道しるべが残っています。
 どこにどんな道しるべがあるかは、自治体や研究者が調査していますが、全国でいくつあるのか、ちょっと想像が付きませんね。

 今回、まず思ったのが、国指定文化財の道標はあるのか? という疑問。
 あとでふれますが、道しるべは美術品などではなくて、「史跡」の範疇に入るようなので、国史跡の道しるべはあるのか? を探してみることにしました。

  兵庫・中山寺付近の道標 路傍の道しるべ(兵庫・中山寺付近)

 文化庁の「国指定文化財等データベース」で検索してみました。
 
 すると、結果はゼロ件。
 どうやら、国指定の道しるべ(道標)は、ないようなのです(探し方が悪くて見落としていたら、すみません)。

 ただ、それに類似したものは、史跡指定されています。
 例えば、町石(ちょういし、丁石)。
 寺社への参詣道に立っている距離表示の石柱です。これは、高野山町石など4件が国の史跡になっています。
 これなどは、道しるべに最も似た存在といえるでしょう。

  鞍馬寺町石 町石の例(鞍馬寺)

 別のものでは、一里塚があります。東海道など、主要な街道に設置された“マイルストーン”的な土盛りですね。こちらは、16件が国の史跡になっていてポピュラーなようですが、道標とは少々掛け離れています。


 古い道標は?

 道しるべは、不特定多数の人々が旅をするから建てられるものでしょう。そのため、江戸時代より前には、そんなにたくさん作られたとは思えません。
 ふだん路傍で見掛ける道標も、多くは江戸後期か、明治時代以降のものです。

 京都の道しるべについて早くから調査を行っていた出雲路敬直氏は、1970年代に各種の報告書などを参照して、全国で最も古い道標は万治4年(1661)のものであると述べています(神奈川県藤沢市の道標)。
 つまり、江戸時代よりも古い道標は報告されていないということでした。

 もちろん、現在ではそれよりも古い道しるべが数多く発見されています。
 例えば、大阪の道標については、武藤善一郎氏が労作『大阪の街道と道標』(1988年)にまとめています。
 それによると、大阪府内の場合、現存最古の道しるべは宝徳3年(1451)のもので、亀岡市の穴太寺へ向かう巡礼道に建てられたものといいます。場所は、高槻市内ですが山の中です。
 次に古いのが、天文元年(1532)の道標で、大阪市福島区の春日神社にあります。
 ただ、江戸時代までのものは、この2つだけ。江戸時代に入っても、17世紀のものは僅か13基にすぎません(調査総数は685基です)。
 今日でも、江戸時代より古い道しるべは、依然珍しいといえるでしょう。


 京都市内で最古の道しるべ

 では、京都市内の道しるべは、どんなものが残っているのでしょうか?
 出雲路敬直氏は、約400基の道しるべを調べたと著書に記しているので、少なくともその程度の数はあるのでしょう。
 これらのうち重要なものは、京都市によって史跡に登録されています(冒頭にも述べたように、道標は「史跡」に属するようです)。
 昭和62年(1987)5月に、次の5つが登録されています。

 ・今出川通寺町東入表町(大原口)道標(慶応4年=1868)
 ・北白川西町道標(嘉永2年=1849)
 ・吉田本町道標(宝永6年=1709)
 ・三条通白川橋東入五軒町(三条白川橋)道標(延宝6年=1678)
 ・御陵中内町(五条別れ)道標(宝永4年=1707)

 大原口道標
  大原口道標

 いずれも立派な道しるべで、建立年が分かっています。建てた人の名前や、作った石工の名が判明するものもあります。
 京都市の史跡となった道標は、それ以後はありませんので、この5件のみです。

 5つのうち、最も古いのが、延宝6年(1678)に建てられた三条通白川橋東入五軒町(三条白川橋)道標です。
 白川に架かる白川橋の東南の橋詰にあります。

 白川橋
  白川橋

 白川橋道標
  白川橋道標

 『京都市の文化財 第五集』に記載されている白川橋道標の特徴を引いておきましょう。

 延宝6年(1678)の年号をもち、良質の花崗岩に彫られた文字にはほとんど損傷が無く、市内最古の道標としての風格をそなえています。
 東海道を京都にやってきた人々を対象に建てられたもので、建立目的や建立意図も知ることができます。また、初期の道標の姿を知るうえで大変貴重なものです。(37ページ)


 いまから約340年前に建立された道しるべ。どんな文字が刻まれているのでしょうか?

