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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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<まいまい京都>で、東福寺のツアーに行ってきました!

洛東




東福寺三門


 和気あいあいとした楽しいツアー

 とびとび連休初日の4月26日(土)、京都の町めぐりツアーを開催している<まいまい京都>さんのツアーに行ってきました。

 題して、《 建築史探偵団と東福寺へ! おもしろ伽藍進化論~進化する寺社建築!? たてものウォッチングの楽しみ方~ 》。

 ツアーの様子は、⇒ <まいまい京都 Facebook> で!

 テーマは、寺社建築。場所は、東福寺。

 私も折にふれて見学会や講座をやっていますが、まいまい京都は参加者が和気あいあいとしていて、とても楽しいですね!

  東福寺で解説中
   南大門で解説中

 年齢も20歳代から70歳代くらいまで幅広く、女性の方と男性の方もほぼ半々でした。京都在住でない方も多く、関東からの参加者も!
 いつも参加されている方は顔見知りのようですし、初めての方もすぐに溶け込める雰囲気です。
 2時間のご案内後、東福寺駅の近くで昼食をとりながら、いろいろ話せたのもよかったですね。

 東福寺は、隠れた“門の名所”なので、今回は門の話が多くなりました。みなさん、これまで門は「くぐるだけ」という感じだったと思いますが、ちょっと見直してもらえたと思います。門好きの私としては、うれしい限り。

  東福寺三門 東福寺三門の「太閤柱」

 例えば、豊臣家が補修した三門の「太閤柱」。この柱一本(というか4本あります)を見るだけでも、京都の寺社普請に苦労させられた豊臣家の心境がしのばれます……


 変わっていくから、おもしろい !!

 案内のベースにあったのは、建物は出来た時が「完成」なのではなく、使われ始めてから「変化」してゆき、いつまでも「未完成」であるところがおもしろい、というものです。
 なんといっても、生身の人間が使うわけですから、好き勝手に改築したり、大切に修理したり、よそから移築してきたり、どんどん姿を変えていきます。でも、そこが人間くさくていいんですね。
 昔の人には「文化財保護」なんていう概念はありませんから、古い建物にも手を入れていきます。

 東福寺浴室
  東福寺浴室

 例えば、この浴室も、かつては屋根が大胆に改造されていました。それが、昭和初期の解体修理で当初の形に復元されたのです。

             東福寺で解説中
              浴室前で解説中


 一風変わったテーマ「伽藍進化論」は、使う人の事情で「淘汰」され変わっていく建物の「進化」のさまを、じっくり考えてみようという趣旨でした。

 今までより近寄って建物を見て、細かいところを観察していくと、意外な事実への糸口が隠されていたりします。ぜひ、撫でるようにして見てみてください。

 参加者のみなさん、事務局のみなさん、ありがとうございました!
 また、お会いできることを楽しみにしています !!



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建築の言葉の海は広大なり(4) - がらり -

建築




がらり戸

 一般とは異なる建築の業界用語

 仕事の関係で、もう十年以上前でしょうか、建築関係の方たちと話をする機会が多かったのです。建築の研究者ではなくて、現場で設計・施工に携わっている人たちです。

 彼らの言葉には、いわゆる“隠語”、つまり業界用語が多くて、初めて聞くと全く意味の分からないものもありました。
 
 例えば、「タッパ」。

 これは、背の高さを示す語として、割と広く使われているようなのですが、完全な業界用語です。「タッパがある」と言うと、高さが高い、という意味なのです。
 漢字では、「立っ端」「建っ端」などと書くそうですが、耳で聞くと全然理解できませんでした。

 あるいは、「チョウバン」。

 これは「蝶番」(または「丁番」)で、ふつうには「チョウツガイ」と読みますけれど、建築の人たちは皆「チョウバン」と言い習わしていました。

 どの業界にも隠語は多数ありますが、建築界はその宝庫といえます。


 副詞か、名詞か?

 今回取り上げてみたい用語は、「がらり」です。
 これも当時よく耳にした言葉でした。

 一般には、「戸をがらりと開ける」とか「態度ががらりと変わる」というふうに、副詞として使いますね。少し擬音語のような趣もあります。
 けれども、建築の世界では「がらり」を名詞で使います。

 この洋館。

 新島旧邸
 新島旧邸(上京区、明治11年(1878)竣工、京都市指定文化財)

 明治時代の洋風住宅で、まわりにベランダのあるコロニアルスタイルの家屋です。同志社の創設者・新島襄・八重夫妻が住んでいました。
 構造的にも細部を見ても和洋折衷の建築となっていますが、窓や戸口には洋風の同じ扉が付けられています。

 がらり戸

 通常、この種のものは「鎧戸(よろいど)」と呼びますね。
 下向きに重なるように付けられた板が、よろいのように見えるからです。

 ところが、いつもの中村達太郎『日本建築辞彙』で「よろい戸」を引いてみると、「 『がらりど』ヲ見ヨ」と書かれています。

 はて、「がらり戸」とは?


 「がらり戸」とは?

 がらりど(がらり戸)
 がらり付ノ戸ヲイフ。又略シテ「がらり」トモイフ。
 人ニヨリ之[これ]ヲ「鎧戸[ヨロヒド]」又ハ「錣戸[シコロド]」トモイフ。(85ページ)


 がらりが付いている戸だから、がらり戸。
 そのままの説明ですが、別名「鎧戸」、または、かぶとの錣(しころ)に似ているので「錣戸」ともいうと述べています。
 では、「がらり」には何と説明してあるのでしょうか。

 がらり
 羽板[ハイタ]ヲ取付ケタルモノヲイフ。「はいた」ヲ見ヨ。


 とあるのですが、先を続けてみておくと、

 「がらり」ハ臭気抜ノ為メ、雪隠上ナドニ設ケラル。又、日除[ヒヨケ]ノ為メ、窓ニ設置サルルコトアリ。
 昔ノ「切掛[キリカケ]」ト称セシモノハ、羽板付ノ目隠塀ニシテ、即チ「がらり」ナリ。(84-85ページ)


