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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【大学の窓】大学の資産運用と学生の生活費は?

大学の窓




   大学キャンパス

 先日、久しぶりに非常勤先の上京大学(仮称)の図書館へ行くと、いつも使っている長机の上に立派な摺りガラスの仕切り板ができ、古かった椅子がすべて新調されていました。
 椅子がよくなったのは特にうれしかったのですが、これにいくらかかっているのかなぁ、と思ってしまうのは社会人の性癖でしょう。

 そんな中、今日(2014年2月27日)、2つの興味深い調査に接しました。
 ひとつは、日本経済新聞による大学の資産運用の調査、いまひとつは日本学生支援機構による「学生生活調査」です。

 日経は、先般も大学の収益ランキングを発表していたと思うのですが、今回は株や債券などによる資産運用に絞ったランキングです(2月27日付朝刊)。
 「私大、資産運用で収入増 株高追い風、慶応など半数 43大学 本社集計」という見出し。
 そのランキングをトップ3と関西の大学に限ってあげると、次のようになります(金額は資産運用収入)。

 1 慶応義塾  35億8400万円
 2 帝京    33億 500万円
 3 日大    25億1600万円

 6 武庫川女子 16億4800万円
 7 立命館   13億6100万円
 9 関西外大  12億6400万円
13 同志社   9億9300万円
19 龍谷    7億8200万円
22 京都産業大 6億5700万円
24 関西大   6億1300万円
26 近畿大   5億6000万円
27 関西学院  5億5200万円
39 神戸学院  2億1800万円

 大学は、学生数1万人以上などの基準で選ばれているそうなので、小さな大学などで高収益を上げているところがあるかも知れませんが、それはリスト外です。
 武庫川女子大は、先般の収益のランキングでも上位に入っていて興味津々ですが、それはともかく。
 リストにある関西のほとんどの大学は、5億~15億円程度の資産運用収入を得ていることが分かります。関大や関学は、それぞれ前年度比35%、22%増と目覚ましい比率を示しています。
 記事によると、「私立大は収入の半分以上を学生からの入学金や授業料が占める。低リスクの運用が基本だ」と述べ、少子化など厳しい情勢の中、「教育の質向上につながる投資を賄うための財務の改善が求められて」おり、資産運用が重要なカギとなっているそうです。

 そんな中で、学費を出す学生側の事情はどうなのでしょうか?
 日本学生支援機構の「平成24年度学生生活調査」の結果が発表されました(2月26日付プレスリリース)。

 それによると、学生の年間の生活費(学費と生活費の合計)は、188万100円だそうです。
 そのうち、授業料(その他の納付金を含む)は、国立552,800円、公立536,200円、私立1,154,400円でした(いずれも昼間の学部)。
 私立は、国公立の約2倍の授業料。約115万円で、これは私が関西の私大授業料を個別に見てみた印象と合致しています。このくらいが相場なのです。

 一方、学生の収入は1,997,300円、つまり約200万円。そのうち、約60%(約120万円)が家庭からの給付、約20%が奨学金で、アルバイトで稼ぐお金は約16%(約32万円)にすぎません。
 家庭の年間平均収入額は約812万円ということなので、学生1人につき、家計の約15%が彼らの大学生活に支出されていることになります。もちろん、その過半は大学に支払う授業料です。

 教育の質や研究環境の向上は、大学にとって、その設置目的を達成するための最重要事項です。
 大学教育の末端に席を連ねる私も、2つの調査結果を見て、改めて身の引き締まる思いでした。


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きょうの散歩 - 中京区で近代建築ウォッチング - 2014.2.22





建物見学会


 先週末の土曜日、京都市中京区で近代建築の見学会を行いました。

 今回は、明治・大正・昭和に建てられた文化財的な建物を、いかに保存・再生していくかを学ぼうという試みです。
 前々回と前回に書いた<中京郵便局>と<旧龍池小学校【京都国際マンガミュージアム】>も、もちろん訪れました。

 大勢で訪れますので、外観見学が中心になるのですが、京都芸術センターでは館内も御案内いただきました。

 建物見学会
  京都芸術センター

 ここはかつて、京都市立明倫小学校でした。
 呉服問屋さんが並ぶ「室町」の中心部に位置する学区で、祇園祭の鉾町でもあります。それだけに財力も豊かで、学校建築も超一流です。

 建物見学会
  南に向いた窓を持つ校舎

 建物見学会
  スロープと美しい窓の配置

 ここで皆さんが驚いたのは、この長いスロープと窓のバランス、そして最上階の和室! でしょう。

 建物見学会
  旧作法室(茶室「明倫」)

 今は、主に茶室として用いられているそうです。
 かつては、戦前の小学校独特の「作法室」として使用されていた部屋ですね。これは時代性ですが、女の子が礼儀作法を身につけるため、実習の場として和室が造られていたわけです。
 この作法室が、特に優れているのは、こんなところ。

  建物見学会

 ガラス障子が二重になっていますね。
 写真右端の白い壁が校舎の躯体の壁なのです(本当のガラス窓がはまっています)。その左のガラス障子が作法室の外側の区切りです。そして、一番左のガラス障子が、作法の「お稽古」に開け閉めする障子なのです。
 ややこしいのですが(笑)、生徒は2つのガラス障子の間のタタミに座って、内側のガラス障子を開け閉めするわけです。その障子、全部紙を貼っておらず、半分ガラスになっているのは、室内の先生から生徒が見える工夫でしょう。
 なんとも贅沢な教室です。
 
 こんなおもしろい館内を拝見しました。ありがとうございました!

 もちろん、街中にある小さな商業建築も見学。

 建物見学会
  文椿ビルヂング

 大正時代の貿易店の建築にショップを入れたビル。
 向かいに本社のある京友禅・千總さんの所有だそうです。こちらも、なぞのある建物なのですが、それはまた別の機会に。

 ちょっと寒かったですが、楽しい見学会でした!




 京都芸術センター (旧明倫小学校)

 所在 京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町
 見学 芸術センターとして見学・利用できます
     ※和室等は、ふだんは見学できません
 交通 地下鉄「四条」、阪急電車「烏丸」下車、徒歩約5分


今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮





旧龍池小学校


 福澤諭吉も賞讃した京都の小学校

 私の卒業した小学校は、明治6年(1873)に創立されました。今でこそ京都市内ですが、当時は愛宕郡(「おたぎぐん」と読みます)に属していました。在学中に創立百周年を迎え、記念誌が刊行されたほか、記念品になぜか「爪切り」をもらった記憶があります(笑)

 そんな伝統ある母校は私の誇りですが、もともとの京都市内で小学校が創設されたのは、それより早く明治2年(1869)のことでした。これは事実上、日本の小学校の初めといえます。市内中心部の小学校は、明治初頭に町組(ちょうぐみ。町の連合体)を再編成した「番組」ごとに設置されたので、「番組小学校」と呼ばれます。番組小学校は、あわせて64校開かれ、当初は「上京(下京)第○番小学校」というナンバーで呼称され、のち現在のような名前が付けられます。

 明治5年(1872)5月、京都を訪れた福澤諭吉は、名所旧跡を見るのでもなく、博覧会見物をするのでもなく、まずもって京都の学校を視察したのでした。

 民間に学校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今、京都に来り、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦(よろこび)、あたかも故郷に帰りて知己朋友に逢ふが如し。おおよそ世間の人、この学校を見て感ぜざる者は、報国の心なき人といふべきなり。(「京都学校の記」)

 学校を作って人々を教育することは、福澤にとって長年の宿願でしたが、実際に京都で学校を見ることができ、長らく抱いてきた夢が実現している姿を目の当たりにして大変うれしかった、と述べているのです。

