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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

桜の開花と「生物季節観測」

その他




建仁寺の桜


 桜の開花、京都の平年は3月28日

 桜が開花する季節になりました。
 京都では今年(2014年)の開花は3月27日で、平年より1日早かったそうです。
 昨年(2013年)は3月22日で随分早かったようですが、最速記録は3月18日(2002年)です。
 逆に最も遅かったのは、4月9日(1984年)。この年は、私個人にとっても印象深い年だったのですが、桜が遅かったことは全く覚えていません。ひとの記憶は、頼りないものです。

 京都での桜の満開は、平年が4月5日ですので、今年は4月4日頃になりますね。

 建仁寺の桜



 「生物季節」を観測する

 気象庁で、植物や動物の変化を観測することを生物季節観測というそうです。
 全国で同じ動植物(規定種目)を観測したり、地方独自の動植物(選択種目)を調べる場合もあります。

 ウメやアジサイの開花、イロハカエデやイチョウの紅葉(黄葉)と落葉、ウグイスやアブラゼミの初鳴、ツバメやホタルの初見など、さまざまな種類があります。

 京都地方気象台では、17の植物と10の動物(鳥、昆虫)を観測しています。

 そのリストを見て、懐かしかったのが「モズの初鳴き」。
 子供の頃、私の家の周りには田畑が多く、竹藪の竹の梢に留まったモズが、キーキーと高い声で鳴いているのをいつも見ていました。
 今では、この鳥もほとんど見掛けることがありません。
 京都では、トノサマガエル(初見)が観測対象から外されたそうです。カエルもそうだし、カタツムリも見なくなりましたね……

 生物季節の観測は、観測機器を用いず、気象庁の職員が「目視」や「聴覚」で確認します。
 桜の場合、ソメイヨシノなどの標準木を対象に、5~6輪のつぼみが開けば開花、全体の80%以上が開けば満開となります。

 自然は変わらないと思いがちですが、都市部では意外に変化が激しいようです。知り合いの学芸員たちの調査によると、都市ではアブラゼミが減りクマゼミが増えているし、ハトのからだは黒っぽくなってきているそうです。
 動植物の変化を知ることは、自然環境の変貌を把握することにつながります。

 気象庁の生物季節観測も、目や耳で確かめるというシンプルな方法。それだけ、直に自然とふれあいながらその動きを把握する営みで、おもしろく感じます。




 【参考文献】
 気象庁ウェブサイト
 京都地方気象台ウェブサイト


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門のガイドブックで、門を見る

建築




東寺南大門


 門の本 !? 

 建築の中でも、門は目立った存在ですが、その愛好家はどれくらいいるのでしょうか?

 私は、どちらかというと門が好きな方だと思います。外観を見るのも好きですし、二階へ上がれるものは上がらしてもらいます。シンプルだけれど、捨てがたい魅力を持っていると言っていいでしょう。

 今日は、2、3の門の案内書を紹介しながら、京都の門を見ていきましょう。

 1冊目は、岸熊吉『日本門牆史話』。読みは「にほん もんしょく しわ」です。
 「門牆」って難しい言葉ですが、門と垣のことです。
 岸熊吉は、東京美術学校で建築を学んだ後、京都府や奈良県で古社寺修理に従事した人で、法隆寺国宝保存工事事務所の所長も務めています。古代史家の岸俊男氏の父君です。
 この本は、戦後まもない昭和21年(1946)に出版されています。そのため、私の持っている本はカバーなどがボロボロになってきています。
 戦時中に執筆されていたものだそうですが、もとは奈良帝室博物館の列品講座で話した内容といいます。


 岸熊吉の門の分類

 だいたい、門の本を繙くと、その形態あるいは構造によって分類し、説明されています。
 ところが、岸熊吉の場合、まず「用途に依る分類」という章が立てられているのです。

 京都御所建礼門
  「皇宮の門」 京都御所建礼門

 その分け方は、

 1.皇宮 並に都城の門
 2.神社の門
 3.寺院 並に廟の門
 4.城の門
 5.民家の門

 一番目に「皇宮並に都城の門」が来ているのは、時代色ともいえるし、彼自身が藤原宮跡の発掘調査を行っていたことと関係がありそうです。
 二番目が神社なのも同様ですが、本書では鳥居も取り上げているところが特徴的です。

 そのあと「様式に依る分類」で、こちらはまず重層門(2階建)と単層門(1階建)に分けてから、重層門は「○間○戸」という規模に着目し、単層門は規模とあわせて形式も考慮して紹介していきます。


 アサヒ写真ブック『日本の門』

  『日本の門』
 
 この形式(様式)によって紹介する方法を踏襲している本が、アサヒ写真ブック『日本の門』です。昭和32年(1957)に刊行されたもので、解説は建築史家の浅野清博士が執筆しています。
 浅野氏は、その経歴において法隆寺国宝保存工事事務所の所長を務めたという点で、岸熊吉と同じ(2回りほども後輩ですが)なのです。
 この『日本の門』は、写真を中心とした「写真ブック」で64ページしかないのですが、解説が充実しています。

 門で最大規模のものは、九間七戸の重層門です。「間」(けん)とは柱の間のことで、「戸」(こ)は扉のことです。この場合、柱間が9つあり、センターの五間に扉が5つ付いていたということです。
 これは、歴史上、都城の羅城門に採用されたものです(七間五戸などの説もあります)。

 羅城門
  羅城門(史跡の案内板より)
  イラストでは七間五戸の説を取っている

 九間にせよ七間にせよ、今日見ることのできない大規模な門でした。

 私たちが見る規模の大きい重層門は、五間三戸です。
 
 知恩院三門
  五間三戸の重層門(知恩院三門)

 京都では、この知恩院三門は巨大なことで有名ですが、他にも東福寺三門、大徳寺山門、仁和寺二王門、南禅寺三門、萬福寺三門などが五間三戸の重層門です。禅寺が多いですね。

 次に紹介されるのが、「楼門」です。
 二階建の門の中で、屋根が二重になっているものが重層門、屋根が上層だけにある(下層にない)門が楼門です。
 最大の楼門は、五間三戸の東大寺中門だそうです。
 一般的には、三間一戸が多いといいます。

 下鴨神社楼門
  三間一戸の楼門(下鴨神社楼門)

 京都で一番有名な門かも知れない八坂神社西楼門も、この形式です。

 八坂神社西門
  三間一戸の楼門(八坂神社西楼門)

 ただ、この門で特徴なのは、屋根が切妻造だというところ。ふつう、楼門の屋根は入母屋造なのですが、これは切妻です。その分、素軽い感じがします。
 この点について、浅野博士はこう述べておられます。

