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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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懐かしい香りのする辛口京都論 - 梅棹忠夫『梅棹忠夫の京都案内』『京都の精神』 -

京都本




  『梅棹忠夫の京都案内』『京都の精神』


 梅棹忠夫さんの京都論

 梅棹忠夫氏による2冊の京都論。
 いずれも、昭和62年(1987)に角川選書として刊行されたものですが、のちに文庫化され、現在も角川ソフィア文庫で読むことができます。

 以前に『京都の精神』は読んでいたのですが、今回『梅棹忠夫の京都案内』(以下、『京都案内』とします)を読んでみたので、あわせて紹介します。

 梅棹忠夫さんについて、念のため簡単に紹介しておきます。
 大正9年(1920)、京都の西陣に生まれ、京都一中(現洛北高校)から、三高、京都帝大へ進みました。つまり、生粋の京都人で、学校的にもエリートコースを歩まれたということです。出生地は千本通中立売上ルで正親小学校卒ですから、私の父の先輩です(笑) 
 学者としては、モンゴル探検(当時の言葉でいうと「モゴール」ですね)を行い、『文明の生態史観』を著して反響を呼びました。大阪市大助教授、京大人文研教授を経て、国立民族学博物館(大阪府吹田市)の建設を主導し、昭和49年(1974)、初代館長に就任。梅棹さんといえば、この民博館長というイメージが強いです。
 ローマ字論の支持者でもあって、今回紹介する2著にも漢字が少なくカナが多い印象です。そして、岩波新書『知的生産の技術』(1969年)は、カードを用いた学問のすすめとして、現代的な研究方法に大きな影響を与えたと思います(私も愛読しました)。

 私は一度、「タイムカプセル」に関するシンポジウムでご一緒したことがありました。梅棹館長は、ほんの少しだけコメントされたのですが、タイムカプセルを「悪の思想」である、と喝破されたのです。なぜかというと、タイムカプセルは現代のみならず未来の時間をも支配しようとする思想だから、というのです。一同、うーん、とうなったものです。さすが梅棹さん。


 1950-60年代に書かれたエッセイ

 この2冊のうち、『京都の精神』には1980年代までの文章を収めていますが、『京都案内』収録のエッセイ、講演録は、なんと1950年代から60年代にかけて執筆、講演されたものがほとんどです。いまから半世紀も前のもの。それゆえ、なにか懐かしい香りのする京都論になっているのです。言い換えると、“こういうこと、昔よく聞いたなあ”というもので、現在では余り聞かなくなった言説です。

 例えば、こんな感じ。

 東京、大阪では、「なんだ、学生か」とあしらわれても、京都へくれば依然として「学生はん」である。
 (中略)
 学生の情熱は爆発的にほとばしり、しばしば社会通念から逸脱する。その思想は急進的であり、その行動は矯激である。しかし、京都市民は学生のめちゃくちゃにはむかしからなれている。学生には寛容である。みんな、卒業すればおちついてえらくなるひとだ。わかいときは、まあよいではないか。(50ページ)

 
 京都では、学生が「学生はん(さん)」と、さん付けで呼ばれ、一般市民もそれなりに大事に扱うという話。

 こちらは、言葉について。

 おなじように、数字の七も「しち」ではなくて、「ひち」である。わたしは、かなりおとなになるまで、東京語で「しち」であることをしらなかった。
 (中略)
 この七条もよいかたは、「ひっちょう」で、「ひち」である。私鉄の駅名板などには「しちじょう」と表記してあるが、発音は「ひっちょう」である。(189-190ページ)


 七を「しち」ではなく、「ひち」と発音する話。
 質屋も「ひちや」になり、その看板すら「ひち」と大書されている、有名な話です。

 このような事柄は、昔はよく言ったり聞いたりしたものですが、最近は廃れてしまいましたね。


 ブブヅケ神話
 
 その典型的な「神話」が、『京都の精神』に書かれている“ブブヅケ”の逸話です。
 なお、ブブヅケとはお茶漬けのこと。辞書を引くと、「ぶぶ」はお茶を意味する女性ことば、幼児ことば、などとあります。そういえば、昔は「おぶ」という女性ことばを耳にしましたね。

 京都に関してひとつの伝説がある。京都でちょっとした訪問のおり、「まああがっといきやす、ブブヅケでもどうぞ」といわれても、それを本気にしてあがってはいけない。もしあがったら、ごはんがでるどころか、それからたきはじめるのだという。地方のひとはこの話をしては京都人の意地のわるさを批判する。しかしこれは京都にまつわる一種の伝説である。
 (中略)
 だいたい正式の招待は別として、中戸のなかまではいりこんで、食事にあずかるというのは、京都ではありえない。
 他人の家の玄関先より奥にはいるということは、いなかではそうめずらしいことではない。しかし京都では、奥には一歩もはいらないのが礼儀である。それをやぶってあがりこめば、これはもう不作法きわまりない行為ということになる。
 いちおう、「ブブヅケでも」とかるくさそい、相手はそれをやわらかくことわる。それはつきあいの一連のつらなりのなかに組みこまれた、社交的会話にすぎない。(234-235ページ)


 この話は、いまでも物の本で時折紹介されるのでしょうか。


 京都の人はイカ

 そんな中で、私も聞いたことがないたとえが出てきました。

 京都にすもうかというひとのために一言。京都のひとは、かなりつきあいにくいです。あるひとは、こう批評した。
 「京都のひとはイカだ。しろくすきとおるように上品だ。気をゆるしていると、いきなり墨をぶっかけた」。またあるひとはこういう。
 「京都のひとは冷蔵庫だ。面とむかってはさわやかだが、背をむけると首すじにゾッとするものを感じる」。
 いずれもいいえて妙である。つまり、ある点までくると、なにかひややかな頭[ず]のたかさがでてくるのだ。(『京都案内』80ページ)


 イカとか冷蔵庫とか、真夏には涼しそうですね(笑)
 よく、京都の人は裏表(本音と建て前)がある、と言われます。それをちょっと言い換えると、こんな具合になるのかも。


 非観光都市・京都

 梅棹さんの2著は、京都以外の方が読むと、鼻に付くところがあるかも知れません。なんとなく、京都中心主義的な印象もあるし、尊大な雰囲気が感じられなくもないからです。
 『京都案内』に収録された「非観光都市・京都」(1961年)は、そんな文章の代表格です。旅行雑誌に掲載された文章なのに、観光客に説教するような内容なのです。
 抜粋的に紹介してみましょう。

・観光が中心の考え方では「お客はいつも王さま」となるが、こんな無茶な話はない。観光に関係ない市民だっていっぱいいる。

・新聞の投書に、「祇園祭でチマキを買って、なかを開けたらカラだった。京都の商売はインチキだ」というものがあった。京都市民なら、なかがカラなのは幼児だって知っている。祇園祭の前後に来るのに、そんな風習も知らないようでは困る。祭のしきたりについて理解の努力を払うべきである。

・宿屋のドテラやネマキで街を歩く連中がいるが、たいへん評判が悪い。そんな恰好で歩きたければ、本当の「観光都市」へ行ったらよい。少なくとも京都では、観光客はもっと都市生活のマナーを守らなければいけない。

・京都は戦後、「文化観光都市」を宣言したが、文化と観光とは相反する概念である。文化は見世物ではないし、観光化するというのはたいていの場合、文化の破壊である。市民には文化を、おのぼりさんには観光を!

 【「連中」とか「おのぼりさん」とか、刺激的な言葉が並びますが、当時の梅棹さんの表現です、念のため】

・京名物を大衆化して安く買えるようにせよという声があるが、それは無理というものだ。祇園や先斗町を大衆食堂に開放せよというようなものである。もし旅行者が、市民とともに京都の文化を享受しようと思えば、高くつくのは当然だ。

・京都の文化財は日本民族全体の共有物であって、京都市民だけが独占すべきものではない、という批判は、おおいに警戒を要する。所有と使用の権利だけは国民全体で、管理と保護の責任は京都市民に押し付けるということになる。

・祇園祭も送り火も立派な文化である。文化は、それを担う主体者がその文化について確信と誇りを持った場合だけ、盛んにもなるし続きもする。観光化することで主体者である市民に疑惑を持たせ始めており、危険なことである。


 このような調子で、雑誌『旅』の京都・奈良特集に書かれたのですから、編集部はさぞかし困ったでしょうね!

