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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

琵琶湖疏水の船下り、試験運航の概要決まる

洛東




琵琶湖疏水インクライン


 3月28日スタート、大型連休まで運航

 半世紀以上ぶりに、琵琶湖疏水に船が通り、一般人も乗れる! と耳目を集めていた琵琶湖疏水の遊覧舟運。
 注目の試験運航が、2015年3月28日から5月6日まで実施されることが決まりました。毎日ではなく、土曜・日曜・祝日のみです。

 船は8人乗りのモーターボート(屋根付き)で、お客さんは6人乗れます。
 乗船コースは、次の3つ。

 1.大津-蹴上 7.8㎞(約60分) 2,000円
 2.大津-山科 4.2㎞(約30分) 1,000円
 3.山科-蹴上 3.6㎞(約30分) 1,500円

   ※料金は大人料金(小学生は半額)

 各コース、午前2便、午後2便を運航するそうです。
 ということは、実施日ごとに、3コース×2便×2便=12便の運航。12便×6名ですから、1日当たり72人の定員となりますね。
 テスト運航のモニターだから、やや少なめ。
 期間中の土日祝は16日あり、掛け算すると、1,152人が乗れる計算になります。


 募集要項は、2月5日に公表

 気になる募集要項ですが、2月5日(木)に、京都市、大津市、JTB西日本京都支店のウェブサイトで発表されるそうです。
 応募多数の場合は抽選だそうですが、抽選必至ですね。すごい倍率になりそうだ、これは……

 この事業については以前も概要をまとめています。 記事は、こちら! ⇒ <ついに実現!? 琵琶湖疏水で夢の船下り!>

 コース的には、大津-山科の区間は、4.2㎞のうち過半の2.4㎞が第1トンネル内になります。トンネルマニアはともかく、少し退屈するかも? だから値段が安いのかな??
 やはり誰しも、大津-蹴上のフル区間で乗りたいでしょうね。


 琵琶湖疏水インクライン


 本格実施への期待が高まる

 京都市の門川大作市長は、1月26日の記者会見で、「本格実施に向けてあらゆる努力を重ねていきたい」(京都新聞)と述べています。人気が出るのは間違いなさそうですから、ぜひ本格実施してほしいと思います。

 クリアすべき最大の課題は、やはりコストでしょう。
 日経新聞によると、運航コストは「1人1万円を超す」という見方もあるそうです(1月13日付夕刊)。
 同紙は、続けてJR東海・須田寛相談役のコメントを掲載しています。

[須田氏は] 「運航によって潤う地域全体で収益をプールし、運営を支援するビジネスモデルが必要だ」と指摘する。
 標高差36mを台車に船を乗せて上下させるインクライン(傾斜鉄道)も「復活させれば目玉になる」という。(日経2015年1月13日付夕刊)


 また、岡崎公園ですでに行われている「岡崎桜回廊十石舟めぐり」を紹介。2014年は19,600人の乗船者があり(大人1,000円)、収入は1,876万円、203万円の営業黒字だったそうです。
 この船は24人乗り(繁忙期28人乗り)で、1日最大40便の運航。40日ほど実施されるそうです(日経1月14日付夕刊)。

 琵琶湖疏水の場合、疏水の幅は約4mで、大型船は無理です。
 その上、終点に着いた船を起点へ回漕する必要があります。水路を逆航するなら、来る船との離合を考慮しなければなりません。保津川下りのように陸路をトラックで運べば、経費がかさみます。

 おそらく、船下り単発での事業だけでは苦しくて、それを組み込んだツアーが実施されるのではないでしょうか。そうすれば客単価も上がりますね。
 京都側はもちろんですが、大津側の魅力を組み込むとよいのでは? 園城寺(三井寺)や石山寺といった古刹もありますから。

 また、須田氏も言われるように、インクラインを動かして見せると、おもしろくて人が集まりそうです。みんな、ぜひ一度見たいなぁ、という感じでしょう。

 いよいよ募集が始まる琵琶湖疏水の船下り!
 期待がふくらみますね。




 琵琶湖疏水

 所在 大津市-京都市(蹴上)間
 見学 蹴上のインクラインなどは自由
 交通 地下鉄「蹴上」下車、すぐ


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まいまい京都で、新京極・裏寺町のツアーを行いました





花遊小路


 新京極のウラ側をのぞくツアー!

 正月早々、NHK「ブラタモリ」に出演させていただいたので、それを記念して、「まいまい京都」で、新京極・裏寺町ツアーを行いました。
 1月26日(日)、30名の参加者と一緒に、楽しく街歩きです!

 寺町通

 今回は、寺町通の本能寺あたりから歩き始め、まず初めは新京極の入り口にある「たらたら」(坂の名)のナゾを解明 ?!

 たらたら

 隣接する河原町通も寺町通も平坦なのに、なぜ新京極にだけ坂がある?--と、七不思議のひとつとさえ言われています。
 ちょっとウラ側目線で、そのナゾに迫りました。

 柳小路 花遊小路
  柳小路(左)、花遊小路で解説中(右)
 
 あるいは、第二京極とその周辺。
 明治末に開かれた興行街「第二京極」や、そこから分枝する「柳小路」、そして「花遊小路」も探訪。
 旧帝国館(のち京都日活、現ダイアモンドビル)横にある、路地の痕跡も探りました!  記事は、こちら! ⇒ <いにしえのシネマパラダイス・新京極、帝国館跡の裏を抜けると、そこには…>

 新京極と裏寺町、細かく歩いて行くと興味は尽きません。

 見学当日、“新京極には「枡形(ますがた)」の街区がある”という話をしました。
 MOVIX京都の脇を東へ入ったところか、もしくは誓願寺の南東の裏手か、どちらかで、前者がそうではないかと説明しました。
 改めて史料を確かめると、誓願寺の裏側の路地が「枡形」だと判明しました。訂正したいと思います。

  誓願寺裏

 なにはともあれ、とても面白い新京極とそのウラ側。
 今回歩いた場所も、機会があれば、このブログで紹介してみたいと思います。


義経と弁慶は2度対決する !? - 清水寺編 -

洛東




清水寺


 五条天神の対決後……

【前回のあらすじ】
 太刀を千本奪い取るという大目標を掲げた武蔵坊弁慶は、都の人々に畏怖されながら999本まで集め、最後の晩、五条天神に祈願した。明け方、通りがかった源義経(牛若丸)に襲い掛かるが、飛行の秘術を使われ、あえなく惨敗する。

 義経と弁慶の対決は、初戦は義経の圧勝に終わりました。
 悔しがる弁慶は、リベンジの機会を狙っています。
 引き続き、「義経記」巻3「弁慶、義経に君臣の契約申す事」を読んでいきましょう(大意です)。

 一夜明けて、6月18日。
 清水の観音(清水寺)は貴賤を問わず参詣者が多いので、弁慶は、「昨夜の男は、今宵はきっと清水寺に来るに違いない」とにらんで、ここへやって来たのだった。
 門の前でしばし待ち構えていたが全然来ないので、今晩は帰るかと思った頃に、清水坂の辺りから例の笛の音が聞こえてきた。

