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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

京都市内に点在する神明社は、神明造の立派な社殿が特徴的 - その1 -





朝日神明


 江戸時代にはやった神明社めぐり

 江戸時代、京や大坂、江戸のような大都市では、庶民の間で「〇〇めぐり」といった信仰が盛んになりました。
 観音霊場めぐりとか、六地蔵めぐりとか、七福神めぐりといった、特定の神仏を詣でるスタイルです。

 貞享2年(1685)に刊行された「京羽二重(きょうはぶたえ)」を見ると、さまざまな「〇〇めぐり」が載せられていますが、その中に「神明二十一箇所参」というものがあります。
 京都にある神明社を1番から21番まで順々にお参りするための案内です。

 神明社(神明宮)は、前回ふれたように、いわゆる“お伊勢さん”を勧請したもので、天照大神や豊受大神を祀っている神社です。

 少々わずらわしいのですが、21か所を転記しておきましょう(「京羽二重」巻2より)。

 一番   吉田本社後の宮
 二番   寺町通下御霊の内
 三番   寺町今出川上ル長福寺の内
 四番   塔の段ぎやうじくはんの内
 五番   上御霊の内
 六番   柳原川勝の辻子
 七番   北野東の鳥居二丁上ル所
 八番   出水通千本東へ入町
 九番   姉小路通新町西へ入町
 十番   仏光寺通新町西へ入町
 十一番  寺町通四条の辻
 十二番  四条通建仁寺町角
 十三番  三条通黒谷車道一町東
 十四番  粟田口山上
 十五番  祇園塔の下
 十六番  霊山国阿上人の上
 十七番  五条若宮八幡の内
 十八番  稲荷之内奥の社へ行道
 十九番  ふや町通五条上ル町
 二十番  富小路通五条上ル町
 二十一番 綾小路通東洞院東へ入


 神社名がなく、場所だけを記しています。寺社などの中にあるものも多いですね。
 21社をすべてめぐってもよいし、個々のものを詣でてもかまわないわけです。


 現代に残る神明社の数々

 これら21社のうち、今ではなくなったものもありますが、300年以上の時を超えて現存するものも多くあります。
 そのいくつかを紹介してみましょう。

 12番「四条通建仁寺町角」というのは、前回取り上げた太神宮ですね。

 14番「粟田口山上」とあるのは、おそらく京都の神明社の中で最も著名な日向大神宮を指しています。
 「都名所図会」には、「粟田神明宮」の名で現れます。図には、蹴上から日ノ岡の峠を越える途中、山上に描かれています。また、幕末の「花洛名勝図会」には、「日山(ひのやま)神明宮」の名前で記載され、「日向(ひむき)の社」とも「朝日宮」とも呼ばれると記されています。

 「花洛名勝図会」より「日山神明宮」
  「日山神明宮」(「花洛名勝図会」巻2)

 そして、1番にあがっている「吉田本社後の宮」。
 吉田神社の大元宮の背後には、内宮と外宮が祀られていました。

 「花洛名勝図会」より「神楽岡斎場所」
 「神楽岡斎場所」(「花洛名勝図会」巻3)

 八角形をした「本社」の左奥に「内宮」と「外宮」が描かれています。この社殿も、現在祀られています。


 市街地に残る小さな社

 「京羽二重」の19番と20番は、「ふや[麩屋]町通五条上ル町」と「富小路通五条上ル町」で、隣接した場所になっています。麩屋町通と富小路通は、南北に並行して走る通りです。
 実際に、現地へ行ってみました。

 まず、麩屋町通五条上ルの場所。

 朝日神明
  朝日神明宮

 ここは、下鱗形町といいますが、朝日神明宮という神社が鎮座していました。
 北側は空地(駐車場)になっており、境内は広くないのですが、かつては広大な社地を持っていたようです。

 社殿は、一見、瓦葺の入母屋造のようにみえます。

 朝日神明

 しかし、実はこれは覆屋(おおいや)で、本殿はこの中に収まっているのです。

 朝日神明

 茅葺の神明造の社殿です。
 “お伊勢さん”を祀っていることがよく示されています。
 覆屋との落差があって、少し驚きますね。

 この社殿の背後には空地があり、その東端に末社の猿田彦社があります。

 朝日神明

 額には、猿田彦命と宇寿女命(うずめのみこと)を祀っていることが記されています。
 サルタヒコは「古事記」などの天孫降臨神話で登場しますが、伊勢にも内宮の近くに猿田彦神社もあり、そういった関係でここにも祀られているのでしょう。

 朝日神明


 移転された神明社

 つづいて、1本西の通り、富小路通に行ってみました。
 ここには、社殿はないのですが、町名表示板には、

  朝日神明

 「本上神明町」と記されています。「もとかみしんめいちょう」ですね。
 元来ここにあった神社がどこかに移ったという雰囲気の町名ですが、さてどこに移転したのか?

 それがかなり離れた泉涌寺(東山区)のあたりだったのです。

 京都国立博物館のある東山七条を南へ下がり、泉涌寺道の1本北側の道を東へ入ります。この道は、地元では「剣道」(けんどうではなく、つるぎみちです)と呼んでいるようですが、その坂の上に剣神社(剣宮)があります。

 剣神社

 この神社の境内東側に、神明社が遷座しているのでした。

 剣神社朝日神明

 鳥居は、伊勢神宮に用いられる神明鳥居です。
 社号を確認してみると、

 剣神社朝日神明

 「朝日神明宮」となっています。
 さきほどの麩屋町通の社と同名ですね。この部分は、よく考えるべきところなのですが、少し分かりかねているので保留しておきましょう。

 社殿はというと、切妻造瓦葺の立派な覆屋があり、その中に神明造の本殿があるのでした。

 剣神社朝日神明

 剣神社朝日神明

 やはり、みんな神明造だと思うと、次が楽しみになってきますね。


 ヌエ退治伝説がある頼政神明

 また市街中心部に戻って、綾小路通烏丸西入ルへ。
 「京羽二重」の21番に当たる場所。ここに、頼政神明があります。

 頼政神明
  頼政神明

 社号標には、単に「神明神社」とあります。いまは同じ境内に文子天満宮も祀られています。
 こちらは、社名の由来にもなった源頼政(よりまさ)の説話が、他社に比べて目を引きます。

 源頼政は、平安時代終わり頃の武将で、弓の名手としても知られますが、以仁王の乱(1180年)で敗死しました。
 彼の「ヌエ退治」伝説はよく知られています。
 朝廷の警護をしている時、あらわれたヌエ(鵺)を退治し、天皇の病を治したというものです。ヌエは、頭が猿、胴または手足が虎、尾が蛇という怪獣です。
 弓の名手であった頼政は、退治の大役を仰せつかり、見事ヌエを射止めて、その矢じりを当社に奉納したと伝えられています。

