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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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お百度参りは、祈願の個人化によって誕生した

洛西




梅宮大社


 この棒は?

 先日、松尾大社(京都市西京区)を訪れた際、拝殿の前にこんな木の箱が置かれていることに気付きました。

 松尾大社

 なかをのぞきこんで見ると、

 松尾大社

 竹の棒が、無造作にたくさん入れられていました。

 これは、いったい何なのか?

 貼り紙には、こう記してあります。
 「お願い  御千度串入れに付、古神札等を入れないで下さい」

 お千度串。

 つまり、千度参りをするとき、何回拝礼したかを数えるための串(棒)なのです。

 松尾大社
  松尾大社


 百度参りと千度参り

 そのあと、桂川を渡って、梅宮大社に参拝しました。

 梅宮大社
  梅宮大社

 すると、こちらには拝殿の右側に、このような場所がありました。

 梅宮大社

 ふたつの石の間が石畳になっています。
 向こうの石には「百度石」と彫られていますので、ここを往復して百度参りをするということのようです。

 手前の石には、

梅宮大社

 このような札が。
 百度参り用の「こより」は、社務所で100本100円で売られている旨が記され、「従来の竹串」は手水舎の後ろにあると書かれています。

 そこで手水舎に行ってみました。
 すると、ありました。

 梅宮大社

 「お百度参り竹串在中/ここへ古札やごみを入れないで下さい」と書かれています。

梅宮大社

 なかには竹串が入っていて、小分けに結えてあります。

 松尾大社は千度参り、梅宮大社は百度参り。
 回数は違いますが、近くの神社だけに細かいところは似ていますね。

 江戸時代の人も、お百度やお千度を踏んだわけですが、絵で見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺
 「花洛名勝図会」(1865年)より「頂妙寺二天門」

 これは、洛東にある頂妙寺の仁王門(二天門)のようすを幕末に描いたものです。
 門に祀られた持国天と多聞天が広く信仰を集めていたので、人々が時計回りに門を回って参拝しています。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺

 拡大すると、左の女性は右手に「こより」を持っています。これで回数を勘定しているのです。
 「花洛名勝図会」には、このように記されています。

 此[この]尊天、霊験あらたなるが故に、陰晴をいはず朝より暮に至るまで、詣人しばしの間断なく、老若男女群つどひて、かちはだしにて門をめぐり千度をうつことおびただし

 裸足で門を回って「千度」を打っている、というのです。
 これを読むと、梅宮大社の百度石のところに敷石があったわけがわかるでしょう。たぶん、裸足で百度参りする方がいるのだと思います。

 頂妙寺の仁王門について以前書きましたので、ご覧ください。 記事は、こちら! ⇒  <仁王門通の由来である頂妙寺とナゾの絵>


 柳田国男の説

 百度参り、千度参りのあり方や変遷について、民俗学者・柳田国男は「千駄焚き」という文章の中で、興味深い説を述べています。

 柳田によると、神への祈りは、もともとは村などの共同体で行われるものでした。それが、時代を経るにつれて、「個人祈願」、つまり「一人限りの願ひごと」を神さまに頼むようになったのです。

 千度参りについては、次のように述べています。

 斯ういふ信心の最も明らかに顕はれて居るのは、村で大事な氏子が大病にかゝつて命危いときに、多くの人が出て祈願をする千度参り、又は数参り度(たび)参りともいふものであるが、是なども最初はもつと弘く、村に何事か大きな憂ひ事が有る場合、殊に五月六月におしめりが無くて、田が植ゑられなくて苦しむ時などの方が多かつた。
 女や子供までを加へても、村では千人といふ人は中々揃はない。多分はめいめいが二度も三度も、還つては又御参りに行くので、千といふのは精確で無くとも、実際は千度よりも多く、一日の内に神様の前に出て、口々に同じ言葉を申し上げて、神様を動かそうとしたことゝ思ふ。(『定本柳田国男集』21、396ページ)


 ここから分かるように、千度参りは、もとは一人で千回お参りするのではなく、千人、あるいは多人数でお参りすることを指していたのです。

 隠岐島の海士(あま)村などでは、この日の祈願に先だつて、浜の小石を千個だけ拾ひ寄せて、めいめいがそれを一つづゝ手に持つて、御参りしては拝殿に置いて来るさうである。(同)

 千個の小石を数を数える道具にしています。
 しかし柳田は、「この浜の小石といふのは、本来はたゞの数取りではなかつたのである。すなはち海の潮を以て、まづ身と心を潔くしてから、祈りを神に申すといふ意味があつた」と指摘しています。
 こういったことは水垢離(みずごり)の一種ですから、「千度垢離」とか「千願垢離」と呼ぶ場合もあったようです。

 しかし、時代とともに、お百度やお千度も、ひとりで百回、千回行うものと解釈されるようになってきました。

 ところがこの千度参りの人の数といふものは、実際は段々に少なくなつて来て居る。殊に交際の限られた都会の人々などは、御百度はたゞ一人で踏むものと思ひ、何べんも同じ処へ行くことを、御百度を踏むといふ諺[ことわざ]さへ有る。
 大きな御社の鳥居の脇には、御百度石といふ石が立つて居て、手に数取りの紙縒[こより]や竹の串を持つて、脇目も振らずにそこと社殿との間を、往き返りする人を毎度見かける。是も病人の為か、又は遠い処に居る旅人の為かの、切なる願ひ事であることは同じなのだが、今ではそれがもう純然たる個人祈願になつてしまつて居るのである。(398ページ)


 ひとりでお百度やお千度を踏むという信仰が、都市的で近代的な営為だとは、少し意外な感じがします。
 ただ、祈願内容が個別バラバラになってくる都市社会では、さまざまな神さまが並立するとともに、流行神なども生まれます。そんな中で、百度参りや千度参りが行われるのも、うなずけるでしょう。

 なお、柳田は、仲間で「続けて数多くの宮を巡つてあるく」百社参り、千社参りの風も紹介しています。
 いま私たちが知っている「千社札」は、元来は千社参りの人々が貼付した札でした。

 今日、お百度参りがはやるのも、柳田の説に立てばよく理解できます。




 梅宮大社

 所在 京都市右京区梅津フケノ川町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「梅宮大社前」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1865年
 柳田国男「千駄焚き」(『村と学童』所収)、『定本柳田国男集』21、筑摩書房、1962年


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サッカー・三浦知良選手に学ぶ !?  文化財の愉しみ方

京都本




  三浦知良『やめないよ』  三浦知良 『やめないよ』 新潮新書


 “キング・カズ”の哲学に学ぶ

 今日は、仕事で奈良へ。
 奈良は、京都と並ぶ文化財の宝庫。少し文化財の楽しみ方について考えてみようと思います。

 そこで、ちょっと意外な視点から。
 サッカ-選手、“カズ”こと、三浦知良選手の言葉に着目です。

 三浦選手は、日本経済新聞に「サッカー人として」というコラムを持っています。
 2006年から現在まで続いていて、2010年までのものは、新潮新書に『やめないよ』というタイトルで収録されています。
 私は、いつもこの連載に感心しきり。三浦知良、世間ではチャラい人と見られているかも知れませんが、どうしてなかなか、しっかりした哲学を持った大人です。

 今回注目したのは、「基本を押さえて楽しむ」(2009年6月26日掲載)という5年前のコラム。今となっては、どういう理由か忘れたけれど、私はこの回を切り抜いていました。

 何事もこだわり始めるときりがない。僕の場合はファッションがそうで、今はスーツもシャツもベルトも靴も、決まった職人にオーダーで作ってもらっている。
 (中略)
 スーツの選び方一つでも考え方はいろいろ。スーツを引き立たせるには、いいシャツとベルトが必要。そこがダメだと、どんな高価なスーツも意味がないという人もいる。スーツに靴を合わせるんじゃなくて、靴に合ったスーツを選ぶという考え方もある。(182-183ページ)


 靴に合ったスーツを選ぶという、実に魅力的で、でも普通の人はなかなか思い付かない逆転した考え方をサラっと言ってしまう。これがカズ流。
 
 イタリア・ファッション界の重鎮と呼ばれる人たちにアドバイスを求めると、決まって「君が気持ちよく、楽しく着れればそれでいいんだよ」という答えが返ってくる。これはサッカーでも同じで、達人の域に達した名選手は戦術がどうとかよりも「自分が楽しむことが大事」と言うものだ。(183ページ)


 文化財も「自分が楽しく見られればいい」

 この言葉を聞いて思うのです。

 文化財や史跡というと、どうしても難しく考えがちです。
 けれど、文化財を見るときも、自分が楽しく見られれば、それでいいんじゃないか、と。

 そんなに肩肘張って構えることもないわけです。

 どんなに突き詰めても極められることではない。いい線まで来たと思っても、後で考えると全然わかっていないもの。サッカーも毎年新しい発見がある。(同)

 そのたびごとに新しい発見がある、というのはいいですね。
 お寺に行っても、毎回ちがった発見があったら、楽しいと思います。

 そのためには、どうするか?

