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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

いにしえのシネマパラダイス・新京極、帝国館跡の裏を抜けると、そこには…





ダイアモンドビル


 新京極のダイアモンドビルは、元はお寺

 京都の目抜き通り・四条通と三条通を結ぶ新京極。
 約550mある繁華なアーケード街で、観光客や修学旅行生相手の土産物店や若者向けのショップが立ち並んでいます。

 ここは、かつては劇場、さらには映画館が林立する興行街でした。私が学生だった20、30年前も、まだまだ多くの映画館が建っていたものです。それが今ではシネコンのMOVIX京都だけになってしまいました。

 新京極の南端、四条通から約150m上がったところに、ダイアモンドビルというファッションビルがあります。

 ダイアモンドビル
  ダイアモンドビル

 古くはダイアモンド靴店という靴屋さんで、昭和47年(1972)から営業されているそうです。小さな店舗が多い新京極では、大きなビルの商店として早い方だったと記憶します。
 広い敷地であることから想像されるように、ここがダイアモンド靴店になる前は、京都日活という映画館でした(昭和20年~)。この館は、戦前には帝国館という名で興行していました(大正2年~)。

 さらにさかのぼると、かつてこの場所には、了蓮寺という寺院があったのです。
 このあたりは、新京極が出来る前、つまり江戸時代は寺町ですから、お寺が立ち並んでいました。南の四条通から北の蛸薬師通まで、金蓮寺(四条道場)、歓喜光寺、了蓮寺、錦天満宮、善長寺(くさがみさん)、安養寺(さかれんげ)というふうに並んでいました。

 了蓮寺は、明治22年(1889)の火災で堂宇を失い、明治末年になって、本山である百万遍・知恩寺内に移転しました。そのあとに劇場、映画館が建設されたわけです。


 吉本興業「花月」の跡地

 ダイアモンドビルの北に隣接して、京都吉本ビルがあります。ここにはかつて、吉本興業の劇場「花月(京都花月)」がありました。

 京都吉本ビル
  京都吉本ビル・パッサージュ

 花月は、昭和9年(1934)にオープンし、戦後も続きましたが、昭和62年(1987)に閉館しました。そのあとに、現在のビルが建設されたのです。
 このビルの1階奥にはアウトドアショップ・モンベルがあり、私も時折利用します。


  ナゾの細道

 このあたりを先日、戦前の地図を片手に散歩していました。
 昭和9年(1934)6月に発行された「京極と其[その]附近案内」。新京極を中心に、寺町通や裏寺町、河原町通や四条通の店舗名を記載している地図です。

 現在のダイアモンドビルの場所には、当時、帝国館がありました。
 その北には、田毎そば、左馬雑貨、大黒屋そば、ハマヤ帽子と並び、その北が立江地蔵尊(くさがみさん)でした。
 
 地図をよく見ると、田毎そばと帝国館の間に、新京極から東に入って行く、逆L字に曲がった路地が描かれています。

 附近図 (手書き略図で恐縮です)
  昭和9年の帝国館(現ダイアモンドビル)附近図

 路地を入ると、奥に中座という劇場があり、そこで道は南に折れて、すし屋や食堂、バー、興業組合の事務所など10軒足らずが並んでいます。ちなみに、中座はこのあと花月になったそうです。
 そして、路地はその先、中央館(中央電気館)という映画館の脇を通って、第二京極へと抜けていきます。

 こんな路地あった? 

 不思議に思って、現地で考えました。

 京都吉本ビル

 どこに路地があるのか?
 思い切って吉本ビルに入って行くと、前にはモンベルの入り口が見えます。

 京都吉本ビル

 さらに、進むと……

 京都吉本ビル

 モンベルの脇に通路があり、その先が明るく光っています。
 そうか!

 京都吉本ビル

 突き当たって右を見ると、ビルの外の空間が見えてきたのです。

 そう、このビル内の通路こそ、カギ形に曲がった、かつての路地の痕跡だったのです。

 外には、2人の男性が座って話をしています。果たして、ここはどこなのか?

 新京極公園

 なんと、そこは、いつも見慣れた新京極公園なのでした。
 ふだんは南側からばかり見ている公園を今日は北から見ているのです。

 新京極公園

 吉本ビルの出口を南から見たところ。自販機の左が出入り口です。
 当時は、右側の自転車置き場のあたりに中座があり、京極興業組合の事務所があり、遊技場や食堂があったのです。
 また左側には、すし屋やバー、遊技場が並んでいました。
 それが、今ではすっかり公園になっているのです。

 新京極公園
  新京極公園(南側から望む) ビルはダイアモンドビル

 上の写真には、ダイアモンドビルが大きく写っていますが、左側には錦天満宮の本殿(背面)が見えています。
 かつて、その手前あたりには、中央館という老舗の映画館がありました。
 そして、その向い(南側)には、通りを挟んで八千代館があったのです。

 旧八千代館(WEGO)
  旧八千代館(WEGO)

 八千代館は、少し前まで映画館として営業されていましたが、今はファッション関係のショップ・WEGOです。
 ここは、明治末に開かれた「第二京極」でした。
 ところが、太平洋戦争中の建物疎開で、中央館やその東にあった杵屋食堂などが取り壊され、空地になったのでした。それが現在の新京極公園です。
 そのため、細く曲がった路地も完全に姿を消したのでした。

 第二京極
  第二京極(写真奥が新京極)

