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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

きょうの散歩 - 「大将軍」の地名の由来、大将軍八神社を訪ねて - 2014.6.29





大将軍八神社


 「大将軍」という地名

 「大将軍」という言葉、なんだか厳めしく偉そうな感じがします。
 しかし京都では、「大将軍(たいしょうぐん)」といえば、白梅町を少し下がったところ、府立体育館があるあたり、という感覚、つまり地名ですね。
 白梅町とは、今出川通と西大路通の交差点のこと。北野天満宮の西方です(天神さんにちなんで梅の名前です)。

 私も、昔は府立体育館によく行っていましたから、この辺にはしばしば来ていました。
 しかしそれ以上に、この少し下(しも=南)は母の実家があったため大変馴染み深い場所で、その上に、これから紹介する神社のごく近所で、私は生まれたのでした。

 今日は、右京区の鳴滝に行ってきて、その帰り、自転車で一条通を東行しているうちに、知らず知らず通りかかったのです。
 久しぶりです、ここを通るのは。しかし、その神社の境内に入るのは、今日がたぶん初めてだったと思います。


 大内裏の西北に当たる神社

 大将軍八神社
  
 大将軍という珍しい地名の由来になったのが、この大将軍八神社。「たいしょうぐんはちじんじゃ」と読みます。
 30年近く前、大学の某講義で、先生が「グンパチ神社」と言っていたのが未だに忘れられず、今日もそれを思い出して自転車を停め、お詣りしてみました。

 社名は、古くは大将軍堂、のち大将軍社とされたそうで、上の写真にある鳥居の額は「大将軍社」ですね。
 ここでいう「大将軍」は、武将の意味ではありません。『日本国語大辞典』の説明を引いておきましょう。

 陰陽道でまつる八将神の一つ。太白星の精で、地に降り四方をつかさどるといわれる。
 [えとの]巳午未の年は東、申酉戌の年は南、亥子丑の年は西、寅卯辰の年は北というように、3年ごとに四方をめぐって12年目にもとの方位へもどる。
 この神のいる方角は、三年塞(ふさが)りといって、なにごとにも忌まれた。


 方位をつかさどる神なのですね。
 この神社の場所は、平安京大内裏の西北にあたることから、祭祀が行われ、神社につながったと考えられています。

  大将軍八神社

 方除守護と記しています。
 『京都市の地名』によると、江戸後期には大将軍八神宮と呼ばれ、大将軍中心の信仰から、八将軍神の信仰へと幅を広げたといいます。この八将軍(大将軍、太歳神、大陰神など)への信仰から「八神社」と呼ばれるようになったわけですね。
 
 大将軍八神社
  本殿

 6月30日は「夏越しの祓」ということで、茅の輪が作られていました。

 大将軍八神社

 1日早く、茅の輪くぐりをしてきました。




 大将軍八神社

 所在 京都市上京区一条通御前西入ル
 拝観 境内自由
 交通 市バス「北野白梅町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 『日本国語大辞典』小学館、1976年


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【新聞から】本能寺の変の原因に迫る? 書状発見

その他




 明智光秀辞世(西教寺)

 本能寺の変は四国攻め回避?
 新史料 長宗我部元親の書状
 各紙 2014年6月24日付



 このブログでも、折にふれて登場する明智光秀。そして、光秀といえば本能寺の変。
 6月24日付の各紙朝刊は、それに関する新発見史料で沸き立ちました。朝毎読産4紙のうち、産経は1面と社会面で大々的に取り上げました。

 朝日新聞のリード文を引用しておきましょう。

 明智光秀が主君・織田信長を討った本能寺の変(1582年)の直前、光秀と近しかった土佐の長宗我部元親が、光秀の重臣斎藤利三に送った手紙が見つかった。(中略)信長が一方的に変更した四国政策を当初拒んでいた元親が翻意し、受け入れるとした内容で、四国政策をめぐる信長と光秀の確執の解明に役立つ史料だ。

 プレスリリースによると、今回話題となった林原美術館(岡山市)所蔵の石谷(いしがい)家文書は、全3巻、つまり3つの巻物に、47点の文書が集成されているということです。その第2巻に、報道に出てくる長宗我部元親の書状などが収められていたそうです。3つの巻物は1箱に入っていたもので、石谷家あての重要な書状などを後年まとめて巻物とし、1箱に収めて伝えたのでしょう。

 そのうち特に注目された書状が、本能寺の変にかかわるもので、変が起こった天正10年(1582)1月11日付の、明智光秀の部下・斎藤利三から兄の義父・石谷光政(空然)に出した書状(1)と、変の10日ほど前の同年5月21日付の、土佐の戦国大名・長宗我部元親から斎藤利三に出された書状(2)です。

 当時の状況ですが、その頃、土佐の長宗我部元親は、阿波や讃岐にも侵攻して四国統一を進めつつあり、そのことは当初、織田信長も認めていました。ところが、天正9年(1581)後半頃になって、信長は方針を変え、元親に対して、土佐と阿波の南半分しか領有を認めないと伝えました。
 当然、元親は納得いきません。
 明智光秀は、かねてから織田と長宗我部の仲介役を務めていました。光秀の家臣・斎藤利三は、兄の石谷頼辰を使者として長宗我部家に派遣し、元親が軽はずみな行動をしないように諌めます。
 斎藤家、石谷家、長宗我部家は、婚姻関係でつながっていた縁戚でした。

 上の(1)の書状は、利三が土佐にいた石谷光政に対して、自分の兄であり光政の養子でもある石谷頼辰を派遣することや、元親の軽率な行動を抑えるように依頼した内容です。
 明智光秀サイドは、斎藤利光がもつ縁戚関係をうまく活用して、織田と長宗我部が対立しないように、仲立ちしているのです。
 
 そして、本能寺の変(6月2日)の前月、5月上旬になると、信長は長宗我部氏を征討する軍を編成し、三男・信孝を総大将として差し向けることを決定します。
 いよいよ四国に攻め込まれる事態が迫り、5月21日の(2)の書状で元親は、1月とは打って変わって、信長の意向に従うことにします。阿波の多くの城から撤退し、信長が甲斐・武田氏の討伐から戻ったら、その指示を仰ぐとしています。ただし、阿波南部の2つの城は土佐の入り口にあたるため、そのまま保持したいとの希望を述べています。
 変が決行される僅か10日ほど前の書状です。