 カズは、言います。

 ファッションもサッカーも、何が正解で何が間違いというものじゃない。ただ、だからといって何でもOKというわけじゃない。基本ができていないと何をしてもダメ。基本をしっかり押さえたうえで、自分の色を出して楽しむ。それが一番難しいことなんだ。(同)

 言いえて妙。まさに、その通りですね。


 “本”を見ながら、“本物”を見る

 では、文化財や史跡に接する際に、「基本をしっかり押さえたうえで、自分の色を出して楽しむ」には、どうすればよいのでしょうか?
 一番の近道は、現地で本を開きながら実物を見る、という方法です。

 そのとき、優れた“先達”になってくれる良き案内書が必要です。
 ただし、あまりにやさしいガイドブックは役に立たないもの。専門家が書いた、詳しいものを選びましょう。

 例えば、私が好きな「建築」分野でも、多くの良書があります。
 今日は、奈良行きということで、カバンに入れたのが、この本!

  太田博太郎『奈良の寺々』 太田博太郎『奈良の寺々』 岩波ジュニア新書

 建築史学の泰斗・太田博太郎先生の『奈良の寺々』です。
 30年以上前に書かれた本なので、古書で求めるしかないのですが、古建築を見る上で大変勉強になる本です。
 ジュニア新書なので、高校生や大学生が対象と思われますが、大人が読んでも大丈夫です。

 例えば、古代の寺院建築について述べるなかで、「長押(なげし)」に関して、次のような記述があります。

 出入口は平らな厚い板を用いた板扉(唐戸)です。板扉は軸になるところを丸く造り出し、上下の長押に穴を彫って入れ、両開きにします。
 長押は本来は扉を入れるために、柱と柱の側面に打ったものですが、これによって軸部を固めることができるので、扉のないところにも打つようになりました。(25-26ページ)


 なにげない記述ですが、扉を取り付けるための装置としての長押の発生が説明され、それが後に建物の構造を強化するための部材になっていくことを解説しています。

 かなりページが進んでいくと、また別のところで長押のことが出てきます。

 貫[ぬき]が入って、軸組を長押で固める必要がなくなると、長押はいらなくなります。しかし、扉はなにかに釣らなければなりません。そこで貫の側面に木をうちつけ、これに扉の軸受けの穴を彫って扉を釣りこみます。この木を藁座(わらざ)といって、飾りのため繰形[くりかた]をつけています。(131ページ)

 これまた、さりげなく書かれていますが、扉の取り付け部分が長押から藁座へと移っていくさまを簡潔に説明しています。

 もちろん、このように言葉だけで読むと、ちょっと分かりづらいですよね。でも、現地で実物を見れば、簡単に理解できます。

 東寺講堂
  東寺講堂(室町時代)

 東寺の講堂の扉です。
 扉の上部に注目すると、横長の材に扉が取り付けられているのが分かります。これが長押です。
 下部をよく見ると、扉の幅だけの長押がありますね。

 また、一番左端(角)の柱を見ると、長押が柱をかんでいるのが分かります。これが、軸部を固めている(柱を押さえつけている)様子が表れています。

 一般に長押は和様の建築に用いられますが、この東寺では、貫が多用されるはずの大仏様の金堂にも長押が用いられています。ぜひ現地で確認してみてください。

 次は、藁座です。

  妙心寺仏殿
  妙心寺仏殿(江戸時代)

 扉の上部を見ると、デコボコのある出っ張りに扉が取り付けられているのが分かります。この出っ張っている部材が藁座です。
 下部にもあります。
 太田先生が「飾りのための繰形」と言われている「繰形」は、このデコボコを指します。

 妙心寺は臨済宗ですが、一般に禅宗様の建築は、藁座に扉を付けるスタイルが基本です。

 という感じで、現地に行く代わりに写真で見てみましたが、本を片手に実地学習してみると、基本がすぐに分かります。
 『奈良の寺々』は、具体例に法隆寺や薬師寺を上げていますが、京都の寺院でも、もちろん通用する知識です。
 
 そこが押さえられたら、カズが言うように「自分の色を出した」見方をしてみましょう。
 本を見ながら、実物と照らし合わせて、「ここに書いてあるのは、この部分のことか」などと考えていると、ドンドン頭が回転するようになって、いつのまにか自分なりの考えも生まれてきます。
 そうなれば、文化財や史跡の見学も、さらに愉しめるようになるでしょう。




 【参考文献】
 三浦知良『やめないよ』新潮新書、2011年
 太田博太郎『奈良の寺々 古建築の見かた』岩波ジュニア新書、1982年


江戸時代の京都ガイド本「京城勝覧」に沿って、三条大橋から嵯峨・嵐山へと歩いてみた - 後編 -

洛西




嵯峨大念仏狂言


 嵯峨の田園を歩く

 前編では、三条大橋から広沢池までの行程をご紹介しました。後編では、さらに歩を西へ進めます。ここまで、すでに10km近い歩行距離です。

 広沢池
  スタートから約10kmの広沢池 愛宕山を遠望

 広沢池の南西角に児神社があり、その西の分岐を右へ入って行きます。

 千代の古道
  右が「千代の古道」

 これが、「都名所図会」などにも紹介されている“千代の古道”だと、道標は示しています。田んぼの中を、ぐねぐねと曲がっていく道です。

 それにしても、このあたりの田園風景は美しいですね。
 “京に田舎あり”という言葉が思い浮かびます。のどかな景色で、「京城勝覧」の著者・貝原益軒もこんな風景を見たのでしょうか。

 嵯峨の田園
  嵯峨の田園

 嵯峨の田園

 その道沿いに、ユーモラスな案山子が!
 案山子コンテストに出された作品だそうで、今年(2014年)の流行をうつして、「ダメよ、ダメ、ダメ」の案山子が目立ちます。
 
  千代の古道

 高い梢で鳴くモズの声を聞きながら、大覚寺へ到着。
 9時45分。
 ようやく観光客も増え始めました。

 大覚寺
  大覚寺


 清凉寺へ

 今日は先を急ぐので、大覚寺には入らず、そのまま西へ進みます。
 やはり、ところどころに田畑が残り、ここが京都市内かと思わせる茅葺民家もありました。

 嵯峨の茅葺民家

 『京郊民家譜』などに登場しそうなお宅ですね。

 そして、清凉寺へ。
 嵯峨の釈迦堂として知られる古寺です。

 清凉寺
  清凉寺(釈迦堂)

 時刻は、ちょうど10時。
 広沢池から約2.3kmです。出発した三条大橋からは、およそ12kmになりました。昔風に言うと3里で、ひたすら歩き続けると3時間の道程ということになります。

 清凉寺
  「栴檀瑞像」の扁額(隠元筆)

 清凉寺を「釈迦堂」と呼びならわすのは、ご本尊が釈迦如来だからです。三国伝来の瑞像として著名で、江戸時代には大人気となり各地の出開帳に大忙しでした。
 僧・奝然(ちょうねん)が中国の宋に赴き、そこで模刻した像を寛和3年(987)に持ち帰り、祀ったものです。
 モデルになった仏像は、優填王(うでんのう)が刻んだとされるお釈迦さまの姿で、仏教史上“最初の仏像”とされ、とりわけ篤く信仰されました。そのため、清凉寺の像も深く信心されたのです。

 ご参考までに、この像については、こちらの記事をご覧ください! ⇒ <嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い(その1)>  < 同 (その2)>


 嵯峨大念仏狂言に遭遇!

 ちょうど秋の公開期間だったので、本堂に上がって、釈迦如来を拝しました。
 立派な厨子に入っておられ、切れ長の目が特徴的な独特のお顔と、波打つような衣紋を持ったタイトな衣が印象的です。

 しばらくお詣りしたあと、堂を後にすると、寺内に何やらマイクの声が響いています。かまわず御手洗いに行こうとすると、なんと、手洗いの横(失礼)で、「嵯峨大念仏狂言」が始まろうとしているではありませんか!
 ちょうどこの日は、秋の公演の日で、西門の脇に狂言堂があるのでした。

 午前10時半。なんという幸運でしょう。
 ここは時間を気にせず、最後まで拝見することにしました。

 嵯峨大念仏狂言
 
 嵯峨大念仏狂言は、弘安2年(1279)に円覚上人(道御)によって始められた大念仏に由来し、その教えを広めるために創始された宗教的な無言劇です。
 少なくとも室町時代には行われており、江戸時代には能や狂言の影響を受けながら充実していきました。京都では、壬生狂言や千本えんま堂大念仏狂言とともに、よく知られています。
 昭和61年(1986)に、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 文化庁の国指定文化財等データベースより、解説文を引用しておきます。

 嵯峨大念仏狂言は清凉寺(嵯峨釈迦堂ともいう)の法会に行われる狂言で、鎌倉時代末、京都で円覚十万上人が遊戯即念仏の妙理を広めるために始めたという三大念仏狂言(壬生・嵯峨・千本)の一つであり、狂言の演じられる大念仏会は能の「百万」という演目にも扱われている由緒あるもので、所蔵狂言面には天文18年(1549)在銘のものがあるなどこの狂言の歴史の古さが知られる。

 能楽ことに狂言の変遷過程を知る上にも重要な芸能史的価値の高いものである(昭和39年からは後継者養成が困難なため一時中断されたが、昭和50年に復活され、従来の演目を今日では充分な状態で上演できるようになった)。