 思えば、吉本ビルには「パッサージュ」という愛称が付いていますが、この言葉はパリなどにあるアーケード付きの通りを意味します。それはもしかすると、いま私が通ってきたビル内の小径を指しているのかも知れず、さらには戦前ここにあった小さな路地の暗喩なのかも知れません。

 いつも歩いている新京極にも、まだまだ知らないところがあるものです。




 ダイアモンドビル、京都吉本ビル・パッサージュ

 所在 京都市中京区四条通新京極上ル東側町
 見学 商店として営業されています。通路は通り抜け可
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京極と其附近案内」、市民風景社、1934年
 「京都市劇場史略図」(『近代歌舞伎年表 京都篇 7』所収)
 田中紅緑『新京極今昔話 その一』京を語る会、1959年
 柴田勝『京都新京極映画常設館の変遷』私家版、1971年
 大槻洋二「日本近代都市における歓楽街の成立と展開に関する史的研究」九州芸術工科大学博士論文、1998年


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きょうの散歩 - ほんとにやってる! 四条通の歩道拡幅 - 2014.11.27 -





四条通歩道拡幅


 富小路-柳馬場で夜間工事中!

 先日、このブログで、四条通の歩道が拡幅されるという話を紹介しました。
 11月17日から工事が開始され、10日が経ちました。(前回の記事は、こちら! ⇒ <1年後に歩道の拡幅が完成する四条通、その後どうなる?>

 出掛けたついでに、工事区間(富小路-柳馬場)に行ってみました。
 果たして……

 四条通歩道拡幅

 四条通歩道拡幅

 工事中の看板とともに、早くもフェンスで工事箇所が囲われ、警備員さんが立ってます!

 四条通は4車線(片側2車線)ですが、その両サイドで拡幅工事しています。

 四条通歩道拡幅

 アスファルトをはがして、排水管? を埋設している模様。工事は夜間のため、昼間は何もやっていません。

 工事のため、車道はセンター2車線のみ。

 四条通歩道拡幅

 フェンスがあるので狭く感じますが、特に不自由なくクルマが通行しています。
 工事完成後は、およそこんな雰囲気になるのでしょう。

 四条河原町西入ルには、工事を周知する看板も。

 四条通歩道拡幅

 工事現場を見に行ったあと、四条寺町や高島屋前のバス停を通ったのですが、ご覧の通りの大混雑。

 四条通歩道拡幅
  八坂神社御旅所前(四条寺町)

 四条通歩道拡幅
  高島屋前

 やっぱりこれを見ると、拡幅しないとなぁ、と思わされます。





 四条通の歩道拡幅(四条富小路-柳馬場)

 所在 京都市下京区立売東町
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約10分


一遍上人と和泉式部が時空を超えてめぐり合う新京極の誓願寺には、芸道精進を願う扇塚がある





扇塚


 謡ゆかりの名所旧跡

 京都の街を歩いていると、謡(うたい)との出会いを頻繁に経験します。
 神社を訪れると、謡の奉納が行われたことを示す額が掲げられているのを数多く見掛けます。
 また、謡の題材となった人物や場所にしばしば巡り合います。謡曲史跡保存会による解説板も、よく目にしますね。

 それらに接するたびに、ストーリーや背景を確認して勉強していきます。

 先日来、誓願寺を訪れる機会が多いのですが、この門前にも謡曲「誓願寺」の説明板が立てられています。

 誓願寺
  誓願寺


 謡曲「誓願寺」のあらすじ

 謡曲「誓願寺」のあらすじを紹介しておきましょう(大意です)。

 紀州・熊野に参籠した一遍上人は、諸国で「六十万人決定往生」の御札を配るようにという霊夢を得て、都へと上ります。
 誓願寺に着いて札を配り始めると、多くの人々が集まってきました。

 その中に一人の女性が現れ、上人に問い掛けます。

 女「この御札を見ると、『六十万人決定往生』と書かれていますが、六十万人より他の人は、往生できないのでしょうか」

 と、不審がります。

 上人「これは、熊野の夢想にあった四句の文の頭文字を取って、札に書きつけたものです」

 女「さて、その四句の文というのは、どういう文句なのですか」

 上人「それは『六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離一遍証 人中上々妙好華』の四句の一文字目を取って『六十万人』と書いているのです。どうして往生できる人数を決めるなどということをしましょうか」

 女「それはうれしい。人数とは関係なく、南無阿弥陀仏と唱えれば皆往生できるのですね」

 いつのまにか夕月が上り、夜の念仏となった。
 女性がまた上人に話し掛けます。

 女「お堂に『誓願寺』と書いている額を懸けていますが、上人が手づから書かれた『南無阿弥陀仏』という文字の額に懸け替えていただけないでしょうか」

 上人「これは不思議なことを言われる。『誓願寺』の額をはずして『南無阿弥陀仏』の名号に替えるとは、思いもよらないことです」

 女「いや、これもご本尊のお告げだとお考えください」

 上人「ご本尊のお告げとは、あなたはいったいどこにお住まいの方ですか」

 女「私の住みかは、あの石塔でございます」

 上人「これまた不思議なこと、その石塔は和泉式部のお墓と聞いておりますが、そこにお住まいとは不審なことです」

 女「そのようにお疑いにならないでください。私も昔はこの寺に縁があって住んでいたのですから」

 と、女性は言って、「偽りはありません、私こそが和泉式部なのです」と告げて、石塔の蔭に消えてしまった。

 上人が額を懸け替えると、あたりに異香が漂って音楽が聞こえてきた。和泉式部は仏果を得て、極楽の歌舞の菩薩となったのである。式部は、誓願寺の由来を語りながら、舞い踊るのであった。