 この書状は、長宗我部元親から斎藤利三に出されたものです。
 受け取った利三は、織田と長宗我部の間に立って、最後の調整を続けたのでしょうか? しかし、阿波を取り上げる方向だった信長に対して、もはや調整不可能だったのかも知れません。
 藤田達生・三重大教授は、「利三は[本能寺の変で]信長を討った実行部隊。ぎりぎりまで交渉したが、時間切れでうまくいかなかったことが(変の)引き金になったと言わざるを得ない」と述べています(朝日新聞)。

 もちろん、この書状の発見で、本能寺の変が起こされた動機解明に即つながるわけではありません。
 変の要因としては、<野望説><怨恨説><黒幕説>等さまざまあり(産経新聞)、「信長が四国の統治方針を変え、[仲介役としての]面目をつぶされた光秀が謀反を起こしたとする『四国説』」(読売新聞)も、そのうちのひとつです。
 今回の書状は、長宗我部元親が信長に恭順の意を示すことが分かる新史料で価値が高く、<四国説>を補強します。
 岡山県立博物館の内池英樹学芸員は、「この発見で50点程度だった四国説が80点までになり、他説に比べ一歩抜きんでた」とコメントしています(産経新聞)。

 それにしても、各紙を読み比べていて、私たちが一番 “!” と思ったのが、産経新聞の次の言葉。

 光秀はなぜ、信長を襲ったのか。「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所在地論争と並んで日本史最大のなぞとされている。
 
 そうだったのか、邪馬台国と並ぶ「最大のなぞ」だったとは……。
 1面で大々的に取り上げられたのも理解できます。

 そして、よくみると、朝日新聞も「日本史上最大の謎のひとつ」と書いています。

 そういえば、最近、本能寺の変の本がよく売れているとか。
 これを契機に研究が進むと、泉下の光秀公も、さぞかし喜ばれることでしょう。

 林原美術館
 史料を所蔵する林原美術館(岡山市)


小学校の “塀” も、意外におもしろい





旧生祥小学校


 市街中心部に残る旧小学校
 
 京都中心部にあった小学校の旧校舎については、以前ここでも旧龍池(たついけ)小学校を取り上げました。

 記事は、こちら! ⇒ <今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮>

 他にも、京都芸術センターとなった旧明倫小学校など、いくつかの校舎が残されています。

 京都の中心部は、産業の隆盛に応じて裕福な学区が多く、彼らが出資した小学校の建物も立派だったのです。その代表は、四条烏丸をはさんだ区域の日彰学区と明倫学区でした。
 四条通の北側の旧学区は、東から(鴨川の方から)、立誠、生祥、日彰、明倫、本能と続きます(堀川通まで)。

 今回は、旧生祥小学校を取り上げますが、この学区は、およそ北は三条通、南は四条通、東は寺町通、西は富小路通・柳馬場通あたりに囲まれた区域です。つまり、四条河原町の西北方向ですね。
 小学校は、富小路六角下るにあります。

 生祥小学校は、現在は廃校となり、地域の方々などが使用されているようです。
 このあたりの学校はすでに統合され、子供たちは日彰小学校の場所にできた高倉小学校に通っています。


 昭和初期にできた校舎

 旧生祥小学校
  旧生祥小学校

 校舎は、昭和14年(1939)に建てられたものです。設計は、京都市営繕課。
 富小路通に沿って、南北に長く伸びた校舎で、校庭は敷地の東側にあります。
 思い出してみると、龍池校も明倫校も、校庭は校舎の東側にありましたね(細かくはコの字型やL字型になっているのですが)。立誠校は、校庭の北側に校舎が建つ形でしたかね。

 生祥校は、写真を見て分かるように、正面玄関の位置には門はなく、直接校舎に入る形を取っています。
 ここを通るたび、目につくのが塀なのです。

 旧生祥小学校

 低い開放的な塀が長く続いていて、玄関前には小さな親柱を立てています。

  旧生祥小学校

 いつも気になるのが、その石材で、龍山石が使われています。
 柔らかい、黄色っぽい石で、播州(兵庫県西部)で取れます。古墳の石棺としても使われていて、加工しやすい材料なのですね。
 ちなみに、先日、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」(兵庫県高砂市)が国史跡に答申されました。龍山石好き? の私にはうれしい限りです。

 近代建築の外壁などにしばしば使用されるのですが、もろいので欠けやすいのです。
 この小学校でも、塀に使っているせいで、痛んでいる箇所が見られます。

 旧生祥小学校
  正常な状態

 旧生祥小学校
  痛んできた石材

 雨がたまったりするせいでしょうか……

 旧生祥小学校

 龍山石の下部は、石に似せた「擬石」で仕上げています。

 旧生祥小学校

 塀の龍山石、その黄色っぽい色合いは、校舎外壁のタイルのテイストに合わせているものです。
 統一感がありますね。

  旧生祥小学校


 反対側の塀も、なかなかだ

 上の塀は、西側の塀でした。
 反対側の東に回ってみましょう。

 旧生祥小学校

 校庭側に、50m以上にわたって長い塀が続いています。

 旧生祥小学校

 単調な塀。
 おまけに、前にずーっとコーンが置いてある……

 しかし、じっくり見ると、なかなかいけるんですよ、この塀が。

 まず、全体は3段構成。
 一番下は擬石、中段はモルタルです。

  旧生祥小学校

 下の方が、粗い仕上げなのですね。

 そして、最も上にはタイルを使用。

 旧生祥小学校 旧生祥小学校

 小ぶりな布目のタイルです。
 やはり東の塀も、タイルやモルタルをベージュ色に仕上げていて、校舎にマッチするように配慮しています。

 一番いかすのが、このデザイン。

 旧生祥小学校

 窓っぽいですけれど、飾りです。
 武者窓、あるいは京都なので虫籠(むしこ)窓の意匠なのでしょうか。
 他で見たことがない、洒落た工夫ですね。

 最後に。
 塀の北端に、こんなものが!

  旧生祥小学校

 「此の附近にゴミを捨るな 京都市」

 んー、落書きみたいだけど、市が書いた“警告”でした。

 京都は、やっぱり小学校がおもしろいですね。




 旧生祥小学校

 所在 京都市中京区富小路六角下る骨屋之町
 見学 外観自由 (内部は見学できません)
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 日本建築学会編『日本近代建築総覧』技報堂出版、1980年


【大学の窓】嘘か真か「三十三間堂棟由来」!? 学生にきいてみた!

大学の窓




 キャンパス


 「あの問題」をきいてみよう!