 切妻造りは入母屋造りよりも形が簡素であるが、それだけではなく、切妻造りは、複雑で、格式の高い斗栱をつけることが出来ない構造である。だから、こうした簡素な屋根を持つ建物を二階建の楼門上にあげるのは少々矛盾した行き方とも考えられる。
 然し、我国最古の楼建築である法隆寺経楼や鐘楼は切妻造りであるのだから、類例が少ないというのみで、これが型破りであるとはいえないようだ。むしろ簡素な神社の社殿には、このような簡単な形式がよく釣合つている。(14ページ)

 
 下の門は、三間一戸の重層門です。

 清凉寺山門
  三間一戸の重層門(清凉寺山門)


 八脚門と四脚門

 次は「八脚門」です。ふつう「やつあしもん」と言っています。
 この門は、柱が前に4本、後ろに4本、計8本あるのでこう呼ばれます。
 柱間は3つですから、ふつう三間一戸の平屋という形になります。

 東寺蓮花門
  八脚門(東寺蓮花門)

 東寺は門の宝庫で、国指定の門が6つ、そのうち南大門以外はすべて鎌倉時代のものです。なかでも、西側にある蓮花門は唯一国宝に指定されています。
 奈良の東大寺転害門や法隆寺東大門は8世紀、奈良時代と極めて古いのですが、それらに次ぐ八脚門が東寺の諸門なので、八脚門の古例といえます。どの門も懸魚などが古風で魅かれます。

 「四脚門」は、前に2本、後ろに2本、計4本の柱を持つ門です。こちらは「よつあしもん」ですね。
 柱間は1つですから、一間一戸の平屋の門というわけです。
 
 建仁寺勅使門
  四脚門(建仁寺勅使門)

 別名「矢の根門」と呼ばれる建仁寺勅使門。境内の南に開いています。
 浅野博士も、「垢ぬけした調子のいい建物」と評される、軽い感じがする門です。


 華麗な唐門

 唐門は小ぶりなものが多いのですが、華やかな印象を与えます。
 弓型のカーブを側面に持ってきた(平入りの)唐門を「平唐門」(ひらからもん)と言います。

 醍醐三宝院勅使門
 平唐門(醍醐寺三宝院唐門)

 通常、平唐門は地味になるのですが、これは別格。
 大きな菊文と桐文が付いていて、桃山らしい豪胆な意匠です。近年修復されて鮮やかになりました。

 西本願寺唐門
  向唐門(西本願寺唐門)

 弓型のカーブが正面に見えるものを「向唐門」(むこうからもん)と呼びます。
 装飾が豊かで見飽きないところから「日暮門」とも称される国宝の西本願寺唐門です。側面(妻側)は、入母屋造になっています。

 東寺小子房勅使門
  向唐門(東寺小子房勅使門)

 私の好きな唐門のひとつ。東寺の小子房(こしぼう)にある門です。
 ほとんどの拝観者は見逃してしまいますが、金堂の西方にあります。大正期から昭和初期のものと思いますが、当時の京都府技師のセンスがうかがえる小品です。

 妙覚寺大門
  薬医門(妙覚寺大門)

 2本の柱に屋根を載せる「棟門」は最もシンプルな門ですが、柱が2本で不安なために、さらに控柱を2本付け加えたものが「薬医門」です。
 メインの柱が、重心より前方にあり、後方に控柱が立っています。真横から見ると、よく分かります。


 まだまだある……

 京都御所蛤御門
  高麗門(京都御所蛤御門)

 これは「高麗門」ですね。
 本柱と控柱との間に、小さな屋根が掛かっているので、内側から見るとすぐ分かります。
 背が高い門なので乗馬のまま通れ、城門でもおなじみ。御所の外周にある九門は、みんな高麗門です。
 
 こちらは、番所の付いた大名屋敷のような門。

 西本願寺大玄関門
  番所の付いた門(西本願寺大玄関門)

 西本願寺の南側、唐門の西方にあります。
 唐破風の付いた両番所が立派で、見惚れますね。番所に唐破風を用いるのは、格が高い大名家などに限られます。

 その左には、台所門が。

 西本願寺台所門
  長屋門(西本願寺台所門)

 なまこ壁のある長屋門で、こちらは片流れの番所が付いています。上の大玄関門より格が下がる門というわけです。
 昔は、いわゆる“台所”(寺務所ですね)の入口だったわけで台所門と呼ばれていますが、今は幼稚園の門になりました。東本願寺にも、これと似たような門があります。

 というわけで、『日本の門』に従いながら、主な門の種類を紹介してみました。 

 最後に、便利な本をもう1冊紹介しておきましょう。
 下村泰一『門-京都-』。タイトルそのまま、京都の門80余りをひとつひとつ紹介していて、国指定のもの(当時)は網羅されています。昭和42年(1967)刊ですから、それなりに古いのですが、寺社の門は変わらないので大丈夫です。
 
 今日紹介した本は、いずれも図書館で閲覧するか古書で求めるしかないのですが、私はそれぞれ、1000円、500円、1500円で購入しました! 安すぎますが、安い分には困らないので、重宝しています。


 清水寺西門
  清水寺 仁王門(左)と西門




 【参考文献】
 岸熊吉『日本門牆史話』大八洲出版、1946年
 『アサヒ写真ブック54 日本の門』朝日新聞社、1957年
 下村泰一『門-京都-』京都府観光連盟、1967年 


かつて公家が出入りした京都御所・宜秋門は、キッチュな彫刻に満ちている





京都御所


 京都御所は春季の公開

 2014年・春の京都御所の一般公開は、4月9日(水)~13日(日)の5日間行われます。
 桜には少し遅いような感じですが、ぜひ訪れたいと思います。

 現在の御所の建物は、幕末、安政2年(1855)に造営されたものです。
 また、それを取り巻く京都御苑は、明治維新後の整備(とりわけ明治10年代の大内保存事業)によって形作られたものです。昔は、御所のまわりに公家邸が立ち並んでおり、現在とは全く異なる景観でした。

 このあたりについては、次の記事もご参照ください。 ⇒ <京都御所にある隠れた公家邸跡-摂家・九条邸->


 一般公開の入口・宜秋門

 平常の参観時(申込制)は、御所の西側に開かれた清所門(せいしょもん)から入ります。
 春秋の一般公開の際には、その南にある宜秋門(ぎしゅうもん)になります。

 宜秋門
  一般公開時の宜秋門

 この門の位置は、模型で見ると、この位置(左が北)。

 京都御苑模型
  赤丸の位置が宜秋門(左が北。中立売休憩所の模型)

 この門は、別名、公卿門とか公家門と呼ばれていました。江戸時代、宮中に参内するお公家さんが通る門だったのです。
 そのため、それを見物する人々がここに集まってきたのでした。
 門前には、ちょっとした茶店が設けられていたといいます。

