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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

わざと競馬に負けて、敗者の作法を示した男の話 - 今昔物語集 -

京都本




「都名所図会」より藤森神社競馬


 暴れ馬を選んで競馬

 院政期の説話集「今昔物語集」は、馬にかかわる話をさほど採録しているとは思えません。
 もちろん、時代柄、馬はたくさん登場するでしょうが、馬が中心の話は余りないと思います。今回は、午年ということで、「競馬」をめぐる逸話を紹介しましょう。

 今昔物語集・巻23の第25と第26は、一対の話になっていて、前者が相撲の逸話、後者が競馬(くらべうま)の逸話です。
 相撲の話(「相撲人・成村、常世と勝負する語」)では、相撲の最手(ほて、最高位のこと)の成村と、同じく最手の恒世とが、真剣勝負し、決着後、二人とも不吉な運命をたどる物語です。
 一方、競馬の話(「兼時、敦行、競馬勝負の語」)は、奇妙な負けをめぐって、人々が解釈をめぐらす物語です。

 今は昔、右近の馬場で競馬[くらべうま]が行われた。第一番の組に、尾張兼時と下野[しもつけ]敦行が乗った(競馬は二人のマッチレースで行われる)。
 兼時は、競馬の名手で、昔の名人にも劣らない素晴らしい騎手だった。ただ、暴れ馬に乗ることだけは少し心もとないところがあった。一方の敦行は、暴れ馬でも全く嫌わない乗り手だった。

 その勝負では、敦行はとてもよく調教された馬に乗ることになった。兼時の方はというと、「宮城[みやぎ]」という有名な暴れ馬に騎乗したのだ。宮城は、走るのはたいそう速いのだけれど、ひどく跳びはねる癖があるので、兼時が騎乗する馬としてはとても不適当だった。ところが、兼時は何を思ったのか、宮城を選んだのだった。

 スタートして、二頭は接触しながら走って行った。宮城は、いつものように跳ね上がって走るので、兼時は彼の技術を発揮しても上手く乗りこなせず、ひたすら落とされないように乗るのが精一杯。どうすることもできずに、負けてしまった。

  「都名所図会」より藤森神社競馬 「都名所図会」巻5

 競馬には、並んで騎乗するところから、勝った後の乗り方まで、数多くの作法がある。しかし、負け馬の退場の仕方には先例もなく、知っている人も全くいなかった。けれども、その日の兼時の負けた後の様子を見て、見物した人々は「完敗した場合でも、このように乗らないといけないのだ」と見て取った。どのような作法なのか、みんなに“とても気の毒だ”と見えるような姿で退場していった。
 そんな乗り方だったので、見物の人たちは、兼時は負け馬に乗る作法をみんなに見せようと思って、あえて宮城に騎乗して、わざと負けたに違いない--そう人々は思った。
 それからあと、身分の高い人も、近衛府の舎人も、負け馬の作法は、こうするようになった。

 兼時が、そういうふうに思われたのも、もっともなことだ。なぜなら、彼は暴れ馬に乗るのは心もとないはずなのに、あえて宮城を選んだのだから。そのため、その日の兼時はわざと負けたのだと、世の人々は皆ほめたたえた、と語り伝えたという。 (巻23-26「兼時敦行競馬勝負語」)



 「不思議な負け」をめぐって

 「負けに不思議の負けなし」とは、プロ野球・野村克也氏が好んで使うフレーズですが、ここでは“不思議な負け”に遭遇して、人々が解釈をめぐらせたのです。
 そして、苦手な暴れ馬に乗った兼時の行為を、わざと負けたのだ、と解釈したのでした。

 尾張兼時は、10世紀後半の近衛府の舎人でした。長徳4年(998)には左近衛将監に任じられています。一方の下野敦行も近衛の舎人で、右近衛将監まで進んでいます。
 この日の競馬は、左近衛府と右近衛府との対抗戦で、そのトップバッターとして二人が対戦したのです。どちらも乗馬の名手、ふつうなら組織の威信をかけて先鋒として登場するのですから、故意に負けるとは思えません。

  「都名所図会」より藤森神社競馬 「都名所図会」巻5

 それでも見物の人々が、兼時の負けを「わざとだ」と思ったのは、敗北後の引き下がり方が余りに堂に入っていたからでしょう。
 さすがに「古[いにしへ]ノ者ニモ露恥ズ、微妙ナリケル者也」と評された騎馬の名手だからこそ、可能だった態度だといえるでしょう。

 とかく人は、攻めている時は強いけれど、守勢に入った時にボロを出すものです。2013年も、そんな風景を何度となく見て来た気もします。
 兼時のひそみにならって、立派な「負け方」を身につけたいものです。




 書 名:今昔物語集 本朝部
 典 拠:『日本古典文学全集』今昔物語集(3)(小学館、1974年)


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ささやかな自分へのクリスマス・プレゼントは ……  -「都林泉名勝図会」-

京都本




 師走、年の瀬、クリスマス。なにか自分にプレゼントしてもよいかなという気分で、少し買い物をしてみました。

  都林泉名勝図会

 「都林泉名勝図会」5巻6冊。江戸時代の版本です。
 寛政11年(1799)に出版されました。文は、「都名所図会」の秋里籬島(あきさと りとう)が書いています。

 挿図が豊富で、例えばこんな感じですね。

 都林泉名勝図会
  龍安寺の石庭(部分)

 有名な龍安寺の石庭。
 なによりも、人が庭に下りている! というところにギョっとしますね(笑)

 都林泉名勝図会
  天龍寺の庭(部分)
 
 タイトルにある「林泉」とは、文字通り、林と泉のことですが、それを持つ広い庭も意味します。
 ですから、本書は“京都名庭図鑑”というわけで、誰もが知っている著名な庭から、現代では失われてしまった庭まで、細かい図入りで紹介しているのです。図は150以上あるそうで、佐久間草偃、西村中和、奥文鳴の3人が絵を担当しています。
 