 観光化に対する警戒感が強く出ているのは、例えば1950年代後半から60年代にかけて、祇園祭が大きく変化していったことが象徴的です。そこでは、“信仰か観光か”が議論され、後祭が昭和40年(1965)で廃止されて合同巡行が導入されるなど、大きく変化していったのです。
 そのような時代背景を踏まえて、上の意見を聞くと、信仰や祭礼なども含めた文化の継承を重視される梅棹さんのスタンスが伝わってきます。


 ひと付き合いと物の言い方

 『京都案内』の中で、私が一番納得がいったのは、次のことでした。
 そこには、たぶん梅棹さんが最も言いたかったことも潜んでいる気がします。

 京ことばについてかんがえるとき、無階層的、市民対等意識という基本原則をぬきにすることはできないだろう。京都では、だれしもが自由なる個人という意識が根底にある。社会的には貧富の差やら、ふるい都ならではの、身分的なややこしいことがいろいろあるにもかかわらず、一歩外へでたらみな対等である。ことばづかいに上下関係はありえない。
 わたしは京都大学にいたが、大学にはよそかあはいってきたひともかなりたくさんいた。その人たちのことばづかいをきいて、ほんとうにおどろいた経験がしばしばある。
 たとえば、民主主義者として名声をはせていたある大学の先生が、近所のタバコ屋でタバコをかうのに、「おい、タバコくれ」といった。そういういいかたは、京都では絶対にありえない。「すんまへんけど、タバコおくれやす」となる。「おいタバコくれ」は、京都人の市民原則からは完全にはずれる。わたしらの感覚からすると、信じられない傲慢無礼ないいかたである。(210-211ページ)


 実は、今回『京都案内』を読んでいて、私自身、ひどい衝撃を覚えたのがこの部分でした。
 そんな言い方をする人が本当にいるのか? という偽らざる気持ち。
 タバコを買うときに、「おい、タバコくれ」は絶対にありえないという梅棹さんの感覚が、私の中にもあるのです。想像つかない表現ともいえます。
 たぶん、いまの私なら、「すんませんけど、タバコもらえますか」くらいの言い方だと思います。「もらう」というのは、分けてもらう、というニュアンスですね。こちらが買うのだけれど、あくまでも“買ってやる”ではなくて、“分けてもらう”のです。

 この、市民同士の対等意識ということを、梅棹さんは強調しておられます。
 京都では、およそ、えらそぶるということが嫌がられます。世間的にいう「上下」関係は、ここでは意味がなく、「上」だからといって「下」を蔑むような表現は嫌われるのです。
 それはきっと、この対等意識と関係しています。また、学生を「学生さん」と言い、大事にするというのも、たぶんこれと関係があるのでしょう。

 本書の、京ことばについての細かい実例もたいへんおもしろいのですが、こういう指摘が梅棹さんならではで感心させられます。

 辛口の京都本として、一度手に取られてみてはと思います。




 書 名 :『梅棹忠夫の京都案内』、『京都の精神』 
 著 者 : 梅棹忠夫
 出版社 : 角川書店(角川ソフィア文庫)
 刊行年 : 原著 1987年(文庫版は2004年、2005年)


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猛暑に涼しい井戸の話、御手洗井







手洗水井


 烏丸通にある小さな鳥居

 烏丸通の錦小路を少し上がったところに、小さな鳥居があります。
 7月には、注連縄が張られており、お祀りされていることが分かります。

  手洗水井 手洗水井

 提灯には、「八坂 御手洗井」の文字。
 八坂の語と2つの紋から、八坂神社と関係があることが分かります。そう、ここは祇園祭に用いられる井戸なのです。
 『京都市の地名』の説明を引いておきましょう。

  御手洗井(みたらしい)
 伝承によれば室町末期には祇園社(現東山区)の御旅所がこの地にあったと伝え、その東側には祇園社御旅所社預藤井助正の屋敷地があり、庭前に牛頭天王社を建て、毎朝庭内の井戸から霊水を汲んで供したという。祇園会当日には神輿供奉の人々に御手洗・口すすぎを供するを例とした。
 永禄11年(1568)織田信長上洛後、御旅所を現在の四条京極の地に移したという。
 その後この井戸の鍵は町年寄が預かり、祇園会の時のみ開くようにしたという。祇園会の際には、同所東裏の竹藪より竹2本を切り、山科郷より1丈8尺の松2本を求め、この井戸の鳥居に結んだと伝える。
 明治45年(1912)3月烏丸通拡張のため、東方に数間移動した。(787ページ)


 かつては、八坂神社の御旅所を管理していた藤井家の庭にあった井戸。明治末年に、烏丸通の拡張にともなって移動したといいます。この場所は、いまでも「手洗水町」という町名です。

 井上頼寿『京都民俗志』によると、「祇園祭の期間は柵を撤し氏子が手水を使ふ。「京羽二重」にも氏人此の水で身を清めて社参すると見える」と記されています。
 さらに、神水と尊ばれ、旧暦6月7日から14日まで井戸を開いて人々に供したといいます。「諸人飲めば疫を除く」とあります。


 注連縄を張られた石の井戸

 説明が長くなりました。
 肝心の井戸は、こちらです。

 手洗水井
  御手洗井

 榊と御幣を付けた注連縄が張られています。石の井桁で、右に手水鉢があります。
 写真は、7月11日に撮ったものだと思いますが、表の柵は閉められた状態でした。

  手洗水井


 「都名所図会」にも登場

 いまではビルの谷間にあるこの井戸も、古くは人々に開かれていただけあって、「都名所図会」(1780年)にも描かれています。

 「都名所図会」より手洗水
  「都名所図会」巻2

 井水を汲む人、それを眺める人。装いも夏らしいですね。

  「都名所図会」より手洗水

 拡大して見ると、木製の井桁が組まれており、釣瓶で水を汲むようになっているのが分かります。祇園社の神紋のある屋根が掛けられ、そこに御幣が付けられています。
 井戸の脇に、「手水」と書かれた木の手水鉢が置かれ、二人の男性が柄杓で水を汲んでいます。右下に笠が置かれていますから、旅人かも知れませんね。
 説明文には、こうあります。

 手洗水(てうづのミつ)ハ烏丸通錦小路の北にあり。むかし大政所町に祇園神輿の御旅所ありしとき、参詣の輩、こゝにて手水なしたる。
 この例(ためし)により今も六月七日より十四日まで井をひらきて、手水所とする也。
 凄冷たる清泉にて比類なし。この水を服すれバ疫をのがるゝとぞ


 「凄冷(しょうれい)たる清泉にて比類なし」と記すところに、とっても冷たい良い水だったことがうかがえますね。
 この絵が描かれた江戸中期には、もう邸の庭ではなく、通りに面したところにあったようです。
 開く期間が6月7日から14日とあるのは、旧暦の当時は祇園祭の巡行がその両日にあったためです。

 今回は、少し涼しい井戸の話でした。


  「都名所図会」より手洗水




 御手洗井

 所在 京都市中京区烏丸通錦小路上る手洗水町
 拝観 自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 井上頼寿『京都民俗志』西濃印刷、1933年
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年


きょうの散歩 - 祇園祭の後祭宵山 - 2014.7.22-23





後祭宵山


 今年から、祇園祭は後祭(あとのまつり/あとまつり)が復活して、宵山も前と後の2回になったので、後祭の宵山に行ってみました。
 22日は、いわゆる宵々山、23日は宵山です。23日は、NHKテレビの番組中継も入っていましたね。

  後祭宵山

 宵山の楽しいところは、町会所に上がって、鉾に乗るご神体や人形、胴懸や見送りといった懸装品などが見られることです。
 巡行時は、特に鉾の上のものは見えづらいですから、宵山は絶好の機会になります。

 後祭に参加の山鉾は、次の10基。宵山も同じです。

  鈴鹿山、役行者山、浄妙山
  黒主山、八幡山、橋弁慶山
  鯉山、北観音山、南観音山
  大船鉾(150年ぶりに復活)


 町会所の中には、二階の窓などを取り払って、通りから人形などが見えるところがあります。

 後祭宵山
   橋弁慶山の会所飾り (牛若丸と弁慶)

