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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

禅宗建築の花頭窓は、“サラセン建築”に由来するという天沼俊一博士の説

建築




西本願寺経蔵


 中村博士の花頭窓考察

 前回は、銀閣寺をイメージするポイントは「花頭窓(かとうまど)」にある、という話でした。
 今回は、それを受けて、いま少し花頭窓について考えてみます。

 建仁寺浴室
  花頭窓の例(建仁寺浴室)

 花頭窓は、鎌倉時代に禅宗様が入ってきて初めて用いられるようになった窓です。それまで窓といえば、もっぱら細い格子の入った連子(れんじ)窓でした。

 中村達太郎博士の『日本建築辞彙』は、花頭窓について、こんなふうに書いています(大意)。

 かとー(火灯)
 「架灯」とも「瓦灯」ともいう。上方が曲線形であるものをいう(図1)。
 上部が直線になって原意を失ったものもある(図2)。これも上方が弓形に近いために火灯の一種と認めて「隅切洞[ほら]火灯」と称する。
 その他、「蕨[わらび]火灯」「富士火灯」「琴締[ことじ]火灯」などがある。

 「かとー」の語源については諸説がある。「圭窬」または「圭竇」の転化という説があり、これは“壁に穿った穴”“くぐり”の意味なので、あながち牽強付会の説とも言えない。
 「かとーぐち」には灯籠を置くので「架灯口」と言い、そこから「かとー」という語が出た、という説には賛成できない。
 私が考えるに、きっと形から発生した言葉なのだと思う。初めは寺院などに用いた「圭」状の窓をこう言ったのだが、後に弓形または直線形のものも、茶人が「かとー」と名付け始めたのだろう。
 (中略)
 私は、どの説にも偏らない「火」の字を仮に用いて「火灯口」と書いている。(78-79ページ)


 『日本建築辞彙』より「火灯」
  図1

 『日本建築辞彙』より「火灯」
  図2

 中村博士、難しすぎる!

 一番分からないのは「圭」ですが、これは復刻版の頭註によると、「圭は古代中国で天子が諸侯に封侯の印として与えた玉。上部がとがり、下方が四角の形状をしている」ということ。つまり、下の方は<四角柱>で、その上に<四角錐>が乗っている形です。

 なるほど、それを横から見ると、火灯窓みたいな形ですよね。


 天沼博士の花頭窓考察

 中村達太郎博士の『日本建築辞彙』は、ふだんはとても役立つのですが、花頭窓については少し迷走気味(失礼)ですので、やはり天沼俊一博士の著書を繙いてみましょう。

 戦時中に出された『日本建築』には、禅宗様(唐様)の特徴のひとつとして、次のように書かれています。

 [唐様の]窓(出入口も)は「花頭窓」と呼ぶ形式のもので、上は楣[まぐさ]でなく多葉栱[きょう]の如くであり、サラセン建築に於けるものと同じ様な形をしてゐる。(110ページ)

 こういって、鎌倉の円覚寺舎利殿と、丹波の普済寺仏殿の写真をあげるのです。

 『日本建築』より円覚寺舎利殿
  円覚寺舎利殿(『日本建築』より)

 開いている部分の上部のカーブを覚えておいてください。

 普済寺(南丹市)の方は、私が撮影した写真を掲げておきましょう。

 普済寺
  普済寺仏殿(重文、室町時代)

 普済寺
  普済寺仏殿の花頭窓と弓欄間

 この窓は、窓枠の縦のラインが比較的垂直に降りていますね。これは古い証しなのです。ちなみに、こちらは延文2年(1357)の建築です。

 江戸時代になると、例えばこのようになります。

 仁和寺経蔵
  仁和寺経蔵の花頭窓

 仁和寺の経蔵です。応仁の乱で焼け、寛永から正保年間(1640年代)の再建と考えられています。普済寺より300年近く新しいわけで、裾広がりのラインになっているのが分かりますね。

 仁和寺経蔵
  仁和寺経蔵(重文、江戸時代)

 花頭窓は大陸から禅宗とともに輸入されたスタイルですが、天沼博士は次のように想像されています。

 (前略)唐様建築には必ずといってもいい位に、花頭窓であった。(中略)私は「花頭」が最も適してゐると考へてゐるので、いつもこの字を書いている。
 此種の窓はサラセン建築が元で、支那に入り木材でつくる様になってから、下方に下がってゐる茨の尖り方が鈍くなり、其儘[まま]日本へ輸入され、遂に桃山江戸時代に入りて其用途は甚だしく広くなり、全く其拠て来たところを忘れて、一種不思議な形をとるに至ったものと考へてゐる。
 (中略)
 回教は日本へは入ってこなかったが(現代のことをいってゐるのではない)、其建築の細部としては「花頭窓」、作法としては臨済宗の僧侶が座具を敷き、其上に上って跪いて拝礼する方法のみが移入されたのではないかと思ふ。(『日本建築細部変遷小図録』85ページ)


 回教、つまりイスラム教の名が出ていますが、「サラセン建築」とは今でいうイスラム建築のことを指します。それが中国に伝来して、変形していったというのです。
 この博士の説が正鵠を射ているのかどうか、私には分からないのですが、そのサラセン建築の“花頭窓”とは、おそらくこのようなものなのでしょう。

 東本願寺伝道院

 「下方に下がってゐる茨の尖り方」というのが、よくうかがえます。
 思い入れを強くすれば、先ほどの円覚寺舎利殿のカーブに似ていなくもないでしょう。

 この建物は、京都にあるのです。


 伊東忠太の“サラセン花頭窓”

 東本願寺伝道院
  本願寺伝道院

 西本願寺の伝道院(下京区)です。もとは真宗信徒生命保険会社の社屋として、明治45年(1912)に建築されたものです。設計者は、伊東忠太。アジア建築に造詣が深く、築地本願寺の設計で知られる人。京都での代表作は、この伝道院と、祇園閣、それに平安神宮です。
 伊東忠太らしいエキゾチックな建築要素の引用で魅せる伝道院。この塔屋の窓は、天沼俊一の言うサラセン風の“花頭窓”に違いありません。

 そうこう思ううちに、これもそうかな? と思い出しました。

 東華菜館

 どうでしょう。考えすぎなのか?
 
 この建物の全景は、こちらです。

 東華菜館
  東華菜館

 四条大橋西詰の東華菜館です。大正15年(1926)、ヴォーリズによる建築。
 考えてみると、この建物のスタイルはスパニッシュです。スペインにはイスラム文化が濃厚に入っていたわけですから、スパニッシュスタイルの建築がイスラム風であるのも当然です。すると、“サラセン花頭窓”みたいなものがあっても変ではないわけですね。

 ということで、かなり脱線した感じですが、花頭窓について少し自由に考えてみました。


  東本願寺伝道院




 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906(復刻版は中央公論美術出版、2011)
 天沼俊一『日本建築』弘文堂書房、1942
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944


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“模擬銀閣”の特徴は、3つの花頭窓!