 届いた「都林泉名勝図会」をパラパラとめくっていると、やはり気付かされることがあります。

 <庭だけの本として見るのは、もったいない>。

 実は、本書には、庭以外のさまざまな情報も詰まっています。
 例えば、寺院の什宝。今でいう文化財ですね。それを「虫干し」の際に書き上げてきたというスタイルで紹介しています。これは、特に庭とは関係ないはずなのですが、結構詳しいんですね。
 また、年中行事や儀式。十日戎や伏見稲荷の初午詣、祇園祭の神輿洗いなど、有名な祭事を取り上げています。その絵には、生き生きと躍動する人々の姿も描かれていて、スタティックな庭の世界とは対照的です。
 さらに、宴席や遊楽の様子。芸妓をあげて楽しそうに宴会をしているシーンがたくさん出てきます。例えば、現在の円山公園にあった料亭(「○阿弥」のたぐい)が何軒も紹介されています。まぁ、ここには庭もあるので、その関連ともいえますね。
 そしてもちろん、当時の人々の風俗や寺社建築などについても読み解いていくことが可能です。
 どうやら本書は、庭だけの本というよりも、「都名所図会」(1780年)を引き継ぐガイドブックと捉えた方がよい感じです。

 本書については、改めて詳しく見て行こうと思うのですが、それは来年。

 なお、「都林泉名勝図会」は復刻もされていますし、日本文化研究センター(日文研)や早稲田大学のウェブサイトで閲覧することもできます。




 書 名 :「都林泉名勝図会」5巻
 著 者 : 秋里籬島
 版 元 : 京都・小川多左衛門
 刊行年 : 寛政11年(1799)


古書店めぐりも愉しい冬の京都





寺町通の古書店(大書堂)


 本屋の街、京都

 本が好きで、学生の頃は週に何度も本屋さんに行って種々買い込み、書物の中で古今東西に伸びていく世界に接して心を躍らせていました。あの当時、インターネットはなかったけれど、知の世界は際限なく広がっていたのでした。
 私に限らず、いつの時代も、多くの人たちが書物によって知的好奇心を満たし、拡大していました。京都は、そんな書物の世界の中心地として聳え立っていたのです。

 京都には、古書や新刊書を扱う本屋さんがたくさんあって、その理由に大学の街だからというのがあります。間違ってはいないのですが、大学の歴史は150年程度なのですから、起源は別のはずです。

 書店誕生前の歴史にさかのぼってみると、かつて本を作ってきたのは寺院でした。例えば、京都では、臨済宗寺院が経典をはじめとする仏書や、儒書、医書などを出版していました(五山版)。
 江戸初期には、橋口侯之介氏によれば、日蓮宗の諸寺(要法寺、本能寺、本圀寺)や浄土宗の誓願寺などが、出版活動を行いました。版木を彫り、刷って、製本するという一連の技術は、寺の外にも移植され、仏書以外の書物の出版につながっていったといいます(『和本入門』)。
 今田洋三氏によると、元禄9年(1696)に刊行された『増益書籍目録大全』には、7,800冊にのぼる書物がリストアップされ、約400名の出版者が記載されているそうです。そして、400名余のうち約90%が京都の人だといいます(『江戸の本屋さん』)。
 中世の五山版の伝統を引き継ぎ、元禄時代になっても出版の中心は京都だったのです。
 また、各々の書物屋にも得意分野があり、「法華書」(日蓮宗関係書)は平楽寺、中野五郎左衛門、一向宗(浄土真宗)は西村九郎右衛門、真言書は前川権兵衛、中野小左衛門、禅書は田原仁左衛門、儒医書は風月などと、『京羽二重』に記されています。


 寺町通に集まる書肆

 寺町通(寺町御池)
  寺町通

 文化11年(1814)の記録によると、京都の本屋は200軒ほどありましたが、その所在地をたずねると、寺町通に33軒、二条通に14軒、三条通に11軒、四条通と烏丸通はそれぞれ7軒などとなっています(『東西書肆街考』)。およそ、北は二条通、東は寺町通、南は四条通、西は烏丸通に囲まれた一角に京都の書店は集中していて、その他、東西の本願寺近辺に所在している程度でした。

 江戸後期に最も書肆が集中していた寺町通には、今でも何軒もの書店があります。
 昭和54年(1979)に岩波新書から出た脇村義太郎『東西書肆街考』56-57ページには、「京都の古書店」という地図が掲載されています。それによると、寺町通には北から、彙文堂、文苑堂、芸林荘書店、尚学堂書店、竹苞楼書店、文栄堂書店、其中堂書店、西村春版画店、北川白州堂、マキムラ書店、大書堂書店、と続き、四条通以南には、冨山房書店、三密堂書店、大観堂書店と続いています。

 大書堂
  寺町通の古書店(大書堂)

 すでになくなったところや移転した店もありますが、多くは現在も店舗を構えておられます。
 最近も何度かぶらぶらしましたが、文苑堂書店(寺町通夷川上ル)は書の古書が充実していて嬉しかったですね。この並びには、古梅園や龍枝堂といった書道具店がありますから、相乗効果がありそうです。
 市役所北側の尚学堂書店も、古い店構えですけれど、意外な古書があって、なかなかおもしろかったりします。
 竹苞書楼は、先日も通りがかったら、外国人の男女が並べられた本をのぞいていました。私は、其中堂に入ったのですが、本を見ていると、その二人がやってきて表の台を物色し始め、どうやら鎌倉仏教の本らしきものを1冊、買い求めていきました。結構、紳士淑女的なお二人でした。

  其中堂
  其中堂(寺町通姉小路下ル)

 其中堂(きちゅうどう)は仏教書専門ですが、向いの文栄堂も同様の品揃えです。私は、其中堂などに入っていると、つくづく京都に生まれた幸せを感じます。仏教書がこんなに充実している書店が何軒もある都市なんて、他にないでしょう。
 先日も、東本願寺前の法蔵館書店に行きましたが、こちらも浄土真宗関係書を中心とした仏教書の専門店(出版社)です。今年で創立400周年! だそうです。「法蔵館ニュース」12月号というのをもらったのですが、2013年の新刊リストが掲載されていました。50冊近く刊行されていて敬意を表しますが、私がとても興味を持った書籍が金子貴昭『近世出版の板木研究』。ちょっと高価なので、まず図書館で見たいと思います。

 河原町界隈の新刊書店は、ここ20、30年ほどの間に軒並みなくなってしまったのですが、寺町、河原町の古書店はみな頑張っておられます。
 学問や文化は、先人が積み上げてきたものを継承していくことが大切です。その意味で、古書店が顕在である京都は優れた文化都市といえるでしょう。