 担当している演習では、年に一度、指定された研究書を読んで意見交換する日があります。
 私の指定書は、田中優子さんの『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫、原著1986年)。
 金唐革、平賀源内から、世界全図、“手長足長”まで、江戸人のはばたく想像力を縦横に紹介した書物です。

 1時間以上、意見交換をして、そろそろ終わりというところ。
 少し時間が余りそうなので、“あの問題”を学生に尋ねてみました。

 “問題”とは、前回ふれた文楽「卅三間堂棟由来」(さんじゅうさんげんどう むなぎのゆらい)の物語を、江戸時代の人たちは本当と思って聞いていたのか、それとも眉に唾して聞いていたのか、ということです。


 なるほどの卓見も

 文楽鑑賞教室パンフレット

 この物語、熊野山中に夫婦として生えていたナギと柳が、来世に人間と柳の精となって再会し契りを交わしますが、柳が伐り倒されて再び別離するという哀話です。
 三十三間堂の建立由来譚なのですが、現代人からすると、荒唐無稽に思えます。

 学生に聞いてみました。
 この物語、江戸時代の人たちは、本当と信じて聞いていたのか、作り話と思って聞いていたのか?

 13名のうち、「本当」派は2人のみ。残りは「作り話」に挙手しました。

 理由を聞いてみると……
 本当派は、『江戸の想像力』にもあるように、異国には手長足長が住んでいると信じる人たちもいるのだから、この話も信じたのではないか、などというものです。
 確かに、限られた情報の中では、それが正しいか誤っているか容易に判断できず、鵜呑みにしてしまうかも知れません。

 一方、大多数の作り話派は、どんな理由なのでしょうか?
 ある学生は、こう言います。
 今でも、心霊写真などを見たとき、作り事だとは思うけど、もしかすると……みたいな感覚がある。当時の人も、疑いつつも信じる部分もあったのでは……
 これは、全面的な「作り話」説ではなくて、「半信半疑」説とでもいうべきでしょうか。

 別の意見は、こうです。
 現在にたとえれば、テレドラマを見るように、ひとつの娯楽と割り切って人形浄瑠璃を見ていたのではないか。
 なるほど。
 言い換えると、「作品」として受け取っていたというわけです。作品世界の中のお話として見ていたという解釈ですね。

 作り話派も、当時の人が完全な嘘と思って聞いていたというのではなく、虚実半々に聞いていたと考える学生が多かったようです。

 確かに、わざわざ芝居小屋に見に来ているわけですから(それもいつも見ているのですから)、娯楽作品として物語を受け止め、その枠内で楽しんでいたという解釈は納得できます。
 
 国立文楽劇場

 もう一歩だけ踏み込んで考えておきましょう。
 江戸時代の人たちにとって、人形浄瑠璃は単なる娯楽作品だったのでしょうか?

 例えば、のちの時代、絵葉書は観光土産であるとともに、報道メディアでもありました。報道としての絵葉書で最も多い例は、災害絵葉書です。これは新聞に写真が使いづらかった明治時代、流行します。
 また、明治維新当初には、浮世絵(錦絵)の技法を用いた「新聞錦絵」というものもありました。浮世絵が報道メディアとして活用されたケースです。

 そんな例から想像していくと、お芝居も情報伝達メディアとして受け取られていた可能性はないのか? という疑問がわきます。
 例えば、実際に起こった心中事件や仇討事件を、少しだけ設定を変えて芝居にすることは盛んに行われています。それは、今でいう報道とイコールではないにせよ、ある種の情報伝達です。
 そんな中で、「卅三間堂棟由来」を見たら、“この話は、かなりの部分真実なんだろうな”と受け取る観客もいたのでは? と推測されます。

 この問題、奥が深そうですね。
 学生の意見を聞いて、いろいろと勉強になり、さらに考えるきっかけになりました。


国立文楽劇場で「三十三間堂棟由来」を見る

洛東




国立文楽劇場


 社会人のための夜の公演

 6月の国立文楽劇場(大阪)は、文楽鑑賞教室。
 主には、生徒さん向けの公演だとは思うのですが、そのなかに2回ばかり大人向けの夜の公演が組み込まれています。その名も、「社会人のための文楽入門」。

 開演が午後6時30分という仕事帰りに行ける時間。6月18日に、のぞいて来ました。
 この夜の来場者は約700人ということで、800席ほどある文楽劇場では、なかなかよい入りということになります。

 今回の演目は、京都関係のもの。私の好きな三十三間堂に関する物語、「卅三間堂棟由来」(さんじゅうさんげんどう むなぎのゆらい)で、とても楽しみです。

 国立文楽劇場


 三十三間堂建立の由来を語る

 まずは、太夫さんたちによる文楽の見方ガイドです。
 三業(太夫、三味線、人形)のそれぞれについて説明があります。
 人形の遣い方では、実際に3人のお客さんが舞台に上がって“実演”!
 なかなかうまくいかず、笑いを誘って、ほほえましかったです。

 そして、「卅三間堂棟由来」。
 あらすじは、以前書きましたので、こちらをどうぞ! ⇒ <「三十三間堂棟由来」、国立文楽劇場で6月に上演>

 まずは、鷹狩りの場面からスタートです。

 熊野山中で、武将・季仲が狙った獲物は白鷺。サギの人形は、長い竿の先に取り付けられているのですが、竿を微妙に震わせているのか、羽根がはばたいて不思議な感じです。それを追うタカも同じ動きです。
 そのあとが、柳の枝に引っ掛かったタカを平太郎が射落とす場面。
 ストーリーを読むのと違い、実際に平太郎が弓に矢をつがえると、その手もとに観客の視線が集まります。
 射た矢は、枝に掛かったタカに見事命中!--と思いきや、柳の根元あたりにまでしか飛びませんでした……
 まぁ、人形が射る弓矢ですから、そんなに飛ばないのです。でも、意味は分かりますよ、タカに命中したという……

 このシーンは、平太郎が弓矢の名手ということを示しています。後段で、その手腕を息子にも伝えてほしいとお柳が言う場面もあります。
 遅ればせながら気付くのは、このエピソードが三十三間堂の「通し矢」から想を得ているということ。
 江戸時代の観客も、三十三間堂といえば通し矢、と思っていたでしょうから、その連想を巧みに利用した作劇になっているのですね。

  国立文楽劇場 お柳のポスター


 平太郎とお柳の恋

 柳のそばにある茶屋の娘・お柳は、その名の通り、柳の精です。だから、鮮やかな緑の着物を着ています(分かりやすいですね)。
 平太郎とお柳は結婚して、みどり丸! という息子をもうけることになるのですが、とても意外だったのが、プロポーズ。
 なんと、お柳が平太郎に、いきなり「私を奥さんにしてください」と言い寄るのです!
 平太郎は、こんな美しい人が……と、すぐには信じられません。当たり前ですよね。江戸時代ですし。

 でも、この場面を見て、確信したのです。“この女性(=柳)は、ずっとこの男性(=ナギの木)をここで待っていたんだ”と。

 お柳と平太郎は、前世では柳とナギで、絡み合って生えている「連理の樹」でした。
 その仲を蓮華王坊に引き裂かれたのです。
 どんなに待ったことでしょう。来世で再びめぐり逢った二人。

 しかし物語は、悲劇へと進んでいきます。

 柳は、おそらく何百年と生えている大木だったせいで目を付けられ、都の法皇が発願した三十三間堂の材木にされることになります。
 法皇の使者が、お柳と老母にそれを告げたあと、ひとり独白するお柳(いわゆるクドキという心情吐露です)。
 すると、家の中なのに、上から柳の葉が降ってくるのです!