 この嵯峨大念仏狂言は、清凉寺狂言堂で無言劇として演じられる。演目は、「夜討曽我」、「羅生門」などカタモンと称される能風の演目12番、「愛宕詣」、「餓鬼角力」などヤワラカモンと称される狂言風の演目12番とがあり、演技、曲種とも壬生狂言に似ているが、「釈迦如来」の演目は、ここ嵯峨のみの独自の演目であり、全体的に壬生狂言より、おおらかな古風さをよく保存しているものとして重要である。


 
 子供が演じる「蟹殿」を見物

 午前の部は、子供たちが演じる狂言でした。演目は、「蟹殿(かにどん)」。いわゆる“猿蟹合戦”の筋のようです。

 嵯峨大念仏狂言
  「蟹殿」

 鉦(かね)、太鼓、笛で行われる囃子(はやし)は、「カンデンデン」で知られるリズムです。
 せりふが全くない無言劇なので、さすがにストーリーは十分つかめません。

 額縁のようになった横長の舞台には、右端に柿の木があり、実が成っています。これを猿が取りに来ます。蟹も取りたいけれど、うまく取れない--といった感じのようです。
 
 面を付けて演じるのですが、頭上に、蟹とか臼とかを載せて、それが何の役か一目瞭然に分かるようにしています。

  嵯峨大念仏狂言
  頭上に蟹を付けている(右)
 
 また、舞台の上に綱が張ってあり、そこにぶら下がる場面や、舞台から下方へ飛び降りる場面など、アクション的にも充実。上演時間も40分ほどあり、本格的です。
 
 後半は、猿に親蟹を殺された子蟹が、臼、栗、鋏(はさみ)に助力を得て、敵討ちするくだりです。

 嵯峨大念仏狂言

 倒れた猿の上に、臼がドーンと飛び降り、さらに蟹と臼が刀で猿を斬る! という、意外にリアルな演出。
 そのあと、猿の首を掻き切って掲げます。

  嵯峨大念仏狂言 首を掲げる臼

 おそらく昔の人達は、話の筋を教えたり教えられたりしながら、見物していたのでしょう。
 子供さんが演じた狂言とは思えない、立派な舞台でした。

 嵯峨大念仏狂言

 見終えて、明治時代に建ったという狂言堂の修復のため、瓦代の寄進(ほんの少し)をして、先を急ぎます。

 嵯峨大念仏狂言
  清凉寺 狂言堂


 雑踏する秋の嵐山
 
 貝原益軒が、嵯峨から嵐山で見るべしという名所は、次の通りです。

 ○大沢の池
 ○名社(なこそ)の滝の跡
 ○釈迦堂[清凉寺]
 ○往生院[祇王寺]
 ○三宝寺
 ○二尊院
 ○小倉山
 ○野々宮[野宮神社]
 ○天竜寺
 ○大井川[大堰川]
 ○嵐山
 ○臨川寺
 ○法輪寺
 ○櫟谷(いちゐたに)
 ○大悲閣


 これだけ回るのに、何時間かかるのか!
 今回は、清凉寺以外は門前通過としました。

 清凉寺の西門を出て、二尊院、さらに西へ。

 落柿舎
  落柿舎

 落柿舎の遠望。
 秋らしく美しい風景です。これだけ綺麗だと、入らなくても満足。

 嵐山竹間の小径

 竹藪の中を抜ける小径を進むと、少し混雑が……

  野宮神社の斎宮行列(準備)

 山陰線の踏切。平安時代と現代との融合のような光景ですが、実は、この日は野宮神社の斎宮行列があったのでした。

野宮神社
  野宮神社

 このあと、嵐電の駅から渡月橋までも、ものすごい人出でした。
 清凉寺から嵐山・渡月橋まで、約2km。スタートから14kmほど。
 時刻は、11時50分。
 ようやくお昼前で、三条大橋から4時間が経過していました。

 渡月橋
  渡月橋
 

 旅のゴールは、松尾大社

 渡月橋を渡り、十三まいりで有名な法輪寺を過ぎると、観光客の姿はなくなります。
 阪急嵐山駅の方には行かず、まっすぐ南下する古そうな街道を進みます。

 松尾大社への道
  渡月橋から松尾大社への道

 曲がりくねった道を約2km進むと、松尾大社に到着です。

 松尾大社
  松尾大社 楼門

 時刻は、12時15分。
 6時50分に歩き始めてから、5時間25分経っていました。歩いた距離は、およそ16km。ちょうど4里あったことになります。
 
 お祭りを見て、清凉寺をお詣りした上に嵯峨大念仏狂言まで見物したのですから、意外に早かった? というべきでしょうか。

 貝原益軒の「京城勝覧」では、松尾大社について、こう記されています。

○松尾  法輪寺より四、五町南にあり。明神のやしろあり。是より京に帰るに大井河を舟にてわたり、梅津にゆくべし

 なるほど、橋が架かっていないので、渡し船で戻るのですね。

 松尾大社
  大学生たちと松尾大社を参拝

 ひとりぼっちでも愉しかった小旅行を終え、午後1時からは60人ほどの大学生、教員のみなさんと、松尾大社、梅宮大社、蛇塚古墳を回りました。
 私達は、午後4時前に、そこまでで終了したのですが、本来の「京城勝覧」のルートでは、京への帰途に太秦・広隆寺や、蚕ノ社として知られる木の島(このしま)神社も参拝する予定になっています。

 私もよく歩く方だと思いますが、さすがに貝原益軒の健脚には、かないません。




 清凉寺

 所在 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
 拝観 境内自由(本堂などは有料) 嵯峨大念仏狂言は無料
 交通 JR山陰線「嵯峨嵐山」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 「京城勝覧」(『新修京都叢書』所収)
 『嵯峨狂言』嵯峨大念仏狂言保存会、1997年
 『京都市の文化財[民俗文化財]』京都市文化観光局文化部文化財保護課、1992年
 『京都府の歴史散歩 上』山川出版社、2011年
  国指定文化財等データベース(ウェブサイト)、文化庁


江戸時代の京都ガイド本「京城勝覧」に沿って、三条大橋から嵯峨・嵐山へと歩いてみた - 前編 -

洛西





妙心寺北門前の祭礼準備


 「京城勝覧」に沿って歩く

 江戸時代の儒者・貝原益軒が著した京都ガイドブック「京城勝覧」。
 いまから300年も昔の宝永3年(1706)の書物です。

 今回は、この案内書に紹介された第7日のコースを歩いてみることにしました。嵯峨、嵐山をめざして観光するコースです。
 以前、伏見に行くコースや、宇治に行くコースも歩いたことがあります。
 特に、三条大橋から伏見に行って、また戻ってくるルートは、とても長くて日が暮れてしまいました。

 今日は、第7日を完全に歩くわけではなく、前回ご紹介した事情で、三条大橋-松尾大社に限って歩くことにします。
 それでも、全体(5里半=約22㎞)の2/3ほどに相当すると思います。

 
 早朝、三条大橋をスタート

 三条大橋

 2014年10月19日、日曜の朝、6時50分。
 三条大橋を西へ向かってスタートします。

 この日は見事な秋晴れで、雲一つない快晴。このあと登場する写真も、すべて青空になりました。

 三条通

 まずは、三条通をひたすら西へ。にぎわう河原町三条あたりも、日曜の早朝だと、この通り。
 堀川まで西進しました。

 「京城勝覧」が、最初に紹介する名所旧跡は、内野(うちの)です。

○内野  一条の南の野也。今ハ民家立て野ハなし

 「内」とは、天皇が住まいする内裏(だいり)を意味する言葉で、「大内」などとも言います。
 ここで益軒が指すのは、もちろん平安京のもの。
 内裏が建っていた場所も、時代がくだるにつれて荒廃し、野原になってしまいました。それを“内裏の跡の野原”という意味で「内野」と呼んだのです。

 平安京の内裏は、現在の千本丸太町の北東にありました。
 北西には、大極殿跡を示す記念碑も建っています。

 千本丸太町(平安宮跡)
  千本丸太町の交差点には、平安宮跡の案内板も

 今日は、千本丸太町の交差点を通過したということで、内野を見物したことにしましょう。
 ここで、まだ7時30分。距離にして、約3.7kmです。


 妙心寺につづく御旅商店街

 次の行先は、妙心寺になっています。
 円町(西大路丸太町)から北上して、西大路通と下立売通の交差点にやってきました。
 このあたりは母の実家の近くで、これから歩く商店街は、みんな「おたび」と呼んでいました。

 漢字で書くと「御旅」。
 商店街名は、天神御旅商店街となっています。

 天神御旅商店街
  天神御旅商店街
 
 実は、この道沿いには北野天満宮の御旅所があり、それに由来する名前でした。
 久しぶりに歩くと、懇意の呉服屋さんや法事を行った料亭などが今もあって、懐かしいですね。

 北野天満宮御旅所
  北野天満宮御旅所

 この道をまっすぐ西に進むと、まもなく妙心寺です。


 今宮神社の祭礼に遭遇

 江戸時代の歩く旅をトレースすると、とにかく時間がありません。
 今日は、松尾大社に午後1時に到着しなければならないので、あまり寄り道はできません。

 ところが、妙心寺の手前の民家で、こんなものと出会いました。

 今宮神社祭礼

 お祭りですね。秋の日曜日ですから。

 今宮神社祭礼

 近づいてみると、これは剣鉾(けんぼこ)です。
 京都の神社の祭礼で用いられる祭具の一種。
 先端に剣が付いていますが、武器というよりも、悪霊退散を願う祭器と考えられるものです。古くは御霊会に端を発するものでしょうから、祇園祭の鉾と同じ意味を持つ、ということになります。