 「あの笛の音だ!」

 清水の観音は坂上田村麻呂が建立し、人々に福徳を与えてくれるそうだが、自分はそんなものはいらない。ただ、あの男の太刀がほしいだけだ、と弁慶は思い、観音に祈った。

 義経は、なんだかいやな気がして、ふと坂の上を見上げると、昨日の法師が立っている。今日は、腹巻を着て、大きな太刀を帯び、長刀を杖代わりに突いているではないか。

 「曲者だな。今晩もここにいたか」

 しかし義経は少しもひるまず、坂を上って行った。

 「いまおいでの方は、昨夜、五条天神でお会いした方かな」と、弁慶が声を掛けると、義経は、「そんなこともあったかな」と応じる。
 「そうならば、お持ちの太刀を頂戴したい」と、言い放った。


 弁慶と義経の再会。
 かくて、参詣者でにぎわう清水寺で、武芸に練達した二人が激突します。

 「何度言われても、ただでは渡せない。欲しかったら、こっちへ来い」
 「いつも強がりばかり言っておるな」
 と、弁慶は長刀を振りかざして、坂を駆け下りて斬りかかった。
 義経も、太刀を抜いて応じる。

 弁慶は長刀を振り回すが、義経はその腕の上をユラリと飛び越えるので、弁慶は「また、これかよ!」と胆をつぶした。

 「どうもこの人は手におえない……」

 義経は、言った。
 「夜通し、こうして遊んでいたいものだが、観音に宿願があるのだ」
 と、姿を消してしまった。

 弁慶は、「手に取ったものを失ったような気分だ」と嘆き、義経は、「あいつは勇ましい奴だ。太刀と長刀を打ち落として、ちょっとばかり怪我でもさせて生け捕り、独りで歩くのも退屈だから家来にしてしまおう」と思います。


 やっぱり、義経は変わったキャラクターの持ち主ですね。
 能力も超人的だけれど、考え方も違います。

 清水寺


 清水の舞台で対決

 その晩、義経は清水寺に夜通し籠った。弁慶は、そうとは知らず太刀欲しさに着いて行った。
 本堂にやって来て見回すと、大勢の人達が読経していた。そのなかに、法華経を尊く読む声が聞こえた。

 「この声、先ほどの男の声に似てるなあ」と思い、近寄って確かめることにした。
 長刀を長押(なげし)の上に置いて、人を掻き分けてお堂の中を進んで行く。そして、義経の後ろ辺りまで来た。灯明に照らされた弁慶を見て、「なんと背の高い法師だ」と人々は怖れた。

 義経は弁慶に気付いたが、弁慶はまだ義経を見付けられない。というのも、義経は女房装束に着替えて被衣(かずき)をかぶっていたから分からなかったのだ。
 弁慶は思案して、いっそのことこちらからアプローチしてみようと、太刀の鞘で「そなたは稚児か女房か、ちょっと横に寄ってくれんか」と言いながら、つついてみた。しかし、相手は返事もしない。その反応を見て、これは先ほどの男に違いないと確信して、またつついた。

 清水寺

 義経は言った。
 「おかしな奴だな。お前らのような乞食は、木の下で祈っていても仏さまは救ってくれる。大勢の人がいるところで乱暴だぞ。出ていけ!」
 弁慶、
 「情けないことをおっしゃる。昨晩からお目にかかっているのに。そっちへ参ります」
 と、2畳の畳を越えて近付くと、「押しかけてくるとは無礼な!」と、義経は一喝した。

 弁慶は、義経のお経を取って、「これはあなたのお経か。自分も読むから、そなたもお読みください」と言いながら、経を読み始めた。義経も唱和する。弁慶は比叡山の西塔で知られた持経者、義経も鞍馬山で稚児としてならした人。静まる堂内に二人の声だけが響いて、参詣の人々は聞き入った。

 しばらくして義経は帰ろうとするので、弁慶はその手を取って、「今度いつ会えるか分からぬ」などと言いながら、扉のところまで連れて行った。
 そして、「どうしてもその太刀が欲しいのだ」と言う。
 しかし義経は、「これは先祖代々の太刀なので渡すことはできない」と断る。

 「では、武芸で勝負いたそう!」


 清水寺

 いよいよ、義経と弁慶の第2ラウンドが始まります!

 「それならば」と義経が受けると、弁慶もザッと太刀を抜いて、丁々発止の打ち合いとなった。

 見物の人達は驚いて、「これはいかに、こんな狭いところで、しかも幼い人と闘うとは! お坊さん、太刀を納めなさい」と言うが、聞く耳も持たずに斬り合う。

 義経が上に着た衣を脱ぎ捨てると、下には直垂(ひたたれ)に腹巻を着ていて、回りの人達は「こっちの方も、ただ者ではなかった!」と、また驚きだ。
 女性や尼さん、子供たちは慌てふためき、縁より落ちる人も出る始末。お堂の戸を閉めて、二人を入れまいとする人もいて、これは大騒動。

 義経と弁慶は、やがて清水の舞台にヒラリとおりて、闘い出した。
 初めは、人々も怖れて近付かなかったが、やがて面白くなってきて、二人に付いて回った。
 「これは子供が勝つのかな、法師が勝つのかな」、「いやいや子供の勝ちだよ、法師は物の数でもない、もう弱ってるぞ」などと言い合った。
 それを聞いて弁慶は、「いや、おれの方がもう劣勢なのか?」と心細くなってきた。

 二人とも力一杯に斬り合った。弁慶が空振りしたところに義経が走り掛かって斬り付けると、弁慶の左の脇の下に太刀が入って、ひるんだところに更に太刀の背で散々に打ち据えた。
 弁慶を組み伏せた義経は、その上に乗って押さえ付けながら、「さあ、自分に従うのか、どうか」と詰問すると、弁慶は、「これも前世の縁だ。従うことに致しましょう」と答え、二人の闘いは終わった。

 義経は、弁慶の着ていた腹巻を脱がせて自分が二重に着、太刀も取った。そして、その夜のうちに山科の宿所に帰ったのだった。

 その後、義経は、弁慶を連れて京に出てきては、宿敵・平家を狙った。


清水寺


 これが、義経vs弁慶の第2ラウンドです。
 またまた義経の勝利。さしもの弁慶も、ついに家来になったのでした。

 それにしても、参詣人でごった返す清水寺でバトルを繰り広げるとは、二人とも大人気ありませんね。
 でも、よく読んでみると、この一節は観音の利生譚とも読めるわけです。

 清水寺は世に名高い観音霊場。西国三十三所のひとつです。
 二人が決闘した18日は、観音さまの縁日。そのため、大勢の人が参詣しています。節の前半で清水寺の功徳を述べるくだりがあり、人々に福徳を授けてくれる存在だと強調しています。それを踏まえて弁慶は、自分は福徳はいらないから、太刀を取れるようにと祈願するのです。
 一方の義経も、「観音に宿願あり」と言って、参籠します。この宿願は、もちろん平家打倒ですね。
 結果として、弁慶の願い(太刀千本奪取)は叶えられなかったわけですが、義経は平家打倒に向けて得難い家来を得たわけで、願いが通じたと考えてもよいでしょう。

 二人の対決は、五条大橋を舞台にするパターンが有名です。これもよくよく考えてみれば、五条の橋は清水寺への参道にあたる場所で、やはり清水の観音さまと切り離して考えられないのかな、とも思うのでした。

 


 清水寺

 所在 京都市東山区清水
 拝観 大人300円ほか
 交通 市バス「五条坂」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『新編日本古典文学全集 62 義経記』小学館、2000年
 堀内敬三ほか編『日本唱歌集』岩波文庫、1958年


義経と弁慶が対決した場所は五条大橋じゃなかった !? - 五条天神編 -





義経と弁慶(松原京極商店街)


 牛若丸と弁慶、出会いの場は?