 昔は、書物が都のお土産という時代もありました。ちょっと気分転換して、古書店めぐりを観光に取り入れてみてはどうでしょうか。




 寺町通の古書店

 所在 京都市中京区の寺町通(丸太町通~五条通あたり)
 営業 各店による
 交通 地下鉄「市役所前」ほか



 【参考文献】
 脇村義太郎『東西書肆街』岩波新書(黄87)、1979年
 今田洋三『江戸の本屋さん』NHKブックス、1986年(平凡社ライブラリー所収)
 橋口侯之介『和本入門』平凡社ライブラリー、2011年
 中野三敏『和本のすすめ』岩波新書(赤1336)、2011年


【大学の窓】年末最後の授業を終えて……

大学の窓




  キャンパス風景

 12月下旬になり、今年最後の授業が終わりました。
 新年は、日曜日に代講があった関係で、授業は1度だけ。事実上、ほとんど授業は終えたことになります。

 私の担当科目は、1回生の日本史の演習。
 約80名の学生が10班に分かれて、テーマを決めて研究を行います。その結果を11月下旬から12月にかけて発表します。
 この出講を始めて、5年。最初の頃は、どう指導しようかと考えました。しかし一方で、楽観的に構えているところもあったのです。なぜなら、大学とは自ら学ぶ場であって、中学や高校のように、先生に教えてもらう場ではないのだから、と。

 先日、京都新聞に永田和宏 京都産業大学教授が、こんなことを書かれていました。

 いまから四十数年前、私が京都大学に入学したとき、時の総長、奥田東先生の入学式の祝辞には度肝を抜かれた。奥田総長いわく「京都大学は、諸君に何も教えません」。そのあとどう続いたのか、ほとんど忘れてしまった。「諸君が自分で求めようとしなければ、大学では何も得られない」、たぶんそんな風に展開したのではなかろうか。
(中略)
 私は自身の経験から、高校と大学はまったく違った世界なのだとまず宣言するところから大学教育はスタートすべきだと思っている。高校と大学をスムーズにつなげるのではなく、意識の上で断絶させることから、大学教育を始めるべきだと思うのである。
(中略)
大学における教育というのは、「わかっている」ことを教えるよりは、「まだわかっていない」ことがあることを学生に知ってもらうことのほうが、はるかに大切なのだと、くどくどと説明する。自分で知ろうとしなければ問いは姿を見せない。高校と大学の教育の違いはいろいろあるが、この点が高校までの教育と本質的に違うところだ。 (京都新聞 2013年10月20日付「ソフィア」より)


 そう永田氏は述べ、最後に、社会に出るとわからないことの方が圧倒的に多い。だからこそ、わからないことに耐え、わからないことに価値を見出す知性を大学では育まなければならい、と締めくくっておられます。
 まったく同感です。私の演習の主任も、毎年最初の授業で同じ趣旨のことを学生に述べています。多かれ少なかれ、大学人や研究者は、同じことを思っているのです。

 だから、5年前、私は高をくくっていました。
 けれど、いま、私は苦しんでいます。

 1年間、学生に「研究」させてみて、どうもうまくいかない……  それを学生のせいにするのは容易だし、そこに原因があるのも事実かも知れないけれど、省みて、自分の指導の拙さに考えが及んでしまうのです。
 奥田東先生のように、「大学は諸君に何も教えません」と言いたいところなのですが、どうもそういう話ではないように思えてきたのです。

 この5年間、私が意図的に避けてきたのは、学生を「誘導」することでした。こうすれば研究が軌道に乗る、というパターンを我々は知っています。その経験を学生に伝授して「誘導」すれば、いい結果が出るかも知れない。しかし、それでは本当の考える力が付かない、という思いから、私は極力「誘導」を避けて来たのでした。
 ところが、昨年、あえて「誘導」したことがあったのです。それは、<写真>をテーマに研究しているグループに対して、研究対象の写真が撮影されてから現在に伝存する間の約100年という時間軸を考慮に入れて研究してみる、というサジェスチョンでした。
 私は板書しながら、その説明をしたのですが、そのとき学生たちの中にあったモヤモヤとした「わだかまり」が溶け、表情が輝いたのを覚えています。
 結局、その観点で研究を進めた彼らは、年末に我々の納得いく発表を行ったのでした。

 そのやり方がよかったのか、私は未だに悩んでいます。
 結果を見ると、よかったように見えるし、それが2回生以降の彼らの利益になることもよくわかる。しかし、それは私が「誘導」したことをトレースしただけではないのか?
 否、1回生なのだから、指導を受けて研究法を学ぶ(トレースする、マネる)ことが大事なのではないのか?
 いつまでも、結論の出ない堂々巡りを繰り返します。

 つくづく、教育に素人である自分が恨めしい。
 来年のことを言うと鬼が笑うと言いますが、私はもう来春からの授業の進め方に頭を悩ませているのでした。


 キャンパス風景


主夜神は、毎年12月に御開帳

洛東




壇王法林寺


 人々を守る主夜神

 前回紹介した主夜神。三条大橋東詰の壇王(だんのう)法林寺に祀られています。
 本居宣長「在京日記」の記述には、近年から深く信仰されるようになったと記されています。宝暦年間の日記ですから、18世紀半ばに信仰を集めていたということですね。 
 
 この主夜神が、どのように私たちを守ってくれるのか。「華厳経」の「入法界品」によると、例えば次のようなときに助けてくれるとのことです。

 ・闇夜で鬼神、盗賊に襲われたとき
 ・霧が濃く、暴風で、太陽や月や星が見えないとき
 ・海上や山、森林、広野などで進路に迷ったり、盗賊に襲われたとき
 ・海難者があれば、海神らに示唆して、暴風雨や波浪を静めてくれる

 主夜神は、鬼神や盗賊などが跋扈する夜に人々を守ってくれる神であり、海上や陸上で困難に遭遇した際に救ってくれる神さまなのです。
 とりわけ海上守護神として、アジアの海を航海した人々に信心されたようです。おそらく日本にも、中国の航海者などが伝えたのではないでしょうか。そして、壇王法林寺の袋中上人も、明へ向けて海を渡った僧なのですから、この主夜神を祀ったのは理にかないます。
 加えて、主夜神が「守夜神」に転化して、夜に忍び入る泥棒などの災難を除いてくれる神としても信仰されたのでした。


 12月の「主夜神大祭」で御開帳

 壇王法林寺
  壇王法林寺 本堂

 壇王法林寺の主夜神尊は、毎年12月の第1土曜日に御開帳されます(主夜神大祭)。私も、その折に参拝してきました。
 心の広いお寺さんとみえて、ご尊像を写真に撮ることも許されるのですが(みなさんスマホで撮っていました)、信仰の対象ですので、ここではアップしません。お姿は、壇王法林寺のウェブサイト等でご覧ください。

