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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

西本願寺前の「御前通」と同じく、東本願寺前にも建物の名前をつけた通りがあった





東本願寺


 洛中絵図に通りの名が…

 先日、「正面通」(しょうめんどおり)を歩く記事をアップしました。
 その際、西本願寺前の正面通は「御前通」の別名があることを紹介しましたね。

 記事は、こちら! ⇒ <珍しい名前の通り、「正面通」を歩いてみた>

 そのあと、たまたま足利健亮氏の『中近世都市の歴史地理』を見ていたところ、東西本願寺付近の地図が掲載されていました。
 その元の地図は、京都大学附属図書館が所蔵している「寛永後 万治前 洛中絵図」で、町名や通り名が細かく記入されています。寛永19年(1642)前後の地図と考えられています。

 その東本願寺の周辺部に、実に気になる記載があったので、すぐに臨川書店から出ている復刻版を見てみました。
 
 「洛中絵図」には、「東御門跡」として東本願寺が記載され、北に「本堂」(御影堂)、南に「阿弥陀堂」が画かれています。
 注目されるのは、東本願寺にぶつかる東西の道の名前です。
 北から、次のようになっています。

 「太鼓番屋筋」
 「御影堂筋」
 「阿ミタ堂筋」

 そして、その南に「七条通」が通っています。

  中珠数屋町通
   現在の中珠数屋町通
 
 これらの街路は、現在の通りと次のように対応します。

  太鼓番屋筋 = 上珠数屋町通
  御影堂筋  = 中珠数屋町通
  阿弥陀堂筋 = 下珠数屋町筋

 すでにお分かりのように、御影堂の前の通りが「御影堂筋」であり、阿弥陀堂の前が「阿弥陀堂筋」、そして太鼓番屋の前が「太鼓番屋筋」となっているわけです。実に明快なネーミングですね。
 いずれも、3間半、つまり6m強ほどの道幅でした。

 東本願寺周辺図
  東本願寺の周辺(左が北)

 路傍の案内図ですが、東本願寺から上(東)に向かって3つの「数珠屋町通」が伸びているのが分かりますね。


 太鼓番屋って何だ?

 ところで、疑問は「太鼓番屋筋」の太鼓番屋って何? ということです。
 
 寺社に詳しい方なら、本願寺で太鼓番屋と聞くと、この建物を思い出すのではないでしょうか。

 西本願寺鼓楼
  西本願寺 鼓楼

 西本願寺の鼓楼(太鼓楼)です。先日、重要文化財に指定されることが報じられたところですね。
 幕末には新撰組の屯所になっていたことでも知られますが、内部に太鼓が置かれ時刻を告げていました。
 けれども、これは“西”本願寺なので、東本願寺の太鼓番屋とは無関係です。

 困ったと思って、「都名所図会」(1780年)を見てみました。
 すると、

 「都名所図会」より東本願寺
  「都名所図会」巻2より「東本願寺」

 ありました、太鼓番屋。
 ページの隅っこにあって、開いてみると実に見づらいので今まで気付きませんでした。

  「都名所図会」より東本願寺

 入母屋造の建物の上に、櫓を乗せたようなスタイル。西本願寺に現存するものと、そっくりです。

 少し注意しておきたいのは、太鼓番屋の前を東西に走っている道路です。現在、この場所は東本願寺の境内になっています。
 東本願寺の境内は、明治末頃まで、北東隅の部分が大きく欠けた形になっていました。蛤御門の変(1864年)の類焼後、その欠けた部分は火防地になっていましたが、のち境内に取り込まれたのです。そのあたりに、かつて太鼓番屋もあったのです。
 現在の地図で考えると、東本願寺の北東の外は代々木ゼミナールのところ(花屋町通)と思ってしまいがちですが、そうではなかったのです。

 ちなみに、この太鼓番屋は現存しないわけですが、いつ焼けたのか、不勉強のため分かりません。
 「都名所図会」(1780年)のあと、天明の大火(1788年)から蛤御門の変(1864年)までのどこかで焼失したことになりますね。


 もうひとつあった「太鼓番屋筋」

 ところが、話はこれで終わりません。
 太鼓番屋筋という名前の通りが、もうひとつあったのです!

 先ほどの「寛永後 万治前 洛中絵図」(1642年頃)を見ると、西本願寺の南辺にぶつかる通りに「太鼓ノ番屋筋」と書かれているのです。ここは、現在の北小路通=下珠数屋町通にあたります。
 同じ頃の宮内庁蔵「洛中絵図」(1637年)にも「太鼓番屋筋」と記載されています。

 西本願寺で「太鼓番屋」らしい建物は、先に紹介した鼓楼(太鼓楼)ですが、これは境内の北東端にありますから、場所が正反対です。いったい、太鼓番屋はどこにあったのか?

 この太鼓番屋については、「表処置録」に、その役割が記されています。番所は昼夜厳重に番を務めること、時刻の通りに太鼓を打つこと、近くに火事があった場合は鐘を打つこと、などが定められています(『京都市の地名』)。

 改めて「都名所図会」を見直してみると、西本願寺の挿絵にありました。

 「都名所図会」より本願寺
  「都名所図会」巻2より「本願寺」 上方の楼閣は飛雲閣

 ここに櫓のような建造物が描かれていて、「物見」と記されています。
 平常の番をするとともに、火事の見張りもする太鼓番屋。これを「物見」、つまり見張り櫓と表現しているのでしょう。図中、橋の架かった通りが北小路通ですから、たぶんこの物見が太鼓番屋でよいと思います。

 それにしても、東本願寺の北東と、西本願寺の南東に、それぞれ太鼓番屋があり、太鼓番屋筋もあるという複雑な事態。これに加え、重文になる西本願寺・鼓楼(太鼓楼)もあったのですから、本当にややこしいです。
 今だったら、紛らわしくて許されないでしょうけれど、昔の人はおおらかですから、これでもOKだったんですね。

 


 太鼓番屋筋

 所在 京都市下京区上珠数屋町、北小路町ほか
 見学 自由
 交通 JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年
 『洛中絵図 寛永後万治前』臨川書店、1979年
 『両堂再建』真宗大谷派宗務所出版部、1997年
 渡邊秀一「近世京都における東本願寺寺内のプランと変容」、「佛教大学文学部論集」94、2010年所収
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年


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新京極・旧ピカデリー劇場の場所には、かつて夷谷座があった





ダイエーグルメシティ(旧ピカデリー)


 「にわか」から喜劇へ

 ここ数日、必要があって「にわか」について調べていました。
 にわかは、俄、仁輪加、仁和加、仁○加などの文字をあてますが、かつて流行した芸能の一種です。
 『日本国語大辞典』では、「俄狂言」として、「座敷や街頭などで行われた即興的で滑稽な寸劇」と説明しています。江戸時代から、大坂や京都、江戸の吉原などで行われ、博多、佐賀、熊本など九州にも広がっていました。
 この芸能が、大阪では喜劇の源流になるとされています。

 そんな中、『近代歌舞伎年表』という非常に便利な本がありまして、京都篇、大阪篇などに分かれているのですが、毎年毎月行われた興行が詳細に記載されています。
 にわかの調べを始めたつもりが、いつのまにか脱線していき、今回は京都・新京極の古い劇場の話になります。


 新京極にできた劇場の数々

  新京極
   現在の新京極

 『近代歌舞伎年表 京都篇』別巻には、「京都市劇場史略図」として、新京極付近にあった劇場がまとめられています。
 それによると、明治時代の新京極には、通りに沿って北から、

 ・パノラマ館(明治24年~、のち弁天座→京都座)
 ・高小屋(明治6年~、のち阪井座→常盤座→明治座)
 ・夷谷座(明治9年~)
 ・大西座(のち瓢座→都座→初音座など)
 ・パテー館(明治44年~)
 ・東向の芝居・大谷座・大黒座(明治22年~、のち旭座→富栄座→京極座など)
 ・福井座(明治20年~、のち布袋座→朝日座→みかど館)
 ・笹の家・河村席(明治27年頃~、のち錦座)
 ・国華座・大虎座(明治34年~)
 ・河北席・大虎座(明治20年~、のち南電気館・オペラ館)
 ・四条道場芝居・道場演劇・坂井座(明治25年~、のち歌舞伎座)

 と、多くの劇場、寄席が並んでいます。
 小さなものが林立していますので、これとて正確、完全ではないでしょうが、だいたいの状況は分かると思います。


 日露戦争期の夷谷座に注目してみた

 にわかを調べていた私は、明治37年(1904)に注目していました。
 ちょうど110年前になるこの年は、日露戦争が勃発した年でした。日本がロシアに宣戦布告したのが、2月10日。
 奇しくもこの月、大阪で、にわかから新しい演芸、「喜劇」をスタートさせた二人の男が舞台を務めていました。曽我廼家五郎と十郎です。なかでも五郎は、後に日本の喜劇界を代表する大御所になります。

 二人は、大阪の浪花座で、明治37年2月13日から興行を始めますが、今まさに起こった戦争を逆手にとって、急遽「無筆の号外」という戦争にネタを取った芝居を掛けたのでした。通説ではこれがヒットし、二人の人気が始まったといわれています(一説には、余りヒットせず後の京都での上演が当たったといいます)。
 いずれにせよ、明治37年2月は、日露戦争が始まった月でもあり、日本の喜劇が本格的にスタートを切った月でもあったのです。