 前回、松原通西洞院(下京区)にある五条天神社を紹介しましたが、今回はその第2弾。
 五条天神が、あの牛若丸と弁慶の対決の地だった !? という話です。

 京の五条の橋の上、
 大のおとこの弁慶は
 長い薙刀ふりあげて、
 牛若めがけて切りかかる。 (文部省唱歌)


 牛若丸こと源義経。鞍馬山で修業した話もつとに有名で、その後、武蔵坊弁慶と対決するくだりは、誰もが知っていますね。
 唱歌にもあるように、二人が闘った場所は五条大橋といわれています。
 ところが、この場所については、いわゆる「諸説あります」というやつで、物語によっていろいろな場所が選ばれているのでした。


 出会いのパターン

 義経と弁慶、二人の出会いのパターンについて、伊海孝充氏が整理されています。
 「弁慶物語」や「橋弁慶」といった御伽草子と、義経の一代記「義経記」を分析すると、出会いは次のように分類できるそうです。

 1 五条橋で1度きりの出会い(細かくは2類型あり)
 2 五条天神と清水寺で2回出会う
 3 北野天神、法性寺周辺、清水寺で3度の出会い。のち五条橋で対決

 これは、おもしろい!
 五条どころか、北野天神(天満宮)で会うパターンもあるのですね。

 北野天満宮
  北野天満宮(上京区)

 北野天神の出会いは、「弁慶物語」に出てきます。
 このストーリーがまた楽しいのです。

 ケンカ好きの弁慶は、京の都で相手を見付けて暇つぶししようと、町をぶらついています。
 東寺のあたりまで来ると、人々が「最近この辺には鞍馬の奥から天狗が出てきて、夜な夜な人を斬っていくのだ」と噂しています。
 手だれの弁慶は、もう普通の相手では満足しませんから、「これはかえって好都合。わしの腕前を見せてやる」とばかりに喜びます。
 
 さて、6月15日の夜、町の中をウロウロしていましたが、そんなものもなく、ようよう北野天神の前にやって来ました。
 弁慶は、黒糸威の腹巻に、雲に龍の模様が入った小手や、白檀磨きのすね当てを付けて、4尺(約120㎝)余りもある大太刀をピンと跳ね上げるように差し、イボイボの付いた8尺(約240㎝)余りの八角棒まで持つという、お気に入りのスタイルです。原文には、「武蔵がその夜の装束は、いつも好みし事なれば」と書いてあって、弁慶のこだわりぶりがうかがえます。
 こんな出で立ちで、社頭に仁王立ちしていたというのです。

 そうこうするうちに、社に腰を掛けてお経を誦している義経を発見!
 義経は、弁慶を見て、「こいつ尋常じゃないな。さては、比叡山の西塔に『武蔵坊弁慶』という日本一のバカ者がいると聞いていたが、そいつかしらん? それにしても背も高いし色黒だし、何者だろう。愛宕山や比良山の天狗は見知っているから、たぶん『鬼満国』の鬼神が来たんだろう」と思います。
 弁慶も、「これは高貴な人だ。噂に聞く『牛若殿』に違いない」と、考えます。
 そして、義経が持っている黄金作りの太刀を奪おうと、弁慶が襲い掛かるのでした。

 このストーリー、このあとも延々と続くわけですが、ここまで読んで少々不思議ですよね。
 都に人を斬る鞍馬の天狗が出没するという噂。これって、鞍馬山で修業した義経のことでしょうか !? 

 そうなんです、義経なんです! 義経が辻斬りをしているという筋は、伊海氏の1のパターンにあるそうです。辻斬りする理由にも、亡きお父さんの追善というものがあって、菩提を弔うのに人斬りかよ! と思いますが、そういうやり方もあるのかなぁ……という感じ。もちろん、この理由についても諸型があるようです。

 こう見て来ると、今日私達がイメージしている“牛若丸と弁慶”の逸話とは随分違っていて、興味は尽きません。


 五条天神での決闘
 
 では、五条天神社での決闘は、どう描かれているのでしょうか?

 五条天神社
  五条天神社(下京区)

 これは、義経の生涯を記した「義経記(ぎけいき)」に登場するものです。巻3「弁慶、洛中にて人の太刀を奪ひ取る事」がそれです。

 さっそくストーリーを紹介しましょう(大意です)。

 弁慶は、考えた。
 ひとは「重宝(ちょうほう)」を千そろえて持つものだ。奥州の秀衡は馬千匹、筑紫の菊池は鎧(よろい)千領など、みんなそろえて持っているのに、オレは金もないし、くれる人もいない……
 そこで、夜の町にたたずんで、ひとが持っている太刀を千振り奪い取って「重宝」にしようと考え、取り歩いていた。


 いきなり、ものすごい話です。
 千人斬りよりマシだけれど、他人の物を取るのはよくないですね。ただ、弁慶のために言い添えれば、「弁慶物語」を読むと、義経の黄金作りの太刀を見て、「これを取ったら、書写山円教寺に坊でも造立できそうだなぁ」と考えています。もしかすると、コレクションした太刀を神仏に寄進する気だったのかも知れません。

 弁慶が刀を奪い始めてから、「近頃、洛中に背丈が1丈(約3m)もある天狗が出没して、ひとの刀を奪っているらしい」という噂が流れた。
 その年も暮れ、翌年の5月末、6月になって、弁慶はどんどんと刀を奪っていった。取った刀は、樋口烏丸にあるお堂の天井裏に置いていたが、数えてみると、999本になっていた。

 6月17日の夜、弁慶は五条天神にお参りして、「今夜のご利益として、どうか弁慶に立派な太刀を与えてください」と祈願した。
 夜も更けて、天神を出て築地塀の傍らに立ち、天神の参詣者の中から、よさそうな太刀を持っている人が来るのを待っていた。

 築地塀

 明け方になって、堀川を下がっていくと、笛の音が聞こえてきた。
 「これはおもしろい。夜更けに天神に参る人が吹く笛だろう。法師だろうか、俗人の男だろうか、いい太刀を持っていたら、きっと取ってくれる」

 笛の音が近付いて来る。白い直垂(ひたたれ)に腹巻を着た若い者が、すばらしい黄金作りの太刀を帯びているではないか! 
 「すばらしい太刀だ。どうやっても奪ってやるぞ」と、弁慶は待ち構えた。この男、あとで聞けば、ぞっとするような相手だったのだが、このとき弁慶は知る由もなかった。
 その男、すなわち義経は、あたりを見回すと椋(むく)の木の下に、大きな太刀を持った怪しげな法師が立っているのを見つけた。
 「あいつ、ただ者ではないな。この頃、都に出没する太刀を取る者というのは、あいつのことだろう」

 弁慶は思った。「オレはこれまで屈強な男たちの太刀を奪ってきた。こんな痩せ男、「太刀を出せ」と一喝すれば、すぐに出すだろう。よしんば出さなくても、突き倒して奪ってくれる」
 そして、弁慶は義経に言った。
 「こんな夜に、武装して通られるとは怪しいものだ。やすやすとは通さない。さあ、その太刀をこちらへ差し出されぃ」
 義経、
 「この頃、そんなバカ者がいるとは聞いていたが、おまえのことか。そう簡単には渡さない。欲しければ取ってみろ」