 宜秋門
   往時のおもかげはない宜秋門付近


 彫刻にあふれる宜秋門の細部

 宜秋門
   宜秋門

 
 公開時は、すっと通り過ぎてしまう宜秋門を、今回はじっくり見てみましょう。

 全体のフォルムは、桧皮葺の切妻屋根を持った四脚門です。

 御所には6つの門が穿たれていますが、この宜秋門や建礼門などはシンプルな切妻の門です。
 一方、東側に開く建春門は、唐門になっています。

 建春門
   建春門

 ところが、宜秋門も近寄って見ると、なかなかおもしろいのです。

 宜秋門

 これは大瓶束(たいへいづか)の写真です。
 左右に張り出している笈形(おいがた)が、とても装飾的に発達していて、唐獅子牡丹になっています。
 桃山時代くらいになると、笈形にこのような派手な彫物が見られるようになります。

 宜秋門

 こちらは、蟇股(かえるまた)です。
 とにかく、これが蟇股だとは分からないくらい、彫物で埋め尽くされています。
 梅の木を背景に、貴人が座っており、脇にその侍童がいて、鶴が何かをついばんでいる。そんな光景です。
 
 宜秋門

 これは、鯉? に乗って波の上を進む貴人です!

 こんなモチーフもあるのかと調べてみると、天沼俊一博士が唐招提寺の戒壇南門の蟇股を紹介されていました(写真は不鮮明なため省略し、報告文だけ引用します)。

 84は支那人らしいのが、水上を滑走してゐる(?)魚の上に乗り、巻物か何かをひろげて見てゐるところがほってある。
 どうも乗物は魚らしいが、余程波が固いと見え、恰[あたか]も蝸牛が小砂利の上を前進してゐる様に、腹の波が反て波形をしてゐる。
 これは先づ悪口として、魚は鯉だとすると、のってゐる人物は琴高位のところかも知れない。江戸時代だから人物があっても差支はない。(『日本建築細部変遷小図録』320ページ)

 
 確かに、宜秋門の人も何やら広げているようにも見えます。
 天沼博士が、<のっている人物は「琴高[きんこう]」くらいかも知れない>といっている「琴高」とは、辞書によると、琴高仙人という中国人らしいのです。
 『日本国語大辞典』によると、

 琴高仙人
 仙人。中国周代趙の人。琴の名手で宋の康王の舎人(とねり)となって仕え、鯉を巧みに乗りこなしたという。「琴高乗鯉」の画題で知られ、狩野元信、尾形光琳などの作がある。


 と説明されています。

 なるほど。
 鯉といったら、鯉の滝登りくらいしか知らない私ですが、さすが天沼博士は学識が深いと感心。
 中国の故事に則った彫刻だったわけですが、この御所のものも幕末の作とあって、もし博士に言わせたら“波しぶきが植物のようになっている”なんて悪口を言われそうですね。

 唐獅子牡丹とか龍でしたら判別も簡単ですが、中国の故事ともなれば、見る側にも知識がないと理解できません。
 彫刻の腕前がヘタウマだと笑っていたら、おまえこそ古典の知識がないではないかと、逆に笑われそうです。




 京都御所 宜秋門

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 門外からは自由 ※御所内は申込み・一般公開時
 交通 地下鉄「今出川」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006年
 『日本国語大辞典』小学館、1976年


京都出身の大相撲力士、少ないながらも奮闘中!

人物




大相撲春場所


 大相撲春場所にて

 連日熱戦が繰り広げられる大相撲春場所(大阪場所)。
 大阪や名古屋で開催される際は、京都からも見に行きやすいので、場所に足を運んで見物しています。
 みなさん、やはり気になるのは“ご当所力士”と見えて、地元出身の力士には熱い応援が集まります。大阪では、幕内の豪栄道と勢(いきおい)がダントツです。

 春場所は、3月ということもあり、学校を卒業した生徒たちが入門する時期でもあります。この「新弟子検査」ですが、今年の合格者は49名でした。
 日本相撲協会のウェブサイトには、氏名、部屋名、出身地が掲載されていますが、残念ながら、京都府出身の合格者は0でした。

 そう言われれば、京都出身の強い力士というのも聞いた覚えがなく、どんな力士がいるのかと調べてみました。


 戦前戦後、関取は少ない

 江戸時代の力士などは出身地が不確かな人もあり、なかなか分かりづらいのですが、少なくとも京都出身力士が多くなかったということだけは確かなようです。

 昭和以降の幕内の力士でいうと、大阪と東京で別々に相撲興行が実施された時代に活躍した桂川力蔵という力士がいます。
 明治28年(1895)、上京区荒神口通河原町の生れで、鹿ケ谷の四股名で大正3年(1914)初土俵。雷部屋から三保ケ関部屋に移籍して桂川と改名。突っ張りを得意として活躍しましたが、昭和3年(1928)、現役中に病没しました。最高位は前頭です。
 京都の人らしく「桂川」という四股名ですが、あまり強そうな名前でないような気も……

 戦後になると、昭和36年(1961)に入幕して「花籠七若」のひとりとして活躍した若天龍(花籠部屋、中京区西ノ京左馬寮町)、プロレスラー出身で昭和41年(1966)に幕内に上がった大文字(中村→二所ノ関部屋、下京区七条御所ノ内本町)、同志社大学相撲部から角界に入門、平成10年(1998)入幕した大碇(伊勢ノ海部屋、西京区大原野南春日町)らがいます。いずれも最高位は、前頭まで。「大文字」といった名前、京都人としては、ウーんと首をひねってしまいますが、さもありなんという気もします。

 関取(十両以上の力士)の有無でいうと、大文字の引退(1973年)から大碇の十両昇格(1997年)まで、なんと20年以上、京都府出身の関取がいないという状況がありました。
 確かに、私の子供時代には京都出身の関取は聞いたことがなく、やはり余り強い力士を輩出してこなかったといえます。

 大相撲春場所


 現役力士は、たったの……

 では、現役力士はどうでしょうか。
 2014年の春場所現在、京都府出身力士はいったい何人くらいいるのか?