  がらり戸の図(『日本建築辞彙』)
   がらり戸

 最初の部分が、羽板を取り付けた「もの」、という漠然とした語釈ですが、窓でも戸でもその他でもよいということでしょう。
 
 はいた(羽板)
 鎧板、錣板、がらり板ナドノ別名アリ。幾枚モ相離シテ斜ニ取付ケタル板ヲ云フ。其目的ハ空気ノ流通ヲ自在ナラシメ、若[もしく]ハ日光ノ直射及ビ雨ヲ遮ルニアリ。
 羽板ハ嵌殺[ハメコロシ]ノモノト開閉シ得ルモノトアリ。(後略)(16ページ)


 何枚もの羽根のような板を、斜めにして取り付けたものですね。つまり、このような状態です。

  がらり戸

 がらりを付ける目的もうなずけます。
 雪隠(トイレ)の換気口に付けて、臭気を抜く。窓に付けて、直射日光を避ける、など。
 新島邸の写真でも、開放したがらり戸の内側にガラス窓がはめられており、がらりは日光遮断の目的であることが分かります。もちろん、カーテンと違って風が通りますから、好都合なのです。
 私の仕事関係者は、通風口のことを「がらり」と呼んでいた気がしますが、納得できます。

 参考のため、現代の建築辞書の説明を引用しておきましょう。

 がらり louver
 羽根をすきまをあけて羽重ね状に並べて取り付けた建造物。→ルーバー

 ルーバー louver;louver boards
 薄くて細長い羽根板を平行または格子状に組み、開口部や照明器具に設けて、視線や風・光の方向を調節するスクリーン。→がらり、ブリーズソレイユ


 現在では、カーテンやブラインドが普及したので、重厚ながらり戸はほとんど用いられなくなりました。
 それでも、阪急電車に乗ると、今でも窓に銀色のがらりが付けられていて、伝統を感じますね。

 結局、がらりの語源はよく分からないのですが、職人ぽい面白い言葉だと思いました。




 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年
 中村達太郎『日本建築辞彙[新訂]』中央公論美術出版、2011年
 『建築学用語辞典』岩波書店、1993年


【大学の窓】京都で歴史を学ぶ大学生の出身地 2014

大学の窓




サイエンス


 非常勤で出講している京都・上京大学(仮称)の日本史専攻。
 昨年度、学生たちの出身地を集計しました。性懲りもなく、今年もまたやりました!

 対比して紹介してみましょう。
 左が今年(2014)、右が昨年(2013)です。

 【北海道・東北】 3名-3名
  北海道 2-1
  岩手  0-1
  山形  1-0
  福島  0-1
 【関東・甲信越】 7名-11名
  群馬  0-1
  栃木  1-0
  茨城  0-1
  千葉  0-1
  東京  1-1
  神奈川 1-1
  山梨  0-1
  新潟  1-1
  長野  2-2
  福井  1-0
 【東海】 9名-11名
  静岡  5-2
  岐阜  1-2
  愛知  2-6
  三重  1-1
 【関西】 31名-28名
  滋賀  3-2
  京都  6-6
  大阪  13-10
  奈良  1-2
  兵庫  8-8
 【中国・四国】 8名-8名
  岡山  1-2
  広島  3-2
  鳥取  1-0
  山口  1-1
  香川  0-1
  愛媛  1-1
  高知  1-1
 【九州】 7名-10名
  福岡  3-6
  大分  1-2
  長崎  0-1
  熊本  2-1
  鹿児島 1-0
 【海外】 2名-2名
  中国  2-1
  フランス 0-1

 昨年は73名、今年は67名。
 
 関東が減りましたね。大学当局の分析でも、年々“西高東低”になっているそうです。先生にその理由を尋ねたのですが、それは覚えてない(笑)そうで、なぜ関西や西日本が多いのか、不明です。
 私が入学した頃(30年前)は、それなりに東日本の学生も多かったのですけれど。

 京都市内にある大学にもかかわらず、京都府出身は6名で、うち京都市は3名。僅か4%! 京都の人こそ、京都の歴史を学んでほしいと思うのですが…… 貴重な文化財が身近にたくさんありすぎて、かえって興味がわかないのでしょうか?

 その中で、今年うれしかったのは、鹿児島の学生が1名いたこと(意外に鹿児島派です)と、愛媛の学生が八幡浜出身だったこと(以前、調査に行ったことがある)。

 かつて柳田国男は、初対面の人には決まって出身地を聞いたといいます。「なまりは国の手形」ではないですが、自分が郷里で得たものを持ち続けながら、新しい環境で暮らすことは大切なことです。

 他郷から京都に来てくれた若い学生たちに、エールを送りたいと思います。
 


建築の言葉の海は広大なり(3) - 輪薙込、唐居敷、柄振板 -

建築




唐居敷


 「輪薙込」という難読用語

 東福寺の門を調べている中で、「輪薙込」という言葉に出食わしました。
 文字づらも難しい上、読み方も分かりません。
 辞書を調べると、「わなぎごみ」と読むらしいのですが、難解な語です。

 輪薙込
  輪薙込(東福寺六波羅門)

 ずいぶん前に、中村達太郎博士の『日本建築辞彙』から面白い用語を紹介しましたが、また久しぶりに気になった言葉をピックアップしてみましょう。

 その「輪薙込」ですが、中村博士は次のように解説されています(明治40年の訂正3版より。句読点などは適宜補足)。

 わなぎこむ(輪薙込)
 一[ひとつ]ノ木ヲ他木ニ食[は]マスコト。
 図ハ、ニ輪薙込ミタル形ナリ(後略)(71ページ)


 『日本建築辞彙』より「輪薙込」
 「輪薙込」(『日本建築辞彙』より)

 ここでは動詞として掲出されています。
 図でよく分かりますが、タテの材にホゾを作って、そこにヨコの材をはめ込んでいる、という形です。
 上の写真(六波羅門)でいうと、中央の丸柱にホゾが刻まれ、蟇股、男梁、女梁がはめ込まれているわけです。ホゾも随分深いのでしょう。
 <ひとつの木が他の木を食む>という表現は、なかなか味わい深いですね。


 「唐居敷」とは?