 本堂の須弥壇に向かって右脇に、入母屋造唐破風付きの立派なお厨子があり、その中に主夜神尊がいらっしゃいます。像高72cm、小ぶりな木造の坐像で、両手を合掌しています。宝冠を付けた姿が印象的で、光背に6体の化身を付けています。

 壇王法林寺
  旧主夜神堂に通じた川端門(西門)


 右手を上げる招き猫

 昭和初期に出版された井上頼寿『京都民俗志』(1933)には、「猫」の項の冒頭に、当寺の招き猫についての記載があります。

▽招き猫--三条大橋東詰の壇王の主夜神の神使は猫で、招き猫を出す。緑色の猫で右手を揚げてゐる。その為め徳川時代には、民間では左手の方の招猫より作らせなかつたと云ふ事である。 (413-414ページ)

 招き猫がいつから始まったのか、京都南郊の伏見人形ではどうだったかなど、詳しいことはなかなか分からないようです。井上氏は、当寺の招き猫が右手を上げているので、江戸時代には他では左手を上げたものしか作らせなかったと述べています。
 現在、こちらの招き猫は、確かに右手を上げた黒っぽい姿をしています。ただ、『京都民俗志』が「緑色」と書いているのが気に掛かります。戦前は、緑だったのでしょうか?

 壇王法林寺の主夜神のお使いが、なぜ招き猫なのか。そのことについては十分には分からないようです。もちろん「華厳経」には猫は出てきませんから、日本に入ってからの解釈なのでしょう。『壇王法林寺』には、角倉家で作った「黒猫の護符」との関係も指摘されています。

 壇王法林寺
  奉納された招き猫 


 商人からも篤い信仰を受けて

 壇王法林寺
  壇王法林寺 楼門(明治28年竣工)

 江戸時代には、一般的に現世利益をみたす神仏が篤く信心されるようになります。
 西鶴の「日本永代蔵」巻4には、「人皆欲の世なれば、若恵比須、大黒殿、毘沙門、弁才天に頼みをかけ、鉦の緒に取り付き元手をねがひしに、世間かしこき時代になりて、この事かなひがたし」とか、「世はみな富貴の神仏を祭る事、人のならはせなり」といった記述が出てきます。
 「日本永代蔵」は、貞享5年(1688)の作品ですから、先に示した本居宣長の時代(1750年頃)よりもかなり早く、この傾向がうかがわれたということでしょう。

 壇王法林寺の主夜神も京都の商人たちから信仰を集めたようです。
 当寺に伝わる「押絵貼 主夜神像」は、延享4年(1747)に京都の三井家が奉納したものだそうです。押絵は、羽子板の飾りに見られる技法ですが、この像も綺麗なものです。
 また、前回引用した宣長「在京日記」にみえる宝暦6年(1756)の万日講ですが、この年は本堂の改修が成った年で、主夜神堂の建立や川端門の塗り替えも行われました。その事業には、井筒屋河井家の援助が大きかったといい(『壇王法林寺』)、商人からの信仰が篤かったことがうかがえます。

 最後に、『壇王法林寺』に紹介された当寺所蔵の掛絵について触れておきましょう。

 宝暦3年(1753)に、清水寺の大悲殿の参道で、大勢の参列者で賑わう雑踏の中、一人の狂人が刀を抜いて民衆を傷つける事件があり、このとき田中某という人物が日ごろ主夜神を信仰していたため、不思議と難を逃れたという様子を伝えている。 (96ページ) 

 道中の安全を守ってくれると考えられていた主夜神に守護されたということでしょうか。掛絵には、雑踏の上に降臨する主夜神の姿が描かれています。




 壇王法林寺

 所在 京都市左京区川端三条上ル法林寺門前町
 拝観 境内自由 主夜神は開帳時(12月最初の土曜日)のみ
 交通 京阪電鉄「三条」下車、すぐ



 【参考文献】
 本居宣長「在京日記」、『本居宣長全集』16、筑摩書房、1974所収
 信ヶ原雅文ほか『壇王法林寺 袋中上人 琉球と京都の架け橋』淡交社、2011年
 「大方広仏華厳経」68、『大正新脩大蔵経』所収
 『望月仏教大辞典』世界聖典刊行協会、1933年
 「日本永代蔵」(『新編日本古典文学全集 68 井原西鶴集3』小学館、1996、所収)


本居宣長の日記に登場! 壇王法林寺の主夜神は、江戸時代から信仰を集めている

洛東




壇王法林寺


 本居宣長「在京日記」に登場

 本居宣長は、伊勢・松阪の人ですが、若い頃から京都に憧れ、「都考抜書」(とこうばっしょ)という、諸書から京都に関する事項を抜き出した備忘録を作っていました。そして、宝暦2年(1752)、念願の京へ上り、約6年間すごします。その間、日記を綴っていますが、ことに宝暦6年、7年(1756-57)は詳細な日々の記録があります。

 宣長というと、後に国学の大人とされる人、さぞかし堅物だとイメージするのですが、実際は結構遊んでいたようなのです。

 ここでは、「在京日記」宝暦7年(1757)1月9日条を引いてみます(濁点、[ ]内は引用者)。

九日、いとさむけし、けふ[今日]なん祇園へまふ[詣]で侍る、いとさむき日にて、まふづる人もすくなくさびしきやうなれど、さすがにこの御社は人たえず、能なども侍る、物まねやうの者も侍りける
九日、十日は、安井のこんぴらへ人まいり侍るなれば、まい[参]らばやとてまふ[詣]でけるに、さのみにぎ[賑]はしからず、茶見せ[店]にやすらひて、女にと[問]ひ侍れば、十日はにぎ[賑]はしきよしい[言]ふ、抑[そもそも]このこんぴらの社は、近年いたく人の信じ奉ること、壇王の主夜神のごとく也、ことに青楼娼妓のたぐひの、とりわき信仰して、うかれめ[浮女]あまた参り侍る也、いつもよき見ものなるに、けふ[今日]はひとりも見侍らず、さむきゆへにや、明日まいらで口お[惜]しと思ふも、神にもたい[勿体]なきことならじ、それより二間茶屋に立よりて、物く[喰]ひさけ[酒]のみて、日くれにかへりぬ  (『本居宣長全集』16巻、94-95ページ)