 日が暮れると、明りに照らされていっそう美しいです。

 このようなディスプレイを「会所飾り」といいます。
 谷直樹氏らの分類によると、通りに面した棟に飾るタイプを「表棟型会所飾り」としています。

 一方で、路地の奥に会所飾りがある場合もあります。これは「奥棟型会所飾り」とされるものです。
 後祭では、鯉山などがこのタイプです。

 後祭宵山
   鯉山の会所飾り
 
 中央に、伝 左甚五郎作の鯉が、左にベルギーのブラッセルで織られたタペストリーが飾られています。

  後祭宵山
  南観音山
 
 南観音山では、山に上がらせていただき、会所の二階でご本尊の楊柳観音を拝しました。

  後祭宵山
   南観音山の会所

 北観音山と南観音山は、いずれも楊柳観音を祀られているのですが、南観音山には善財童子が一緒におられます。
 愛らしい少年が手を合わせた姿の木像です。ヘアスタイルは聖徳太子像でよく見られる「みずら」で、ふっくらとした童形ですが、上半身を肌脱ぎしています。

 善財(ぜんざい)童子は、「華厳経」に収められた「入法界品(にゅうほっかいぼん)」の主人公です。
 インドの長者の息子ですが、悟りを求めるため、長い旅をして53人の人々に教えを請います。ちょっとした“ロードムービー”みたいで、おもしろいんです。

 いろんな人に会うのですが、なかには遊女に会ったりして、彼女の教えには「抱擁」とか「キス」とかいう際どい言葉も出てきます。インドの原典から中国語に訳した人は、さすがにはばかられたのか「抱擁」のことを「阿梨宜(ありぎ)」、「キス」のことを「阿衆鞞(あしゅび)」と、よく分からない語に直して訳しています。
 あるいは、厳しい僧侶に出会った時は、剣の山の上から、火の海に身を投げるように言われます! その通り、火の海に向かってダイビングした善財童子は、不思議な快感を味わったのでした。
 
 善財童子の話は、かなりおもしろいのですが、祇園祭から脱線するので、またの機会に。
 それにしても、なぜ南観音山に善財童子がいるのでしょうか?

 彼が訪ねた28番目の相手は、観音菩薩でした。でも、それと関係があるのか、よく分かりません……

 後祭宵山

 分からないけれど、しっかりと善財童子の御守りだけは買って、帰ったのでした。




 南観音山
 
 所在 京都市中京区新町通錦小路上る百足屋町
 拝観 300円(祇園祭宵山期間中)
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 谷直樹ほか編『まち祇園祭すまい』思文閣出版、1994年
 森本公誠編『善財童子 求道の旅』東大寺、1998年
 中村元『『華厳経』『楞伽経』』東京書籍、2003年


祇園祭の山鉾に伝わる故事は、さまざまある -芦刈山、孟宗山など -





芦刈山


 山の飾りに頭を悩ます町衆たち

 祇園祭に参加する山鉾は、人形などの造り物で飾り付けられています。
 この造り物、今では固定化していますが、その昔は年によって工夫を凝らして変えていた場合もあったようです。

 狂言の「䦰(くじ)罪人」には、次のようなエピソードが記されています(あらすじです)。

 祇園祭が近付き、町内で、どんな山を出すか、相談が行われた。

 最初のアイデアは、大きな山をこしらえ、イノシシを作って、それに仁田四郎が乗っているのはどうだろう、というものだった。
 みんな、それがよかろう、と思ったが、太郎冠者が出てきて、“イノシシなんて変なものだ、仁田四郎が乗ったといっても面白いものじゃない”と否定する。

 次の案は、山を作った上に土俵をこしらえ、河津と俣野が相撲を取っているところはどうだろうか、というもの。
 またみんな賛意を示すが、太郎冠者は、“山の上で相撲を取るなんて聞いたことがない”と反対する。
 さらに、山に滝を作って、鯉の滝のぼりを作ろうという案には、毎年、鯉山の町が出しているといって、認めない。

 最後に、太郎冠者自身の案が出された。それは、山を2つこしらえ、そこに弱々しい罪人と恐ろしい鬼とを作って、鬼が罪人を責め立てるというものだった。
 主人は反対するが、結局、くじ引きによって太郎冠者が鬼となり、主人が罪人となって責められるのだった。 


 「䦰罪人」の筋は、狂言の流派によって違うそうです。
 上のあらすじは、林屋辰三郎『町衆』に紹介されているものによったのですが、これは和泉流の筋のようで、大蔵流では異なるようです。
 これらによると、室町時代には、すでに現在の鯉山や橋弁慶山(五条橋の牛若丸と弁慶)があったことが分かります。
 ちなみに、上記にある仁田四郎の猪退治や、俣野景久と河津祐泰の相撲は、いずれも「曽我物語」に登場する源平合戦時代のエピソード。河津祐泰は、相撲の決まり手「かわづ掛け」の由来となった人物とか。

 こんなふうに、当時の人々は、さまざまな物語や故事の中から、山の飾りを決めていたことがうかがえます。


 現在の山鉾にまつわる故事とは?

 林屋辰三郎氏は、このような山鉾の造り物について、次のように述べられています。

 いま、こころみに現在のこされた鉾山を通じて調べてみると、災厄消除の呪術的意味を純粋に代表すると思われる「長刀鉾」を除くと、おおむね二つのグルゥプに分けられる。その一つは信仰的内容のもので「月鉾」・「霰天神山」・「八幡山」・「南・北観音山」など九つだが、そこにはかならずしも祇園信仰とは関係のない天神信仰や八幡信仰がふくまれていて、このまつりが祇園社のまつりというよりは町衆のまつりであったことを示してくれる。
 他の一つは伝説的な題材のもので、日本の伝説では「橋弁慶山」をあじめ「保昌山」・「岩戸山」・「役行者山」など、中国の伝説では「函谷鉾」をはじめ「郭巨山」・「孟宗山」・「白楽天山」などで計十九を数えている。(『町衆』132-133ページ)


 こうまとめて、これらの伝説の世界は能を媒介として町衆にもたらされた、と解説しています。
 例えば、黒主山は謡曲「志賀」に、木賊(とくさ)山は謡曲「木賊」に由来するといった具合です。


 芦刈山のいわれ

  芦刈山
   芦刈山

 少し具体例でみてみましょう。
 芦刈(あしかり)山です。
 こちらも、謡曲に由来する物語を持っています。

 浦や川辺に生える植物・アシ(芦、葦)。
 芦刈山では、こんな造り物です。

  芦刈山

 これに翁をプラス。

  芦刈山 芦刈山
  
 左が現在の翁の人形で、享保7年(1722)のものだそうです。右が、かつての頭で、天文6年(1537)、仏師・康運の作です。
 右手に鎌を持っており、これで芦を刈ります。
 あわせると、こんな姿に。

  芦刈山

 この姿、難波(なにわ)の浦で芦を刈る男性の姿です。
 もちろん、ただ単に芦を刈っている翁ではなく、ここに至る長い物語があるのです。芦刈に関する物語は、謡曲をはじめ、さまざまあるのですが、ここでは「今昔物語集」に出てくる説話をあらすじで紹介しておきましょう。

 今は昔、京にとても貧しい男がいた。親兄弟も知人もなく、仕事はどこにいってもうまくいかなかった。その妻は若くて美しく、心優しい女だった。
 あるとき、男は思い煩って、妻に言った。
 「この世にいる限りはずっと一緒に、と思っていたが、日に日に貧しくなるばかり。夫婦一緒にいるのが悪いのかもしれない。別々に暮らしてみよう」
 妻は、
 「私はそうは思いませんが、あなたがそうおっしゃるなら、そうしましょう」
 と言って、互いに再会を約束して別れた。

 その後、妻は、ある人のもとで使われ、その人の妻が亡くなったので、後添えとなった。そのうち、その人は摂津守となった。
 一方、男はさらに落ちぶれていき、ついには京にもいられず、摂津の国に流れ、農夫となって人に使われていた。しかし、慣れない耕作や木こりはうまくできず、難波の浦に芦を刈りに行くことになった。

 同じ頃、摂津守となった人は、妻を連れて摂津の国に下ってきて、難波あたりに車を停めて供の者たちと野遊びをしていた。
 妻があたりを見ると、浦に芦を刈る者たちがたくさんいたが、その中にどこか心ひかれるような男がいた。よく見ると、昔の夫に似ているような気がする……
 なおよく見ると、間違いなく昔の夫だった。
 