 通常は、神輿の渡御とともに巡行すると思いますが、こちらの場合は据え置いておく形ですね。

 ご参考のため、『京都市の文化財』から、剣鉾についての説明を引用しておきましょう。

  祭礼の神輿渡御の先導に鉾を出すのは、京都の祭礼に古くから見られる風俗で、鉾本来の形態である長い棒の先に金属製の剣を付けるという形状のものは、一般に剣鉾の名称で呼ばれています。

 現在見られる鉾祭の形態が、直接的に史料に見られるのは室町時代初頭で、絵画資料では、上杉家本「洛中洛外図」屏風に御霊社の剣鉾渡御が描かれています。

 この剣鉾は、神輿渡御に際して人が差して神輿の前を渡りますが、鉾を車屋台のうえに載せる祇園会と比べて原初的であるといえます。(21ページ)


 ここは木辻北町町内会だそうで、幡には橘の紋が入っています。そして上部の額には「今宮大明神」とあり、これは今宮神社の祭礼らしい……

 ちょうどお宅のお嬢さんが出てきたので、この今宮神社ってどこ? と尋ねてみると、親切に場所を教えてくれました。中学生だと思うのですが、その教えてくれ方が丁寧で、これもお祭りを担う人たちの誇りなんだろうと感じました。

 今宮神社は、妙心寺の南側を少し入ったところにありました。
 行ってみると、今まさに子供御輿が出発するところでした。

 今宮神社祭礼

 地域の小学生が、狭い境内に集まっています。
 そして神輿の渡御。

 今宮神社祭礼

 今宮神社祭礼

 子供が担ぐのではなく、あとを付いていくみたいな形らしいのです。
 朝8時。
 この今宮神社は旧村社で、今日はその神幸祭でした。午後は、大御輿の巡行となります。


 妙心寺から仁和寺へ

 まったく予定外でしたが、30分ほど祭礼の様子を見ていました。これも旅の愉しさでしょうか。
 再び、妙心寺門前へ戻ります。

 妙心寺
  妙心寺総門

○妙心寺  禅宗五山の外、大徳寺、妙心寺を大寺とす。京都下立売通を西にゆけバ、妙心寺の南門の前にいたる。南の門より入て北門に出、西へ三町程ゆけバ、仁和寺にいたる。

 私が先ほど歩いてきた天神御旅商店街は下立売(しもだちうり)通でしたが、そこに面する妙心寺の南門から入って、お寺の中を突っ切って北門に出る、というのです。
 なるほど。寺内を見学しつつ仁和寺へ向かうわけです。

 妙心寺
  妙心寺 仏殿と法堂

 妙心寺

 北側の塔頭の間を歩くと、遠くに丸い山が見えて、あれが御室の大内山かなと思ったりします。
 生新な朝の風景。
 8時35分、妙心寺の北門に着きました。

 ここで道路は分岐し、右手のバス通りを進みます。

 妙心寺北門前

 すぐに嵐電(らんでん、京福電鉄)の妙心寺駅の踏切に至ります。

 嵐電「妙心寺」駅

 ゆるやかな坂道をのぼると、まもなく仁和寺です。
 この間、5分ほど。

 仁和寺
  仁和寺

 時刻は、8時40分。
 三条大橋を出発してから2時間足らず。お祭りも見て、この時間です。あまり遠いという感じにはなりません。
 三条大橋から仁和寺まで、距離にして約7.5kmです。


 御室から広沢池へ

 仁和寺のある御室(おむろ)の次は、嵯峨(さが)が目的地です。
 益軒の書物には、一旦、常盤(ときわ)の方に南下して嵯峨へ行く道筋を紹介しています。
 しかし現在では、御室から西へ進み、福王子の交差点を経て、鳴滝を越えて行くルートがあります。たぶん江戸時代にはない道だとは思いますが、時間短縮のため通ることにしました。

 福王寺

 福王子の交差点。
 右へ行くと周山街道に、まっすぐ行くと鳴滝です。今日は鳴滝の方へ。
 その先には少しアップダウンがあり、山越に至ります。

 山越
 鳴滝から山越へ 長い下り坂

 坂を下り切ると景観が変り、広沢池が現れます。

 広沢池
  広沢池

 仁和寺からおよそ2.2km、三条大橋から約9.7kmです。
 まだ9時15分。
 おだやかな日曜日の朝ですが、この先は景色ものどかな田園風景になっていきます。

(この項、つづく)



 妙心寺

 所在 京都市右京区花園妙心寺町
 拝観 境内自由(法堂などは有料)
 交通 JR山陰線「花園」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京城勝覧」(『新修京都叢書』所収)
 『京都市の文化財[民俗文化財]』京都市文化観光局文化部文化財保護課、1992年
 『京都府の歴史散歩 上』山川出版社、2011年



きょうの散歩 - 三条大橋から、嵐山・松尾大社まで、江戸時代のガイドブックに沿って歩いてみる - 2014.10.19 -

洛西




妙心寺総門前


 “散歩”を越える、今日の散歩は「京城勝覧」のコースを歩く

 ひとから、よく歩くね、と言われることが、しばしばあります。
 昔から歩くことが好きなので、ちょっとした距離だと歩いてしまう。たまには、意識的に長い距離を歩くこともあります。

 今日は、出講している大学の授業で現地見学会なのですが、毎年のテーマは<貝原益軒「京城勝覧」を歩く>。
 江戸時代のガイドブック「京城勝覧」に紹介されているコースを歩くものです。
 宝永3年(1706)に出版されました案内書。京都の名所を全17日で見尽せるように、17のモデルコースを示しています(一部、近江を含む)。

 授業では、毎年、1コース(1日分)を見学していて、今年は第7日です。

 三条大橋
  スタートの地、三条大橋

 貝原益軒のイメージでは、スタートは東海道の終点・三条大橋あたりでしょうから、そこから始めて、以下の各所を回ります。

 妙心寺 → 仁和寺 → 嵯峨(釈迦堂、二尊院、天竜寺など) → 嵐山 → 法輪寺 → 松尾大社 → 梅宮大社 → 広隆寺 (主なもの)

 つまり、嵯峨や嵐山といった京都の西郊(洛西)ですね。
 距離は、行き帰りで“5里半余り”と書いていますから、22km程度ということになります。

 もちろん授業では、この一部を見るだけで、松尾大社や梅宮大社に行く予定。また「京城勝覧」にはないけれど、蛇塚古墳も見ます。
 
 そのため、集合場所は、西京区・松尾大社。
 集合時間は、午後1時。

 松尾大社
  松尾大社(西京区)

 そこで、思いついたのです。
 朝、三条大橋を出発して、午後1時に松尾大社に着くように歩けばいいわけだ、と。
 われながら、いいアイデア。しかし、ひとから見れば無謀かも?

 調べてみると、三条大橋-松尾大社は、益軒の薦める名所をめぐって、約14km。
 歩くだけなら、4時間あれば、お釣りが来そう。
 ただ、ひとつひとつの寺社を拝観していると時間切れになりそうなので、門前、社頭で拝するだけという簡略化作戦で行くことにします。

 ということで、ここまでは前日に書きました。
 この先は、当日、歩き終わった後にリポートしようと思います。果たして、ゴールにたどりつくのか ?!

 


 松尾大社

 所在 京都市西京区嵐山宮町
 拝観 境内自由
 交通 阪急電車「松尾」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「京城勝覧」(『新修京都叢書』所収)
 『京都府の歴史散歩 上』山川出版社、2011年


三井越後屋の京本店は、室町通に小さな庭としてその名残をとどめている





三井越後屋京本店記念庭園


 室町通を歩く

 出講している大学が上京区にあるので、そこから四条界隈に出掛ける際、ぶらっと歩いて行くことがあります。そのとき、よく通るのが室町通。
 いまでは、ひっそりとした街路ですが、呉服問屋など繊維商が並ぶ、京都で最もにぎやかな通りのひとつでした。

 その途中、二条通との交差点に、白壁の塀で囲まれた一画があります。

 三井越後屋京本店記念庭園
  縦の街路が室町通、横が二条通

 いったい、ここは何なのか?
 室町通側に、碑が建てられています。

  三井越後屋京本店記念庭園 「三井越後屋京本店記念庭園」

 「三井越後屋 京本店(ほんだな)記念庭園」。

 なるほど、とすぐに分かる人がどれくらいいるでしょうか?
 碑の文字を読んでも、やっぱりよく分かりません。

 せっかくなので、少し調べてみました。


 三越のルーツ、三井越後屋

 実は、この室町通二条上ルの場所には、昭和58年(1983)まで、デパートの三越京都支店があったと、三井広報委員会のウェブサイトに書いてあります。
 私には全く記憶がなく、そもそも当時このあたりを通ったこともなかったのでしょう。私が覚えているのは、四条通花見小路の北西角のビルが三越だったことで、こちらは割と近年まで営業されていました。しかし、その店舗も大丸や高島屋に比べれば、とても小さく、百貨店といえる規模ではありません。