 頼政神明
  奉納絵馬に描かれた頼政のヌエ退治
 
 奉納された矢じり2本は、現在も当社に納められていて、ふだんは写真が掲出されています。かなり大きめの矢じりでした。

 頼政神明

 社殿は、こちらも神明造。屋根は桧皮葺です。
 かつては榎の大木があったことから、榎神明とも呼ばれたといいます。

 実は、まだあるのですが、長くなってきたので続きは次回に。




 朝日神明宮

 所在 京都市下京区麩屋町五条上る下鱗形町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車「清水五条」下車、徒歩約10分


 剣神社(朝日神明宮)

 所在 京都市東山区今熊野剣宮町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「泉涌寺道」下車、徒歩約10分


 神明神社(頼政神明)

 所在 京都市下京区綾小路通高倉西入る神明町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年
 「京羽二重」(『京都叢書』所収)
 萩原龍夫「京都の神明社」(『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣、1985年所収)


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江戸時代、四条大和大路にあった“お伊勢さん”太神宮は、参詣者で大にぎわい

洛東




四条大和大路


 名所図会にある謎の神社?

 なにげなく「都林泉名勝図会」を見ていたら、にぎやかな神社のな絵が目にとまりました。

 この書物は、主に京都の庭園を紹介し、寛政11年(1799)に刊行されていますが、意外に庭以外のことも取り上げていて、おもしろいんですね。その一例が、この絵です。

  「都林泉名勝図会」より「四条縄手辻太神宮」
  「都林泉名勝図会」巻2より「四条縄手辻 太神宮」

 小さい境内ながら、鳥居があり立派な社殿のある神社です。
 男女大勢の人たちが群集し、参詣しています。画面左上には酒屋もあって、そちらに興味の向く人もいるようですね。

 タイトルは、「四条縄手辻[なはてのつぢ] 太神宮[だいじんぐう]」とあります。
 提灯や灯籠にも「太神宮」の文字が見えます。
 
 太神宮とは、何なのか?
 辞書を開けば、

 (1)天照大神をまつる宮。すなわち、伊勢の皇大神宮(内宮)。また、天照大神をいう。
 (2)伊勢の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称。 


 とあって、文字は「大神宮」と「太神宮」が併記されています(『日本国語大辞典』)。

 つまり、平たく言えば“お伊勢さん”のこと。伊勢にある伊勢神宮を指すとともに、各地に勧請された神社も指しています。

 ということで、この絵もお伊勢さんを勧請した社なので、社殿をよく見ると、

  「都林泉名勝図会」より「四条縄手太神宮」

 屋根に千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)があって、伊勢神宮と同じ神明造になっていること分かります。
 ただ、屋根には反りがあって、少し流造風に見えますね。


 四条縄手辻

 この場所ですが、名勝図会には「四条縄手辻」と書いてあります。
 「縄手」とは、縄手通の意味で、大和大路のことです。鴨川の脇の川端通より1本東の通りです。
 辻ですから、四条通と大和大路の交差点(角)にあったということでしょう。

 黒川道祐「雍州府志」を見ると、

 神明社 地蔵堂西、四条辻にあり、すなわち伊勢太神宮なり

 とあり、「神明社」とも呼ばれていたことが分かります。
 ここにみえる地蔵堂とは、めやみ(目疾)地蔵(仲源寺)のことです。めやみ地蔵は、大和大路の南東にありますので、太神宮はその西横、角にあったということになります。

 「都林泉名勝図会」の記述を読むと、こう書かれています。

 近年破弊に及びしを ぎをんの妓婦女伶のともがら きそひて寄進し、寛政十年の夏 再建なりて壮麗たるやしろとなる

 近年、神社の社殿は崩れてしまったが、祇園の綺麗どころの女性たちが寄付をして建て直した。それが寛政10年の夏のことだということです。

 寛政10年は、1798年。「都林泉名勝図会」が出版された前年なので、書いてある内容も信用がおけそうですね。

 この絵の社殿があった場所は、現在このようになっています。

 四条大和大路
  左右の通りが四条通

 いま角は、八ツ橋などを売る土産物店になっています。
 ということは……

 1799年から2014年の間に(200年以上ありますが!)、この神社はなくなったということになります。

 どうなったのか?
 少し古い文献、「京都坊目誌」(下京第十五学区)を調べてみました。
 すると、

 神明ノ社址  祇園町南側仲源寺の西角にあり。創建年月詳ならず(中略)
 慶応三年 附近火あり、為に類焼す。其後仮殿たりしが、明治六年 八坂神社境内に移す。


 と書かれています。
 慶応3年(1867)に近所で火事があり、神社は類焼してしまった。その後、仮殿だったが、明治6年(1873)、八坂神社の境内に移した、という記述です。
 

 八坂神社に遷座

 ということで、八坂神社に行ってみました。
 
 八坂神社大神宮社

 本殿の右手(東側)から裏手にかけては、摂社、末社がたくさん並んでいます。
 そのなか、一番南にありました。

 八坂神社大神宮社

 大神宮社です。

 写っているのは神門ですが、屋根をよく見ると神明造になっていますね。

 八坂神社大神宮社

 八坂神社大神宮社

 「内宮」「外宮」という額が掛かっています。

 ということは社殿も、

 八坂神社大神宮社

 こんなふうに、内宮と外宮の2殿があります。
 江戸時代、四条大和大路では1つの祠でしたが、立派になったわけですね。

 少し微笑ましいのは、この石。

 八坂神社大神宮社

 二見石と書かれています。遠目で分かりづらいのですが、伊勢・二見が浦の夫婦岩を模したものでしょう。
 
 というわけで、四条縄手辻にあった太神宮は、いまは八坂神社内の大神宮社となっていることが分かります。

 調べているうちに、江戸時代の京都には、他にもお伊勢さんを祀った神明社(神明宮)がいくつもあったことが分かってきました。そこで私も、市内にある神明社めぐりをしてみたのです。
 次回はそれを紹介します。

 八坂神社大神宮社




 八坂神社 大神宮社

 所在 京都市東山区祇園町北側
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年
 黒川道祐「雍州府志」1686年(『京都叢書』所収)
 碓井小三郎「京都坊目誌」1915年(『京都叢書』所収)


今日は、朝から地蔵盆

その他




地蔵盆


 8月下旬の週末は、地蔵盆 

 京都では、8月下旬の週末は、どの町内でも地蔵盆です。

 今日は8月23日(土)。
 うちの町内は、今年(2014年)は今日が地蔵盆です。
 数年前までは、土曜日曜と2日間で行っていたのですが、お世話する側の事情で1日に縮まりました。少しずつ簡素化していくというのか、コンパクトになってきて、以前行われていた「足洗い」という慰労会も今はやっていません。