 そこに興味を持った私は、明治37年に京都の劇場でどのような芝居や演劇が掛けられていたのか、調べることにしました。正確にいうと、たまたま図書館で時間が余ったので『近代歌舞伎年表』を繰ってみた、というところでしょう。
 すると、いろいろ面白いことが現れてきました。

 明治37年の8月、新京極の夷谷座(新京極六角の誓願寺前にあった)では、宝楽一座の喜劇が上演されていました。
 8月13日から、「笑門富貴来涼風」「御祝儀宝の入船」「リンキ」「御所桜三段目」「産着の祝」「地獄の裁判」「岩井風呂」の上演です。
 この宝楽一座とは、大阪にわかの代表的な人物・大和家宝楽が率いる一座で、このときは初春亭芝鶴、雪の家たにしらとともに出演しました。
 人気だったらしく、8月18日からも、「桜の宮出来事」「三十三間堂柳[ママ]の由来」「道楽稽古屋」「新佐世姫汽車の賑」を上演。つづく8月23日から5日間も、「男達芝居気違」「先代萩」「元の鞘」「楽屋噺鎌倉山」を出しています。
 半月間の連続興行で、大阪にわかの人気の高さがうかがえます。
 演目も、人形浄瑠璃や歌舞伎に題材をとったものと、時事ネタを取り入れたものが上手に織り交ぜられています。

 新京極六角
  夷谷座があった新京極六角

 そんな夷谷座で、この年、正月から何が上演されていたのでしょうか。

 年始は、伊藤綾之助一座の新演劇のロングランから始まります。
 ところが、この興行は2月11日で終わり、つづく14日から、角藤定憲一座の新演劇「露兇漢」「喜劇 裏の裏」に変わります。この「露兇漢」、やはりロシアに関係する演目なのでしょうか?

 そして、3月1日からは、同じ角藤一座で、その名もズバリ「日露戦争」が上演されます。
 京都日出新聞の記事(3月4日)には、「夷谷座のお茶子には、角藤の考案で看護婦風の服装をさせる事にしたが、お茶子連中は着用する事を厭ふたので、大に角藤は立腹して命令的に着用せしめたとか」と見え、時局に便乗した企画だったことが分かります。

 さらに、3月23日からは、「日露戦争第二信」。
 このとき、夷谷座は自らの演劇規則として、興行ごとに一日分の収入を軍資に献納することとか、戦況を描き出すについては、現地に特派した座員・溝田小三郎の報道に依って写実的に演出することとか、戦争を強く意識した営業を展開していきます。

 4月になると、旅順の海戦などを映写する「日英米仏活動写真会」を行って「非常の大入」を記録し、また「日露戦争大パノラマ」で客を集めます。もはや、劇場の域を超えた営業です。

 このあとも、日露戦争ものと通常の演目とを混ぜ合わせながら興行をつづけます。
 そして、8月に上述の大和家宝楽一座が興行するのでした。

 誓願寺
   誓願寺  夷谷座はこの前にあった


 夷谷座の来歴
 
 『近代歌舞伎年表』に、夷谷座の興行が登場するのは、明治9年(1876)からです。ただ、劇場自身は明治5年(1872)に新京極が開かれたときからあったと『京極沿革史』には記されています。杉本五兵衛という人物の建設にかかるといいます。

 明治9年、新京極・誓願寺本堂前にあった夷谷座は、浄瑠璃身振り「由良湊千軒長者」などを上演しました。
 「浄瑠璃身振り」とは聞きなれませんが、身振り狂言とか身振り芝居と呼ばれるもので、浄瑠璃(義太夫節)にあわせて身振り手振りする、セリフのない芝居のことです。
 夷谷座は、開業当初はこの身振り狂言専門の劇場だったようで、出演者もほぼ女性、おそらく花街の綺麗どころだったのではないでしょうか。そのような傾向で人気を呼んでいたのでしょう。
 
  ダイエーグルメシティ(旧ピカデリー)
  旧京都ピカデリー劇場(グルメシティ京極店)

 この夷谷座の売店経営者の白井亀吉は、松竹の白井松次郎の義父でした。つまり、夷谷座は後に日本の興行界を席巻する松竹(白井松次郎、大谷竹次郎兄弟)のルーツのひとつであり、新京極はその本貫地であったわけです。そのため、夷谷座も昭和13年(1938)に松竹劇場に変わっていきます。

 その松竹劇場が、私たちにも馴染み深い京都ピカデリー劇場に変わったのは、戦後の昭和29年(1954)だそうです。
 私も学生時代に、ここで何度か映画を見たことがありますが、階上で営業していました。映画館は4階だったようで、見終わったあと、階段をぐるぐるまわりながら1階へ降りたのを記憶しています。2001年まで営業していたそうです。

 先日訪れると、現在営業しているダイエーグルメシティ京極店も、7月31日で閉店すると看板が出ていました。
 47年間のご愛顧……と書いてあったので、前身のサカエ時代の昭和42年(1967)からの長い営業だったわけです。

 グルメシティ京極店

 この建物も、やはり取り壊されるてしまうのでしょうか。
 壁面のピカデリーの横文字と松竹マークがなくなるのが寂しいですね。

 旧ピカデリー劇場のマーク




 夷谷座・京都ピカデリー劇場跡 (グルメシティ京極店)

 所在 京都市中京区六角通寺町東入桜の町
 見学 スーパーとして営業(2014年7月31日まで)
 交通 阪急電車「河原町」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『近代歌舞伎年表 京都篇』各巻、八木書店、1995年
 『喜劇百年~曽我廼家劇から松竹新喜劇』松竹株式会社関西演劇部、2004年
 『京極沿革史』1932年、京報社(『新撰京都叢書』1 所収)


「三十三間堂棟由来」、国立文楽劇場で6月に上演

洛東




三十三間堂


 親しみやすい鑑賞教室

 大阪・日本橋の国立文楽劇場では、毎年「文楽鑑賞教室」が開催されます。
 “はじめての文楽”と銘打って、解説をつけて文楽に親しんでもらう企画です。印象としては中高生向きという感じですが、もちろん大人が見に行ってもかまいません。

 これまで、歌舞伎の鑑賞教室には行ったことがありましたが、文楽はありませんでした。
 今年ぜひ足を運ぼうと思ったのは、その演目に関係があります。


 三十三間堂の由来譚

 今回のプログラムは、次のようになっています。

 ・「団子売」
 ・<解説> 文楽へようこそ
 ・「卅三間堂棟由来」

  文楽鑑賞教室チラシ

 二番目の演目「「卅三間堂棟由来」(さんじゅうさんげんどう  むなぎのゆらい)。
 京都・七条にある三十三間堂の建立譚です。

 三十三間堂が建立される由来を物語にしたものですが、もちろん“史実”ではない作り事です。ざっと紹介してみましょう。

 その昔、紀州の山中に、梛(なぎ)と柳の大木があった。枝をまじえた連理の木で、夫婦であった。しかし、修行僧・蓮華王坊にその仲を引き裂かれてしまった。梛は人間に生まれ変わることとなり、のちに横曽根平太郎となったが、柳はそのままとどまり、蓮華王坊に恨みを抱いた。蓮華王坊は、天狗によって谷底に投げ落とされ、柳に貫かれて死ぬが、のち白河法皇に生まれ変わった。

 熊野権現に日参する平太郎は、柳の大木のそばを通りかかる。すると、鷹狩りをしていた武将の鷹が柳のこずえに引っ掛かっており、武士らは柳を切り倒そうとしている。平太郎は、弓を射て鷹を落とし、柳が伐られるのを救った。

  三十三間堂の通し矢

 平太郎は、柳のそばで茶店を営む女・お柳と夫婦になり、やがて、みどり丸という息子が生まれた。

 ある日のこと、侍が現れ、柳の木を伐ると言う。
 聞けば、都の白河法皇は頭痛に悩まされていたが、その原因は、法皇の前生(すなわち蓮華王坊)の髑髏が熊野にあり、柳のこずえに掛かった髑髏が揺れるたびに、法皇に頭痛がするという。そのため、柳を伐り倒して、棟木にして仏堂を建てれば病は平癒する--因幡薬師の夢告だそうだ。

 実は、お柳は柳の精であった。切り倒されるとなると、夫やわが子とも別れねばならない……

  三十三間堂の柳

 柳は侍らによって切り倒された。しかし、運び出そうとするが、曳いても曳いても動かない。
 平太郎が木遣り音頭を歌い、みどり丸が綱を曳くと、木はたちまち動き始めたのだった。


 男性と柳の精の結婚という“異類婚姻譚”に、後白河法皇(物語では白河法皇)が発願した三十三間堂の建立譚を絡めた物語。
 とても上手にできている話ですが、やはり悲しい結末です。

 なぜ三十三間堂が建立されたかという疑問を、頭痛と紀州熊野の柳の髑髏! という奇想天外な解き方をする--実に江戸時代らしい想像力です。

 三十三間堂

 ちなみに、三十三間堂では、1月に「楊枝浄水供(やなぎのお加持)」も行われ、頭痛平癒にご利益があるそうです。ひとりひとりの頭に浄水を振りかけてくださるもので、私も受けたことがあります。