 なんと情けないことだと思ったけれど、供の者に、その男を呼んでくるように言いつけた。
 男は何のことかと驚いたが、せかされると芦刈りをやめて車の方に来た。

 土で汚れた袖なしの単衣の、膝のところまでしかない粗末な出で立ち。顔にも手足にも泥がついて、汚いことこの上ない。おまけに、脚にはヒルがついて血を吸うから、血まみれだった。
 妻は、男に飲み食いをさせたが、ガツガツと食べる姿がまた情けない。

 かわいそうなので着物をやろう、と言って、一枚の書付けを添えて渡すことにした。
 そこに書いた歌。

  あしからじと思いてこそは別れしか などか難波の浦にしも住む
 (先々悪くなるまいと思って別れたのに、どうしてこんな芦刈りなどして難波の浦に住んでいるのですか)

 着物を受け取って、歌を読んだ男は、「なんと、これは昔の妻ではないか!」と気が付いた。
 そして、次のような歌を返した。

  君なくてあしかりけりと思うには いとど難波の浦ぞ住み憂き
 (君がいなくてはよくないのだと思うにつけ、いっそう難波の浦は住みづらく思われます)

 妻は、これを読んで、さらに悲しく思ったが、男は芦も刈らずに走り去ってしまった。


 「今昔物語集」巻30・第5、「身貧しき男を去る妻、摂津守の妻と成ること」のあらすじです。
 他の類話と違って、もとは京にいた二人が、偶然に難波で出会う筋になっています。

 それにしても、零落する男と立身する女という対比は、なんと残酷なことかと思えてしまいます。ラストも、救いのない終わり方で、今昔物語、これはきついですね。


 孟宗山は、心温まる話

  孟宗山
   孟宗山

 芦刈説話はいろいろあり、謡曲では、二人がまた結ばれるという筋になっています。
 このまま終わるのも何なので、少し心温まる話を見てから終わりにしましょう。
 孟宗山です。

 こちらは、中国の孝行物語「二十四孝」の中の一話です。
 江戸時代によく読まれた「御伽草子」に収められた「二十四孝」から引用しておきましょう(大意です)。

 孟宗は、幼くして父を失って、今は母を養っていた。
 母は老いて病んでおり、食べ物の好みもその都度に変わって、とんでもないものを食べたいということもあった。
 あるとき、冬であるのに、タケノコを食べたいと言い出した。
 孟宗は、竹林に行ったけれども、雪深い季節なので、タケノコを採ることが出来なかった。途方にくれて、天に祈った。
 すると、突然、大地が開けてタケノコがたくさん生え出てきた。
 孟宗は、たいへん喜んで、タケノコを採って家に帰った。汁物にして母に食べさせると、それを食べた母は病も治って、末長く暮らしたという。
 これもひとえに、孝行の深い心に対して、天が与えたものである。


 いわゆる孟宗竹の名の由来になった説話です。
 それにしても、積雪する真冬にタケノコを堀りに行く孟宗も、つわものですね。

 祇園祭の孟宗山です。

  孟宗山

 よく見ると、孟宗のかぶった笠や、うしろの松に雪が積もっているでしょう。
 なにげなく見ていると気づきませんが、案外リアルに作られています。

  孟宗山
   二十四孝のひとり、孟宗

 「二十四孝」からは、孟宗のほかに、郭巨(かっきょ)も山の題材になっています(郭巨山)。以下、大意です。

 貧しい郭巨は、妻と3歳の子、それに老母と暮らしていた。老母は、孫をいつくしんで自分の食事を孫に与えている。
 郭巨は、それを心苦しく思い、「子供は再び授かることは出来るけれど、母は二度と得ることはできない。子供を土に埋めて、母を養おう」--そう考え、子を連れて、涙ながらに土を掘ると、地中から黄金の釜が出現。子も埋めずに済み、母への孝行を尽くしたという。


 郭巨の話は、このような感じです。
 あまりに孝行を大事にしすぎなのですが、そういう道徳観もあったのでしょうか。

 まだまだあるようですが、今回はこのへんで。
 祇園祭の山鉾にまつわる故事、伝説は、どれもたいへん興味深いものです。巡行を見ながら、思いを馳せるのも愉しそうですね。


  芦刈山




 芦刈山

 所在 京都市下京区綾小路通西洞院西入ル芦刈山町
 見学 自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 林屋辰三郎『町衆』中公新書、1964年
 『日本古典文学全集24 今昔物語集4』小学館、1976年
 『御伽草子』岩波文庫、1986年

祇園祭 前祭、今年の「山一番」は占出山





占出山


 「山一番」の占出山

 今年から、山鉾巡行が前祭と後祭に分かれた祇園祭。
 いつもと同じ7月17日は前祭(さきのまつり/さきまつり)で、23基の山と鉾が巡行しました。

 今回、まず見ておきたかったのは、占出山です。「うらでやま」と読みます。

  占出山 占出山

 烏丸錦小路を西に入ったところにあります。
 今年は、くじで「山一番」になりました。長刀鉾の次に巡行します。

  占出山 「御山一番」

 巡行は午前9時のスタートですが、占出山は8時から動き始めました。

 とにかく、狭い街路にある山は、烏丸通や四条通に出るまでが一苦労。

  占出山

 山の上に付けられた松などが、電線に引っかかります。それを刺股のような道具で掻き分けながら進むのです。
 占出山は、烏丸通まで僅か100mほどの位置にあるので、わりとすぐに出られました。

 占出山
  烏丸通に出る占出山

 ここで、右折。
 山の場合、舁(か)いて曲がります。

 占出山

 そして、四条烏丸の交差点北側で、待つこと45分。巡行は、まだまだ先の9時にスタートします。
 
 占出山


 神功皇后の説話

 今回、なぜ占出山を見たかったかというと、この山には神功皇后が乗っているからです。

  占出山 神功皇后(占出山)

 右手に、逆J形に曲がった釣ざおを持っています。
 左手には、釣れた鮎(アユ)をさげているのですが、これは隠れていて見えません。あとで見ると、実物より遥かに大きいものでした。

 いま、神功(じんぐう)皇后といっても知名度がありませんが、戦前までは広く知られていた人物で、紙幣の肖像になっていたこともあります。
 朝鮮半島の新羅を攻めたという神話、かつては「三韓征伐」と呼ばれましたが、これで著名な女性です(詳細は文末をご覧ください)。
 京都の寺社に行くと、よく神功皇后と武内宿祢の絵馬が奉納されていて、いつも気になる存在でした。

 神功皇后図絵馬(今宮神社)
  神功皇后図絵馬(今宮神社)
  釣ざおを持ち釣をしている(寛政10年(1798)、海北友徳筆)
 
 神功皇后は、九州から朝鮮半島に向かう前、肥前国の松浦で、鮎を釣って戦さの勝ち負けを占います。見事釣れたので、よい結果になるという話ですが、その故事にちなんで作られたのが占出山です。鮎釣山ともいいます。
 
 宵山の際、占出山をのぞくと、通りの南側に門があり、入ってみると、前懸、胴懸などが公開されていました。

 占出山

 水引は三十六歌仙、前懸と胴懸は日本三景(松島・天橋立・宮島)です。

 その向いが、神功皇后が祀られている御宮です。
 奥に、皇后のおられる厨子があります。

 占出山

 通りからの門は、ふだんも開いているそうですが、この御宮は板戸で閉じられているそうです。
 御宮の名前を町の方に尋ねると、「占出山」ということでした。山の名前そのままなのですね。

 絵馬も奉納されていました。

 占出山

 安産の祈願です。
 神功皇后は、懐胎したまま新羅征討に赴き、帰国後、応神天皇を産んだという説話があるため、安産の信仰を集めています。巡行の順序が早い年は、なおさら産が軽くなるそうで、今年は「一番」ですから効き目は絶大ですね。

 絵馬の絵柄もスイスイ泳ぐ鮎で、元気な赤ちゃんが生まれそうです。

 ちなみに、船鉾や大船鉾なども神功皇后を祀っています。これらでは腹帯や安産御守の授与も行われるそうです。

  船鉾 船鉾の腹帯授与

 巡行が始まってしまうと、なかなか慌ただしいのですが、巡行前の時間帯は町の人たちの和気あいあいとした姿や、準備の様子がうかがえて、とても愉しめます。



 <神功皇后の新羅征討説話(1)> (『日本伝奇伝説大事典』より)