 京都では、各町内にお地蔵さんを祀っています。他地域から来た人が見ると驚くそうですが、とてもたくさんあります。どちらも、家並みにくっつくような小さな祠を設け、そこにお祀りしています。お地蔵さんは石造が多くて、うちの町内も素朴に石を彫ってつくられています。
 地蔵盆は、もともとは旧暦の7月24日(24日はお地蔵さんの縁日)に行われていた行事です。現在では8月24日ということになりますが、やはり土日に行うのが都合がよいため、その時期の週末に行われます。
 お地蔵さんは子供を守護されるということから、地蔵盆は子供の行事で、小さな子供たちがお地蔵さんの前に集まって、ゴザの上でいろんなことをやって楽しむ、という感じでしょうか。

  地蔵盆

 これは、うちの町内の予定表ですが、10時から開始し、事前に買っておいたお菓子を配り、ゲームなどをします。
 正午にお昼ごはんを食べるのですが、近年はマクドナルド! を買ってきますね。まあ、これも時代の流れです。子供が喜びますからね。
 午後は、2時にゲーム、かき氷、そして景品が当たる福引と続きます。そのあと大人の福引もあるんですね。
 4時で終了です。

 以前、2日日程のときは、夕暮れ時に消防署から借りてきた防災映画の上映(壁に映す)などもやっていました。
 また、私が子供の頃、実家の地蔵盆では珠数まわし(大きな数珠を子供たちが回していく)も行っていたような気がします。


 朝7時からテント建て

 昼間、子供のお世話は地域の奥さん方にやっていただくのですが、われわれ男性陣は早朝から準備を行います。
 毎年、午前7時からテント建てが始まります。

 地蔵盆

 少し分かりづらいのですが、運動会で張るようなホロを掛けたテントを張ります。
 まず、近所の倉庫からテントの骨組み(鉄パイプ)、ホロ、提灯、そして床几(しょうぎ、木製の腰掛け)や備品を運び出します。
 続いて、テントの骨を組み立て、屋根部にホロを掛けて、立ち上げます。骨組みを立てるのには最低6人必要なので、朝の作業は10人弱くらいでやっています。

 ちなみに、テントを張っている場所ですが、路上です!
 昔から、路上でやっている町内も多いと思います。これは、お地蔵さんが路傍にあるためでしょう。
 私の実家の方では、町会所があったため、そこでやっていましたが、これもお地蔵さんが会所のすぐ近くにあったためだと思います。

 テントが張れると、お地蔵さんの名前が入った提灯をぶら下げます。
 正面の白い大きなものは、左右の電柱にロープを張って吊っています。
 小さな赤いものは、子供さんの名前が入っている奉納品です。

 あとは、お地蔵さんを洗って、前掛けも地蔵盆用の紫色のものに代え、祠の破風にも紫の幕を張り、供花をそなえます。
 写真に写っている紫色の幕は、いつも破風の木に画鋲で留めています! このへんの感じが何とも町内なんですよ。

  地蔵盆

 おもしろいのは、お札づくり。
 地蔵盆では、町内のお宅から寄付をいただくのですが、その皆さんに家に貼っていただくお札をお渡ししています。そのお札を当日朝に作るのです!

 地蔵盆
 
 実に古そうな版木を使って、そこに墨を塗り、切った半紙に押していきます。地蔵尊の朱印も押して完成。
 もともと墨ではなくて黒のスタンプでやっていたのですが、スタンプを買い替えていないので何年もインク切れ状態! そのくせ翌年になっても新品を買い忘れてしまっているという、このへんの感じもいいんですね(笑)

 お札は30枚くらい作るのですが、きれいに押すのが難しい。今年は子供たちが手伝いました。

 あとやることは、お賽銭の勘定。
 ほとんど5円玉と10円玉です。
 のちほど郵便局でお札に交換されます。会計も報告されていて、きっちりしています。

 こんなふうに準備が進み、今年は8時半頃に終了しました。
 私は、今日は仕事のため、そのあとに出勤!

 地蔵盆は年に一度なので、段取りも結構忘れたりします。それでも思い出し、少々の工夫もしながら続けています。
 うちの町内は、京都の近郊農村的な地域ですが、それなりに歴史もあると思います。そのため、古くから住んでいる方と新しく来た方とが混じっている町内です。新旧入り混じって準備していますが、最近はマンションもできてきて、少し様変わりかも知れません。

 われわれの中では、お地蔵さん脇のお宅のおじさんが最長老だったのですが、昨年の地蔵盆のあとに亡くなりました。
 それでも、今年は中高生の子供たちも手伝ってくれて、滞りなく準備できました。

 「地蔵盆」というと、なにか“伝統行事”のように思われ、事実そうなのですが、やっている私たちにとっては“今”の行事です。なので、思われているほど意識してやっているわけではありません。
 それでも、行うためには、やり方の引き継ぎも必要なので、おそらくそれが伝統と呼ばれるものになっていくのでしょう。ただ、それも過度にカッチリと守られているわけでもなく、かなり柔軟に、あるいはアバウトに変わっていきます。それが現実的な行事のあり方だし、「伝統」というものの実態だとも思うのです。

 ふだん仕事にかまけている私にとって、地蔵盆は「地域で暮らす」ということを毎年考えさせてくれる、とてもよい機会になっています。


 最後に、京都市が実施した地蔵盆に関するアンケート(平成25年度)から、その現状に関する結果をご紹介しておきましょう。

・お地蔵さんを祀っている自治会、町内会…71%
・地蔵盆を行っている自治会、町内会…79%
・お地蔵さんのある自治会、町内会では…94%が地蔵盆を行った
・ないところでも…34%が地蔵盆を行った
・開催日数は…1日間が78%、2日間が19%
・開催場所は…祠の前(39%)、個人宅(23%)、
      ガレージ等の空地(17%)、集会所・公園等(12%)、
      道路上(11%)
・行事プログラムは…お菓子配り(91%)、福引(68%)、
          僧侶の読経(52%)、珠数まわし(43%)

   ※京都市「京都をつなぐ無形文化遺産」ウェブサイトより


  地蔵盆 お地蔵さん




 地蔵盆

 所在 京都市内各町内
 時期 毎年8月24日頃

 

【お知らせ】まいまい京都で、東寺のツアーを開催します!

その他




  まいまい京都

 京都で楽しいガイドツアーを行っておられる≪まいまい京都≫さん。

 4月に、東福寺の建築を見るツアーをさせていただき、たいへん好評でした。
 今回は、その第2弾!
 東寺での“伽藍進化論”です!