 門の解説を読んでいると、さらに難解な言葉が出てきます。

 唐居敷。

 これは、読めないし意味も分かりません……

 調べてみると「からいしき」というそうです。
 再び中村博士の説明です。

 からゐしき(唐居敷)
 薬医門ナドニ在テ、伏図ハ矩形[くけい]ヲナシ、敷石面ヨリハ突起シ居ル石ニテ、門柱ヲ受ケ、且[かつ]扉ノ軸ヲモ支フルモノナリ(後略)(83-84ページ)


 『日本建築辞彙』より「唐居敷」
 「唐居敷」(『日本建築辞彙』より)

 写真で見ると、こんな感じです。

 唐居敷
  唐居敷(東福寺南大門)

 この門の場合、最も下に広い基壇があり、その上にごく薄い敷石が延べられ、そこに長方形をした花崗岩の唐居敷が置かれています。
 ここでは、一枚岩ではなくて、拍子木のような形の石を2つ並べています。
 唐居敷の上には、門の丸柱(本柱)が載せられ、その左には扉の軸が差し込まれています。

 唐居敷
  写真の左が門の内側になる
  
 拡大すると、このようになっています。
 中村博士の解説では、唐居敷は「薬医門」によく用いられているように読めますし、材質も「石」に限られるような書き方です。
 実際には、上の写真にあげた東福寺南大門は四脚門ですから、薬医門ばかりというわけではないようです。
 また、石以外の素材もあって、

 唐居敷
 厚板の唐居敷(東福寺北大門)

 木の板の場合もあります。上の写真では、拍子木状の厚板2枚を横に並べ、その上に板を打ち付けています。
 ちなみに、この門も四脚門です。

 このような例も多いので、復刻版の『日本建築辞彙』では、薬医門を単に「門」に改めるとともに、素材も石に加えて「厚板」をあげています。


 塀に付ける板の名は?
 
 門にまつわる名前でもうひとつ。
 門には、その左右に塀が続いているのが一般的ですね。その塀の末端(門側)に、弓型のカーブを描いた板が付いていることがあります。

 えぶり板
 東福寺南大門

 蟇股にも似た曲線を持つこの板。いったい何という名称なのでしょうか?

 答えは、えぶり板。

 知らなければ、全く推測できない名前です。
 三たび、中村達太郎博士の解説を聞いてみましょう。

 えぶりいた(柄振板)
 絵振板、又ハ恵振板ト書クヲ普通トス、然レドモ予ハ柄振板ノ文字ヲ採用セリ、蓋[けだし]農具中ニ柄振ト称スルモノアリ、竿[さお]ノ端ニ板ヲ附シタルモノニテ、支那ニテ之ヲ朳[はつ]トイフ、サテ建築家ノ所謂柄振板ハ塀、又ハ出桁[ダシゲタ]等ノ端ヲ隠スタメニ取設ケタル化粧板ニシテ、農具ナル柄振ノ竿端ニアル板ノ如シ、故ニ之ヲ斯ク称シタルナラン(後略)(229-230ページ)


 『日本建築辞彙』より「えぶり板」
 「えぶり板」(『日本建築辞彙』より)

 「えぶり」は「柄振」。その語源は、農具の一種に由来するという説明です。
 農具の図を見ると、軒の例の方が塀よりも納得できるような気がします。農具の長い柄のようなものの末端に板が付いている--というものが「えぶり」なわけですね。 
 この語源説、なんだかその通りのようでもあり、違和感があるようでもあり……

 言葉は、なかなか奥深いです。




 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年
 中村達太郎『日本建築辞彙[新訂]』中央公論美術出版、2011年


東福寺・六波羅門のことを『修理工事報告書』で調べてみた - 前回の予想は半分あたり、半分はずれだった!? -

洛東




東福寺・六波羅門


 『修理工事報告書』を読んでみた

 前回、東福寺の六波羅門を取り上げました。
 重要文化財に指定されている小さな門です。

 前回の疑問は、
(1)どう見ても「四脚門」なのに、なぜ「棟門」で指定されているのか?
(2)四脚門に見える袖柱(控柱)は、いつ立てられたのか?

 といったものでした。

 その後、修理工事報告書を閲覧できたので、そこに記されていた“事実”を紹介します。

 東福寺・六波羅門
  東福寺 六波羅門(重文・鎌倉時代)

 『重要文化財東福寺六波羅門 並びに東司修理工事報告書』。
 昭和53年(1978)に行われた六波羅門と東司(重文・室町時代)の修理工事についてのレポートです。
 戦前はともかく、現在では必ず、解体修理をはじめとする指定文化財の修理にあたっては、完了後にこのような報告書が刊行されます。真っ白な表紙にタイトルだけが記された、そっけない冊子ですが、個々の建造物について知るにはこれに勝るものもありません。写真や図面も多数掲載されています。


 いつ「四脚門」になったか?

 この報告書でも、六波羅門は、その構造形式として「棟門」と記載されています。棟門とは、左右の本柱の上に屋根を載せた簡素な造りの門です。
 ただし、「本柱円柱、控柱方柱」となっていて、控柱(袖柱)があることが明記されています。

 まず、この門についてのエッセンスを引用しておきましょう。

 六波羅門についても、資料が乏しいので詳らかでないが、様式としては鎌倉初期に属し、文明11年(1479)以前に描かれたと思われる伝雪舟筆の「東福寺伽藍図」には見当たらなく、正保3年(1646)の「境内古図」に始めて現れるが、今回の解体修理に於て発見した屋根丸瓦には、宝徳3年(1451)の箆[へら]書銘があって、鬼瓦も同時期の製作と思われる。
 また各木部取付け釘穴は3個あり、旧番付も発見されそれによれば、現在南向であるが西向の門であったことが判った。
 これ等よりみれば建立当初から室町時代に一度解体修理を受け、当初の棟門に転用材の控柱を補加し、四脚門としたものである。
 現在地の門は、前記文明11年から正保3年の間に、四脚門として移建したものと思われ、江戸時代に入って修理を受けていることも、化粧及び野物材の後補材によって判り、明治にも屋根葺替が行われたと推定出来る。(2ページ)