 日本相撲協会のウェブサイトで調べてみると、5人でした。

 この数が多いかどうか、都道府県別の人数をあげておきましょう(2013年11月場所現在)。


 1位 東 京 44人
 2位 愛 知 36人
 3位 福 岡 34人
 4位 大 阪 33人
 4位 鹿児島 33人
 6位 兵 庫 30人
 7位 モンゴル  26人
 8位 埼 玉 21人
 8位 北海道 21人
 10位 神奈川 20人


 上位は、大都市圏、それも場所の開催される都府県が多いようです。館内放送を聞いていると、「愛知県○○市出身」といったアナウンスがかなり多いですものね。

 国内で少ない県(4人以下)は、岩手、山梨、富山、岐阜、福井、滋賀、奈良、岡山、鳥取、徳島、沖縄の11県です。
 そして、その次が5人の京都、和歌山、大分、佐賀なのです。つまり、下から12位タイということですね。

 大相撲春場所

 2014年3月現在の京都府出身力士は、次の5人です。


 今 福(西序ノ口8)・・・・松ケ根部屋、南丹市出身
 森 垣(西序二段19)・・・ 八角部屋、八幡市出身
 一心龍(東三段目91)・・・ 北の湖部屋、京都市伏見区出身
 大勇人(西三段目72)・・・ 峰崎部屋、南丹市出身
 千代栄(東幕下18)・・・・ 九重部屋、福知山市出身


 京都市内出身は一心龍だけで、他は府内です。南北に長い京都府の中程にある南丹市が2人と目立ちます。
 現在、十両以上の関取は1人もおらず、最高が幕下の千代栄です。

 今日(12日目)も場所に赴いたのですが、一心龍、大勇人、千代栄の取組みを見ることができました。

 大相撲春場所
   一心龍(右)

 一心龍は「そっぷ」(やせ型)の力士ですね。
 綺麗に脚が上がっています。

 大相撲春場所
   大勇人(左)

 大勇人は、なかなか気合いあふれる力士で、好勝負を繰り広げてくれました。
 先日観戦した日は敗れて悔しがっていただけに、今日はいい相撲で勝ちを収めました。
 おでこに、長いテーピングを張っているのが、ものすごいです。

 大相撲春場所
   千代栄(右)

 こちらは、千代栄。
 激しい当たりで敢闘しましたが、惜しくも敗れました。

 今日、私が見た一心龍、大勇人、千代栄の3人は、負け、勝ち、負けという結果でしたが、奇しくも3人とも3勝3敗になりました。勝ち越しまで、あと1番ですね。

 地元の力士の活躍に期待しています!


 ※ 千代栄は、九重部屋ウェブサイト等には、京都府福知山市出身となっています。ただし、出生地は京都府に隣接する兵庫県丹波市春日町とのことです。中学の途中で福知山市に移り、高校が京都共栄高校(福知山市)ということから、福知山出身となっているようです。




 【参考文献】
 『平成17年版 大相撲力士名鑑』共同通信社、2004年
 『平成二十六年度 大相撲力士名鑑』ベースボール・マガジン社、2014年


きょうの散歩 - 日曜朝の寺町界隈は、のんびり - 2014.3.16





寺町界隈


 土日の午後、京都で仕事があるときは、午前中は三条通のカフェに腰を下ろしています。

 寺町界隈

 いつもこの店なのですが、窓の外に旧大毎京都支局のビルが見えて落ち着きます。

 来る前に、鴨川に立ち寄ると、柳は芽吹き、川面は野鳥のコロニーになっていました。

 三条大橋

 三条大橋

 寺町三条の界隈で、いつも気になる2軒の店。

 ひとつは、

 姉小路通

 この姉小路通を東に入ったところにある、こぢんまりとした蕎麦屋さん。

 姉小路の東京蕎麦

 ふだん客がいるようにも思えないのですが、看板が気になります。

 姉小路の東京蕎麦

 「東京 生そば」に、「東京 天婦羅」。 

 京都は、元々うどん屋が多くて、「千成」とか「大力餅」とかいう縁起のよい屋号や、力がつく! 屋号の店が多かったのです。「……餅食堂」という店には、元来は餅も置いていたんですね。
 余談ですが、私の祖父は昔、うどん屋をやっていて、その屋号は「弁慶」。これも力がつきそうですね(笑) 私が覚えている頃には、もう餅は売っていなかったけれど、餅つき機はありました。

 ここは、「東京そば」ですね。そばは東京、というのは分かるけれど、天婦羅も東京という感覚なのでしょうか。それともご主人が東京で修行されたのかな?

 今日気付いたのは、姉小路通は、寺町通を境に、西と東で食い違っているんですね。

 寺町の地図

 ちょうど「寺町通」という文字のところで、カギ型に食い違っていますね。
 いま手もとに資料がないのですが、おそらく寺町通から東(鴨川側)は後から造成されたせいでしょうか?

  スマート珈琲店

 気になる2軒めは、こちら。

 スマート珈琲店。

 最近通ると、いつも待ち列ができています。
 写真は、海外からのツーリストのご夫婦が、入ろうか入るまいかと悩んでいるところ。店内に数名待っている人がいるのです。(結局入られました)

 なぜ、大人気なのだろう?

 ウェブサイトを見ると、喫茶とランチがあって、珈琲(450円)、ウインナ珈琲(600円)などドリンク類と、ホットケーキ(600円)、フレンチトースト(600円)、自家製プリン(500円)などの軽食、デザート類と、スマートランチ(1050円)などのランチメニューがあります。

  スマート珈琲店
   店前の看板は英語!

 看板に、ホットケーキとフレンチトーストとプリンがあるから、これが売り物なのでしょうか?
 昭和7年(1932)創業とありますから、もう82年ですか。老舗です。

 今度ぜひ入ってみることにしましょう!

 休日の朝は、ほんとうに観光の方、海外の方が多いですね。
 今いるカフェも、欧米の方が結構来られています。

 ふだん着の京都散歩も、また楽しいものです。
 

【お知らせ】まいまい京都で、東福寺ツアーを開催します!

その他




  まいまい京都

 京都で楽しいガイドツアーを行っておられる≪まいまい京都≫さん。

 このたび、ご縁があって、4月のツアーのガイドをさせていただくことになりました!

 日時・内容は、次の通りです。

 テーマ:建築史探偵団と東福寺へ!
     おもしろ伽藍進化論~進化する寺社建築!?
     たてものウォッチングの楽しみ方~

 日 時:2014年4月26日(土)10:00~12:00

 場 所:東福寺(集合は、京阪電車「鳥羽街道」改札口)

 参加費:2,000円

 定 員:18名 (要予約) 


 詳しくは、まいまい京都のウェブサイトで!! ⇒ ≪まいまい京都≫

 東福寺・仏殿
  東福寺 仏殿  昭和の木造建築!

 東福寺は、なかなかおもしろいお寺です。
 三門はもちろん、浴室や東司、禅堂、あるいは昭和建築の仏殿や、彫刻満載の恩賜門など、その建築群は見所が尽きません。
 今回は、室町時代から昭和に至る約500年の東福寺の建築史を探ります!

 東福寺・浴室
  東福寺 浴室  改築の歴史が面白い!
 

 お知らせのあとは、余談ですが……

 まいまい京都さんから、お声掛けいただいたのは、このブログがきっかけでした。いつも愛読いただいていたそうで、何か案内してもらえませんかとお話があったのです。
 事務局の方と、喫茶店で、あれがいいか、これがいいかと頭をひねること2時間! 建物がおもしろそうだけれど、近代建築はよく見学するので、あえて古建築、それも新しい時代のもの(江戸~近代)もいいね、ということになりました。

 東福寺・恩賜門
  東福寺 恩賜門  繊細な彫刻満載!

