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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

きょうの散歩 - 鞍馬寺に虎とムカデを探して - 2014.9.27 -





鞍馬寺


 にぎわう京都北郊の鞍馬

 京都盆地の北に位置する鞍馬(くらま)。
 ここは、かつては愛宕(おたぎ)郡鞍馬村で、山里ではありますが鞍馬寺の門前町でした。

 クルマの場合、京都市内から「鞍馬街道」を北上するのですが、電車なら叡山電鉄(叡電)を利用し、終点の「鞍馬」まで向います。京阪電鉄と連絡する「出町柳」から30分です。
 ちなみに、「鞍馬」の1つ手前は「貴船口」駅。
 大阪からも、意外に交通至便のため、日帰り行楽には最適の場所。シーズンの週末には、にぎわいをみせます。

 叡電鞍馬駅
  叡電・鞍馬駅

 先日から、七福神めぐりをしているので、今日は毘沙門天の“本家”、鞍馬寺に行ってみることにしました。
 

 トラにゆかりの名物

 駅の前には数軒の土産物店や食堂があり、山菜の漬物などを売っています。ある店では、木の芽煮(きのめだき)、ちりめん山椒、蕗(ふき)しぐれ、木くらげ、しば漬けなどが並んでいました。

 毘沙門天(多聞天)と縁のある動物といえば、トラ。
 寅の年、寅の日、寅の刻に出現したという伝えの多い毘沙門天。そのため、毘沙門さんを祀る寺には、虎の姿が多く見られます。

 鞍馬駅を出てすぐあった、この店。

 多聞堂

 看板を見ると、「鞍馬山名物 神虎餅多聞堂」とあります。
 これ、これ、という感じで引き寄せられます。

 多聞堂

 ケースを見てみると、ありました「神虎餅」。「しんこもち」と読ませています。
 なるほど、いわゆる「しんこ餅」に「神虎」の字を当てているわけですね。うまいです。

 多聞堂

 砂糖味(白)とニッキ味(茶)があって、1個120円。
 白い方をいただいてみると、確かに、しんこ餅でした。
 これがお店の名物だなと、店の方に聞いてみると、名物は横に売っていた「牛若餅」のようでした(苦笑)
 まあ、鞍馬山は牛若丸(源義経)が修行した場所だから、それも仕方ないですか……


 鞍馬寺へ

 お餅を食べたあとは、鞍馬寺へ。

 鞍馬寺

 石灯籠に、「毘沙門天王」と刻んであります。いいですねぇ。
 この灯籠も、江戸後期の文政年間のものです。

 鞍馬寺  仁王門

 仁王門は、標高250mにあります(標高、距離は鞍馬寺パンフレットによる)。
 ここから少し上がると、ケーブル乗り場があるのですが、今日は歩いて、1000m余り距離のある本堂へ行くつもり。

 この門の脇にも、また虎が。

 鞍馬寺 鞍馬寺

 もちろん、阿吽(あうん)になっていて、右の虎は口を開いています。

 ここで拝観料200円を払って(まもなく値上げらしい)上って行くと、途中、“鞍馬の火祭り”で知られる由岐(ゆき)神社があります。
 この神社は、桃山時代に建てられた拝殿がとても美しいですね。

 由岐神社
  由岐神社拝殿(重要文化財)

 清水の舞台のような懸造(かけづくり)になっており、中央に通路がある割(わり)拝殿です。通路が石段になっていて、珍しいですね。

 由岐神社
 
 上側から見たところ。桁行は六間なので通路はセンターではなく、左右非対称になっています。通路の上は唐破風になっており華やかです。
 二軒疎垂木、組物も舟肘木。蟇股の装飾も簡素ですが、桃山時代の建築で、慶長12年(1607)築です。
 美しいですね。


 喜捨で築かれた参詣道

 鞍馬寺の本堂は、鞍馬山の標高410mの地点にあります。仁王門から高さでいうと160mも上ですから、参道も九十九(つづら)折れになっていて、九折坂と呼ばれます。

  鞍馬寺参詣道

 「枕草子」に、「近うて遠きもの、宮のまへの祭思はぬ。はらから・親族の中。鞍馬のつづらをりといふ道」などと出てきて、近くて遠いもののひとつに、この坂道が数えられています。確かに、見上げると上の方は近く見えるのに、歩いてみると意外に距離があるわけです。

 そんな中で、残りの距離が分かる町石(丁石)は、ありがたい存在です。ケーブル乗り場のあたりから、いくつか見受けられます。
 ケーブル乗り場の横の町石には「七町」とありますから、本堂まで約760mという勘定です。
 ちなみに、鞍馬寺パンフレット掲載の距離では、仁王門-本堂は1058mなので、少し短めでしょうか。

  町石  町石

 写真は、「五町」のもの。
 ずいぶん背が高く、トップの部分(写真右)は五輪塔の形になっており、梵字も刻まれています。
 元禄2年(1689)のもので、かなり古く、年輪を感じます。

 敷石や石段も、多くの人たちの寄進で築造されています。

 鞍馬寺参詣道 鞍馬寺参詣道

 中門からの石段は、京都の明光組という人たちの寄進のようで、そばの記念碑によると大正14年(1925)に修築されています。
 石段も、よく観察すると何度も改築されているようです。崩れることもあったでしょうし、参詣者の便をはかって拡幅したこともあったように見受けられます。このような先人たちの信心によって、今日私たちもこの道を上ることが出来るのです。


 ムカデは、いずこ……

 標高410mにある本堂まで上ってきました。仁王門からは、1000m以上の距離があります。

 鞍馬寺

 お堂の左右には、また虎がいますが、毘沙門天の使いといわれる“ムカデ”はどこにいるのでしょうか?