  白川橋道標
  北面

 まず、北側の面。
 ひときわ大きな文字で、「三条通白川橋」と大書されています。三条通が白川を越えるところに架けられた白川橋。その位置を示しています。

  白川橋道標
  東面

 東側には、「是ゟ[より]ひだり/ちおんゐんぎおんきよ水みち」。流麗な文字ですが、一文字ずつ丁寧に書かれていて、「是」と「水」以外は平仮名です。
 漢字にすると、“是(これ)より左/知恩院・祇園・清水道」。この道標を左へ、つまり南に曲がって白川に沿って進むと、知恩院、祇園、清水寺に至るという意味です。

  白川橋道標
  南面

 南面には、「京都為無案内旅人立之」とあって、その下に、

  白川橋道標

 「延宝六戊午三月吉日/施主/為二世安楽」と記されています。

 京都に不案内な旅人のために建てたということが、道しるべ自身に彫られているのです。
 建てた人の名前は記されていないものの、現世と来世(二世)の安楽を願う、その心が示されています。古風な、また仏教的な言い回しですが、大変興味深いですね。

 残る西面なのですが、ここには文言は刻まれていません。

 「花洛名勝図会」より「白川橋」
  幕末の白川橋(「花洛名勝図会」巻2、1864年より)
  左上に「大津海道」、右上に「知恩院道」とあり、
  ここが分岐点だと分かる


 文面から見えてくること
  
 この道しるべの特徴は、まず、方面の表示が東面にしかないことです。
 多くの道標は、“左 ○○、右 ○○”のように各方面の行先表示がしてあります。出雲路敬直氏は、「この道標には「三条白川橋」という現在地が示されているけれども「東海道」とか「江戸」とかいう文字を見ることはできない」と述べています(『京のしるべ石』148ページ)。
 お分かりのように、この道標は東からやってくる人、つまり東海道を下って大津方面から京に来る旅人のために建てられた道標なのです。だから、京都から東へ向かう人のための表示は必要ない、ということになります。

 その方面表示は、知恩院、祇園、清水寺を示しています。
 この場所は東海道の路上ですが、まっすぐ行くと約800mで三条大橋です。このことをあえて記す必要もありません。
 ところが、白川に沿って南へ分岐する道があり、ここを通ると知恩院などへ早道になるのです。知恩院の古門前には約350m。さらに進むと祇園、これは八坂神社を意味するのだと思いますが、そこへ通じ、さらに清水寺に至ることができます。実に親切な位置に建てられた道しるべといえるでしょう。

 白川
  白川に沿って進むと知恩院に至る

 また、文字がほとんど平仮名なのは、多くの人に読める配慮をしたのでしょう。昔の人は耳で聞いて覚えることが多いでしょうから、「知恩院」などと書くより「ちおんゐん」とした方が分かりやすいということです。

 そして、この道しるべを建てること、つまり道案内をすることが、現世と来世の安楽につながるという考えが記されています。ひとを助けることが功徳になるというわけです。昔の人たちの考え方を知る上で、とても大切です。
 このような道しるべが文化財とみなされて、現地で大事に残されているということは大変うれしいですね。
 



 三条白川橋道標 (京都市史跡)

 所在 京都市東山区三条通白川橋東入五軒町
 見学 自由
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 出雲路敬直『京のしるべ石』泰流社、1975年
 『京都市の文化財-京都市指定・登録文化財 第五集-』京都市文化観光局、1988年
 武藤善一郎『大阪の街道と道標』サンケイ新聞生活情報センター、1988年


きょうの散歩 - 白川から粟田口へ、青蓮院の植髪堂 - 2015.2.7 -

洛東




三条通白川橋


 青蓮院門跡の脇にある小さなお堂は?