 そこで選んだのが、東福寺。

 東福寺は、室町時代の三門(国宝)や禅堂(重文)、東司(トイレ、重文)などが有名ですが、それ以外にも、明治時代の恩賜門は京都府技師一派が造った名建築だし、仏殿は建築史の泰斗・天沼博士が造形した昭和木造建築だし、いろいろと注目すべきところは多いのです。
 ツアーのタイトルは、事務局の方の絶妙なセンスでつけていただきました(実は、これが今回一番びっくりしたところです)。
 “伽藍進化論”というのが、聞いたことがない(!)魅力的な造語で、われながら、ちょっとスゴイ話をしてしまうかもと、かなり期待しています!! 

 このブログ同様、詳しく分かりやすくご案内しますので、ぜひご参加ください!
 申し込みは、≪まいまい京都≫ウェブサイト からお願いします。


知っていますか? 京都市の 「無形文化遺産」- 第2弾は、京の花街文化を選定へ -

その他




 都をどり(『京都』より)


 京都の五花街

 2014年3月11日の京都市の審査会を経て、「京・花街の文化」が、京都市の無形文化遺産に選定されます。

 京都の花街は「五花街」といって、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の5つの花街があります。
 お茶屋さんがあって、舞妓さんや芸妓さんがおられるところで、春に「都をどり」などの総おどりが行われる町といえば、分かりやすいと思います。
 観光スポットになっているのは、祇園・花見小路だと思いますが、これは四条通の南側にある祇園甲部で、歌舞練場で「都をどり」を行います。また、鴨川西岸に細い通りが続いているのが先斗町で、飲食店が並ぶ中に格子をはめたお茶屋さんが何軒もあります。5月の「鴨川をどり」で知られていますね。

 祇園・一力
  祇園・花見小路

 花街については、このブログでも何度か書いていますので、そちらもご覧ください。

 ⇒ <花街・先斗町、鴨川をどりと歌舞練場>
 ⇒ <先斗町歌舞練場、狭斜の巷にそびえるアジア的な造形に見惚れる>
 ⇒ <屋根のラインが美しい祇園の弥栄会館は、名手・木村得三郎の力作>


「無形文化遺産」とは? -なぜ、この制度を導入したのか

 京都市には「無形文化遺産」制度というものがあります。
 全国の方はもちろん、市民にもまだほとんど知られていないと思います。というのも、昨年(平成25年度=2013年)から始まった制度だからです。正しくは「京都をつなぐ無形文化遺産」という制度です。

 文化財保護の中で<無形文化財>というジャンルがあります。これは、祭礼や行事、伝統芸能・技術といった、モノでない文化財です。指定の区分はいろいろありますが、平たく言えば、お祭りとか人間国宝などがこれに当たります。
 この考え方を採用すると、職人さんの技みたいなものも指定できるし、落語家の名人芸も指定できるわけです。
 ところが、これでもまだ指定しづらいものがあると、京都市は思ったのです。

 その代表が「地蔵盆」。
 
 なぜ、地蔵盆が無形文化財として指定づらいのか?
 それは、無形文化財には、その行事や技の<保持者>がいなければならないからです。
 人間国宝だと、漠然と「落語」といって認定するのではなく、例えば「桂米朝」さんを保持者として認定します。あるいは「祇園祭」であれば、「祇園祭山鉾連合会」が保持団体として認定されます。

 こんな感じで、特定の個人や団体が必要なのですが、地蔵盆は誰を<保持者・団体>に認定すればいいんでしょうか?
 もしかして、全市民? 全町内? --だったら、私も保持者ですが(笑)、そんなわけもなく、認定すべき人や組織が分からないですよね。
 でも、京都市民にとって、地蔵盆はとても大事な行事です。町内々々に根づいて長く受け継がれています。
 そんな地蔵盆をどうやって<無形文化財>として認めていくのか? そんな課題があったわけです。


「無形文化遺産」-どんな制度か?
 
 では、どんな制度か見ていきましょう。
 実施要綱の第1条(目的)には、次のように記されています。
 
第1条 この要綱は,京都に伝わる大切な無形文化遺産を“京都をつなぐ無形文化遺産”(以下,「選定遺産」という。)として選定することにより,選定遺産の価値を再発見,再認識し,内外にその魅力を発信するとともに,未来に引き継いでいこうという市民的気運の醸成を図るため,市民が残したい“京都をつなぐ無形文化遺産”制度を創設し,その実施に関し必要な事項を定める。

 まあ、ちょっと分かりにくいです(笑)

 そして選ばれる対象は、

第2条 選定遺産の対象は,世代を越えて継承されている無形文化遺産等京都に特徴的な文化遺産で,市民が大切に引き継いでいきたいと思うものとする。

 となっています。
 まぁ、「市民が大切に引き継いでいきたいと思うもの」が対象という、かなりユルーい感じですね。
 たぶん、“お上”が決める文化財ではなくて、“みんな”で選んでいきましょうという、現代的なスタンスともいえます。

  祇園祭くじ改め
  祇園祭 くじ改め(左は門川市長)

 この制度の分かりやすい説明は、導入前の昨年(2013年)2月5日の門川大作市長の記者会見でのコメントです。
 少し長いですが、引用してみましょう。

 [25年度予算で重点をおきたい]2点目が、京都市独自の無形文化遺産制度の創設であります。
 例えば、京都では、「五山の送り火」は市の、「六斎念仏」は国の無形民俗文化財になっております。しかし、「京都市民にとって、最も大切な無形文化遺産は地蔵盆ではないか。」という声もあります。あるいは花街の伝統的な行事や「京料理」もすばらしい無形文化遺産です。

 しかし、これらは現在の国の文化財保護制度のもとで、文化財に指定・登録するためには非常に難しい問題があります。例えば、一つは、固定的な保護団体がない。「地蔵盆」と言いますと、町内会であったり、マンションの自治会であったり、様々な団体が継承しています。あるいは、概念がきちっと固定化されていない。時代と共に変化していきます。ただ、この変化も非常にいいことであります。不易流行。変えるべきは変える、変えないところは変えない。こうした市民の知恵で守られてまいりました。
 
 こうした時代と共に変容しながらも、世代を超えて京都に伝わる、市民の生活の中に伝わる身近な文化を守る京都市独自の制度を創設していく必要があると考えます。

 時あたかも和食のユネスコ無形文化遺産への登録が審査される年であります。日本の食文化を象徴する「京料理」、これをまず一番に、同時に「地蔵盆」や「花街の文化」、これらを取り上げていきたいと思っています。
 また、幅広く市民の方々から、「これを残したい。」、「これを残さなければ、京都が京都でなくなっていく。」、こうしたことも提案をいただきながら、同時に将来的には、そうしたことも国の制度として保存するよう、国への政策提言も行っていきたいと思っています。


 要約すると、

 1 現在の国の文化財保護制度では守れない<無形文化財>について、京都市独自の制度を作って守っていく。
 2 その<無形文化財>は、時代とともに変化しているが、それは文化を守っていく「市民の知恵」である。
 3 このような世代を超え、市民の中に伝わる身近な文化を守っていく制度を作る。
 4 その例として、「京料理」「地蔵盆」「花街の文化」などがあげられる。
 5 市民からも提案を受けて選んでいきたい。
 6 将来的には、国にも新たな制度導入の提言を行いたい。

 ということになります。
 個人的には、第2の点がおもしろいと思います。形を変えずに(墨守して)継承していくのではなく、時代に合わせて変容しながら守っていくというスタイルを肯定している点です。ここに着目したところは大いに評価すべきだし、建築の分野で普及した登録有形文化財(国の制度)と似た雰囲気を感じます。
 

 「京・花街の文化」が無形文化遺産・第2号!