 ところが、鞍馬山というと、やはり「鞍馬天狗」が有名です。

 叡電鞍馬駅
  叡電・鞍馬駅の天狗面

 そのため、寺の紋もやはり……

  鞍馬寺

 それでもあきらめずに、本堂の中を見回していると、ついにいたのです、ムカデが!
 なんと、お守りの図柄に登場していました。

  鞍馬寺お守り

 中央に「福」の文字、上下に宝珠、宝鑰(ほうやく)、打出の小槌、蓑(みの)などの宝尽くしの意匠。そして左右に2匹のムカデがいます。
 さすが財福の神でもある毘沙門天。お金の貯まりそうなお守りですねぇ。600円也。蓄財には余り関心がないけれど、買ってしまいました。

 このあと霊宝殿にいくと、そちらにも江戸時代の宝札が展示されており、リアルなムカデが描かれていました。

 黒川道祐の「日次紀事」(1676年)には、1月の初寅の日、鞍馬寺に参詣すると、付近の人々が“生きたムカデ”を「御福」と称して売っているという話が掲載されています。

 この月[正月]初寅の日、獅子頭山鞍馬寺詣りをこれを「初寅詣り」といふ。
 鞍馬の土民[地元の人]福等の木を以て鑰[かぎ]を作り、以てこれを売る。これを「福掻き」といふ。福徳を掻き取るの謂なり。また生る蜈蚣[むかで]を売る。これを「御福」といふ。蜈蚣は多門天の使令するところのものなり。
 およそ鞍馬山中、鶏を養はずといふは、鶏は好みて蜈蚣を食するの故なり。(「日次紀事」巻1)


 生きたムカデを売る奇習。
 ほんとうに、それを買って、どうしたのでしょうか?

 飼うわけもないし、食べる! のも変だし、逃がすのか?

 仏教には「放生」、つまり捕まえた生き物を逃がしてやると功徳がある、という考え方があります。
 実際に江戸で、生きたカメを買って、川や池に放してやる“放し亀”という放生が行われていたのは、知られた話です。
 そう思うと、このムカデも、たぶん逃がしてやったのでしょう。毘沙門さんのお使いなのですから。それで正月から功徳が積め、福が舞い込んでくるというわけです。だからこそ、「御福」という名前なのでしょう。

 ということで、なかなか愉しい鞍馬山。
 次回は、霊宝殿で見付けたおもしろい情報と、木の根道を歩く、です。

(この項、つづく)




 鞍馬寺

 所在 京都市左京区鞍馬本町
 拝観 大人300円(2014年10月~)ほか
 交通 叡山電鉄「鞍馬」下車、徒歩約5分(仁王門まで)
    山門-多宝塔間はケーブルカーあり(片道100円)



 【参考文献】
 『枕草子』岩波文庫、1962年
 「日次紀事」1676年(『新修京都叢書』所収)


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建仁寺両足院の毘沙門天堂は、“生き物”のオンパレード

洛東




建仁寺両足院


 建仁寺の塔頭・両足院

 建仁寺といえば、祇園の花街の南にある禅宗寺院。というか、建仁寺の境内を分けてもらって、あの花街が出来たという方が正しいのでしょう。四条大和大路、または花見小路下ルにあります。

 建仁寺両足院

 山内には、いくつもの塔頭がありますが、そのひとつに両足院(りょうそくいん)があります。
 開山は龍山徳見で、もとは知足院と呼ばれていました。近年では、半夏生の庭や手作り市でも知られています。

 建仁寺両足院
  建仁寺 両足院

 
 毘沙門天を祀るお堂

 門をくぐると、すぐ左手に毘沙門天堂が建っています。

 建仁寺両足院

 建仁寺両足院
  背面(北西側)

 桁行三間、梁間三間、入母屋造のお堂です。
 うしろから見ると、そんな大きく感じないけれど、正面には唐破風が付いているので、ずいぶん立派に見えます。

 建仁寺両足院

 前方に唐破風の拝所を付け足しているスタイルです。
 こういう形にすると、参拝者には大変便利ですね。 

建仁寺両足院

 このお堂には、毘沙門天が祀られています。

 毘沙門天は多聞天ともいい、四天王のひとつ。北方の守護神です。そのため、京都では、王城の北に位置する鞍馬寺の毘沙門天が著名です。
 
 両足院のお堂に祀られている毘沙門天は、鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏といいます。なので、小さな尊像ですが、ふだんは厨子の中におられるため、直接お姿を拝することはできません。お詣りの際に、目の前に立っておられる毘沙門さんは、お前立ちです。

 寺伝によると、比叡山が織田信長に焼き討ちに遭った際、鞍馬寺の僧侶が比喜多養清にこの像を託したといいます。
 比喜多氏は、筑前・黒田家と縁があった関係で、黒田長政が関ヶ原合戦の際、この毘沙門天を兜に入れて出陣し、勝利を収めたそうです。
 維新後、明治10年(1877)頃に、黒田家から両足院に移されました。

  建仁寺両足院 「毘沙門天王」

 毘沙門天は、武神としての側面と、財福をもたらす福神の側面をあわせ持っています。特に、後者の点から、七福神のひとつとして信仰されるようになっています。


 毘沙門天と虎

 その毘沙門天。古くから、<寅の年、寅の日、寅の刻>に出現するという伝えが多いため、そのお使いは虎だとされてきました。聖徳太子が物部氏討伐を祈願した信貴山の話が有名ですね。
 このため、毘沙門天を祀るお寺を訪ねると、たくさんの虎が見られます。両足院も例外ではありません。

 建仁寺両足院
 
 建仁寺両足院

 狛犬のように、毘沙門天堂の前にいる一対の虎の像。
 昭和13年、14年(1938-39)に、松原烏丸の武内伊助という人と、祇園花見小路の佐々木秀という人が奉納したもので、石工は辻平四郎と刻まれています。
 なかなかリアルな彫像ですね。右が口を開けた阿形、左が閉じた吽(うん)形になっています。

 拝所にある銅製の線香立です。

 建仁寺両足院

 建仁寺両足院  建仁寺両足院

 左右に虎がつかまっています!
 なんとなく、おもしろい虎ですね。


 さらに、ムカデも!