  東寺

 日時・内容は、次の通りです。

 テーマ:建築史探偵団と東寺へ!
     1200年のおもしろ伽藍進化論
     ~平安から昭和まで、進化し続ける寺社建築の楽しみ方~

 日 時:2014年9月6日(土)10:00~12:00

 場 所:東寺(集合は、近鉄電車「東寺」改札口)

 参加費:2,000円

 定 員:18名 (要予約) 


 詳しくは、まいまい京都のウェブサイトで!! ⇒ ≪まいまい京都≫


 東寺は、迫力のある仏像群で愛好者が多い寺院ですが、建築の隠れた名所でもあるのです。
 金堂、五重塔、御影堂(大師堂)、蓮花門、そして観智院客殿は国宝、5つの門と講堂や宝蔵、潅頂院は重要文化財です。
 国宝・重文の宝庫である京都でも、これだけ指定建築が揃っているところは稀有ですね。

 東寺
  東寺 金堂

 豊臣家によって寄進された金堂。
 桃山時代の、大仏殿風の巨大建築です。真正面から見ると、美しいですね。

 東寺
  東寺 南大門

 明治時代、三十三間堂の西門を移築した南大門。
 この門も、変遷が激しくて興味深いです。

 東寺
  東寺 小子坊勅使門

 小子坊(こしぼう)の勅使門。
 京都で展開した近代和風建築の一例です。未指定なので見落とされがちですが、細部装飾など美しい唐門ですね。

 こんな感じで、2時間にわたって、東寺の諸堂や門を詳しく見ていきます。
 ぜひご参加いただければと思います。

 申し込みは、≪まいまい京都≫ウェブサイト からお願いします。
 8月20日(水)20時から、受付開始です!


雨模様、五山送り火





大文字五山の送り火


 雨を縫って、送り火

 詳しく覚えているわけではないけれど、大文字の日にこれほど強く雨が降るのも記憶にありません。

 今日(2014年8月16日)、私は仕事でしたが、昼間からも結構雨が降り、大文字が灯されるかどうか気が気ではありませんでした。
 帰りの電車も、意外に乗客が少なく、駅の案内で「鴨川の河川敷は立入禁止」と表示されるなど、不安な気持ちでした。

 それでも、8時になると雨は止んで、いつものように五山に火が灯りました。

 大文字五山の送り火
  斜めから見た「大文字」

 今日は、地元のテレビ局・KBS京都の生中継(が、あるのです、京都では!)を見ながら、実際の点火も見るという“二元中継”をやってみました。

 大文字五山の送り火
  少し斜めの「法」

 今年から、五山の点火間隔が均等になりました。
 8時に大文字が、8時5分に妙法が、というふうに、5分ごとに点火していきます。

 私にとって、懐かしいのは、やはり船形。子供の頃、よく賀茂川の堤防から見ていました。
 今宵も赤々と燃え上がります。

 大文字五山の送り火
  昔と変わらぬ「船形」

 八木透先生のテレビ解説も、ためになるもので、少し浮世離れした心地で30、40分すごしました。

 五山のうちでも鳥居形は近くに行かないと見えないのですが、来年お天気だったら見てみたいなぁ、と思わせる、雨模様の送り火でした。




 五山送り火

 8月16日、午後8時から順次



ご愛読ありがとうございます! -ブログ2周年-

その他




比叡山


 この1年も、京都の歴史と文化財をリポート

 いつもご愛読ありがとうございます。
 この≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫も、おかげさまで2周年を迎えました!

 2012年8月12日にスタートして、早いもので丸2年。書いたリポートは、242本になりました。
 見る、撮る、調べる、書く、という流れで、日々すごしてきた印象。そのプロセスについては、1周年で書いたものをご覧ください。 記事は、こちら! ⇒ <ご愛読ありがとうございます-ブログ1周年->


 “三日殿下”で、がんばる

 ご愛読いただいているみなさんならお分かりのように、このブログは3日に1度、リポートをアップしています。
 実は、これがなかなか大変で……

 京都の町と歴史は“ネタの宝庫”なのですが、さすがに何でも書けるわけではありません。
 なので、200本以上書き続けていると、いわゆる“ネタ切れ”が起こってくるのです……

 3日目になっても、何を書くか決まらないときも往々にしてあり、その際の悩ましさは言葉では表せません。
 自分では、明智光秀公の「三日天下」にならって?、“三日殿下”(3日ごとにブログを書く人の意味=もちろん造語)と自称して、歯を食いしばって書く毎日です(笑)


 150年~200年前は“遠い昔”

 ブログを書いていて痛感するのは、いつまでたっても、知らないことが多いということ。

 たとえば、幕末の名所図会のひとつ、「花洛名勝図会」は、1864年に刊行されました。今からちょうど150年前ですね。
 そこに書いて(描いて)ある事柄は、現代人の私にとっては、想像もつかない遠い過去の出来事。イメージしようと思っても、なかなかイメージしきれない、“別世界”のことのように感じられます。

 150年前というと、4、5世代前です。
 私の祖父母は、明治30年代頃の生まれ、曽祖父母は明治初期の生まれです。4世代前が幕末の人ということになります。
 そこまでさかのぼると、もう日常生活の実感や文化の様相など、まったく分からなくなるのもやむを得ないでしょう。

 また、「都林泉名勝図会」なら、1799年刊ですから、215年前。
 最も著名で、挿図もよく見る「都名所図会」は、1780年の刊行ですから、234年前のものです。このように江戸中期になると、かなりの隔たりがあります。
 この隔たりを埋めようと日々努力するのですが、なかなか困難で苦労しています。

 ということで、次回は、「都林泉名勝図会」から、今とは掛け離れたひとつの例を取り上げて、お話してみたいと思います。
 3年目の≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫をよろしくお願い申し上げます。


【新聞から】左京区役所跡に石碑建立へ





旧左京区役所庁舎


 京都・左京区役所旧庁舎の歴史、後世に
 住民が石碑建立へ
 京都 2014年8月10日付


 記事によると、左京区の東一条に3年前まであった左京区役所の跡地に、地元の人たちが石碑を建てる計画を進めているということです。
 実行委員会を作って、募金活動が開始されました。

 先日、私も跡地前を通りましたが、旧庁舎は完全に取り壊され、新たな建築の工事が始まっていました。
 なにが建つのかな? と思いましたが、記事によると、土地は京都大学が取得し、研修施設を建てるのだそうです。完成は12月といいますから、もうすぐですね。

 旧左京区役所庁舎
  旧左京区役所 (2013年1月撮影)

 これが、ありし日の旧庁舎。区役所が松ヶ崎に移転したあとの姿です。
 昭和5年(1930)に建てられた近代建築。
 昭和初期らしく、コーナーを曲線的に処理し、東一条通側を3階建、奥行を2階建にして、段差を付けています。

旧左京区役所庁舎

 装飾は控えめで、役所の庁舎らしいですね。
 利用時は、写っていない東側から入るようになっていました。

 『日本近代建築総覧』を見ても詳しいデータはなく、デザイン的にも突出したものではないのですが、約80年前の近代建築です。移転の際、保存するかどうかという話も聞いた覚えがありません。なにか、ひっそりと取り壊された印象です。