銀閣


 銀閣の花頭窓

 金閣寺と銀閣寺といえば、京都観光のゴールデンスポットですから、かえって行きづらいという方もいるのでは?
 先日、久しぶりに訪れると、海外からのツーリストが結構増えていました。

 銀閣

 どうしても、こういう絵葉書的な写真を撮ってしまいます。

 銀閣

 銀閣(観音殿)は二層からなる建築ですが、下層は疎垂木に舟肘木、明障子を立てた住宅風の造りとなっています。上層は、観音菩薩を祀る仏堂風になっていますが、それを特徴付ける意匠がこれでしょう。

 銀閣

 3つ連なった花頭窓。
 これを見ると禅宗建築だとイメージしますね。


 銀閣寺を“模倣”せよ!

 銀閣寺を訪ねる時、多くの方は白川通と今出川通との交じわるところ、いわゆる「銀閣寺道」から歩いて行かれるでしょう。

 銀閣寺道
  銀閣寺道付近

 その交差点の北東に、こんな店舗が建っています。

 「模擬銀閣」
  銀閣寺風そば店

 そば屋さんなのですが、どうみても銀閣!

 屋根も、一見すると宝形造だし、やっぱり窓が……

 「模擬銀閣」

 3つの花頭窓です。ただ、よく見ると窓の上部はアーチ状になっていて、厳密にいうと花頭窓ではないのですが……
 屋根も杮葺(こけらぶき)のように見えますね。結構こっています。

 「蕎麦」という看板がミスマッチでおかしいです。


 さらに“模倣” !!

 このそば屋さんは、ある意味で有名です。私も前から知っていました。
 ところが、この日、ふらふらと迷い込んだ付近の住宅街に、こんな邸宅があったのです……

 「模擬銀閣」

 最初、ふつうの洋館かと思って振り向いたのですが……
 よく見ると、銀閣!

 窓も完全にアーチ窓、壁ものっぺりしているけれど、このスタイルは明らかに銀閣寺の模倣です。

 「模擬銀閣」
  銀閣寺風洋館
 
 個人宅なので詳細な場所は秘しますが、銀閣寺のごく近所です。
 やっぱり、このあたりの人たちが銀閣寺を愛していることがよく分かります。

 ムードミュージックの巨匠ポール・モーリアは、“八神純子の曲は、あなたの音楽に似ていますね”と言われて、「音楽は模倣だ」と答えました。
 建築も、また模倣だということが、“模擬銀閣”からよく理解できるでしょう。
 模倣は愛の証しなのです。

 もっと探してみたいと思います。  




 銀閣寺(慈照寺)

 所在 京都市左京区銀閣寺町
 拝観 大人500円ほか
 交通 市バス「銀閣寺道」下車、徒歩約10分


奉納の“釘抜き”に驚かされる釘抜地蔵は、抜苦の霊験にあふれている





釘抜地蔵


 『京都民俗志』に登場する釘抜地蔵

 大正から昭和にかけて、京都の民俗を調査した井上頼寿という人がいます。彼の代表作は、『京都古習志』と『京都民俗志』です。
 『古習志』には、宮座や講についての詳細な調査報告が掲載されています。
 『民俗志』は、タイトルとは少しイメージが違っていて、さまざまな伝説を持つ鳥居、井戸、石や、習俗、動植物などが、数多く紹介されています。本書は、平凡社の東洋文庫にも復刻されていて、私も学生の頃や最近も復刻版で見ていたのです。

 でも、やはり書物は原本で見るにこしたことはありません。昭和8年(1933)に刊行された『京都民俗志』の巻頭には、東洋文庫版には復刻されなかった写真が掲載されていたのです。
 その最後の1枚は、やはり衝撃的でした。

  『京都民俗志』より釘抜奉献
   『京都民俗志』より釘抜地蔵

 釘抜地蔵。
 キャプションには「釘抜奉献」とあります。

 本文を引用してみましょう。

 釘抜地蔵尊
 千本通寺内東側石像寺の内に在る。身体に何処か病気があると、総て腫物だとか瘤[こぶ]であるとか云ひ拵へて抜いて下さいと御願ひする。蝋燭を上げ堂の周囲を御千度して廻る。
 堂の周囲には処狭き迄に釘抜に釘を添へた額や、奉納の小絵馬が貼り詰められてゐる。
 門の前左手には子供の丈位の大きな釘抜と釘がある。同寺の事は、雍州府志巻四等にも見えてゐる。(481ページ)


 病気があると、それを腫れ物やコブと称して「抜く」祈願が行われており、その作法はロウソクをあげた上で、お堂の周囲を「お千度」して回る、というものだったようです。これは現在に続く参拝法ですが、釘抜きですから腫れ物などを抜いてしまうわけですね。
 また、釘抜きと釘を付けた絵馬が御礼の奉納されていました。
 子供の背丈くらいの大きな釘抜きは、今もあります。

 釘抜地蔵
 「子供の丈位の」釘抜き


  釘抜地蔵に参拝

 実際に、釘抜地蔵に行ってみましょう。

 釘抜地蔵
  釘抜地蔵で知られる石像寺

 お寺は浄土宗の石像寺といい、藤原家隆らの墓と伝えるものがあるので、山号を家隆山といいます。
 場所は、千本上立売を上がったところ。観光エリアではないのですが、いわゆる「西陣」で、伝統ある機業地にあるお寺です。京都の人からは、親しみを込めて「釘ぬきさん」と呼ばれています。

 釘抜地蔵

 この中門を入ると境内で、正面に地蔵さんが祀られています。

 釘抜地蔵
  釘抜地蔵

 当然、いまでもお堂の壁面に所狭しと奉納の絵馬が打ち付けられています。
 お堂の背面には、250枚ほどの絵馬があって、側面などと合わせると500枚は優に超えています。いずれも平成十何年など新しいものです。 

  釘抜地蔵

  釘抜地蔵
  奉納絵馬

 額縁の左右に年月日と氏名があり、枠内に「御礼」の文字と、干支+男/女、年齢が記されます。こういった記載法は一般的な小絵馬と同じですね。そして、中央には釘抜きと釘2本が取り付けられるのです。