 この話は、この寺の縁起を記した「洛陽誓願寺縁起」にも記されています。


 一遍上人の賦算

 時宗の開祖・一遍上人が、各地でお札を配る「賦算(ふさん)」を行ったことは、よく知られています。
 京都でも、この誓願寺の近くに、こんな碑が立っていますね。

  染殿院 染殿院の碑

 「時宗開祖 一遍上人 念仏賦算遺跡」と刻まれています。
 新京極の入り口(四条通側)にある染殿院の前に建てられています。かつて「釈迦堂」(四条道場)で一遍が賦算したことを示すものです。

 一遍が配った札には、「南無阿弥陀仏」という六字の名号と、「決定往生六十万人」という字句が刷られていました。
 人々に札を配って、南無阿弥陀仏と唱えれば救われます、と伝えたわけです。

 そこで、謡曲「誓願寺」です。
 なぞの女性が現れて、上人に「六十万人以外は往生できないんですか?」と、少し変わった疑問を投げかけたのです。ちょっとクレームみたいな感じにも聞こえます。
 しかし考えてみれば、「決定往生六十万人」と書いてあれば、“限定60万人様”と受け取って当然ですよね。
 それに対して、上人は「違います」と言い切って、4句からなる偈(げ)の頭文字を取ったものだと説明します。
 
 意外な展開なのですが、この謡曲が出来た頃(室町時代)には、こんな疑問が多く抱かれていて、それを解説する意味があったのかも知れませんね。


 和泉式部の石塔は誠心院に

 女性はさらに、「『誓願寺』と書かれた額を『南無阿弥陀仏』に代えてよ」と懇願します。
 そこで上人は、自ら筆でしたためた六字名号の額に懸け替えます。まあ、すぐに額が出来るのか!? という点はさておき、今でも誓願寺に行くと、本堂に「南無阿弥陀仏」の額が掲げられています。

 ストーリーが進むにつれて、この女性が和泉式部だと分かってきます。それも、石塔の下に住んでいるという、ちょっとホラーな展開!

 和泉式部といえば、王朝文学で有名な平安時代、10世紀後半から11世紀前半にかけての人物です。
 一方、一遍上人は、鎌倉時代、13世紀の僧。
 両者が生きた時代には、250年ほどの開きがあります。

 その二人が、誓願寺でご対面とは!
 実に奇想天外で、どうしても和泉式部は幽霊? でなければなりません。
 
 話に登場する式部の石塔は、誓願寺の南にある誠心院に残されています。

 和泉式部石塔

 立派な宝篋印塔で、現在は綺麗に整備され、自由に参拝できます。

 もともと誓願寺と誠心院は、上京区の元誓願寺通小川にあり、天正年間、秀吉が寺町を作った際に、ここに移転してきました。
 江戸時代の「都名所図会」(1780年)を見ると、すでに和泉式部の石塔が描かれています。

 「都名所図会」より「泉式部」
  「誠心院」「泉式部塔」とある(「都名所図会」巻1)
 
 江戸時代から、この石塔が有名で、人々がお詣りしていたことがうかがえます。


 柳田国男と和泉式部伝説

 そうすると、和泉式部のお墓はここなんだ、と考えるわけですが、事態は少々複雑です。
 実は、“和泉式部の墓”と称するものは、全国に数十も残っているというのです!

 『日本架空伝承人名事典』には、「式部の誕生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十カ所に及び、墓の数もそれに劣らない」と書かれています。そもそも、架空人名事典に出てくるところが凄くて、ナゾに満ちた女性だということが分かります。

 この、いわゆる和泉式部伝説について、幅広く考察したのが民俗学の先駆者・柳田国男でした。
 柳田の「女性と民間伝承」という論文は、和泉式部をめぐるナゾについて延々と、かつ広範囲に考察を展開しています。ここでその全体を紹介することはできないのですが、重要な指摘に、式部の説話は旅する女性たちが語り広めたということがあります。
 とりわけ「歌比丘尼(熊野比丘尼)」といった旅する女性宗教者が、全国をめぐって「歌にして聴かせた物語」の中に、和泉式部の話もあったのでしょう。
 こういった熊野にゆかりのある比丘尼の拠点のひとつが誓願寺であったと考えられます。根井浄氏は、次のように述べています。

 時衆が式部説話に関与したことは、熊野権現が女人参詣を忌避しないことを説いた「晴れやらぬ身のむき雲のたなびきて、月のさはりとなるぞかなしき」という式部の歌と「もろともに塵にまじはる神なれば、月のさはりもなにかくるしき」という熊野権現との歌問答を唱導したところに早く示されている。
 したがって誓願寺に式部の話を持ち込んだのは、時衆化した熊野山伏や比丘尼であったと考えられ、式部説話の背景に熊野信仰があることが注意されよう。
 このように誓願寺には熊野系の時衆が多く集まり、式部説話が全国に弘まってゆく拠点であったことが確認される。



 芸道精進の扇塚

 和泉式部伝説は、追究し始めるとエンドレスになりそうなのですが、謡曲「誓願寺」のラストに、式部が歌舞の菩薩と化して舞い踊るくだりがあります。
 この部分が、江戸時代になって舞踊家たちに信仰され、扇の奉納などが行われるようになったといいます。
 現在でも、本堂に絵馬ならぬ扇が納められています。