 私にとっては、この建物は<建築=文化財>として映るのですが、地元の方は違うようです。
 建碑の実行委員長となった方は、「ここに区役所があったことが忘れられるのは悲しい」と言っておられるように、区役所の存在が記憶として重要なようです。

 通常、大きな施設があると、違法駐車やごみのポイ捨てなど迷惑がられることも多いのですが、<区役所のある地域>というのが誇りだったのでしょうね。

 市役所跡の石碑というのは見たことがありますが、区役所というのは珍しいのでは?
 それだけ、地元の人たちには愛着がある施設だったのでしょう。

 いま、上京区役所も建て替え中ですが、こちらはどうなのか気になり始めました。


  旧左京区役所庁舎




 左京区役所跡

 所在 京都市左京区上阿達町
 見学 旧建築は取り壊し
 交通 市バス「京大正門前」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『新版 日本近代建築総覧』技報堂出版、1980年


お精霊さんを迎える六道珍皇寺の六道まいりは、その名の通り「迎鐘」をつく

洛東




六道珍皇寺


 ふだんは、ひっそりとした寺院

 大和大路から松原通を東に入って、この前まであった松原警察署跡を通り、その先に進むと、「六道の辻」という場所があります。右折(南行)すると六波羅蜜寺です。

 六道の辻
  「六道の辻」 左右の道が松原通

 六道の辻とは、なんとなく恐ろしい名前ですが、冥界への入り口といった場所なのです。
 謡曲「熊野(ゆや)」に、「愛宕(おたぎ)の寺も打過ぎぬ。六道の辻とかや。実(げ)におそろしや此道は、冥途に通ふなるものを」という一節もあるくらいです。

 その先に、ひっそりとしたお寺があります。

 六道珍皇寺

 六道珍皇寺。「ろくどうちんこうじ」と読み、「ちんのうじ」とする場合もあります。
 今日は、このお寺が、年に一度にぎわう話です。


 六道まいりの善男善女

 毎年、8月7日から10日は、「六道まいり」と称して、この寺に詣る人達が多いのです。

 六道まいりの松原通

 これは、先祖の霊、京都でいう「おしょらいさん」(お精霊さん、お聖霊さん)を迎えるため、六道珍皇寺に詣るもので、お盆の行事のひとつです。
 
 六道珍皇寺
  六道珍皇寺

 お寺の看板に書かれた、お参りの仕方を紹介しておきましょう。

 1.参道で高野槇(こうやまき)を買う
 2.本堂前で水塔婆(みずとうば)に亡き人の戒名・俗名を書いてもらう
 3.迎鐘(むかえがね)を撞く
 4.水塔婆を線香で清める
 5.地蔵尊のご宝前にある高野槇で水回向(えこう)をし、そこに納める

 まず、高野槇ですが、こんな植物です。

 高野槇  高野槇(コウヤマキ)

 松のような針葉樹ですが、これが門内などで売られています。

 六道珍皇寺

 高野槇

 なぜ槇かということについては、「雍州府志」(1686年)には、「毎年七月、盂蘭盆会の前、九日、男女参詣、鐘を撞き、而して槇の枝を買いて家に帰り、霊前に置く。俗に伝う、聖霊、槇の葉に乗じて来たると也。これ、依草附木の謂か。是れを聖霊を迎ゆると謂う」とあります。
 ご先祖さんの霊が、槇の葉に乗って帰って来られる、というのです。乗り物なんですね。

 高野槇というと、考古学などでは棺(ひつぎ)の材として知られ、水に強く腐りにくいので、湯船の材にも使われます。私も、和歌山県・湯の峰温泉で高野槇のお風呂に入ったことがあります。
 名前の由来である高野山では、仏さまへの供花に用いられます。

 六道珍皇寺

 六道珍皇寺

 水塔婆に名前を書いてもらいます。
 水塔婆(みずとうば)とは分かりづらいですが、ごく薄い木の板、経木(きょうぎ)のことです。

 水塔婆 水塔婆

 水塔婆に故人の名を書いて水に流して供養するのは、大阪の四天王寺などでもやっていますね。
 最後にこれを納めるのですが、ほかと違うところは、「迎鐘」を撞くというところです。

 迎鐘の名の通り、亡き人を呼ぶ鐘です。

 六道珍皇寺 迎鐘

 鐘楼の花頭窓の下に、赤い部分が見えるでしょう。あの綱を手前に引っ張ると鐘が撞けるのです。
 ふつうの鐘と違って、引くところに“迎える”というイメージが重なるのでしょうね。

 六道珍皇寺

 ただ、この鐘を撞くためには、大行列に並ばないといけません……

 六道珍皇寺

 お寺の外まで延々と列が続いています。

 六道珍皇寺

 迎鐘を撞いて、

 六道珍皇寺

 たくさんの石地蔵がある「賽(さい)の河原」で水回向して、お参りを終えます。

 六道珍皇寺の六道まいり。
 江戸時代から、多くの善男善女が参詣したお盆の行事です。




 六道珍皇寺

 所在 京都市東山区大和大路通四条下ル四丁目小松町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「清水道」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『雍州府志』岩波文庫、2002年
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』角川書店、1979年
 

森浩一先生の思い出を、今回は少し“ゆるめ”で

その他




  『戦後50年古代史発掘総まくり』


 脱領域の学問スタイル

 本棚をさぐってみたら、『戦後50年 古代史発掘総まくり』という「アサヒグラフ」の別冊が出てきました。1996年4月に発行されたものです。
 2,500円で、結構いいお値段ですから、たぶん誰かにもらったのだと思います。

 「アサヒグラフ」というと、かつて毎年末に、1年間の発掘回顧の特集が組まれていたのが名物でした。その取り仕切りをされていたのが森浩一先生です。
 別冊『古代史発掘総まくり』も、その延長で編集されたものなのでしょう。先生の「終戦前後の考古学と僕」という原稿が掲載されています。

 8月6日は、考古学者・森浩一先生の命日です。今年は一周忌。少しだけお付き合いください。

 なお、昨年書いたものは、こちらです ⇒ <社会に対する強い「信頼」が生んだ学問-森浩一先生を悼む―>

 『古代史発掘総まくり』には、「画期をつくった50の遺跡」が取り上げられていて、1946年の岩宿遺跡から1994年の三内丸山遺跡まで、各時代各地域の遺跡が並んでいます。

 私が大学に入ったのは1984年でした。その前後を見てみると、

 ・1980年  新保本町チカモリ遺跡 (コラム:真脇遺跡)
 