 この線香立の真正面には、こんな図柄が……

  建仁寺両足院

 向かい合う2匹のムカデ!
 丸く、紋になっています。
 
 さらに、提灯にも !!

  建仁寺両足院

 ひげ(触角?)が微妙に違うけれど、ほぼ同じ図柄ですね。

 そういえば、昨冬、信貴山の朝護孫子寺に行った折にも、結構「ムカデ」がいました。
 ムカデは、毘沙門天のお使いらしいのです。

  信貴山朝護孫子寺 信貴山・朝護孫子寺のムカデ

 なぜ、ムカデなのか?

 西村千穂氏の論文「毘沙門天と福」によると、ムカデの細長い体や足が、鉱山の“鉱脈”のように見えることから、ムカデがその比喩になったのではないかと推論されています。そして、鉱脈がある山には毘沙門天(多聞天)が祀られているケースも多いことから、両者が結び付いたのではないかと示唆されています。
 これが、<毘沙門天=鉱山・鍛冶の神>説。この論文はなかなか難しくて分かりづらい点もあるのですが、おもしろいので紹介しておきます。

 黒川道祐「日次紀事」(1676年)には、毘沙門天を祀る鞍馬寺での奇習を報告しています。

 それによると、1月の初寅の日、鞍馬寺に参詣すると、付近の人々が“生きたムカデ”を売っているというのです。これを「御福」と呼んでいるそうで、売っている理由はムカデが多聞天(毘沙門天)のお使いだから、と書いています。
 さらに奇妙なのでは、鞍馬の村ではニワトリを飼わないのだそうです。なぜなら、ニワトリはムカデを好んで食べるから。

 ムカデを漢方薬にして売るというのは聞いた覚えもありますが、生きたムカデを売るとは奇想天外です。

 これとは別に、よく耳にする説は、ムカデは足が多いけれど、お金のことを俗に「お足」と言う。その「足」つながりで、ムカデが財福をもたらすとイメージされるのだ--というものです。
 そうすると、財福というキーワードで、ムカデと毘沙門天が結び付くわけですね。

 江戸時代の言葉遊びみたいで単純な解釈という気もしますが、案外こんなところで両者がつながっていったのかも知れません。


  建仁寺両足院




 建仁寺両足院 毘沙門天堂

 所在 京都市東山区大和大路四条下る小松町
 拝観 毘沙門天堂は自由
 交通 京阪電鉄「祇園四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「日次紀事」1676年(『新修京都叢書』所収)
 西村千穂「毘沙門天と福」(『民衆宗教史叢書 20 福神信仰』雄山閣出版、1987年所収)


【新聞から】“いま”を記録すること

その他




四条大橋


 「今」を記録する 足元の新たな気づきに
 京都 2014年9月17日付 


 京都新聞の社説です。
 震災から3年半を機に書かれたもので、多くの伝統技術や民俗芸能が消滅の危機に瀕していると危惧しています。
 「震災を胸に刻み、周囲に目をやれば、なにげない営みの中にかけがえのないものが見えてくる。そんな「今」を記録し、次代へと引き継ぐ視点が必要ではないだろうか」と述べています。

 そのうえで、京都府立総合資料館が取り組む「京都のいま」を記録する活動を紹介しています。

 例えば、宇治市内で400年以上も続く宇治茶の「本ず覆下(おおいした)栽培」。(中略)
 資料館は農家への聞き取り調査を行い、一連の作業を映像に収めた。3月下旬、よしずやわらをかぶせるためのやぐらを丸太と竹で立てるところから始まる。独特の「男結び」や、やぐら上に乗せたよしずを下から竹にひっかけて回転させるように広げる手さばきなどは、映像でなければ残せない。(京都新聞「社説」)

 
 2013年度からは、地蔵盆を記録していることにも触れ、「資料館が京都の今を文化資源として記録する事業の核となり、地域の取り組みをもり立ててほしい」と締めくくっています。

 京都府立総合資料館 京都府立総合資料館

 「総合資料館だより」180号(2014年7月1日)によると、「京都の「地蔵」信仰と地蔵盆を生かした地域活性化事業実行委員会」を花園大学や地域の人たちと結成し、お地蔵さんの所在や地蔵盆の調査を行っているとのことです。

  地蔵盆 市内の地蔵盆

 社説にある<なにげない営みの中に、かけがえのないものが見えてくる>という考えには、とても共感できます。
 私たちが過ごす毎日は、何の変哲もない日々だけれど、あとから振り返れば、それがいかに大切なものだったかがよく分かってきます。でも、そのときは分からないので、個人の記憶の中だけに残っていくのですね。
 それを社会として共有しようとするのが「記録」という営みです。個人の記憶を記録することで、それが社会の記憶になっていく。そして、ここまで来れば、「歴史」を創るという行為も、すぐそこです。

 簡単そうで難しい「いま」を記録する営み。そして、さらに難しい記録の伝承。
 けれども、それを実現することで、ひとは現在のみに生きるのではなく、過去の上に生きているのだということが実感できるに違いありません。


島原・角屋にある臥龍松の庭を名所図会と比べてみた





角屋


 戦前の島原

 昨今、京都の花街は「五花街」と呼ばれ、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東を指しています。
 30年余り前までは、島原も京都花街組合連合会に加盟しており、六花街ともいえました。もっとも、広く考えれば、これ以外にも京都の花街はあったのだし、五つだ六つだというのも歴史的には余り意味があるとも思えません。
 いずれにせよ、島原が、天正17年(1589)に開かれた二条柳町、さらに移転して六条柳町(三筋町)から、寛永18年(1641)に現在地に移転したという、由緒ある花街であることは確かでしょう。