 天気のよい週末、三条通の白川橋あたりから、粟田口へ散歩。

 粟田(あわた)は、古くは郷の名(粟田郷)ですが、いまは「粟田口」という地名が広まっています。
 粟田「口」というのは、三条通を経て京の外に出る出口(「口」)だったためで、別に「三条口」とも「大津口」とも言われます。いわゆる「七口」のひとつですね。
 江戸時代の地誌などには、上の写真にある白川橋より東が「粟田口」だと記されています。
 そういう意味で、京都の東の外縁部に当たる地域でした。

 粟田口という地名でイメージされるのは、刀工がいた場所であるとか、焼き物が作られたところであるとか、刑場があったとか、さまざまでしょう。

 今日は、三条通に架かる白川橋を渡って、東に歩いてみました。

 三条通を少し南に行くと、ここに。

 青蓮院

 青蓮院です。天台宗の門跡寺院のひとつですね。

 この入口の駐車場の奥に、何やらお堂が見えます。

 植髪堂

 扉も開いているので、お参りしてみましょうか。

 植髪堂 植髪堂
  石灯籠

 いつも参拝に行くと、石造物はひと通り見ていきますが、これは江戸中期の明和年間(1764-71)に寄進されたものです。
 「親鸞聖人うへかみの御影」と刻されており、下には「粟田」の地名。

 「うへかみ」は「植髪」の字を当てます。つまり、親鸞上人の毛髪を植えた像(御影)という意味ですね。
 ちょっとミステリアスです。


 植髪堂の由来

 このお堂は、植髪堂(うえがみどう)と呼ばれています。
 青蓮院門跡の北側、拝観料の要らない場所です。

 植髪堂
  植髪堂

 親鸞の出家について、「親鸞聖人伝絵」には次のように記されています。

 九歳の春の比[ころ]、阿伯従三位範綱卿(中略)、前大僧正(中略)の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪[びんぱつ]を剃除せられき、範宴少納言と号す。

 親鸞は、9歳の春の頃、養父である日野範綱に連れられて、前大僧正の慈鎮和尚の坊に行って、鬢髪を剃り落とし、範宴と号した、ということです。

 慈鎮は、天台座主で、歴史書「愚管抄」を著した慈円のこと。ここ青蓮院の第3代門主も務めました。
 「伝絵」には、親鸞は9歳で得度したと記されているわけですが、いつどのように得度したかは議論もあるようです。しかし、このあたりは今日は保留にして、次へ進みましょう。

 お堂の前には、懇切丁寧な解説が記されています。
 それによると、親鸞が出家したあと、お母さんは剃り落とした彼の髪を張り子の童形像の頭に植え付けて、傍に置いたといいます。その像が青蓮院に伝わり、人々にもその存在が知られるようになったので、木像を作って法衣を着せ、末寺の金蔵寺に安置されたそうです。
 この辺までは、ちょっとファンタスティックなお話で、心暖まりますね。

 その後、宝暦9年(1759)、金蔵寺の側に阿弥陀堂が建立され、像も移されました。明和4年(1767)には、華頂山上に移り、のち再び山下に下りて、文化8年(1811)に新たなお堂が建築されました。これが明治13年(1880)に青蓮院の現在地に移され、いまに至るということです(『京都市の地名』など)。
 
 この親鸞像が「植髪の像」と言われ、お堂も「植髪堂」と呼ばれているのでした。
 経緯は少し複雑ですけれど、剃り落した髪を植えた像というのは面白いですね。

 お堂に上がると、長押の上に、親鸞上人の生涯を描いた絵が16枚ほど掲げられています。落款に「好古」とあるので、小早川好古という日本画家の絵なのでしょう。苦難に満ちたその生涯がよく理解できます。
 植髪の御像は拝観することはできないようですが、内陣の端には法衣を着た童形の立像が安置されています。

 帰り際、お堂の裏に回ってみると……

 植髪堂

 昭和15年(1940)に建立された立派な石塔があって、「親鸞聖人得度遺髪納之」と記されているので、ここに髪が納められているのかなぁと思いました。

 植髪堂

 お坊さんの像には、本人の髪が植毛されているものが時折あるように思います。
 こういう像ばかりピックアップしてみると、愉しいかも知れませんね。
 



 植髪堂(青蓮院内)

 所在 京都市東山区粟田口三条坊町
 拝観 自由
 交通 地下鉄「東山」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』平凡社、1979年
 平雅行『歴史のなかに見る親鸞』法蔵館、2011年
 松尾剛次『親鸞再考』NHKブックス、2010年




 <お知らせ>
 2月13日(金)、朝日放送「キャスト」に出演します。午後6時15分~(約10分間) の特集コーナーでコメントします。
 よろしければご覧ください。

いつもお読みいただき、ありがとうございます! - 連載300回 -

その他




京都の遠景


 300回ご愛読御礼!