 三井越後屋京本店記念庭園
  三井越後屋京本店記念庭園

 そんなわけで、京都の人には「三越」といっても馴染みが薄く、東京のデパートという印象が強いのです。
 そのため、この場所が三越のルーツのひとつ「三井越後屋」の故地であるのは、意外な感じがします。


 室町通の巨大店舗  

 江戸時代、規模の大きな呉服商のスタイルに、京都で西陣織などを仕入れて、江戸や大坂の店舗で売るという形がありました。これを「江戸店持(えどだなもち)京商人」と呼んでいます。
 
 三井越後屋の創業者は、三井高利です。
 伊勢国松阪の生まれで、若くして江戸にある兄の店で働き始めます。のち、松阪に戻って妻を迎え、金融業を営みました。子供は、なんと15人もいたそうです!
 52歳になった延宝元年(1673)、室町通蛸薬師に仕入店を開き、江戸・本町に三井越後屋呉服店を開設します。京の店は蛸薬師ということですから、室町二条からはずいぶん南です。
 商売も発展し、蛸薬師の店を拡張しますが、宝永元年(1704)、室町通二条の場所、冷泉(れいせん)町に移転しました。

 三井越後屋京本店記念庭園

 この店は、たいへん大きな店でした。
 京都の町(ちょう)は、道路をはさんで向かい同士が1つの町になる「両側町」が基本です。冷泉町は、室町通をはさんで向かい合う町でした。
 ところが、この店は、室町通の入口から奥にずっと進んでいくと、ついには1本西の衣棚通に抜けてしまうのでした!
 
 店の間口も18間あったといいますから、約32mの幅です。
 これは京都では、下村大丸屋(18間6寸)と並ぶ巨大店舗でした。
 京本店は、仕入れ店なので小売はしていません。しかし商品が多いのか、敷地の西側(衣棚通側)には8つ程度の土蔵が並んでいました。

 三井越後屋京本店記念庭園


 従業員も100人以上!

 従業員も大変多かったのです。
 西坂靖氏の研究によると、安永2年(1773)時点での従業員は、175人! もいたそうです。
 もっとも、上には上があって、江戸や大坂には200人~500人規模の店舗があったといいます。

 従業員にはどのような種類があったかですが、同氏の研究では、三井越後屋の場合、次の種類がありました。

  ・手代
  ・子供
  ・下男

 手代とは一人前の店員であり、営業活動に従事する者である。子供は、補助的業務に従事する者で、元服を済ませると手代になる。下男(または台所)は、手代・子供など店表の奉公人のための炊事など雑用を一手に引き受ける者たちである。(『三井越後屋奉公人の研究』36ページ)

  三井越後屋京本店記念庭園 三国稲荷大明神は越後屋時代から


 なるほど。
 店でお客さんの相手などの商売をするのが、手代です。幕末(元治元年=1864年)の資料では62人いて、全体の約半数でした(全員で114人いた)。
 このなかの偉い人たち5、6人は、店に住み込んでおらず通勤してきます。これを「別宅」といって、年齢は68歳~40歳。68歳の者は「元〆(もとじめ)」と呼ばれ、なんと勤続55年です!
 住み込みの者は、39歳以下。ここにも、「支配」「組頭」から「平」などまで、いろんなランクがあって、最も若い者は17歳です。

 かわいい呼び名の「子供」、これは手代の手伝いをする者で、のちに手代になります。彼らは13歳~17歳で、元治元年には26人いました(全体の2割余)。
 入ったばかりの者は「丸額(まるびたい)」と呼ばれ、その上が「角前髪(すみまえがみ)」と呼ばれます。もちろん髪型に由来する名称です。

 彼らの出世のランクを見ていると、相撲の番付を見るような気がします。

 一方、炊事などの家事や単純労働をするのが、下男。別名「台所」です。
 同じ時期、26人いました。
 手代や子供が、京都などの商人や職人の子弟だったのに対し、下男は北陸地方や近江、丹後、丹波などの農家の出身でした。
 仕事も違えば、出自も異なるわけです。
 奉公を始めた年齢も比較的高く(平均が24.5歳)、「権助」とか「五助」といった下男としての名前を与えられていました。
 
 ひとつ屋根の下に、100人も暮らすとなると、いろいろ大変そうです。
 現代の会社も厳しいことが多いけれど、江戸時代の商人たちもきっと苦労が多かったことでしょう。

 
  三井越後屋京本店記念庭園




 三井越後屋京本店記念庭園

 所在 京都市中京区室町通二条上ル冷泉町
 見学 内部の庭園は非公開
 交通 地下鉄「丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 西坂 靖『三井越後屋奉公人の研究』東京大学出版会、2006年
 高橋康夫ほか編『日本都市史入門 Ⅲ 人』東京大学出版会、1990年
 鎌田道隆『京 花の田舎』柳原書店、1977年


【新聞から】近代建築の旧北國銀行 京都支店が、期間限定で DEAN & DELUCA になる





旧北國銀行


 米高級食料品店、飲食店で京都に進出
 ディーン&デルーカ
 京都 2014年10月10日付



 このニュースは、ちょっと注目です。

 注目の理由をお話する前に、「ディーン&デルーカ」の説明を。

 たぶんみなさんが一番ご存知なのは、このロゴが入った布製のトートバッグでしょうか。
 若い女性がよく持っておられるもので、5、6年前にものすごく流行りましたね。
 当時、その小さな手提げ袋? のようなトートを持っている女性に、なに? って聞いてみたら、DEAN & DELUCA だと教えてくれたんですが、そのあと大変なブームになりました。さすがに最近では、あまり見かけませんが。

 その DEAN & DELUCA が高級食材店(ウェブサイトには“食のセレクトショップ”などと書いています)で、カフェなども経営しているとは、今回まで知りませんでした。
 本社はニューヨークだそうで、いわゆるセレブ御用達の店らしい。

 言い訳をすると、関西には神戸大丸にしかなくて、その後、グランフロント大阪に出店しただけなので、あまり目にする機会がなかったようです。

 京都新聞の記事は、その DEAN & DELUCA が京都に初進出というもので、2014年10月27日から、翌年8月までの期間限定で、レストラン、カフェを出店するのだそうです。

 その場所が、烏丸通蛸薬師の南西角にある旧北國銀行京都支店の建物。

 旧北國銀行
  旧北國銀行 京都支店

 この建物に入るというのが、私の注目ポイントです。

 記事をよく読むと、「北國銀行旧京都支店を改装した商業施設の1階部分約300平方メートルに開業する」とあります。 
 ざっと計算すると、1フロアは300㎡くらいありそうですから、1階はすべて DEAN & DELUCA なのでしょう。
 そして、もしかすると2階部分には別の店舗も入るのかも知れず、そうなると、ちょっとした「商業施設」になって、恒久的に利用されるということになります。
 最近、三条通などでは、近代建築が商業ビルとして活用されているものが増えていますが、これもその流れかも。

 実は、ここは以前も、レストラン、カフェとして使われていました。

  旧北國銀行 2009年11月撮影

 2009年時点では、上の写真のように確かに店舗が入っていましたが、ここ2、3年は空き家になっていたような……
 それで、当然のこととして、私達は“もしかして……”と良からぬ想像をめぐらしていたのです。

 そういう意味で、今回このビルが再活用されるのは、うれしい限りなのです!

  旧北國銀行

 この建物は、大正5年(1916)、辰野片岡建築事務所により設計、建築されました。
 当初は、山口銀行京都支店として建てられたものです。この山口銀行は、山口県の山口ではなく、滴翠美術館で知られる大阪の山口吉郎兵衛が設立した銀行です。昭和8年(1933)に合併して三和銀行になりました。

 旧北國銀行

 辰野片岡建築事務所は、東京駅の設計者として知られる建築界の重鎮・辰野金吾が、女婿の片岡安と関西に開いた事務所です。
 そのため、いわゆる「辰野式」のデザインで、1階部分には特徴的な3本の白いラインが通っています。
 また、右隅の屋上には、塔屋が突き出しています。

 旧北國銀行

 細部の意匠は、大正時代ですので、かなり幾何学的になっていて、こういった菱形の連続も心地よいですね。
 いま改めて見ると、現代的な感覚にマッチして、人気が出そうな建物です。つくづく、日本人はゼツェッション(分離派)の幾何学的デザインが好きだなあと思います。

 どんなふうに再生されるか、楽しみですね。

  旧北國銀行




 旧北國銀行京都支店

 所在 京都市中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町
 見学 外観自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『新版日本近代建築総覧』技報堂出版、1980年
 前久夫ほか編『京都の赤レンガ』京都新聞社、1997年


高島屋の創業地に記念碑が完成、そして因幡堂との関係とは?





高島屋創業地碑


 高島屋の創業地は、どこ?