 「都名所図会」より「嶋原」
  「都名所図会」より「嶋原」

 昭和の初め、島原を訪れた松川二郎は、次のような感想をもらしています。

 電車を降りてまつすぐに西へ約三町、場末めいた町を歩いてゆくと、普通の町家の間に交つて小料理屋や仕出し屋、すし屋、うどん屋などが漸やく多くなつてくるのは矢張り場所柄である。
 突当りに寺の山門のやうな大門があつて、傍らにお約束の柳の古木が一株、房々と緑の枝を垂れてゐる。但し見返り柳とは呼ばず「出口の柳」である。
 廓内は中之町、上之町、中堂前町、太夫町、下之町、揚屋町と六箇町に分れてゐるが、これが島原かと怪しまれるほどの寂しさ、素見客[ぞめき]の出さかる時刻にも人の往き来は稀れで、中央の柳と桜の並木に沿ふてゆくと、ところどころにある薄暗い行燈の蔭から、ちよいとちよいとと婢[おんな]が客を手招きするなど、曽[かつ]ては夜々の蘭灯に不夜城をあらはし、才情双絶の名妓雲のごとく群集せる島原の権式も糸瓜[へちま]もあつたものではない。(『全国花街めぐり』514ページ)


  『全国花街めぐり』より「島原の大門と出口の柳」 『全国花街めぐり』の挿図

 こんなふうに、さしもの島原も寂しい状況だったといいます。 
 ただ、著名な角屋だけはいつも満員で、シーズンには2、3日前から予約しておかなければ座敷が取れないと記しています。


 大門から角屋へ

 島原の大門

 松川二郎の著書の写真と同じ場所です。
 大門の脇にある「出口の柳」は、白黒写真では細い若木ですが、青々と成長しています。この柳は、枯れかけていたものを明治中期に植え直したものだそうです(『京の花街ものがたり』)。

 そして廓内の西の端、揚屋町にある角屋(すみや)へ。
 格子も美しく、17世紀中頃の揚屋(あげや)建築で、重要文化財に指定されています。

 角屋

 表の建屋を入ると、すぐ小さな庭に出ます。
 京都の商家にみる表屋造と同じ構造で、この奥に主屋があります。
 下の写真の右が玄関、人物が立っている左の口を入ると土間になっています。土間は広い台所になっており、その脇は帳場で、お稲荷さんなども祀られています。

 角屋

 この暖簾が、本来、台所への入口に掛けてあるもので、蔓三つ蔦(つるみつつた)の紋です。

 角屋 蔓三つ蔦紋の暖簾

 このあたりの空間から、まず驚かされ、なかの座敷もまた素晴らしい造りです。


 「都林泉名勝図会」の絵

 角屋
  松の間

 1階の一番奥には、松の間があります。この部分は、大正15年(1926)の再建です。
 今日注目したいのは、庭。

 角屋

 実は、この庭、江戸中期の名所図会にも描かれています。

 「都林泉名勝図会」より「島原角屋雪興」

 寛政11年(1799)に刊行された「都林泉名勝図会」巻5、「島原角屋雪興」と題された図です。

 みんなが楽しげに集っている座敷が「大座鋪」と書かれています。これが松の間。

 「都林泉名勝図会」より「島原角屋雪興」

 この図は、雪の日の様子で、庭で雪だるまを作って遊んでいるんですね。

 「都林泉名勝図会」より「島原角屋雪興」

 左端に、茶室の曲木亭が見えています。

 庭を細かく見ていると、こんなものが。

 角屋

 手水鉢です。
 なんとなく、橋脚のような石材ですね。「都林泉名勝図会」にも描かれています。

 「都林泉名勝図会」より「島原角屋雪興」

 いまと同じ位置に置かれています。
 黒い羽織の男性が向かうのが御手洗いですかね。


 庭の名物「臥龍松」

 いよいよ、名物の臥龍松です。文字通り、龍が伏したような姿の巨松。

 「都林泉名勝図会」より「島原角屋雪興」

 右から左へ伸びる大きな松。画面一杯に広がっています。

 現在の姿は……

 角屋の臥竜松
 
 角屋の臥竜松

 庭一杯に松が広がっています。けれども、少しさびしいような印象が……
 それもそのはずで、大正時代に枯死したので、植え直したものだそうです。

 初代の幹は、背後に保存されていました。

 角屋の臥竜松

 左から右へ、長く幹が伸びています。
 これなら、「都林泉名勝図会」の絵のように、巨木だったことも納得いきますね。
 図会には、「つむ雪に尾上を思ふ庭の松」の句が記されていて、つとに有名な播州・尾上の松がイメージされています。

 角屋の臥竜松 初代臥龍松

 現在では屋根を掛けて保護されています。
 いくら名松といえども、松はどうしても枯れてしまうので、江戸時代の巨松はどちらでも残っていませんね。残念ですが仕方ありません。

 角屋

 昔は、寺社でも料亭や宿屋でも、松が名物というところが数多くありました。
 角屋の初代臥龍松は枯れてしまったけれど、江戸時代の人たちが松の前で遊ぶ風景を見ていると、心がなごみますね。




 角屋 (重要文化財)

 所在 京都市下京区西新屋敷揚屋町
 見学 角屋もてなしの文化美術館とあわせて公開(有料)
 交通 市バス「梅小路公園前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「都林泉名勝図会」1799年
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書』所収)
 中川徳右衛門『角屋案内記』長松株式会社文芸部、1989年
 松川二郎『全国花街めぐり』誠文堂、1929年
 渡会恵介『京の花街』大陸書房、1977年
 加藤政洋『京の花街ものがたり』角川選書、2009年


きょうの散歩 - 吉水弁財天堂と「舞妓はレディ」 - 2014.9.16

洛東




吉水弁天堂


 円山公園の奥にある吉水弁財天

 先日から、弁天さんなど七福神をお詣りして回っているので、今日もぶらぶらと円山公園へ。
 公園の南側の舗装路を上って行くと「左阿弥」があり、その先に吉水弁財天堂があります。

 吉水弁天堂
  吉水弁財天堂

 意外に開けた場所にあり、脇の木陰はタクシーの格好の休憩場所になっていて、少しイメージとは違いました。
 「吉水(よしみず)」というと、叡山を下りた法然上人が房を開いたところで、その名称から分かるように、いい水が湧いていたのでしょう。

 吉水弁天堂

 弁天さんの境内にある吉水の井です。
 こういう水のよいところに弁天さんが祀られるのも、うなずけます。

 吉水弁天堂

 ここも水の入った桶を奉納するのですね。

 吉水弁天堂

 桶とともに、水に関係があるものも!
 珍しいとも言えないのですが、虹梁の間にある龍の彫り物です。
 できも、まずまず。結構リアルな感じなので新しそうですが……
 と思って、右を見ると記念碑が。
 裏面に、このお堂がいつ建てられたか、経緯が略記してありました!