 日頃、当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。
 おかげさまで、今回で掲載300本になりました。

 京都の歴史と文化財について、2012年夏から、3日に1度、記事を書いてきました。さすがに2年半もやっていると、“ネタ切れ”は日常茶飯事。ますます明智光秀公の顰(ひそみ)にならって“三日殿下”を自称するようになり、愉しんでいるのやら苦しんでいるのやら、よく分かりません。

 それでも、300回もやっていると、京都の史跡、文化財、史料などについて、ある程度の情報が蓄積されてきました。
 また、変わりつつある街のニュースも取り上げてきましたが、それは掲載された多数の現状写真とあわせて、2010年代の京都の記録ともなるでしょう。

 そんな記事を多くの皆さんにお読みいただき、とてもうれしく思っています。



 京都に暮らすことは、過去の上に生きること

  うすさま明王絵馬

 このごろ私にとって、自分が生きていく拠りどころは何かといえば、それは自分が過去の上に立って生きている、ということに他なりません。
 いまここに自分がいるのは、過去があってこそ。過去の人々がいなければ、いまの自分もいないのです。
 そしてまた、いまの自分は辛かったり、淋しかったり、悲しかったり、満たされなかったりするかも知れないけれど、自分は独りではなく大勢の過去の人たちに支えられていると思えば、そんな気持ちも払拭されます。

 このような思いで、常に過去を大切にし、過去をふり返っていく。過去の人たちに思いを寄せ、それを汲み上げていく。それが私にとっての「歴史」という営みです。
 私にとって「歴史」とは、いまここにはいない過去の人たちに思いを致す<過去への供養>なのです。

 京都に暮らすことほど、それを感じさせることはないでしょう。ここで暮らすことは、過去の上に生きることであり、歴史という営みそのものなのです。

 そんな気持ちで、また3日後から記事を綴っていきたいと思います。一緒に、遠い昔の世界をのぞきに行きましょう。

 引き続き、ご愛読よろしくお願いします。


  蓮


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歴史家が大胆推理した亀屋陸奥の銘菓「松風」は、ケシと白味噌の味覚が美味





亀屋陸奥・松風


 「松風調進所」亀屋陸奥

 京都駅前にそびえる大伽藍といえば西本願寺と東本願寺ですね。

 西本願寺
  西本願寺

 西本願寺は、堀川通に面していますが、通りを渡った東側(堀川七条交差点の北東)に、一軒の和菓子店があります。

 亀屋陸奥・松風

 看板には、このように書かれています。

 亀屋陸奥・松風

 「本派本山/松風調進所」。

 本派本山とは、西本願寺のこと。東本願寺に対する通称で、昔はよく使われたと思うのですけれど、今は余り聞きませんね(西本願寺の正式名称は、浄土真宗本願寺派「本願寺」。東本願寺は、真宗大谷派「真宗本廟」)。
 
 その西本願寺へ納める「松風」というお菓子を作っている店です。店名が書いてないけれど、脇の小さな看板に記されています。

  亀屋陸奥・松風

 亀屋陸奥。「かめやむつ」、歴史のありそうな名前です。


 松風という菓子

 ここの銘菓が、看板にある「松風」。

 なにげない名前ですが、古典で松風といえば、須磨の汐汲みの女性・松風と村雨を思い出します。
 平安貴族・在原行平が、都から流され須磨(兵庫県)での侘び住まいの折、その心を慰めた姉妹が松風と村雨です。
 以前、須磨に行ったとき、今に伝わる古跡を目にしました。

 須磨・松風村雨堂
  須磨にある松風村雨堂

 地元でも有名でしょうけれど、謡曲「松風」として人口に膾炙している話です。
 これと関係があるのかな、と思ったりしたのですが、後でふれるように少し違った言い伝えがあるようで……