 『京都民俗志』の写真を少し拡大しましょう。

  『京都民俗志』より釘抜奉献

 現在と似ていますが、釘抜きと釘はある程度そろっているものの、若干異なったものを付けている人もいます。
 そして何より、釘抜きと釘の配置が左右逆です(右に釘抜き、左に釘)。これは不思議ですね。確かに、釘を抜くときは右手に釘抜きを持つわけですから、こちらが自然と言えないわけもない……
 また、文字なのですが、「御礼」ではなく「奉納」と書いているものが多いようです。


 古い絵馬を見る

 このお堂の前面や左隣の休憩所には、少し古い絵馬が掲げられています。これらは、定形の小絵馬とは異なるスタイルになっています。

 釘抜地蔵
  休憩所の東面にある絵馬

 休憩所に掲げられた絵馬です。
 中央のものは釘抜きだけ、左右は釘だけです。

  釘抜地蔵の奉納絵馬
   織田貞治郎の奉納絵馬

 中央の絵馬は、明治28年(1895)8月に、松原通高倉東入町(現在の下京区杉屋町あたり)に住む織田貞治郎が奉納したものです。ここにはちゃんと「御礼」と書かれています。
 そして、年齢は8歳。子供です。もちろん親御さんが奉納したということになりますが、しっかりした額縁を伴う立派な絵馬です。当然、専門の額師に頼んで作ったものです。これだけの奉納をするということは、貞治郎はさぞかし重い病を患っていたのでしょう。でも、それが快癒して御礼に奉献したのです。両親の喜びは、どれほどだったでしょうか。


 釘抜地蔵
  本堂に掛かる米常の奉納絵馬

 こちらは、本堂の前面左上に掲げられている絵馬です。明治20年(1887)7月に、東堀川通姉小路角(現在の中京区姉東堀川町あたり)に住む米常が奉納したものです。「米常」という名は、米屋さんなのでしょうか。
 絵はかなり剥落していますが、掛け布団を背中に掛けて布団に座った女性が、手を合わせて拝んでいます。鉢巻をしていて、年老いているようにも見え、長い患いのようです。左上には、釘抜地蔵の堂の前で額づいて参拝する女性が描かれています。おそらく病人の代参なのでしょう。そして、右上には小さな額に入った釘2本が取り付けられています。
 どうやらこの女性も、長い病を患っていたものが、釘抜地蔵に祈願することで病が癒えたのでしょう。病人と参拝者は、もしかするとお母さんと娘さん、あるいは姑さんとお嫁さんかも知れません。


 釘抜地蔵が現れる絵馬

  休憩所に掛けられた絵馬です。

  釘抜地蔵の奉納絵馬
   杉田友吉の奉納絵馬

 明治14年(1881)6月、杉田友吉という人が奉納した絵馬です。130年余り前のものですが、綺麗な状態で掛けられています。
 布団の上に座った男性、髪は描かれていないのでおそらく老人なのでしょうか、手を合わせて拝んでいます。右上方から、雲に乗ったお地蔵さんが降りてきています。その左手をよく見ると、何やら持っておられます。釘抜きのようにも見えるし、後で紹介する説話を考えると2本の釘かも知れません。
 釘抜地蔵が男性の苦を抜くために、やって来られた場面なのです。
 この男性の年齢や住所などは分かりませんが、布団から離れられない長い病気だったのは、前の例と同じです。


 古い説話と抜苦の地蔵

 釘抜地蔵は、3尺6寸(約1m)の石造の立像なのですが、弘法大師が造ったとも唐から伝えられたとも言われています。
 寺に伝わる説話を『京都市の地名』から紹介しましょう。

 寺伝によれば弘治年間(1555-58)油小路上長者町の商人紀ノ国屋道林が両手の痛みに耐えかねて平癒を祈願した。夢中に地蔵尊が「汝[なんじ]は前世に人を怨み、仮の人形をつくり、両手に八寸釘を打ち込んで呪いたることあり。その罪障によって苦しみを受く。われが救うてとらせよう」というと、地蔵の手に二本の釘がにぎられ、痛みが失せたという。
 以来、病気平癒の祈願には身体に釘がささったと称して祈ると霊験があるとの信仰ができた。お礼には二本の釘と釘抜を板にはりつけて奉納する「御礼絵馬」の風習ができ、堂のまわりにところ狭しと掲げられている。(639ページ)


 御礼の小絵馬に釘を2本張り付けるのは、両手に打ち付けた“呪詛の釘”がもとだったとは……
 そう思うと少し怖いですね。

 一説には、釘抜地蔵の称は「苦抜地蔵」が転化したものといいます。
 古くから地蔵は、地獄に落ちた人を救ってくれるというように、人々を救済し苦しみを除いてくれる利益があると信じられてきました。特に、病を治してくれるという点では、すでに鎌倉時代の説話集である「沙石集」に、次のような話が登場しています(速水侑『菩薩』より引用)。

 帥[そち]の僧都という僧が病気にかかり命も危ないとき、どこからともなく若い美しい僧が現われ、なにもいわずに看病してくれる(中略)僧都は弟子に、「あの僧はだれか」と聞きますが、僧都以外の人には、その僧の姿がみえません。そこで弟子たちが「あるいは地蔵菩薩が看病なさったのではないでしょうか」というと、僧都は「まことにそうかもしれぬ。そういえば、お帰りになるとき錫杖[しゃくじょう、地蔵が持つ杖]をかついでおられた。ああかたじけないことだ」と感涙にむせんだといいます。(161ページ)

 時代がくだるにつれて、地蔵は人々に降りかかる災厄の身代わりになってくれる「身代り地蔵」の色合いを強めていきます。たいへん現世利益的な信仰を集めていくわけです。
 石像寺の釘抜地蔵も、まさにそのひとつといえるでしょう。
 「都名所図会」巻1にも、

 地蔵堂には弘法大師の作り給ふ立像の石地蔵あり [割注]信ずるに感応ありて霊験いちじるし。石像寺の号これより出たり

 と特記しています。

 「都名所図会」より石像寺
  「都名所図会」より石像寺(部分) 右端に「石地蔵」が見える

 庶民の苦しみを抜き続けてきた釘抜地蔵。一度お詣りしてみてください。




 釘抜地蔵 (石像寺)
 
 所在 京都市上京区千本通上立売上る花車町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「千本上立売」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 井上頼寿『京都民俗志』西濃印刷、1933年
 井上頼寿『京都古習志』地人書館、1943年
 速水侑『地蔵信仰』塙新書、1975年
 速水侑『菩薩-仏教学入門-』東京美術選書、1982年
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年


【新聞から】京都の人はコーヒーがお好き?