 筑紫にあって熊曾[くまそ]を討とうとする仲哀が神の意志を尋ねたとき、皇后息長帯比売[おきながたらしひめ]は、神懸かりし、金銀や宝がいっぱいある西の国(新羅)を討てと告げる。それを信じない仲哀天皇は神の怒りにふれて死ぬ。
 腹に子を宿した皇后は軍を整え、住吉三神の加護を得て海を渡り、新羅の国の王を服属せしめ、産まれそうになった子を腹に石を纏いて鎮め、筑紫に凱旋したのちに子を生む。
 その後、御子を連れて倭に上る途中、敵対する香坂王・忍熊王を討ち破り、皇后の御子品陀和気命(ほんだわけのみこと)が天皇の位につくのである。それが第十五代応神天皇で、皇后は、のち、百歳で没したという。


 <神功皇后の新羅征討説話(2)> (『国史大辞典』より)

 『日本書紀』によれば、仲哀天皇8年、熊襲[くまそ]を討つため筑紫の橿日宮(かしいのみや)に居る時、皇后は空国(むなしくに)の熊襲よりも宝の国の新羅を帰服させよとの神託を受けたが、天皇はこの神託を疑って従わなかったため、神の怒りを受け急死した。
 翌9年、皇后はまた神託を受け、その神託に従って、熊襲を帰服させ、当時妊娠の身ながら新羅親征を決し、軍船を集め対馬の和珥津(わにつ)より進発し、新羅王を降服させ人質をとり貢調を誓わせた。
 さらに百済・高麗(こま)を帰順させて帰還し、筑紫宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で誉田別(ほむだわけ)皇子を生んだ。のちの応神天皇である。
 これがいわゆる新羅征討説話である。



  占出山




 占出山

 所在 京都市中京区錦小路通室町東入ル占出山町
 見学 自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『日本伝奇伝説大事典』角川書店、1986年
 『国史大辞典』吉川弘文館、1979年


鶏鉾の鉾建てに遭遇! - 迫力の技に感動 -





鶏鉾の鉾建て


 鉾建てを見に行った

 7月11日、京都市内で用事が終わったあと、ぶらぶら歩いて祇園祭の「鉾建て」の様子を見に行きました。
 「鉾建て」とは、文字通り、鉾を組み立てる(建てる)こと。
 完成した鉾は、装飾の付いた織物などを身にまとっているため、その構造はよく分かりません。しかし、組み立てる途中は、骨組みも露わに見ることができます。

 山や鉾が多い室町通を下がっていくと、菊水鉾町には鉾建て中の菊水鉾が。

  菊水鉾の鉾建て
  菊水鉾の鉾建て

 道路の中央に鎮座する菊水鉾。
 もちろん、通行止めです。

  菊水鉾の鉾建て

 祇園祭のすごいところは、鉾建てから巡行に至るまで、百万都市・京都の真ん中をしばし閉鎖して行われることでしょう。
 “世俗の権力”とは別の聖なる時空が現出します。

 看板をよく見ると、「関係者以外立入禁止」と書かれていますが、もちろん、みんな普通に通行したり見物したりしています。

 狭い道路に、鉾のパーツがいろいろ置かれています。

 菊水鉾の鉾建て

 組立中の真木(しんぎ)です。鉾の上に突き出す長い木です。
 木(欅など)と竹を接合して、長い真木を作ります。
 途中に、榊(さかき)が付けられているのが分かります。驚くべきことに、この榊は路傍に生えているものをノコギリで伐って調達されていました。

 菊水鉾の鉾建て

 取り付け前の車輪は、巨大です。一緒に記念撮影されている方もいます。

  菊水鉾の鉾建て

 こちらは、車軸。菊の紋が付けられていますね。


 鶏鉾の真木建てを見る

  鶏鉾
   巡行中の鶏鉾

 菊水鉾の南は、もう四条通。通りを横断すると、鶏(にわとり)鉾です。
 こちらも、鉾建て中だったので、見物させてもらいました。

  鶏鉾の鉾建て
  鶏鉾の鉾建て

 7月11日の午後3時半頃。
 鶏鉾町は、室町通の右側が市営駐車場になっていますので、その2階から見物している人もたくさんいます。私は、その下の歩道から拝見しました。

 鶏鉾の鉾建て

 この段階では、すでに胴組(櫓)は横倒しになっています。倒しているのは、長い真木を差し込むためです。

 鶏鉾の鉾建て

 手伝い方によって、真木に荒縄が巻かれている最中です。

 鶏鉾の鉾建て
 
 真木には、白幣のついた榊(さかき)が付けられています。


 真木が立ち上がるまで

 横倒しになった鉾をどのように立ち上げるのでしょうか?
  
 鶏鉾の鉾建て

 倒された胴組の右端が支点になっており、左右につけた綱(赤矢印)を使いながら起こします。
 右の綱を引っ張り、立ち上げます。左の綱は、その力を制御する役割です。

 鶏鉾の鉾建て

 右端(北)は、これだけ離れています。
 下の写真は、左端(南)。

 鶏鉾の鉾建て

 綱による真木建ては、昔は大勢の人で引っ張っていました。
 今日の鶏鉾の場合は、ウィンチを使って巻き取っています。

 左側(南)のウィンチです。

 鶏鉾の鉾建て

 ふだんまったく気づきませんが、鉾町の道路には穴が開いていて、杭を挿せるようになっています。その杭にワイヤーをゆわえています。
 上の写真の穴は、室町綾小路の交差点内(西端)ですが、これより南にも2つほどの穴がありました(下の写真)。かつて使ったものでしょうか?

 鶏鉾の鉾建て

 午後3時50分、合図が掛かって、胴組が起こされ始めました。

 鶏鉾の鉾建て


 立ち上がる瞬間!

 鶏鉾の鉾建て

 真木が徐々に上がっていきます。
 ビルの2階から見ている人が大勢!

 鶏鉾の鉾建て

 ゆっくり、着実に。

 鶏鉾の鉾建て

 空に向かって真木が立っていきます。

 鶏鉾の鉾建て

 ほとんど立ち上がったところ。足もとです。
 支点の部分がよく分かりますね。

 鶏鉾の鉾建て

 立ち上がった瞬間です。
 時刻は、午後4時。10分ほどで真木が建ちました。
 やはり感動します。

 最後に、30年ほど前に、吉田光邦氏が語られた講演録を紹介しておきましょう。
 鉾建てから祇園祭の特質を把握したものです。

 私もずいぶん以前ですが、鉾建てを朝から晩まで、最後までずっと拝見していたことがあります。
 (中略)
 そしてこの鉾が建つ新町とか室町は、ふだんから人が雑沓しているところですが、そこへ鉾ができ上ると、新しい空間が生まれ、きれいに飾られていく、やがて祇園囃子が始まると、今度は音でまた新しい空間がつくられていく、ついで巡行となって、クライマックスとなる。いえば、非常にドラマチックな、演出と申しますか、毎日毎日、次第次第に、気分が盛り上っていって、クライマックスの巡行にいくという山鉾の演出の見事さ、これは単に山鉾を美術品、工芸品と見るだけでなくて、それを包んでいる宗教的行事が宗教的な世界をいかに創り出してゆくか、単に物だけでなく、囃子という音の世界も同時につくるという、これが大切な伝統なのです。(『京都の文化財』464ページ)


 祭りを行うのに、同時にその世界まで創り出してしまうという、祇園祭の特質をよく表現しています。


 鶏鉾の鉾建て




 鶏鉾 (鉾建て)

 所在 京都市下京区室町通四条下ル鶏鉾町
 見学 自由
 交通 地下鉄「四条」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 吉田光邦「祇園祭と工芸」(『京都の文化財-その歴史と保存-』京都府文化財保護基金、1990年 所収)


2014年、祇園祭の新しいスケジュールは? - 半世紀ぶりに「後祭」が復活!-





祇園祭


 49年ぶりに「後祭」が復活する!

 2014年の祇園祭の話題は、なんといっても、およそ半世紀ぶりに後祭(あとのまつり/あとまつり)が復活するということでしょう。

 昨年までの祇園祭は、7月17日に一度の山鉾巡行が行われていました。しかしこれは、昭和41年(1966)から採用された形です。昭和40年までは、7月17日に「前祭」(さきのまつり/さきまつり)が、7月24日に「後祭」(あとのまつり/あとまつり)が行われていました。

 祇園祭ポスター


 前祭・後祭ってなに? 