 要約すると、

(1)この門は、最初は別の場所に建てられていた、(2)そのときは西向きだった、(3)1451年に瓦の葺き替えなどの修理を受けている、(4)おそらくそのとき、控柱を付け足して「四脚門」のようになった、(5)その後、1479年~1646年の間に現在地に移築された、(6)移築したとき南向きに変わった

 ということのようです。

 東福寺六波羅門


 別の場所から移築された六波羅門

 六波羅門がいつ建てられたかは、はっきりとは分かりません。ただ、形式から鎌倉前期のものだと考えられています。
 例えば、懸魚(げぎょ)。

 東福寺・六波羅門

 梅鉢懸魚ですが、古い雰囲気を残しており、鎌倉時代の遺品とも考えられます。

 この門が元々建っていた場所は、具体的には不明なのですが、六波羅門と通称されていて、京都・六波羅にあった平家の邸宅(六波羅第)だったといわれています。ただ、このあたりは資料的には裏付けられないようです。
 木造建築は、今日私たちが思っている以上に移築されており、特に門は動いているものが多いのです。この門もその一例です。

 次に、元の場所では西向きに建っていたという点です。
 これがなぜ分かったかというと、材につけられた「番付」が証拠でした。
 番付とは、建築に使われる部材に振る記号や番号のことで、組み上げる際これを付けておくと、どこの位置に取り付ける部材かが分かるわけです。古風に、「いろは」とか「一二三」などを用い、墨で書きつけておきます。

 六波羅門の場合、男梁の下端に「南東」や「東北」という番付があったり、舟肘木の上端に「南」や「北」といった番付がありました。
 例えば、その「南」は現在門の東にあり、「北」は西にあります。つまり、元は90度時計まわりの向きで建っていたことが分かるのです。
 すなわち、西を向いて建築されていた門なのでした。

 このように、材に振られた番付は、建物が建っていた向きを推理する大きな手掛かりになります。



 元は棟門だった

 完成当初は棟門だったという点について見てみましょう。
 これは、2つのことから分かるようです。ひとつは、門の構造。もうひとつは、控柱とその周辺の様子からです。
 
 東福寺・六波羅門

 六波羅門には、丸い本柱が立っています。
 上部に行くと、女梁(めばり)、男梁(おばり)が本柱にはまり、さらに板蟇股がはまっています。本柱が、冠木を越えて板蟇股を挟み込んでいる様子がうかがえます。
 この形が、棟門の特徴です。本柱に梁や蟇股を挟み込むことによって、構造を安定させるのです。門柱が2本しかない棟門ですから、こういう工夫がなされています。ちなみに、柱の上部にほぞを作ってはめ込むやり方を「輪薙ぎ込」(わなぎごみ)というそうです。

 いまひとつは、材の風触です。
 控柱の最上部は男梁に当たっているのですが、元からこの形だと、男梁のその部分は風雨にさらされず綺麗なままのはずです。ところが、解体してみると、その部分に雨風にさらされて“くたびれた”様子がうかがえたのです(これが風触ですね)。ということは、元は控柱がなかったと推測できるわけです。
 これは、解体してこそ分かった事実ですね。

 これらの理由で、この門が完成当初は棟門だったと判明したわけです。

 また、控柱と本柱をつなぐ腰貫(こしぬき)のうち、北東のものに「東南」の番付が発見されました。これも90度回転していることが分かります。
 このことから、控柱も移築以前に設けられたことがはっきりしました。おそらく、宝徳3年(1451)の修理時に取り付けられたものと推測されています。


 解体修理で直したところ

 せっかくですから、昭和53年(1978)の解体修理の際に、直された部分を紹介しておきましょう。

 東福寺・六波羅門

 本柱(写真は東側)の下部は、腐朽していたので根つぎをして直されています(黄色の文字のあたり)。
 また、解体して分かったのは、礎石に方立(ほうだて)と扉の軸を差し込む穴が開いていたことです。扉の軸穴はともかく、方立の穴まで穿つのは珍しいそうです。

 東福寺・六波羅門
  西側の腰貫

 こちらは、控柱(西側)と腰貫です。西側の貫は、本柱側が腐っていたため、新材と取り換えられました。前回ふれたように、東側(下の写真)と比べると見るからに新しいです。
 東側のものは500年以上、西側のものは僅か30年余りですから、部材の風触のさまも随分と異なりますね。

 東福寺六波羅門
  東側の腰貫

 ちなみに、扉もこの修理までは破損して失われており、修理で取り付けられたのだそうです。

 というふうに、修理工事報告書を読むと、いろいろなことが分かります。
 前回の私の推理で、控柱が後補だったことは正解でしたが、それが天正の地震のあと秀吉によって付加されたものだった! という大胆推理は、大ハズレでした(汗)
 控柱を付けて四脚門にしたのも、意外に古かったわけです。

 こんなふうに、現地を見たり、報告書を読んだりすると、とても愉しめますね。
 建物で、いろいろと遊んでみましょう!

 東福寺・六波羅門





 東福寺 六波羅門(重要文化財)

 所在 京都市東山区本町
 拝観 自由
 交通 京阪電車「鳥羽街道」下車、徒歩約10分



【参考文献】
 『重要文化財東福寺六波羅門並びに東司修理工事報告書』京都府教育委員会、1978年
 『解説版 新指定重要文化財 11 建造物Ⅰ』毎日新聞社、1981年


鎌倉建築の東福寺・六波羅門は、修理を重ねて年を経てきた

洛東




東福寺六波羅門


 「伽藍づら」の東福寺

 かつて京都の臨済宗寺院には、寺の特徴を表すいろいろなニックネームがありました。
 お茶の世界と交流が深かった大徳寺は「茶づら[面]」、数多くの末寺を持ち経済基盤が安定していた妙心寺は「算盤づら」、そして山内の建物群が立派であった東福寺は「伽藍づら」と称されていました。

 確かに東福寺には、現存する伽藍からみても、国宝・重要文化財の建築が多数あり「伽藍づら」にふさわしい様相です。

 *三門(国宝・室町時代)
 *禅堂(重文・室町時代)
 *東司(重文、室町時代)
 *浴室(重文、室町時代)
 *月下門(重文、鎌倉時代)
 ★六波羅門(重文、鎌倉時代)
 ★十三重塔(重文、室町時代)
 ★偃月橋(重文・桃山時代)
 ☆二王門(重文・桃山時代…旧万寿寺)
 *鐘楼(重文・室町時代…旧万寿寺)
 *三聖寺愛染堂(重文・室町時代…旧万寿寺)
 ・常楽庵(重文・江戸)
 (※竜吟庵は除く)