その他




  カフェにて


 家庭のコーヒー消費 京都がトップ
 日経 2014年1月21日付 夕刊


 日経新聞らしい話題ですね。
 夕刊(関西)の<データとこ勝負>欄に出た記事です。

 政令市・県庁所在地の市の中で、1世帯当たりのコーヒー(豆と粉末)の年間支出額が、京都市が全国一だったそうです(2010年-12年平均、総務省家計調査による)。
 
 1位  京都市(7,099円)
 2位  金沢市(6,980円)
 3位  仙台市(6,443円)
 4位  鳥取市(6,315円)
 5位  高松市(6,192円)
 
 京都市は、全国平均5,122円を大きく上回っています。
 どうでしょう、「古都」なのに洋モノのコーヒーが1位とは…… 意外な結果というべきなのでしょうか。

 コーヒー(豆と粉末)は、高齢者世帯ほど消費額が高い傾向にあるようです。逆に、缶コーヒーなどのコーヒー飲料は若年世帯の消費が多くなっています。確かに、年配の方は余り缶コーヒーなどは買わないでしょうね。
 
 以前のデータ(2007年-09年)を見ると、順位はこうなっています。

 1位 盛岡市
 2位 奈良市
 3位 金沢市
 4位 京都市
 5位 徳島市

 このときは4位でした。

 では、他の飲物はどうでしょうか?
 緑茶(数量=g)3位、緑茶(金額)は21位です。
 紅茶は、数量が6位、金額も7位と上位ですね。
 また、コーヒー飲料(缶コーヒーなど)は、18位と低めです。
 ココアは8位、果実・野菜ジュースは11位、炭酸飲料は30位と、炭酸は嫌いなのかな?

 もう少し、総務省の家計調査(2010年-12年平均)を見ていきましょう。
 京都が、品目別ベスト5に入っている主なものをピックアップしてみます。

 他の野菜の漬物 1位(大根漬・白菜漬以外のもの)
 ビール     2位
 さつまいも   2位
 うなぎのかば焼 2位
 コロッケ    2位
 パン      2位
 ぎょうざ    3位
 バター     4位
 他の和生菓子  4位(ようかん・まんじゅう以外のもの)

 日経の記事も書いていますが、京都市は神戸市などともにパンの消費が盛んなのです。統計では、バターや紅茶も多くなっています。
 ということは、コーヒーも含めて、おそらく洋風の朝食をとる家庭が多いということなのですね。
 ちなみに、喫茶代は8位で、こちらも上位でした。

 私の母なども、戦前生まれなのですが、朝はいつもパンとコーヒーです。旅行に出掛けても、朝にコーヒーを飲まないと調子が出ないと言っています。

 古都・京都の意外にハイカラな一面がのぞける統計。理由はさまざまありそうですが、みなさんも考えてみてください。




 【参考文献】
 総務省「家計調査」(総務省のウェブサイトで閲覧できます)


きょうの散歩 - 大船鉾の復興展示は京都駅前ヨドバシカメラ!- 2014.1.18 





大船鉾復元展示


 夕方に京都駅前で用事があったので、午後から出掛け、まず渉成園(枳殻邸)を訪ねて庭を楽しみ、そのあと映画「利休にたずねよ」を見たのですが、まだ時間が余りました。
 そこで、こんな施設に入ってみました。

 大船鉾復元展示

 駅前の京都ヨドバシ。
 その1階北東隅に、この展示室があります。<京都祇園祭大船鉾復興展示(京都市無形文化遺産展示室)>。名前は堅いけれど、無料で気軽に入れます。

 何を展示しているかというと、その名の通り……

  大船鉾復元展示
   復興展示中の大船鉾

 大船鉾(おおふねほこ)そのものが展示されています。
 ただし、これは復元途上の姿なのです。

 大船鉾は、かつては祇園祭の後祭※ の最後尾を巡行していました。(※昭和40年(1965)まで、山鉾巡行は前祭と後祭に分かれていた。詳しくは、こちら ⇒ <祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活>
 ところが、幕末の元治元年(1864)、蛤御門の変に際して、大船鉾は大部分が焼失してしまったのです。その後、復興することなく戦後に至ったのでした。
 
 大船鉾は、四条通新町下ルの四条町が鉾町ですが、保存会のみなさんは復興に取り組まれ、近年は唐櫃で巡行に参加されています。
 鉾の船体は、すでに2011年に復元されていました。それを機に、同年11月からヨドバシビルに展示スペースの提供を受け、復興途中の鉾を公開してきました。

 そして、このたび船体の上に乗る屋形(やかた)の部分も復元され、2014年1月16日より一般公開されたのです。

 大船鉾復元展示
  復元された屋形。四方に唐破風がついて優美な姿を見せる

 大船鉾復元展示

 大船鉾復元展示
  後部に設えられた艫櫓(ともやぐら)

 鉾は、鉾立てや巡行時に割と近くで見られますが、こうして新しい白木の鉾を見ることは稀有な経験ですね。
 側面は、竹を用いたカゴのような編み方です。軽くて強くて平滑な、工夫されたボディ。先人の知恵を感じます。

 大船鉾復元展示
  船体の側面

 縄の太さを活かした材木の結わえ方も、堅牢にして優美極まりない逸品です。

 大船鉾復元展示

 幕の下部は、船らしく青海波(せいがいは)の文様で、お洒落ですね。

 大船鉾復元展示

 白木で組まれた屋形は、今後、漆塗りや箔(はく)押しをして仕上げられるのでしょう。完成が待ち遠しいです。

 配布している印刷物には、復興に必要な経費が記されていました。

  船形木組み 新調  3000万円
  車輪・石持 新調  3000万円
  屋形 新調     2000万円
  懸装品 修理    2000万円
  その他の装飾 新調 2000万円

 つまり、1億2000万円必要なのです!
 山鉾は、動く美術館と言われるけれど、やはりこれだけの金額が掛かるのですね。

 ちなみに、いま展示室にある船体には、こんな車輪が付けられています。

 大船鉾復元展示

 よく見ると「菊水鉾」とあって、借り物なのです。これから新調されるのでしょう。

 今年(2014年)は、大船鉾焼失から150年目に当たります。この夏、前祭と後祭という形に戻った祇園祭で、復興した大船鉾の雄姿が見られることを楽しみにしています。

  大船鉾復元展示




 京都祇園祭大船鉾復興展示-京都市無形文化遺産展示室-

 所在 京都市下京区烏丸通七条下る東塩小路町 京都ヨドバシビル 1階
 見学 無料
 交通 JR「京都」下車、徒歩約3分


京の “底冷え” も、今は昔?