 ・1984年  荒神谷遺跡

 ・1985年  藤ノ木古墳

 などが上げられています。

 おそらく、一般的には、豪華な馬具が出た藤ノ木古墳(奈良県)が有名ですね。

 私にとっては、1回生の年、出雲から大量の銅剣が出土して話題になった荒神谷遺跡(島根県)が印象的です。森先生が現地で実際に見られた知見などをもとに授業で話され、私達も自分で見たかのようなリアルさをもって受け止めていました。

 また、一般には余りなじみのないチカモリ遺跡と真脇遺跡(石川県)も、授業によく登場し、おなじみでした。日本海側にある縄文時代の巨木文化を示す遺跡として、重視されていたのでした。
 これらの遺跡に注目されたのは、そのころ日本海側の文化に関心を持っておられ、巨木文化がそこにあったという先進性に着目されたのだと思います。
 日本海の話では、「潟湖」(かたこ、せきこ。先生の読み方では「かたこ」)、すなわちラグーンの港としての機能の話も出てきました。交通、流通を陸からだけでなく海からも見る視点ですね。
 このあたりからも分かるように、考古学の授業だけれど、非常に幅広い着眼点があって、そこから社会や文化を解き明かそうという試みがなされていたのでした。ノンジャンル、脱領域なのですね。

 ある意味、とても専門的だと思うのですが、おもしろく分かりやすい話なのです。たぶん、森先生は、物事の理解の仕方が普通の専門家とは違って、一足飛びに昇華して他のものと結び付いてしまうタチなのでしょう。
 先生は、例えば江上波夫先生の騎馬民族説について、“スケールの大きな仮説”、“雄大な仮説”というふうに言っておられた記憶があります。イマジネーションを大きく広げていくことを好まれていたのです。

 授業は、講義ノートを読むようなものではなく、先週末に見てきた遺跡を語るというスタイルでした。その話から、「現地」でモノを見、体験する重要性を学んだと思います。若い時に、それを教わったことはたいへん幸運でした。


 高校時代、新聞連載を読んでいた

  「森浩一の考古学」ポスター

 この4月、同志社大学で森先生の回顧展が開かれました(同志社ギャラリー「森浩一の考古学」)。
 その展示には、非常に詳しい著作目録が掲出されました。大きなパネルになった目録は、前期と後期で展示替えされたので、私も2度見に行き、細かい文字を目を皿のようにして見ていきました。

 特に興味を持ったのは、自分が大学に入学した1984年前後でした。

 目録によると、その頃、先生はサンケイ新聞(現・産経新聞)に古代史の連載をされていたことが分かります。
 当時、我が家では、朝日とサンケイという、対極的な2紙を購読していたので、高校生の私はサンケイも読み、森先生の古代史の記事をいつも楽しみにしていたのでした。その紙面のイメージが、おぼろげに思い出されます。

 いま改めて思うのですが、高校生にも学問の愉しさを伝えられるなんて、なんとすごいことでしょうか。
 
 そんな新聞記事を読み、またテレビのニュースなどで話される姿を見て、歴史が好きだった高校生の私はこの先生の大学で勉強したいと思うようになったのです。

 大学に入って、体育館のような広い教室で毎週聞く先生の講義は、最新のトピックスと独自の見解に満ちていて、若い私達をあきさせることのない授業でした。
 授業が終わって、外付けになった鉄の階段を降りて行く先生の姿が、いまでも印象に残っています。

 ところで……
 実は、こんなふうに書いているのですが、私は余り森先生の著書を持っていません。
 初期の代表作『古墳の発掘』(中公新書)でさえ、勤め始めてからかなり経って買い求めたくらいです。
 では、どのように先生の考えを吸収していったかといえば、それは授業であり、新聞・雑誌であり、テレビであったのです。
 思い出すと、私が学生だった1980年代は、そんなにたくさんの著書は出しておられず、むしろ新聞・雑誌などのメディアに精力的に寄稿されていたように思います。
 このあたりも、常に社会と接点を持つことに努められた森先生らしいですね。

 改めて昨年の訃報について検索してみると、先生の学問スタイルを「お茶の間考古学」と呼んでいるものがありました(産経新聞)。
 “お茶の間考古学”とは、少し奇妙な言葉遣いですが、考古学を一般の人々に親しみやすくした、という意味のようです。確かに、お茶の間のテレビで見たり新聞で読んだりできるのですから、文字通りそうですね。おもしろいネーミングだと思いました。


 刺激的なシリーズ『日本民俗文化大系』

 私にとって思い出深いのは、小学館から発行された『日本民俗文化大系』(1983-87年)です。

 先生のおもしろいところは、自分ひとりで書く本(単著)だけでなく、共著や編著がたくさんあり、そのなかに優れたものが多いことです。
 『日本民俗文化大系』は、森先生が大林太良さんや網野善彦さん、宮田登さんらと共編で出されたもので、全15巻の本格的なもの。
 函入りクロス装の立派な本で、「稲と鉄」「漂泊と定着」「都市と田舎」「家と女性」「技術と民俗」など、魅力的なテーマが立てられたシリーズでした。私はいつもそれを繙き、多様なジャンルの成果を学んでいったのでした。

 その本は実家に置いたままなので、長く手に取っていません。近いうちに読み直して、また紹介してみることにしましょう。
 
 このシリーズからも分かるように、先生は学問的な人のつながりを大事にされ、とりわけ異分野の方と積極的に交流されていました。お酒が好きなので、飲みながら話をして、「箸袋にメモするんや」と笑っておられました。
 また、つながりができた若い方を含め、多くの研究者に執筆を依頼されていました。
 このシリーズも、そんな姿勢がうかがえて、私の好きなもののひとつです。

 とりとめもない話になってしまいましたが、今回は『日本民俗文化大系』の存在を思い起こせたことが収穫でした(笑)
 

【参考】
『日本民俗文化大系』(小学館、1983-87年)各巻タイトル

 1.風土と文化 日本列島の位相
 2.太陽と月 古代人の宇宙観と死生観
 3.稲と鉄 さまざまな王権の基盤
 4.神と仏 民俗宗教の諸相
 5.山民と海人 非平地民の生活と伝承
 6.漂泊と定着 定住社会への道
 7.演者と観客 生活の中の遊び
 8.村と村人 共同体の生活と儀礼
 9.暦と祭事 日本人の季節感覚
10.家と女性 暮しの文化史
11.都市と田舎 マチの生活文化
12.現代と民俗 伝統の変容と再生
13.技術と民俗(上) 海と山の生活技術誌
14.技術と民俗(下) 都市・町・村の生活技術誌
15.総索引



60年前、小御所を燃やした打ち上げ花火は、京都の伝統をいかに守るかを考えさせる





京都御所


 昭和29年8月16日の夜の出来事

 連日真夏の暑い日が続き、その日も京都市の天気予報は、「東の風、晴れ、ところによりにわか雨」となっていました。
 うだるように暑く、午後3時には温度計は34.6℃を記録しました。