 三十三間堂
 
 こうまとめてくると、やはり文字ではなくて文楽の浄瑠璃で聴いてみたいですね。

 ということで、私も行く予定の「文楽鑑賞教室」は、2014年6月6日(金)~19日(木)、大阪・国立文楽劇場で開催されます。
 午前の部と午後の部がありますが、団体貸切日もありますのでウェブサイト等でご確認ください。
 6月9日(月)と18日(水)には、午後6時30分開演の社会人向け公演もあります。




 【参考文献】
 藤田洋編『文楽ハンドブック』三省堂、1994年
 『歌舞伎浄瑠璃稀本集成 下』八木書店、2002年
 内山美樹子「『卅三間堂棟由来』(『祇園女御九重錦』)の構想と文政以後の上演」、「早稲田大学大学院文学研究科紀要 第3分冊」2007年所収


珍しい名前の通り、「正面通」を歩いてみた





正面通


 西本願寺の門前は「御前通」とも呼ばれた

 先日、西本願寺の御影堂、阿弥陀堂が国宝になることが報じられました。
 京都駅の近くで集まりがあったので、その前に西本願寺に立ち寄りました。5月21日のことで、ちょうど親鸞上人の誕生日! で、「親鸞聖人降誕会」が執り行われていたようです。

 阿弥陀堂門を出ると、堀川通の東に総門がそびえています。

 正面通
 
 この門の向こうが、正面通です。
 「正面通」、読みは「しょうめんどおり」です。全国的にも珍しい名前ではないでしょうか。
 何の“正面”かは、最後にお話しするとして、まずは歩き始めましょう。

 正面通

 総門を東に出ると、この風景。
 仏具店や数珠店が軒を連ねます。奥に建っているのが、伝道院。こちらも、このたび重要文化財に指定されることが決まりました。

 有名な石像群も、これからは重文ですね。

 正面通
 正面通

 このあたりの正面通は、別名「御前通」とも呼ばれていました。読み方は「おんまえどおり」。
 御前通というと、北野天満宮の南に伸びる街路が著名です。
 しかし、「都名所図会」にも、西本願寺の前の通りを「御前通」と記しています。

 「都名所図会」より本願寺
  「都名所図会」巻2  右下に「御前通」とある

 今は専ら正面通と呼ぶようです。
 仁丹の町名表示も、この通り。

  正面通


 2度突き当たる街路

 伝道院からしばらく歩くと、道路は突き当りになります。

  正面通

 向こうが東本願寺のため、正面通は一旦途切れます。

 ぐるっと迂回して、烏丸通を東へ渡り、書店の法蔵館を横目に見ながら進みます。
 この部分の街路は、中数珠屋町通(なかじゅずやまちどおり)と呼ばれています。
 地図を見ると、正面通とは少しだけ食い違っています。通りの名前は、北に上数珠屋町通、南に下数珠屋町通があり、その真ん中に当たるためです。「数珠屋町」とは、お寺の門前らしい名前ですね。

 ここに気になる近代建築が。

  正面通

 今は使われていないようですが、東本願寺に関係のある建物のようです。
 丸窓に特徴があり、玄関まわりなどに装飾があります。昭和初期頃の建築でしょうか。

 このあたりにも法衣店や表具店があり、前には渉成園(枳殻邸)の黒い門が開いています。

 正面通

 通りは、ここで再び途切れることになります。


 ふたつの正面橋

 渉成園を越えると、河原町通です。道路の向こうから、また正面通が始まります。
 
 正面通

 正面通

 この先に、小さな橋が架かっています。

 正面通

 正面通

 正面橋。
 高瀬川に架かる小さな橋です。
 京都は、タテヨコの通り名で地点を表します。 この橋詰の某社の看板には、「高瀬正面」と書かれていました。高瀬川筋正面通、ということだと思いますが、ぱっと見ると何の意味か全く分かりませんね。


 有名ゲーム機メーカーの旧社屋も

 正面通

 正面通

 当たり前ですが、どこまで行っても正面通。ようやく遠くに東山が見えてきました。
 表示板の「面」の字が時代を感じさせます。

 少し行くと、こんな建物があります。

 正面通

 ゲーム機で有名な任天堂の旧社屋です。
 任天堂は、山内房治郎が明治22年(1889)に花札製造で創業しました。私の少年時代は、任天堂といえば、花札やトランプを作っている会社として知られていました。
 今も付けられたプレートには、「かるた・トランプ 製造元 山内任天堂」とあり、かつての社号でもあった「丸福」のマークも。建物は、昭和初期のもの。
 
 正面通

 さらに進むと、

 正面通

 鴨川に架かる橋。
 その名は、

  正面通

 正面橋。

 先ほどと同じ……

 任天堂のプレートには「正面大橋」とあったので、<四条大橋-四条小橋>のようなパターンからすると、<正面大橋>と<正面小橋>という関係です。しかし、地図などには、どちらも「正面橋」となってるようです。正式名称は、調べていないのですが、どうなのでしょうか?


 そして「正面」へ

 橋を渡って川端通を横断すると、和菓子の甘春堂があり、通りはぐっと狭くなります。

 正面通

 この先には、銭湯の「正面湯」もあります。

 正面通
 
 そして、いよいよ最後の突き当りが見えてきました。
 その右手には、耳塚も。

 正面通
  耳塚

 通りの由来になった何の正面か、ということですが、かつて豊臣秀吉が築いた大仏のある寺、方広寺の正面に当たることから、この名になったのでした。

 「花洛名勝図会」より方広寺
  方広寺  左上が大仏殿 (「花洛名勝図会」巻7より)

 絵に描かれた楼門の前の道ですね。
 現在は、豊国神社になっています。京都国立博物館の北側です。

 正面通

 西本願寺の門前から豊国神社まで、写真を撮りながらゆっくり歩いても1時間ほど。距離にして、直線距離で約1.7㎞、迂回した実際の歩行距離で2.3㎞。案外短いですね。

 振り返ると、夕景の正面通が。

 正面通

 やった、完歩! と思って気づきました。
 西本願寺から西にも正面通があったことを。
 JR山陰線(千本通)までの通りも、正面通でした。これは、また今度歩きましょう。

 意外におもしろい小旅行でした。

 


 正面通
 
 所在 京都市下京区~東山区
 拝観 西本願寺、東本願寺、豊国神社は境内自由
 交通 JR「京都」、京阪電車「七条」下車ほか



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年
 『ビジュアル・ワイド 京都の大路小路』小学館、2003年


【新聞から】西本願寺の諸堂が国宝・重要文化財指定へ-特に重文が画期的!-





西本願寺


  西本願寺の御影堂・阿弥陀堂、国宝指定へ
  各紙 2014年5月17日付


 5月17日の朝刊各紙には、文化財に関するニュースがたくさん掲載されました。
 ひとつが、このあと取り上げる西本願寺の建造物の国宝・重要文化財指定。
 いまひとつが、奈良・東大寺の正倉院の大修理が終わったというニュース。
 三つめが、奈良国立博物館「醍醐寺展」に、山上(上醍醐)に祀られている五大明王像が、展覧会としては初めて5躯すべてが山を下りて出品されることになった、というものです。

 個人的には、醍醐寺展のニュースが気になるところですが、この記事はたぶん日経新聞にしか載っていなかったと思います(主催なので)。まあ、展覧会のPR記事ですね。

 西本願寺
  西本願寺 御影堂(左)、阿弥陀堂(右)

 各紙が報じたのが、西本願寺の国宝の記事です。
 国の文化財指定については、文化審議会が文部科学大臣に答申した時点で、必ず新聞報道されます。今回は建造物の指定で、重要文化財では、神戸女学院のヴォーリズ設計の建築群なども指定されることになります。これは、うれしいですね。

 京都新聞によると、京都府の建造物の国宝指定は、知恩院の三門と本堂(御影堂)の指定以来、12年ぶりということです。
  西本願寺の御影堂と阿弥陀堂は、すでに重要文化財に指定されていましたが、2008年末に竣工した修理を受けて、今回、国宝になることとなりました。

 西本願寺御影堂
  御影堂(本堂)

 西本願寺阿弥陀堂
  阿弥陀堂

 大きな入母屋造の屋根を載せた建物で、江戸時代を代表する巨大木造建築のひとつです。
 ちなみに、東本願寺の御影堂、阿弥陀堂は、明治28年(1895)の建造です。

 西本願寺は古建築の宝庫で、すでに飛雲閣、唐門(日暮門)、書院(対面所及び白書院)、北能舞台、黒書院及び伝廊は国宝です。
 重要文化財も、玄関、浪之間、虎之間、太鼓之間や、浴室(黄鶴台)、鐘楼、能舞台、そして阿弥陀堂(指定名称は本堂)、御影堂(同・大師堂)と、多数そろっています。

 これらの国宝・重要文化財は、すべて大正初期以前に指定されているもので、その頃は「特別保護建造物」と呼んでいました。当時は、古社寺保存法に基づき、内務大臣が古社寺保存会に諮問して指定する建造物を選んでいました。
 西本願寺では、飛雲閣の明治30年(1897)を皮切りに、大正2年(1913)の阿弥陀堂、御影堂、黒書院及び伝廊まで、年を追って指定されたのです。

 『京都』より本願寺
  昭和初期の飛雲閣(『京都』より)

 『京都』より本願寺
  昭和初期の御影堂(同上)