 福澤は、当時の京都の小学校について、実に要点を押さえた紹介を行っています。彼の言を借りて、その特徴を列記しておきましょう。

・明治2年より基を開き、中学校が4校、小学校が64校ある。
・市内を64区[実際は最初65区、のち66区]に区分しているのは、西洋のスクールヂストリツクト[school district:学区]で、区内の貧富を問わず、男女7、8歳より13,14歳の者が皆教育を受けられる。
・学校内では、男女別に「手習」[「筆道」を指す]をしており、それとは別に講堂があって「手習」の空き時間に「読書」「数学」を学んでいる。
・1校には、「筆道師」「句読師」「算術師」が1人ずつおり、助教の数は生徒数によってさまざまである。
・学校は、朝8時に始まり、午後4時に終わる。
・科業は、いろは五十韻、用文章などの「手習」、九九、加減乗除、比例などの「算術」、府県名、国尽し、地理、窮理、経済などの「句読」があり、毎月あるいは春秋に試験がある。
・小学校を5等に分け、試験で昇級し、5等を終わった者は中学校に入るのだが、学校は設立されたばかりなので、まだ入学者は少ない。
・小学校の建設費用は、半分を官より補助し、もう半分は市中の富豪が出し、建物を建て書籍を購入し、残金は貸金して利息を取って学校運営の資金にする。また、学区内の戸ごとに半年1歩ずつ出させて資金としているが、それは家に子供があってもなくても同様に負担させている。
・生徒数は、少ない小学校は70人から100人、多い小学校は200人から300人である。
・校内は極めて清楚で、壁にキズはなく、席を汚す者もなく、おしゃべりなどもなくて秩序立っている。
・学校のかたわらには、その学区の町会所の席を設けてあって、町の用を行いながら生徒の世話もできるので便利である。
・教師は、官により任命されているけれども、給料は町年寄から出しているので、官員ではない。給料は学区の大小や生徒の多寡によりまちまちでり、多い者は月12,13両、少ない者は3、4両である。
・明治5年4月時点の小中学校の生徒数は、15,892人。男女比は10:8である。


 事細かに京都の小学校事情をまとめていて、福澤の教育にかける情熱が伝わってきます。省略しましたが、中学校についても記述されています。
 このように、明治の初めから地域の人たちによって精力的に推し進められた京都の初等教育は、全国の模範となったのです。


 上京第二十五番組小学校としてスタート

 旧龍池小学校
  現在の旧龍池小学校(登録文化財、京都国際マンガミュージアム)
  両替町通側の旧正門をのぞむ

 龍池(たついけ)小学校は、明治2年(1869)11月1日、上京第二十五番組小学校として、御池通両替町西入ル龍池町で開校しました。明治9年(1876)には新校舎を建築して、現在地(中京区烏丸通御池上ル金吹町)に移転しています。
 学区の範囲は、北は二条通、東は烏丸通、南は三条通、西は新町通に囲まれた地域で、その中に22の町が含まれていました(学区は後に拡大しています)。
 この上京第二十五番組小学校は、設立資金を京都府に頼らず、すべて住民からの出資で賄いました。各戸より1分2朱を徴収して300両を集め、さらに寄付金1,700両を得て、あわせて2,000両の資金で学校を建設したのです。
 福澤が記しているように、府と地元が折半という原則からすると破格の出費で、その功によって府から賞詞を得た、つまりお褒めに預かったのだそうです。

 明治9年に新たに建築された建物のメインは、校門のすぐ内にある講堂のあった建物でした。木造2階建ですが、1階・2階の正面に唐破風を付け、屋根上に望楼(火の見櫓)をのせたシンボリックな建築です。明治時代の小学生の回想では、“お寺みたいな”と言われる雰囲気を持っていました。
 その後、折々に増築されますが、明治27年(1894)に増改築を行い、明治39年(1906)にも大規模な増改築を行っていますが、これは日露戦勝記念と銘打たれていたようです。
 昭和に入って、おそらく「御大典」記念ということだと思われますが、校舎改築のプランが持ち上がります。その結果、実現したのが現在残されている建物群です。

 ところで、龍池小学校の年表を見ていると、しばしば増改築が行われ、地域からもかなりの出資が行われています。やはり、地元の経済力が気に掛かるところなので、昭和の新校舎にふれる前に、そのことを少し見ておきましょう。


 学区の経済力が高めた校舎のグレード

 現在の中京区は、まさに京都の中心部ですが、およそ三条通より南は祇園祭の鉾町で経済的にも裕福でした。

 当時の資料で各種の税額を見てみると、最も富裕な地区は四条烏丸北側の東西にある日彰学区と明倫学区でした。
 龍池学区は、烏丸御池の北西の学区なので鉾町ではありませんが、経済力では日彰や明倫に次ぐクラスだったことが分かります。このことは、学区の人々が負担することも多かった校舎のグレードを高くしたのです。

 龍池小学校の昭和初期の改築は、そのことがよくうかがえます。

 旧龍池小学校
  東側から見た校舎

 これは烏丸通側から見た校舎の配置です。
 写真の左側に本館が見えており、右側には北校舎が見えています。

 旧龍池小学校

 龍池小学校は、現在は京都国際マンガミュージアムになっているわけですが、ミュージアムの入口は烏丸通にあります。ところが、かつての入口は正反対の西側(両替町通)にありました。

 旧龍池小学校
  両替町通

 旧龍池小学校
  正門と本館

 こちらが正門と玄関です。
 ここを入ると、真正面に校長室がありました! 竣工時には、写真の左右出っ張った部分の1階に理科教室(右)と工作などをする手工室(左)がありました。また、その上の2階には裁縫室とピアノが置かれた唱歌室がありました。特に裁縫室は女子生徒が作法や裁縫を学ぶ部屋ですので、畳敷きになっていました(現在もそのままで、和風の室内意匠が見どころになっています)。1階には職員室もありました。

 この建物の北側には、別棟が接続されていました。 

 旧龍池小学校

 この2階が講堂、アーチ窓のある1階が雨天体操場でした。
 この写真に見えている扉は児童昇降口と呼ばれ、ふだん児童たちが通学するのはこの入口からでした。

 この2棟は、講堂のある北側が昭和3年(1928)に、校長室のある南側が翌4年(1929)に建築されています。

 外部、内部とも、意匠はなかなか優れています。

  旧龍池小学校

 玄関両脇にあるランプの台の部分。アールデコですね。

 旧龍池小学校

 玄関を入ったところに貼ってあるタイルです。
 縦に線の入ったスクラッチタイルですが、ほのかな温もりのある感触があり、よく見かける粗い感じのスクラッチとは一線を画しています。

 旧龍池小学校

 ちょっとホテルみたいですね。

 旧龍池小学校

 階段まわりもアーチをあしらったりして、なかなか素敵です。


 光を取り入れる窓
 
 旧龍池小学校
  西側から見た本館

 本館を西側から見ると、真ん中が窪んでいることが分かります。この建物、上から見るとH形なんですね。それだけ採光に気を使っています。

 旧龍池小学校

 右の出っ張りの1階は職員室、2階は教室です。南面に縦長窓が6つずつ配され、明るい空間を実現しています。

 このことは、昭和12年(1937)に増築された北校舎にもうかがえます。

 旧龍池小学校
  北校舎

 この校舎は、1階、2階とも教室(4部屋ずつ)でしたが、ずらっと並んだ窓が圧巻です。
 時計のある部分が階段でした。

 旧龍池小学校
  教室に光をもたらす窓

 この校舎の西階段。モザイクタイルが控えめながら魅せます。

 旧龍池小学校


 創立百周年の作文から

 龍池小学校は、昭和44年(1969)、創立百周年を迎えました。
 開校記念の11月には、『龍池百周年記念誌』が刊行されています。そこには、当時の児童たちの感想や作文も載せられており、私は思わず読み入ってしまいました。

 ふたつばかり紹介しましょう。


  そうりつ百周年  三年  KMさん

 二学期に 学校にきてみると、こうどうや、教室のかべのペンキが、きれいにぬってあった。わたしは、きっと、百周年のおいわいに、こんなに学校をきれいにしてくださったのだと思いました。

 わたしは、おとうちゃんに
 「おとうちゃんが、竜池小学校にいたとき、いちょうの木や、まどの前の木は、どんなにひくかった。」と、きいたら
 「まどの前の木は、おとうちゃんが 子どものときの 高さといっしょで、いちょうの木は、一かいぐらいしかなかった。」と、いわはった。わたしが
 「いま、まどの木は、もうちょっとで三がいにとどくし、いちょうの木は、おく上をつき出て、あと五メートルほどあるえ。」と、いったら、
 「へえー。」と、おどろかはった。