 昭和29年(1954)8月16日。
 夜には大文字五山の送り火が灯される日で、8時10分に「妙法」から点火を始める予定になっていました。

 夕方になると、鴨川の河原には大勢の人たちが集まってきました。
 この日の晩、鴨川の丸太町-三条間の河原で花火大会が行われるためです。
 打ち上げ点は、二条大橋の上流と下流の2か所に設けられました。河原は、約5万人という観衆で立錐の余地もない混雑になりました。午後7時から約350発の打ち上げ花火が夜空に開き、午後9時40分頃まで続きました。

 8時すぎからは、予定通り、五山に火が灯り、市内各所で多くの人たちが送り火を見守りました。

 鴨川
  鴨川の河原(御池-三条間)


 小御所から出火

 送り火も花火大会も終わり、静寂が戻った午後11時頃。
 御所の南に住むSさんは、孫の「火事や」という声に驚き、外に飛び出しました。北を見ると、御所から火の手が上がっているようです。駆けつけると、猛烈な火柱が天を焦がしていました。

 消防車も集まってきましたが、御所の門は清所門1か所しか開いておらず、容易に中に入ることができません。 
 御所内では、紫宸殿の東北方にある小御所(こごしょ)が闇を照らすように燃え上っていました。

 小御所

 それをさかのぼる午後11時前。御所の当直だった宮内庁職員Hさんは、夜警の巡回を行おうとしていました。当直室を出ると、小御所の屋根の南側が真っ赤に燃え上っているのが見えました。急いで非常ベルを押し、火事を知らせました。

 同じ頃、御所から北東に約2㎞離れた左京消防署の望楼からも、御所の方向で煙が上がるのが認められていました。同署では、3分後に出動。御所へ駆けつけました。

 このように、当直の宮内庁職員や皇宮警察、そして市内全域から出動した消防車らが懸命の消火活動に当たりました。しかし、隣接する御学問所や紫宸殿への類焼を防ぐのが精一杯で、約30分後、火は小御所を焼き払って鎮火されました。

 小御所は、安政2年(1855)の造替で建てられたもので、築100年。幕末に、大政奉還後の徳川家の処分を討議する「小御所会議」が行われた場所として知られています。

 御所の建物は、江戸時代に何度も焼けて建て替えられていますし、戦時中の建物疎開で取り払われたものもあります。しかし、小御所は幕末のものとはいえ、貴重な文化財、史跡であるに違いなく、無念の焼失となったのでした。


 火災の原因をめぐる食い違い

 それから60年。
 これまで私は、“小御所は花火が原因で焼失した”と、簡単に知っているだけでした。今回、少し気になることがあったので、当時の新聞を繰ってみました。参照した新聞は、昭和29年(1954)8月~9月の京都新聞、朝日新聞(大阪版)、読売新聞(全国版)です。

 まず、火災翌朝の読売の記事(リード文)です。

 京都小御所全焼す
  紫宸殿、延焼まぬかる
【京都発】16日午後10時56分 京都市上京区京都御所(事務所長石川忠氏)内小御所天井付近から出火、連日の炎天続きで乾燥していたため火の回りが早くたちまち炎に包まれ、市消防局から特別出動で25台の消防車がかけつけたがひわだ(桧皮)ぶき、ヒノキづくりの小御所100坪を全焼、16日午後11時25分鎮火した。同建物の廊下続きの南側に紫宸殿があったが延焼をまぬかれた。


 全国版のせいか、社会面での扱いです
 記事は出火原因について、次のように続けています。

 出火原因につき京都市消防局および同警察本部では徹宵調査しているが、この夜出火地点から約2000メートル離れた鴨川丸太町-三条間で大文字花火大会が行われており、京都御所の衛士および皇宮警察官らは
 「出火時刻寸前風船のような火の塊が小御所屋根上にふりかかりすぐに燃え上った。(後略)」といっている。(読売7月17日付朝刊)


 このように書き、花火打ち上げ現場では「南方に風が吹いていた」ため、北へ約2キロ離れた御所に火が飛ぶことは考えられない、と強調しています。

 一方、地元紙の京都新聞は、次のように書いています(リード文)。

 昨夜、京都御所小御所焼く
  約百坪、瞬時に烏有
    花火落下サンの火から?
  安政年間に造営され古都京都が誇る御所内小御所(こごしょ)が“大文字送り火”の昨夜全焼した。原因は同夜加茂川原で行われた読売新聞社主催の花火の飛火からとみられている。(京都7月17日付朝刊)


 こちらは一面トップです。
 火事の原因については、「原因について市警本部および市消防局で調査しているが、同日午後7時から加茂川原で行われた読売新聞主催の花火大会の花火の落下サンのさんが20数個御所内に風でとんでいるのでそれが小御所の屋根にとまりそれから燃え移つたものとみられている。」としています。

 8月16日の花火大会の主催者は、読売新聞社でした。
 そのため、火災原因について、読売では花火説を否定していますが、京都や朝日など他紙では、パラシュートの付いた落下傘花火が火事を引き起こしたと考えたのです。
 読売の小林京都支局長は、花火大会の終了が9時40分、出火が10時50分から11時の間で、東北東の風だったと聞いているので、絶対に花火ではないと述べています。

 新聞記事を注意深く読むと、読売は17日朝刊の第一報では、花火大会が自社の主催だとは一言も触れていません。ようやく、同日夕刊に、「当夜加茂川で行われた大阪読売新聞社主催の大文字花火大会の花火の飛火からとみる向きもあり」と、さりげなく自社主催であることを述べるにとどまっています。

 このあとも、読売では花火説に慎重な記事を掲載し、京都や朝日は「“花火説”益々濃厚」(京都8月18日付朝刊)などと、原因は花火であると強調しています。
 このあたり、新聞社同士の“泥仕合”の様相を呈し、マスコミの嫌な面を見せられるようでたまりません。

 結局、火事の原因は、当局によって花火と判断されます(8月21日)。
 
 ・午後8時から10時の風向きは、東南東から東であった(御所は打上げ点の北西1.5㎞にある)。
 ・現場付近から、落下傘の残骸を56個のほか、花火の破片が多数拾われた。つまり、落下傘(パラシュート)の付いた花火が風に乗って御所のある北西方向へ流されて落下したのである。
 ・目撃者22人が、ホースや手で揉み消したり、民家の屋根で燃えていたのを見ており、御所内を流れていくのを見た者もいる。
 ・皇宮警察が9時以降、火の付いた落下傘花火の糸を認め、消火している。
 ・現場検証の結果、出火点は屋根で、そこから棟木、天井板へと燃え移った。
 ・小御所には電気設備がなく漏電はありえない。
 
 このようにして、パラシュートのついた落下傘花火が風に流されて西北へ飛び、小御所の屋根に付着したのち、一定の時間くすぶってから、10時50分頃、火事を起こしたというものです。

 もっともな判断だと思いますが、読売新聞の小林支局長は、「市警側は現象面ばかりとらえて科学的な結論を出してはいない。これでは本当の原因は追及出来ないのではなかろうか」と、依然として花火説を否定し続けています。

 なお、刑事上は、11月に花火業者2名が業務上失火の疑いで起訴されました。
 主催者の読売新聞、花火の監督官庁である京都府などは不起訴となっています。

 また、小御所は昭和33年(1958)に再建されています。

 小御所
  昭和33年に再建された現在の小御所


 ほかにも行われていた市街地の花火大会

 新聞記事を読んでいて、2つのことが気にかかりました。

 ひとつは、当時はふつうに京都の市街地で花火大会ができたのか、ということ。
 鴨川の二条付近で打ち上げ花火をするなんて、現在では考えづらいですね。もちろん、こんな事故があったから、以後禁止されたのでしょうけれど、当時はふつうだったのでしょうか?