 神詣でと思いきや、結局は美女が目当てだったのか! なんて、宣長のイメージが崩れますけれど、実にリアルな文章ですね。

 八坂神社
  八坂神社

 大意は、今日(1月9日)は寒くて、八坂神社の参詣者も少なかったけれど、絶え間なく人が来ていてさすがだ。9日、10日は安井金比羅宮への参詣者が多い日なので参ってみたが、今日はそんなに賑やかでない。不思議に思って、茶店の女に聞いてみると「明日は賑やかですよ」という返事。この金比羅宮は、近年とても信仰されていて、壇王の主夜神と同様である。特に廓の娼妓が信仰していて参詣に来るから、いつもそれが見ものなのに、今日は誰も来ていなくて残念だ!、といった感じでしょうか。

 祇園社(八坂神社)や、安井のこんぴら(安井金比羅宮)は、よく分かるのですが、金比羅宮と対比される「壇王の主夜神」とは何なのでしょうか?

 その答えに行く前に、もう1か所、宣長の日記から主夜神に関する記載を引いておきましょう。宝暦6年(1756)4月8日条です。

 けふ[今日]より又、壇王法林寺の萬日、主夜神の開帳も始りけるよし聞ば、壇王へまいりぬ、いとにぎ[賑]はし、此主夜神と申すは、近きころ人のふかく信じ仰ぐ神にてまします、此ころ、山科妙見菩薩も開帳にて、にぎ[賑]はしきよしうけ給る  (同前、60ページ)

 とあって、今日から主夜神のご開帳が始まったので、お参りに行ったと記しています。
 ちなみに、この日も祇園の「すはま屋」という店で酒を飲んで帰っています!


 袋中上人が感得した主夜神

 「だんのうさん」として知られる壇王(だんのう)法林寺は、三条大橋の東詰にあります。鎌倉時代の創建と伝えますが、中興したのは袋中(たいちゅう)上人で、慶長16年(1611)のことです。
 ちなみに、袋中上人は琉球に行った僧として著名です(目的は明に渡ることでした)。 

 壇王法林寺
  壇王法林寺 三条門(明治21年建立)

 この壇王法林寺に、主夜神(しゅやじん)が祀られることになったのは、袋中上人の体験がきっかけでした。
 寛延2年(1749)に著された「袋中上人伝」には、付録として「守夜神降臨記」という短い伝が載せられています。以下、その要約です。

 慶長8年(1603)3月15日、袋中上人が壇王法林寺で専修念仏していると、守夜神女が降臨した。虚空に浮き、宝楼閣香蓮華獅子の座に坐っており、身体は真金色に輝き、目は紺青、髪も鮮やかな慈悲従順な表情であった。赤い衣をまとい、宝冠をかぶって、瓔珞(ようらく)で身を飾っていた。
 守夜神が上人に言うには、「おまえは常に弥陀の本願を仰ぎ、口称念仏に務めている。私は、口称念仏を行う者たちの難儀や畏れを取り除き、一切の願いを成就させよう」と、神符を与えたの。そして、「われを頼む者は必ず力に応じて念仏せよ」と言って姿を消したのである。


 日夜、念仏を唱える袋中上人を守護する神として、守夜神(主夜神)は現れたわけですね。
 これを契機に、壇王法林寺では主夜神を祀り、15日を縁日としたといいます。


 主夜神とは

 上の伝えには、主夜神の姿が詳しく描写されています。絵に描くと、こんな雰囲気です。

  主夜神(望月仏教大辞典より)
   主夜神(『望月仏教大辞典』より)

 モノクロなので色は分かりませんが、およそ次のような姿といいます。

 ・宙に浮いた飾られた師子座(ベッドにもなる椅子)に掛けている
 ・身体は純金のように輝く
 ・目や髪は紺青色
 ・姿かたちは麗しく明るい
 ・衣は朱(あか)色
 ・冠をかぶっている
 ・瓔珞(ようらく)の飾りを付けている
 ・身体に全ての星宿がある
 ・身体のひとつひとつの毛穴に、人々の災難を除く像を表している
 ・ひとつひとつの毛穴に、人々を教え導く方便を示している

 最後の方は難しい表現になっていますが、身体は金色に輝き、朱い衣をまとって冠をかぶっているのですから、それだけでもゴージャスですね。おまけに、身体にすべての星座があるという、こちらも凄い感じです。そして、人々を助け導く、有り難い神さまのようです。

 このように詳しく容貌などが分かるわけですが、主夜神は「華厳経」という経典に登場し、そこで詳細に紹介されているからなのです。「毛穴のひとつひとつに」というような表現も、華厳経らしい思想が現れています。
 主夜神が出てくるのは、華厳経のうちの「入法界品(にゅうほっかいぼん)」。善財童子という青年が53人の人々に教えを受けるために旅をするという、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)です。童子に教えを授ける53人を「善知識」というのですが、その1人が主夜神なのです。

 華厳経入法界品に見える主夜神の特徴は、「袋中上人伝」のそれと一致します。上人の伝記が著される際に、華厳経の内容が反映していたことが分かります。


 「都名所図会」の記述
 
 壇王法林寺は、「都名所図会」巻1(1780)にも紹介されていて、主夜神のことも特記されています。

 主夜神祠[やしろ]は、開基・袋中上人の勧請也。縁起に曰、慶長八年[1603]三月十五日、袋中上人、別行に入て念仏し給ふに、忽然として朱衣[あかきころも]に青袍[あおきひたたれ]を着して光明の中に顕れ、上人に告げて曰、「われハ華厳経に説給ひし婆珊婆演底主夜神也。専修念仏の行者を擁護すべし」と。則[すなはち]秘符を授給ふ。夫[それ]より応験新にして、常に詣人多し。
[割注]慶長以来ハ当寺宝蔵にあり。近年、今の堂に鎮座す。鳥居は石柱にして、額は有栖川職仁[よりひと]親王の筆なり。

 ここにも「袋中上人伝」の内容が反映されているのですが、「青袍」といった「上人伝」にも華厳経にもない要素が加わっていたりします。
 「婆珊瑚婆演底」主夜神となっていますが、主夜神はサンスクリット語でバサンティというので、音写して婆珊婆演底となるわけです。これも「上人伝」にみえる語です。