 ついに、弁慶と義経の対決です!
 しかし、場所は五条大橋の上ではなく、五条天神の近くなのでした。

  義経と弁慶(松原京極商店街)

 では、とばかりに、弁慶は大太刀を抜いて義経に飛び掛かった。
 義経も小太刀を抜いて、築地塀のもとに走り寄った。
 弁慶、これを見て、「たとえ鬼神であっても、最近の自分に立ち向かってくる者はいなかったが」と驚きながら、太刀で打ち込み始めた。
 義経も、「こいつは勇ましい奴だ」と思いつつ、稲妻のごとく踏み込んでいった。
 やっ、とばかりに振りかぶった弁慶は、築地塀に太刀を打ち込んでしまい、抜こうとする隙に、義経は左足で弁慶の胸をしたたかに踏み付けた。弁慶は、たまらず太刀を取り落す。

 義経は、さっと拾って、「えいやっ」という声とともに、9尺(約270㎝)もある築地塀にヒラリと跳び上がった!
 それを見て、弁慶は、これは鬼神かと思いながら、呆然と立ち尽くしていた……


 さすが、義経。
 秘術によって、超人的なジャンプ力?、いやマジカルな力を発揮します。

 義経は、「前々から、こんなバカ者がいると聞いていたが、これからは今日のような乱暴はするな。おまえの太刀も持っていこうと思ったが、刀が欲しいと思われるといやなので、返してやる」
 と言って、太刀を踏み曲げて弁慶の方に投げ付けた。

 太刀を拾った弁慶は、曲がったのを直しながら、「そなたは意外にもお強いな。今日はやられ申したが、これからは油断せんからな」と、ぶつぶつ言いながら去って行った。

 義経は、いずれにせよ、あいつは比叡山の法師だろうと思った。そして、「山法師は人としての器量にも似合わず、人を斬ってばかりいるのだな」などと皮肉ったが、弁慶は返事もしない。実は、義経が塀から降りてきたら斬り付けてやろうと思っているのだ。

 義経が、築地塀からフワリと飛び降りると、弁慶は太刀を振りかぶって進み寄って行った。
 すると、飛び降りたはずの義経は、地面から3尺(約90㎝)ばかりのところで、また塀の上に飛び上がったのだ!
 中国の兵法書を読んでいた義経は、9尺の築地塀をひと飛びのうちに飛び返るという離れ業を演じたのだった。

 そして、弁慶は空しく帰って行くのだった。


 強烈な義経の神業。さしもの武蔵坊弁慶も歯が立ちません。
 実は義経、これ以前に、陰陽師・鬼一法眼のところで、秘伝の中国兵法書「六韜(りくとう)」を読破していたので、秘術の数々を会得していたのでした。

 以上が、弁慶と義経の最初の決闘の一部始終でした。

 最初の決闘?

 そう、二人の闘いは、リングを替えて第2ラウンドがあるのですが、ちょっと長くなりました。
 続きは次回に致しましょう。




 五条天神社

 所在 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「五条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『新編日本古典文学全集 62 義経記』小学館、2000年
 『新日本古典文学大系 55 室町物語集 下』岩波書店、1992年
 堀内敬三ほか編『日本唱歌集』岩波文庫、1958年
 伊海孝充「謡曲<橋弁慶>の展開-牛若・弁慶邂逅譚の一視点」(「日本文学誌要」69、2004年所収)


五条天神社は、“天神”といっても菅原道真ではない神さまを祀っている





五条天神社


 「天神」という名前でも……

 みなさんは、神社をお詣りするとき、どんな神さまが祀ってあるか気にされるでしょうか?
 つまり、「祭神」は何か? ということですね。

 今回は、松原通西洞院(下京区)にある五条天神社を訪ねてみましょう。
 伝えでは、平安京が出来た頃、空海により勧請されたという由緒があり、史料からも中世には存在したことが確認できる古い社です。

 この神社、かつては「天使社」とも言われていて、町名も「天使前町」(現天神前町)とされていたり、近くに「天使突抜(つきぬけ)」という街路があったりもしました。
 いまは「天神社」というものの、“天神さん”こと菅原道真を祀る天満宮とは異なるわけです。

 では、何を祀っているのでしょうか。

 五条天神社


  “オオナムチ”は大国主命

 五条天神社には、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照大神が祀られています。
 江戸時代の「都名所図会」を見ると、摂末社に内宮と外宮(つまり神明社)があるようですから、もともとは大己貴命と少彦名命が主だったのかと思います。
 菅原道真は祀られていないんですね。

 しかし、境内を歩いていると、本殿の左にこんなものがありました。

 五条天神社

 天満宮でお馴染みの牛の像。
 江戸時代から明治時代頃の像かと思いますが、「天神社」という社名から天満宮と混同され奉納されたのでしょうか。庶民の心意は、なかなか面白いものです。

 祭神の大己貴(おおなむち)命ですが、「大穴牟遅」とも書きます。古代神話の国造りの神ですが、大国主(おおくにぬし)命といった方が通りがよいでしょう。
 神話では、毛を剥がれた因幡の素兎(しろうさぎ)に、治療法を教えて助けてやったという逸話で知られています。
 この話は、文部省唱歌「大こくさま」(石原和三郎作詞、田村虎蔵作曲、1905年)でご存知だと思います。

 おおきな ふくろを かた に かけ、
 だいこくさま が、きかかる と、
 ここに いなばの、しろうさぎ、
 かわを むかれて、あか はだか。


 この歌ですね。
 2番で大黒さまが兎に「きれいな みずに、み を あらい、がま の ほわた に、くるまれ」と、治療法を教えてやり、3番で兎が治癒する、という歌詞になっています。
 最後の4番の詞を見ると、

 だいこくさま は、だれ だろう、
 おおくにぬし の、みこと とて、
 くに を ひらきて、よのひと を、
 たすけ なされた、かみさま よ。


 となっていて、大国主命と大黒さまが同じことが示されています。江戸時代にもなると、両者は混同されて一つの神さまとみなされていたわけですね。


 スクナヒコナを祀る神社

 では、少彦名(すくなひこな・すくなびこな)命ですが、「少名毘古那」とも書かれ、大己貴命とセットにして語られます。
 「少」の字が示すように、小さな神さまで、大己貴命とともに国造りを行います。

 少彦名命を祀る神社として、よく知られているのは、大阪の少彦名神社です。
 薬種業の町・道修町(どしょうまち)で、業界から篤い崇敬を受ける神社で、「神農さん」の愛称で親しまれています。
 この少彦名神社、京都の五条天神社から勧請されたといわれています。安永9年(1780)のことです。

 また、東京・上野公園にも、大己貴命と少彦名命を祀る五条天神社という神社があるそうです。
 

 医業の祖

 五条天神社は、西洞院通に東面して建っていますが、鳥居は北側にもあります。

 五条天神社

 鳥居の右脇に、1本の石標が立っています。

  五条天神社

 「皇国医祖神五条天神宮」と刻まれています。明治28年(1895)に建立されたものです。
 先ほどの因幡の素兎の治療譚などもあって、大己貴命や少彦名命が皇国の医祖神と考えられているわけです。