 私がこの度よろこばしく思っているのは、多くの建物が重要文化財に指定されたことです。
 つまり、

  ・阿弥陀堂門
  ・御影堂門
  ・経蔵 附 棟札
  ・鼓楼
  ・手水所
  ・総門 附 御成門、目隠塀、築地塀

 といった建築です。そして、京都市指定文化財だった

  ・旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)
    附 棟札、石柵柱 

 も重文指定されました。

 西本願寺経蔵
  経蔵

 西本願寺鼓楼
  鼓楼

 西本願寺手水舎
  手水所

 西本願寺総門
  総門

 西本願寺目隠塀
  目隠塀

 ふたつの門はともかくとして、上の写真の建物はいずれも地味で目立たないものです。これらが指定されたことは慶賀に堪えません。

 例えば、手水所ですが、寺社の手水所(舎)で、これまで重文指定されたものがあったのだろうか? と調べてみると、以下のようなものがあると分かりました。

  東大寺法華堂(三月堂)手水屋(奈良) 建武2年(1335)
  春日大社摂社若宮神社手水屋(奈良) 寛永9~10年(1632~33)
  東照宮水屋(栃木) 寛永13年(1636)
  滝山東照宮水屋(愛知) 正保3年(1646)
  東照宮(鳳来山)水屋(愛知) 慶安4年(1651)
  輪王寺大猷院霊廟水屋(栃木) 承応2年(1653)
  厳有院霊廟水盤舎(東京・寛永寺) 元禄12年(1699)
  常憲院霊廟水盤舎(東京・寛永寺) 宝永6年(1709)

 全国でこれだけとは少ないです。
 しかし、東大寺法華堂の水屋はとりわけ古い! これと、春日大社のものは規模も大きくて、壁のある普通の建物です。言われなければ手水舎に見えません(他の用途も兼ねていたようです)。
 3つめ以下は、桁行一間、梁間一間の吹き放しの手水舎ですが、東照宮などは唐破風を付けていてやや豪華な手水舎です。そして、ほとんどが17世紀の建物となっています。

 これに比べれば、西本願寺の手水所は、文化7年(1810)の建築です。19世紀の手水所が重文になるなんて、これまでより100年も新しく、画期的すぎます!
 確かに手水舎としては立派な部類に入ると思いますが、これもひとえに、西本願寺に詣でてきた先人や現代の人々の篤い信仰を象徴する建造物として、評価されたと解釈したいですね。

 鼓楼(寛政元年=1789築)や総門(江戸後期)は、堀川通に面して建てられているので、クルマで走っているとおのずと目に入ってきます。特に、高麗門の形式をとる総門は、通りの向こう側にポツンとあるので印象的ですね。

 「都名所図会」より本願寺
  「都名所図会」巻2より

 「都名所図会」より本願寺
  御影堂門(左の「御門」)の向いに総門が見え、
  上方には手水所と目隠塀もある

 「都名所図会」を見ると、堀川通の西側に2つの「御門」が並んでいます。右の唐門が阿弥陀堂門、左が御影堂門です。
 通りを挟んで、御影堂門の向いに「御前通」という文字が見え、そこに総門が立っているようです。この御前通というのが正面通にあたります。
 この総門は、これまで3度も移築されており、一番最近は昭和34年(1959)の堀川通拡幅の際に動かされました。

 鼓楼は、西本願寺の敷地の北東隅にあります。

 「都名所図会」より本願寺
  鼓楼

 図の上方、橋を渡った前に鼓楼があります。
 この「都名所図会」の絵で興味深いのが、堀川通に塀と門が設けられていること。よく見ると、右下には駒つなぎ(馬を留めるところ)もあって、この門内がお寺の中になっていたことが分かります。

 「都名所図会」より本願寺

 こちらは南端で、飛雲閣の前あたりです。ここにも、塀と門、駒つなぎ、物見が描かれています。堀の部分にも柵があって、厳重なガードぶり。夜間は入れなかったのでしょうね。

 経蔵が好きな私には、経蔵の指定もうれしかったので、「都名所図会」の姿を掲げておきます。

 「都名所図会」より本願寺
  経蔵  背後に土蔵が建っている

 今回、信仰のようすを示す建物が指定されたことは、寺社の建造物が単に建築的に優れているだけでなく、建物に残された長い信心の足跡にも目を向けるべきことを物語っているようで、とても気持ちよく受け止めています。




 西本願寺

 所在 京都市下京区本願寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 「JR京都」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 『こころのふるさと御影堂』本願寺出版社、2011年
 『国宝・重要文化財大全 11・12 建築物 上・下』毎日新聞社、1998・2000年
 『京都府文化財総合目録 平成18年度版』京都府教育委員会、2006年
 「都名所図会」1790年


古代史にとどまらず、独自の視点で京都の歴史をさぐったシリーズ - 森浩一『京都の歴史を足元からさぐる [洛東の巻]』 -

京都本




 京都の歴史を足元からさぐる(洛東の巻)


 定番の京都本 『京都』 と 『京都史跡見学』

 京都についての書物は、枚挙にいとまありません。
 それでも、歴史の専門家による通史的な歴史書というと、限られてくるでしょう。

  『京都』『京都史跡見学』

 いまでも書店に並んでいる最もポピュラーなものは、林屋辰三郎『京都』(岩波新書)でしょう。
 その刊行は、昭和37年(1962)。実に、半世紀余り前で、すでに50刷以上も版を重ねているようです。林屋先生が亡くなって(1998年)からでも16年経っています。
 この本は、時代順の通史ですが、時代と土地を関連させて叙述しているのが特徴です。例えば、序章は「湖底の風土・・・神泉苑」、1章は「京都の古代人・・・賀茂」、2章は「古都以前・・・太秦」、3章「平安京の表情・・・東寺」といった具合です。
 各章扉の裏に、地図(京都駅からの位置を示す線で結ばれている)が付けられているように、いちおう観光ガイドの体裁もとっているようです。
 いずれにせよ、京都について1冊で理解するには、最も適した本といえます。

 一方、同じ岩波書店でも、岩波ジュニア新書として刊行されたのが、村井康彦『京都史跡見学』です。昭和57年(1982)に出されたもので、こちらもすでに30年以上前の本です。
 ジュニア新書といっても、いわゆる子供向きに書いたというものでもなく、大学生や社会人が読んでも十分読み応えのある書物です。タイトルとは裏はらに、余り史跡見学という趣はなく、ふつうの通史という感じがします。


 “足元からさぐる”というコンセプト

 そんな中で、2007年から3年間にわたって刊行されたのが、森浩一『京都の歴史を足元からさぐる』シリーズです。
 全6巻、「洛東」「洛北・上京・山科」「北野・紫野・洛中」「嵯峨・嵐山・花園・松尾」「宇治・筒木・相楽」「丹後・丹波・乙訓」の各巻から構成されています。
 森浩一先生は、考古学、古代史を中心に研究を進められてきましたが、幅広い関心をもとに各地で「地域学」を提唱されました。この『足元からさぐる』シリーズも、京都の地域学として位置づけられているものです。2013年8月に亡くなった森先生にとっては、最晩年の著作に入りますが、自選された20編のひとつにも選ばれています。

 「足元からさぐる」というコンセプトは、序によると、病気治療のため旅に出づらくなったが、考えてみれば京都の地域史をさぐるという仕事が残されていた、と記されています。
 そのため、このシリーズは、京都を千年の都(あるいは古都)という観点から捉えるのではなく、さまざまな地域や人と交流して成り立つ一地域として描き出しています。
 そういう意味では異色の京都本であり、林屋先生や村井先生の著作に比べ、随分と主観的な偏りがあるようにも見受けられます。


 生きている歴史を重視する視点

 第1巻の「洛東の巻」は、森先生の地元である東福寺(その裏手に住んでおられた)から筆を起こしています。
 東福寺の造営と朝鮮半島・新安沖沈没船との関係、さらに開山・円爾弁円が寺内に臼を備えた水車小屋を造ろうとしていたのではないかという推理など、他にはない意外な視点に引きつけられます。

 六道まいりの槇 六道まいりの槇

  あるいは、六道珍皇寺でお盆の六道まいりの際、売られている槇(マキ)と、古墳の棺材として用いられる槇との関係。その関係は未だ詳らかでないということですが、おもしろい着眼点で、こういうふうに考えていくのだなと思わされます。

 森先生というと古代の話題と思われがちですが、現代社会についても強い関心を持たれていました。遺跡の保存や天皇陵古墳の呼称についてはもちろんのこと、歴史が現代にどう生きているかについて重視されていたと思います。

 序文に、このような記述があります。

 ぼくがこの本で書こうとするのは京都の歴史の面白さであって、文化財の解説の羅列ではない。先日ある有名な寺を訪ねた。すると建物の修理ではないのに本堂と門には周囲に厳重な柵をこしらえていて近づけない。これではその寺の僧たちもこのお堂では一切の法要などをしないということなのかとおもった。これではこれらの建物はすでに無用のものとぼくにはうつり、無用のものを平気でもつ寺のことを書く気がなくなった。そういう点でこの本が取りあげる対象については、ぼくの判断が左右するし、それがある意味でのいまの京都の歴史をさぐることにもなりそうである。(3ページ)