  都をどりポスター

 選定の第1号は、2013年10月、「京の食文化-大切にしたい心、受け継ぎたい知恵と味」でした。
 そして第2号は、「京・花街の文化-いまも息づく伝統伎芸とおもてなし」。
 いわゆる五花街と島原が対象となります。

 少し注意しておきたいのは、「花街の文化」は「食文化」や将来選定されるだろう「地蔵盆」とは、ちょっと性格が違うことです。
 「食文化」や「地蔵盆」は、ひろく市民が伝え育ててきた文化です。それは、母が作って来た毎日の料理であったり、子供の頃から楽しみにしていた年中行事のひとつであったりするわけです。
 一方、「花街の文化」は、舞妓さん、芸妓さんといった“プロ”が培ってきた文化です。それを楽しむのも一部の檀那さんたちで、私たち一般人にお茶屋遊びなんてできません。先日取り上げた<文楽>と似通った感じもします。つまり、<伝統芸能>に近い存在で、従来の文化財保護の枠組みで敢えていえば“人間国宝”などに近い領域に感じられます。

 実際、京都市では、これまでも花街文化に補助を行ってきました。ここのところは毎年度、「花街伝統伎芸保存・育成」として、京都伝統伎芸振興財団へ200万円を助成しています。助成の目的は、「花街の伝統芸能の担い手である舞妓・芸妓・地方(ぢかた)等の存立基盤の充実を図る」というものです。
 京都伝統伎芸振興財団は、五花街の合同公演「都の賑い」の開催や、弥栄会館内のギオンコーナーの運営などを行っているほか、温習会など秋の踊りの会への助成や、65歳以上の芸妓に対する奨励金の支給なども行っています。
 最近では、芸妓さんの衣装代を補助する制度を始めるというニュース(3月7日付各紙)がありましたね。

 こんな具合に、花街の文化は、すでに<伝統芸能>化していて、保護の対象となっている印象です。今回の「無形文化遺産」への登録は、その流れに沿ったものといえるでしょう。

  先斗町提灯

 前回の「京の食文化」の場合、おそらく、よくイメージされる一流の料亭や料理人を念頭におきつつも、むしろ「おばんざい」に代表される家庭の味というものが強調されていたと思います。
 今回の「花街の文化」は、ふつうの庶民とは縁のない“一見(いちげん)さんお断り”のイメージが強い花街が対象です。花街文化は、確かに市民にとって誇らしいとは思うけれど、正直言って、食文化や地蔵盆とは異なるという違和感もあるのではないでしょうか?
 「市民の中に伝わる身近な文化」とは、ちょっとズレる感じがします。

 けれども、よく考えてみると、このたびの選定は、そういった“一見さんお断り”の花街文化を、市民へ、そして国内外の人々(観光客など)へ広く“開放”するという意味が込められているとも受け取れます。
 おそらく新年度からは、舞踊をはじめとする花街の伎芸を普及する事業(誰でも気軽に参加できる舞踊会、花街文化を考えるシンポジウム、舞妓さん芸妓さんとのふれあい行事など)が行われることでしょう。
 これまで、限られたパトロンに支えられてきた花街の姿が変わっていくことにもつながります。これを是とするか否とするか、なかなか難しい問題だとは思いますが、「都をどり」や「鴨川をどり」などに加えて、舞妓さん、芸妓さんの芸にふれる機会が増えることは、うれしいことです。
 注目して見守っていきましょう。


遷都先は「どこでもよかった」という見解に話題集中! - 井上満郎『桓武天皇と平安京』 -

京都本




   『桓武天皇と平安京』


 「人をあるく」シリーズの1冊

 昨秋から始まった吉川弘文館の新シリーズ「人をあるく」。

 今回は、その1冊、井上満郎『桓武天皇と平安京』をひもといてみましょう。実は、昨日の会合で、たまたまこの本の話題が出たので、取り上げる次第です。

 井上満郎先生は、長く京都産業大学の教授を務めておられました。私の大学にも出講しておられ、学生時代は講義を聞いたり、先生が受託された調査のお手伝いをしたこともあります。ぱっと見は恐い感じだったのですが、実際は優しい先生でした(笑)
 京都の古代史を研究されていて、現在は京都市歴史資料館長、京都市埋蔵文化財研究所長を務めておられます。


 遷都先は「どこでもよかった」!? 
 
 本書には、桓武天皇の生涯とともに、彼が行った長岡京遷都と平安京遷都についても詳しく述べられています。

 昨日の同席者が、本書で印象に残っていると言っていた点が、<遷都する場所はどこでもよかった>という見解だというのです。
 確かに、読んでいると、その表現が何度も出てきます。

 いってみれば行き先はどこでもよかった。(40ページ、長岡京遷都について)

 早い話が行き先はどこでもよかったというところが本当なように思う。(104ページ、長岡京遷都について)

 行く先はどこでもよかった。(119ページ、平安京遷都について)

 
 さほど厚くない本の中で、遷都する場所はどこでもよかったと、何度も言っておられます。これは気になりますね。

 逆の<どこでもよくない>例として、平安京については、昔から「四神相応説」ということが言われています。つまり、青竜、朱雀、白虎、玄武とみなせる山や川などがある土地に都を定めたという考え方です。
 これについて、井上氏は「風水思想ないし四神相応説というべき考えである。これはいろんな人が言っていて、国民的にはかなり普及した考え方とはいえよう。学問的には特に誰によって論証されたというものでもない(後略)」。
 
 “国民的にはかなり普及した考え方”!