 どうやら、すでに柳の伐採が始まっているらしい……

 ひらひら、ひらひらと、緑の葉が降ってきます。
 このあたりの感慨も一入です。

 そして、夫・平太郎、息子・みどり丸、老いた義母の前で、お柳は忽然と姿を消すのです。
 あぁ、柳が伐られた……と、悲しむ観客。
 ところが、すぐに再び姿を現すのです、お柳が!

 幽霊のような復活、いつもながらのご都合主義? なのですが、一応お柳の心残りが強かったので復活、という説明を付けています(ちょっと苦しい)。

 本当のサヨナラシーンは、彼女の装束も、柳文様の白い帷子となり、ふわふわと宙に浮いて家の玄関を出ていきます。 
 そして、どう消えるのかと思っていたら、なんと、壁がドンデン返しになって消えたのです!

 歌舞伎の影響 !? と思わせる、文楽では余り見掛けない仕掛けでした。

 こんな感じで、文章で読むのとはまた違った、リアルで楽しいお芝居でした。
 江戸時代の人たちは、これを見て、“そうかぁ、三十三間堂はこういうふうにして建てられたのか”と思ったのでしょうか? それとも、“あんなのいつもの作り話や”と、眉に唾して見ていたのでしょうか?
 ちょっと分かりかねますが、いつもながら楽しい“江戸の想像力”でした。


愛宕山の石灯籠は、300年以上前、大阪の豪商により寄進された

洛西




愛宕山


 意外に険しい愛宕山

 京都は、盆地の三方を山に囲まれていますが、その北東には比叡山が、北西には愛宕山がそびえています。
 
 愛宕山(あたごやま)は、標高924m。
 京都府には1000m以上の山がなく、最高峰は971mの皆子山。900m級の山も10数峰で、愛宕山は11位だそうです。

 観光名所の嵐山や嵯峨を奥に進むと、清滝に至ります。2年前、私たちが登ったときは、阪急「嵐山」駅で集合し、そこからバスに乗って清滝まで行きました。

 愛宕山

 登り口は至って分かりやすく、山上に愛宕神社があるため、鳥居も立っています。

 かつて、この山には参詣のためのケーブルカーが敷設されていました。
 昭和4年(1929)の開設ですが、この時期、各地の山上にある寺社にケーブルカーや山岳鉄道が設けられたのでした。高野山や生駒山、信貴山など数多いのですが、京都では大正14年(1925)、すでに比叡山にケーブルカーが開通していました。

 比叡山のケーブルカーについては、こちら! ⇒ <日本画家・福田平八郎が洛北高校前から見た比叡山には、新時代の息吹が…>

 愛宕山も、比叡山に少し遅れてケーブルカーができたわけです。

 愛宕山

 登り口にある駅の跡。
 下は、軌道の名残です。

 愛宕山



 かわらけ投げ

 しかし、ケーブルカーは戦時中に廃止になったため、現在は歩いて登るしかありません。
 その昔は、参詣者が一服するため、登り道の各所に茶屋が設けられ、かわらけ投げのスポットもありました。

 雑誌「上方」より愛宕山かわらけ投げ
  愛宕山のかわらけ投げ(雑誌「上方」42号より)

 谷に向かって素焼きの小皿を投げる「かわらけ投げ」。

 上り坂には、石地蔵と町石が置かれています。

 愛宕山
  町石(左)と石地蔵

 写真の町石(丁石)には、地蔵菩薩を示す種字と、25丁の距離が記されています。愛宕山は、山下から50丁(約5.5㎞)の道のりがあるそうで、かなり険しい参道といえるでしょう。


 大阪商人の信仰を集めて

 愛宕山にも、多くの寺社と同じく、数多くの石造物があり、それらは信者から奉納されたものです。
 地元の人に加えて、大阪の人たちからの奉納品も多くなっています。

 愛宕山

 この立派な石灯籠には、「大坂益組 月参構[講]」と刻まれています。
 大阪から、ここまではかなり遠い気がしますが、嵐山・法輪寺の十三詣りも、「なにわより十三詣り十三里……」と言われたほどですから、大阪から約50㎞!、淀川を遡行し、さらに歩いてやってくれば、お参りできるというわけです。
 「月参講」ですから、月参りしたのでしょうね。

 ほかにも、

 愛宕山

 「大坂天満天神前/阪卯」の文字。
 大阪で著名な料亭「堺卯」と同じ読みですが、違う店だと思われます。

 このように大阪関係のものが多いのですが、一番気になるのは、やはりこちらでしょうか?

 愛宕山

 黒門の手前の石段に転用されている、この石柱です。
 「摂州大坂住人 山中氏之宗/同氏宗利」と刻まれています。

 この「山中氏」とは、いったい?


 大阪の豪商・鴻池家が寄進

 山中氏は、大阪随一の豪商として知られた鴻池(こうのいけ)家を示しています。
 鴻池家は、その初め(同家では「遠祖」と呼ぶ)を山中幸盛としています。幸盛は、出雲の戦国大名・尼子氏の武将で、山中鹿介(しかのすけ、鹿之介)のことです。山中は、播州の村の名前だといいます。

 鹿介の長男は、始祖・新六幸元。そして、その八男は正成で、初代善右衛門となります。

 石造物に刻まれた「之宗」は、鴻池家の二代となる喜右衛門之宗(ゆきむね)、「宗利」はその長男、三代善右衛門宗利です。
 鴻池家は、もとは伊丹で酒造業をはじめ、その江戸廻漕の必要から海運業も手掛けていました。しかし、三代宗利のときにこれらの事業から手を引き、両替商に集中していきます。

 二人の生没年は、之宗は寛永20年(1643)~元禄9年(1696)、宗利は寛文7年(1667)~元文7年(1736)です。
 すると、この石刻の年代も17世紀後半と絞られてくるわけですが、果たして?