 頭に記した印は、それぞれが国指定になった時代を示しています。
 *は明治時代、☆が大正時代、★が昭和戦後、 ・が平成です。主な建物のほとんどが、明治30年(1897)から40年(1907)の間に指定を受けていることが分かります。

 東福寺には、山内に入る外縁に数多くの門が設けられています。
 本町通(伏見街道)に面しては、北大門、中大門、南大門があり、いずれも京都府指定の建造物です。また、中大門を入った先にある日下門も府指定です。

 南大門をくぐり、坂を上ったところに2つの門があります。六波羅門と勅使門です。

 東福寺六波羅門
  六波羅門(左)と勅使門(右)  後方は三門

 勅使門は、巨大な三門と直角に口を開いています。桃山時代、天正18年(1594)の建築です(明治時代に移築)。この門も府指定です。
 一方、総門にあたる六波羅門は、もとは六波羅にあった平家の邸宅(六波羅第)の門を移築したものといわれ、鎌倉時代前期のものです。そして、周囲に置かれた門のうち、これだけが国の重要文化財に指定されています。
 東福寺全体でみても、鎌倉時代の建築は、この六波羅門と月下門の2棟だけで、貴重な建築となっています。


 戦後に重文指定された六波羅門 

 東福寺六波羅門
 六波羅門(重文)

 現在の六波羅門です。
 とても簡素で、隣の勅使門と比べても屋根の勾配がゆるくて、時代の古さを印象付けます。

 「都名所図会」(1780年)で、江戸中期の様子を振り返っておきましょう。

 「都名所図会」より東福寺
 「都名所図会」巻三より東福寺(部分)

 東福寺の伽藍は、明治14年(1881)の火災により、仏殿より北側は大きく姿を変えています。しかし、三門より南方は、現在と余り変わっていません。

 「都名所図会」より東福寺

 六波羅門と勅使門。
 勅使門は、現在、常時閉ざされていますが、当時はこのように柵があったのですね。
 一方、六波羅門の前には10段以上の石段があります。前の道路がかなり嵩上げされたことがうかがえます。

 この六波羅門、先ほどのリストでは昭和戦後の指定文化財となっていました(昭和28年=1953指定)。
 月下門と並んで、鎌倉時代の建造物なのに、かなり遅いのでは? と疑問もわきますね。

 この点について、藤原義一・京都帝大教授が昭和19年(1944)に出版した『京都古建築』を見ておきましょう。

 三門の前方少し西寄りに鎌倉時代と思はれる四脚門が一棟ある。
 円柱が冠木を貫き、その上端が妻の板蟇股を挟む、鎌倉時代の絵巻物などによく描かれてゐる門の実例である。
 破風も梅鉢懸魚も古く、屋根の巴瓦にも当初のものが残され、大疎棰[おおまばらたるき]の用ひ方にも特色があり、全体として雄健な力のこもつた調子は、月下門とよき対比をなすものであり、両者の建築としての性質、一は皇居の門、一は寺院又は武家邸宅に多く造られた門として見るとき特に興味深い。但しこの門は未だ国宝にも重美にもなつてゐない。(58-59ページ)


 鎌倉時代の貴重な遺構なのに、「未だ国宝にも重美にもなっていない」という藤原先生の嘆きが聞こえてきますね。
 確かに、地味な門なので、三門やら禅堂やらの陰に隠れて、戦前は見過ごされていたのでしょう。
 ちなみに、北大門、中大門、南大門や勅使門は、いずれも府指定文化財ですが、桃山時代の建築です。これが府指定とは、さすがに京都だと感心すべきなのかも知れません。

 東福寺六波羅門
 六波羅門(門扉を閉じたところ)


 指定では「棟門」に…

 東福寺六波羅門

 この門は、上の引用文でも「四脚門」(よつあしもん、しきゃくもん)と書かれているように、丸い本柱の前後に、角柱が立てられています。

 東福寺六波羅門
 門の左右に袖柱が立っている

 前後に、あわせて4本の角柱(袖柱とか控柱と呼ぶ)が立っているので四脚門と呼ぶわけです。
 この門は、どう見ても四脚門だと思うのですが、重文指定においては「棟門」となっています。

 ? と、考え込んでしまいました。

 で、いちおう考えてみた結果は、こんな感じです。

  東福寺六波羅門 東福寺六波羅門
  六波羅門の袖柱

 左の写真は、門の表、右側の袖柱のクローズアップです。節くれ立った少し粗悪な材が使われています。
 右は、門の内側、西の袖柱です。無数の虫食い穴が開いています。これも良材とは言い難い雰囲気です。

 このように、材に注目すると、どうもこの袖柱が後世に付け加えられたものではないかと推測できます。
 つまり、門ができた当初は2本の本柱だけで支える棟門だったけれど、時代が経つにつれて不安定になってきたため、支えのために袖柱で補強した、ということです。
 だから、門の形式としては、完成当初の棟門と記載されている、と考えてみました。

 さらに推理を重ねてみましょう。
 「都名所図会」の絵には、すでに袖柱は描かれていますから、江戸中期には四脚門のスタイルになっていました。
 では、どの時点で補強したのか?

  東福寺三門 三門の控柱

 三門の写真です。
 実は、三門にも、屋根の四隅を支える控柱(角柱)が立っています。これは「太閤柱」と呼ばれているそうで、地震による三門の傾きを豊臣秀吉の寄進によって修復した(天正13年=1585)際のものだといいます。

 想像をたくましうすると、その同じ時に六波羅門にも袖柱を付けて補強したのではないか? と、ここまで来るとあくまでイマジネーションの世界ですね(笑)
 

 まだまだ補強!