 ここで注目されるのは、割注にある部分。「慶長以来ハ当時宝蔵にあり」という部分は「上人伝」に基づいているようですが、「近年、今の堂に鎮座す。鳥居は石柱にして、額は有栖川宮職仁親王の筆なり」が気に掛かります。

 『壇王法林寺』掲載の明治28年(1895)の絵図や、古い写真を見ると、かつて主夜神を祀るお堂は、本堂の左裏手にあったことが分かります。いま保育園があるあたりです。

 壇王法林寺
  この中央奥あたりに主夜神堂があった

 その場所に、寄棟造の主夜神堂があり、本堂左脇を石畳の参道が通っており、鳥居が建っていました。
 「都名所図会」に鳥居に有栖川宮職仁親王の額が懸っていたとありますが、その竪額は現在、観音堂に掲げられています。

 壇王法林寺 壇王法林寺
  観音堂(左)と竪額

 額には「婆珊婆演底神/最初示現之処」と書かれています。婆珊婆演底神は、主夜神のことです。


 残された石灯篭

 『壇王法林寺』には、主夜神堂を大きく撮った写真も掲載されています。寄棟造 桟瓦葺、一軒疎垂木、桁行は不確かですが五間かと思われます。吊り灯籠や「主夜神尊」と書かれた提灯も見られます。
 お堂の正面には一対の狛犬がおり、手前左右には形の異なった灯籠が2基あります。
 この建物は、後に取り壊されて現存しないのですが、石灯籠は本堂前に移されて残っています。

 壇王法林寺
  本堂 矢印の部分が石灯篭

 右の石灯篭が、昔は左に立っていた灯籠です。

  壇王法林寺 本堂の右手に立つ「長夜灯」

  壇王法林寺 正面に「主夜神前」

  壇王法林寺 右面「寛延庚午歳五月塑[朔]」

  壇王法林寺 裏面「願主江州小林助六建」

 これによると、寛延3年(1750)5月1日に、近江国の小林助六という人が建てたことが分かります。
 ちなみに、この年は「袋中上人伝」が著述された翌年に当たります。

 もうひとつは、本堂左手の石灯籠です。元は主夜神堂の向かって右に立っていました。

  壇王法林寺 本堂左手に立つ

  壇王法林寺

 影で見えにくいですが、正面に「主夜神宝前」とあり、裏面に「常夜灯/宝暦七年丁丑中冬/願主村林店中」とあります。願主については不明ですが、宝暦7年(1757)11月に建立されたことが分かります。


 (この項、つづく)




 壇王法林寺

 所在 京都市左京区川端三条上ル法林寺門前町
 拝観 境内自由 主夜神は開帳時のみ
 交通 京阪電鉄「三条」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 本居宣長「在京日記」、『本居宣長全集』16、筑摩書房、1974所収
 信ヶ原雅文ほか『壇王法林寺 袋中上人 琉球と京都の架け橋』淡交社、2011年
 「袋中上人伝」、『浄土宗全書』17所収
 「大方広仏華厳経」68、『大正新脩大蔵経』所収
 『望月仏教大辞典』世界聖典刊行協会、1933年
 中村元『『華厳経』『楞伽経』』東京書籍、2003年


【大学の窓】学会なるもの

大学の窓




   キャンパス風景


 先日、所属している学会の大会がありました。
 
 どの学会でも、年に一度は大会と称して、研究発表などを行います。
 何事も安請け合いするせいか、今年も発表の司会進行を仰せつかったのでした。わずか2つの演題についてなのですが、「学会」というだけで何となく緊張するものです。それも門外漢の思想史などを受け持ったので余計です。
 まあ、こういうのを頼まれるのも年齢のせいかも知れないですね。

 最近、若い研究者の発表を聞いていて気になることがあります。それは、表をたくさん使うことです。
 歴史学に表? と、一般の方は思われるかも知れませんが、今や当たり前です。誰もがパソコンを持ち、エクセルを使用できるわけですから、当然の流れといえます。
 例えば、公家の日記など古記録から関連事項を抽出して表を作り、その事象の傾向を把握したりします。
 あるとき、とても引っ掛かった発表は、公家の昇進について詳細な表を作って分析した研究でした。直観的に感じたのは、人事という最も人間くさいものを表にして理解しようとするなんて! というもの。どうも、人に対するアプローチが違うのです。

 表にすると、史料をバラバラに見ていたのでは分からない情報が浮かび上がってきて、便利な場合もあります。だから、表化を否定するわけではないけれど、個々の事例や、ひとりひとりの人間をつぶさに観察していかないと、見落とすことが多々あります。
 一見「科学的」に見える作表ですが、疑似科学に陥らないように注意したいものです。

 と言いながら、かく言う私自身が、パソコンもない20数年前、修士論文に表を使った分析を載せていたのでした……
 若いときには、こういう方法が魅力的に映るのかも知れないと、苦笑いしています。


 表

 

きょうの散歩 - 千本釈迦堂の大根だき - 2013.12.8





千本釈迦堂の大根だき

 前回、聖護院大根のことについて書いたので、今日は上京区の千本釈迦堂(大報恩寺)の「大根(だいこ)だき」に行ってきました。
 毎年12月7日、8日に行われます。

 千本釈迦堂の大根だき

 表に着くと、ぷんと大根のいい匂いが漂ってきます。
 まず、1000円で券を買い求めます。

 千本釈迦堂の大根だき 千本釈迦堂の大根だき

 そして列に並びますが、今日は門の外まで……

 千本釈迦堂の大根だき

 千本釈迦堂の大根だき
  本堂から望む

 大根を授与してもらうまで、約20分かかりました。
 テントが張ってあり、そこでいただくことにします。

 千本釈迦堂の大根だき

 お椀の中に、3きれの大根とお揚げ。

 千本釈迦堂の大根だき
 千本釈迦堂の大根だき

 いただくと、これが意外に(失礼)おいしい! あつあつで、食べるのに10分位はかかるのですが、ちょうどいい味付けになっていて、出汁まで全部飲んでしましました(笑)
 揚げは、きつねうどんなどに入っている甘辛いものでしたが、元来は味の付いていないものだったでしょうか。