 山鉾巡行の歴史を振り返ると、江戸時代までは、旧暦の6月7日に前祭が、14日に後祭が、執り行われていました。つまり、前後2回の山鉾巡行があったわけです。
 維新後、太陽暦が採用されると、明治10年(1877)からは、7月17日と24日に行われるようになりました。

 なぜ、前と後、2日に分けて行われるかというと、祇園祭が八坂神社(祇園社)の神輿の渡御(とぎょ)と還御(かんぎょ)にあわせて行われるためなのです。
 八坂神社におられる神さまが、神輿(みこし)にのって御旅所にいらっしゃるのが渡御、すなわち「神幸祭」です。
 逆に、御旅所から八坂神社へ戻られるのが還御、「還幸祭」です。

 この渡御と還御が祇園祭の中心行事ですが、その神さまを町衆がお迎え、お送りするのが前祭と後祭だったわけです。
 そのため、スケジュール的には、神幸祭のある7月17日の午前中に前祭が行われ、その晩に神さまがいらっしゃる神輿の渡御が行われます。
 還幸祭が行われる24日には、朝に後祭が行われ、夜に神輿の還御が執り行われます。

 つまり、昨年までの祇園祭は、神輿の渡御・還御という神事から見た場合、半分欠けている(後祭がない)不十分な形だったわけです。
 それが49年ぶりに、もとに戻されます。すばらしいことだと思います。

  祇園祭


 後祭がなくなった経緯や、かつてのコースについては、以前書いた記事をご覧ください。
 記事は、こちら! ⇒ <祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活>


 新しいスケジュールは?

 では、今年からどんなスケジュールになるのか? 鉾建てあたりから紹介します。


 7月10日     お迎え提灯
          神輿洗式

 【前祭】
 7月10日~14日  山鉾建て
 7月12日~14日  山鉾曳き初め(ひきぞめ)
 7月14日~16日  宵山(よいやま)
 7月17日 午前9時 山鉾巡行 【四条烏丸~ 】

 7月17日 午後4時 神幸祭 【八坂神社~四条御旅所】

 【後祭】
 7月17日~21日  山鉾建て
 7月20日~21日  山鉾曳き初め、山舁き初め(かきぞめ)
 7月21日~23日  宵山
 7月24日 午前9時半 山鉾巡行 【烏丸御池~ 】
 
 7月24日 午前10時 花傘巡行 【八坂神社~ 】
     午後4時 還幸祭 【四条御旅所~八坂神社】
 7月28日  神輿洗式
 7月29日  神事済奉告祭

     ※祇園祭山鉾連合会ホームページ等による。予定は変更となる場合があります。

 前祭には、長刀鉾をはじめ、函谷鉾、菊水鉾、占出山、鶏鉾、放下鉾、船鉾など23基が参加し、後祭には、橋弁慶山、黒主山、鈴鹿山などが10基が参加します。
 おおむね蛸薬師通を境界として、以南の山鉾が前祭に、以北の山鉾が後祭に加わります。
 また今年は、蛤御門の変の大火で焼失していた大船鉾が、150年ぶりに復活し、後祭で巡行します。
 こちらも、たいへん楽しみですね。

 大船鉾についての記事は、こちら! ⇒ <大船鉾の復興展示は京都駅前ヨドバシカメラ>

  大船鉾展示
   展示中の大船鉾


 細々とした注意事項です

 2014年の祇園祭をご覧いただくにあたっての、細かい注意事項です。

 まず、宵山ですが、前祭では7月15日、16日に歩行者天国となり、露店も出されますが、後祭の宵山では歩行者天国や露店はありません。これが大きな注意点!

 そのほか、後祭の山鉾巡行は、スタートが烏丸御池となり、右回り(時計回り)で、河原町御池-四条河原町-四条烏丸へと進みます。前祭の逆になります。

 また、後祭の鉾の建日は、7月17日から大船鉾(150年ぶりの復活)、19日から北観音山、南観音山、鯉山、20日から浄妙山、黒主山、役行者山、鈴鹿山、八幡山、21日から橋弁慶山が建て始められます。

 ということで、いろいろ変わる2014年の祇園祭ですが、スケジュールに注意して愉しみたいと思います。




 祇園祭

 所在 四条烏丸周辺
 参観 自由
 交通 地下鉄「四条」下車



 【参考文献】
 「月刊京都」2014年7月号


90年前の拝観料は? - 京都の有名寺院をさぐる -

寺院




銀閣寺


 物価が急上昇した大正時代

 寺院の参拝には、拝観料がつきもの。
 近代になると、定額の拝観料を徴収するようになりますが、今回は大正末の金額を書いた史料を紹介しましょう。

 その前に、約90年前の当時の物価を現在と比較する必要があります。
 私がいつも使っている換算レート? は、“昭和初期は2,000分の1” というもの。
 つまり、80~90年ほど前の10円は、現在の2万円ほどに相当するというものです。

 ちなみに、大正時代(1912~1926)は、その間に第一次世界大戦(1914~1918)をはさんでおり、輸出も伸びて好景気となり、物価は急上昇しました。インフレは庶民を苦しめ、大正7年(1918)の米騒動につながりました。米騒動は、よく「富山の漁村の主婦たちが……」と言われますが、その後、全国に波及し、京都も早い段階で米騒動が起こっています。

 このため、物価がいくら? を考える際にも、大正の初めと終わりとでは、ずいぶん異なります。
 このあと紹介する史料は大正14年(1925)のものですから、米騒動後の昭和初期並みと考えておきます。

 大正時代は、「大正デモクラシー」などプラスのイメージも強いと思いますが、庶民にとっては結構苦しい時代でもあったのです。


 松川二郎 『名所回遊 四五日の旅』

 松川二郎。
 “花街ライター”として著名な人物ですが、たくさんの旅行案内も執筆していました。
 私も何冊か著書を持っているのですが、今回紹介するのは、大正14年(1925)に東京・有精堂書店から出版された『名所回遊 四五日の旅 改版』というものです。

 松川二郎『名所回遊四五日の旅』
 『名所回遊 四五日の旅』
 「京都見物」のページ

 全国の名所を「東京見物」「房総海岸めぐり」「善光寺まゐり」といったふうに、テーマ別にまとめている案内書。ちなみに、この本自体は490ページもあって、金2円です。現在に換算すると、4,000円くらいということで、ちょっと高いかなぁ。

 当時、2円出せば、<目薬10コ>、<とんかつ10杯>、<タバコ28箱>、<たいやき133コ>買えました。意外にタバコが安いですね。


 有名寺院の拝観料は?

 では、京都の寺院の拝観料はいくらだったのでしょうか?

 金閣寺 金閣寺

 まず、金閣寺ですが、次のようになっています。

  金閣寺  特 50銭、並 20銭

 「特」と「並」の区別が !? 
 値段も倍以上で、どう違うんだろう?

 特なら、1,000円。当時なら、<うな重1杯>と同じ値段。<コーヒー10杯>飲めました。
 うな重と同じなら、さぞかしなサービス……でしょうね。推測では、これは金閣の内部に入れたのではないでしょうか? 昔、なかに入れたという話はよく聞きます。

 並なら、400円。
 現在の拝観料と同じ! すばらしいですね、90年間据え置きです。

 つづいては、銀閣寺です。

  銀閣寺  特 30銭、並 20銭

 こちらも、特と並です。
 現在の拝観料は500円ですから、ちょうどこのくらい。

 さて、ここからは値段別に。
 20銭、いまの400円クラスは、次の寺院。

  三十三間堂、仁和寺  20銭

 20銭といえば、当時<かけそば2杯><ビール ジョッキ1杯>飲食できました。
 いま三十三間堂は600円、仁和寺は御殿拝観が500円です。微増ですかね、こちらは。

 つづいで、10銭、現在の200円クラス。

  平安神宮、知恩院、大仏殿(方広寺)  10銭

 平安神宮 平安神宮

 昭和の初め(1933年)の話ですが、大阪で初めて地下鉄が開通したとき、運賃は10銭でした(梅田-心斎橋)。最近まで200円でしたが、2014年4月から180円に値下げされています。

 平安神宮は、現在、神苑が500円。倍増です。
 知恩院は、庭園拝観が300円。
 方広寺の大仏は、焼けてしまいましたね……

 次は、5銭、いまの100円クラスです。

  大徳寺、八坂の塔(法観寺)  5銭

  八坂の塔 八坂の塔

 大徳寺は、いまは塔頭ごとの拝観です。八坂の塔は、400円みたいですね。でも、ここは塔内に入れて、とてもおもしろかったです!