 その銘菓・松風。
 亀屋陸奥で買い求めてみました。

 亀屋陸奥・松風
 亀屋陸奥・松風

 初めてなので、とりあえず8個入り(650円)を買いました。上等なのは箱入りですが、8個入りは写真(下)のような紙のパッケージです。写真(上)は、それを入れてくれたビニール袋。紋が亀の形で、かわいいですね。

 「松風」と筆文字で書かれたパッケージを開いてみると、中に紙箱があり、ふたをあけると……

 亀屋陸奥・松風

 意外な印象。
 8個入りのはずなのに、一体化しています。
 よく見ると切れ目が入っていて、これが4つに分かれます。下にも、もう1段あるようです。
 こんがり焼けている感じですね。

 1個取り出すと、こんな雰囲気です。
 
 亀屋陸奥・松風
  松風

 表面には結構凹凸があり、焼けむらが程よいリズムを醸し出しています。そして、芥子(けし)が振ってあるのが分かりますね。 

 さっそく食べてみると、思いのほか弾力感があります。カステラみたいな食感かと予想していたのですが、歯ごたえがありますね。
 表面には味噌を塗って焼いていると思うのですが、味噌味は案外ほのかで嫌味にならず、かわりに芥子の味覚が広がります。
 素朴な味わいといってよいでしょう。

 亀屋陸奥・松風

 パッケージを見ると、素材には、小麦粉、砂糖、麦芽糖、白味噌、ケシの実を使用と記載されています。味噌は白味噌なんですね。これも京都らしいところ。
 小さく切り分けて売っていますが、もとは直径45.5㎝の鍋で焼いた丸い形のものだそうです。切らずにそのままの「簾巻」という商品もあるようです。


 400年の伝統を持つ銘菓

 松風の由来については、紙袋にも印刷してあり、亀屋陸奥のウェブサイトにも記されています。
 それによると、戦国時代、本願寺(大坂本願寺=石山本願寺)が織田信長と戦っていた際、亀屋陸奥の祖先・大塚治右衛門春近が糧食として創製したといいます。
 のち京都に移ってから、顕如上人より、「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」の歌にちなんで、「松風」の名を賜ったということです。

 「わすれては」の歌、これは顕如上人が大坂にいたときのことを回想して詠まれたのでしょうね。海が近い大坂本願寺では、夜になると遠くに浪の音が聞こえたのでしょう。


 歴史家の疑問

 この松風の由緒について、疑問を抱いた研究者がいました。中世史家の瀬田勝哉氏です。
 瀬田氏は、「飢饉と京菓子-失われた創業伝説」の中で、次のような疑問を呈しています。

 (前略)私がさらに興味を持ったのは、由緒書の終わりに、屋号に並べて何の説明もなく書かれた「創業応永二十八年」の8文字であった。
 3代目大塚治右衛門春近が信長時代の人だとすると、1世代30年として、初代は60年からどうみても百余年前。だから創業を応永28年(1421)までひき上げるのは到底無理がある。(『増補 洛中洛外の群像』330ページ)
 

 こう思った瀬田氏は、応永28年(1421)とはどんな年だったかを考えていくのでした。

 その前年、応永27年は稀にみる日照りで、年がかわると天下は飢饉の様相を呈して、餓死者が数え切れなくなりました。幕府や寺院は食を与える施行を行いましたが死者はとどまらず、夏には疫病が猛威を振るいます。さまざまな祈祷が行われ、また伊勢の神が「はやり神」として喧伝されました。
 ようやく飢饉の収まった応永29年、五条河原で大施餓鬼が行われ、死者が追悼されます。

 このような時代状況に着目した瀬田氏は、練羊羹で知られる総本家駿河屋のことを思い出しました。駿河屋の創業もまた飢饉の時代だったというのです。
 氏は、ケシが鎮咳、鎮痛、下痢止めに効く漢方薬でもあったことや、味噌の保存性、呪性などにも思いをめぐらし、次のように締めくくります。