 境内にも、同様の碑があります。

 五条天神社 「医祖神之碑」

 両神について、日本書紀には、病を療(おさ)める方を定めたとなっていて、富士川游『日本医学史綱要』(1933年)には、「歴史家あるいはこの両神を以て我が邦医学の鼻祖なりとせり」と記しています。
 こういう認識が標柱などにも表れているのでしょう。
 
 祭神から見ても、普通の天神さんとは異なる五条天神社。
 次回は、この神社にまつわる別のエピソードを見てみましょう。


  五条天神社




 五条天神社

 所在 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「五条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 堀内敬三ほか編『日本唱歌集』岩波文庫、1958年
 富士川游『日本医学史綱要 1』平凡社(東洋文庫)、1974年(原著1933年)


80年余り前の京都の大学を振り返ってみる

洛東




京都府立医科大学


 受験のシーズン

 いまや「共通一次試験」などという言葉も死語になりましたが、私などは完全に共通一次世代に属します。
 現在の大学入試センター試験の開始前に、共通一次試験という統一テストが行われていました。1979年に始まり1989年まで11回実施されたそうです。私も、そのうちの1回を受験したことがあるわけです。不思議なことに、今となっては受験会場がどこだったかさえ満足に思い出せない、そんな遠い昔のことです。

 昨今も受験制度の改革が話題になっていますが、明治時代の帝国大学に始まって、大正8年(1919)の大学令施行、そして戦後へと、日本の大学は連綿と続いてきたのでした。


 京都の旧制大学

 戦前、いわゆる旧制大学は、京都には6校ありました。
 京都帝国大学、京都府立医科大学、同志社大学、大谷大学、龍谷大学、立命館大学です。
 京都帝大以外の5校は、大学令以降に「大学」となりました。同志社が大正9年(1920)、府立医大が大正10年(1921)、大谷、龍谷、立命館が大正11年(1922)です。

 今回は、昭和3年(1928)に刊行された『京都名勝誌』に掲載された各大学の写真を紹介しながら、『大京都誌』(昭和7年=1932)の本文などにより、各校をスケッチしてみたいと思います。

 京都帝国大学
  京都帝国大学

 時計台のある建物は、現在も健在の京都帝国大学(現京都大学)。
 近代建築に関心のある向きからすると、京都帝大の校舎のいくつかは、教授だった武田五一の設計にかかり、そのため少々地味な色彩を帯びています。

 『大京都誌』には、学部学科の紹介とともに、文学部の「図書館及び陳列館」、医学部附属の「病院」や、花山の「天文台」、大阪・高槻の「農園」もあげられていて、施設の充実が強調されています。


 仏教系の大学

 神社仏閣の多い京都のこと、大学にもその香りがするのは当然。とりわけ、仏教系の大学は多数あります。
 旧制大学としてあったのは、龍谷大学、大谷大学ですが、専門学校としていくつかの学校がありました。ここでいう「専門学校」は現在のそれとは異なり、戦後、新制の大学になっていくものです。
 『京都名勝誌』があげる昭和初期の代表的な専門学校は、

  臨済宗大学
  仏教専門学校
  京都専門学校

 があります。
 現在の何大学か分かりますか?

 臨済宗大学は、臨済宗妙心寺派が設置した専門学校。つまり、現在の花園大学です。
 仏教専門学校は、浄土宗により置かれた学校で、いまは佛教大学となっています。
 京都専門学校は、宗教らしからぬ名前ですけれど、真言宗の各寺が共に設置した学校で、戦後、種智院大学になりました。学校法人名は、空海以来の由緒ある綜芸種智院ですね。

 大正時代に大学に昇格した龍谷と大谷。
 
 龍谷大学
  龍谷大学

 龍谷大学は、大学になる前には「仏教大学」とか「仏教専門大学」と称していました。現在の佛教大学とは全く関係ないのですが、ちょっと紛らわしいネーミング。大正11年(1922)に大学となった際、「龍谷」の名を付けました。

 と書くと、「龍谷」ってなに? という疑問が湧きますよね。
 大学のウェブサイトには、次のように記されています。

 大学の校名は、本願寺の山号である「龍谷」に由来します。
 親鸞聖人の廟地「大谷」を漢字にあてた「豅」(訓はオオタニ)を分かち書きにしたものです。
 大正7年に発令された大学令にもとづき、同11年、文部省に昇格の申請をしましたが、その際、大学は宗教・宗派の名称を付してはならないことになり、従来の「仏教大学」の名称を急に改める必要が生じたので、熟考の上、さだめたもので、新制大学においてもこれを継承しました。

 
 なるほど。西本願寺の山号「龍谷山」に由来していたわけです。浄土真宗でも西本願寺の方の大学が、龍谷大学。大宮キャンパスも西本願寺に隣接していますしね。

 それにしても、「豅」(ロウ、谷へんに龍)という漢字があったことが驚きですが、その偏と旁を引っ繰り返したものなんですね、龍谷は。

 「仏教大学の名称を急に改める」云々についてですが、大学令の条文には校名のことは触れられていません。国から宗教教育を控えるようにとの指示が出ていたので、その関係もあって、校名もそうなっていったのでしょう。
 
 大谷大学
  大谷大学

 大谷大学は、さほど大きくありませんが、龍谷同様に老舗です。こちらは、東本願寺が開いた大学。
 大正時代から、現在地(烏丸北大路)にあって、当時のことですから郊外に広いキャンパスを確保していたわけです。
 『大京都誌』には、「洛北烏丸頭に広汎な地域を占め、その宏壮雄麗なる赤煉瓦の建築は、宛かも教祖親鸞聖人の至誠を如実化せるに似ている」と述べています。

 こちらは、大谷大学と称する前には、「真宗大学」とか「真宗大谷大学」と言っていました。特に後者は分かりやすいネーミングでしたね。

 ということで、京都の仏教系の大学は、戦前には龍谷、大谷がありました。専門学校としては、先にあげたもののほか西山専門学校(西山浄土宗の系統、現京都西山短大)や京都女子専門学校(西本願寺の系統、現京都女子大)や光華女子専門学校(東本願寺の系統、現京都光華女子大学)などがありました。

 禅宗でも曹洞宗はないけれど、これは東京に駒澤大学がありました。日蓮宗もないですが、これも東京に立正大学がありました。京都は、やはり浄土宗、浄土真宗の学校が多かったわけです。


 広小路の立命館、そして府立医大
 
 京都御所の東側、清和院門外に広小路通という通りがあります。立命館は、戦前は御所と河原町通に挟まれたこの広小路にキャンパスがありました。府立医大の向かいですね。

 立命館大学
  立命館大学

 写真の校舎は存心館といい、前の道路が広小路通です。連続するアーチ窓が美しいですね。
 衣笠キャンパスに移転したのは、昭和56年(1981)だそうですから、80年間、広小路でやっていたわけです。現在、いくつかの校舎は売却され、転用されています。

 河原町通を挟んだ東には、京都府立医科大学。

 京都府立医科大学
  京都府立医科大学

 ずいぶん古そうな木造校舎ですね。
 すでに明治13年(1880)には、梶井門跡の跡地だった現在地に移転しています。
 いま戦前の附属図書館の建物が残されていますが、あとは最新の病院施設に建て直されました。


 キリスト教系の同志社大学

 同志社大学は、明治8年(1885)の開設ですから、歴史があります。創立者の新島襄と妻・八重、兄の山本覚馬は、大河ドラマで有名になりました。
 京都御所の北、相国寺門前にキャンパスを整備し、明治20年代に煉瓦造の校舎を建築していきます。