 山上の灯籠群

 愛宕山
  黒門

 この黒門、かつての白雲寺の総門です。これをくぐってしばらく行くと、山上の平坦地に至ります。
 そこには、ずらっと石灯籠が建てられています。

 愛宕山

 愛宕山

 単体で見ると、こんな感じで、「奉寄進永代常夜灯」の文字が読めます。右面には「愛宕山宿坊/教学院」とあります。
 そして、左には……

 愛宕山

 「摂州大坂住人 山中氏之宗/同氏宗利」と、先ほどと同じ刻銘です。
 つまり、この灯籠の胴の部分が、石段のところに置かれていたのです。おそらく、壊れた際に再利用されたのでしょう。

 いつ建立されたかというと、正面の「奉寄進永代常夜灯」の左右に、小さめの文字で、「貞享四丁卯年/五月吉日」と刻まれているのです。貞享4年は、約330年前の1687年。二人の生没年とも合致します。

 念のため、『鴻池家年表』を参照すると、二代之宗の項に、「又、喜右衛門は大変信心深い性格でもあり先祖や一門を手厚く祭り、又、京都の愛宕神社へは何度も参詣しており宗利と連名で50数基の石灯籠を寄進している」(9ページ)と記載されています。

 さすが鴻池家。50数基も奉納したのですね。
 それにしても、この山の上に多数の石灯籠を運び上げる労力は大変だったでしょうね。やっぱり、お金が掛かっていそうです。




 愛宕山

 所在 京都市右京区嵯峨愛宕町
 拝観 自由
 交通 京都バス「清滝」下車、徒歩



 【参考文献】
 鴻池統男『鴻池家年表』鴻池合名会社、1991年 


【新聞から】愛宕山を愛する人たちの研究会 - 会員は全国で100人余 -

洛西




愛宕山


 愛宕信仰の魅力全国へ
 京都に鎮座1300年余の本山、100人超で研究会
 日経 2014年6月11日付


 愛宕山というと、京都では「あたごさん」として親しまれ、「千日詣り」と火防で知られています。
 千日詣りは、7月31日の夜から8月1日にかけて、山に登ってお詣りすると千日分のご利益があるというものです。私の子供の頃も、親戚の誰それが参ったとか、よく聞いたものです。これは、夜に山道を登るので大変な参拝ですが……
 また、火防(ひぶせ)の信仰として、京都の家々の台所に「火迺要慎」と書かれた愛宕さんの護符が貼ってあるのは有名ですね。

 そんな愛宕山、私も2年ほど前に知人たちと登る機会がありました。

 愛宕山 愛宕山の山道

 標高924m。比叡山(848m)より少し高いわけですが、山頂に神社もあるわけだし大したことないだろう……と勝手に思っていたら、結構本格的な山でした(汗)
 その日、登っている人も大勢いましたが、たいがいは山の装備で、参拝風ではありません。お昼時、山頂で弁当など食べる姿も、完全に山モードでしたね。

 そんな山道を登っている折、詳しい案内板がところどころに設置してあるのが目に付きました。

 愛宕山

 仕事柄、どこに行っても案内板があれば読みますが、なかなか詳しく、図版も充実しています。
 どなたが設置したのかと思って見ると、「京都愛宕研究会」と記してあります。

 日経新聞の文化面に、佛教大学の八木透教授が、「愛宕信仰の魅力全国へ」として、この京都愛宕研究会の活動について紹介されていました。
 
 記事によると、2001年に「愛宕山を愛する」学芸員や写真家らが集まり、鎮座1300年の2003年に「何かやりたいね」と活動開始。山上に特設ステージを作り、大念仏狂言や落語「愛宕山」(桂小米朝=現・米団治)の奉納を行ったそうです。
 2004年からは、写真の案内解説板の設置を始め、現在では12か所に設置されています。
 研究会なので、古文書の調査やフィールドワークも行っておられる由。なかなか楽しそうですね。

 記事では、廃仏毀釈以前、愛宕山にあった白雲寺は、勝軍地蔵が本尊だったことから、戦国武将の信心も集めていたといいます。
 このブログに、しばしば登場する明智光秀も、本能寺の変の5日前、愛宕山で連歌会を開いた!とか。
 念のため、高柳光寿『明智光秀』を見ると、次の記述があります。

[天正10年5月]26日坂本を発して居城丹波亀山(京都府亀岡市)に入り、27日亀山から愛宕山に詣でて、その夜はそこに参籠し、二度・三度と籤[くじ]をさぐり、翌28日は同所西ノ坊で、連歌師里村紹巴らと百韻を興行して、これを神前に納め、同日亀山に帰った。この百韻の冒頭は次のようなものである。

  時は今あめが下しる五月哉    光秀
  水上まさる庭の夏山       西坊
  花落つる流れの末をせきとめて  紹巴

 右の発句のうち「時」はすなわち「土岐」に通じ、光秀の出自土岐氏をいったものであり、この一句は土岐氏が天下を掌中にするということをいったものといわれている。(170-171ページ)


 「しる」は「領る」に通じ、統治するという意味。つまり、あめが下(天下)を治める、ということです。
 「時は今」、つまり、天下取りに立ち上がるのは“今でしょ”、というわけです。
 歌舞伎の演目で「時今也(ときはいま)桔梗旗揚(ききょうのはたあげ)」というのがありますが、この外題も上の発句に由来するのでしょうね。

 大幅に脱線しました。
 愛宕信仰を研究、普及させる京都愛宕研究会の活動は、おもしろいですね。
 長くなるので、私がお参りしたときの話は、次回に譲りましょう。




 【参考文献】
 高柳光寿『明智光秀』吉川弘文館(人物叢書)、1958年


仁王門通の由来である頂妙寺とナゾの絵

洛東




頂妙寺


 寺院が集まる仁王門通

 「仁王門」とは門の呼び名ですが、京都で「仁王門」と言う時、例えば「東山仁王門」などという言い方があります。
 交差点の名前でもあるし、バス停にもなっていると思うのですが、東大路通と仁王門通の交わるポイントですね。岡崎公園の西方になります。

 ここには、囲碁で知られる本因坊の旧跡・寂光寺、前田玄以ゆかりの専念寺など、宝永5年(1708)の大火後に、寺町通から移ってきた寺院が多く、寺院地区の様相を呈しています。歩いていると、30くらいの寺院を示した“寺院マップ”の看板があちこちに掛かっています。