 言い得て妙ですね。
 特に証明された考えではないということです。

 四神相応説に基づいて都を造った、というような説明の仕方が一般的に受け入れられやすいのは間違いないところです。しかし氏は、結局「平安京の地の選定について、四神相応説なり風水思想なりが原因を与えたと私は考えない」と、はっきり述べています。

 種明かしをすると、“行き先はどこでもよかった”には修飾句があります。
 上に引いた104ページでは、

 山背国乙訓郡長岡村の地は、どうして都の地として選ばれたのか。その理由は何なのか。これはよく分からない。いくつか想定されているものがあるが、目的は平城京を去って新しい政治拠点をつくることであったから、早い話が行き先はどこでもよかったというところが本当のように思う。(下線引用者)

 としつつ、水陸交通の便などについて説明されています。
 昨日、私が聴いた話にもあったのですが、例えば、長岡宮の大極殿、朝堂院などの瓦や部材は、おおかた難波宮から運ばれています。
 これは、淀川を利用して運搬したもので、この一例からも交通の便利な場所と分かります。
 あるいは、井上氏は、山背が桓武天皇の母(高野新笠)の実家のある場所、言い換えれば天皇自身の生育地であることをあげています。また、それにかかわりますが、渡来人の居住地だった点を重視しています。

 しかし、いずれにせよ、遷都の目的は、新しい政治拠点、政治環境を作ることにあると力説されています。
 確かに、政治力学が働きすぎる旧都から、白紙の新都に遷ること自体が目的だ、ということはよく理解できます。

 この、一見本末転倒したような思考法は、もしかすると異論もあるのだろうけれど、私にはおもしろく感じられました。
 現実って、こうだよな、と思わせてくれる話です。




 書 名:『人をあるく 桓武天皇と平安京』
 著 者:井上満郎
 出版社:吉川弘文館
 発行年:2013年


平安貴族・源融の河原院の名残りを伝える渉成園は、京都駅前にあるのどかなスポット





渉成園


 京都タワーが見える名庭

 京都駅やその近所に行くとき、よく通るのが渉成園の前。東本願寺の別邸です。

 渉成園
 渉成園の脇。修理中の東本願寺の門が見える

 私の小さい頃の記憶では、もっぱら「枳殻邸(きこくてい)」という呼び名を使っていたように思います。文字通り、枳殻=カラタチの垣根があるんですね。

 渉成園

 門は、西側に。

 渉成園

 拝観を申し出て協力金を志納すると、26ページもあるオールカラーの小冊子がいただけます。これは、うれしい!

 園内から京都タワーが見えるところが、駅近という感じですね。

 渉成園


 源融の河原院 

 この渉成園の庭ですが、長く平安貴族・源融(とおる)の邸跡だといわれてきました。
 源融(822-895)は、嵯峨天皇の子息で左大臣、大納言などを歴任した公卿です。臣籍降下して、源姓を賜りました。「源氏物語」の光源氏のモデルの一人だとされ、その邸も「源氏物語」の六条院のモデルともいわれます。
 ニックネームは、「河原院」という邸宅に住んでいたので「河原左大臣」。百人一首に「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」の和歌が収載されていますが、それについては後でふれましょう。

 この融の邸・河原院は、現在の河原町五条の南側一帯にありました。
 平安京の時代風にいうと、北は六条坊門小路【五条通】、東は東京極大路【鴨川の西側】、南は六条大路【六条通】、西は万里小路【柳馬場通】に囲まれた区画です(【 】内は現在のおよその通り名)。
 現代風にいうと、1辺が約250mもある大邸宅が、河原院の名の通り、鴨川の西に広がっていたのでした。

 お気付きのように、渉成園はこの場所の近くですね。そのため、古くから渉成園は融の邸の名残りだと思われていました。
 作庭家で庭園史の研究者でもある重森三玲(しげもり みれい)は、昭和18年(1943)に出した『日本庭園』の中で、次のように述べています。

 [貞観14年=872] 源融が左大臣に任ぜられたが、融公はこの前後、宇治、嵯峨、河原院の各別業を作り、何れも荘大な園池を作つた。宇治、嵯峨の山荘は共に今日保存されてゐないが、嵯峨の山荘は棲霞観と云つて、その泉石の美しかつたことが「本朝文粋」に記されてゐる。
 この内河原院(京都市河原町正面西側)のみは渉成園と称して、今東本願寺の有になり保存されてゐる。この地は「拾芥抄」の記事からすれば、現存の地より東北の角に当るので、渉成園即ち河原院の園池でないと云ふことに成るが、池泉様式や、中島の配置、又は中央の蓬莱島や後部の亀島の石組は、よくこの時代の手法を保存してゐるから、「拾芥抄」の記事の方こそ間違つてゐるのではないかと言へる。
 融公はこの園池に陸奥の塩釜の景を写し、難波から日々海水を運んで塩を焼いたと伝へられ、今も附近に塩小路の名さへある。(74ページ)


 重森は、渉成園=河原院と比定しています。渉成園の園池のさまが平安時代のそれをよく伝えているので、文献史料の方が誤っているという推理です。

 渉成園

 平成8年(1996)、河原町五条西入ル(五条通の北側)で発掘調査が実施されました。ここは、文献によると、融の河原院があった場所の一部に当たるところでした(敷地の北の端あたりになります)。
 発掘すると、平安時代の池と思われる遺構が検出されました。深さ1.3mで、底に薄く粘土を貼った上に、こぶし大の川原石を敷き詰めているものです。松や桃といった植物の種子なども見出され、植樹があったことが分かります。

 この発掘成果は、文献史料に記録されている場所に河原院があったことを示していて、現在の渉成園は融の庭そのものだとは言い難いようです。
 しかしながら、渉成園には源融のよすがをしのぶ要素がいくつもあります。


 石川丈山の作庭

 渉成園の庭は、詩仙堂で知られる石川丈山が17世紀半ばに作庭したものです。
 池を中心に回遊して楽しむ庭園ですが、たくさんの見所があります。

 渉成園
  回棹廊

 渉成園
  臨池亭

 渉成園
  侵雪橋 


 源融ゆかりの「塩釜」
 
 渉成園

 印月池と呼ばれる大きな池の東端あたりです。
 左に石塔が立っています。

  渉成園

 九重塔。
 上部の笠は宝篋印塔の一部を乗せたものですが、下部には石仏のレリーフもあります(かなり磨滅していて見づらいのですが)。
 この塔は、源融の供養塔とされています。

 そして、茶室・縮遠亭の脇には、珍しい形の手水鉢があります。

  渉成園
   手水鉢「塩釜」

 塩釜という手水鉢。宝塔の一部を用いたもので、鎌倉時代にさかのぼるものとされます。
 また、縮遠亭の下には井筒があり、こちらも「塩釜」と呼ばれています。

 渉成園
  塩釜

 奥州の塩釜(塩竈、現在の宮城県塩竈市)は、古来、歌枕として都人にも知られていました。「古今和歌集」に、< みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも >があります。
 源融も、河原院にこの塩釜の景を模したのです。
 「古今和歌集」には、「河原の左大臣[源融]の身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるをみてよめる。 < きみまさで煙たえにししほがまのうらさびしくもみえわたるかな >[紀貫之]」とあり、紀貫之の歌が紹介されています。