 とにかく、この六波羅門は補強のオンパレードです。

 本柱の下部や、後補の袖柱の下部も、さらに材を取り換えて継いでいます。
  
東福寺六波羅門
  袖柱の下部

 たぶん下の方は虫損か腐食が激しくて、どうにもならなかったのでしょう。

 門の表側の袖柱の写真。

 東福寺六波羅門
 右の袖柱の貫

東福寺六波羅門
 左の袖柱の貫

 袖柱と本柱は、貫(ぬき)という水平材で連結されています。
 左右の貫をよく見比べてみると、右の貫(写真上)はタテの材(袖柱)と同じ古さを醸し出しています。一方、左の貫(写真下)は、タテ材に比べてヨコ材の貫が明らかに新しい(それも結構最近)のが一目瞭然です。
 このように、ダメになった材は小まめに交換しているわけです。


 扉も交換!

 東福寺六波羅門

 この写真を見ると、本柱(丸柱)に比べ、扉の木材が新しいのがよく分かります。
 そうすると、扉も交換したのかぁ、と思いますよね。

 その通りで、昭和42年(1967)刊の下村泰一『門-京都-』には、「最近の台風で扉は破壊され、つるされていないが」と書かれています。
 「最近の台風」が何なのか、昭和36年(1961)の第二室戸台風なのか、昭和40年(1965)の2度にわたる台風か、さすがに分かりかねます(たぶん新聞を調べれば分かりそうですが)。
 いずれにせよ、昭和40年頃に扉は外れたわけで、現在のものはその後の修理によって取り付けられたものだということです。
 さらに同書には「相当痛んでしまったので、最近、竹矢来で閉鎖され通行できない」と書かれています。

 知らなかったけれど、たいへんだったんですね。
 お寺の伽藍の維持管理は、やはり苦労されます。東福寺では、昭和9年(1934)の室戸台風でも、三門の山廊(上層へ上る階段下の建物)がバラバラになったりと、過去にも被害を受けています。

 地震、火事、台風。
 あらゆる災害を乗り越えて、今日まで守り伝えられてきた伽藍。先人の努力に感謝です。


  東福寺六波羅門 六波羅門本柱の矢痕




 東福寺 六波羅門(重要文化財)

 所在 京都市東山区本町
 拝観 自由
 交通 京阪電車「鳥羽街道」下車、徒歩約10分



【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年
 下村泰一『門-京都-』京都府観光連盟、1967年



続・上方芸能の行く末 - 文楽・竹本住大夫さん引退公演 -

その他




国立文楽劇場


 劇場に行く前

 国立文楽劇場の四月公演は、「菅原伝授手習鑑」。文楽劇場開場30周年記念であるとともに、七世竹本住大夫引退公演と銘打たれています。初舞台から、実に68年。最後の公演です。

 出掛ける前、文楽劇場のウェブサイトに掲載された住大夫さんの「四月文楽公演の初日に」という挨拶文を読みました。
 「『桜丸切腹の段』はこれまで何度となくつとめ、好きな演目ですが、稽古をしますと、まだまだ足りないところがあります」と記しておられます。

 文楽に行くと、各段の最初に黒子が出てきて、「○○の段、相(あい)つとめまする大夫、竹本住大夫」などと口上します。「アイつとめまするたゆぅ、たけぇもと、すみぃたゆぅ~」という、この独特の節回しが文楽らしい情調を醸し出ます。思えば、大相撲を見に行っても、行事が「こぉなぁたぁ、○○ゥ~」といった節回しをしますが、長い興行のなかで自ずと培われ、先人の身に浸み込んだリズム感がここにはあります。

 それにしても「つとめる」というへりくだった述べ方は、たいへん興味深いものです。文楽に限らず、歌舞伎でも「役をつとめる」と言いますし、相撲でも「土俵をつとめる」と言います。
 この「つとめる」という意識もまた、長らく受け継がれてきた演者の精神であるのでしょう。


 公演まで

 午後4時開演にもかかわらず、2時半には文楽劇場に着いてしまい、少し写真を撮ったあと、辺りをぶらつきました。
 劇場から西へ行くと、日本橋筋一丁目の交差点、昔から地元の人は「ニッポンイチ」という、その交差点を渡って、千日前、難波高島屋前、戎橋筋と、ぐるっと回遊して歩きます。平日の昼間なのに人波は途切れず、往時見世物が行われ、廓の店々が立ち並んだ難波新地の喧騒を彷彿とさせます。
 もちろん、かつて難波新地で人形浄瑠璃が行われたわけではないでしょうが、おそらく発足まもない頃の人形浄瑠璃は、このような熱気の中で喝采を以て迎えられたことでしょう。その、よき意味での「大衆」の熱さがこの街には今も感じられます。
 文字通り老若男女が入り混じった喫茶店でコーヒーを啜ってから、再び劇場へ戻ります。

 千日前


 劇場にて

 平日にもかかわらず、人の入りはかなり多いようでした。やはり住大夫さんを最後に聴いておこうという方が多いのでしょう。
 「菅原伝授手習鑑」第二部は、粛々と進められましたが、「桜丸切腹の段」で住大夫さんが登場すると、割れんばかりの拍手が起こり、「待ってました、住大夫さん」の声が掛かって、住大夫さんが語り始めます。
 1時間ほどして、この段が終わると、また万雷の拍手に包まれて、住大夫さんは退いていきました。

 25分の休憩後、再び始まった公演は、なにか“腑が抜けた”ような雰囲気になったのです。

 文楽劇場の提灯


 帰路

 この四月公演は、平常よりもかなり来場者数が多くなるのは間違いないでしょう。
 しかし、よく言われるセリフを真似すれば、問題はそのあと、ということになるのも、また間違いありません。

 帰りの車中、つらつら考えたのです。
 すでに「古典芸能」となった文楽は、この先、どのように進んでいけばいいのだろうか、と。

 これを考えるには、観劇スタイルの問題と、上演内容の問題と、ふたつを考慮する必要がありそうです。いずれも、大きな変更を行ってみてもよいのではと思います。

 まず、観劇のスタイル。
 なんといっても、昼夜ニ部興行の限界。第二部が、午後4時から始まるような設定は、平日は勤め人の方に来るなと言っているのと同じです(第一部ももちろん行けません)。
 お芝居の二部興行は、椅子席と並んで、大正時代から昭和初期にかけて導入された制度で、当時では“現代的”な対応として生まれたものです。しかし、それから約百年間も変わっていません。