 「仁王門通」の名の由来

 頂妙寺は、寛文13年(1673)、この場所に移ってきた日蓮宗の寺院です。

 頂妙寺
  頂妙寺

 そして、仁王門通の名前の由来は、このお寺の仁王門にあるといわれています。

 頂妙寺
  頂妙寺仁王門

 三間一戸の立派な楼門ですが、現在では宅配便のドライバーさんたちの休憩場所となっています。
 この門は、いろいろと興味深いのですが、今日は幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)の記載を見ておきましょう。
 「花洛名勝図会」は次のように記しています。

 楼門 堂前ニあり、南向、左右ニ二天を安ず  額、聞法山 竪額 鷹司政熈公筆 東 持国天、西 多聞天、長七尺許[ばかり]、運慶、安阿弥の両作、此二天、霊験あらたにして常に詣人絶る事なし

 本堂の前に、南向きの楼門があり、鷹司政熈が書いた山号「聞法山」の額が掛かっている。左右に持国天と多聞天を祀っており、丈は7尺(約210㎝)くらいで運慶と安阿弥(快慶)の作という。持国天と多聞天は霊験あらたかにして常に参詣者が絶えない。
 
 そして、立派な図が載せられています。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺
 「花洛名勝図会」より「頂妙寺二天門」

 なんと、右ページの方が出っ張って描かれている大迫力です。
 左の建物が仁王門(二天門)、右が拝堂。この拝堂は今はないのですね。門の拝殿だそうで、とても珍しいです。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺

 よく見ると、大勢の人たちが時計回りに門を回っていることが分かるでしょう。
 もちろんお参りをしているのですが、図の説明はこう書かれています。

 此[この]尊天、霊験あらたなるが故に、陰晴をいはず朝より暮に至るまで、詣人しばしの間断なく、老若男女群つどひて、かちはだしにて門をめぐり千度をうつことおびただし

 持国天と多聞天は霊験があらたかなので、天気にかかわらず、朝から夕方まで参詣者は途絶えることがない。老若男女が群れ集い、裸足で門を巡って、千度参りを行うこと、おびただしい。

 なるほど、千度参りなんですね、このぐるぐるは。
 確かに手もとをよく見ると、

  「花洛名勝図会」より頂妙寺

 前の女性の右手、こよりでしょうか、回った数を数えるためのものですね。
 そして手に手に珠数を持っています。
 文中の「かちはだし」は、下駄などを履かない裸足のことで、それだけ深い願掛けですけれど、絵ではしっかり履いています(笑)

 それにしても、いろんな人たちが来て、熱心にお参りしています。
 私は、こういう風景がとても好きです。

  「花洛名勝図会」より頂妙寺
   数珠を持ち祈る女性

 「花洛名勝図会」は、こういった信仰の様子が生き生きと描かれていて、とても心温まります。

 最後に、ちょっとしたナゾ。
 この部分です。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺

 拝堂の妻の部分に、ハトの巣が掛けられてるんですよ。かなり立派な、人工の……

 よく分からないですが、たぶん実際あったんでしょうね、当時は。

 というような頂妙寺。
 いつ頃から「仁王門通」と呼び始めたのか分かりませんが、これだけ信仰を集めていれば、通りの名前になるのもうなずけます。
 実は先日訪ねた時は、ろくに観察しなかったのですが、この絵を見ていると、とたんに興味が湧いてきました。
 また訪ねてみたいと思います。




 頂妙寺

 所在 京都市左京区仁王門通川端東入ル大菊町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車「三条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年 
 『ビジュアル・ワイド 京都の大路小路』小学館、2003年


きょうの散歩 - 寺町通から東山仁王門へ、本因坊の故地を歩く - 2014. 6.6

洛東




寂光寺


 梅雨の雨やみを見付けて、寺町通を歩きます。

 ここでいつも気にかかるのが、寺町二条上ルにある「本因坊発祥の地」という記念碑です。

 本因坊発祥地

 「本因坊(ほんいんぼう)」が、囲碁のタイトル名でもあり、また著名な棋士の家名でもあることはよく知られています。
 私はなぜか、昔から寺町通は西側の歩道を歩く癖? があるので、この記念碑も遠目に見るだけでした。今日は珍しく東側を歩いたので、説明を読んでみました。

 ・かつて、この場所に寂光寺という寺院があった。
 ・その塔頭に、本因坊があった。
 ・そこに住む僧侶・日海は、囲碁の名手だった。
 ・江戸幕府が開かれると、日海は家康の命により名を「本因坊算砂(さんさ)」と改め、幕府の碁所を任された。
 ・その後も、本居は寺町で、京と江戸を往復する暮らしを送った。
 ・寂光寺は、宝永の大火(1708年)で焼け、その後、東山仁王門の現在地へ移った。

 よく分かりました(笑)

 ちなみに、記念碑の上面は碁盤になっています。

 本因坊発祥地

 ということで、現在の寂光寺もお参りしようと、寺町通から鴨川を渡って、東山仁王門まで行ってみました。

 寂光寺
  寂光寺

 日蓮宗の寺院で、東山仁王門西入ルにあります。
 門前に、ゆかりの地であることを示す石標が立っています。

  寂光寺

 「碁道名人 第一世本因坊算砂旧跡」と記されています。
 寺内にも記念碑が。

  寂光寺
  「第一世本因坊報恩塔」

 これらは、いずれも本因坊算砂の没後300年に際して、大正12年(1923)に建立されたものです。

 そして、墓参してきました。

 寂光寺

 寂光寺

 五輪塔には、「算砂日海上人」とありますが、碁石がたくさん置かれているのが印象的でした。
 私は残念ながら囲碁はやらないのですが、お好きな方は一度お参りに行かれてはいかがでしょうか。



 
 寂光寺 (本因坊旧跡)

 所在 京都市左京区仁王門通東大路西入北門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄東西線「東山」下車、徒歩約5分


明智光秀の首塚は、幕末から明治、歌舞伎役者たちによって整備された - 光秀饅頭も美味!-

洛東




明智光秀首塚


 「都名所図会」にも登場する光秀首塚

 京都の史跡を歩いていると、明智光秀という名に出くわすことが意外に多いのです。
 このブログでも、明智風呂や明智門について書いてきましたが、今回はいよいよ「首塚」です!