 そのあと、順序が逆になりましたが、御本尊・釈迦如来坐像の御開帳へ。

 千本釈迦堂の大根だき

 参拝後、ご奉仕の奥さんたちが大根を炊く様子を見学。

 千本釈迦堂の大根だき

 千本釈迦堂の大根だき
  直径1mほどの大鍋で炊く

 大量に提供するので、仕事は手際がよいです。

 この大根が、前回紹介した「聖護院大根」。

 千本釈迦堂の大根だき

 千本釈迦堂の大根だき

 「生大根」として1000円で売られています。
 たぶん、これが最後の2本ですけれども、私が帰る時には売り切れていました。

 千本釈迦堂の大根だき

 クローズアップすると、墨で梵字が書いてあるのが分かります。
 釈迦を意味する種字の「バク」です。後で述べるように、この行事がお釈迦さまに関係あることが示されています。
 
 そして、シールを見ると、久御山の「淀大根」とあります。

 千本釈迦堂の大根だき
 「聖護院大根」のケース

 箱には、JA京都やましろ・東一口(いもあらい)出荷組合とあります。久御山町では、淀大根として、大正末頃から生産されているそうです。

 ということで、たいへんおいしく大根だきを食べて満足、無病息災を祈願したのですが、ちょっとだけ考え事をしてから終わりましょう。

 千本釈迦堂の大根だき 「中風諸病除 大根だき授与」

 この行事が、なぜ12月7日、8日に行われるのでしょうか?
 
 看板にもあるように、12月8日は成道会です。
 「成道」は「成仏得道」のことで、悟りを開くという意味。特にお釈迦さまが悟りを開くことを指し、日本ではその日が12月8日とされています。
 日本では、というのは、お釈迦さまの成道の日は諸説あるからで、例えば南方仏教では5月のこととしており、ウェーサーカ祭と言っています。他にも、2月8日、4月8日など、さまざまです。
 旧暦12月は「臘月(ろうげつ)」と呼びますので、この日をまた「臘八」といい、成道会を「臘八会」とも呼んでいます。
 中国では、この日に「臘八粥(かゆ)」という雑穀や豆類を入れたお粥を食べる習慣があるそうです。仏教的には、宋の時代から仏さまにお粥を供えることが行われ始めたといいます。

 この臘八粥の由来なのですが、お釈迦さまが山中で6年間苦行した後に山を下り、そこで一人の女性から乳粥(牛乳で煮た粥)を供されます。その後、菩提樹の下で瞑想に入ったお釈迦さまは悟りを開かれたのです。中国や日本では12月8日のことと考えられていて、臘八粥はこの故事に因んでいます。
 この女性の名をスジャータといいました。そう、あのコーヒーフレッシュの「スジャータ」は、ここから来ているのですね。

 そんなことから、12月8日は粥を食べる日となりました。ちなみに、仏教系の幼稚園や学校では、牛乳を飲むところもあるそうです。

 ぜんぜん大根が出てきません(笑) 回り道しました。
 私の推測ですが、<成道会=お粥>という慣習が、大根をよく食する一部の地域では<成道会=大根だき>と形を変えて行われているのではないでしょうか?

 年が明けると、1月にも七草粥や小豆粥を食する風習があります。
 また、冬至にカボチャを食べるのも似た習慣ですね。大根もカボチャも中風封じになるのも、おもしろいです。
 厳冬の時期に、からだが温まる粥などを食し、健康を祈念する慣習なのでしょう。大根だきを食べて、ほんとうに温まったものですから、そんなことを考えました。

 と、ここまで書いた後、五来重先生の『宗教歳時記』を見ていると、12月9日、10日に行われる「鳴滝の大根だき」についての考察が記されていました。
 氏は、大根だきを「お火焚き」であると捉えておられます。お火焚き(おひたき)は11月に行われる祭事ですが、鳴滝の大根だきも元々は11月9日に行われていたのではと考えられています。
 なるほど。
 大根が、収穫祭であり祖霊祭である霜月祭の大切な供物である点も、縷々指摘されています。同書には、大根についての興味深い考察も書かれています。

 そうすると、<11月=お火焚き> → <12月=成道会>にスライドしたということになりますね。
 ひとつの行事の解釈も、なかなか難しいです。




 千本釈迦堂(大報恩寺) 大根だき

 12月7日、8日(大根だき授与 1000円)
 所在 京都市上京区今出川七本松上ル溝前町
 交通 市バス「上七軒」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 五来重『宗教歳時記』角川ソフィア文庫、2010年(原著1982年)


【新聞から】 かつて聖護院の名産は、ダイコンとカブだった

洛東




「花洛名勝図会」より聖護院大根


 聖護院かぶ、台風に負けず
 亀岡・篠地区で収穫ピーク
 京都 2013年12月3日付


 京漬物の代表格「千枚漬け」などの材料になる<聖護院かぶ>の収穫が最盛期だそうです。
 「聖護院」というと、京都市左京区の地名。門跡寺院の聖護院があるところです。

 聖護院門跡 聖護院門跡

 今では住宅が建て込んでいて、農地は見られません。
 しかし、昔は鴨東の田園が広がる地域でもあり、蔬菜栽培が盛んでした。
 幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864)には、聖護院大根の収穫の様子が描かれています。

 「花洛名勝図会」より聖護院大根
 「花洛名勝図会」巻4

 ちょっとした柵をこしらえて畑を作り、収穫した大根を籠に入れています。
 説明には、こう書かれています。

 此辺、岡崎、聖護院等の村民ハ、菜蔬[あをもの]を作るに精しく、毎年仲春より瓜、茄子の初ものを出し、また近来、尾張種の太蘿蔔[ふとだいこん]をつくり得て、例歳十月のころ、日毎に市に荷ふて売事しばしばなり。
 都人、これを求て風呂吹の味噌つけ、或ハ油豆腐と共に煮て羹[あつもの]とし、会式十夜講の料理に用ふる事、例式となりて、都下一箇の奇玩となれり。


 まず、岡崎や聖護院の村人は蔬菜栽培に詳しいと述べています。そのため、毎年2月(陰暦)からウリやナスの初物を出していた、ということで、ふつうよりも早く収穫する術を持っていたのですね。
 そして、近年、尾張(愛知県)の大根を改良して「太だいこん」というものを作り出して、毎年10月(陰暦)頃には市で売っていたといいます。
 京の人たちが、味噌をつけて風呂吹き大根にして食べたという、これは今と同じですね。
 「油豆腐」というのは、たぶん油揚げでしょう、それと一緒に炊いたりしたという、これもおいしそうです。
 聖護院大根は煮崩れしないので、炊いて食べるのに適しています。

 ちなみに、引用文に出てきた「蘿蔔(らふく)」はスズシロを意味し、ダイコンの漢語的表現です。春の七草のスズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)ですね。