 誓願寺

 やはり芸道精進の願いです。

 そして、山門を入って右側には、扇塚が。

 扇塚
  扇塚

 五輪塔に扇形が彫られています。
 扇の供養塔といったところでしょうか。
 
 和泉式部と一遍上人の意外な出会い。
 そして、その伝説を広めた女性宗教者たち。
 このような語り物の拠点となった誓願寺が、現在の新京極を生み出すカギになったことは、実に興味深く思われます。


  新京極




 誓願寺 (扇塚)

 所在 京都市中京区新京極通三条下ル桜之町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車「三条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 柳田国男「女性と民間伝承」(『定本柳田国男全集 8』筑摩書房、1962年 所収)
 根井浄「廻国の比丘尼」(『仏教民俗学大系 2』名著出版、1986年 所収)
 『日本架空伝承人名事典』平凡社、1986年
 「誓願寺」(『新日本古典文学大系 57 謡曲百番』岩波書店、1998年 所収)
 「洛陽誓願寺縁起」(『続群書類従 27上』所収)
 「都名所図会」1780年


錦天満宮でいただいた撤饌は落雁





錦天満宮


 新京極の錦天満宮

 先日、所用で新京極にある錦天満宮さんを訪ねました。
 こちらは、いつもにぎわっていますね。

 錦天満宮
  錦天満宮

 その際、撤饌(てっせん)を頂戴しました。

 撤饌

 撤饌とは、神さまへのお供えを下げたものです。
 いろいろな方が、いろいろな物をお供えされるわけですから、撤饌の種類もさまざまということになります。


 紅白の落雁だった

 紙製の小箱に入れられ、熨斗紙が掛けられています。
 開けてみると……

 撤饌

 紅白の落雁(らくがん)でした。
 よく見ると、紋になっていますね。いわゆる紋菓子(紋菓)です。

 撤饌

 天満宮だから梅鉢紋かと思いきや、これはお供えなので天神さんの紋ではありませんね。
 下がり藤の紋。それも、特徴的な「西六条藤」という西本願寺の紋です。

 西六条藤 西本願寺の寺紋「西六条藤」

 同じ京都ですから、本願寺さんの紋入り落雁が錦天満宮にお供えされたのも分からないではないのですが……
 何となく分かったような、分からないような。
 どなたがお持ちになったのでしょうか?

 紅と白とはちょっと味が違っていて、美味しくいただきました。




 錦天満宮

 所在 京都市中京区新京極通四条上る中之町
 拝観 境内自由
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 吉野竹次郎編『紋之泉』洛東書院、1936年


1年後に歩道の拡幅が完成する四条通、その後どうなる?





四条通


 歩道が拡幅される四条通

 京都の繁華街といえば、「四条河原町」という地名が象徴するように、四条通と河原町通が最もにぎやかですね。

 この2つの通りは、周辺の通り、例えば三条通や寺町通と比べれば、はるかに広い幅になっています。近代化の中で拡幅された片側2車線の道路です。

 この四条通、ついに歩道が拡幅、車道が減少します。
 これは今後の全国的な流れといってもいいでしょう。大阪でも、メインストリートの御堂筋の側道を歩道化する構想が浮上しています。“歩きやすい街”がはやりですね。


 計画の詳細は?

 四条通
  四条通

 現在の四条通。
 4車線(片側2車線)で、アーケード付きの歩道があります。
 この歩道ですが、あまり広くはありません。

 四条通

 7月17日の朝の歩道。山鉾巡行を待つ人たちですが、ボックスの上に座る外国人ツーリストも!
 歩道の幅は、現在3.5mなのだそうです。
 歩いた方ならすぐわかるように、四条大橋-四条河原町-四条寺町あたりは、土曜や日曜は常に混雑しています。バス停もありますから、その付近は特に混みます。

 これが次のように変わるそうです。

 ・4車線を2車線に削減する。
 ・歩道幅を3.5mから6.5mに拡大する(箇所によって異なる)。
 ・バス停を現在の16か所から4か所に集約する。


 四条通
  歩道が約2倍の広さに!

 つまり、車道がこれまでの6割の幅に縮小され、歩道が2倍近い広さになります。
 アーケードは現在のものを使用し続けるため、車道側は屋根なしですね。
 バス停も、「四条高倉」と「四条河原町」に集約されます。

 そのほか、

 ・タクシ-乗り場2か所の設置(大丸前、高島屋前)
 ・乗降や荷降ろしのための短時間停車スペース(アクセススペース)の設置

 といったプランも。

 私もクルマを運転しますが、河原町通や烏丸通(南北の通り)はよく走っても、東西の四条通は余り通りませんね。
 東西は、むしろ丸太町通とか御池通、あるいは南の方では五条通などを通行します。つまり、現在でも、狭くて混む四条通は避けているわけです。
 そのため、今回の車道縮小が実施されても、さほど影響を受けないでしょう。
 むしろ、四条通は歩いて通ることが多いので、歩道拡幅は歓迎です。四条河原町-寺町あたりは、混雑して結構イライラするんですね、いつも。

 京都に限らないのですが、関西は路上駐車が多いので、片側2車線も実質上は1車線と同じ。そのため、今回の施策もマイナスの影響は少ないのではないでしょうか。むしろ違法駐車が減ってよいかも?
 昼間の四条通は、主にバスやタクシー用の道路という感覚になっていけばよいと思います。