 たぶんこの寺院のことだとすぐに思いましたが(答えは別の巻にあり)、

 柵のある禅寺

 同感に思われる方も多いでしょう、これほど建物をガードしていると。

 この部分を読んで、私が思い出したのは、福井の禅寺・永平寺での一件です。その出来事は、京都新聞「現代のことば」に書かれました。

 遺物を見に福井の博物館を訪れた森先生は、永平寺に行ってみようと、前夜門前に宿泊します。昭和35年(1960)に訪れた際、禅の道場という雰囲気がみなぎっていて、清々しい印象を与えた古刹を再訪しようというわけです。

 早朝、小雨が時々ふるなか寺へと向かった。門前はさすがに静かである。京都の禅寺は、庭園などは別にして、境内にはだれでも立ち入ることができる。私の近所の東福寺でも、尺八を吹く人、劇の稽古らしい朗読をする人、絵をかく人、木かげで読書をする人、かくれんぼうに興ずる子供たちと、にぎやかなことだ。(中略)それは相国寺でも建仁寺でも、京の禅寺に通じてみられる日常の風景であり、それらの行為も各人にとってはある種の修行なのであろう。
 (中略)
 門を入ると、巨大な鉄筋の建物がある。私は境内を散歩したいだけなのだが、自動切符販売機で入場券を求め、吉祥閣という鉄筋の建物を通らねば寺には入れない。私はがっかりした。行く手には、次々に順路の紙がはってあって、指示通りに歩く。(中略)早朝だったが、何組かの団体客を若い僧が引率して説明をしている。“この天井画は、女優のだれだれの父がかいた”というような俗世界の言葉が耳に届いてくる。
 奥の法堂に近づいた時、団体客を引率していた僧が、“一人で歩いてもらっては困る。もとへもどってどこかの団体にまじれ”という。私の失望は頂点にたっした。もちろん管理の問題などわからないでもないが、形式のうえでは団体観光客に対応していて、少なくとも私が心の平安をと期待してきたのとは、うらはらになり、つい怒りの声を発する結果になった。(後略)
「京都新聞」1985年11月26日付夕刊「無駄になった禅寺散策」


 30年近く前の随筆ですが、『足元からさぐる』と同様のことが記されています。
 境内で、芝居の稽古をしたり、絵を描いたりすることも、「各人にとってはある種の修行」というくだりに、うなずかされます。 

 本書の中で「文化財」と「信仰財」という言葉が紹介されています。
 「ぼくは前々からいまなお信仰の対象になっている仏像や神像は信仰財であって、お寺や神社側で文化財というべきではないとおもっている」(30ページ)。
  
 また別のところでは、清水寺の秘仏・十一面千手観音について、次のように書かれています。

 この秘仏は33年ごとにご開帳され、2000年がそれにあたっていたのでぼくも拝観することができた。だが、期待していたほど、古い彫刻ではなかった。その理由は清水寺がたびたびの火災で仏像を焼失していて、この本尊も鎌倉時代中期に製作されたものとみられている。
 この寺は平安時代だけで9回も火災にあっており、このなかには興福寺や延暦寺の僧の襲来によって焼かれたときもあった。(中略)とはいえ各地でよくみかけることだが、仏像を文化財と称して収蔵庫にしまって信者の目から隔離してしまうのは賛成できない。信仰財は消失[ママ]してもまた作れる。(162ページ)

 
 「信仰財は消失してもまた作れる」。これはもちろん極論として(本書にも火を逃れて守られてきた仏像の例も出ています)、形は消えても心は消えない、という意味でしょう。逆に言えば、心が失われてしまったら、いくら形だけ残っても駄目である、ということでしょうか。

 今回、久しぶりに森浩一先生の著作にふれて、改めて、過去と現代との関連性が重視されていると感じました。
 論文を書くためにだけ学問するのではなくて、その成果を現代社会(先生の言葉で言えば「地域」)に還して生かしていくことに腐心されていたことがうかがえます。




 書 名 :『京都の歴史を足元からさぐる[洛東の巻]』
 著 者 : 森 浩一
 出版社 : 学生社
 刊行年 : 2007年


【大学の窓】研究テーマをスムーズに決められる“魔法の呪文”とは?

大学の窓




  キャンパス風景


 テーマ選びに苦労する

 上京大学(仮称)で担当している1回生の演習科目。今年度もスタートしました。

 今週から、班別に分かれて活動します。
 そこで1年間、自分たちの手で“初めての研究”を行うわけです。

 学生たちが、最初に行わなければならないものが、テーマ選びです。
 日本史の演習ですが、私が決めた大きな枠組みの中で、自由に設定します。私は2つの班を担当しますが、彼ら彼女らに与えた枠組みは、「建物」と「写真」。

 あまりに、ざっくりとしていて、これでは研究できません。
 おのずと、細かいテーマを決める必要性に迫られます。

 ところが、これが毎年うまくいかないのです(笑)

 いや、笑っていてはいけないのですが、“迷走”するのです……

 テーマが決まらないと、調査に入っていけません。決めるのが遅いと、調査する時間が足りなくなります。その結果、年末に“時間切れ”となってしまうのです。


 テーマが決まる“魔法の呪文”

 学生たちは、高校の「日本史」の感覚があるせいか、どうしても大きすぎるテーマ設定をしてしまいます。
 極端に言えば、「東山文化の研究」みたいな感じです。
 これでは、何をやっていいのか、さっぱり分かりませんね。

 ここのところ、私の懸案は、いかに早く適切なテーマ設定をさせるかということでした。
 一所懸命考えた結果、ついに見出したのです、テーマが決まる“魔法の呪文”を!

 それは、


  ○○における○○の○○について

  
 という形でテーマを考えてみる、という方法です。

 これを使うと、するするとテーマが設定できます(笑)

 まったく架空のテーマなのですが、例えば、


「江戸歌舞伎における世話物の享受層について」


 歌舞伎には「時代物」と「世話物」があります。一口に言うと、時代劇と現代劇ですね。世話物は、恋愛ものとか事件ものです。
 こういった世話物を見る観客(享受層)を時代物の観客と対比しながら考えてみよう、というのがこのテーマ。
 どうでしょう、私は歌舞伎が専門ではないのですが、なんとなく様になっていないでしょうか?

 似たような、こんなテーマはどうでしょう。


「宝塚歌劇における『ベルサイユのばら』の新聞・雑誌報道について」


 今年100周年を迎える宝塚歌劇。
 40年前に初演された「ベルサイユのばら」は、現在まで続くヒット演目です。これが、新聞や雑誌でどう取り上げられてきたかを研究するテーマです。
 演じるスターに注目が集まったのか、アンドレやオスカルといった登場人物に関心が向いたのか、それとも見に来る観客の反応が報じられたのか。
 初演時に絞って研究するのもよし、1974年から2014年までの変化を追うのもおもしろそうです。

 この“呪文”は、「○○について」とテーマ設定するよりも、2段階ブレークダウンできる利点を持っています。
 要するに、大きな問題を小さく分割する方法です。この「分割する」ということが、学生にはなかなかできなかったのです。
 これを解消するのが、「○○における○○の○○について」という当てはめ法です。

 さあ、うまくいくかどうか、さっそく試してみましょう。
 

松室重光が設計した明治の洋館・京都府庁舎に、窓の細かな工夫を見る





京都府庁


 京都を代表する明治時代の洋館

 京都府庁にやってきました。
 京都御所の西方、丸太町通を上がったところにあるのですが、府民の方もなかなか訪れないのが府庁ではないでしょうか?

 京都府庁
  京都府庁舎(旧本館、重要文化財)

 しかし、この建物(旧本館)は国の重要文化財に指定されていて、京都を代表する明治後期の洋風建築です。

 第一印象は「宮廷みたい」。あるいは「エレガンス」。

 役所の建物とは思えません。
 けれども、例えば兵庫県の県庁舎(現・兵庫県公館)を訪ねてみると、京都同様、エレガンスです。

 京都府庁舎は明治37年(1904)竣工(松室重光、久留正道設計)、兵庫県庁舎はその2年前の明治35年(1902)竣工(山口半六設計)となっています。この2庁舎は、明治後期から大正時代にかけての代表的な府県庁舎だと思います。
 しかし、このような外貌も、大正末からは変化していき、大阪府庁舎(1926年竣工)あたりになると、機能的で装飾を少なくした意匠になっていきます。構造も、煉瓦造から鉄筋コンクリート造へと変わっていくのですね。

 京都府庁

 この建物は、総工費約36万円でした。大胆に、現在の価値に直すと、50億円くらいでしょうか。
 ちなみに、明治末に大阪市中央公会堂建設のために寄付された金額(岩本栄之助による)は、約3倍の100万円でした。

 京都府庁舎は、民間の有力建築に比べると、半分くらいの坪単価だったといい、府庁舎としての威儀を整えるのが難しかったという話もあるそうです。

 外壁を見てみると、白っぽく見える部分は花崗岩を用いているのですが、クリーム色の壁面はというと……

 京都府庁
  下部は花崗岩

 京都府庁
  擬石

 右の拡大写真、モルタルに石のつぶを混ぜた「擬石(ぎせき)」というものです。いわば人造石ですね。
 この色合いは、石材でいうと龍山石風ですが、こちらの方が断然安上がりなわけです。龍山石風の擬石は、たいへん多く用いられていますので、近代建築を見る際に観察してみてください。