 むかしのようすをきくと、校しゃは、だいぶん古く こうどうのいすは、木のいすだったそうです。また、運動の道ぐは、こうてつぼう、ていてつぼうと、のぼりぼうしかなかった。動物がいなかったので、山しな学舎へ見に行ったことも ききました。

 ひるごはんは、家にたべに帰り、おくすりのかんゆをのんで、あめ玉をもらったそうです。

 わたしは、心の中で、百年の間に 学校のようすも、いろいろ かわったんだなあと思いました。



 京言葉が、とてもかわいい三年生の女の子の作文です。
 次は四年生の女の子。


  竜池百周年記念  四年  MYさん

 百周年、ことしが百さいの学校は竜池校のほかにも何十校とあることでしょう。百さいになり、おいわいに学校ぜんたいをきれいにし、せいけつな学校にかわりました。

 竜池校といえば、おにいちゃんも、おねえちゃんもそつぎょうした学校です。わたしがおとなになったときには科学がしんぽし、いま以上にすてきな学校になっているのではないでしょうか。竜池校の百五十さいのときには、どんなへんかが見られることでしょう。百五十さいのときの竜池校をそうぞうするだけでも心がわくわくしてきます。ほんとうに百周年のことしとどんなちがいが出てくることでしょう。

 いままでわたしたちのせんぱいが百年の間に何千人、何万人、いえ、何十万人もの人たちがそつぎょうし、そのそつぎょう生たちがだんだんとそだててりっぱにそだった竜池校が今の竜池校なのでしょう。木でいくとそつぎょう生たちが少しずつ水をやり、芽を出し、葉がふえ今はせものび、根がはって、りっぱな木になったところでしょう。 

 竜池校の百さいのたんじょう日の年は、アポロ十一号のせいこうした年と同じだったということもよい思い出になることでしょう。



 龍池小学校は、平成9年(1997)3月に126年の長い歴史に幕を閉じました。
 小学校として150周年は迎えられなかったけれど、また新しい施設に姿を変えて、毎日おおぜいの人たちが集まってきているよ、と言ってあげたい。


  旧龍池小学校




 旧 龍池小学校 (登録有形文化財、京都国際マンガミュージアム)

 所在 京都市中京区烏丸通御池上ル金吹町、二条殿町
 見学 京都国際マンガミュージアムは、大人800円ほか
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 
 『龍池百周年記念誌』龍池校創立百周年祝賀記念事業委員会、1969年
 『閉校記念誌 龍池』京都市教育委員会、1997年
 『京都小学五十年誌』京都市役所、1918年
 『明倫誌』京都市明倫尋常小学校、1939年
 『福澤諭吉教育論集』岩波文庫、1991年


ファサード保存の先駆けとなった中京郵便局に、先人たちの思いと知恵をみる





中京郵便局


 三条通の名建築が改築の危機に!

 最近の三条通といえば、若い人たち向けのショップが並ぶようになって、週末はいつもにぎわっています。かつての老舗は減りましたけれど、道幅は昔ながらに狭く、京都らしい落ち着きを感じさせます。

 そして、近代建築がたくさん残っている通りとしても知られていますね。
 重要文化財の旧日本銀行京都支店(現・京都文化博物館)や、商業ビルに再生された旧大阪毎日新聞京都支局(現・ART COMPLEX 1928)、そして中小規模の銀行、生命保険会社、商店なども残され、目を楽しませてくれます。

  中京郵便局 烏丸三条東入ルから西を望む

 そんな中で、烏丸通から三条通に入って行くと、煉瓦造の美しい建物が見えてきます。
 中京郵便局です。

 中京郵便局
  中京郵便局(京都市指定文化財)

 三条東洞院の角にあります。現役の郵便局で、所有者は日本郵政。
 明治35年(1902)、当時の逓信省により建てられました。設計者は、同省技師だった吉井茂則、三橋四郎とされています。建った頃には京都郵便電信局と言われていて、京都の本局でした。
 三条通のランドマークのひとつとして、長く京都市民に親しまれてきました。
 
 しかし、戦後の昭和30年代末ともなると、さすがに業務に差し障りが出るほどの手狭さが目立ってきました。郵政省内で検討の結果、同じ場所に局舎を建て替えることになったのです。
 昭和48年(1973)、実施設計を行い、建て替えは目前に迫りました。
 そう、明治時代の煉瓦建築が取り壊されることになったのです!


 保存の要望

 建て替えに対して、郵政省の内部や学会などからストップの声が上がりました。日本建築学会近畿支部を中心に、隣接する平安博物館や京都市文化観光資源調査会などから保存の要望が出てきたのです。
 昭和48年8月30日、日本建築学会近畿支部(支部長・堀内三郎氏)は、郵政大臣に要望書を提出します。
(以下、特に断りのない引用は『建築記録/中京郵便局』より)

 この要望書を読むと、いくつかの注目すべき指摘があります。
 1つは、昭和24年(1949)に中央郵便局が京都駅前に移された後も郵便局として使用され続けてきた、つまり「明治中期の郵便局が今日に至るまでその本来の目的によって機能し続けてきた」点を高く評価しています。
 2つは、かつて「逓信省」が所管した郵便局や電信電話局の建築を「逓信建築」と呼び、それが日本の建築界において指導的な役割を果たしてきたと述べています。その上で、この郵便局を「逓信建築の原点としてわが近代建築史上かけがえのないモニュメント」であると指摘します。
 3つは、この建築は大都市の中心部で奇跡的に残ってきたが、それを守り抜いてきた郵便局長や局員、地区住民の努力に敬意を表し、「私共はこの貴重な先人の遺産を後世に伝える責任を強く重く感じる」と述べています。

 もちろん、今日の建物保存でよく指摘される景観上の重要性も述べられており(例えば「三条通りにあって明治の余香をかもす街区の貴重な構成要素でもあります」)、都市景観を維持する上で重要で、「単に一庁舎の使用上・事務能率上の便・不便によって律し去るべきものではありません」と言われています。
 けれども、この建物の保存までのプロセスを考えると、そのことよりも上記の3点の方がより大切ではなかったのかと、私は感じています。

  中京郵便局
  改築前の中京郵便局(同局の展示パネルより)


 「死んだ建物」

 今を遡ること40年、昭和48年(1973)当時の郵政省・建築部の人たちは、この保存要望についてどう考えたのでしょうか?

 同年10月に行われた建築部と保存を求める人たちの意見交換会で、建築部は次のように述べています。

 中京局は70年の使用に耐えて来たが、近年は局舎としての機能を果たし得なくなっている。例えば、車輛の発着場がなく辛うじて一輌が接車出来るのみで業務を阻害し、公衆室[註:客がたまるスペース]への高い階段とも相まって、サービス面で利用者の方々からの苦情も多い。
 (中略)
 省として文化財に対し無理解では決してなく、むしろ積極的に取りくんでいる。伊勢の山田郵便局を当方の負担で明治村に移設し、現在保守費迄も負担している事例でもお分りのことと思う。中京局の保存についても、いろいろ検討を加えた結果、他に方法がなくやむを得ぬことなので、その間の事情をくみとって了解してほしい。


 郵政の建築部は、70年という時代を経る中で郵便業務も変化し、郵便庁舎としての機能が全うできなくなったことを強調しています。
 これに対し、保存を訴える人たちからは、明治の面影を残す三条通の都市景観は貴重であり、それを維持する点から、「全面的な保存は困難と思うが、都市景観を保持出来るように、部分的でも良いから保存されるよう、強く要望する」と述べたのです。

 私が、たいへん興味深く思うのは、それに対する建築部の答えでした。

 部分的に残すということは、我々は当初の段階ではあまり考えなかった。それはまず第一に、部分的にしろ古い部分を残すと、それが新築部分をも拘束して、局の機能が著しく阻害されるのと、そのように表面だけを残すということが果たして本当に古い建築を保存する方法なのか、という疑問が大きかったからである。
 現局舎は郵便局としての機能を果たし終えて、いわば、機能的には死んだ建物である。そのファサードだけを残すことが、中京局を保存したことになるかどうかは疑問である。