 約1年で完成する

 対象区間は、川端通から烏丸通の間(約1.1㎞)。
 工事は、2014年11月17日から開始され、まずは柳馬場通-富小路通から着工。翌2015年10月末に完了する予定です。
 もともとは今年度(平成26年度)の事業でしたが、1年ほどずれ込んだことになります。総事業費は、約29億円だそうです。

 新しい四条通、どんな姿になるのか注目しましょう。




 四条通

 所在 京都市下京区御旅町ほか
 交通 地下鉄「四条烏丸」、阪急電車「烏丸」下車、すぐ



 【参考文献】
 「歩くまち京都推進室からのお知らせ」京都市都市計画局、2014年11月


【新聞から】没後50年を迎えたW.M.ヴォーリズの近代建築 - 保存・活用の検討が急務に -

建築




東華菜館


 建築、意匠越えて再評価 ヴォーリズ没後50年
 日経 2014年11月15日付


 日経新聞を見ていたら、建築家ヴォーリズの特集記事が出ていました。
 ちょうど月末に、見学会の下見で近江八幡に行くので、目にとまったのです。近江八幡(滋賀県)は、ヴォーリズの拠点となった町で、近江兄弟社があります。
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)は、今年、没後50年だそう。まったく気付いていませんでした。

 今年のヴォーリズ関係の話題といえば、神戸女学院大学(兵庫県西宮市)の建築群が重要文化財に指定されたこと。ヴォーリズとしては、初の重文です。
 私も以前、見る機会があったのですが、落ち着いたスパニッシュスタイルの学舎ですね。昭和初期の建築ですが、ヴォーリズ研究の第一人者・山形政昭先生は、「これほど彼が設計した空間が残されている場所は他に無い」(日経記事)と述べています。
 女子大なので、ふだん男性は見学しづらいと思うのですが、記事によると、2015年3月下旬に一般公開されるそうです。これは見に行きたいですね!

 京都にも、いくつか彼の作品があります。
 一番有名な(というか、みんなが見ている)作品は、四条大橋西詰の東華菜館(旧矢尾政)でしょうか。

  東華菜館 東華菜館

 他にも、日本基督教団京都御幸町教会、大丸ヴィラ、駒井邸、同志社大学アーモスト館など、数多くあります。

  同志社大学啓明館 同志社大学啓明館

 山形先生は、「[ヴォーリズの]建物の勝ちが高まる一方、老朽化は進む。全国に残るヴォーリズの建築をどう保存、活用していくかを真剣に考える時期に来ている」と話されています(同)。

 滋賀県・豊郷小学校の改築問題に象徴されるように、今後取り壊しになるものも出て来るのでは、と心配です。
 とりわけ、商業施設として使用されているヴォーリズ建築は、それを取り巻く環境によって使用が停止されることが危惧されます。代表的な作品だけに、後世に伝えていくべきものだといえます。
 都市景観としても重要な要素であり、どうやって保存・活用していくのか、社会的に考えるべき課題といってよいでしょう。


山脇東洋が初めて解剖を行った六角獄舎跡に行ってみた





山脇東洋観臓之地碑


 六角通を進むと…

 前回、京都の医師・山脇東洋が人体解剖を行ったことを紹介しました。
 宝暦4年(1754)のことで、日本で初めての試みでした。

 山脇東洋の墓地は、伏見区の真宗院や中京区の誓願寺にあり、前回の記事では誓願寺にある東洋夫妻の墓所を取り上げています。 記事は、こちら! ⇒ <日本最初の解剖を行った医師・山脇東洋の墓所は、新京極の裏側、誓願寺墓地にある>

 今回は、彼が解剖を行った通称「六角獄舎」の跡を訪ねます。

 六角通は、三条通の1本南です。
 三条通は、堀川通から千本通までアーケードの商店街になっていますが、六角通は細い静かな通りです。

 六角通

 西に進むにつれて寺院が増えてきます。

  六角通

 古い仁丹の町名表示板を見ると、「下京区」と書かれています。
 昭和4年(1929)に中京区ができるまで、ここは下京区だったわけです。

 さらに進むと、道が少々カギの手に曲がります。
 
 六角通

 左手にマンションなどが見えてきて、ここが今日の目的地です。
 向こうには、武信稲荷神社の杜が見えます。

 武信稲荷神社
  武信稲荷神社


 六角獄舎の面影は…

 江戸時代の絵図を見ると、民家の建つ市街地はこのあたりで終わっています。その西は、田んぼ。南側には高槻藩邸がありました。
 おそらく用のない人は来ない、ひっそりとした場所だったのでしょう。牢獄を作るのにふさわしい場所という気もします。

  六角獄舎跡 六角獄舎の跡地

 現在は、更生保護施設があり、用地利用の歴史性を感じさせます。
 『京都市の歴史』には、六角獄舎について、次のように説明されています。

 京都御役所向大概覚書所収の図面によれば、六角通南、蛸薬師通北、神泉苑町通西にあり、獄舎の東側には浄土宗如来寺がある。これは現因幡町西側で、現京都感化保護院の場所である。
 宝永5年(1708)3月の大火によって、以前小川通にあった牢屋敷が焼亡したため、翌6年、この地に新しい牢を建てたものである(京都御役所向大概覚書)。幕府側の正式名称は三条新地牢屋敷であるが、六角通に面していたので「六角の獄舎」とよばれた。(820ページ)