 やはり、第二部は午後7時から始めるべきです。終わりは、9時です。
 プロ野球のナイトゲームの多くは、午後6時プレイボールですが、球場にお客さんが揃うのは7時頃になります。野球は途中から見てもそれなりに楽しめますが、ストーリーのある演劇はそうはいきません。だから、7時開演なのです。
 帰途に就く時刻を考えると、終演は9時、もしくは9時半です。そうすると、上演時間は2時間から2時間半となります。

 文楽劇場看板

 このとき考えないといけないことが、上演内容の変更です。
 今日見た「菅原伝授手習鑑」では、有名な後半のクライマックス「寺入りの段」と「寺子屋の段」で、6時45分から9時までかかりました。2時間15分です。これなら、新しい夜の部の枠にちょうど当てはまります。
 こんなふうに、おもしろい段だけ上演する方法(見取り方式)もよいのですが、私は新作の“2時間ドラマ”を創作すればおもしろい、と思っています。
 この前、ここに書いた記事では、文楽が現代人に受け入れられるためには、物語で「共感」を得ることが大切だろうと述べました。

 ところが、今日見た「寺子屋の段」でも、少し首をひねるところがあります。
 松王丸は、自分の息子・小太郎を寺子屋へ送り込み、源蔵にその子を討たせて、菅原道真の息子・菅秀才の首として左大臣・時平へ提出させます。討たれた子供が実は松王丸の息子だったという事実が告白されるくだりは緊迫感があり、現代の私たちにも大きな共感をもたらします。
 しかし、その事実の告白のあとに、かなり長い時間を割いて野辺の送り(葬送)の場面が続くのです。松王丸夫妻が白い帷子を着て、息子の亡骸を送ろうとするところで物語は終わります。“このシーン、もう少しコンパクトにできないかな”と感じるほどの長さです。もちろん、長いということは、江戸時代の人々はこの場面に共感していたわけです。だから、たっぷり描くのです。おそらく当時は、亡くなった人を送る儀式が、現代に比べて重い意味を持っていたのでしょう。
 それはよく分かるのですが、文楽は歴史の勉強ではないのですから、ここは思い切って端折りたいところ。つまり、台本を書き直すのです。

 「タブー」に踏み込む考えだなぁとも思うのですが、事態はそれくらい深刻のようにも感じられます。
 現代にマッチした台本のリライト、つまり「新・菅原伝授……」のような話の創作。そして、まったくの新作の創造。もちろん、洋服を着た文楽人形はあり得ないので、舞台は江戸時代、つまり時代劇です。
 かつて藤田まこと演じる中村主水を主人公としたテレビドラマ「必殺仕事人」がありましたが、あのように、現代社会のネタを取り込んだ時代劇を作ってみる。そうすれば、私たちもおもしろく見られるし、共感できる物語になり得るのではないかと思うのです。

 消費税の関係で、文楽の1等席(一般)は6,000円になりました。4~5時間あるのだから決して高いとは思いませんが、安くもない値段です。これから、今までと同じようにやっていても観客数が増えるとは考えにくいし、文楽の理解者が増えるとも思えません。
 文楽を、大衆的な芸能から「古典芸能」化したのは現代社会の知恵だったと思いますが、古典芸能の存在意義すら理解しようとしない人が増えてきている現在、新しい観客を取り込んでいけるシステムや演目が必要ではないでしょうか。
 そのためには、かなり大きな変化にチャレンジしてみることが大切だと思います。「伝統」とは、ただ単に古いものを墨守することではありません。よい部分を守りながら、常に新しい試みを行い、時代と寄り添いながら生き続けていくことなのです。

 新時代を歩み出す文楽が、多くの人たちに受け入れられることを願ってやみません。



ご愛読ありがとうございます - 連載200回 -

その他




竜安寺石庭


 一昨年の8月12日からスタートした<京都発! ふらっとトラベル研究所>。

 おかげさまで、今回で掲載200本となりました。
 日頃のご愛読に、改めて御礼申し上げます。

 このブログでは、京都の寺社や史跡、京都に関する本、歴史や文化財についてのニュースなどを取り上げてきました。
 左のMENU欄に、取り上げた地域ごとの記事数をまとめています(地域名をクリックすると、一括して記事が見られます)。
 最も多いのが<洛東>の34本、続いて<洛中(上京)>24本、<洛中(中京)>21本、<洛中(下京)>15本などとなっています。

 トップの洛東は、鴨川の東側、東山区を中心とし、左京区の南部なども含んでいます。北は銀閣寺、岡崎公園あたりから、南は東福寺周辺まで含まれますから、たいへん広いうえ、有名寺社や観光スポットが集まっていますので、自ずと掲載数も多くなったのでしょう。

 ジャンルでいえば、やはり神社仏閣が多くなっています。自分では、8割くらいかな? と思っていたのですが、数えてみると5割にすぎませんでした。意外に史跡や名所、そして本の話題も多かったですね。

 ちなみに、過去の全記事タイトルは、画面右上隅の〝ARCHIVE”のタブ(ピンク色)をクリックすると出てきます。

 キーボード

 4月から、作業に使うパソコンも変更したのですが、Windows 8.1 になったので、操作に慣れず手間取る毎日……

 と言いながらも、次回からもさまざまな京都の歴史や文化にまつわる話題を取り上げていきます。
 ご愛顧よろしくお願い申し上げます。

 舞妓(「京都」より)  ほな、ひきつづき、よろしゅう頼んます



建築家の師弟が合作した祇園会館の壁画は、かぶき踊りのタイル画が見どころ

洛東




祇園会館


 築56年の祇園会館

 学生の頃、よく映画を見に行った祇園会館。
 ついこの前まで二本立てをやっていて、私も近くのコンビニで買ったビールを飲みながら気楽に映画を見ていたのですが、ついに閉鎖され、今ではお笑いの劇場になってしまいました。

 その祇園会館が開館したのは、昭和33年(1958)3月といいますから、56年も前のことです。
 昭和33年3月といえば、長嶋茂雄がジャイアンツに入団して金田正一から4打席4三振を喫した前月であり、このたび改築されることになった国立競技場が完成した同じ月です。