 この発言は、一見詭弁のようにも思えるのですが、建築というものの本質を突いて止みません。
 「機能的には死んだ建物」という衝撃的な言葉に、深く考えさせられます。

 郵政省の建築を造り続けてきた建築部の人たちは、建物の外観(上に言う「表面」「ファサード」)は機能と表裏一体であると考えているのでした。
 これは、機能主義の考え方です。『建築学用語辞典』によれば、「機能主義」とは、

 近代建築運動の代表的なスローガンの一つ。形態は機能によって決定されるとし、機能的なものは、美しいとする。

 と定義されています。

 つまり、建築のファサード(外面)は機能と共にあるのであって、コロモのようにそれだけ引き剥がすことができるのか、という考え方です。
 機能的に役目を終えた建物が、そのコロモだけを残すなんて、それは“建築の亡霊”になりかねない。機能とファサードは常に一心同体である、と。

 このような考え方は、戦前の逓信省から培われてきた「逓信建築」の伝統だったのでしょう。このことは、戦前の逓信省技師・吉田鉄郎の東京中央郵便局(1933年)と大阪中央郵便局(1939年)を見ればよく分かります。

 大阪中央郵便局 大阪中央郵便局(取壊し)

 大阪中央郵便局 同 内部

 以前、大阪中央郵便局の内部を隈なく拝見する機会があったのですが、1階から上階まで可能な限り柱を間引いた広々とした空間が設えられ、壁面や廊下には大きな窓から採光が図られ、1階の前面の客だまりと後面のトラックヤードが好対照をなしている、そんな機能的な建物だったのです。そして、その外観はフラットな壁面に大きな窓を持った無機的なデザインとなるのでした。

 同じく逓信省の技師だった山田守、彼は晩年の作に京都タワー(1964年)があるように、機能主義というよりも表現主義の建築家でしたが、それでも東京逓信病院(1937年)を造った時、こんな言葉を残したそうです。
 「外観、内部、その他における虚飾を廃し、単純明快な形態となし、工費の節減をはかり、もって近代病院建築の複雑なる機能に対する科学的要求を充足することに専心努力した」。
 この「病院」という語を「郵便局」に置き換えても、そのまま通用するでしょう。

 中京郵便局
  改築前の中京郵便局(同局の展示パネルより)
  本館の北には、明治45年に建築された別館があった


 保存・再生への格闘

 それからでした。「機能的には死んだ建物」であった中京郵便局を生まれ変わらせる闘いが始まったのは。

 保存を望む学会側は、4つの保存法を提示します。

 (1)記録を残す
 (2)一部のディテールを残す
 (3)建物の外壁を残す
 (4)建物の一部を残す

 全部残すという理想にこだわらずに、歩み寄って部分保存をはかる。それが両者にとって不本意であっても、先祖の遺産を少しずつでも蓄積していくべきではないか、という趣旨でした。

 これに対して、郵政の建築部は頭を悩ませます。

 これは一つの新しい考えである。
 (中略)
 しかし又一方合理主義建築の主唱者を先輩に持ち、機能主義で教育されて来たわが建築部にとって、理論としては分るが、その考えになじむには、大きな抵抗があった。
 立面は平面の不離の関係として表現されなければならない、と常々考えていた建築理念の転換を要することになる。


 おそらく、部内で侃々諤々の議論があったことでしょう。自分たちが先輩から受け継いできた建築への考え方は容易に改まるものではない……
 では、彼らはどのように考え方を転換させたのか?

 それは「模様替え」「修復」という解釈でした。

 しかしこれは新築でなく模様替と割切ることも出来るかも知れないし、又歴史的建造物の修復は、内外に数多くあり、破壊された建築が修復されて、時代を代表するものとされている実例も幾つかみられる。当時の技術やデザインの手法を、良いにつけ、悪いにつけてその記憶が失われないうちに修復して後世に伝えてゆくことは、それなりに価値のあることである。
 (中略)
 新しい局舎機能を満足出来るなら、保存の意義は認められる。


 彼らは、この「保存」を「修復」と捉え直し、さらに新局舎としての機能をも追求するという困難な挑戦に挑む決意をするのです。

 しかし何としても反対せざるを得なかったのは、北側の壁を除いて外壁をコの字型に残すことは、階高のため事務室が殆ど全館無窓となってしまうことであった。景観を救うためとはいえ、局員の居住性を犠牲にすることは、とるべきではない。

 古い建物は煉瓦造2階建でした。しかし新庁舎は、各階の階高を低くして3階建にする予定でした。そうなると、外壁と内部の間に齟齬が生じ、窓が設けられなくなってしまうのです。
 「景観を救うためとはいえ、局員の居住性を犠牲にすることは、とるべきではない」。この建築部の考え方は、自然な流れの中で導かれたものでしょう。そして、再び構造や施工の担当者を交えて検討した結果、現実的に無理のない計画を立てられるとの結論が出たのでした。これをもって、彼らは外壁の一部保存案を受け入れることにしたのです。


 保存上の工夫

 中京郵便局は、東洞院通に沿って南北に細長い敷地をしていました。
 南側には、明治35年(1902)築の本館があり、北側には明治45年(1912)築の別館がありました。
 再生計画では、別館は全て取り壊して3階建のRC造を新築します。本館は、内部は新築しますが外壁の一部を残すことにします。残す外壁は、三条通に面した全てと、東洞院通に面した西面の約1/2、その反対の東面の約1/4です(北面は全て取り壊します)。つまり、全外壁の半分弱が保存されることになったのです。

 ところが、この局舎はおもしろい構造をしていました。
 1階の床面が地上約1.9mの高さにあるのです。明治後期は、郵便馬車を使っていた関係で、その受け渡しのために床高が高くなっていたのでした。

  中京郵便局
  東洞院側の開口部(赤線が当時の床面)

 写真の赤線のところが床のレベルでした!
 改築では、東洞院側の扉を地面まで下げて、内部の床高(これは50cmにする)にあわせてスロープとしました。

 中京郵便局
  東洞院側から入るとスロープがある

 一方、三条通側の正面は、かつては9段の階段が付いていました。

  中京郵便局 
  正面中央の階段

 床高が低くなったので、段数を9段から4段にすることになりました。ただし、中央(上の写真)だけは飾り階段として元の形を残しました。

  中京郵便局
  正面左右の出入り口は4段に

  中京郵便局
  正面(三条通側)全景

 ところで、東洞院側は、全長41.55mの壁面延長がありました。
 この全てを保存すると、2階建を3階建にするために、窓が全く取れなくなります。結局、約27mだけ壁面を残し、窓も確保できるようにしました。

  中京郵便局
  西面(東洞院側)全景
 
 保存された壁面ですが、手前から窓が3つあり、壁の突出部があって、さらに窓が3つあります(ここに入口もあります)。
 当初は、この向うに突出部があって、さらに窓が3つありました。つまり、西の壁面は、2つの突出部で区切られた3スパンからなっていたわけです。それを2スパンだけ残したのですね。
 三条通の保存壁は23.3mですから、四角くバランスのとれた形になりました。

 この建物の北に新館をつなぎました。

 中京郵便局
  控えめなデザインの新館
  1階後方のピロティはトラックヤードになっている

 中京郵便局
  本館と新館の接続部

 こんな具合に、かつて2階建だった煉瓦の外壁の中に、3階建の局舎を収めてしまったのです。
 設計、施工上さまざまな工夫があることは、『建築記録/中京郵便局』に詳述されています。

 こうして、本邦初の「ファサード保存」が実現したのです。
 外から眺めると、ただの壁面保存にしか見えませんが、現代の郵便局としての機能をしっかり確保した上で、景観維持にも寄与するという離れ業を成し遂げたのでした。
 機能と意匠の“二兎”を追うことに成功した優れた事例です。
 逓信省以来受け継がれた建築思想、建築技術の賜物というしかありません。

 昨今、壁さえ残したらいいんじゃないの、というようなファサード保存も多い中、改めて中京郵便局の試みを学び、噛み締めたいと思います。
 やっぱり先駆者は偉大だ。

  中京郵便局 保存された三条通面




 中京郵便局(京都市指定文化財)