 過去の記事は、こちら! ⇒ <妙心寺の浴室は「明智風呂」>  <光秀ゆかりの「明智門」は、ほかの門とともに移動した>

 東山三条から三条通を東に行くと、白川が流れています。

 白川
  白川

 この東岸を2筋ほど下がると、すぐに目的地なのですが、その前に光秀の首塚について、竹村俊則氏の説明でおさらいしておきましょう。

  明智光秀首塚は白川橋より南へ100メートル、白川の東畔梅宮町の路地の奥にあって、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」としるした1メートル余の石碑があり、傍に洛西梅宮大社の分霊を祀った梅宮社という小祠がある。
 光秀は天正10年(1582)6月、山崎の合戦で敗れ、江州坂本城を目指して遁れる途中、伏見区小栗栖で土民の襲撃をうけ、あえない最期を遂げた。首は粟田の刑場にさらしたのち、付近の西小物座町の人家のうしろに埋められた。
 その後、光秀の子孫にあたるという明田某が梅宮町の自宅に移し、光秀の菩提を弔ったという。
 社前にある小さな五重層塔は、もとの地にあった首塚から移したものであろう。因みに首より上の病気に悩むものは、この塚に祈れば霊験があるといわれ、今なお賽客が絶えない。(『昭和京都名所図会 洛東・下』20ページ)


 光秀の最期については諸説ありますが、江戸時代から粟田に首塚が祀られていたといいます(これも諸説あり)。
 「都名所図会」(1780年)を見ると、光秀の首塚が描かれています。

 「都名所図会」より明智光秀首塚
  「都名所図会」巻3

 左右に走る道が三条通。その北側にあるということで、現在地と異なることが明瞭です。

 「都名所図会」より明智光秀首塚

 少し樹木が茂っており、「明智光秀 首つか」と記されています。


 首塚の移動
 
 この首塚の移動について、碓井小三郎の『京都坊目誌』が詳しく取り上げていますので、振り返っておきましょう。
 まず、碓井が実際に見たと思われる光秀の首塚は、

 梅宮町北端、四百七十二番地人家の後方にあり。
 維新前は、是より東上壇の地にあり。其後、此地に移すと云ふ。
 今傍ニ稲荷の小祠あり。其下に墓標ノ石塔高三尺許[ばかり]のもの一基あり。光秀の首級を埋むと云ふ。 (下京第八学区之部。句読点は改めた)


 という状況でした。

 整理すると、

(1)[明治後期~大正初期の現在は]梅宮町の北端にある
(2)明治維新前は、東の上壇の土地にあったが、のちにここへ移した
(3)墓標である高さ3尺(90㎝)ほどの石塔があり、光秀の首を埋めているという

 となります。
 「東上壇の地」とは、「都名所図会」に描かれている場所なのでしょうか。それとも、現在地の少し東という意味なのでしょうか。
 『京都坊目誌』が引いている青蓮院の記録「華頂要略」巻57によると、<光秀の首塚は西小物座町の人家の後ろにある>と記しています。西小物座町は、蹴上のウエスティン都ホテルの向かい側あたりになります。
 このことは、古く宝暦12年(1762)の「京町鑑」にも、「此町北側人家の裏に明智光秀の古墳有」とあることからもうかがえます。「都名所図会」より前の史料ですから、おそらく「都名所図会」の首塚も西小物座町のものを描いているのでしょう。
 少なくとも、江戸中・後期には、西小物座町の塚が明智光秀の首塚と認識されていたことがうかがえます。

 また、<近年、その首塚を能の笛吹き・明田理右衛門という人が、自分は光秀の子孫だと云って、その首塚にあった石塔婆を私宅に移した>と述べます。さらに、<明田某は死んで、今なお梅宮町の梅宮の旧地の西にあって渡邊山城という者が守っている>とも記しています。


 随筆「翁草」の記事

 さらに参考のため、安永5年(1776)序の随筆「翁草」(神沢貞幹)が掲載する話を引いておきましょう。
 これが、少しミステリアスな話なのです(現代文に直した要旨です)。

 明智光秀の墳墓は、洛東・粟田口黒谷街道より東の方、路傍北側の人家の裏にある。前の家は町会所である。庭に古木が茂っていて、その下に古い五輪塔がある。これが光秀の墳墓である。老樹が茂って薄暗いが、木を伐ろうとすると祟りがあると伝えられていて、さわる者もいない。
 
 ところで、白川橋通の三条下るあたりに、笛を吹く能役者・明田理右衛門という人がいた。
 明和8年(1771)春頃、見慣れない男が理右衛門のところに来た。聞くと、自分は粟田口あたりの者だが、あなたの先祖の由緒を教えてほしい、と言う。
 急なことで理右衛門は当惑したが、亡き父に聞いたところによると、老母が語るには、先祖は丹波の者で名前も由緒も分からない、今となっては知る由もない、と答えた。

 理右衛門は不審に思ったが、数日後、再び男が訪ねてきて、結局、先方の町を訪ねることになった。
 訪ねてみると、町年寄たちが出てきて、あなたは明智殿の子孫か、宗徒か、所従の人の末裔かになる。この家の裏に光秀の墳墓があるので、屋敷とともにあなたに譲りたいのだ、と話した。自分たちの頼みなので、経費もほとんどかからないという。
 理右衛門は驚いて、由緒はともあれ、屋敷を譲られる件は辞退したいと申し出た。しかし、年寄たちはどうしても譲りたいと言い張る。なぜ譲りたいのかと理由を聞いても一向に答えないので、とりあえず家に帰って相談することにした。

 結局、理右衛門は屋敷を譲り受けることにした。ただ、自分の居宅としては勝手が悪いので別宅とし、庭の古木も皆な伐り払ってしまったが何の祟りもなかった。

 思うに、町の方で、何らかの奇怪な出来事があったか、夢の告げでもあったのだろう。(「翁草」巻37「明智光秀斎藤利三墓の事」)


 こんな話です。
 明田理右衛門自身も、自分の由緒を知らなかったわけですが、首塚の近くの住民から、光秀の子孫だと言われ、屋敷ともども押し付けられる羽目になったわけです。なんとも不思議な話ですね。
 「翁草」のこの記事と、先の「華頂要略」の記述(こちらが後から書かれています)を比べると、食い違いがあるように思えますが、いずれが正しいのか、今は分かりかねます。


 光秀の首塚を訪ねてみる

 首塚の変遷については、改めて考察するとして、いよいよ現在の場所を訪ねてみましょう。
 
 和菓子店・餅寅
  和菓子店・餅寅

 三条通から白川に沿って下ると、東岸に「餅寅」という和菓子屋さんがあります。
 この脇の路地を折れると、すぐに首塚です。

  明智光秀首塚

 角に、「東梅宮 明智光秀墳」という石標があって、右側面には「あけちミツひて」と仮名書きされています。弘化2年(1845)に京都の人たちが建てたものですが、その名前は少し読みづらいですね。