  吉水弁天堂
  弁財天堂再建記念碑

 この碑の裏面には、お堂が明治34年(1901)に壊れたため再建し、明治44年(1911)に竣工したと記されています。
 明治末ですか、かなり新しいですね。といっても百年前のわけですが。

 伝えるところでは、この弁天さんは、慈円(鎌倉時代の天台座主で「愚菅抄」を著した高僧。慈鎮)が叡山から勧請したのだといいます。
 いま弁財天堂は安養寺が管理されていますが、もともとは安養寺の鎮守だったのでしょう。
 
 このあたりは、意外に外国人の方が多くて、びっくりしました。


 京都もの映画「舞妓はレディ」

 そのあと、またぶらぶらと歩いて三条あたりに行き、映画館で「舞妓はレディ」を見ました。

  舞妓はレディ

 顔出し看板。
 公開前日の先週金曜日、四条河原町の交差点で、この顔出し看板を持ち出してキャンペーンをやっていました。
 そのときは、映画を見るはずもない海外ツーリストがよろこんで撮影!

 平日の昼間なのに100人くらい入っていて大盛況 !! さすが地元。作品は、タイトルもそうだけれど、さまざまな面で「マイ・フェア・レディ」を下敷きにしています。オードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」は、今年で公開50年。まぎれもなくオマージュなのですね、この作品は。
 主演の上白石萌音(もね)さんが、とても歌が上手で感動します。将来期待される若手の女優さん。
 京都出身の俳優さんが脇を固めていて、田畑智子さん、岸部一徳さんら。富司純子さんも大阪育ち、高校は京都ですから、安心して見ていられます。とりわけ田畑さんは、祇園の料亭の娘さんですから、ちょっと年嵩の舞妓さんというのは適役でしょうね。
 かなり、言葉(お国ことば)をめぐる物語になっていて、はじめ京都の観客にはどうかなと思いましたが、終映後のお客さんの雰囲気は楽しそうでした。

 映画館を出ると……

  舞妓はレディ

 舞妓さんが見に来てる -- わけじゃないですよ(笑) いわゆる“変身舞妓”っていうもの? それともキャンペーンの一種 ?? 3人とお付きの方が、映画館に入って行かれました。

 京都らしい微笑ましいシーンでした。




 吉水弁財天堂

 所在 京都市東山区円山町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「祇園」下車、徒歩約15分


寺町通にひっそりとたたずむ天性寺の弁天さんは、天河弁財天を勧請したという





天性寺弁天堂


 “弁天さん”について、ちょっと勉強

 前回、東寺の弁天堂を取り上げたので、少し弁天さんについてまとめてみましょう。

 弁才天は、ご存知の通り、七福神のひとつです。七福神のなかでは、大黒天や恵比須さんが早くに信仰を得たようですが、それについで弁才天も信仰を集めるようになりました。
 七福神は室町時代頃には成立したようですが、江戸時代になっても7人の神さまは定まっていませんでした。京の黒川道祐が著した「日次紀事」(1676年)巻1には、

 「およそ本朝、専ら神社を崇む。その中、俗間福を祈る者は、宇賀神ならびに恵美須、および虚空蔵、毘沙門天、弁財天、吉祥天、大黒天を信ず」

 とあって、現在考えられているものとは異なる神仏があげられています。

 しかし弁才天は、いわゆる「夷大黒」に次いで信心され、湖や海に浮かぶ近江の竹生島、相模の江の島、安芸の宮島(厳島)は三弁才天と称されていますし、陸前の金華山と大和の天川を加えて五弁才天という場合もあります(異説あり)。

 京都では、江戸時代に「弁財天二十九ケ所」というものがあり(「京羽二重」)、主に寺院の中にある弁才天が29か所あげられています。
 前回紹介した東寺の弁天さんは、21番として「東寺 築地の内」とあがっています。他にも、伏見稲荷や壬生寺、盧山寺、神泉苑の中などにあって、最終29番の岩本坊(油小路出水下ル町)は、その名からして江の島と関係があるのでしょう。

 弁天さん(十日戎)
  弁才天(中央) 十日戎の山車より

 インドでは川の女神であり、水と関連付けて信仰され、さらに転じて蛇がお使いとされることが多い弁才天。そのため、巳(み)の日にお詣りするのがよいともいわれ、また己巳(つちのとみ)の年に流行したといわれます。
 琵琶を弾く像が多いことからも分かるように、音楽をはじめとする技芸の神であり、「弁才」が「弁財」に転じて財福をもたらす神として崇められてきました。


 繁華街の中にある弁天さん

 今回は、寺町三条という繁華街の真ん中にある弁天さんを紹介しましょう。

 天性寺弁天堂
  寺町三条

 三条通から、アーケードのある寺町通を上がります。このあたりは古書店や古い喫茶店など、落ち着いた雰囲気があるところ。
 矢田地蔵の北側に、浄土宗の天性寺があります。