 高島屋といえば、京都、大阪をはじめ、東京・日本橋や新宿、横浜など、全国に店舗を持つ大手百貨店です。

 私も日頃、京都店をよく利用するのですが、高島屋がいつ、どこで創業したかを深く考えたことはありませんでした。
 日経新聞の近畿経済面(京都・滋賀、2014年10月9日付)に、10月8日、創業地に記念碑が完成したという記事が出ていました。ちょうど時間があったので、さっそく見てきました。


 瓦をのせた記念碑が完成

 高島屋創業地碑

 平瓦をのせた和風の記念碑で、碑というよりも説明板の体裁を取っています。
 中央に記された標題は、「烏丸松原界隈の今昔」というもので、極力企業色を抑えています。あの丸に高のマークも、下部の格子越しにチラリと見えるだけ。結構なセンスだと思います。

 高島屋創業地碑
  高島屋創業地の記念碑

 この場所は、下京区の烏丸通松原上ル(あるいは高辻下ル)で、「烏丸松原」のバス停脇です。
 いま、ここに建っている建物は……

 京都銀行本店

 京都銀行本店。
 そのため、記念碑には京都銀行のことも記され、社章も入っています。


 店名の由来は、近江国高島郡から

 高島屋の創業は、天保2年(1831)のことで、初代新七は越前・敦賀の生まれ。京都の呉服商に奉公に上がっていました。
 文政11年(1828)、米穀商・高島屋こと飯田儀兵衛の女婿になります。この飯田家が、もとは近江国、湖西の高島郡(現在の滋賀県高島市)の出であったので、屋号も高島屋となっていました。
 新七は、分家して古着の行商を始め、天保2年に「たかしまや」の屋号で古着・木綿商を創業したのでした。

 その場所が、烏丸通高辻下ルの西側3軒目、つまり今の京都銀行本店がある場所だったそうです。
 当時の烏丸通は、道幅が約4間半といいますから、およそ8m。現在の烏丸通に比べると狭いかも知れませんが、江戸時代とすれば広い街路といってよいと思います。
 一方、松原通といえば、清水寺の方へと続くにぎやかな道でした。
 さらに、通りの東側奥には、因幡堂(因幡薬師、平等寺)という篤い信仰を集めた薬師如来がおられる寺院がありました。そのため、高島屋があった町の名も、薬師前町といったのです。

 因幡堂
  烏丸通の向いには、因幡堂への道がある

 そんなわけで、この創業地は人の集まる、にぎやかなよい場所だったといえるでしょう。

 初代新七は、明治7年(1874)に亡くなります。
 高島屋は代々新七を名乗りますが、明治21年(1888)に四代目が襲名し、近代化を進めていくことになります。


 店舗の改築と移転計画

 記念碑には、2枚の写真が掲出されています。
 ひとつは、明治中期の店舗の写真で、これは丸に高の商標を染め抜いた暖簾を掛ける町家です。
 もう1枚は、土蔵造風の3階建の大きな建物です。これが、明治45年(1912)に建築された鉄筋コンクリート造の新店舗です。
 高島屋は、明治30年代には大阪や東京にも進出していました。しかし、創業地の店は古いままだったので、明治末年に広壮な建物に改築したのです。

 ところが、時代が進んで昭和になると、各地で百貨店の近代化がはかられ、この店舗ではさすがに狭いという話になってきました。

 『高島屋百年史』には、全国の主要百貨店の売り場面積が記されています(昭和14年現在)。

 ・三越本店(東京)    5万3245㎡
 ・阪急(大阪)      5万1123㎡
 ・大丸本店(東京)    4万2074㎡
 ・松坂屋本店(名古屋)  3万6184㎡
 ・十合(大阪)      3万4967㎡

 これに対して、高島屋は大阪支店(これは難波店でしょうか)が、4万3411㎡、東京支店が3万2752㎡でしたが、創業地にある京都店は、わずか3,759㎡でした。他の百貨店と桁違いだったのです。
 当然、移転して増床、という計画が模索されたのでした。
 
 ちょうど、昭和6年(1931)、四条河原町の南西角に均一店(いわゆる十銭ストア)を借家で出店していました。その場所は、複数の人達の土地でしたが、彼らと交渉して、共同出資で高栄土地建物という会社を設立し、昭和12年(1937)から新店舗の建築を始めることにしました。用地は、5,120㎡あって、地上7階・地下2階のビルですから、他の大型店に匹敵する大規模店が完成するはずです。

 ところが、着工してまもなく、戦時下のあおりで鉄鋼工作物築造許可規則なるものが発令され、昭和13年(1938)、工事は中止となります。
 不急不要の建築を禁止して、鉄材を戦争資源に集中しようというわけです。

 これにより、高島屋は戦中戦後と、烏丸通松原上ルで営業を続けることを余儀なくされたのでした。


 飯田新七、因幡堂を信心する

 因幡堂
  因幡堂(平等寺)

 記念碑を見たあと、烏丸通を渡って、因幡堂にお詣りしました。
 すると、入口の提灯のなかに、高島屋の献灯がありました。

 因幡堂

 京都の繁華街の寺社をお参りすると、高島屋や大丸の奉納品が多く見られます。ここは創業地の向いですから、なおさらですね。さらに詳しく見ていきます。

 すると、烏丸通からの導入路(つまり高島屋の向い側)に、寺名を書いた石標と、一対の灯籠がありました。

 因幡堂石造物

 因幡堂石造物 因幡堂石造物


 左側にある石標には、「いなはやくし(因幡薬師)」と刻まれています。
 背後には、建立年が記されています。「弘化五申年二月/明治廿五年九月再建」。
 弘化5年は、1848年。初代新七が創業してから17年後のことで、これもまずは初代が建てたのでしょう。それが、おそらく傷んだりしたので、明治25年(1892)に四代目が再建した、ということになります。
 石標の裏に、「薬師前町/ますや利助/高島屋儀兵衛/同 新七」とあります。儀兵衛は、新七の義父(奥さんの父)ですね。この標石が建った翌年に亡くなりました。

 因幡堂石造物 因幡堂石造物
 飯田儀兵衛、新七の名  石工の名

 石工は(写真右)、「愛宕[おたぎ]郡白川村/石工 岡野傳三郎」。北白川は、白川石が名産ですね。

 次は、立派な灯籠です。

 因幡堂石造物
  石灯籠(西から見たところ。道路は烏丸通)

 因幡堂石造物 因幡堂石造物

 安政4年(1857)に建てられ、明治25年(1892)9月に再建されています。
 こちらも、初代が建立し、のちに四代目が建て直したということになるでしょう。笠の部分が丸い、特徴的な形です。

 因幡堂石造物

 北側の台座に、「発起/高島屋/新七」とあり、丸に高の商標が入っています。

 このように、烏丸通からの道しるべとなる石標と石灯籠が建てられました。
 進んでいくと、因幡堂の裏側に当たります。

 因幡堂


 高島屋から京都銀行へ

 最後に、戦後の創業地の変遷をおさらいしておきましょう。

 京都銀行のもとをたどると、昭和16年(1941)に4行が合併してできた丹和銀行にさかのぼります。名前からも想像できるように、丹後(京都府北部)を地盤とした銀行で、本店は福知山でした。
 終戦後、京都市内への伸張を意図し、昭和25年(1950)頃から支店を設け始めます。
 昭和26年(1951)、行名を「京都銀行」とし、昭和28年(1953)4月に、本店所在地を京都市内に移します。
 その場所が、烏丸通松原上ルの高島屋“跡地”でした。

 高島屋は、戦後すぐに四条河原町角で店舗展開し、昭和25年、26年には増築も果たしていました。
 そのため、創業地の店舗は、昭和27年(1952)8月をもって閉店していました。

 その跡地に京都銀行が入るわけですが、そのあたりの事情を『京都銀行七十年史』は、次のように記しています。

 京都が発祥の地である高島屋としては、由緒ある烏丸店の売却先については厳選の態度をとっていた。その点、地域社会の発展に寄与する公共的な機関であり、しかも京都の地元銀行である当行なら売却先として最適との意向があったため、交渉は順調に進展し、同28年の春、当行がこれを譲り受けることになった。(112ページ)
 
 「厳選の態度」という言葉に、創業地に対する高島屋の思いがうかがえます。
 
 ちなみに、高島屋時代の古風な建物は、昭和30年代末まで使用され続けました。
 昭和39年(1964)年末に、現在の京都銀行本店ビルの建設が着工され、昭和41年(1966)8月に竣工しています。この年の10月は、丹和銀行の発足から25周年に当たりました。

 高島屋と京都銀行が絡み合う烏丸松原。松原通は、いま歩いてみても、かつてはにぎわった商店街だったのだろうと想像できるのですが、その要因のひとつが高島屋だったのでしょう。
 ひとつの場所からも、いろいろな歴史が垣間見えて、おもしろいですね。


  高島屋創業地碑




 高島屋創業地の碑

 所在 京都市下京区烏丸通松原上ル薬師前町
 見学 自由(歩道上にあります)
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『高島屋百年史』高島屋、1941年
 『高島屋百三十五年史』高島屋、1968年
 『高島屋百五十年史』高島屋、1982年
 『京都銀行七十年史』京都銀行、2012年


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鴫原一穂という詩人が描いた戦後の裏寺町風景は、哀愁の色を帯びている





スーパーホテル


 「月刊京都」と鴫原一穂

 現在刊行されている雑誌「月刊京都」は、戦後、編集者であり詩人でもある臼井喜之介によって創刊されました。
 臼井喜之介と雑誌「京都」については、以前書いた記事を読んでいただくとして(記事はこちら ⇒ <臼井書房の書物たち>、および <1950年に創刊された雑誌「京都 観光と美術」は、「月刊 京都」の前身>)、今回はある記事の紹介です。

 「裏寺町風物詩」。
 鴫原一穂という人が書いた3ページほどのエッセイです。
 文とともに、3枚のスケッチが挿図になっていて、どんな内容か読んでみたのです。

 その前に、鴫原一穂という人は、どんな人なのでしょうか?