 その入り口に、史跡を示す碑が2本、建っています。

  山脇東洋観臓之地碑

 左は、この獄舎に囚われていた志士・平野国臣らが幕末に殺害されたことを示す碑。
 そして右の方には、「日本近代医学発祥之地」と記されています。


 「観臓之地」碑

 山脇東洋観臓之地碑

 門内には、平野国臣らを悼む「殉難勤王志士忠霊塔」(右)と、「山脇東洋観臓之地」碑(左)が並んで建っています。
 観臓之地碑は、表面を磨かれた御影石でできています。碑の台座には、東洋の行った解剖の意義などが記されています。

 山脇東洋観臓之地碑

 山脇東洋観臓之地碑

 大意は、以下の通りです。

 宝暦4年(1754)閏2月7日に、山脇東洋らは京都所司代の許しを得て、この地で日本初の人体解剖を行った。江戸の杉田玄白らに先立つこと17年である。その記録は5年後に「蔵志」としてまとめられた。
 実証的な科学精神を医学に取り入れた初めで、日本近代医学がめばえるきっかけとなった。山脇東洋の偉業を讃えるとともに、解剖された屈嘉の霊を慰めるため建碑する。

 昭和51年(1976)に、日本医学会などにより建てられました。
 この趣旨を読むと、先ほど「日本近代医学発祥之地」と書かれていた理由が分かります。古医方の四大家の一人としてならした山脇東洋は、従来の五臓六腑説にあきたらず、自ら人体を腑分けすることを望んだのでした。


 腑分けされた人々

 碑文には、「観臓された屈嘉の霊をなぐさめる」と記されています。この「屈嘉」とは、そのとき解剖された男性の名前です。
 屈嘉という男は38歳でしたが、凶悪な強盗犯で、六角獄舎につながれていました。その罪状から、西土手の刑場で斬首に処されます。
 処刑後、遺体は獄舎に戻され、そこで解剖が実施されました。東洋らは、それを観察、描写し、記録にとどめたのです。
 「蔵志」には4枚の解剖図が掲載されていますが、人体の全容を記した図には首が付いていません。これは斬首体を解剖したからでしょう。明瞭な理由を知らないのですが、このあとも解剖される遺体は斬首されたものに限られていたようです。
 
 山脇東洋と子息、弟子らが解剖した遺体は、幕末までに14体に上りました。
 その人々の戒名は、誓願寺墓地にある解剖供養碑に刻まれています。

 山脇社中解剖供養碑

 山脇社中解剖供養碑
   解剖供養碑(誓願寺墓地)

 右上に記された利剣夢覚信士が屈嘉の戒名です。ここにある「夢覚」の語は、迷妄の中にあった人体の謎を解いてくれた、すなわち夢から覚ましてくれた人、という意味だといいます。
 
 14人には4名の女性も含まれています。
 いずれの戒名にも、「剣」や「刃」の文字が入っていて、これは解剖の刃によって腑分けされたということを示すものなのでしょうか。

 東洋は、最初の解剖の1か月後、屈嘉の慰霊祭を行いました。
 そして、「蔵志」の附録として「夢覚[屈嘉の戒名]を祭る文」で、その思いを語っています。

 斬死者の遺体を引き受けた東洋らは、「寸絶余すところなき」ほどに、つぶさに解剖を行いました。その成果は大きなものでしたが、思えば屈嘉とは生前、一面識もありません。その彼が、自分たちの積年の疑問を晴らしてくれる功労者となったのです。
 このことに畏敬の念を払った東洋は、誓願寺の随心庵に位牌を安置し、その後も月命日の供養を行い続けました。

 東洋と屈嘉。実に不思議な縁です。
 ひと月目の供養の祭文でも述べられているように、生前の屈嘉のことは何も知らず、また死後の彼は斬首されたためにその顔を見ることもできませんでした。その人が自分たちの学問を大きく進める恩恵を与えてくれるとは。

 六角獄舎跡の碑と誓願寺墓地の供養碑を見ると、人の生と死の尊さ、不思議さに首を垂れる思いです。

 山脇社中解剖供養碑
  山脇東洋墓所と解剖供養碑(誓願寺墓地)




 六角獄舎跡

 所在 京都市中京区六角通神泉苑西入ル因幡町
 見学 自由
 交通 地下鉄「二条城前」、JR「二条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 山脇東洋「蔵志」1759年(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 富士川游『日本医学史綱要 1』平凡社、1974年
 森谷尅久『京医師の歴史』講談社現代新書、1978年
 中山清治「解剖学の先駆者山脇東洋の史跡を訪ねて」(「東京有明医療大学雑誌」vol.1、2009年 所収)


日本最初の解剖を行った医師・山脇東洋の墓所は、新京極の裏側、誓願寺墓地にある





誓願寺墓地


 新京極の裏は墓地

 毎日、修学旅行生や観光客でにぎわう新京極。
 この繁華街自体は、明治5年(1872)に開かれたもので、それ以前は市街地東端の「寺町」でした。

 そのため、現在でも寺院が多く、その裏手には墓地がたくさん残されています。

 この界隈で、江戸時代、大きかった寺院は、四条上がるにあった金蓮寺(四条道場)と、三条下がるにあった誓願寺でしょう。

 誓願寺
  誓願寺

 浄土宗の誓願寺(せいがんじ)は、現在は新京極六角にあります。
 しかし、かつては三条通まで境内が広がる大きな寺院でした。およそ、三条新京極あたりに北門があったといいます。