 所在 京都市中京区三条通東洞院東入ル菱屋町
 見学 郵便局として利用できます(パネル・資料展示あり)
 交通 地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩約3分


 
 【参考文献】
 『建築記録/中京郵便局』郵政大臣官房建築部、1979年
 『建築学用語辞典』岩波書店、1993年
 京都建築倶楽部編『モダンシティーKYOTO』淡交社、1989年
 大川三雄ほか『図説 近代建築の系譜』彰国社、1997年


京都の近代建築を見る視点 - 『モダンシティーKYOTO-建築文化のカタログ都市』 -

京都本






   『モダンシティーKYOTO』


 近代建築“発見”の1980年代

 近年、街角にある<近代建築>を見る楽しみは、広く共有されるようになってきました。また、旅行のひとこまにも建物探訪が組み込まれるのはごく自然ですね。
 私自身も、今週来週は仕事で建物見学です。そんなとき、いつも思うのは、このような<近代建築ウォッチング>の歩みなのです。

 私が学生だった1980年代、このような“趣味”?は、ぼちぼち始まっていたと思います。

 1970年代に、全国の建築史研究者らが津々浦々に散在する近代建築について悉皆調査を行いました。その成果は、日本建築学会が編纂した『日本近代建築総覧』として刊行されました。昭和55年(1980)のことです。
 また、鹿島出版会から、地域別の『近代建築ガイドブック』シリーズが出版され始め、その関西編は昭和59年(1984)に出されています。
 さらに、建築を見る楽しさを普及したのが、建築史学者の藤森照信氏でした。藤森氏は、同好の士である堀勇良氏らとともに東京の近代建築を探訪、その過程を『建築探偵の冒険・東京編』として昭和61年(1986)に刊行されました。この書は大きな反響を呼んで間もなく文庫化され、藤森氏の名前と“建築探偵”という愛称は瞬く間に広まったのです。
 これらはすべて、1980年代の出来事で、この国で近代建築というものが“発見”された瞬間でした。


 関西、そして京都の近代建築を探る

 大学院生になった私は、折にふれて街角の近代建築を見るようになっていきました。
 そのとき、ガイドブックとして常に携行していたのが、上記の『近代建築ガイドブック 関西編』でした。この本は、今から見ると「間違い」も散見されるし、写真も余り綺麗ではないけれど、当時の関西の研究者らが熱意をもってまとめた案内書で、たいへん重要な本でした。なにしろ、近代建築を見る際のガイドブックは、これ以外になかったのですから。

 そんな中で、一般には余り知られていないと思われるのですが、京都の近代建築に特化した案内書が刊行されました。それが、平成元年(1989)に出た『モダンシティーKYOTO-建築文化のカタログ都市-』です。編者は、京都建築倶楽部となっています。

 タイトルに「モダンシティー」と入っていますが、この言葉から私が連想するのは、海野弘氏の『モダン・シティふたたび 1920年代の大阪へ』です。昭和62年(1987)に大阪の創元社から発行されたものですが、もとは産経新聞の夕刊に連載されたものです。
 この連載は、私も読んでいたのですが、取り上げている対象は大阪の近代建築で、そこに海野氏らしい文化史的な視点を織り込み、古書渉猟を交えつつ、現地探訪して書かれています。
 『モダン・シティふたたび』は、今もって近代建築探訪の絶品であり、建築史研究者が書いたものではない建築史的な書物として、ぜひ読まれるべき一書です。
 『モダンシティーKYOTO』は、その書名におそらく影響されているのではないかなと、漠然と想像するのです。


 4つの分類

 編者は京都建築倶楽部となっていますが、実のところは、建築史家の山形政昭、石田潤一郎、中川理の3氏が執筆されています。当時、最も年配の山形先生が40歳ですから、みなさんお若い。今では関西を代表する研究者です。

 この本の視点は、序章「京都のもう一つの読み方」にしっかりと書かれています。
 京都=古都という見方は脇に置いて、「奇跡的に残っ」た「各種の時代様式の建築」を玩味しようというのです。

 そこで述べられる大事な点は、「京都におけるその近代建築の最も大きな特徴は、バリエーションが圧倒的に豊富なことである」という点。
 さらに、「[京都は]他都市と比較して贅を尽くした建築が多いのである。近年の日本建築学会の近代洋風建築の調査を見ると、残っている洋風建築の中でレンガ造の割合が一番多いのが京都であることがわかる。明治・大正期の建築では、大雑把にいって、工場などを除けば木造よりレンガ造の方が格上であるから、この調査結果をもってしても、京都の建築に格式の高いものが多いということが窺える」

 なるほど。確かに、京都に残っている近代建築は意外に多様だし、煉瓦造が目立ち、重文指定されているものも多いですね。

 そして、これらの建築の楽しみ方を4つに分けて見てみよう、というのです。

 1つめは、様式建築の魅力をめぐって。建築の模範は、古くギリシア・ローマ建築にさかのぼりますが、オーダー(列柱の構成ですね)に見られるような建築の“文法”にしっかり則った建築群があります。これが様式建築(古典主義建築)で、重厚な銀行などはこの代表です。
 具体的には、片山東熊の京都国立博物館、辰野金吾の日銀京都支店(現・京都文化博物館)、松室重光の京都府庁舎などです。

 2つめは、モダン・デザインをめぐって。20世紀になって、様式建築から自由になろうとする動きが建築界でも出てきます。その代表が分離派(ゼツェッション、セセッション)。たとえば、オーダーの頭の部分(柱頭)にはイオニア式とかコリント式といったパターンがありますが、その有機的な意匠を幾何学的にデザイン化してしまうのです。また、扉や窓の枠に取り付けられているペディメント(三角形の破風)を幾何学的にしたり、用いなかったりします。こういう、無機的なスッキリしたデザインが分離派の特徴。
 他にも、表現派やインターナショナルスタイルも、ここに入ってきます。
 武田五一の京都府立図書館、本野精吾の西陣織物館(現・京都市考古資料館)、岩本禄の西陣電話局などがあります。

 3つめは、大衆的なB級デザインの建物。つまり、文法的でもなく、反文法的でもない、いわば非文法の建物ですね。街中の商業建築などによく見られます。
 七条通の富士ラビットスクーター、船岡温泉、大原楽園(焼失)などが、この例です。

 4つめは、ポストモダンの建築。主に1980年代に一世を風靡した建築群で、本書の同時代の建物ということになります。これは、いうなれば脱文法の建築。特に京都では、高松伸や若林幸広に注目が集まりました。これらが最終章で紹介されています。

 この4分類は、なかなか明快ですね。2010年代になると、第4分類(ポストモダン)の退潮と取り壊しがみられますが、京都の近代建築めぐりには役立つ視点です。

 本書に見られる実例については、近いうちに改めて紹介することにしましょう。

 なお、本書は現在品切れのようなので、図書館等でご覧ください。




 書 名  『モダンシティーKYOTO-建築文化のカタログ都市-』
 編 者  京都建築倶楽部(石田潤一郎、中川理、山形政昭)
 出版社  淡交社
 刊行年  1989年


やっぱり現地に復元してほしかった!? 大極殿は平安宮のシンボル - いにしえの平安京の痕跡を探訪する(3) -





大極殿跡


 朝堂院の構成

 平安京の大内裏(平安宮)の痕跡を訪ねる3回目は、いよいよ大極殿(だいごくでん)です。
 大極殿は、朝堂院のメインの建築です。大内裏の中にある朝堂院は、前回紹介した豊楽院と並立し、その東側に設けられています。
 朝堂院は国家の政務が執られる場所で、現在でいえば東京・霞が関の官庁街をグッと凝縮したようなところです。エリアは、南北およそ460m、東西およそ190mで、「八省院」とも呼ばれたのは中務省、宮内省、治部省、大蔵省などの役所が入っていたからです。

 南端には、入口の門・応天門が聳えていました。そこを入ると小区画があり、朝集殿という建物が左右に1棟ずつ建っていました。名の通り、お役人たちの集合場所です。

 朝堂院イラスト
 朝堂院(右のエリア)と豊楽院 (平安京創生館パネルより)