 祇園会館
  祇園会館

 このあたりは、江戸時代は近江・膳所藩邸があった場所であり、近代になっても付近は「膳所裏」と俗称されるところでした。東大路通も「こっぽり通」と呼ばれる狭い道だったのですが、現代ではクルマがひしめき合い、様変わりしました。
 祇園のうち「祇園東」の花街で(古くは祇園乙部)、祇園会館でも毎秋「祇園をどり」が開催されます。


 建物の設計は圓堂政嘉

 この建物の設計は、圓堂政嘉。難しい文字ですが「えんどう まさよし」と読むそうです。この字に改名する前は、遠藤正義だったといいます。圓堂建築設計事務所(現・エンドウアソシエイツ)を開いた建築家です。

 圓堂が得意とした手法は、カーテンウォールでした。カーテンウォールは「構造体の外周に直接取り付けられる薄い壁」のことで(『建築学用語辞典』)、建物の荷重を支えない外壁です。
 このカーテンウォールを用いた初期の作品が、山口銀行本店(1962年、下関市)で、彼の代表作でもあります。写真で見る限り、この建物はすごいですね!

 その圓堂が事務所を開いたのは昭和27年(1952)でしたが、その後しばらく各地でたくさんの映画館を設計しています。おそらくその経験が生かされ、祇園会館も造られたのでしょう。


 かぶき踊りのタイル大壁画

 この祇園会館で、ひときわ目立つのがタイル貼りの大壁画です。

 祇園会館
  祇園会館のタイル壁画

 8m×18mという大画面。
 この絵柄、歌舞伎の創始者として名高い出雲のお国と名古屋山三郎といいます。

 祇園会館

 祇園会館

 祇園会館

 扇や笠を手に持って踊る姿に躍動感があります。

 槍の名手として知られ、刃傷沙汰で若死にした山三郎と出雲のお国は、史実の上では関係ないそうですが、物語の世界では夫婦のようにも語られています。

 歌舞伎の発祥といえば四条河原で、祇園会館からも程近いため、このモチーフが選ばれたのでしょうか。

  出雲の阿国像
  出雲のお国像(四条大橋東詰)

 この見事なタイル壁画の作者は、建築家の中村順平です。

 明治20年(1887)、大阪市西区に生まれた中村順平は、名古屋高等工業学校を卒業後(第3回卒業生)、曾根中條建築事務所に入り、建築の道を歩み始めます。絵心があり、インテリアや客船の室内装飾に優れたセンスを発揮しました。
 戦後は、壁面彫刻や壁画に秀作を残しました。東京駅RTO(鉄道輸送事務局)待合室、横浜銀行本店、山口銀行本店の壁面彫刻が、彼の〝三大壁面彫刻”だそうです(『建築家・中村順平資料』)。
 一方、タイルを用いた壁画の代表作が、祇園会館の壁画です。

 建築教育にも熱心で、多くの弟子を輩出しましたが、実は圓堂政嘉もその一人で、「中村塾」に学んだのでした。
 中村は、建築と芸術との融合に腐心しますが、それは圓堂にも受け継がれ、ふたりの合作となったのが、この祇園会館でした。

 タイルの大壁画は、芸に命を捧げたお国と山三郎を描き出しますが、それはあたかも、建築は芸術であると信じた師弟、中村順平・圓堂政嘉ふたりの姿のようにも見えてくるのでした。




 祇園会館 

 所在 京都市東山区祇園町北側
 見学 タイル壁画は自由
 交通 京阪電車「祇園四条」より、徒歩約10分



 【参考文献】
 酒井一光『大阪歴史博物館館蔵資料集5 建築家・中村順平資料』同館、2009年
 日本建築学会編『建築学用語辞典』岩波書店、1993年
 エンドウアソシエイツ ウェブサイト


【大学の窓】入学式の季節

大学の窓




キャンパスの桜


 4月になり、キャンパスにも新入生を迎える季節になりました。
 その初日が入学式。

 やはり4月1日は、少し懐古的に自らの入学式のことを思い出します。

 私が大学に入学したのは、ちょうど30年前の4月でした。
 戦前に建てられた古い学舎の講堂は薄暗くて、なれないスーツを着た新入生たちが思い思いに座席についていました。
 そろそろ式が始まろうという頃、ヘルメットにマスクを着けた白衣の集団が、講堂の壇上に入ってきました。その数は十数人くらいでしたが、もう入学式という感じではなくなり、場内は騒然とした雰囲気に包まれました。
 彼らは、学生にビラを配り、なにやら演説を始めたのです。高校を出たばかりで大学の様子を解さない私は、その“乱入”に愉快でない気持ちを感じていました。もっとも、今では彼らの思うところもよく理解できます。

 白衣の集団の占拠は30分ばかり続いたでしょうか。突如、舞台袖から大勢の警察官が飛び出してきて、白衣の集団は蜘蛛の子を散らすように反対の袖へと走り出ていきました。

 そのあと、何事もなかったように、入学式は厳かに開始されたのです。


 1980年代当時、私の大学では校地移転に関して、大学側と学生自治会側とが対立していました。
 授業中、自治会の面々が前触れもなく教室に入って来、授業が中止されたこともあります。キャンパスがバリケード封鎖されて授業が数日間なくなったこともありました。
 校地内には、ゲバ文字の立て看板が林立し、スピーカーによる演説もしばしば行われていました。

 それから30年。
 そんな“やんちゃ”をする学生もいなくなり、大学側が大学を「管理」することも当たり前になって、立て看板もゲバ文字もなくなりました。キャンパスは綺麗に整備され、少し恐い先輩たちが煙草をくゆらせながらマージャンをしていたクラブのボックスも取り壊されました。

 私たちは、学生運動の時代から後に学生生活を送った世代ですから、かなり“軟弱”だったと思います。それでも、バンカラの気風はまだあったし、思想的な関心も強かったと記憶しています。

 そんな元学生からすると、博士号でさえコピペして取得してしまう現代の学生に、「1」のキーが壊れて打てない中古ワープロをカタカタ操作していた、バンカラな旧友Nの生きざまを教えてやりたい気がするのです。

 キャンパス風景