その他




『京都名勝誌』より京都盆地


 底冷えの町・京都

 今冬(2014年)の京都は、例年より少し寒い気がして、それが身体に堪えるような毎日です。今回は、今日=1月16日は何の日、というテーマで書いてみました。

 ご承知のように、昔から京都は、盆地ゆえに「底冷え」すると言われてきました。半世紀近く前、私の子供の頃も、冬には20~30cm積雪することが普通で(ただし市内の北端でしたが)、足にはしもやけができました。
 たまに、ドカンと雪が降ることもあって、30年前の昭和59年(1984)12月には、市内中心部でも数センチの積雪がありました。その夜、私は南座で顔見世を見ていたのですが、劇場から出ると四条通に相当な雪が積もっており、タクシーなどがチェーンを巻いて走っているのに驚いたことを覚えています。

 時を遡るほどに、京都は底冷えの町でした。
 昭和34年(1959)に出版された『日本地理風俗大系 7 』には、次のように記されています。

 京都市における8月の毎日の最高気温の平均は32.4℃、1月の最低気温の平均は-1.9℃である。これを他の都市とくらべてみると、8月の最高気温では東京よりも暑く、京都をしのぐのは熊本だけである。また1月の最低気温では、日本海沿岸の福井・金沢・新潟よりも少し寒い。
 このように気温の点では、京都は全国でいちばん暑い都市といえるほどで、市内では7~8月ごろ、暑さのために眠りにくい夜もしばしば経験される。また冬は、盆地のため夜になって急に気温が低下し、それに湿度がわりあいに高いため、寒いというよりは、じわじわとしめつけられるように冷たく感じられる夜が多い。これが京都の名物とされている冬の底冷えである。(247-248ページ)


 55年前は、北陸地方より寒かったとは、少し驚きです。


 最低気温の記録は -11.9度

 現在の最低気温はどのくらいのものでしょうか?
 1981年から2010年の1月の最低気温の平均は、1.2℃、昨年(2013年)は0.4℃です。上記の1950年代に比べると、2~3℃ほど上昇しています。

 では、最低気温の記録は何度なのでしょう?
 今では想像もつかないのですが、-11.9℃というレコードです。これは、明治24年(1891)1月16日、つまり今から123年前の今日、記録されました。

 参考までに、ベストテンを書いておきましょう(気象庁のデータによる)。

 1  -11.9℃(明治24年=1891 1月16日)
 2  -11.6℃(明治27年=1894 2月 1日)
 3  -11.0℃(明治37年=1904 1月26日)
 4  -10.9℃(大正 2年=1913  2月12日)
 5  -10.8℃(明治28年=1895 2月22日)
 5  -10.8℃(明治19年=1886 1月 5日)
 7  -10.6℃(大正 2年=1913  2月11日) 
 8  -10.5℃(明治28年=1895 1月19日)
 9  -10.3℃(明治19年=1886 2月18日)
 9  -10.3℃(明治19年=1886 2月 2日)

 ※1880年(明治13)11月~2014年1月のデータより 


 10位まで、すべてマイナス10度以下です。そして、大正2年(1913)までに観測されています。
 逆に、最高気温のベストテンのうち8回は、1990年代以降に観測されました(あとの2回は1973年)。
 これだけみても、明治時代の京都は寒く、「底冷え」が厳しいと言われたのが納得できます。

 ちなみに、明治24年(1891)1月の最低気温の平均は、-3.3℃。2013年より3.7℃も低かったのです。

 この記録が観測された京都の気象台は、京都御苑内にありました。明治13年(1880)1月の開設当初から、その場所です。
 現在の京都市中京区西ノ京笠殿町に移転するのは、大正2年(1913)12月のことです。ということは、最低気温ベストテンは、すべて京都御苑内で記録されたデータなのですね。

 『京都』より金閣寺
  雪化粧した金閣寺(昭和初期) (『京都』1929年 より)


 50年前との比較は?

 気象台が現在地に移った以降で比べてみましょう。
 50年前の昭和39年(1964)と今年(2014年)との比較です。1964年は、東京オリンピックがあった年でした。

 1964年1月の月平均の最低気温は、1.8℃となっています。この年は2月の方が寒く、-0.2℃だったようです。
 前後の年の1月は、1963年が-3.1℃と寒く、1965年が-0.7℃でした。1月の最低気温の平均で比べると、1964年は60年代で最も暖かい年でした。

 では、今年(2014年)はどうでしょうか。
 ここ半月のデータですが、最低気温の平均は0.8℃です。えっ、1964年の方が暖かかったのか!
 ちなみに、昨2013年は0.4℃でした。
 
 どうも気象の素人ですからいけません。もう少し詳しく分析しないと分かりませんね。

 上記はすべて気象庁のデータをもとにしています。ウェブサイトで簡単に見られますので、みなさんも時間のあるときに閲覧してみてください。




 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市、1929年
 『京都』京都市、1929年
 『日本地理風俗大系 7 近畿地方(上)』誠文堂新光社、1959年



京都の十日ゑびすも、今宮戎や西宮戎に劣らずおもしろい(その2)

洛東




蛭子船巡行


 四条通を進む行列

 十日ゑびすの参詣に京都ゑびす神社に行った後、四条河原町で買い物などをして、四条小橋のたもとにあるマツモトキヨシに入っていました。
 店を出て歩き始めると、なにやら太鼓の音が聞こえてきました。見ると、一団の行列が近付いてきます。

  蛭子船巡行

 明らかに神事ですが、幟(のぼり)の文字で何か判明しました。

  蛭子船巡行
  「八坂神社 祇園蛭子社」の幟

 幟には「八坂神社 祇園蛭子(えびす)社」と大書され、「えべっさん」の振り仮名が付けてあります。
 そうでした、実は八坂神社の中にも、えびす神社があったのです!


 “フロート”には七福神が!

 行列は続きます。

 蛭子船巡行 福娘

 蛭子船巡行 
 
蛭子船巡行
  えべっさん

 福娘に続いて、えべっさんの像が来ました。ブロンズのようです。

 蛭子船巡行

 先ほどの太鼓の音の主は、これでした。

 そして、メインはこちら!