 天性寺
  天性寺

 お寺の前はいつも通るけれど、なかなかお詣りはしないもの。ずっと入っていくと立派な本堂があり、その奥に弁天堂がありました。

 天性寺弁天

 天性寺弁天

 石の鳥居があり、入母屋造のお堂があります。

 天性寺弁天堂

 ふつう蟇股がある部分には、このような彫り物が。
 どう見ても蟇股ではないけれど、法輪に、水を泳ぐ蛇の図柄でしょうか。弁才天=蛇というイメージが表れているわけです。彫刻としては、新しそう(近代)な印象。

 弁才天は、インド土着の神が仏教に取り入れられて日本に渡来したわけですが、実際には鳥居があったりして神さま扱い。このあたりが面白いですね。

 天性寺弁天 天性寺弁天

 「大弁財天」の額が懸り、祠も神社風に流造の社殿です。


 奉納品の数々

 天性寺弁天堂

 近所の方から信心を集めていて、赤い提灯がたくさん吊られています。
 また、社殿の背後には……

 天性寺弁天堂

 桶ですね。山積みされています。

 天性寺弁天堂

 名前や祈願内容が書かれています。
 ここにある大文字屋という屋号は、寺町三条を東へ入ったところ、つまり天性寺の南側にあった老舗旅館です。近年廃業されたようですね。
 ちなみに、先ほど提灯にあった大西京扇堂は、三条通にあるのですが、地図を見ると、弁天さんの真南に建っています。

 この桶を奉納するというのも、弁天さんと水のかかわりを示しているのでしょう。


 池の水は…

 もちろん、ここにも池があります。

 天性寺弁天堂

 ただ、今は干上がっていて水はありません。
 それでも離れて見ると、柳があって雰囲気十分です。

 天性寺弁天堂

 この弁天さんは、奈良の天河大弁財天を勧請したものといい、もとは火災防けで信仰されたそうですが、現在では子宝祈願も行われているそうです(『京都府の歴史散歩』)。火防けは、やはり水との関係でしょうが、子授けは弁天さんとしては珍しいのでしょうか。

 町中に、ひっそりとたたずむ弁天さん。
 一度お詣りされてはいかがでしょうか。


 天性寺弁天堂




 天性寺

 所在 京都市中京区天性寺前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「市役所前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「日次紀事」1676年(『新修京都叢書』所収)
 「京羽二重」1685年(『新修京都叢書』所収)
 宮田登「福神信仰の系譜」(『民衆宗教史叢書 20 福神信仰』雄山閣出版、1987年所収)
 宮田登「弁天信仰」(『民衆宗教史叢書 20 福神信仰』雄山閣出版、1987年所収)
 伊藤唯真「七福神もうで」(『七福神信仰事典』戎光祥出版、1998年所収)
 『京都府の歴史散歩(上)』山川出版社、2011年


池のほとりの東寺弁天堂は、お堂の彫り物と花頭窓が見どころ





東寺弁天堂


 変貌してきた東寺の伽藍

 東寺といえば、平安京以来の寺院で、空海が賜った真言宗の総本山です。
 つまり、1200年の歴史があるわけですが、その間に伽藍は焼亡などによって大きく変化してきました。いまでは平安時代の面影をしのぶことは、なかなか難しくなっています。

 しかし、そのことが逆に、人々とともに息づいているお寺という雰囲気を醸し出して、心地よいのですね。
 気になるのは、広い境内の中に、弘法大師の信仰とはちょっとずれた神仏が祀られていることです。
 なかでも、七福神がいくつか祀られていることが注目されます。御影堂のある西院エリアに毘沙門天と三面大黒天、北大門の外に弁財天が祀られています。これらは単独のお堂を持っています。

 今回は、弁天さんを取り上げてみましょう。


 池のほとりにある弁天堂

 北大門を出ると、細長い蓮池があります。

 東寺弁天堂

 池は、門外の東西に広がっています。その東部分のほとりに弁天堂が建っています。

 東寺弁天堂
  弁天堂 (北から望む)

 桁行三間、梁間三間、入母屋造の小さなお堂です。

 東寺弁天堂

 東寺弁天堂

 『東寺の建造物』によると、弁天堂の創建は詳らかではないそうですが、現在のお堂は天保年間(1830-1844)の建築だそうです。
 唐破風の拝所が目を引きますが、これはなんとなく後付けのような気がしています。

 東寺弁天堂

 後から付けたとしても、幕末か明治時代のものではあるでしょう。


 彫刻も見どころ!

 その唐破風の下は、念入りに彫り物で飾られています。

 東寺弁天堂

 大瓶束の左右に龍、蟇股には宝珠。少し平面的な印象です。

 東寺弁天堂

 東寺弁天堂

 木鼻には、立体的な獅子を。玉眼ですね。

 東寺弁天堂
  手の揃え方が可愛い!


 池に面して花頭窓を

 弁天堂は、西を向いて立っています。
 南面は、舞良戸(まいらど)をはめています。さすがに地味な印象がします。

 東寺弁天堂

 一方、北面は少し違います。

 東寺弁天堂

 舞良戸に加え、センターに花頭窓を持ってきています。
 やはり、池を意識して窓を開けているのですね。

 弁天さんは、インドではサラスヴァティーと呼ばれる河の神。日本では、「弁才天」が「弁財天」ともなって、「財」をもたらす神さまとして崇拝されてきました。
 念のため、弁財天について宮田登氏の解説を引いておきましょう。

 弁天さんといえば、福神の中でもとりわけ美しい女神だと思われているし、片手に琵琶を持ち、右手でこれを弾奏している姿から音楽の神だとも思われている。一方福の神でもとくに金銀財貨をたくさんもたらしてくれる存在とも考えられ、銭洗弁天などの名称もある。
 弁天さんの本名は、弁才天であるが、妙音天、美音天の名もあり、弁才と音楽を司る天部の神として知られる。
 本来インドの土着の神格であり、サンスクリットで Sarasvati という。インド神話には、河川の神として登場する。(中略)
 このインドの民間の神を仏教は吸収して天部の神に位置づけたのだが、そのときには、弁才を備え、福と知、長寿と財宝を与え、かつ災厄を除く天女だとしている。 (「弁天信仰」)