 同志社大学
  同志社大学

 クラーク記念館(塔のある建物)やハリス理化学館など、米国人の名を付した校舎が多いのは、それが彼らの寄付によるものだからです。
 明治から大正にかけての建築5棟が重要文化財に指定されています。大学キャンパスで重文が5棟もあるのは、おそらくここだけでしょう。寄付されたものは壊しにくい、という法則が働いている気がします。

 戦前の京都の大学。
 帝大、医大、仏教系、キリスト教系など、バラエティーに富んでいて京都らしいですね。




 京都大学

 所在 京都市左京区吉田本町
 見学 時計台記念館など一部公開
 交通 市バス「京大正門前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『大京都誌』東亜通信社、1932年


京の“名橋”って、どれ?--という疑問について考えてみた





七条大橋


 愛着のある三条大橋

 このところ、少し必要があって、橋について調べていました。
 橋は、誰にとっても馴染み深いものですが、建築の本に比べると橋の本は余り多くありません。まあ、一般向けの土木の書物は数多くありませんから、橋の本も少ないのでしょう。

 そうこうするうち、ふと、「京都の名橋といえば何橋だろうか?」という疑問が湧いてきました。
 意外に、考えたことのない問いでした。

 最初に思い浮かんだのが、三条大橋です。

 三条大橋
  三条大橋

 京都を代表する鴨川に架かり、東海道の西の起終点という交通の要衝でもあります。意匠面では、高欄に擬宝珠(ぎぼし)を付けるなど重々しさを誇っています。擬宝珠には漢文が刻んであるし、橋の下に回っても一部に石柱を用いるなど、長い歴史を感じさせます。
 現在でも、三条京阪の駅と繁華街・河原町通を結ぶ橋として、人通りも多いですね。

 三条大橋

 私にとっても、最もよく渡る橋のひとつで愛着があります。
 これまで、西や東や南へと遠くに歩くとき、必ず起点にしたのも三条大橋です。

 けれども、即決するのもつまらないので、もう少し考えてみることにしました。


 四条大橋と都市景観の変化

 三条大橋をあげるなら、当然、鴨川の1本下流に架かる四条大橋もあげるべきでしょう。
 昭和の初め、京都市が刊行した『京都名勝誌』(1928年)には、「京都七大橋」として、葵橋、丸太町橋、二条大橋、三条大橋、四条大橋、五条大橋、七条大橋の7橋をあげています。さらに、三条、四条、五条の3つを「三大橋」とも言うと記しています。

 四条大橋
  四条大橋

 四条大橋は、橋詰の建物とあわせて見ると、味わい深いものがあるでしょう。
 西詰の南側には、W.M.ヴォーリズが設計した東華菜館というデコラティブなビルが建っています(写真)。
 逆サイドの東詰の北側には、レストランが入る菊水ビルがあります。色合いは、どちらもベージュ系ですが、菊水ビルはてっぺんのアールが表現派風ともいえる名建築。その向い(南側)には、近代和風の雄・南座が聳えています。

 橋の両側に、これだけ見所のある建築を従える橋は、四条大橋だけでしょう。
 近代橋梁が都市景観との調和を旨とするのなら、京都一の名橋と言っても過言ではありません。

 このことは、過去の写真を見るとよく分かります。
 次の2枚を比べてみてください。

 『新撰京都名勝誌』より四条大橋
  大正4年(1915)頃(『新撰京都名勝誌』)

 『京都名勝誌』より四条大橋
  昭和3年(1928)頃(『京都名勝誌』)

 いずれも大正2年(1913)竣工の四条大橋が写っています。
 ぺたっとした印象がある上の写真に比べ、下の写真では橋詰に巍々たる菊水館(昭和2年、現レストラン菊水)が聳えています。写真自体も、矢尾政(大正15年、現東華菜館)から撮影したものでしょう。よくみると、京阪電車の四条駅(現祇園四条駅)も写っています。
 また南座も、このすぐあとの昭和4年(1929)に改築されました。

 このように、四条大橋のたもとでは、大正末から昭和初めにかけて高層の優れた建築が完成したわけで、それが橋の印象を一変させたのです。


 土木遺産の七条大橋

 そして、もっと下がれば、七条大橋があります。
 5連のRCアーチ橋(RCは鉄筋コンクリートの略)。大正2年(1913)架橋で、鴨川に現存する最古の橋だそうです。

 七条大橋
  七条大橋

 RCアーチ橋は、橋の都・大阪でも、大正9年(1920)に初めて架けられました(岩崎橋)。それより7年も早く、長さも82mと長大です。
 土木学会から、「選奨土木遺産」に選ばれるのも、うなずけます(橋の中ほどに銘板があります)。

 七条大橋
  正面橋から見た七条大橋

 地味な存在だけれど、橋好きには受けそうな名橋。私も渡ることが多いのですが、なぜか夜によく渡るので、哀愁の橋? ですね。


 最も有名な……

 観光客の皆さんに最も有名な橋は、やはり嵐山の渡月橋でしょうか。

 渡月橋
  渡月橋

 いつ行っても人がいっぱいの嵐山。この橋を渡った方は、大変多いでしょうね。
 京都の人にとっては、「十三まいり」のとき、振り返ってはいけない橋(授かった知恵を失うから)として知られています。

 高欄を木製にしていて、三条大橋などとともに和風の名橋です。小倉山を背景にした姿も美しいですね。

 
 伝説の一条戻橋、そして……

 京都で伝説の橋といえば、一条戻橋。
 戻橋は、その名によって、昔から花嫁さんや葬列が避ける橋として知られています。

  「都名所図会」より一条戻橋  一条戻橋(「都名所図会」巻1)

 「都名所図会」(1780年)にも、「これ洛陽の名橋なり」と特記され、江戸時代から称揚されていたことが分かります。 

 ただ残念なのは、現在の戻橋が少々“らしさ”がないことでしょうか。

 戻橋
  現在の一条戻橋

 堀川に下りて撮ると、こんな感じですが、渡ってみると伝説を全く感じさせないような橋になっています。
 新しいせいもあるけれど、もう少し何とかならないものかと頭を悩ませます。

 と言いつつも、戻橋を訪ねたら、ぜひ1本下流側にある中立売橋を見てください。

 堀川第一橋
  中立売橋(堀川第一橋)

 「堀川第一橋」の別称もある石橋で、明治6年(1873)に架けられました。150年近く前の橋が現役で活躍しているわけです。これは、すごい!
 石橋なので、美しいアーチ橋。細部もこっています。

 堀川第一橋 親柱

 堀川第一橋
  高欄

 親柱や高欄も花崗岩製。路面も石畳。
 こちらも土木学会の「選奨土木遺産」になっています。その理由のひとつに、石橋の真円アーチが大変珍しいという点があるそうです。アーチのカーブが真ん丸ですね。

 堀川第一橋 中立売橋の石組み

 この橋については、以前書いたことがありますので、そちらもご覧ください。
 記事は、こちら! ⇒ <堀川には素敵な石橋が架かっている>

 禁裏と二条城を結ぶ公儀橋でしたから、往時は格も高かったのです。
 ぜひ一度渡ってみたい名橋ですね。

 ということで、ひとつに決められないのですが、私が渡っただけでも数々の素晴らしい橋が京都にはあります。
 また折をみてレポートしたいと思います。




 中立売橋(堀川第一橋)

 所在 京都市上京区東橋詰町ほか
 見学 自由
 交通 市バス「堀川中立売」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 読売新聞京都支局編『京をわたる 名橋100選』淡交社、1992年


愛らしい牛の石像がある菅大臣神社は、学問の神さま・菅原道真の生誕地とされている





菅大臣社


 道真の生誕地は?