 新京極
  三条新京極の坂道、通称「たらたら」 

 そのため、誓願寺の墓地も、上の写真の左手に残されているのです。
 東は河原町通、北は三条通、西は新京極通に囲まれた一画で、映画館・MOVIX京都の東裏です。

 新京極

 MOVIX京都の北館と南館の間を東へ向かいます。左右にホテルがありますが、その突き当り。
 小さな門が開いています。

 誓願寺墓地

 門の脇に、「山脇東洋解剖碑所在墓地」の碑が立っています。
 ここが、誓願寺墓地の入り口で、日本で最初に人体解剖を行った医師・山脇東洋の墓所なのです。


 日本初の人体解剖を行った山脇東洋

 山脇東洋(1705-62)は、丹波亀山(現在の亀岡)に生まれ、医家の山脇家に入って医業を継ぎました。
 古医方の後藤艮山に学び、“親試実験”の精神を養いました。当時、解剖は未だ行われていなかったので、東洋は人間の内臓に似ているとされたカワウソを解剖していました。
 40歳代も終わりの宝暦4年(1754)、小浜藩医らとともに京都所司代へ解剖の実施を上申し、許可されました。

 閏2月7日、六角獄舎で日本初の解剖が行われました。刑死者の遺体が腑分けされ、東洋らはそれを観察、スケッチしました。解剖された遺体は、屈嘉という38歳の男で、凶悪な強盗犯だったため斬首に処せられたのでした。

 東洋は、5年後、この解剖での所見を「蔵志」として公刊しました。
 観察した臓器などについて簡潔に記述し、4枚の彩色図を掲載しています。

  『京医師の歴史』 森谷尅久『京医師の歴史』

 『京医師の歴史』の表紙には、その1枚が使用されています。
 全4図は、人体の全面を解剖した「剥胸腹図」、内臓を画いた「九蔵前面図」と「九蔵背面図」、背骨などの「背骨側面図」です。
 
 東洋は、すでに西洋の解剖図は見ていたようで、その知見に驚きを感じつつも、自らが観察したところを図示しました。
 とても単純な図で、誤っている部分もあるといいます。
 それでも「蔵志」の刊行は、杉田玄白らの「解体新書」(1774年)より15年も早く、先駆的な業績で高く評価されるべきものです。
 

   墓地の東洋墓

 誓願寺墓地
  誓願寺墓地

 いま誓願寺墓地にお参りすると、門を入って程近いところに、屋根をかけた山脇東洋夫妻らのお墓があります。

 山脇東洋墓所

 山脇東洋墓石
   山脇東洋墓

 山脇家の墓地は、深草(伏見区)の真宗院にあるそうで、こちらには東洋の御遺骨は納められていないようです。
 脇には、解剖された方たちの供養碑もあります。東洋は、解剖後に慰霊祭も行っていました。

  解剖供養碑
   解剖供養碑

 都会の喧騒の中に眠る誓願寺墓地。
 山脇東洋という人物は、余り有名ではないと思いますが、もっと知られてもよいのではないでしょうか。




 誓願寺墓地

 所在 京都市中京区新京極三条下る桜之町
 拝観 自由
 交通 京阪電車「三条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 山脇東洋「蔵志」1759年(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)
 富士川游『日本医学史綱要 1』平凡社、1974年
 森谷尅久『京医師の歴史』講談社現代新書、1978年
 中山清治「解剖学の先駆者山脇東洋の史跡を訪ねて」(「東京有明医療大学雑誌」vol.1、2009年 所収)


【大学の窓】スマホ時代に対抗する授業の工夫あれこれ

大学の窓




  キャンパス風景


 スマホや居眠り、大学生の生態が新聞にまで…

 今日(2014年11月6日)の日経新聞夕刊に、「学生 講義に集中を/大学、工夫でやる気醸成」という記事が出ています。

 授業中にもかかわらずスマホを見たり、私語をする、居眠りをするといった学生が後を絶たないため、大学側があの手この手で、授業に集中してもらおうと工夫している、というもの。

 たしかに、大学の先生と話していると、私語をしている学生を怒鳴りつけた、なんていう話を聞きますね。
 遅刻を注意する、帽子をかぶって受講している学生を叱る、などという場面は私も目撃したことがあります。
 私の同僚は、以前、ある大学に出講し、昼休み明けの授業を担当していたのですが、教室に入って授業を始めても“丼めし”を食べている学生がいて、激怒したといいます。

 居眠りは他の学生に迷惑をかけないからいいけれど、私語はうるさいからダメ、という話も、もう過去のもののよう。いまは、一所懸命勉強してもらうために、大学側が工夫する時代のようです。


  工夫あれこれ

 記事には、いくつかの事例が紹介されています。

 京都産業大学のある授業では、その日の座席をクジ引きで決めるそうです。
 ディスカッションする場面もあるようで、知らない相手だと緊張感をもって臨めるといいます。
 たしかに、任意に座らせると仲間同士で固まりますから、私語も増えるし、やる気が削がれますね。

 大阪成蹊大学のスポーツマネジメントの授業では、先生が事前に20分程度の“予習用動画”を作成し、You Tube にアップするので、学生はそれを見てから授業に出るそうです。

 えらいなぁ、この先生!