 平面は、ロの字型

 この建物を訪れると、中庭があって心がなごみます。

 京都府庁
  中庭

 中央に立派な桜の木があります。4月に訪れたら、さぞ綺麗でしょうね。

 この中庭ですが、もちろん“なごむ”ために設置されたのではなくて、照明器具の不十分な時代(明治中期です)、光を取り入れるために造られたのでした。

 この庁舎は、平面が「ロ」の字型をしています。
 ロの字の外周に各室が配置され、内回りに廊下が付けられています。

 京都府庁
  廊下 左の窓外が中庭になっている

 部屋の窓と同様、廊下にも窓がなければ真っ暗です。上の写真で、雰囲気がよく伝わってきます。
 このようなことで、ロの字の外周にも内周にも窓が一杯取り付けられているわけです。


 知事室は角部屋に 

 建物がロの字型をしているということは、四辺があり、四隅があるということですね。

 竣工時の図を見てみると、四辺には「第一課」「衛生課」といった普通の部署が配されています。ところが、四隅の部屋の使い方は少々異なります。
 2階には、知事室、貴賓応接室、府会議長室、参事会室が配置され、1階には警部長室、技師室、第五課課長室、製図室が置かれています。2階にお歴々の部屋が置かれているのがよく分かります。
 先ほどの光との関係でいえば、1階の西北隅、光線の安定した場所に製図室が配されています。また、最も明るいだろう2階南東隅が知事室です。ちなみに、兵庫県庁舎でも同じ位置が知事室でした。

 京都府庁
  旧知事室

 現在、この旧知事室は公開されているので、誰でも見学することができます(平日のみ、無料)。

 なお、建物背面(北)に突き出した部分には、議場が設けられていました。

 
 部屋によって異なる窓

 この府庁舎は、外から見ても中に入っても、かなり楽しめる建物です。
 じっくり観察していると、おもしろい点に気づきました。
 それは、窓です。

 京都府庁
  東北側面

 写真の右端が、いわゆる隅の部屋で、少し突き出しています。2階の窓は付け柱に挟まれた優美な三連窓で、さらに上には屋根窓まであります。1階は、アーチ型にくられたへこみに三連窓をはめています。

 京都府庁 京都府庁
  2階の窓          1階の窓

 写真の東北隅は、2階が参事会室、1階が第五課課長室になっていました。参事会室は、議会に出席する際に、参事会員(高等官や議員から選ばれた参事会員)の控室なのでしょう。10名ほどが入る部屋ですが、知事室や議長室と並んで格が高い部屋なのです。一方、1階は課長室といっても通常の事務室ですから、差は歴然です。
 このことが、窓の造りで表現されているわけです。

 1階、2階の長辺には、通常の課や係の事務室が置かれていました。
 この部分の窓は、ぐっと簡素になっています。

 京都府庁

 1・2階とも縦長窓を穿っています。四隅の部屋に比べると軽い装飾ですね。
 
 このように、部屋の用途と窓のデザインを見比べると、窓が“格付け”の道具だということが分かってきます。


 窓の開き方は…

 これらの窓は、デザインだけでなく、開き方も異なっています。

 長辺についた窓です。

 京都府庁

 窓が上下2フレームで構成されているのが分かります。
 つまり、上下に開く上げ下げ窓なのです。

 京都府庁

 上のフレームが外側に付いていて、下のフレームが上がるようになっています。

 内側から見ると、

 京都府庁
  正庁の上げ下げ窓

 こんな感じです。
 ワイヤーと滑車を用いて吊り上げる仕組みです。

 京都府庁
  ワイヤーの上端に滑車がある(正庁の窓)

 京都庁舎では、多くの窓がこのスタイルになっています。
 ところが、例の隅の部屋だけは、異なった窓なのです。

 京都府庁
  1階 北東隅の窓(北面)

 一目瞭然、上げ下げ窓ではなく、片開きの窓になっているのです。
 1・2階とも同じです。

 京都府庁
  同上(東面)

 この写真、窓の開き具合をよく見ると、右端の窓は全開しており、真ん中の窓は少しだけ開いています(左端は閉まっています)。
 このような微妙な開き具合の調整は、どのようにしているのでしょうか? また、全開したとき、風が吹いてきたら、バタンと閉まってしまうのではないか? と心配です。
 この工夫を知事室で観察してみました。

 京都府庁
  旧知事室(2階 南東隅)の片開き窓

 この窓の下部のアップです。

 京都府庁

 京都府庁

 たくさん穴のあいた平らな金具が付いています。金具の片側は窓に固定されています。反対側はフリーになっていて(写真下)、窓が開くと動くようになっています。
 写真上では、左端の穴にピンが差し込まれ、留められている状態です。
 写真下は、ピンが外れている状態です。

 1階で見てみると、

 京都府庁

 赤い矢印が金具です。矢印の左にピンが突き出しています。

 この金具が、いわば“突っ張り棒”になって、窓が自然に閉まるのをストップしているのでした。

 ただ、写真を見る限り、1階ではピンが機能しているのか確証が持てません。もしかすると、改造されているのかも知れないですね。
 本当は、事務室の中に入って、自分で操作して確かめたいのですが、さすがにそんなお願いも……。こういう写真を撮っているだけで十分あやしいです(苦笑)

 最後に。
 なぜ隅の部屋だけが、片開き窓なのか? 上げ下げ窓よりも、片開き窓の方が格上なんでしょうか? それとも別の理由なのでしょうか。
 式典などが行われる最も格が高い部屋「正庁」が上げ下げ窓なので、格の上下で考えるのも難しそうです。
 このことは、宿題にしておきましょう。

 ということで、窓だけでも楽しめる京都府庁。
 執務等のお邪魔にならない限り、わりと自由に拝見できますので、一度訪ねられてはいかがでしょうか。




 京都府庁舎(旧本館、重要文化財)

 所在 京都市上京区下立売通新町西入ル藪ノ内町
 見学 旧知事室や正庁は、平日に無料公開
 交通 地下鉄「丸太町」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 石田潤一郎『都道府県庁舎』思文閣出版、1993年
 京都建築倶楽部編『モダン・シティー・KYOTO』淡交社、1989年


美しい藤の紋は、百種類以上あるらしい





護王神社


 寺社に見られる藤の紋

 4月下旬から5月にかけては、藤の花がきれいですね。

  フジ

 昔から、藤は長く枝垂れるので、枝垂れ桜(糸桜)などとともに、長寿のイメージがあったようです。

 藤は、公家の藤原氏の姓にもなっていることから、藤原氏の家紋にも使われてきました。
 もちろん、藤原氏すべてが藤の紋ではありません。例えば、五摂家のうち、九条家、二条家、一条家は藤の紋ですが、近衛家と鷹司家は牡丹の紋です。

 そして、藤の紋にも種々あって、九条、二条、一条の3家をみても、「九条藤」「二条藤」「一条藤」と異なった藤の紋があります。

 先日、その名も『紋之泉』という本を求めたので、そこから紹介しておきましょう。ちなみに、紋を集めた本を「紋帳」といい、古くから重宝されてきました。『紋之泉』は大正15年(1926)刊行の新しいものですが、収録されている紋の数が多いようです。

  九条藤
  九条藤

  二条藤 一条藤
  二条藤          一条藤

 いずれも下り藤ですが、細かいところが違っていますね。


 寺社に見られる藤紋

 東福寺は、鎌倉時代、九条家の発願により創建されました。
 そのため、藤の紋が見られます。

 東福寺五社成就宮
  東福寺 五社成就宮

 東福寺の鎮守である五社成就宮。
 屋根を見てください。

 東福寺五社成就宮
 
 藤の紋。
 でも、よく見ると、「九条藤」ではなく、ふつうの「下り藤」ですね。
 なぜでしょう ??
 既製品を使ったのですかね、なぞです(笑)

 ちなみに、明治の火災以後に立て直された建物にも、藤の意匠があしらわれています。

 庫裏です。

 東福寺庫裏
  東福寺 庫裏

 東福寺庫裏

 唐破風の兔の毛通しに藤の彫刻が付けられています。

 恩賜門です。

 東福寺恩賜門
  東福寺 恩賜門

 扉の上部に、美しい藤の透かし彫りがあります。

 東福寺恩賜門

 東福寺は、まさに“藤尽し”で楽しいですね。


 藤紋のいろいろ

 東福寺から少し南に行くと、藤森神社があります。
 名前の通り、藤の神紋です。

  藤森神社

 これは、「上り藤に一文字」。『紋之泉』には掲載されていませんでした。逆に「下り藤に一文字」は、同書では「柴田藤」としています。

 藤森神社
  藤森神社

 社殿の金物などにも、この紋が見られます。

 次は、御所の西にある護王神社です。和気清麻呂をお祀りしています。

 護王神社

 こちらも藤の紋です。

 護王神社

 これは珍しそう。
 「向い四つ藤」というそうです。上2つ、下2つの藤が向かい合っているということでしょう。

  向い四つ藤
  向い四つ藤

 『紋之泉』の図柄とは、少し違いますね。

 護王神社といえばイノシシですが、その像の台座にも神紋が見られます。

 護王神社

 護王神社

 明治23年(1890)に奉献されたものです。
 古くから使われていたことが分かりますね。

 
 『紋之泉』には136種も!