 東寺の弁天堂では、なかにおられる弁天さんが池を見られるよう、窓をうがったのでしょう。こう考えると、北面(池側)にだけ窓がある意味が理解できます。

 ところで、水にかかわることでは、このお堂の脇に井戸があったといいます。
 昭和8年(1933)に出版された井上頼寿『京都民俗志』には、次のように記されています。

 東寺弁才天閼伽[あか]井
 弁天堂の南に切妻の建物があり、甕[かめ]の中に水がためられてゐる。『閼伽場』の額があり、御供の水に用ひられる。(29ページ)


 この閼伽場の建物は現在はないようですが、このあたりで井戸水を汲んでいたとは興味深いことだと思います。


 もとは西の門からお詣り

 いま、このお堂には、北の橋から渡って来てお詣りするか、南の境内から小門をくぐってお詣りするようになっています。
 橋は、昭和9年(1934)の弘法大師1100年御忌の年に架けられ、それまではありませんでした。
 では、どこから参拝したかというと、北大門の脇にある西向きの門から入って来たのです。

 東寺弁天堂

 この門を開けると敷石の参道があり(現在は作業小屋になっている)、弁天堂に至ります。
 『東寺の建造物』に掲載された明治時代の複数の境内図にも、この門があり、鳥居があり、弁天堂が画かれています。
 おそらく戦前は参拝者が多かったのでこちらからお詣りしていたものが、北に橋が出来たので、そのルートに変更されたのでしょう。

 一帯には玉垣が整備されており、近辺の商業者から大阪の人に至るまで、幅広い信仰を集めていたようです。

  東寺弁天堂

 上の玉垣には「七条館 長谷川弁次郎」とあります。地元の映画館主でしょうか。伏見の侠客・勇山の名もあって、さまざまな人が寄進しています。
 東寺の中では、ひっそりとした一画ですが、時折お詣りの方も訪れて、根強く信心されているさまがうかがえます。

 最後に、ちょっとした疑問をメモしておきます。
 大正5年(1916)に編纂された『東寺沿革略誌』は、昭和9年(1934)に再刊されました。
 そこには、弁天堂は次のように記されています。

  弁天堂
 本尊弁財天像  弘法大師御作  一躯
 創建年代は未詳。現存の建物は、天保年中に建立せしものなり。北弁天堂、梁行二間、桁行三間の建造物は大正六年澤島清太郎の発願にて創建。(73ページ)


 なぞは、「北弁天堂」です。
 大正6年(1917)に、澤島清太郎という人の発願で建てられたといいます。梁行三間、桁行三間は、本書の記述では柱間ではなく実寸を示しているようです。
 「“北”弁天堂」というくらいですから、それまでの弁天堂の北方に建設されたのは疑えません。では、どこに?
 現在の弁天堂の北側はすぐ蓮池で、池の向こうには太元宮(昭和4年=1929建立)が建っていて、スペースはありません。
 では、もっと離れた場所に建てたのでしょうか?

 もしかすると、現存の弁天堂が「北弁天堂」で、南側に元の弁天堂(天保に建立)があったのでしょうか?

 今、これを解く手掛かりがないのですが、弁天堂周辺の空間を観察すると、いくつも納得いかない点があります。しかし、それは後日の課題にしておきたいと思います。




 東寺(教王護国寺)弁天堂

 所在 京都市南区九条町
 拝観 境内自由
 交通 近鉄「東寺」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『東寺沿革略誌』教王護国寺事務所、1934年
 『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物館、1995年
 宮田登「弁天信仰」(『民衆宗教史叢書 20 福神信仰』雄山閣出版、1987年所収)
 井上頼寿『京都民俗志』西濃印刷株式会社岐阜支店、1933年


<まいまい京都>東寺ツアーで、古建築を見てきました!





東寺


 今回も、建物をじっくりウォッチング

 4月の東福寺ツアーにつづき、<まいまい京都>さんの秋のメニューで、東寺に行ってきました。
 今回も満員御礼で、9月6日(土)、午前中とはいえ暑い中、2時間じっくり建物見学しました。

 東寺 御影堂

 東寺は、国宝・重要文化財の建造物が目白押し。
 だから、というか、なのに、というか、あえて細かいところに着目して、ご案内しました。

  東寺 南大門

 特に、木や石の魅力について、改めてお話してみました。
 また、細かい職人技があふれる彫り物についても注目。

 みなさん、礎石とか玉垣とか、これまで見過ごされたところに魅力を見出されたようです。

 東寺 解説中!


 東寺の記事をご覧ください!

 東寺については、これまでも多々記事にしてきました。
 ご覧いただくには、画面の左側、<MENU>のところの<洛中(南区)>をクリックしてください。
 東寺の記事が、ずらっと出てきます!

 当日お話し切れなかった内容も詳しく書いていますので、ぜひご覧ください !!

 東寺小子坊勅使門 小子坊勅使門

 また、話題になった「小子坊(こしぼう)勅使門」についても書いています。
 関連する建築家・亀岡末吉(京都府技師)のことと一緒に、2013年3月に連載しています。
 画面の左側<ARCHIVE>の<2013/03>から入れますので、ぜひ読んでみてください!

 では、またの機会にお会いしましょう!