 とにかく亀屋陸奥の松風には、伝承といい、実際の味わいといい、非常食の影が濃い。
 憶測すれば、石山合戦[註・信長と本願寺の戦い]以前にも松風の前身は、非常食あるいは薬用食として実績があり、応永28年の飢饉疫病興盛に結びつく何らかの伝承を持っていた。それが石山合戦後、本願寺との結びつきが濃くなって、その部分が強く押し出されるようになり、以前の伝承は忘れられてしまう。そして意味不明のまま、創業年なるものが盲腸のように残ったのではないか。
 亀屋陸奥にしても駿河屋にしても、失われた創業伝説がきっとあったのだと思う。

 京菓子は、あまりに禅や茶との関係でのみ説かれすぎた。今、私たちの前に風雅な菓子として現われているものの前身には、もっともっと血みどろの、生きることに必死であった人々の知恵や願いがこめられていたのではないだろうか。(334ページ)


 一番最後のまとめは、ちょっと怖いですけれど、お菓子と飢饉が関係あるとは意外でした。石山合戦のときに創製されたという伝承より前に、飢饉の際に“プレ松風”が作られていたんじゃないか、という推理ですね。
 確かに、松風を口にすると、そんな歯ごたえ、味覚を感じます。




 亀屋陸奥(「松風」調進所)

 所在 京都市下京区西中筋通七条上る菱屋町
 営業 水曜定休
 交通 JR「京都」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 瀬田勝哉『増補 洛中洛外の群像』平凡社ライブラリー、2009年(原著1994年)


【新聞から】新風館の再開発計画が報道される - 逓信技師・吉田鉄郎の名建築を生かす再生を!-





新風館


 新風館、建て替えへ
 NTT都市開発、高級ホテル誘致へ
 京都 2015年1月31日付



 少しばかり驚くニュースですね、新風館が建て替えとは。
 京都新聞によると、要点は次のような感じです。

 1.新風館の所有・運営者は、NTT都市開発。
 2.高級ホテルを誘致して、複合商業施設に建て替える。
 3.2016年春に着工し、2019年中の開業を予定。
 4.旧京都中央電話局の建物は、デザイン的な価値が高いため大半を残す方向で検討中。

 新風館
  新風館

 新風館の中核をなす旧京都中央電話局の建物は、逓信省の建築技師・吉田鉄郎の設計によって、大正15年(1926)に建築され、昭和6年(1931)に増築されました。
 現在、その建物はL字形に残っていて、烏丸通(西)側が南北に長く連なり、姉小路(北)側が短辺となっています。

  新風館
  姉小路(北)側ファサード

 昭和58年(1983)に、京都市の登録有形文化財(建築)の第1号になっていて、早くから価値が認められています。

 吉田鉄郎(1894-1956)という建築家は、数多くの逓信省の建築を手掛けました。逓信省は、郵便や電信電話を所管しましたから、のちの郵政省→日本郵便や電電公社→NTTにつながる役所です。
 彼の代表作・東京中央郵便局(1931年)は、鳩山邦夫郵政相のとき、壊すか保存するかで大モメになり、はからずも有名になりました。
 大阪駅前の大阪中央郵便局(1936年)も、それに続く作品で、彼の、そして逓信建築の機能主義的な思想をとてもよく体現した名作でした(すでに取り壊されたのですが)。

 大阪中央郵便局
  吉田鉄郎の代表作・大阪中央郵便局

 京都にも、逓信建築、ならびに吉田の作品は残されています。
 夭折の建築家・岩元禄が設計した京都中央電話局西陣分局(1922年、現・NTT西陣別館)は、すでに国の重要文化財に指定されています。
 吉田の作品でも、京都中央電話局に先立って建築された、京都中央電話局上分局(1923年、現・フレスコ=スーパーマーケットです)があります。 

 京都中央電話局上分局
  旧京都中央電話局 上分局

 鴨川に架かる丸太町橋の西詰に建っていて、とても目立ちます。
 新風館に比べると、屋根の形など、まだ牧歌的なイメージがしますね。ドイツの表現派の影響を受けているということです。

 大阪中央郵便局が取り壊される前までは、上分局 → 新風館 → 大阪中郵と並べて、京阪で吉田鉄郎の作風の変化を観察できました。わずか10年余りの間に作風は劇的に変っています。