 『紋之泉』には、驚くべきことに136種類もの藤紋があげられています。
 珍しいものも多くて、例えばこちら。

  藤蝶
  藤蝶

 藤がチョウの羽根のようになっています。

  藤鶴崩し
  藤鶴崩し

 これも綺麗ですね。

 では、最後に、『紋之泉』に掲載された紋の種類数(バリエーション)、ベスト10を紹介しておきましょう!(カッコ内が種類数)

 10位  蝶(80)
 9位  扇(84)
 8位  梅(89)
 7位  片喰[かたばみ](98)
 6位  柏(101)

 5位  桔梗(109)
 4位  笹(121)
 3位  桐(129)
 2位  藤(136)
 1位  菊(141)

 バリエーションの豊富さは菊が1位です。藤も堂々の2位でした。

 他は、花菱、牡丹、松、茗荷などが多かったですが、茗荷(みょうが)が意外ですね。
 なお、これはあくまで『紋之泉』掲載の種類数をもとにしたものです。

 紋の世界も、また深遠です。




 護王神社

 所在 京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 吉野竹次郎『紋之泉』洛東書院、1926年


大丸に信仰された瀧尾神社は、京都には稀有な濃密彫刻に満ち溢れている

洛東




瀧尾神社


 大丸・下村家の社殿造営

 伏見街道(本町通)に沿って建つ瀧尾神社。
 前回<絵馬堂が意外におもしろい!>で、デパート・大丸を創業した下村家に信仰されたことを紹介しました。

 瀧尾神社
  瀧尾神社 本殿

 下村家は元は伏見の商人で、彦右衛門正啓が京都への行商の途次、この瀧尾神社に参拝し、その後、功成って大丸を発展させたという話です。

 『大丸二百五拾年史』によると、下村家による瀧尾神社の社殿造営は、まず正啓の時代、元文3年(1738)~延享2年(1745)に行われました。
 その後、天明7年(1787)、天保9年(1838)にも修造されます。
 社史には、天保の造営に際しての「寄附帳」が掲せられています。なんの寄付かというと、神社の社殿を建てるのに、下村家の資金だけで行うのではなく、広く取引先などから寄付を募ったのでした。
 すべてあがっているのか分かりませんが、150ぐらいの関係者が記されています。地域的にも広く、大坂、奈良、近江などはもちろん、江戸や上州、武州もあり、米沢や福島もあります。多くの人は金何両、銀何貫と寄付していますが、鰐口や狛犬、手水鉢の寄付もあります。これは今も残っていて、下の写真は手水鉢です。

 瀧尾神社
  手水鉢

 瀧尾神社

 裏面に「天保十一庚子年/正月吉辰/奉納之」とあり、その左の奉納者の部分は、写真が切れていてよく見えませんが、「西江州高島/敦賀屋権三郎」と刻まれているようです。
 社史には、この手水鉢の奉納者として、近江高島(現在の滋賀県高島市)の敦賀屋権三郎、炭屋利兵衛、川越吉右衛門の3名をあげています。近江商人ですね。
 ちなみに、近江の高島は、デパート・高島屋の名前の由来になった地名なんですね、ここでは少し違和感がありますが……


 手水舎の彫刻

 この手水鉢が据えられている手水舎です。

 瀧尾神社
  手水舎

 天保11年(1840)に建てられたものです。
 入母屋造の立派な手水舎で、細部はさらにこっています。

 瀧尾神社

 まず、妻飾り。
 三角形の頂点の部分(拝み)、ふつう蟇股が付けられているところに菊の彫刻が取り付けてあります。かなり動きのある菊花と菊枝で、その下は流水のようですから、菊水の図柄ということになります。

 瀧尾神社

 こちらは桁行の虹梁上の彫刻です。動物なのですが、牛なのか何なのか、いまひとつ判然としません。
 横から見ると、

 瀧尾神社

 顔が前方に飛び出しています。
 結構リアルですけれど、想像上の動物かも知れません。

 その後ろには、

 瀧尾神社

 これは麒麟かなぁ……、なんといっても虹梁に噛み付いているのが恐いですね。
 この“やりすぎ”感が瀧尾神社の彫刻のおもしろさと言えるでしょう。

 木鼻は、獅子です。
 足元にあしらわれている植物は、笹と梅でしょうか。

 瀧尾神社

 なんとも、楽しめますね。


 拝殿には、龍が!

 瀧尾神社に南側の鳥居から入ってみます。

 瀧尾神社

 そうすると、目の前に入母屋造の拝殿が聳え立っています。

 瀧尾神社
  拝殿

 こちらも天保11年(1840)築で、方一間の舞殿風の建物です。
 しかし、なにげなく中をのぞいてみると……

 瀧尾神社

 天井に何やら張り付いています!

 丸彫りの巨大な龍でした。

 前回登場したおじさんと一緒にこの龍を眺めていると、近所の男性も寄ってきて、自慢げに語られます。「専門家は、クヤマシンタロウという人が彫ったと言っている」と教えてくれました。『京都府の近世社寺建築』によると、この神社の施工にあたった大工は千切屋卯兵衛、大和屋杢兵衛ら、彫刻師は工山新太郎らといいます。この工山新太郎が男性が教えてくれた人物ですね。

 瀧尾神社

 頭部がかなり大きく、渦巻く雲も一緒に彫られています。
 爪も迫力!

 瀧尾神社

 おじさんによると、以前は金網か何かが掛けられていて、よく見えなかったそうで、近所の人でも余り知らなかったといいます。
 今では立派に整備されて、誰でも拝殿に上がって間近かに拝見することができます。

 禅寺などで、鏡天井に描かれた龍はよくお目にかかりますが、この彫り物はすごいですね。


 本殿の回りは、もっとすごい !!

 いよいよ本殿にお参りするのですが、ここからが本当の見どころです。

 瀧尾神社
  本殿・幣殿・拝所・廻廊

 本殿まわりは複雑に建物が建っています。
 右端の屋根(唐破風)が拝所、つまり参拝するところですね。その左の切妻の屋根が幣殿で、拝所と本殿をつないでいます。一番左端が本殿(一間社流造)です。また、手前の瓦葺の屋根のあたりが廻廊で格子が入っていますね。

 このように天保10年(1839)に造営された本殿-幣殿-拝所と東西の廻廊がよく残っています。
 ここに、京都では余り見掛けない、江戸後期らしい彫刻群が存在するのです。

 まず、例のおじさんに「見てみ」と言われたのが、廻廊の欄間に彫られた十二支の彫刻です。

 瀧尾神社
  子、丑

 瀧尾神社
  寅、卯

 瀧尾神社
  辰、巳

 瀧尾神社
  午、未

 瀧尾神社
  申、酉

 瀧尾神社
  戌、亥

 一面に2つずつ彫られています。子から巳までが東回廊、午から亥までが西廻廊です。
 二匹ずつなので、トラはウサギを襲おうとし、リュウとヘビは対決模様とか荒々しいですが、ウマとヒツジは穏やかそうです。
 イヌには仔犬が2匹いて、親にはお乳まで細かく彫られています。
 サルは柿? をもいでいるところで猿蟹合戦風?? でおかしい。
 イノシシと取り合わせの植物は、牡丹でもなく萩でもなく、梅ですね! 

 お参りする拝所です。

 瀧尾神社
  拝所

 十分立派な造りですが、細かいところには驚きです。

 瀧尾神社

 虹梁上には、松に鶴や鳳凰といった彫り物が。
 内側をのぞくと、

 瀧尾神社

 大瓶束(たいへいづか)の結綿(ゆいわた。梁を噛んでいる部分)が、鳳凰に! ちょっと前代未聞な感じですね。

 さらに、本殿側を振り向いてみると、

 瀧尾神社

 彫刻の海ですね !!
 上段には龍や象、下段には雁や鴛鴦などと思われる鳥類や、亀、植物類が、所狭しと彫られています。
 彫り物が多彩な門を「ひぐらし(日暮)門」などと言いますが(見ていると日が暮れてしまうので)、この拝所も“日暮し”ですね。

 なかでも、私の一番のおすすめは、これです。

 瀧尾神社

 大瓶束そのものが、象になっているんですよ。象鼻ならぬ、“象瓶束”ですね、これは……

 天沼俊一博士は、大徳寺唐門(桃山時代)の大瓶束の結綿が獏(ばく)に変化したものを紹介し、さらに江戸時代になって鬼に変化したもの(日光東照宮や善光寺)を紹介されています。
 瀧尾神社の鳳凰や象も、そのような動物化の一例ですが、象は胴体まで彫られ、リアルすぎて唖然とします。

 最後に、ひとつ。

 瀧尾神社

 拝所の斗上に隠れたウサギ。
 ちょっと可愛いけれど、白い眼が不気味という説も……

 大丸・下村家の財力とネットワーク、そして彫刻師たちの鬼気迫る想像力で完成した、恐るべき彫刻群。
 ぜひ一度、現地でご覧ください。




 瀧尾神社 (京都市指定有形文化財)

 所在 京都市東山区本町
 拝観 境内自由
 交通 JR・京阪「東福寺」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 大丸二百五十年史編集委員会『大丸二百五拾年史』大丸、1967年
 『京都府の近世社寺建築』京都府教育庁、1983年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年  