 「花洛名勝図会」より聖護院大根

 「花洛名勝図会」の絵では、現在のように丸大根ではなく、ふつうの大根が太った程度に描かれています。

 新聞に出てきた亀岡市の篠地区は、聖護院かぶや聖護院大根の生産地として知られています。
 さすがに江戸時代のように、左京区聖護院の周辺では野菜の栽培は難しいでしょう。
 このような産地の移転は、戦後はよく見られる現象です。例えば大阪でも、北河内の守口市で栽培されていた細長い「守口大根」は、現在では岐阜、愛知で収穫され、名古屋名物「守口漬け」の素材となっています。

 京都の師走は、大根だき(だいこだき)のシーズンでもあります。
 12月7日、8日には千本釈迦堂(大報恩寺)で、9日、10日には鳴滝の了徳寺で、大根だきが行われます(他にもあり)。
 機会を見つけて、訪ねてみるのもいいかも知れません。
 



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年


相国寺の浴室は、排水システムが見られる優れもの





相国寺浴室


 京の禅寺の浴室

 足利義満によって創建され、室町幕府と密接な関係を持ちながら発展した相国寺。
 現在は、往時に比べれば寺地も狭くなり、度重なる火災で伽藍も寂しくなりましたが、重要文化財の法堂は存在感を示しています。春と秋の公開時には、法堂の内部などとあわせて、浴室も拝観できます。

 私は、ウン十年前、よく自転車で相国寺の中を通り抜けていました(失礼)。法堂の西側の道もよく通ったのですが、そこに浴室があったとは、まったく気付きませんでした。おそらく当時は、建物の回りが囲われていて見えなかったのでしょう。近年(2002年)改修されて、その雄姿を現しました。

 その前に、江戸時代の「都名所図会」の相国寺(部分)。

 「都名所図会」より相国寺
  「都名所図会」巻1

 大きなお堂が法堂です(図には「仏殿」とあります)。
 その上の方(西側)に、塀に囲まれた入母屋造の建物が見えます。おそらく、これが浴室です。

 「都名所図会」より相国寺

 江戸中期の絵では、こんな感じでした。

 現状です。

 相国寺浴室
  相国寺浴室(宣明)

 屋根が切妻造なんですが…… まあ、「都名所図会」は絵だし、仕方ないですか。よく見ると、柱間も2間ですしね。2間の建物では扉が付けられないし、そこそこに画いた絵なんでしょう……

 この浴室は、慶長元年(1596)に建てられたものといいます。天明の大火(1788)でも焼け残った堂宇です。
 京都の禅宗寺院の浴室では、重要文化財である東福寺浴室が長禄3年(1459)と古いのですが、ここも結構古いです。
 参考までに、主な浴室を掲げておきましょう。東福寺のもの以外は、江戸時代(17世紀)です。

 東福寺浴室
  東福寺浴室(重文)

 大徳寺浴室
  大徳寺浴室(重文)

 建仁寺浴室
  建仁寺浴室

 妙心寺浴室(明智風呂)
  妙心寺浴室(明智風呂)
 
 ずらっと並べてみました。
 こう見ると、浴室の屋根のスタイルは切妻造だと分かります。最も古い東福寺浴室だけが入母屋造ですが、これも実は(おそらく江戸時代は)切妻造でした。大正時代の写真に、切妻造の姿が写されています。昭和初期の改修で入母屋造に復元されました。
 浴室は、格子窓からも湯気を抜くため、入母屋造だと軒端に湯気がかかって朽ちやすくなるのでしょう。ただ、出入りの便をはかって、妙心寺の明智風呂のように、扉上に庇を付ける場合もあります。東福寺も、庇を持っていました。


 公開時に内部が見られる浴室
 
 相国寺の浴室も、春と秋の特別公開では内部が拝観できます。
 修復時に、内装をかなり復元していますので、風呂の仕組みがよく分かります。

 相国寺浴室

 中に入ると、まず跋陀婆羅(ばっだばら)菩薩がお出迎え。浴室に祀られる仏さまです。禅寺では、庫裏に祀られる韋駄天とともに知られる仏さまです。このお像は新しく造られたようですが、よく見ると、右手に湯を混ぜる櫂を持っていますね。

 内部は、おなじみの光景です。

 相国寺浴室

 相国寺浴室

 唐破風を持つ風呂屋形があり、その中をのぞくと入浴スペース。現在のように湯船に浸かるスタイルではなく、蒸し風呂に加え、ひしゃくで汲んで身体に湯を掛ける程度です。

 背後では、湯を沸かします。

 相国寺浴室

 ひしゃくが置いてある部分が釜。ここで湯を沸かし、左手の樋から流します。

 相国寺浴室

 すると、右の樋から湯が流れ出てくる、という仕組みです。


 排水システムも完備
 
 使って流れた湯は、床に出てきます。
 床の中央には溝があり、そこに向かって傾斜が付いてます。

 相国寺浴室

 この溝(いつもは左半分のように覆い蓋が付いている)へ、湯が流れてきます。
 その湯の行き先は……

 相国寺浴室

 床下に立ててある板を伝って、下へ。

 相国寺浴室

 床下には、こんな石の樋が!
 これで建物外へ流します。

 素晴らしい工夫ですね。


 煙出しの工夫も

 浴室では、ふつう蒸気は屋根から逃がすとともに、前面や側面、背面に格子窓を付けて逃がします。

 相国寺浴室
 
 相国寺浴室にもあるけれど、少し控えめです。
 実は、建物の背後にすごいものがあるのです。

 相国寺浴室
  浴室背面

 相国寺浴室
  煙出し

 上部に漆喰の煙出しがあります。
 これは、屋根が湯気で朽ちない工夫でしょう。驚かされます。

 浴室については、妙心寺の明智風呂について書いた記事もご覧ください。 こちら! ⇒ <妙心寺の浴室は「明智風呂」> 

 禅寺の浴室は、いろいろ工夫が見られて興味が尽きない存在です。
 各寺院とも、折にふれて公開されますので、ぜひ拝観してみてください。




 相国寺 浴室(京都府指定有形文化財)

 所在 京都市上京区相国寺門前町
 拝観 境内自由 浴室は特別拝観時のみ(開山堂、法堂とも大人800円ほか)
 交通 地下鉄「今出川」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 芳賀幸四郎ほか『京の禅寺』淡交社、1960年