 学問の神さまとして知られる菅原道真(845-903)。
 道真を祀った北野天満宮(上京区)は、このお正月も初詣の人たちで賑わっていました。

 北野天満宮
  北野天満宮(2014年1月撮影)

 ところで、みなさんは「菅原道真がどこで生まれたか?」について考えたことはありますか。まあ、多くの参拝者にとっては余り関係のない話なのですが、今日はそれについて紹介してみましょう。

 上京区にある菅原院天満宮。名前からして、ゆかりの神社らしいですね。
 御所の西側、烏丸丸太町上ルにあります。平安女学院の隣接地です。

 菅原院天満宮
  菅原院天満宮

  こちらには、道真が産湯を使ったと伝えられる井戸があります。

 菅原院天満宮
  菅公産湯の井戸

 なぜ、ここが生誕地とされるかというと、道真の父・是善(これよし)の邸があった場所だからです。
 是善(812-880)は、文章博士などを務めた漢学者で、ここに彼の居宅「菅原院」がありました。いま神社の名前が「菅原院」天満宮となっているのは、そのためですね。

  菅原院天満宮 菅家邸址碑

 昭和13年(1938)に京都市教育会によって邸跡を示す碑が建てられています。


 別の場所にも“生誕地”が? 

 ところが、歴史とは厄介なもので、他の場所にも道真の生誕地といわれるところがあるのです。 

 京都には、彼の生誕地とされる場所が複数あって、上の菅原院天満宮(上京区)のほか、菅大臣(かんだいじん)神社(下京区)、吉祥院天満宮(南区)などがあります。
 これらはいずれも、菅家ゆかりの地で、京都の旧市街にあるのは菅原院天満宮と菅大臣神社です。

 菅大臣神社は、下京区の西洞院高辻上ルにあります。
 ビジネスの中心地・四条烏丸から、南西の方角です。ちなみに高辻(たかつじ)通は、“四・綾・仏・高”というわらべ歌の詞の通り、四条通-綾小路通-仏光寺通-高辻通と下がったところですね。

 四条烏丸から行く場合、仏光寺通を歩いて尋ねるのがおすすめです。なぜなら、仏光寺通の北側にも由縁の地があるからです。

 紅梅殿

 この場所は、菅大臣神社から道を挟んだ北側なのですが、先程と同じ「菅家邸址」の碑が建っています。
 こちらも、昭和13年に建てられたものですが、よく見ると、さらに「紅梅殿」と刻んであります。
 ここには、かつて道真の邸宅「紅梅殿」があり、お邸から廊下続きに書斎があって、「菅家廊下」の名で知られていました。
 この路地の奥に、小社が祀られています。

 紅梅殿
  北菅大臣神社(紅梅殿跡)

 額や提灯にも「紅梅殿」と記され、そう呼ばれているようですが、社号は北菅大臣神社というそうです。

 勘のよい方は、“紅梅があったら白梅もあるのでは?”と思われましたか。
 そう、白梅殿もあったのです、この南に。


 白梅殿跡には菅大臣神社

 この「白梅殿」が父・是善の邸宅であったと伝えられ、そのために道真の誕生地だといわれています。
 こちらにも昭和13年に邸跡の建碑がなされ、また生誕地の碑も建てられています。

  菅大臣社 「天満宮降誕之地」碑

 西の鳥居と北の鳥居の脇に、同じ碑が建っています(写真は西側=西洞院側)。
 裏面に、「明治八年六月再建」とありますから、明治8年(1875)に建ったものですが、「再建」なのでそれ以前にも同様のものがあったということでしょう。となると、江戸時代からここが道真生誕地だと喧伝されていたことになりますね。
 黒川道祐の『雍州府志』(1686年)の「菅大臣の社」の項にも、「是れ則ち菅神降誕の地なり。故に、社を建てて之を祭る」と記されています(厳密には紅梅殿の故地を「降誕の地」と考えているような記載です)。


 境内をめぐる

 菅大臣神社は、広い境内を持っています。まず、江戸時代の「都名所図会」(1780年)を見てみましょう。

 「都名所図会」より菅大臣社
  「都名所図会」巻1

 画面の左が北です。
 少なくとも、北と西に鳥居があったことが分かります。これは現在と同じですね(位置は違うようですが)。
 
 一番下の道路は、西洞院通です。しかし、よく見ると川が流れていますね。これが、今はなき西洞院川です。

 「都名所図会」より菅大臣社
  西洞院川

 石段で川に降りられるようになっていて、川の中や川端で何やら作業をしています。
 染物をしているのです。「西洞院/染物屋のてい」と書かれています。
 西洞院川は、染物をする川として知られていて、付近には多くの染物屋がありました。明治37年(1904)に暗渠化されたそうです。
 本文では触れていない、こういう風俗を描き込んでいるところが、「都名所図会」の隠れた愉しさですね。

 菅大臣社

 西洞院通の鳥居です。この先に参道が続いています。

 菅大臣社

 現在の社殿。西向きです。
 流造の本殿は見えていませんが、明治2年(1869)に下鴨神社から移築したそうで、幣殿なども近代の建築です。
 
 天神さんですので、もちろん牛の石像がたくさんあります。江戸後期のもの(天保年間)もありますが、可愛らしいのは手水舎の牛でしょう。

 菅大臣社

 手水鉢の後ろに鎮座しています(笑) テーブルのような台に載っていて、置き方も秀逸ですね。明治時代のもののようです。

 菅大臣社

 ちなみに、この上に掲げられている絵馬も、絵「馬」ならぬ絵「牛」でした。
 
 菅大臣社


 道真生誕の痕跡

 境内を見て回ると、西参道に3m位はありそうな大きな石碑がありました。

 菅大臣社
  
 題額には、単に「彰徳碑」と書かれています。内容を読んでみると(大意です)、
 
 菅公没後千年(明治35年=1902)を迎え、その後、社格も府社に昇格したので、拝殿や廻廊を増築し、神池や神園の拡張を行い、また摂末社の改修や社務所の新築を行った。このことは「白梅講」(信者たちの団体)が多額の寄付をして成ったものである。

 およそ、こんなことが書かれています。明治41年(1908)に白梅講が建てた碑です。
 さらに裏面を見てみると、びっしりと氏名が刻まれており、500人ほどの講員たちがいた(そして寄付した)ようなのです。これが壮観で、この神社が多くの人たちに信心されていたことがうかがえます。

 そして、肝心の道真生誕を示す痕跡が、ここにもあったのでした。
 それが、菅原院天満宮と同じく、井戸だったのです!