 朝日新聞によると(8月22日付朝刊)、その夏に京都で開かれた花火大会は、鴨川の河原で2度行われたほか、上賀茂、宝ヶ池、嵐山、中書島で行われていたといいます。
 鴨川の2度のうち、一度が問題の大文字花火大会(8月16日)でした。もう一度は、おそらく8月1日に行われた都新聞社主催の花火大会だったでしょう。

 この花火大会について、京都新聞が興味深い報道をしています(8月20日付朝刊)。
 8月1日の午後10時頃、中京区の木屋町三条上ル西側のすき焼き料理店でボヤ騒ぎがありました。3階の屋根に花火の落下傘が落ち、燃えたというのです。
 消防車が1台来たけれど大事ではなく、念のため、と水をかけて帰ったそうです。
 翌日、都新聞の人が二人あいさつに来たということでした。

 木屋町三条上ルですから、鴨川から100mほど、にぎやかなところです。
 当然、市街地で花火大会をやると、こういう危険が伴います。
 しかし、読売の花火大会でも分かるように、当時、京都府ではこのような花火大会を認めていたようです。


 大文字の夜に…

 いまひとつ興味深かったのは、次のことです。

 朝日や読売は、割に淡々と火災原因や小御所の復元について書いているのですが(“泥仕合”はともかく)、地元紙の京都は、少し論調が異なるのです。
 
 火事の翌17日の朝刊、社会面での見出しは、「花火に市民のいきどおり」と付けられています。
 そして、記事の中に、歴史学者・中村直勝氏の、

 「大文字の火は古来から“聖火”といわれ神聖視されていた。この晩に花火などを揚げたりまた観光という面から盆の16日以外の日に大文字に火をつけたりすると必ず異変があったものだ。それがこのごろではルーズになってこの始末だ」

 というコメントを載せています。

 「科学的」な出火原因を追及すべしという読売新聞からすれば、この中村博士の発言は“非科学的”極まりないでしょう。しかし、このあと京都新聞の紙上はこの種の論調で満たされていきます。

 18日朝刊の社説は、読売の言い分を「不謹慎」と強く否定した上で、このように述べています。

 不謹慎といえば、当夜は大文字の送り火である。夜空をこがす火の祭典に、全市民が挙[こぞ]って懐愁と祈りに送る夜、伝統と思い出に浸る宵なのである。
 しかるに何を好んで同じ夜、同じ時刻に花火の大会を行ったか。花火大会を開くこと自体には異論はない。しかし世界に比をみない京の名物、伝統の夜の同じ空と光りをかき乱すことはなかったと思う。


 また同日夕刊の「三十六峰」では、

 花火の火の粉で御所炎上。ご先祖の送り火をひっかき回して、仏さまのお怒りじゃ--と街の声。

 と、皮肉を通り越したような強烈な句を記しています。

 同じ社会面には、京都府商工振興課観光係の談話が掲載されています。

 五山の送り火は地元の人達の信仰心による奉仕で新しく住んだ人達はこの奉仕に参加しない[。]地元民としてはその横で花火を打揚げられることは感情上面白くないので別の日に行うよう[主催者に]延期を勧告したが、うまくゆかなかつた。

 このように、大文字の夜になぜ花火大会をやるのだ、という意見が紙面を占めていきます。

 紫宸殿


 戦後あいつぐ文化財の焼失

 実は、この数年前、花火による古建築の焼失が起きていました。
 昭和22年(1947)7月4日、奈良の春日野グラウンドで、占領軍によってアメリカ独立記念日の花火大会が行われました。その火が近くの東大寺本坊に飛火して建物が焼失したのです。

 また、花火ではありませんが、同年9月、大阪城内にあった紀州御殿(旧和歌山城二の丸御殿を移築)が、接収中のアメリカ軍の失火により、焼失しています。これなども残っていれば重文級の貴重な建築でした。

 そして、修理工事中に起きた法隆寺金堂壁画の焼失(昭和24年=1949年1月26日)、放火による金閣寺の焼失(昭和25年=1950年7月2日)など、重大な火災が起きています。
 戦後まもない頃には、いくつもの文化財建物が火災によって焼失し、法隆寺の火災があった1月26日は、文化財防火デーになりました。

 占領軍(アメリカ軍)による火災が典型的ですが、その施設、建物と縁の薄い人たちは、それを大切に守ろうとする意識が希薄になりがちです。
 奈良公園の打ち上げ花火は、小御所と同様のケースですね。もしかすると、アメリカ軍の人たちは、花火会場のすぐ先に東大寺をはじめとする神社仏閣があるとすら知らなかったのかも知れません。

 梅棹忠夫氏は、小御所の火災について、「もともと、京都市民は、火に対してはひどく神経質である。ひとりひとりの市民の、細心の注意の結果として、1000年の文化が生きているのである。/戦後、関西に進出してきたある新聞社が、宣伝のために市中で花火大会をやった。その結果、火がとんで、小御所がやけた。ひどい話である。京都という都での、都市生活の作法をあまりにもしらなさすぎる!」と憤っておられます。
 火災の7年後に書かれた文章ですが、怒り冷めやらぬという雰囲気です。

 その町のことを知り、その伝統を大切にするというのは、なかなか難しいことでしょう。
 なぜ主催新聞社が、わざわざ大文字の晩に花火大会を開いたのか? 今回、そこまで調べることはできませんでした。
 いろんな思惑があったのでしょうが、やはり京都市民としては、それはないかな、と思います。梅棹さんが怒るのも、やむを得ないだろうと感じました。




 小御所 (京都御所内)

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 春秋に一般公開(平常は申込制)
 交通 地下鉄「今出川」から徒歩約15分



 【参考文献】
 「京都新聞」「朝日新聞」「読売新聞」
 梅棹忠夫『梅棹忠夫の京都案内』角川書店、1987年(角川ソフィア文庫所収)