 融は毎日30石の海水を難波から運び、塩焼きをして、その鄙びた風情をめでたと伝えられます。

 その河原院は、融の没後、子息から宇多法皇に譲られました。その際の少し怖い逸話が「今昔物語集」巻27-2に語られています(大意です)。

 今は昔、川原の院は融の左大臣が造営して住んでいた家である。陸奥国の塩釜の形を造って、潮水を汲み入れて池にたたえていた。大臣が亡くなってからは、その子孫が宇多院に奉献した。

 院が住んでおられた時のこと、ある夜半に、西の対屋の塗籠[ぬりごめ。寝室に使う部屋]を開ける人の気配がした。見ると、束帯姿で太刀と笏[しゃく]を持った人が畏まっていた。

 院が、「そこにいるのは誰か」と尋ねると、男は「この家の主の翁です」と答えた。

 院 「融の大臣か」
 男 「そうです」
 院 「どういう用向きか」
 男 「我が家ですのでここに住んでおりますが、院が来られると畏れ多く気づまりするのです。どういたしましょう」

 そう述べるので、院は「おかしなことをいうものだ。私は他人の家を盗み取った覚えはない。大臣の子孫から献上されたものである。霊とはいえ、事の理をわきまえず、なんということを言うのか」と一喝した。
 すると、霊は掻き消すように失せてしまい、その後は現れることはなかった。(「川原院融左大臣の霊を宇陀院見給へる語」)


 なんとも、融大臣はこの邸を大切に思われていて、亡くなった後にも未練があったのでしょうか。
 不思議な説話ですが、実際の河原院は11世紀初頭には荒れ果ててしまっていたようです。



 渉成園(枳殻邸) (国名勝)

 所在 京都市下京区下珠数屋町通間之町東玉水町
 拝観 協力寄付金500円以上
 交通 JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『名勝渉成園-枳殻邸-』真宗大谷派宗務所、2011年
 重森三玲『日本庭園』一条書房、1943年 
 『日本古典文学全集 今昔物語集4』小学館、1976年
 『平成6年度 京都市埋蔵文化財調査概要』京都市埋蔵文化財研究所、1996年


上方芸能の行く末 -文楽・竹本住大夫さんの引退会見に思う -

その他




  国立文楽劇場


 2月28日、文楽太夫・竹本住大夫さんの引退会見が行われました。

 住大夫さんが退かれることについては、いつも頭の片隅にあり、また皆でも話していたことですが、ついにその日が来たかという思いです。大阪で聴けるのも、もう4月だけでおしまいとは、余りに名残惜しい。
 その芸の素晴らしさは、改めて私がここで言うまでもありません。決して美声とは言えないけれど滋味深い声音、子供からお婆さんまで絶妙な人物の語り分け、そして独特の間が聴く者を泣かせます。

 京・大阪の芸能を「上方芸能」と言います。しかしその上方芸能は、いったいどうなっていくのでしょうか。

 人形浄瑠璃(現在の文楽)は、おそらく元々は人形操りの奇抜さが大衆に支持され隆盛していったのでしょう。いまでいうと、プロジェクション・マッピングという最新技術で幻想的な映像を投影して人々を楽しませるのと同じようなものです。あのリアルな人形操りが、江戸の「ハイテク」だったわけです。
 しかし、そのような新奇性は、すぐにあきられます。人形浄瑠璃が「下り坂」だ、危ないと言われたのは、なにも最近に始まったことではなく、すでに戦前から言われています。
 では、新奇性を失った芸能がどこに活路を見出すかといえば、物語の内容において大衆の「共感」を得る、という部分に尽きます。
 そこで、語り(浄瑠璃)の重要性が現れてきます。共感の得られる筋書を情感たっぷりの語りで訴え掛ける、という世界になってくるわけです。
 
 ただ、そのストーリーも、いつまでも新しいものが生み出されたわけではありません。文楽に新作がないわけではありませんが、ほとんどが古典の繰り返しです。これは、より大衆の支持を得たストーリーを何度も何度も繰り返すという、よきマンネリズムです。「水戸黄門」的構造ですね。

 ところが、正直思うのは、文楽の一番苦しいところは、話している言葉が聞き取れない、分からない、という点だと思うのです。
 現在、文楽劇場には字幕装置が取り付けられていて、語りを文字で読めるようになっています。この導入のとき、確か住大夫さんは反対されていたと思います。お客さんが聴いて分からないような語りをしているようでは駄目だという趣旨だったと記憶します。
 浄瑠璃は「聴く」ものなのだから、それを文字で追っ掛けていては駄目なのは、はっきりしています。最近テレビ番組でもやたら字幕(テロップ)が付いていますが、ある漫才師さんが、自分らは聴かせてナンボの芸なのに字幕を付けられたらお終いや、みたいなことを言われていましたが、住大夫さんと同じ考え方です。
 ただ、現代人にとって、太夫の語りが分からないのも、また事実。時代の壁です。
 そして、言葉が理解できなければ共感も出来ない。そこで、初心者はまず人形の動きを楽しんでみてください、ということになる。人形浄瑠璃の始源に逆戻りですが、その動きが奇抜とまではさすがに思えず、そこに「美」を見出すという方向になってくる。そうすると、これはもう「芸能」ではなくて「芸術」です。芸術になれば、もはや大衆のものではなく、一部の限られた人たちのものになってくる。だから、お客さんも減っていく。
 そういう構造になってきたわけです。

 このことは、文楽に限ったことではありません。上方芸能全般について言えることです。お客さん側からみると、その芸能が表現していることについて理解できないし、共感もできないのです。そして、大勢の人たちが共感できないものは、芸術にしてしまうか、あるいは「古典芸能」(よく考えると変な言葉ですが)として祀り上げるか、どちらかです。

 こう考えてみると、上方芸能に対して、大勢の人が見るようにしないといけない、という考え方は、現在においては正しくありません。芸術なのだから、本来ならパトロン(一部の富裕な人々)が支えればいいのだけれど、そのパトロンがいないジャンルにおいては、社会的コンセンサスによって社会全体で支えていく、という構造を取ることになっています。つまり、税によって保護するということなのです。

 ひと口に上方芸能といっても、ジャンルによって事情は異なります。漫才も上方芸能なら、舞も上方芸能です。置かれている状況は全く違います。だから十把一絡げに論じられないのですが、少なくとも文楽や一部の芸能については上の事情があてはまります。

 文楽はすでに世界遺産ですし、そもそもやっている劇場も国立です。ふつう、国立の劇場でやる「芸能」ってありません。ここには近代的なねじれた構造があるわけで、その中で文楽を「芸術」的に、言い換えれば「古典芸能」的に残していく道を選んできたわけです。文楽や上方芸能について考える場合、その前提をまず認識したうえで話を進める必要があると思います。

 住大夫師匠の引退の報に接して、より一層考えさせられる今日この頃です。