  菅大臣社 誕生水

 玉垣に囲まれた井戸が見えますね。背後には石碑があって、「天満宮誕生水」と記されています。やはり、産湯を使った井戸なのでしょう。
 こちらは社殿の南側にあるのですが、柵に囲まれた内にあるので近寄ることはできません。

 それにしても、市内に2か所も産湯を使った井戸があるとは……
 近代人の合理的思考によると、どっちが本当なの! と、邪念が沸き起こってしまいます。

 私は、どちらも本当と思っておけばよいと考えるのですが、そうもいかないので宗教文化史の専門家で天神信仰に詳しい竹居明男教授の解説を引用しておきたいと思います。

 [菅原院天満宮の]南面する本殿の傍らに「菅公産湯の井戸」があり、道真生誕の地と伝える。
 ちなみに、このほかにも道真生誕の地と伝える場所は少なからずあるが、当時の慣例として、道真は母方(母は「伴氏」とのみしか伝わらない)の家で出生したと考えられるので、結局は不明としか言いようがないようである。(『大学的京都ガイド』44-45ページ)


 なーんだ、という結論で、すみません。
 でも、この問題、おもしろそうなので、もう少し考えてみたいと思います。




 菅大臣神社

 所在 京都市下京区仏光寺通新町西入菅大臣町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 黒川道祐『雍州府志(上)』岩波文庫、2002年
 同志社大学京都観学研究会編『大学的京都ガイド-こだわりの歩き方』昭和堂、2012年


新京極の今昔を「都名所図会」で振り返る - 「ブラタモリ~京都~」 おさらい -





錦天満宮鳥居


 「ブラタモリ」、オンエア!

 1月6日(2015年)、3年ぶりにNHK「ブラタモリ」が復活し、タモリさんが京都を訪れて、3つの“復興プロジェクト”を探りました。

 そのうち、私は「新京極」編をご案内する機会に恵まれました。番組中、フリップで登場した「都名所図会」(1780年)を改めて掲載し、要点を振り返ってみたいと思います。

 新京極
  新京極(六角通から南を望む)


 「新京極」って、どんなところ?

 新京極は、三条通と四条通を結ぶ500mあまりの街路で、明治5年(1972)に開かれました。
 平安京の東端にあった東京極大路は、現在の寺町通に相当します。そのさらに東に開通したのがこの通りで、“新しい京極”という意味で「新京極」と呼ばれたのです。
 劇場や映画館などが立ち並ぶ京都随一の繁華街として、明治時代から賑わってきました。現在では、観光客向けの土産物店やショップに様変わりしていますが、その賑やかさは変わっていません。

 この通りの特徴を、手もとにある『新撰京都名勝誌』(1915年刊)で紹介しておきましょう。(現代文に改めています)

 新京極は、三条小橋の西2丁(約220m)ばかりのところにあり、寺町通の東を南に曲がって、四条通に達している。この場所は、元は誓願寺の境内に属していたので、「もと誓願寺」と呼んだが、明治5年、道路を開通し、寺町の古い名「京極」に対して「新京極」と名付けた。近年(明治末)、付近の場所をさらに開いて「第二京極」と呼んでいる。

 ここは、京洛第一の繁華街で、演劇、活動写真、浄瑠璃、軍談、落語の興行場から、酒楼、肉舗、珈琲店、球戯場などまであって、各種の店舗が立ち並んで、遊びに来る人が大勢おり昼夜雑踏を極めている。
 ここにある劇場は、京都座、明治座、夷谷座、活動写真館は、帝国館、歌舞伎座、朝日倶楽部、パテー館、中央館、八千代館、富士館、天活倶楽部があり、落語などの寄席には、芦辺館、笑福亭、第一勢国館、第二勢国館などがあって、東京の浅草奥山や、大阪の千日前と繁華を競っている。(231ページ)


 旧八千代館(WEGO)
  旧八千代館(WEGO)

 
 上知した寺社の境内に開通した新京極

 新京極が通された場所は、もとは寺社の境内地でした。
 明治初期、寺社領の上知(官に没収すること)が行われました。これは寺社の経営にとっては大きな打撃となったのですが、その土地が学校などの公用地として転用された例も数多くありました。新京極の開発も、寺社の境内地を活用したもので、

  ○誓願寺
  ○誠心院(和泉式部寺)
  ○西光寺(寅薬師)
  ○蛸薬師堂
  ○安養寺(さかれんげ)
  ○善長寺(くさがみさん)
  ・了蓮寺
  ○錦天満宮
  ・歓喜光寺
  ・金蓮寺(四条道場)

 といった寺社の一部が、新京極の通りになったのです(○印は現在もある寺社)。

 これを江戸時代の「都名所図会」(1780年)で見てみると、こんな感じになります。

 「都名所図会」より蛸薬師
  「都名所図会」巻2

 誠心院(左)から、寅薬師(中)、蛸薬師(右)あたりを描いた図。まだ新京極は出来ていません。
 画面の下の道路が、寺町通です。

 寺町通の脇(東側)には、中川(京極川)という小川が流れていました。そこに橋が架かっており、門をくぐると各寺の境内でした。

 そこに明治維新後、新たな街路が通されたのです。

 「都名所図会」より蛸薬師
  
 矢印が蛸薬師。
 ロケのとき、“無茶なことをしたもんだ”という話も出たのですが、確かにこの図を見ると、本堂の目の前に道を通したのですから、すごい話とも言えます。

 ちなみに、番組でお世話になった錦天満宮は、かつてはこんなに広々とした境内を誇っていました。

 「都名所図会」より錦天神
  「錦天神」

 川を渡ったところにあるのが、いまビルに突き刺さっている鳥居(この絵の鳥居からは建て替えられています)。
 ずいぶんな様変わりですね。


 誓願寺のあたりは……

 新京極の一番北にあった寺院・誓願寺(番組で「迷子しるべ石」が登場したところ)のあたりは、どうだったのでしょうか。

 「都名所図会」より誓願寺
 「誓願寺」

 広壮たる境内、右端には三重塔も見えます。
 それが、本堂の眼前、図で広場のようになっているところに街路が通されたのです。

 誓願寺古図(『新京極今昔話』)
  誓願寺の古図 (『新京極今昔話 その一』所収)

 江戸後期、天保頃の誓願寺周辺です。
 図の上が三条通。赤い矢印が、現在の新京極の入り口「たらたら坂」があるところですね。ここに、かつては北門がありました。
 新京極は南下して、本堂前で少し西へ曲がり(斜め矢印)、さらに南へ続いていきます。誓願寺前(六角広場)で新京極が曲がっている理由には諸説ありますが、上図を見ると、境内をなりゆきで通したため曲がったのかなとも思わせます。
 
  『新京極今昔話』
  『新京極今昔話 その一』

 この本の表紙には、「明治十年頃の誓願寺本堂附近」という写真が掲載されています。明治10年(1877)というと新京極が出来て間もない頃です。左端に写っているのは、芝居小屋の夷谷座でしょうか。のちピカデリー劇場になるところです。
 誓願寺は、幕末、蛤御門の変の大火で伽藍、塔頭を失いました。その後、大通寺(南区)の本堂を移築して写真のような形になりましたが、このお堂も昭和7年(1932)に焼失してしまいます。

 明治維新から今日まで、わずか150年ですけれど、実に激しい変遷でした。
 新京極という街で、芝居や活動写真に笑い涙し、神仏に祈りを捧げ、食堂で胃袋を満たした無数の人々。その記憶が今も新京極の宙に漂っている、そんな気がします。




 新京極

 所在 京都市中京区桜之町ほか
 交通 地下鉄「京都市役所前」、阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 田中緑紅『新京極今昔話 その一』京を語る会、1959年
 京都市編『京都 歴史と文化 2 【宗教・民衆】』平凡社、1994年