 その北側の区画には、会昌門を通って入ります。そこがメインエリアで、12の建物(朝堂)が建っていました。右サイド(東側)には昌福堂など4棟、左サイド(西側)には延休堂など4棟、その間(中間の南方)には暉章堂など4棟がありました。
 個々の建物は、桁行(横幅)が7間または15間で、およそ30m~60mという長大な建築だったようです。

 その北には、龍尾壇という一段高いところがあり、そこに大極殿が建っていました。桁行11間、梁間4間(九間四面)の建物で、南側は扉がない吹き放しです。両翼に、複廊で結ばれた蒼龍楼と白虎楼を備えていました。
 大極殿内部の中央には、天皇の座である高御座(たかみくら)が置かれました。天皇の即位礼や外国使節との謁見など国家的な儀式が行われる場だったからです。

 高御座の例
  高御座の例(後期難波宮 大阪歴史博物館) 


 ひっそりとたたずむ大極殿の記念碑

 朝堂院は、現在の千本丸太町あたりから南側に広がっており、その北端に大極殿がありました。
 大極殿のセンターは、およそ千本丸太町の交差点の北西あたりにあったと考えられています。そして、その北のバス停のところに、こんな石柱が立っています。

  大極殿跡
  「大極殿遺址道」の石柱

 ここを西へ入るか、または、

 大極殿跡
  内野児童公園

 南から公園を通って入っていきます。
 すると、

 大極殿跡

 立派な壇の上に石碑が建てられています。

  大極殿跡 大極殿跡の記念碑

 「大極殿遺阯」。

  大極殿跡 大極殿跡

 裏面には、「明治弐拾八[28]年十月廿二[22]日 京都市参事会書」とあります。
 本当は、この記念碑は明治29年(1896)6月に竣工したのですが、碑面には前年(1895年)10月22日の日付が刻まれています。実は、10月22日とは平安京の“誕生日”なのです。つまり、平安遷都が行われたのが延暦13年(794)10月辛酉(22日)のことだったのです。

 碑が建てられた経緯は後でふれるとして、この場所について説明しておきます。
 この碑がある地点は、大極殿そのものがあった場所とは少し異なり、およそ大極殿の北回廊の位置に当たります。それも回廊のセンター(昭慶門があった)よりも少し西にずれているのです。

 ちなみに、『新撰京都名勝誌』(大正4年=1915)には、次のように紹介されています。

 大極殿旧址 葛野郡朱雀野村字聚楽廻

 平安城大内裏の正朝なる 大極殿旧址 は、上京区千本通下立売下る小山町の西側と、葛野郡朱雀野村大字聚楽廻小字瓢箪とに跨がり、千本より西に入り、新屋敷の旧地より北に当れる一帯の地にして、今なほ地中より残礎碧瓦など掘出すことあり。
 明治28年平安奠都[てんと]千百年祭を挙行せし際、大極殿は桓武天皇の最も大御心を尽して造営し給ひし処なれば、其の旧址に於て之[これ]を模造し天皇の神宮を創設せんとの議もありしが、故ありて岡崎町に造営し、此の旧址は別に保存する事となり、古図旧記によりて敷地を考査し、土地を購[あがな]ひ、豊碑を建て、保存の因由と、大内裏及び平安京の四至[しいじ]等を記し、以て世に表することとなれり。
 此の地に至り高きに拠りて四望すれば、京洛の山河相映発して、延暦の勇図宛然目前に在るを覚ゆ。(303-304ページ)


 この説明文は、非常にうまく建碑の経緯を紹介しています。少し詳しく読み解いていきましょう。
 
 
 大極殿を復元せよ!

 明治27年という年は、西暦でいうと1894年です。つまり、平安遷都1100年の記念すべき年に当たります。
 京都では、それにあわせて紀念祭を実施するとともに、内国勧業博覧会の第4回を誘致しました。内国勧業博は3回までは東京で開催されていましたが、第4回は京都と大阪が綱引きし、京都で開催されることになったのです(第5回は明治36年に大阪で開催されました)。

 その経過ですが、まず明治25年(1892)頃から、京都の実業家たちが「桓武天皇御開都千百年紀念祭」の開催を企画し、内国勧業博の誘致とセットで動き始めます。
 しかし、内国勧業博の開催が、明治26年(1893)に米国シカゴで博覧会が開催される関係上、1年繰り延べになって明治28年(1895)となりました。そのため、千百年祭も明治28年に行うことになったのです。1895年が1100年とちょっとずれるなぁ、という理由です。ただ、表向きには<桓武天皇が初めて大極殿に昇って正月の拝賀をしたのが延暦15年(796)であり、そこから1100年である>という大義名分を作ったのです。

 実施にあたっては、紀念祭協賛会が結成され、明治26年になると、計画も具体性を帯びてきました。
 協賛会のメンバーで、大阪府知事や農商務次官などを歴任した西村捨三は、(1)大極殿の模型を造る、(2)大内裏の絵図を作る、(3)京都全体の地図を作る、(4)大極殿の背後に「平安社」という社殿を造る、という4つのプランをあげたといいます。
 このうち、1番目のものが大極殿の復元であり、4番目が平安神宮の創建ということになります。


 どこに造るか?

 大極殿をどこに復元するか? たいへん大きな問題です。

 歴史学者で『平安通志』編纂者として知られる湯本文彦は、かつて大極殿があった場所に復元すべしと主張しました。湯本らは、すでに平安京の実測調査を行い、その成果を「平安京旧址実測全図」としてまとめていたので、千本丸太町付近に大極殿があったことを把握していたのです。
 しかし、その後に協賛会が検討した結果、復元する大極殿は博覧会のシンボルとして、博覧会場(岡崎)に建造することに決まったのです。具体的には、現在の京都市動物園の場所が候補地となりましたが、後に現在地(平安神宮)に変っています。

 その後、協賛会副会長の佐野常民は、大極殿の背後に社殿を造って桓武天皇を祀り、大極殿を拝殿とする案を考えました。これが支持を集め、現在の平安神宮につながるプランが出来上がったのでした。

 平安神宮の鎮座式は、明治28年(1895)3月15日に執り行われました。また、紀念祭は秋に延ばされ、同年10月22日から24日にかけて実施、翌25日に最初の時代行列(時代祭)が行われたのです。

 平安神宮
   復元された応天門(平安神宮応天門)

 平安神宮 応天門の額

 平安神宮
   復元された大極殿(平安神宮大極殿=外拝殿) 壇が龍尾壇

 平安神宮
   同 上 前面は吹き放しになっている
 
 平安神宮の建築(あるいは庭園)については、改めて述べないといけませんが、朝堂院すべてを復元したのではなく、応天門と大極殿を復元し、その間に存在した朝堂は省略したわけです。
 設計に携わったのは、宮内省内匠寮の木子清敬と、帝国大学の大学院生だった伊東忠太らです。とりわけ伊東の実作としては、共作ですがこれが最初のものになります。
 大極殿、応天門、蒼龍楼、白虎楼、東西歩廊は、2010年に重要文化財に指定され、その附けたりとして龍尾壇の石段および石積と彩色図面が含まれています。
 以前、京都国立近代美術館の展覧会で、この彩色図面を見たことがあります。伊東が引いた図面と記憶するのですが、絵画作品とさえいえる大変美しいものでした。

 大極殿は、やはり千本丸太町に復元してほしかったし、8分の5サイズではなく原寸復元してほしかったけれど、こうして実見できるのは幸せです。

 そんなわけで、大極殿は平安神宮として実現したので、本当にあった場所には記念碑が建てられることになったのです。

 大極殿跡

 これだけ立派な記念碑ですが、ここに復元することを唱えた湯本文彦は満足したのかどうか。それだけが、なんだか気になります。




 平安宮大極殿跡

 所在 京都市中京区聚楽廻西町
 見学 自由
 交通 市バス「千本丸太町」下車、すぐ




 【参考文献】
 『平安京提要』角川書店、1994年
 角田文衛編著『平安の都』朝日選書、1994年
 『平安神宮百年史』平安神宮、1997年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年