絵馬堂が意外におもしろい!(7) - 瀧尾神社 -

洛東




瀧尾神社絵馬舎


 伏見街道に面した瀧尾神社

 京都の市街と伏見を結ぶ伏見街道。本町通とも呼ばれ、「本町」は町名にもなっています。
 伏見と京都市街とは意外に近くて、例えば三条大橋から伏見稲荷大社へ歩いてみると、ほぼ1時間、1里(約4km)の道程です。
 国立博物館や三十三間堂のある七条通を渡り、JR東海道線を越えてしばらく南へ行くと、通りに面して瀧尾神社が建っています。

 瀧尾神社
  瀧尾神社  藤森神社の祭礼の準備が行われていた

 石鳥居は西向きです。別に、南向きの朱塗りの鳥居があり、そちらが正面ということになるのでしょう。
 この鳥居の右側(境内の南西隅)に、絵馬舎があります。


 こぢんまりとした絵馬舎

 切妻造の屋根に、組物も舟肘木という簡素で小さな絵馬舎。

 瀧尾神社絵馬舎
  瀧尾神社 絵馬舎 北側より

 瀧尾神社絵馬舎
  南側より

 これまで、北野天満宮や八坂神社、今宮神社など大規模な絵馬舎を見てきました。それらは桁行も六、七間、屋根も入母屋造だったりしましたが(八坂、今宮)、それに比べると、かなり小ぶりで簡素です。桁行二間、梁間一間。もちろん、神社の規模に照らし合わせると、程よい造りだと思います。

 この建物は、天保11年(1840)に建てられたものなので、細部には少し“おっ”と思うところがあるのです。

 瀧尾神社絵馬舎
  象鼻

 貫(ぬき)の突き出した部分、木鼻ですが、これがゾウの形をした「象鼻」になっています。
 ハナが「の」字になっているうえ、表情も、どうでしょう少し笑っているように見えませんか? 江戸時代のゾウの絵画などを見ると、なぜか笑っているような顔を見掛けますけれど、これもその仲間でしょうか。
 木鼻はおもしろいので、いずれ特集するとして、今日は掛かっている絵馬を見ていきましょう。


 少年少女の習字は何を書く?

 絵馬舎の内外には、十数面の絵馬が掲げられています。興味深いものも多いのですが、退色も進んでいます。

 瀧尾神社絵馬舎

 今日は、2種類ほど紹介したいのですが、まずはこちら。

 瀧尾神社絵馬舎

 昭和7年(1932)4月に、角熊嘉一郎という人が奉献した「少年一字書」と題した絵馬です。
 額はガラスがはめられていて、その中に少年少女が書いた習字が貼付されています。
 左半分は痛みが激しく、剥がれていて読めません。
 彼らの年齢は、見える部分で8歳から18歳までと幅広く、名前も記されています。

 では、何が書かれているのでしょうか?
 戦前にお生まれの方なら、すぐに分かるのではと思います。

 「身体髪膚、これを父母に受く……」

 暗唱された方も多いと思いますが、「孝経」の有名な一節です。儒教の道徳として重んじられる「孝」の概念を示したものです。

 身体髪膚 受之父母 (身体髪膚[はっぷ]、これを父母に受く)
 不敢毀傷 孝之始也 (あえて毀傷せざるは、孝の始めなり)
 立身行道 揚名於後世(身を立て道を行い、名を後世に揚げ)
 以顕父母 孝之終也 (もって父母を顕す、孝の終わりなり)


 額をよく見ると、中央に「孝経」と大書されています(横に「経孝」)。

 瀧尾神社絵馬舎

 孝経の字数は33字。紙を貼るスペースは6×7=42あります。
 中央に「孝経」と大書して場所を占めていますが、最後の行には余りがあるようです。最終行の一番上の文字は「之」のようなので、あとは「終也」。3文字分、他の何かが書かれていたのでしょう。

 少年少女に諳んじさせた孝経の句を習字して奉納するのはありそうな話ですが、それにしても額も立派で、少し考えさせられます。

 奉納者は「角熊嘉一郎」と記しているのですが、これは誰なのでしょうか?


 酒屋さんが奉納?

 手近かにあった『大阪市京都市神戸市名古屋市 商工業者資産録』(明治35年)というものを調べてみました。
 すると、「角熊治兵衛」という名前があったのです。次のように記載されています。

 角熊治兵衛
 下[下京区]本町一ノ橋下ル  酒醤油小売  商号花治  天保十四年[1843]十二月生 


 一ノ橋は、伏見街道に順番に架けられていた橋のうちの第一橋で、東福寺駅の北にありました。別の史料で、角熊家は本町11丁目にあったと分かります。

 ということで、現代の地図を調べてみると……

 なんと、瀧尾神社の真向いに「つのくま」さんという酒屋さんがあるのでした!

 現地を訪れたときは、さすがに気付きませんでした(見ていたのですが……)。

 『商工業者資産録』の治兵衛氏は、天保14年(1843)生まれですから、絵馬が掲出された昭和7年(1932)には亡くなっていたかも知れません。
 そこで、『昭和五年版 大日本商工録』(1930)を見てみると、「和洋酒類(醤油味噌)」の項に「角熊孝治」という名前が出てきました。ただ、こちらも絵馬にある「嘉一郎」ではありませんね。

 慎重に考えると、嘉一郎氏は酒屋の角熊家の人かも知れないし、その親類の人とも思えます。決定打へは、もうひと調べ要りそうです。


 大丸の奉納絵馬
 
 瀧尾神社の絵馬舎で、ひときわ目につくのは、何枚も掲げられた大丸の店舗の絵馬です。

 瀧尾神社絵馬舎

 瀧尾神社絵馬舎

 上の方は、絵馬舎の外に掲げられたものです。うっすらとした文字で、宝暦年間の店舗のようすを写したと記されています。絵馬自体は近代のものなのでしょう。
 下の方は、内に掛けられたもの。のれんに大丸の印が入っています。残念ながら、いつのものかは分かりません。
 
 おもしろいのは、外に掛けられた写真絵馬です。

 瀧尾神社絵馬舎

 厳重に金網が張ってあります。
 この絵馬は、宝暦の様子を写した絵馬の右隣に掛かっていますから、当然ながら大丸の店舗だと想像が付きます。
 念のため、調べてみました。

 瀧尾神社絵馬舎

 大丸が、京都・四条高倉の場所(現・京都店)に店を建設したのは、明治45年(1912)10月のことでした。
 しかし、大正10年(1911)8月16日、この店舗は火災で全焼してしまったのです。
 それから数年、仮店舗での営業が続いたのですが、大正15年(1926)に4階建の東館を建設し、つづく昭和3年(1928)11月には6階建の壮麗な店舗を建設しました。いわゆる「御大典記念」というわけです。

 これは大阪店も設計したW.M.ヴォーリズの手になるもので、現在でも高倉通側の東壁面や内部にその意匠をとどめています。
 写真で見ると、四条通に開いた正面玄関が、2フロア分を大きく取っていて目立ちますね。


 下村家の篤い信仰

 肝心の、なぜ大丸がここに多数の絵馬を奉納しているかということ。
 
 境内を見ていると、近所のおじさんに話しかけられました。絵馬のことを言ってみると、

 「昔、大丸の下村さんが京都の店に通う時、毎日ここを歩いて行ったんや。その道すがら、このお宮さんに 『私の商売が大きくなったら、立派な社殿を建てますさかいに』 と拝んでたんや」

 という感じで、詳しく教えてくれました。

 そんなことで、大丸の社史を調べてみると、次のように記されています

 大丸は、下村彦右衛門正啓が、享保2年(1717)に伏見で呉服店を開いたことに始まります。
 家伝によると、家業の古着商を継いだ正啓は、京都へ行商に出向きます。その行き来に、沿道にあった瀧尾神社に詣で、商売繁盛、家運隆盛を祈願したといいます。
 社史には、彼の誓いの言葉が記されています。

「日々の商売繁盛の外に我らをして代々に必ず千人の長とならしめたまへ、この願ひだに成就いたさば如何様にも社殿を修め祭祀を厚くして神慮に報ひ奉らん」(『大丸百二拾五年史』7ページ)

 最初にふれたように、京の町までは約1里の道のり。十分行商に行ける範囲です。

 その後、成功した正啓と子孫たちは、瀧尾神社に感謝して、繰り返し社殿造営を行っています。最後に造営された天保年間の社殿については回を改めて紹介するとして、2つの名残を見ておきましょう。

 瀧尾神社 稲荷社

 本殿右にある繁盛稲荷。提灯に「大丸繁盛稲荷」と記されています。

 瀧尾神社
 瀧尾神社

 石鳥居の左右にある石灯籠。裏面に「下村店」とあり、享和3年(1803)5月の銘があります。
 下村家の篤い信心がうかがえますが、それは社殿にも強く表れています。

 (以下、次回)




 瀧尾神社 絵馬舎 (京都市指定有形文化財)

 所在 京都市東山区本町
 拝観 境内自由
 交通 JR・京阪「東福寺」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 大丸二百五十年史編集委員会『大丸二百五拾年史』大丸、1967年
 本田富世彦『大丸史』京都縦横公論社、1932年
 『大阪市京都市神戸市名古屋市商工業者資産録』商業興信所、1902年(『都道府県別資産家地主総覧 京都編1、2』日本図書センター、1991年 所収)
 『昭和五年版大日本商工録』大日本商工会、1930年(同上所収)