 最後に、無料(笑)

  東本願寺、西本願寺  無料

 無料のところは、他にも多いでしょう。両本願寺は、いまでももちろん無料です。
 
 ちなみに、博物館(京博)と動物園は5銭でした。

 どうでしょう? 相場的には現在より少し安めかな、という印象です。
 拝観料の問題は、かなり興味深いので、また時間があれば調べてみたいと思います。


  松川二郎『名所回遊四五日の旅』装丁




 【参考文献】
 松川二郎『名所回遊 四五日の旅 改版』有精堂書店、1925年
 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(正・続・続続・完結)朝日新聞社、1981~1984年



【新聞から】アメリカ旅行雑誌で、京都が初の第1位に

その他




 世界人気都市ランク、京都が初の1位
 米有名旅行誌が選定
 各紙 2014年7月3日付 


  錦市場 海外ツーリストにも人気の錦市場

 ここ数日の京都観光の話題としてあがっているのが、アメリカの雑誌「TRAVEL + LEISURE」(T+L)の 2014 World's Best Awards で、京都が世界の旅行目的地としてNO.1の都市に選ばれたということ。

 T+Lのウェブサイトを見てみると、世界中のホテル、都市、島、クルーズ、エアライン、スパなどのランキングが読者により選定されています。今年で19回目だそうです。

 さっそく、都市のランキング見ると、世界のトップ10は次のようになっています。( )内は昨年の順位です。


  1(5) 京都(日本)
  2(7) チャールストン(サウスカロライナ州)
  3(3) フローレンス
  4(‐) シェムリアップ(カンボジア)
  5(6) ローマ
  6(2) イスタンブール
  7(‐) セビーリャ(スペイン)
  8(8) バルセロナ
  9(‐) メキシコシティ
  10(‐) ニューオーリンズ


 アメリカ雑誌のランキングですので、2位がチャールストンになっているなど、独自感があります。4位のシェムリアップはアンコールワットなどの観光拠点となる都市。
 京都の表記が、Kyoto,Japan と国名付きになっていて、やっぱりどこにあるか知らないアメリカ人もいるんでしょうか?

 アジアのランキングを見てみると、トップが京都、2位がシェムリアップで、3位以下が、バンコク、東京、香港、上海、ハノイ、西安、北京、シンガポールとなっています。
 
 ちなみに、ホテルのトップ100には、日本のホテルはひとつも入っていないですね。けれども、京都の場合、和風の旅館が評価のポイントになった模様。

 京都は、ここ3年、9位→5位→1位。
 平成25年度の外国人宿泊者数は113万人で、百万の大台に乗りました。よく知人たちにも、京都は外国人観光客が多い、と言われますね。

 老舗料亭
  老舗料亭。「和食」もランクアップに貢献

 昨年、『週刊東洋経済』2013年10月19日号で、「おもてなしで稼ぐ 観光立国の起爆剤」という特集が組まれました。
 そこでは、京都で当たっている事例として、台湾人に大受けしている美山町(南丹市)の茅葺き民家の宿(「かやぶきの里 久や」)、京料理を味わいながら舞妓さんとお座敷遊びができる体験(「ぎおん畑中」)、白川沿いの築150年の和風旅館(「料理旅館 白梅」)などが紹介されています。
 また、京都市が行っている富裕層誘致への取り組みにもページを割いています。
 今回のランキングも、このような蓄積の賜物といえるのでしょう。 

 ランキングに一喜一憂するのは変だけれど、海外の人たちに京都のよさが伝わるのはよいこと。
 日本の他都市と同様に、治安のよさや清潔性が高い京都ですけれど、これからは評判のよろしくない交通機関に関する利便性の向上や、「ことばの壁」を低くする必要があるでしょうね。

 私としては、治安のよさを生かして、海外の方にも<歩いてめぐる京都>を堪能してほしいと思います。路地の奥や小さな寺社にも、意外な京都の魅力が潜んでいるのですから。



四条河原町の喧騒の中に「烏須沙摩辻子」はあった





うすさま辻子


 裏寺町を行く

 京都の繁華街で、最もにぎやかなところといえば、河原町通でしょうか、四条通でしょうか。それとも、新京極かも知れません。
 南北に通る河原町通と新京極の間に、その名も「裏寺町」という通りがあります。

 裏寺町
  裏寺町

 写真は、蛸薬師通から南をのぞいたところ。
 北は六角通あたり(シネコン「MOVIX京都」裏の辺)から、南は四条通あたりまで、400m余り、南北に延びる狭い通りです。
 通りの両側には寺院が多く、50年ほど前の書物には、17か寺あると記されています(『新撰京都名所図会』)。若干移転された寺院もありますが、今でも大半はそのままです。


 裏寺町の南端は?

 この裏寺町を南へ歩いていくと、四条通に抜けられます。
 南端の道路は、下の写真のようになっています。

 裏寺町

 左がファッションビル「河原町オーパ」、右には飲み屋さんが数軒あります。
 突き当りがコンビニになっていて、そこを左折してカギの手に曲がります。

  うすさま辻子

 曲がると、一段と細い路地になっていて、向こうが四条通です。
 
 今日の主人公は、この路地です。
 
 いちおう名前が付いていて「烏須沙摩辻子」などと呼んでいました。読みは「うすさま・ずし」です。
 独自の名があることから分かるように、この路地は裏寺町通とは別の道なのでした。


 「烏須沙摩辻子」を探る!

 100mにも満たない烏須沙摩辻子。
 その名が奇妙ですね。「辻子」は、とりあえず路地くらいに思っておいていただいて、「烏須沙摩」について調べてみましょう。

 辞書を見ると、「うすさま」は「うすさま明王」に同じとあります。

 烏芻沙摩明王
 金剛界曼荼羅の一尊。不浄を転じて清浄とする明王。
 形相には異同があるが、目は赤く、身は黒く、四臂(ひ)で、火炎に包まれ忿怒(ふんぬ)の相を示す。
 主として安産または出産の不浄を払う効験を持つとされ、密教、禅宗などでは便所の守護神とする。(後略) (『例文仏教語大辞典』70ページ) 


 「四臂」というのは、手が4本あるということ。「臂」は腕のことですけれど、“八面六臂の活躍”などというのは、顔が8つ、手が6本あるほど目覚ましい働きをする、ということですね。
 腕は6本という話もあって、剣を持ったり羂索を持ったり、いろんな持物を持ちます。龍が絡みつく場合もあるようですね。いずれにせよ、火炎を背負って怒りの形相なのですから、恐そうな明王です。
 なお、「うすさま」の当て字はさまざまあり、異名もあるということです。

 ということで、おそらくこの道のあたりに、烏須沙摩明王が祀られていたのだろうという推測は付きます。
 そこで古い地図を見てみましょう。竹村俊則氏が作成されたものです。

 新京極図(『新撰京都名所図会』より)
  50年余り前の裏寺町周辺(『新撰京都名所図会』巻4 より)

 矢印が、烏須沙摩辻子。
 見ての通り、辻子がぶつかるところに、大龍寺というお寺があります。ここに烏須沙摩明王が祀られていたのです。

 (※『新撰京都名所図会』は左右の道を烏須沙摩辻子と記していますが、ここでは縦の道と考えています)


 大龍寺に行ってみた!

 大龍寺について、「京都坊目誌」は次のように記しています。

 大龍寺
 裏寺町。東側(中略)にあり。寺門南面す。【四条通に向ふ】
 裏寺町南より四条通に至る間を【地は中之町に属す】俗に烏須沙摩ノ辻子と字[あざな]す。本寺内に烏須沙摩明王ノ像を安する故也。
 浄土宗、鎮西派。金戒光明寺に属す。本尊阿弥陀仏ノ像を安す。天正十四年、僧清善開基す。(中略)天明八年正月、大火に類焼し、今の建物は其後の再建也。(後略)


 裏寺町の南端から四条通に至る部分を「烏須沙摩ノ辻子」と名付けている、と書いています。
 江戸時代の文献によると、この辻子は「大龍寺辻子」と呼ばれることもあったようです。

 では、いよいよ大龍寺に行ってみましょう!