 進むと、路地の先に突然現れます。

 明智光秀首塚

 現在では、玉垣の中に小祠があって、石塔もあります。

  明智光秀首塚
 
 これが先ほどからしばしば登場している石塔です。崩れないようにコンクリートで固めてあります。
 境内には、餅寅さん所蔵という古い写真も掲げられています。

 明智光秀首塚

 全体の様子や石造物の位置関係は、現在と全く異なります。いつの写真かもよく分かりませんが、後でふれるように明治後期以降であることは確かです。雰囲気では、昭和の初めくらいかなと思いますが……


 人形浄瑠璃の太夫らが寄進した手水鉢

 今回、詳しく見たのが、この石造物です。

 明智光秀首塚

 左が手水鉢、右は明智光秀の戒名が記された“墓石”ともいうべきもの。
 
 まず、手水鉢から。
 右の側面をよく見ると、人名が彫られています。

 明智光秀首塚

 なかなか読みづらいのですが、右端には「竹本大隅太夫」とあり、その隣にも「竹本大[   ]」のように読めます。
 また、左端は「野沢庄次郎」です。
 お分かりのように、人形浄瑠璃にかかわる名前ですね。

 さらに、手水鉢の左側面、これは玉垣や草で極めて読みにくいのですが、「世話人 餅虎」という名があり、表の和菓子屋さんが当時かかわっておられたことが判明します。
 奉納された年は、「文久二年[壬]戌九月」と読めますので、1862年になります。
 左端には石工の名前も刻まれているようです。

 文久2年、竹本大隅太夫、野沢庄次郎。このキーワードで調べてみました。
 すると、彼らが明智光秀と関係のあることが分かってきました。

 『義太夫年表 近世篇』によると、安政7年(1860年)正月、京都の四条南側大芝居で「大操り狂言」、つまり人形浄瑠璃が上演されました。
 メインとなる櫓下の太夫は、竹本大隅太夫。他に竹本大島太夫らの出演があり、三味線には鶴沢燕三や野沢庄次郎らが名を連ねています。人物は、ぴったり。
 そして、出し物は「絵合太功記(えあわせたいこうき)」。
 太閤記もののひとつで、もちろん明智光秀も登場します。光秀は、昔の作中では「武智光秀」ですね。

 大隅太夫は、幕末に活躍した初世のようです。
 手水鉢が奉納された文久2年9月は、興行された安政7年正月の2年半後です。興行成功の御礼と、光秀の供養に奉納したのでしょうか。


 歌舞伎役者・市川団蔵が境内を整備した

 もうひとつの石造物。

  明智光秀首塚

 「長存寺殿明窓玄智大禅定門」という光秀の戒名です。
 問題は、裏面。

  明智光秀首塚  明智光秀首塚

 「明治三十六年四月 市川団蔵建之」と刻まれています。
 明治36年は、1903年。市川団蔵は七世です。東京の人ですが、上方にもよく来訪し、明治44年(1911)に亡くなっていますから、晩年です。

 こちらも、『近代歌舞伎年表 京都篇』で、明治36年の興行を調べてみました。
 すると、やはり4月2日から24日まで、京都の歌舞伎座(四条新京極上る、かつての道場の芝居)で、「時三升桔梗籏揚(ときにみますききょうのはたあげ)」が上演されていました。
 この「桔梗籏揚」は、「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」で、いわゆる“馬盥(ばだらい)の光秀”として著名な太閤記ものです。
 公演の座頭が市川団蔵で、もちろん光秀を演じています。
 この光秀、七世団蔵の当り役のひとつで、九世団十郎の光秀と対照的な演技で人気を博していました。

 こんなわけで、京都・歌舞伎座での上演に合わせて、首塚の石碑を建てたのでした。
 この時の団蔵の口上も残されていますので、紹介しておきましょう。

 御市中御看客様、益々御機嫌克被遊、珍重の義奉存候。随而、私儀今般当座へ出勤致升る様相成、狂言之義は去る御贔屓様より明智光秀当年三百余年に相当り役義の為供養営み度、幸ひ三条白川梅の宮に有之候光秀の墳を聊手入いたし、私御当所一世一代として慎しんで演じ候に付、何卒老優の御目まだるき段御許容被下永当々々御来観之程伏、奉希上候。 市川団蔵敬白 (『近代歌舞伎年表 京都篇』4、178ページ)

 首塚に関係する部分をまとめると、<私は今回この歌舞伎座で公演いたしますが、演目のことは、あるご贔屓(ひいき)から、明智光秀の三百余年になると聞き、その供養を営みたく思い、幸い三条白川の梅宮にある光秀の墳墓をいささか手入れしました>というようなことになります。
 「去る御贔屓様」が誰なのか分かりませんが、すすめられるままに墓域の整備をしたわけです。口上で述べるくらいですので、それなりに気持ちを込めて整備したのでしょう。

 この時、団蔵、67歳。自ら「老優」と言っています。実は同年同月、高野山にあった七世市川団十郎の墓の修繕も市川右団次とともに行っています。同時に2つの墓域の整備をするとは、なんと善い人だったかと人柄が偲ばれます。


 帰りには「光秀饅頭」

 よく、「東海道四谷怪談」を上演する際に、役者さんがお岩さんをお参りするという話を聞きます。
 また、今でも六波羅蜜寺に行くと、坂東玉三郎さんが阿古屋の塚を整備されている様子を目にすることができます(お参りにも来ておられます)。大隅太夫や団蔵も、それと同じです。

 帰りがけ、角の餅寅さんで、「光秀饅頭」を求めました。
 お店は、天保年間から続いているそうで、先ほどの手水鉢や玉垣の整備に尽力されてきたようです。

 光秀饅頭 和菓子店「餅寅」

 光秀饅頭
  光秀饅頭 (1個140円)

 焼印は、桔梗の紋。
 みそあん(左)と、つぶあん。どちらも素朴な味で、おいしくいただきました。




 明智光秀首塚

 所在 京都市東山区梅宮町
 拝観 自由
 交通 地下鉄東西線「東山」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「翁草」1776年(『日本随筆大成 第三期』11 所収)
 『義太夫年表 近世篇』3・下、八木書店、1982年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』4、八木書店、1998年
 『京都坊目誌』1915年(『新修京都叢書』20 所収)
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東・下』駸々堂出版、1981年
 八世市川団蔵『七世市川団蔵』求龍堂、1961年
 『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年
 『大人名事典』平凡社、1954年