 新風館

 新風館の外観は、この連続するアーチ窓が特徴です。
 南北に11連も続いているのですが、北の2連と南の2連は、壁面自体が少し突出していることもあって、わずかに意匠を変えています。
 壁面のタイルは暖か味があって、のちの大阪中央郵便局の無機的なものとは対照的です。こういった手触り感も、この建物の美点でしょう。

 新風館

 なかに入ると、広い中庭が拡がっています。
 上階の回廊です。

 新風館

 この壁は付け足し部分でしょうか。こんな形で各ショップにアプローチできるようになっています。

 新風館

 3階あたりの壁面が間近に見られるのも醍醐味です。

 この建物について、『モダン・シティー・KYOTO』の石田潤一郎氏の解説を引いておきましょう。

 上分局から3年しかたっていないが、意匠の雰囲気は大きく変わった。屋根はフラット・ルーフ、彫りの浅い壁面という手法によって、かつての一種暗い情緒性から、明快で都会的な秩序感へと一変するのだ。この変化は、1923年に完成して世界を魅了したR・エストベリのストックホルム市庁舎に吉田もまた感奮した結果である。

 中央電話局の外観は現代のオフィスビルに近いが、3階の半円アーチの連続が優しい印象を与える。さらに、2、3階のスパンドレル(上下に並んだ窓で挟まれた部分)だけタイルの張りかたが変わるのがほのかに遊戯的な気分をかもしだしている。 (167-168ページ)

 
 「都会的」「遊戯的」、キーワードですね。

 今後、新風館の再生にあたっては、次のような点が重要になるのではと考えています。

 1.三条通の近代建築群と一体のものと位置付けて再生する。
 2.京都の近代オフィス街の遺産として尊重する。
 3.祇園祭の鉾町への配慮。
 4.逓信建築の伝統をもつ建物として後世に引き継ぐ。

 この建物のすぐ南は、近代建築が数多く残る三条通です。重文の京都文化博物館(旧日銀京都支店)や、ファサード保存の先駆けである中京郵便局をはじめ、大小の西洋建築が彩を添えています。
 新風館も、その一角に位置するものと考えて、優れた建築が生きる形で再生されればと思います。

 また、全国の大都市同様、「古都」京都でも、近代化の中でオフィス街が形成されてきました。
 新風館が面する烏丸通は、その代表です。
 かつて四条烏丸の交差点にあった銀行群は、いまは姿を消し、烏丸通の銀行なども徐々に建て替えられています。
 新風館は、その中で残った大規模なオフィスビルとして貴重なものです。モダンな時代の息吹を伝える存在です。

 新風館
  オフィス街のモダンな面影を伝える

 やや異なった観点では、このビルの西側は、祇園祭の山鉾を出す鉾町です。7月になると、真向いにも鈴鹿山が建てられます。こういった地域性との共存も必要です。

 最後に、逓信建築のよき伝統を今に伝える建物として、大切に残してほしいと感じています。
 私が、逓信技師の流れをくむ郵政の建築家の心意気を知ったのは、中央郵便局のファサード保存について学んだときでした。
 *記事は、こちら! ⇒ <ファサード保存の先駆けとなった中京郵便局に、先人たちの思いと知恵をみる> 
 機能主義にかける彼らの苦悩と工夫がうかがえる先駆的な取り組みでした。
 吉田鉄郎は、その大先輩。大正から昭和初期の建築界をリードした建築家の一人です。その遺産をうまく残して再生が行われることを期待しています。

 再開発では、おそらく旧中央電話局の3階建の背後に、高層のホテル・商業複合ビルが建つのでしょう。“木に竹を継ぐ”再生にならないよう、関係者の皆さんには頑張っていただきたいと思います。

 *NTT都市開発のウェブサイトに、新風館についてのコンセプトが記されています。上記の点も十分踏まえられて当初開発が行われたようですので、ご一読ください。 ⇒ 【新風館のコンセプト】




 新風館(旧京都中央電話局)

 所在 京都市中京区車屋町
 見学 商業施設として営業中
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、すぐ



 【参考文献】
 京都建築倶楽部編『モダン・シティー・KYOTO』淡交社、1989年
 苅谷勇雅『日本の美術 474 京都-古都の近代と景観保存』至文堂、2005年