 ところが、京都の方はご存知かも知れませんが、このあたりは近年激変しています。

  うすさま辻子
  四条通から入った烏須沙摩辻子
  左がゑり善、右がみずほ銀行

 問題の場所は、四条河原町の交差点の北西方向です。
 角には、みずほ銀行などがあり、銀行の西にこの烏須沙摩辻子があります。ところが、上の写真でも分かるように、辻子の正面はオーパになっています。

 裏寺町
  右のビルのところに大龍寺があった

 実は、現在のオーパのあった場所(裏寺町側)に、大龍寺はあったのでした。
 ところが、昭和52年(1977)に、郊外へ移転したのです。調べてみると、右京区に移られていたので、さっそく訪ねてみることにしました。

 鳴滝

 一転して、のどかな風景。
 御室から福王寺の交差点を経て、周山街道に入ります。高尾病院を越したところに、看板が立っています。

  大龍寺 「ウッサンの寺 大龍寺」

 これか。
 しかし、「ウッサン」とは?
 やっぱり、ウスサマのことなんだろうなぁ……

 坂を少し上ると、すぐに大龍寺です。

 大龍寺
  現在の大龍寺

 大龍寺
 
 総門の右脇に、「日本三躯随一 烏枢沙摩明王奉安所」とあります。お詣りに来られる方も多いのでしょう。
 石段を上ると、本堂の手前にお堂がありました。

 大龍寺
  烏枢沙摩堂

 宝形造に向拝を付けた小さなお堂です。四条河原町から移築されたとのことですが、建物や敷地内を見ていくと、かつての信仰のあとがうかがわれます。

 大龍寺

 まずは、掲げられた額の類です。

 大龍寺

 「烏枢沙摩明王」の額。

 大龍寺

 信仰のさまを示す奉納絵馬。
 いつ誰が納めたのか、表面には書かれていないので分かりませんが、明治くらいのものでしょうか。
 この種の絵馬は非常に多く、奉納する人、もしくは親族などの参拝姿が画面に描かれています。人物は、左向きです。
 この絵馬は、お堂の屋根、組物、高欄などの細部も比較的忠実に描かれています。また、人物の左右にある石灯籠は、あとで紹介するものだと思います。大龍寺烏枢沙摩堂が、裏寺町にあった時代の姿を伝えています。

 大龍寺

 大龍寺

 こちらは、明治19年(1886)1月に奉納された額なのですが、画面はすっかり消えていて、全く見えません。よくよく見ると、人名がたくさん書かれているような気もします。
 奉納者は、花廼家昇月、鶴女。夫婦なのか、芸人さんか役者さんといったところでしょう。


 市川海老蔵・団十郎の奉納額

 おもしろいのは、この竪額です。

  大龍寺

 お堂の正面左に掲げられており、「大願成就」と大書されています。
 掲げられた年は、表には記載がないので不詳。下部に人名が列記されています。

 大龍寺

 次のように書かれています。

  七代目
    海老蔵
  倅[せがれ]
  八代目 団十郎
      重兵衛
      高麗蔵
      猿 蔵
      幸 蔵
      赤 平
   河原嵜
      権之助 


 海老蔵、団十郎という名前から分かるように、歌舞伎の成田屋・市川団十郎家の人々です。
 どのような関係かというと、最初に一段高く記されている「海老蔵」が、五代目市川海老蔵です。「七代目」とあるのは、七代目団十郎だったからで(当時の史料にも、この表記があります)、「歌舞伎十八番」を制定したことで知られる人。この段階では、団十郎の名はすでに息子に譲っていました。
 その息子が、長男、八代目市川団十郎。この人は、大人気のスターでしたが、安政元年(1854)、大坂で謎の自殺を遂げてファンを悲しませました。
 次男が、「重兵衛」とある、六代目高麗蔵。この時は、すでに役者を廃業して、兄の手代として一座に付いていました。
 三男が、七代目高麗蔵。のち、七代目海老蔵を襲名します。
 四男は、初代猿蔵。
 そして、弟の幸蔵。
 末の子が「赤平」、これは「あかんべえ」といって、八代目海老蔵の最初の名前です。まだ、小さな子供なのです。

 と、ずらっと五代目海老蔵と、その子供たちが並びます。
 実は、彼の息子は7人いました。1人足りませんね。五男は、のちに明治の名優となる九代目団十郎でした。ただ、この人は、当時、河原崎家に養子に入っており、その名も、長十郎 → 権十郎 → 権之助 と変わっていきます。
 すると、末尾の名前、「河原嵜権之助」は彼のことかと思いますが、どうもそうではないようです。

 この額がいつ奉納されたかが問題です。
 長男の八代目団十郎は、安政元年(1854)に没しています。
 また、末っ子のあかん平(八代目海老蔵)が生まれたのが、弘化2年(1845)です。
 このことから、奉納時期は、1845年の少し後から1854年までの10年弱と考えられます。

 その時期には、明治の名優・五代目団十郎は、まだ権之助を襲名しておらず、前名の権十郎でした。
 すると、ここにある河原崎権之助は、彼の養父の先代権之助ということになります。海老蔵の息子の後見人なので、最後に名を連ねたのでしょう。

 では、市川家はなぜこの額を奉納したのでしょうか?
 「大願成就」の言葉に、何か決意めいたものが感じられます。

 推測としては、五代海老蔵は、嘉永5年(1852)に江戸において一世一代の興行を行っています。これは、天保の改革のとばっちりで江戸追放となっていた海老蔵が、復帰後に行った興行でした。当時の刷り物には、やはり息子たちの名が連記されています。
 海老蔵は、長い江戸追放の間、京・大坂でも頻繁に出演していました。京都の芝居とも縁が深くなっていました。
 その関係で、嘉永5年に、御礼としてこの額が奉納されたのではないかと、これはひとつの想像です。
 

 中村鴈治郎・扇雀の奉納も

 他にも、こんな額が!

 大龍寺

 歌舞伎俳優の中村鴈治郎家の奉納額です。昭和50年代から60年代のもので、毎年の干支の絵柄になっています。
 最初は、二代目鴈治郎さん(故人)と、息子の扇雀さん(現・坂田藤十郎)、その長男の智太郎さん(現・翫雀)の3人。すぐに次男の浩太郎さん(現・扇雀)が加わり、さらに鴈治郎さんが亡くなり、と変転していきます。

 この烏枢沙摩明王、四条、新京極など劇場の多い場所にあったせいでしょうか、役者さんからの信仰を集めていたことがうかがえ、たいへん興味深いと思います。


 石造物も、おもしろい!

 敷地内にある石造物も見てみましょう。
 まずは手水鉢。

 大龍寺

 大龍寺

 表に「奉納」、裏に「願主/いけ吉」とあります。いけ吉は、よく分かりません。
 奉納年は、見えづらいのですが左側面に「文政六□/癸未年/六月」とあるように読めるので、文政6年(1823)のものということになります。

 次に一対の石灯籠です。

 大龍寺

 形状は、先ほどの絵馬の絵によく似ています。
 胴の部分に、「うすさま明王」と書いてあります。

  大龍寺

 裏面には、願主など。

  大龍寺

 「文化六己巳歳/五月吉日再建/俵屋清兵衛/油屋吉左エ門」とあります。
 文化6年は、1809年。およそ200年前、信心する商人の寄進と思われます。

 このように篤い信仰を集めてきた大龍寺の烏枢沙摩明王。

 江戸時代には、花柳界、役者、芸人、あるいは商人などが信仰する、功徳のある流行神仏が数多くありました。
 以前ここでも、三条の「だん王」こと、壇王法林寺の主夜神や、禅居庵の摩利支天などを紹介しました。

 記事は、こちら! → <本居宣長の日記に登場! 壇王法林寺の主夜神は、江戸時代から信仰を集めている> <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 これらは、どちらかというと繁華街にあるものが多く、この烏須沙摩明王もそのひとつだと考えてよいでしょう。辞書的な“トイレの神様”だけでは終わらない歴史的な変遷があるわけです。

 こういった関心は、もう少し深めていきたい気がしています。


 大龍寺




 大龍寺 烏枢沙摩堂

 所在 京都市右京区梅ケ畑高鼻町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「高尾病院前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 竹村俊則『新撰京都名所図会 4』白川書院、1962年
 碓井小三郎『京都坊目誌』1916年(『新修京都叢書 16』光彩社、1968年所収)
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年
 『望月仏教大辞典』世界聖典刊行協会、1933年
 石田瑞麿『例文仏教語大辞典』小学館、1997年
 伊原敏郎『歌舞伎年表 6』岩波書店、1962年
 野島寿三郎編『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年