 蛭子船巡行
  蛭子船

 一種の“フロート”なのですが、えべっさんが乗る「蛭子(えびす)船」になっています。いわゆる宝船ですね。

 蛭子船巡行
  蛭子船の七福神

 ここに七福神が乗船しています。えべっさん(恵比須)、毘沙門天、弁財天、福禄寿。
 大黒天、布袋尊、寿老人は逆側に乗っています。

 このえべっさんは、幟にも記されていたように、八坂神社にある蛭子神社のものです。1月9日の宵戎(よいえびす)の日に、「蛭子船巡行」として、祇園石段下から烏丸通までの四条通を巡行します。
 午後3時からの開始ですが、私が会ったのは復路だったせいで、午後4時すぎでした。
 
 それにしても、150万都市の目抜き通りを祭事の列がのんびり進むありさまは、現在と過去とが交差する歴史ページェントで、心躍るものがあります。

  蛭子船巡行
  蛭子船のえべっさん


 八坂神社の北向蛭子社

 十日戎の頃は、四条通のアーケードにも神紋の入った幕が懸けられ、提灯が吊られています。

 祇園のえべっさん 祇園のえべっさん

 石段下にも、幟が立っています。

 祇園のえべっさん

 この蛭子社の鎮座の経緯について、八坂神社の宮司を務めた高原美忠氏の『八坂神社』には、次のように記されています。

 蛭子社 事代主神、もと千本の西[、]蛸薬師の南、夷[えびす]森にあり、西宮と称す。中古本社境内に移し、西楼門内南方にあり、北向蛭子と称した。
 明治13年[1880]12月絵馬社の西南に移し、更に明治34年[1901]8月24日今のところに移す。(110ページ)


 古くは、千本通蛸薬師あたりの「夷森」という場所に位置したといいますから、ずいぶん西にあったわけです。
 呼び名は「北向蛭子」で、このことは江戸時代の地誌にも出てきます。幕末の「花洛名勝図会」(1867年)には、「恵美須社 西楼門の内、南傍ニ有、北向」と記載されています。名前の通り、社殿は北を向いていたのです。同書の図です。

 「花洛名勝図会」より祇園社
  「花洛名勝図会」

 楼門の右側に「蛭子社」が見えます。やはり北向きですね。八坂神社に数多くあった末社のひとつでした。

 「花洛名勝図会」より祇園社

 これが現在の社殿で、正保3年(1646)のもの。三間社流造(重要文化財)です。絵にも、流造に描かれていますね。

 北向蛭子社
  テントの向うが北向蛭子社 (2014年1月10日撮影)

 北向蛭子社
  北向蛭子社

 鳥居があり、小ぶりの祠があります。ふだんは、本殿への参道右側にあって目立たない存在ですが、今日は格別です。
 おもしろいことに、サッポロビールから献酒が……。ある意味、当然ですかね?

 北向蛭子社

 こちらの笹と吉兆(縁起物)は、このような感じです。

 北向蛭子社
  福笹

 北向蛭子社
  吉兆

 笹は1,000円で授与、吉兆には大鯛、大蔵、大福帳、千両箱、金小槌(以上、各500円)、福金俵、福巾着、箕三面(以上、各1,000円)などがあります。
 1月10日(本蛭子)午後3時に、蛭子社祭が執行されます。福笹の授与は、1月9日、10日です。

 八坂神社
  八坂神社本殿(重要文化財)




 北向蛭子社(重要文化財)

 所在 京都市東山区祇園町北側 八坂神社
 拝観 境内自由  十日戎の福笹授与は1月9日、10日
 交通 京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1867年
 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年



京都の十日ゑびすも、今宮戎や西宮戎に劣らずおもしろい(その1)

洛東




 十日戎


 京阪神のえびす神社と十日戎

 京阪神の正月行事といえば、初詣などとあわせ、「十日戎(えびす)」があります。

 大勢の参拝者でごった返す商都大阪の今宮戎神社や堀川戎神社、健脚自慢の男たちが競走する開門神事(福男選び)で有名な西宮神社、そして建仁寺門前にある京都ゑびす神社などの参拝です。
 江戸時代以来、上方(かみがた)と呼ばれた京阪では商業が盛んで、多くの商売人たちがこれらの神社を信心しました。大阪では、もっぱら「えべっさん」と親しまれ“商売繁盛で笹持ってこい”のフレーズは余りにも有名。NHKの関西ローカルニュースでは、必ず中継があります。一方、西宮神社は近年「開門神事」がテレビネタとして話題に。早朝6時に開門されるので、朝のワイドショーでも放送されます。ちなみに、昨年(2013年)一番福になったのは地元の高校生で、彼に“密着”する局もあったほど。今年(2014年)は、D大学の学生が一番福でした。

 今宮戎と西宮戎に比べて、京都のゑびす神社は地味な印象ですが、ご由緒は古いものです。建仁寺の門前(西側)に位置していますが、もとはといえば、栄西が開創した建仁寺の鎮守でした。つまり、約800年の歴史を持つことになります。江戸時代の地誌などにも、当社は建仁寺の戎神社として認識されているようです。

 黒川道祐「雍州府志」(1686年)には、栄西が唐から帰朝する時、嵐に遭い、蛭児(ひるこ=えびす)像を祀って祈ると、暴風が静まった。無事に帰った栄西は、社を建てて祀った、と記します。
 この話は、当社創建にまつわる広く知られた言い伝えです。


 露店でにぎわう大和大路から、ゑびす神社へ

 十日戎

 十日戎

 四条大橋の東1筋目、この通りは大和大路ですが、その交差点の南側に「十日ゑびす」と大書されたゲートが立てられます。ここから先は車両は通行止め。狭い道の右側に露店が並びます。建仁寺の門より先は、道幅が広くなるので、両側に露店が出ます。ご商売の方や年配の方々など、参拝者が行き交います。

 十日戎
  べっこう店

 十日戎
  べっこうのくし、かんざし類

 十日戎
  はきもの店

 このあたりは、祇園や宮川町といった花街に近く、鼈甲(べっこう)の櫛、かんざしなどを扱うお店や、草履、下駄などを扱う履物店などがあります。履物屋さんは、いつもは目を引くディスプレイをされているのですが、十日戎では店頭に販売台を特設されています。

  十日戎

 神社から帰ってくる方たちは、手に笹を持っておられます。
 その数は意外に少ない感じですが、この笹については後ほど詳しく触れたいと思います。

  十日戎
  京都ゑびす神社

 そうこうするうちに、ゑびす神社に到着です。


 福笹と吉兆

 十日戎
  本殿に参拝

 神社に着いて本殿に参拝すると、笹を授与してもらいます。この笹は「福笹」とか「吉兆笹」と呼んでいます。

 十日戎
  授与所

 十日戎
  祈祷

 笹は、授与する前に、神楽にあわせて舞う巫女さんによって祈祷されます。

 十日戎
  笹の授与

 ちなみに、笹は孟宗竹の枝だそうで、3,000円です。
 そのあと、いよいよ縁起物を付けてもらいます。この縁起物を「吉兆(きっちょう)」などと呼びます。

 十日戎
  吉兆の授与

 吉兆には、さまざまな種類があります。

 十日戎
 吉兆の数々

 絵馬、大宝、福俵、千両箱、福鯛、宝来、金蔵、福箕、福熊手、戎顔、駒札、小槌、福輪、宝船、福鈴などです。絵馬は800円、宝船と福鈴は1,500円、他は1,000円。
 何をいくつ付けてもよいのですが、たくさん付けると笹と合わせて1万円位してしまいますね。

 これを付けてもらったら、念押しとして、本殿の後方の板壁を叩いて帰ります。

 十日戎
  ここを叩きます “えべっさん、よろしゅう頼んます”


 江戸時代の吉兆は?