 毎週20分間の動画を作るなんて、すごい労力でしょう。
 それでも、思った以上に動画を見る学生が多いそうで、効果はあるようです。

 もちろん、授業をどう行うかという工夫は、昔から行われてきました。
 たとえば、近年話題になったものに、灘中学・高校で教鞭をとられた橋本武氏の「銀の匙(さじ)」の授業がありますね。出て来る言葉、事柄に着目して、それを生徒に調べさせて語彙力や知識をアップさせる方法です。
 
 私の大学での授業は、演習なので上記の話とは少々異なります。それでも、仕事柄、大人向けの研修で話すこともあり、また逆に受講者になることもあります。
 アトランダムな座席やディスカッションを取り入れた方式は、もはや当たり前。また、パワーポイントを使って視覚的に訴えるケースがほとんどです。
 パワーポイントは本当の理解力につながらない、といって反対する方もいますが、私も話をするときは積極的に使っています。それも、かなり多くの枚数のスライドを用意します。図表や写真を用いて、あきられずに、理解を助ける、という工夫(のつもり)です。

 みなさんは、この話、どう思われるでしょうか?
 手取り足取り、至れり尽くせりで、大学生なのに小学生みたい--という気もしますが……

 やっぱり教育は難しいです。


きょうの散歩 - お寺で秋の古本まつり - 2014.11.3 -





秋の古本まつり


 百万遍・知恩寺で「秋の古本まつり」

 毎年恒例、「秋の古本まつり」に行ってきました。
 京都古書研究会の主催。春(5月)は岡崎・みやこメッセ、夏(8月)は下鴨神社、そして秋(10~11月)は百万遍の知恩寺と決まっています。今年の「秋の古本まつり」は、10月30日から11月3日に開催。
 ここ1、2週間、仕事が忙しかったので、最終日にようやく訪れました。今年は天気がぐずついて、晴れた日は初日と最終日だけだったようです。

 秋の古本まつり

 まず、法然さんを祀る御影堂でお詣りしてから、各店をめぐります。
 秋は規模が小さくて、今年の参加は16店です。

 秋の古本まつり


 西国巡礼の案内記など

 今回は、あまり欲しい本がなかったので、買い物も少しになりました。
 
 『近畿の山々と史蹟巡り』 『近畿の山々と史蹟巡り』

 博多成象堂から昭和16年(1941)に出された『近畿の山々と史蹟巡り」。
 博多成象堂というから福岡の本屋さんと思いきや、主が博多久吉という人で、大阪市南区の書店のようです。
 この本を買った理由は、著者にあります。
 藤田元春という人が書きました。第三高等学校(三高)の教授で、専門は地理学です。『日本民家史』(1927年)という著書があって、これは先駆的な民家研究のひとつです。京都周辺の民家も取り上げていたと思います。
 全国的には、大正半ばに出来た柳田国男や今和次郎らの「白茅会」が著名ですが、藤田の仕事はもっと知られてよいと思います。京都では、このあと岩井武俊の『京郊民家譜』正・続が刊行されます。

 『西国三十三所観音霊場縁起と霊験記』 『西国丗三所観音霊場縁起と霊験記』

 こちらは、大竹仙太郎編『西国丗三所観音霊場縁起と霊験記』。昭和4年(1929)に刊行されました。
 本書は、兵庫県の中山寺(西国24番)の大師堂にある「西国三十三所御砂巡道」の道場にある霊験画軸を本にまとめたものだといいます。

 そういえば、以前、中山寺に行ったとき、一番奥にある大師堂に御砂踏みがあり拝観したのを思い出しました。

 この本は、各寺の本尊や御詠歌、縁起、霊験などを記しています。庶民向けですから、平易というか、ちょっと俗っぽい感じですね。

 『西国三十三所観音霊場縁起と霊験記』 革堂の部分

 霊験譚は、絵入りです。でも、その絵がヘタウマで泣かせます。
 お話も、おもしろいです。

 ためしに、第10番・三室戸寺の霊験をご紹介しましょう(大意です)。

 昔、宇治の里に、一人の器量のよい娘がいた。殊勝にも幼少より三室戸寺の本尊を信心し、そのうえ慈悲の志も深かった。そのため、村の悪童らがおびただしい小蟹を取って無残にも殺生しているのを見て、憐れに思い、子供らに銭を与えて買い取り、蟹を放生してやった。

 ある日、いつものように寺のご宝前で参拝していると、この山に住む大蛇が娘に懸想して取り付こうとし、美少年や若武者に姿を変えて現れた。しかし、娘は観世音の信心が厚いので、どうしても望みを達することが出来なかった。
 ところが、不思議なことに、助けてやった小蟹がたくさん出てきて、大蛇に集まり、ついにハサミで切り殺したという。

  三室戸寺の霊験譚 カニが、まとわりつく

 これは全く観世音菩薩の威神力と、助けられた小蟹らの報恩によるもので、それで難を逃れたのである。
 伝説では、蟹は本尊の使いということで、寺の別名を「蟹満寺」というのも道理である。(54-56ページ)


 そうか、どこかで聞いた話と思ったら、南山城の蟹満寺の縁起譚と共通なんですね。

 というように、何冊かの古書を買って、久しぶりにのんびりした秋の一日でした。




 知恩寺 (秋の古本まつり会場)

 所在 京都市左京区田中門前町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電鉄「出町柳」下車、徒歩約15分