 
  東寺



【新聞から】天候不順が夏の観光地を直撃 - 保津川下りへの影響が深刻 -

洛西




保津川


 観光地 今年の夏は? 白浜や保津川の船下り
 台風・雨天響き客足ダウン
 日経 2014年9月3日付



 今年の夏は雨が多く、日照時間も大幅に短くなりました。
 ことに8月上旬に西日本を直撃した台風11号は、各地に甚大な被害をもたらしています。

 日本経済新聞は、9月3日付朝刊の近畿経済面で、今夏の観光地の明暗をまとめています。
 京都では、五山の送り火(8月16日)が日中の豪雨の影響で、人出が昨年の半分(約4万人)に落ち込んだといいます。
 しかし、最も深刻なのは、保津川の船下り(保津川下り)です。

 今夏の保津川下りは、台風11号が接近した8月9日から、増水のため営業見合わせとなり、今日(9月4日)現在も運休が続いています。台風後も、連日のように雨が降り水位が下がらないためです。

 記事によると、運休による収入減などは1億4500万円に上るといいます。

 同組合[保津川遊船企業組合]の豊田知八専務理事は「130人いる『船士』は出来高払いなので運休の間は無給。生活面からも死活問題になっている。公的支援を求めていきたい」と話す。同組合は9月10日をめどに再開を目指す。(日経9月3日付)

 このように報じています。
 8月の京都市の総雨量は487ミリ。平年の3・7倍で、54年ぶりに最多雨量を更新しました。

 実は、私も知人らと一緒に、8月に保津川下りをする予定でした。
 8月18日、JR嵯峨嵐山からトロッコ列車に乗車し、亀岡から乗船することにしていました。
 ところが、9日から船下りは運休となり、当日も再開しないままでした。

  保津川くだり中止看板 8月18日撮影

 トロッコ嵯峨駅の看板です。
 
 トロッコ列車は運転していたので、トロッコ亀岡まで乗車しました。

 トロッコ列車
  トロッコ嵯峨駅のトロッコ列車

 トロッコ亀岡までは約30分。
 途中、車窓から保津川の濁流を見て、運航を中止せざるを得ない状況がよく理解できました。

 保津川 8月18日撮影
 
 保津川 8月18日撮影

 ふだん露出している岩や瀬も、すべて沈んでいます。

 この日は、鴨川も増水していました。

 鴨川
  8月18日の鴨川(四条大橋付近)

 保津川下りは、明治中期より行われ、戦前から内外の貴顕も多数乗船した京都が誇れる観光です。
 1日も早く運航再開になることを祈りつつ、再開されれた暁には、ぜひ乗船したいと思っています。


京都市内に点在する神明社は、神明造の立派な社殿が特徴的 - その2 -





高松神明


 高松殿の跡地にできた高松神明

 神明社めぐりの続きです。
 四条烏丸に近い頼政神明から、ずっと北に上がって、御池通の手前まで来ました。
 詳しくいうと、姉小路通新町西入ルです。
 
 ここには、平安時代、醍醐天皇の皇子・源高明の邸があった場所で、のち高松殿と呼ばれました。
 この場所に、高松神明社があります。通り名から、姉小路神明とも称されました。

 高松神明
  高松神明社

 前回紹介した「京羽二重」の神明社リストでは、9番に当たります。
 神明鳥居があり、参道の向こうに社殿が見えています。

 高松神明 高松神明

 高松神明

 天照大神のほかに、八幡神社と春日神社も祀っています。
 本殿は神明造だと思うのですが、よく見えないので分かりません。

 ちなみに、この神社の東にある新町通の両側町は、「神明町」という名前になっています(御池通の北辺から姉小路通まで)。昔は、もっと広い境内だったのでしょう。


 北野天満宮近くの高橋神明
 
 「京羽二重」には、7番に「北野東の鳥居二丁上ル所」という神明社が記載されています。

 北野天満宮の東の鳥居から、200m余り北の場所です。
 鳥居の前の道は御前通ですが、それを少し北上すると寺之内通にぶつかります。地図を見ると、そのあたりが「神明町」になっています。

 高橋神明
 高橋神明 神明町かいわい

 場所は、御前通寺之内下ルというわけですが、残念ながら今は何も残されていないようです。
 かつて、ここにあった神明社は、紙屋川に架かる橋の名を取って「高橋神明」と言ったようで、北野天満宮に近い神明社として知られていました。
 萩原龍夫氏によると、この神明社に「新伊勢」を勧請したのは室町時代の永享10年(1438)のことだそうです。ただ、先にふれた高松神明と名前が似ていることから、混同されることもあったといいます。

 「山城名勝志」巻7には、

 高橋ノ神明
 今、北野宮ノ北、高橋ノ東南一町許[ばかり]に坐す神明社ナルベシ


 と記されています。

 いま、その社は北野天満宮の中に遷座しています。
 お参りに行ってみると、残念ながら一帯の摂末社が修理中だったので、拝めませんでした。


 最後に訪ねた日向神明宮は…

 私が、この神明社めぐりを行ったのは、2014年8月13日でした。
 京都市内をぐるっと時計回りにめぐって、高橋神明でおしまいにする予定でした。
 しかし、少し欲が出てきて、一番大きな日向神明宮を訪ねてみようと思い立ちました。

 場所は、ウエスティン都ホテルのある蹴上(けあげ)から、旧東海道の坂を上って行った途中です。その左方の山に神明宮があります。かつては、粟田口神明とも呼ばれました。

 自転車を山下に停め、歩いて進むと、なにやら看板が。

 日向神明宮への道

 琵琶湖疏水に架かる橋に、「通行止」とあります。
 でも普通に行けるので進んでいくと、また通行止めの看板。
 それでも脇道を行ってみると、ついに……

 日向神明宮への道
   日向神明宮への道(2014年8月13日撮影)

 崖崩れ!

 直前の8月10日に関西を直撃した台風11号の爪痕です。
 やむなく引き返しました。

 掲出されている管理者の文書によると、迂回路からは神明宮に行けるとのことでしたが、その日は遠慮しました。関係者の方にはお見舞い申し上げます。

 最後に、災害のおそろしさを認識した神明社めぐり。
 社殿や参道の維持は昔から大仕事で、社地の移転に伴う出費や苦労も並み大抵のものではありません。そんな大変さを感じた神明社めぐりでもありました。




 高松神明社

 所在 京都市中京区姉小路通釜座東入ル津軽町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京羽二重」(『京都叢書』所収)
 「山城名勝志」(『新修京都叢書』所収)
 萩原龍夫「京都の神明社」(『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣、1985年所収)