 「しぎはら かずほ」。詩人で児童文学者。断片的な情報なのですが、明治42年(1909)生まれ。平安高校(現・龍谷大平安高校)で教鞭を取られたらしく、同校の校歌はこの人が作詞しました。晩年は、岡山に住んだようです。
 いくつか著作もあり、戦後すぐに詩集『好日詩片』(昭和21年)を出していますが、これは臼井喜之介の臼井書房から刊行されています。臼井とは知己だったわけですね。

 その詩人が書き、描いた風物詩。
 どんな内容なのでしょうか?


 哀愁ただよう「裏寺町風物詩」

 戦後の復興が緒につき始めた昭和26年(1951)5月20日。
 詩人・鴫原一穂は、友人の臼井喜之助と四条河原町の交差点にいました。

 えり善の横を裏寺へまがろうとするぼくを呼びとめたものがある。安物のおもちやだ。ケントウをする人形のおもちやのシヤカ、シヤカという音だつた。
 (中略)
 二軒店をならべた射的屋を横目でにらんで「おれはこいつをやるのがすきだ」といつたら、一ぱいのんでからにしようとキノスケはいつた。ただすきだといつただけなんだ。(「月刊京都」昭和26年7月号、以下同じ)


 鴫原は、四条河原町の北西角にいて、現在もある呉服店・ゑり善の横の路地を曲がろうとしたのです。
 いまでは「拳闘」など死語に近くなりましたが、露店のボクシングをする人形が音を立てて動いており、射的の屋台が並んでいます。

  うすさま辻子
  ゑり善の横「うすさま辻子」

 ふたりが曲がって行った路地が、この道。
 今もある烏須沙摩(うすさま)辻子。かつて、このあたりにあった大龍寺に祀られていた烏須沙摩明王にちなんだ名前です。
 
 鴫原は言います。「一宇の堂があつて「うすさま明王」とカンバンがぶらさがつているのを「うずまき明王」と読んだら連れがちがうといつた。」
 
 「うすさま」なんて馴染みにくい。「うずまき」と読むのも頷けます。

 この辻子のことは、とてもおもしろいので、以前まとめたものをどうぞ。 記事は、こちら! ⇒ <四条河原町の喧騒の中に「烏須沙摩辻子」はあった>

 裏寺は大衆横丁ではあるが、大衆横丁ともちがう。哀愁がある。都会の哀愁はたそがれとともに濃くなりそめて、かなしいインテリたちをしつとりとぬらす。

 鴫原一穂「裏寺町風物詩」

 烏須沙摩辻子を抜けて、北を向いたところのスケッチ。
 一番奥の大きな建物は、映画館・京極大映(当時)です。

 裏寺町

 現在の同じ場所。
 右(東側)は、複合ビル・河原町オーパ(OPA)になり、左(西側)の呑み屋「たつみ」なども、しっかりした建物に変りました。奥には、スーパーホテルが建っています。ここは、ひと昔前までは、京極東宝でしたね。

  スーパーホテル
   スーパーホテル

 鴫原は、「西側にはわるいが」と言いながら、烏須沙摩明王につらなる通りの東側の店名を記していきます。

 「その」(かす汁・串かつ・おでん)
 「田中」(遊技場)
 「ひさ家」
 「貞楽」
 「若茶屋」
 「貿源」(「ア、フオレン、トレーダーと横文字」)
 「岡田」(洋服古着)
 「奴」(トンカツ・ホルモン焼)

 「「奴」のマダムの切れの長い黒い眼は京都の顔ではない。知らぬ顔してスケッチしようとしたがかけなかつた。」

 これらの店も、すでにないわけです。


 裏寺町の地図

新京極図(『新撰京都名所図会』より)
 竹村俊則『新撰京都名所図会 4』より、裏寺町界隈
(鴫原らは、赤い矢印の烏須沙摩辻子を入って行った)

 参考のために、50年余り前の裏寺町の地図を掲げておきましょう。昭和37年(1962)出版された本の挿図ですから、鴫原の随筆より10年ほど後のものです。
 竹村俊則氏が克明に記録されています。

 鴫原たちは、四条河原町の北西にある路地(赤い矢印)を上がります。ここが烏須沙摩辻子です(地図中の記載には誤りがあります)。
 辻子は大龍寺に突き当り、その北側は「寺町」らしくお寺が続いています。
 ここに上記のお店があったというのですから、寺の敷地沿いに仮住まい的な店舗が並んでいたのでしょうか。
 

 柳小路の店々

 裏寺町の一本西の路地が、柳小路。上の地図には「柳小路食飲街」とあります。
 いまもあって、独特の雰囲気を醸し出していますね。

  柳小路
  柳小路 南から北へ

 詩人は、柳小路の北の口に立って、南を眺めます。頭上の案内灯には、店名が記されていました。

 「金剛」
 「時代」
 「栄月」
 「静」
 「こがね」
 「宝亭」
 「寿」
 「みやこ」
 「そして」
 「ちどり」
 「多摩川」
 「芝居茶屋」
 「呑兵衛」
 「乙女茶屋」
 「三日月」
 「八好」
 「十字星」

 17の店。これですべてなのでしょうか。
 そして、いま何軒残っているのでしょう。

  鴫原一穂「裏寺町風物詩」

 このうちの「静」は、いまも名物店として知られています。柳小路の中ほど、東側にあります。
 関西には少し珍しい縄暖簾の掛かった店。

 「静」と一字かいてあつても「しずか」と呼ぶそうだ。二三度ぼくもきたことがあるが、その最初は二三年前やはり連れがつれてきてくれたのであつた。この間、文芸首都の会のかえり常田夫人と比沼氏と田中と四人で、静の二階でのんでいるうちに隣りのテーブルの二人と一緒になつちやつて、はてはその二人を四条小橋下ルの「山小屋」へ案内してしまつた。「山小屋」は少し感じのいいバーだ。
 ぼくは静のシロにいいごきげんになつてしまつたものらしい。先生だの学生だの詩人だの課長さんだの、およそあらゆる階級に愛されるふしぎな「静」の家だ。あぶらでくろくよごれた縄のれんから首を出すどれもがインテリであるかインテリであると思われたい男らしい。なにがそうさせるのかぼくは知らない。マダムの、あの写楽描くところの眼がひきつけるのかな。


 私も、初めて学生時代に先生に連れられて「静」に来て、数十年後の今も、行きたいという大阪の人などがいれば一緒に行きます。知人のKさんとも行ったし、Jさんとも行きました。彼らもやっぱり「インテリであるかインテリであると思われたい男」なのでしょうか? なんとなく、わかる気がします。

 それにしても、写楽が描く女性のようなマダムとは?
 この記事に載せられた挿図にはキャプションがないのだけれど、この女性なんでしょうか。

  裏寺町

 ちなみに、この随筆が載せられた「月刊京都」のこの号は、“京の女”の特集でした。
 表紙は舞妓さんですね。

  「京都」表紙




 裏寺町
 
 所在 京都市中京区四条河原町西入上ル中之町
 店舗 居酒屋など多数
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「月刊京都」第10号(昭和26年7月号、白川書院)
 竹村俊則『新撰京都名所図会 4』白川書院、1962年


【大学の窓】秋学期が始まった

大学の窓




 秋のキャンパス

 出講している上京大学(仮称)も、今週から秋学期が始まりました。

 近年では、夏休み明けの学期のことを「秋学期」と呼ぶようになっていて、「春学期」との2学期制です。
 私たちが学生のころは、「前期」「後期」と呼んでいました。呼称の変化も、いわゆるセメスター制というものに関係があるんでしょうか。

 授業は2時間目からなのですが、だいたい1時間目から大学に行き、図書館で過ごすようにしています。
 ところが、今日は入り口のゲートにカードを通すと、赤ランプが!
 すぐに係の人が来て、聞いてみると、学期の節目には登録し直す必要があるらしい。
 今日は残念ながら身分証明証を持っていなかったので、更新できず、入れませんでした……

 あとから考えてみると、昨年の秋も、今年の春も、そのような更新はなかったような。変わったのかな?

 仕方ないので、図書館の代わりに、キャンパス内のカフェに行きました。
 すると、夏休み明けのせいで……

 キャンパスのカフェ

 きれいに改装されていました!

 ホテルのロビーみたい。
 夏前までは、昔の学食で使っていたような無骨な白いテーブルだったのですが、街中のカフェのようになりました。
 さすがに、このソファに座る勇気はなく、窓際の木の椅子にしました。
 あとから入ってくる学生たちも、微妙に戸惑っていておもしろい。

 カフェも変わったように、これから対面する1回生たちも、ひと夏を越えてどのように変わっているか、楽しみです。


鞍馬山から貴船神社へ - 木の根道を歩く -





木の根道


 山上の霊宝殿

 前回、鞍馬寺本堂に上り、ムカデのお守りを手に入れて満足した私は、さらに奥の院に向かうことにしました。

 本堂の左脇に回ると、奥の院への入り口があります。

  奥の院への入り口 この石段から奥の院へ

 石段を上って少し歩くと、鞍馬山霊宝殿があります。
 入館料200円。

  ・1階 自然科学博物苑展示室
  ・2階 寺宝展観室
  ・3階 仏像奉安室
 
 やはり、3階に上がって、有名な毘沙門天立像(平安後期、重要文化財)を拝せるというのが得難いですね。
 眉間を寄せた両眼の上に左手をかざし、右手に持った檄を突いて、遠望するポーズ。微妙な身体のひねりが、動的なイメージを与えますが、自然なしぐさとは逆ひねりになっていて、その工夫に感心させられます。
 両脇侍(吉祥天立像、善膩師童子立像)や、他の毘沙門天像も見ごたえがあり、しばし佇んでいました。

 ところが、この霊宝殿で“おやっ”と思ったのは、1階の自然科学の展示でした。


 鞍馬名物「ふごおろし」とは? 
 