豊楽殿は「飛騨の匠」が造ったと伝える大内裏の饗宴場 - いにしえの平安京の痕跡を探訪する(2) -





豊楽殿跡


 寂しかった千本丸太町界隈

 前回に続き、平安京の大内裏(平安宮)の現地探訪です。
 起点は、やはり千本丸太町の交差点。

 千本丸太町の案内板
  千本丸太町

 今回は、丸太町通を西へ進んでみましょう。
 かつて丸太町通は、千本通までしか続いておらず、それより西側は田畑が広がっていました。京都帝大教授で東洋史学の泰斗・羽田亨(はねだとおる)博士は、昭和初期の付近の雰囲気について、次のように述べられています(「聚楽廻り」1928年)。

 大概の名簿には自分の宿所は、丸太町千本西入新屋敷と記されて居る。新屋敷の名は今から二十年ばかり前までは誰でも知つてゐた者なのだが、惜いことには今は一丁東の交番で聞いても知らないさうだ。
(中略)
 我輩の中学に通つた子供の頃は今の丸太町の千本以西には竹藪が生ひ茂り、冬の夜などきつねの鳴き廻るのは毎夜のことであつた。
(中略)
 裏の離れの障子をあけると、秋は眼界紅葉に燃ゆる嵐山までおよぶ広漠たるものであつたが、二十数年にして御覧の通りの繁昌だ。尤[もっと]もその昔平安遷都の際には、こゝらあたりは皇城の域内として大宮人のはしやいだ所らしく、今もこの町の俗称の一つとして残る豊楽[ぶらく]町の名は、そのかみ豊楽殿の所在たりし記念であるが、復古の機運のめぐり合せか、隣には宿屋の看板を掲げて歌三味線で夜昼囃し立てる家も出来て、婉転たる嬌音は獰猛なる蛮声にからみ、しがない読書子を悩ますこと夥しい。(29-31ページ)


 羽田博士の自宅は、いわゆる聚楽廻(じゅらくまわり)に立地していましたが、明治時代には狐が出るような随分寂しい場所だったという思い出です。それが昭和ともなると、少しずつ家が建ってきて、隣家の歌舞音曲が博士の読書の邪魔をするまでに発展したのです。

 このあたりは、長らく「内野」と呼ばれていました。いわゆる大内=内裏の跡地ということで、そんな呼称がある田畑や野原でした。
 博士の邸付近は、引用文にあるように豊楽院(ぶらくいん)があったところなのです。そして、豊楽院の東側には朝堂院が並んでいました。


 豊楽院跡の発掘

 昭和3年(1928)、丸太町通の拡張に伴って、豊楽院の基壇の一部が発見されました。その後、昭和62年(1987)の発掘で豊楽殿の遺構が確認され、現地に保存されています(国史跡)。

 豊楽殿跡
  豊楽殿跡(左奥が南)

 豊楽院は、大内裏の中にあり、内裏の南方に朝堂院と並んでいました。天皇即位の大嘗会をはじめ、さまざまな饗宴が執り行われる場でした。「豊楽」は「とよのあかり」、すなわち宴会を意味する言葉です。正月の節会や秋の新嘗祭、外国使節を迎える宴会などが行われ、特に元日の宴は盛大だったといいます。
 四方を築地塀で囲まれていて、南北の長さ約400m、東西の幅約170mの広大なエリアで、南に豊楽門を開いています。敷地の北端には、メインホールの豊楽殿が聳え立ち、東西には回廊で結ばれた諸堂が建ち並びます。

 豊楽殿跡案内板
  豊楽殿(現地の案内板より)

 いわゆる七間四面(桁行[横方向]9間、梁間[縦方向]4間)という大きな建物で、南を向いて建っていました。屋根は寄棟造だったのでしょう。内部は、中央に高御座(たかみくら。天皇の座)が置かれ、西方に皇后の座、東方に皇太子の座が設けられました。
 発掘された部分は、豊楽殿のごく一部です。上の写真の発掘地は、豊楽殿の北西端あたりに過ぎません。豊楽殿に加え、後方の建物と連結する廊も発掘されています。
 廊でつながる後ろの建物を清暑堂と呼び、大嘗会などはここで行われました。清暑堂は、昭和51年(1976)の発掘時に一部が出ています。

 清暑堂跡
  清暑堂跡(手前が南)

 写真は、清暑堂の西半分くらいを撮っています。背後のマンションの向う辺りに豊楽院の北門・不老門があったようです。ただ、そこはもう丸太町通の上なのですが……


 飛騨の匠の作?

 豊楽殿は豪華な建築だったようで、鉛製の鴟尾(しび)も載せられていたようです。
 11世紀前半、藤原道長が法成寺を建立する際、その伽藍には緑釉の瓦が使われました。ところが、釉薬を作る鉛が不足したのか、道長は豊楽殿の鴟尾を降ろして溶かそうとしたというのです!(「小右記」)。ちょっとけしからん話ですが、それだけ大きく目立つ鴟尾だったのでしょう。

 その豊楽殿は、飛騨の匠(たくみ)が造ったという言い伝えがあったようです。
 飛騨の匠とは、どのような人たちだったのでしょうか。藤田勝也氏によると、「8世紀ごろから10世紀にかけて、庸・調免除の代償に1年交代で徴発され、木工寮などの建設官司に配属されて、都城造営に従事した匠丁たちであった。(中略)彼らの出身地・飛騨国は古来良材に恵まれ、「彼に此に物はおもはず飛騨人の打つ墨縄のただ一道に」と『万葉集』にも詠われるように、ある程度の木工技術を有していたのだろう」ということです。
 こういった造営の仕事を重ねるうち、徐々に伝説化していき、飛騨の匠といえば木工の名匠をイメージするようになったのでしょう

 豊楽殿を飛騨の匠が造ったという伝説は、院政期の「今昔物語集」に登場します。巻第24・第5にみえる「百済川成と飛騨工と挑むこと」という逸話です。

 百済(くだら)の川成(かわなり)という高名な絵師が、「飛騨の工(たくみ)」と意地の張り合いをするという話です(以下、途中からの大意)。

 その頃、飛騨の工という工匠がいた。平安京遷都の時の匠である。比類なき名匠で、豊楽院はこの匠が建てたものなので、すばらしいのだろう。
 ある時、飛騨の工が、絵師の百済の川成にこう言った。

 「我が家に、一間四面の堂を建てました。見に来てもらって、壁に絵など描いて下さい」

 川成は、いつも競いながら仲良くやっているので誘ってくれたのだろう、と思って、見に行った。
 行ってみると、小さなお堂なのだが、四面にみな扉が付いている。

 「お堂に入って、中を見て下さい」

 と言われるままに、川成は縁に上がって、南の扉より入ろうとすると、その戸はパタっと閉まってしまう。驚いて、西の扉から入ろうとすると、また閉まって、逆に南の扉が開いた。北から入ろうと思うと、その戸は閉まって、西の扉が開いた。東から入ろうと思えば閉まってしまい、北の戸が開いた。  
 このように何度も挑戦するが、ついに入ることが出来なかった。がっくり来て、縁から下りると、飛騨の工は腹を抱えて大笑いした。川成は、悔しがって帰って行った。

 しばらくたって、川成が飛騨の工へ使いを出し、

 「我が家にいらっしゃって下さい。見せたいものがあるので」

 と言う。
 飛騨の工は、きっと謀り事があるんだな、と思って断ったが、しつこく誘われるので行くことにした。

 飛騨の工が川成の邸に行くと、召使いが「こちらへお入り下さい」と言う。
 廊にある戸を開けると、なんと黒ずんで膨れて腐っている人間が倒れており、悪臭を放っていた。
 あまりのことに、飛騨の工は大声を出して飛び出した。
 川成は部屋の中にいて、大笑いした。

 飛騨の工は、あぁ恐ろしい、と思って庭に立ち尽くしていると、川成が顔を出して、「やぁ、まあ入りなさいよ」と誘う。恐る恐る近寄ってみると、衝立てに死人の絵が描いてあったのだ。
 お堂のことで騙された仕返しをしたのだった。
 