 寛政11年(1799)に刊行された「都林泉名勝図会」には、十日戎の光景が活写されています。

 「都林泉名勝図会」より「建仁寺門前十日笑姿参」
 「都林泉名勝図会」巻1より「建仁寺門前十日笑姿参」

 200年余り前の光景ですが、現代と同じで、本殿前に参拝者が密集し、笹を持っている人もいます。
 その笹と授与所をよく見ると、当時の吉兆が描かれています。

 「都林泉名勝図会」より「建仁寺門前十日笑姿参」

 細かく見ていくと、商業につきものの枡(ます)、米俵、大福帳、秤(はかり)や、小判と丁銀(なまこ銀)、さらには「宝尽し」に登場する金嚢(きんのう、銭袋)、打出の小槌、宝鑰(ほうやく、蔵の鍵)も見え、たばね熨斗(のし)もあるようです。
 意外にリアルに画かれていて、おもしろい!

 その種類は現代とは随分違っているようで、宝船のような複雑な造形はなく、定番の熊手や箕も見当たりません。宝尽しの品々と商業用具が中心なのが特徴のようです。ちなみに、宝鑰は蔵の鍵なのですが、現在では蔵そのものに変っています。確かに、昔の鍵を見ても分かりませんものね。

 こんなふうに、いろいろと楽しめる十日戎。
 参拝後、また大和大路を上がって引き返した私ですが、実は帰路、意外なものに出食わすことになります。
 続きは、次回に。




 十日戎(京都ゑびす神社)

 所在 京都市東山区大和大路通四条下ル小松町
 参拝 1月8日~12日(10日が大祭)
 交通 京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約10分


 
 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年
 『雍州府志(上)』岩波文庫、2002年
  

絵馬堂が意外におもしろい!(6) - 八坂神社 -

洛東




八坂神社扁額集


 大きな絵馬堂をもつ八坂神社

 八坂神社は、大晦日の「をけら詣り」や初詣でもにぎわう神社ですが、楼門(西門)を入って左側(北側)に進む参詣者は少ないようです。

 八坂神社
  八坂神社 楼門(重文)

 境内の北西端あたりになるのですが、大きな社殿が建っています。
 桁行七間、梁間二間、入母屋造の立派な長い建物です。これが八坂神社の絵馬堂です。

八坂神社
  八坂神社 絵馬堂

 京都の寺社の絵馬堂では、北野天満宮や今宮神社、御香宮神社などと並んで大きなものです。実長を知らないのですが、おそらく最も長いのではないでしょうか。
 江戸時代の建築ですが、「京都御役所向大概覚書」によると、正保3年(1646)の社殿等修復の時に絵馬堂はなかったようです。「都名所図会」(1780年)には描かれていますので、その間に建てたと考えられます。

 八坂神社

 絵馬堂の内外に絵馬が奉献されていますが、現状では新しいものが多く、貴重なものは収蔵されているようです。

 幕末に出た「花洛名勝図会」巻1(1864年)にも、この絵馬堂は登場しています。

 「花洛名勝図会」より祇園社絵馬堂
  「花洛名勝図会」より祇園社

 なかなかリアルに描かれていますね。本文中には、

 絵馬舎[ゑまや] 本殿の西ニあり、世に名高き絵馬多し、「扁額軌範」に委[くは]し

 と記されています。
 ここに出てきた「扁額軌範」とは何なのでしょうか?


 『八坂神社扁額集』は明治43年の編纂

 「扁額軌範(へんがくきはん)」とは、京都の著名な絵馬を集めた書物で、文政2年(1819)に出版されました。清水寺や北野天満宮などが所蔵した大型の絵馬や、今日では失われてしまった貴重な絵馬などを収録しています。
 『新修京都叢書』にも収められていますし、現在ではウェブサイトでも見られて便利ですね。

 今回は、さらに絞って絵馬を紹介した書物、明治末に刊行された『官幣中社八坂神社扁額集』を紹介しましょう。明治43年(1910)に八坂神社から発行されました。わりと残っているようなので、かなりの部数が刊行され、参拝の記念などに買い求められたのでしょう。

  八坂神社扁額集
  『官幣中社 八坂神社扁額集』

 タイトルの通り、八坂神社の絵馬だけに絞っていますので、「扁額軌範」などより多数紹介されています。明治時代なので写真は入っておらず、いちいち描き起しているのですが、かえってその方が見やすい気もします。

 刊行時の宮司・保科保による序文が、巻頭に載せられています。そこに本書成立の経緯が記されています。以下、大意です。

 これまで八坂神社の額堂に掲げられていた扁額は、複雑で玉石混淆の状態だった。かねてより整理しようと思っていたが、今年(明治43年=1910)4月にようやく取捨選択ができた。保存するものが160点余り、お蔵入りにしたものが130点余り。完全に選別できてはいないが、かなり整然とした状態になった。
 歴史に関する画には、説明書きを貼付して、観る人の興味をひくようにした。
 たまたま「扁額軌範」という冊子を手に入れた。これは八坂神社、北野天満宮、清水寺に掲げた傑作の額を選んで、図付きで解説した本である。(中略)
 古来、馬を神社に奉献する例があった。のちになっても、これを献じる心をもって額に描いて奉納したという。絵馬は、画家が技をふるって描いて奉献したもので、その精神は現在の営利広告の心を挟むものとは異なる。描いているものを不朽に伝えるべきであり、殊に忠臣孝子や勇士などの歴史画は、観るものの感情を奮い起させて、教育上の利益も大きい。また、風俗や風景の画も好古家の参考になるだろう。
 「扁額軌範」編者らの志を継いで、この本を作成した次第である。


 八坂神社・保科宮司の弁によると、明治末頃まで、絵馬堂の絵馬は多数入り乱れた状態で掛けられていたようです。おそらく、奉納されるものを次々に掲げていったので、何がなんだか分からないありさまだったのかも知れません。それを明治43年(1910)に、ようやく整理できたというのです。
 その際、「観ル者ヲシテ興味ヲ感発セシメン」として説明を加えたのは、まさに絵馬舎が“美術館”的な存在であったことを示していて興味深く感じます。
 その説明書きの参考になったのが「扁額軌範」でした。

 その流れで作成された『八坂神社扁額集』も、「扁額軌範」に多くを依っています。本文中、○に「軌」の印があるものが「扁額軌範」を典拠とする解説で、○に「編」とあるのが本書の編者による解説です。