 1階には、植物や昆虫の標本、岩石などが展示されています。何気なく見ていると、江戸時代の版本の図版らしいパネルが掲示されていました。
 そこには、鞍馬山で産出する青っぽいチャート(堆積岩の一種)が置かれており、その説明パネルでした。
 パネルには、その石がかつてあるものに使われていたことが解説されていて、「和久可世話」(1752年)という書物からの引用が示されていました。

 正月、上の寅の日、京洛貴賤、鞍馬山に詣づる如し。
 この日、鞍馬の山人、火打石を売るに、畚[ふご]にて参道の道端の谷を隔てたる高き小屋よりは、こなたへ低き岸に綱を引き、その綱に畚をつけて待ち、諸人、銭を畚に入れれば、すなわち引きて引き寄せて引き上げ、銭を取って、代り程の火打石を入れ、畚を下す。これを鞍馬の畚おろしといふ。甚だ興あるごとし。


 この石を、火打石として売っていたのですね。
 そして、その販売法が珍しくて、山の上から“ロープウェー”のように、ふご(わらで作ったカゴ)を行き来させたのです。
 下で、お客さんがふごに銭を入れると、それを引き上げる。銭の額を見て、それに応じた火打石を入れて、ふごを降ろしてお客に渡す、というスタイルです。
 ふごを降ろして渡される火打石なので、その石を「ふごおろし」と呼んでいました。

 「都名所図会」より「鞍馬寺」
  「都名所図会」巻6

 「都名所図会」(1780年)の鞍馬寺の絵を見ていると、なんと、この「ふごおろし」の場面が描かれているのです。
 画面の左端。

 「都名所図会」より「鞍馬寺」

 これはすごい!

 谷を越えて、かなり長距離で渡すんですね。名物になるわけだ。
 これこそ、山人と平地の人との交易ですねぇ。むかし読んだ民俗学の知識を思い出しました。

 霊宝殿の展示によると、この場所は、現在の鞍馬小学校の北200m、叡山電鉄のトンネル上だということです。
 
 鞍馬小学校付近
  鞍馬小学校付近

 ちなみに、黒川道祐「雍州府志」(1686年)にも、ほぼ同じ記述があって、「ふごおろし」が鞍馬名産として広く知られていたことがうかがえます。


 義経背比べ石から木の根道、そして奥の院へ

 鞍馬寺本堂は、標高410m。奥の院は、435m。たった25m差(標高、距離は鞍馬寺パンフレットによる)。
 しかし実際は、一度上ってから下る形になっています。その一番高いあたりが義経背比べ石があるところ。標高485mです。

 義経背比べ石

 義経背比べ石 義経背比べ石

 鞍馬山中で修行した牛若丸こと源義経。彼が奥州にくだる前に、名残を惜しんで背比べした石といいます。
 すごく平たい石で、背中を付けやすい形だな、などと、つまらない感想が浮かんできます。

 ここを左に上がると大杉権現ですが、私はまっすぐ下りました。

  奥の院への道

 ここを下ると不動堂。
 牛若丸が修行したという僧正が谷です。

 不動堂

 この先に、有名な木の根道があります。

 木の根道

 杉の根が露出し、自然の模様を描き出します。

 そして、奥の院魔王殿。

 奥の院
 奥の院魔王殿

 ここは広場になっていて、休憩場所に好適です。
 霊宝殿から奥の院まで、20分ほどでした。下り道が多いので、きつい行程というわけではありません。

  奥の院道標
   奥の院の道標


 北尾鐐之助の印象

 大阪毎日新聞の記者だった北尾鐐之助が著した「近畿景観」シリーズの1冊に『京都散歩』(昭和9年=1934)があります。
 昭和9年なのか、その前年なのか、夏の7月に、鞍馬と貴船を結ぶこの道を歩いた彼の印象「鞍馬、貴船の夏」を紹介しておきましょう。
 まずは、仁王門からの登り坂での出来事です。

 その坂道を登つて行くと、一人の女が杉木立の坂になつてゐる山側の路傍に佇んで、しきりに地面を拝むでゐる。みると、大きな百足[むかで]が一疋--踏みくだかれ、二つに断[き]れさうになつてうごめいてゐる。女はそれを礼拝[らいはい]しては
 ……どうぞ助かりますやうに。
 と念じながら、いつまでも立ち去らうとしない。百足はたしか、大和の信貴山の使ひ者であるといふやうなことを私はおもひ出した。
 鞍馬へ来るとかういふのをよく見かける。生駒、信貴などゝ同じやうに、この山は信仰に生きてゐるのである。(141-142ページ)


 ここでもやはり、ムカデが……
 ひとが一杯の山上から、さらに奥の院へ進んでいく北尾。

 背比石は、牛若丸が十六歳のとき、奥州に下るとてこの石と背比べしたといふのだが、四尺位の立石で、無論誰かゞ作つたものであらう。
 こゝは、奥の院の追分け[註:分岐点]で、頂上と反対に、南の方へ尾根を伝ふと大杉権現の祠、西の方へ下ると僧正ケ谷=奥の院の方へ出る。この四辻に暫く息んでゐると、鞍馬登りの種々相と云つたものが絶えず登つて来る。

 奥の院の方から、女学生を引率した昆虫採集の一隊が、汗を拭き拭き登つてくるかとおもふと、黙々として大杉権現の方から来た足駄ばきの男が、四ツ辻に来ると厳かに立ち止つて、奥の院の方へ、また向き直つて大杉権現の方へ、何やら唱へながら手を合せて礼拝し、また黙々として本堂の方へ下つて行く。法衣の裾をからげた尼さんが二三人。若い新婚らしい夫婦の一組。線香を手にもつた地方人らしい老人。兄妹らしい大学生と女学生。壜詰の酒を肩に引かけて、肌を脱いだ職人らしい男。可愛いゝ男の子の手を引いて、汗を拭き拭き登つて来る町の奥様。さうかとおもふと、僧正ケ谷の方から、……「かやうに候者は、鞍馬の奥、僧正ケ谷に住ひする客僧にて候」……と、「鞍馬天狗」を謡つて、朗々と名乗りをあげて来るワイシヤツ一枚の髯[ひげ]の男などがある。(145-146ページ)


 まったく、今日と同様か、それ以上にバラエティあふれる参拝者が、この山中に繰り出していたのでした。80年前の風景です。


 貴船神社へ

 貴船への下り道は、谷側に手すりが付けられており、年配の方でも安心して下れます。ただし、坂道は急なので、靴はしっかりしたものを履く必要があります。

  貴船への下り坂

 それでも、運がよいとこういう遭遇も!

 鞍馬山中の鹿

 子鹿です。
 あまり人を恐れません。写真も3カットくらい撮れました(笑)

 急な下りが続き、まもなく貴船の集落に到着します。
 奥の院から、15分から20分くらいの距離です。

 貴船

 ここから貴船神社までは約100m。

 貴船神社

 久しぶりに訪れた貴船神社は、予想外にたくさんの若い男女でにぎわっています。
 参拝してみると、どうやら「水占い」というおみくじが人気のよう。

 貴船神社

 貴船神社

 200円。
 特設ブース? で、巫女さんが売っています。

 水につけると、あぶり出しのように文字が浮き上がってくる仕掛けです。
 読んだ後は、結んで。外国の方が珍しそうに写真を撮っているところを撮影。

 貴船さんは、古くから水の神さまとして祈雨で信心されてきましたが、いつのまにか縁結びの神さまになっていました。
 それで若いカップルが多いんですね。

 珍しいもの好きの私は、思わずこのおみくじを引きかけましたが、さすがに思いとどまりました。
 そのあと奥宮に参拝し、叡電・貴船口まで歩いて帰りました。30分ほどかかりますが、ずっと下りなのでバスに乗るほどでもないでしょう。
 途中に、和泉式部ゆかりの蛍岩などもあります。

 貴船口駅
   叡電・貴船口駅

 京都市内からだと、半日余りの行程。大阪などからだと1日行楽に最適です。
 ハイキングがてら、鞍馬寺と貴船神社を参拝されてはどうでしょうか。


  鞍馬山中の木立




 鞍馬山 木の根道

 所在 京都市左京区鞍馬本町ー貴船町
 拝観 鞍馬寺は大人300円ほか
 交通 鞍馬寺へは叡山電鉄「鞍馬」下車、徒歩約5分
    貴船神社へは叡山電鉄「貴船口」下車、徒歩約30分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 黒川道祐「雍州府志」1686年(『新修京都叢書』所収)
 北尾鐐之助『京都案内』創元社、1934年