 当時は、みんなこの話で持ち切りで、二人の名人ぶりを誉め讃えたということだ。


 なんともすごいエピソードです。
 二人とも、それだけ高い技術を持っていたと噂されていたわけです。

 そんな豊楽院ですが、康平6年(1063)の火災で焼けてしまい、その後は再建されませんでした。

 なお、豊楽殿跡からの出土品674点は、2005年、重要文化財に指定されています。緑釉の鴟尾、鬼瓦、軒瓦など、瓦類が中心です。史跡とあわせて、貴重な考古資料といえるでしょう。

 興味深い大内裏の話ですが、もう1回続けてみたいと思います。

 (この項、つづく)




 平安宮豊楽院跡(国史跡)

 所在 京都市中京区聚楽廻西町
 見学 自由
 交通 市バス「千本丸太町」下車、徒歩約3分




【参考文献】
 『平安京提要』角川書店、1994年
 角田文衛編著『平安の都』朝日選書、1994年
 永田信一「平安京跡発掘史(1)」、『研究紀要』第8号、京都市埋蔵文化財研究所、2002年所収
 リーフレット京都 №200「平安宮豊楽殿跡出土品」京都市埋蔵文化財研究所ほか、2005年
 羽田亨「聚楽廻り」、『京ところどころ』金尾文淵堂、1928年所収
 石村貞吉『有職故実』講談社学術文庫、1987年(原著1956年)
 藤田勝也「名工・飛騨のたくみ」、『週刊朝日百科 日本の歴史56』朝日新聞社、1987年所収
 『日本古典文学全集 今昔物語集3』小学館、1974年


紫宸殿は路地裏にあった!? - いにしえの平安京の痕跡を探訪する(1) -





紫宸殿跡


 千本丸太町は、平安京の中心部 !?

 現在の京都御苑と御所が、かつての平安京の大内裏や内裏とは全く異なる場所にあることは、よく知られています。南北朝時代に、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿が、今の御所につながっていったのです。
 平安時代と現在の地図を重ね合わせれば分かるように、今の京都御所は平安京でいうと北東の端にあたり、内裏からは随分離れた場所でした。

 千本丸太町の案内板
  千本丸太町交差点

 千本丸太町の交差点には、写真のような案内板が設置されています。「平安宮跡」というタイトルで、付近の地図と往時の施設の案内を載せています。ちなみに、平安宮(へいあんきゅう)とは、いわゆる大内裏(だいだいり)のことで、塀に囲まれた広い区画の中に、天皇の住まいである内裏(だいり)や、儀式が行われる朝堂院、そしてさまざまな役所があった国家の中枢部です。
 まとめると、

  平安京 > 平安宮(大内裏)> 内裏

 という関係ですね。

 まず今回は、右前方(北東)に向かってみましょう。


 内裏の回廊跡

 千本丸太町の北東方向には、平安時代の内裏がありました。
 その交差点から3筋北(下立売通)を東に入ってみましょう。100m足らずで、フェンスに囲まれた空地があります。

 内裏回廊跡

 内裏回廊跡
  内裏内郭回廊跡

 ここには、かつて天皇の居所・内裏を囲んでいた回廊があったのです。

  内裏案内図
    内裏略図(現地の案内板より)

 この回廊(内裏内郭回廊)は、上図の薄緑色の四角形です。その左下方に赤丸でマークしているところが現在地です。
 要は、内裏をぐるっと囲んでいる塀の一部が発掘されたのです。

 なんだ塀か、と思われることでしょう。しかし、この辺りは民家が建て込んでいて、内裏の遺構はほとんど確かめられていません。その中で、早くに発見された遺構として重要な地点がここで、昭和54年(1979)に国の史跡に指定されています。

 ところで、上の空地の写真だけを見ても非常に分かりにくいので、少しお絵かきしてみました。

 内裏内郭回廊跡

 コンクリートの左右が、回廊の幅を示しています。回廊の両脇には、小さな溝があります。
 この回廊が南北に続いているわけです。
 回廊は、約10.5m(36尺)の幅があります。

 回廊で幅10mもあるのか? という疑問がわきます。
 実は、この回廊、「複廊」という形式で、中央の塀の両側に通路があるスタイルです(柱間が2間あります)。

 複廊の例(平安神宮)
  複廊の例(平安神宮)

 これは平安神宮の回廊です。写真に見えているのが、センターにある塀の右側の部分で、塀の左にも通路があります。つまり、ダブル通路の回廊が「複廊」なのです。だから、幅も広いのですね。
 そして、その外側には、この平安神宮の例と同様、石を敷いた溝が設けられていました。

 
 紫宸殿はどこにあった?

 この回廊に沿って東に進むと、いにしえは承明門がありました。
 発掘では、この門の北側の溝も出土しています。

 内裏の図を見ると、南の中央に「建礼門」があり、その内側に「承明門」があり、その内には広い南庭が広がっていて、紫宸殿(ししいでん)が聳え立ちます。
 すると、この辺りに紫宸殿があったはずですね。現地には、「平安宮内裏紫宸殿跡」の説明版があるのですが、そこに建っているのは……

 紫宸殿跡

 酒屋さん!

 驚くべきなのか、がっかりすべきなのか? 
 しかし、細かく考えていくと、この酒屋さんの場所は南庭のあたりで、紫宸殿はもっと北に位置するようなのです。そこで、意を決して北側を探ってみました。

 浄福寺通を北に上って少し行くと、綾綺殿跡の碑があります。その西の路地を入ったところ、そこが紫宸殿のあった場所です。

  紫宸殿跡 紫宸殿の故地

 ここが、その場所。かぎの手に曲がった狭い路地。ここに千年の昔、紫宸殿があった……

 あの壮大な紫宸殿と、植木のある庶民的な長屋と。その限りない落差に、人の世の移ろいを感じます。
 これこそ、現地に歴史を訪ねる醍醐味と言っても過言ではないでしょう。

 付近では、少し修景的な試みもあるようで、

 内裏承香殿跡
  内裏承香殿跡(紫宸殿北方)

町家を綺麗にしているところもありました。でも私は、ごく普通の標示板すらない路地の奥に紫宸殿跡があった方が素敵だと思います。

 内裏に続く次回は、西方にあった施設をご紹介しましょう。

(この項つづく)




 平安宮内裏内郭回廊跡(国史跡)

 所在 京都市上京区田中町
 見学 自由
 交通 市バス「千本丸太町」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『平安京提要』角川書店、1994年
 京都渡来文化ネットワーク会議編『京都歴史散策マップ 1 平安宮跡周辺を訪ねて』京都創文社、2011年





【大学の窓】いつのまにか時は流れ……

大学の窓




   キャンパス   2月です。

  非常勤講師でうかがっている上京大学(仮称)の講義はすでに終わっているのですが、今日帰宅すると、1通の封書が届いていました。

 新学期の時間割表です。
 私の出講している専攻のカリキュラム。

 それを何気なく見ていて、気付いたのです。
 「僕の頃の先生は、ほとんどいなくなったなぁ」と。

 日本史には、私が学生だった頃の先生は、もう2人しかおられません。
 そして、西洋史は、たった1人です。

 その方たちも、みな60歳を過ぎ、すでに後輩が教鞭を執リ始めて何年になることか。

 かつての恩師も、ひとりまたひとりと亡くなり、柄にもなく昔を思い出してしまいます。
 非常勤で来られていたF先生には古文書を教わっていましたが、返却された提出物には、赤ペンで「一見了」と書かれていました。
 同じく古文書学の大家であったN先生は、いつも風呂敷包みに本や書類を入れておられ、地下鉄の中でそこから取り出した雑誌論文を読まれている姿を目撃したこともあります。
 昨年しのぶ会を開いたK先生は、アメリカに留学した時、極寒の中でアイスクリームを食べるのがおいしいと言っておられたっけ。
 そして、戦中は将校だったというS先生は、夏にはいつも上下真っ白の背広を着こなして、毅然とした姿でした。

 こういう先生方の、ちょっとした一言やしぐさが何十年たっても忘れられないのが不思議です。
 これも歳を取った証拠だろうか……

 でも、思うのです。やっぱり歴史を学ぶには、自分も齢を重ねる必要がある、と。
 何かと喧しい2月ですけれど、しっかりと過去を見詰めて、春に向かって歩を進めてゆきたいと思います。


  東福寺の椿