  『八坂神社扁額集』
  ○軌と○編に注意

 「扁額軌範」を大いに参考にしながらも、本書独自の解説を加えて編集しています。


 迫力ある絵馬の数々

 ここでは、その中のいくつかを紹介していきましょう。

  八坂神社扁額集
   祇園社古図

 八坂神社(祇園社)古図です。元徳3年(1331)の作とされています。
 写真の部分は、楼門(西門)の前あたりを描いていますが、図全体は、南は清水寺、そして八坂の塔を描き、八坂神社の境内を描写します。西は、鴨川を経て、四条寺町の御旅所あたりまでを描いています。
 細字の書き込みも、おもしろいです。写真の部分では、下部に、「西門の内側には、むかし“祓婆々”(はらいばば)という婦人が、頭に綿を載せ、幣串を振って、参詣人の不浄をお祓いしていた」と記されています。ありそうな話ですが、今からみれば不思議な光景ですね。


 仁田忠常の猪退治

 これは有名な図。

 八坂神社扁額集
    仁田四郎忠常斬猪図

 元禄15年(1702)に、海北派の海北友賢が描いた絵馬。海北友賢は、海北友雪の門人で、18世紀初頭に作品を残しています。絵馬では、このほかに清水寺の「村上彦四郎図」があります。

 本書には、絵馬が掛かっていた場所も記載されており、本図には「絵馬堂五ノ間ニ掲ク第九十一号」とあります。第91号は通し番号として、「五ノ間」とはどこなのか? 本書全体を見ると、最高「十三ノ間」までありますから、どうやらこの呼称は、桁行七間、梁間ニ間を 7×2=14区画に分けたものではないでしょうか。ただ、では五ノ間がどこかというと、はっきりと分からず残念です。

 勇敢にイノシシに乗っている人物は、源平合戦に源氏方について活躍した武将・仁田(新田)忠常です。源頼朝の臣下ですね。伊豆半島の付け根にある函南町に「伊豆仁田」という駅がありますが、そのあたりを根拠地としていました。

 この絵柄なのですが、建久4年(1193)に行われた「富士の巻狩り」の際の出来事をモチーフとしたものです。
 巻狩りのさなか、矢を受けた手負いのイノシシが頼朝に向かって突進してきました。仁田忠常は矢をつがえて射ようとしましたが間に合わず、咄嗟にイノシシの背に後ろ向きに飛び乗ります。
 イノシシは暴れ、忠常は烏帽子や沓(くつ)など脱げてしまいますが、腰の刀をイノシシに突き立てると、さしもの大イノシシも絶命したということです。

 「曽我物語」に描かれ、のち人口に膾炙したエピソード。絵馬は、忠常の大活躍を結構リアルに描写しています。画面のどこにも仁田忠常とは書かれていないようですが、昔の人をこの絵柄を見たら、すぐに忠常の猪退治だと分かったのでしょう。
 

 馬の絵馬

 馬そのものを描いた絵馬も多いわけですが、これは歴史画的な馬の絵馬です。

 八坂神社扁額集
  八幡太郎義家奮戦之図

 天明5年(1785)、江村春甫(石田幽汀の門人)による絵馬。絵馬堂の外壁(北面)に掲げられていたものです(第24号)。
 八幡太郎義家は、源義家のこと。勇猛な武者として、前九年の役、後三年の役などで名を馳せました。
 のち史実を離れて伝説の中の人物になっていて、前九年の役の際、敵将・安倍貞任に向かって、「衣のたては綻[ほころ]びにけり」と歌いかけると、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と歌い返したところから、矢を射るのをやめた、という逸話が有名で、唱歌にもなっています。

 この絵は、その貞任の郎党・海部九郎が、怪力の義家に掴まれて馬上に引き上げられている図だと「扁額軌範」では説明されています。騎馬武者が義家、馬の尻の方に逆さまになっているのが九郎です。
 絵馬の歴史画は、制作された時代の人々がよく知っていた人物、事件を描いています。


 戒めの絵馬と滑稽な絵馬

 八坂神社扁額集
  玄宗楊貴妃之図

 こちらは一転して中国の歴史。玄宗皇帝と楊貴妃の絵馬です。
 宝暦12年(1762)、狩野永良の画、絵馬堂の外(南面)に掛けられていました(第11号)。狩野永良(1741-1771)は、京狩野の6代目。

 本書の説明には、こうあります。

 此図は宴楽に耽[ふけ]る所を写し出したるものなり。所謂[いわゆる]宴楽、度なきもの大にしては国を滅ぼし、小にしては家、若くは身を失ふに至る。此図を以て鑑戒となすべし。

 唐の皇帝・玄宗は、楊貴妃を寵愛して国を傾けました。
 宴にうつつを抜かすと、程度の大きい場合は国を滅ぼし、程度が小さい場合は家を失ったり、身を持ち崩したりする。この図を見て、戒めとすべし。そんな意味です。あぁ、おそろしい……


 八坂神社扁額集
  大黒布袋角力之図

 最後は、おもしろい絵柄を。
 絵馬堂の二の間に掲げられた絵馬(第63号)。長谷川等伯の庶子とされる長谷川新之丞(宗也、1590-1667)の筆。
 この図には、「明応三(1494)丁酉」の年紀があって室町時代ということになりますが、実物には「明暦三丁酉」とあって、これは1657年、江戸時代の作品です。
 本書掲載の絵馬は、あくまで“コピー”ですので、こういう間違いもあるわけです。

 絵柄は、大黒さんと布袋さんが相撲を取っているもの。 
 おなかの出た二人が、締め込み姿で取り組んでいるのが、なんとも言えずユーモラスですね。
 大黒、布袋が相撲を取るという絵画のモチーフがあるようで、恵比須さんが行司になったりします。
 おめでたい図柄ですね。

 昭和54年(1979)に発行された『京都の絵馬』には、八坂神社の絵馬調査の結果も掲載されています。75件の絵馬がリストアップされていますが、すでに「玄宗楊貴妃図」などは失われていたらしく、また多くの絵馬が剥落などの痛みが激しかったと記されています。




 八坂神社 絵馬堂

 所在 京都市東山区祇園町
 拝観 境内自由 (ただし上記の絵馬は見られません)
 交通 京阪電車「祇園四条」から徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年
 『官幣中社 八坂神社扁額集』八坂神社社務所、1910年
 『京都の絵馬』京都市文化観光局文化財保護課、1979年
 『京都の絵馬』京都府立総合資料館、1980年
 京都市文化財ブックス7『近世の京都画壇』京都市文化観光局文化部文化財保護課、1992年
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年