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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

京都府立総合資料館は、2013年11月、開館50周年を迎えた





京都府立総合資料館


 30年間の記憶が詰まった資料館

 地下鉄・北山駅のすぐ上にある京都府立総合資料館。
 地図で見ると、京都府立植物園の北東角の位置にあり、南には京都コンサートホールや京都府立大学があります。

 京都府立総合資料館
  京都府立総合資料館

 私にとっては、この総合資料館は懐かしく、愛着のある特別の施設です。なんといっても、30年余りも利用しているのですから。
 おそらく最初は、友人に誘われて、1階の北東隅にある自習室を使い始めたのだと思います。受験浪人時代、下鴨の予備校に通っていた私は、自宅と予備校の間にあった総合資料館を仲間とよく利用していたのでした。

 京都府立総合資料館
  自習室

 あの、そっけのない大机と粗末な椅子。まわりは、若者も大人も自習している人ばかり。その雰囲気を余り好きになれませんでした(笑) でも、友達と一緒にちょくちょく通っていたのです。

 無事に大学合格してからは、上階にある閲覧室を利用し始めました。

 京都府立総合資料館
  3階ホール

 写真奥が閲覧室。
 その手前、この廊下状のホールの左右と右側の張出し部に、ずらっとカードボックスが並んでいました。私はいつも、片手にノートとシャープペンシルを持って、延々とカードを繰っていたのです。
 どの図書館でも、昔の思い出で最も色濃く残っているのはカードボックスの記憶です。大学図書館のメインカウンター前に並べられていた木製のカードボックス、大阪府立中之島図書館の円い階段室の壁際に設えられていたカードボックス。地方の図書館を訪れても、まず向かうところはカードボックスでした。
 いまでも、勉強するには端末検索を叩くよりカードボックスを繰る方が優れていると思う私ですが、それを備えている図書館は、もうありません。
 
 
 1963年11月に開館

 京都府立総合資料館が開館したのは、昭和38年(1963)11月15日だったそうです。正面玄関にある石製の銘板の裏をのぞくと、その年月日と当時の知事・蜷川虎三氏の名前が記されています。

 2013年は、総合資料館の開館50周年にあたります。秋には、さまざまな記念行事が開催されているのですが、11月28日にバックヤード見学会があったので、参加してきました。職員の方の解説付きで、ふだん入れないスペースも含めて、館の内外を拝見できました。
 どちらかというと地味な催しですが、約20名の参加者があり、いつもながら知的関心の高さがうかがえます。
 配布された資料「総合資料館の建物探訪」も参照しながら、この施設をめぐっていきたいと思います(以下、< >は同資料からの引用です)。

 京都府立総合資料館
  バックヤードツアー

 総合資料館は、北を北山通、東を下鴨中通、南を府立大学、西を植物園に囲まれています。
 開館前、現・資料館の敷地は府立大学農場の北端で、鶏舎などがあったそうです。私の学生時代(1980年代)も、資料館の南にはまだ農場が広がっており、作物が植えられ、牛も飼われていました。
 東の下鴨中通は、深泥池の脇を経て北に通じる鞍馬街道で、これが当時のメインストリート。資料館も、東向きメインで設計されました。
 北山通は整備中で、<当時の資料には十二間道路とも書かれて>いたそうです。
 少し注釈しますと、私の子供の頃も、北山通は「十二間」と通称していました。特に、北山橋より西(堀川通や大宮通のあたり)をそう呼んだのです。おそらく道幅が12間(約22m)だからでしょう。それに対し、今宮通(北大路駅の北側の道路)を「六間」と呼んでいました。これらは市街北郊に新たに開通させた街路なので、このような通称ができたのでしょう。

 上の写真で参加者が集まっているのが、東側の前庭です。この広いスペースには、石が敷かれています。

 京都府立総合資料館
  前庭の敷石

 これは、市電北野線の敷石を転用したものだそうです。
 建物北側も含めて、すべてに市電の敷石を敷く計画だったのですが、数量が不足して、北側はコンクリートになり、東側にも花壇を作ってゴマかした!(失礼)のだそうです。


 建物の構成

 京都府立総合資料館

 建物の設計は富家建築設計事務所(富家宏泰)、施工は清水建設、総工費4億5千万円で、昭和38年(1963)竣工。玄関棟、北棟、南棟、西棟からなっています。
 玄関棟は3階まで吹き抜けで、左右に分かれながら昇って行く階段が印象的です。
 そことつながって、南棟の3階は当初から大閲覧室でした。ここは今も閲覧室のままで、南側に窓を備えた明るい空間です。
 西棟の2階には、昭和63年(1988)まで展示室がありました。北玄関から入ります。

 京都府立総合資料館
  北玄関

 当初は、写真の左側の壁に階段があったそうです。今でも、階上には階段が……

 京都府立総合資料館
  閉鎖され“無用階段”に

 私も、この展示室は見ているはずなのですが、まったく思い出せません。

 北玄関の東側は、現在は休憩室になっています。私の学生の頃も、同じでした。

 京都府立総合資料館
  休憩室

 しかし、開館当初、ここは食堂だったそうです。
 その名も「スナック国際」! インターナショナルなスナック? ではもちろんなくて、京都国際ホテルが入っていた軽食(=スナック)を出す食堂でした。
 <先輩方から聞いたところによると、カレーライス、ハヤシライス、チャーハン、親子丼、本日の定食などがあったようです。定食には、スープ、コーヒーが付いていました>。昭和50年(1975)9月に休業しました。


 定礎には「タイムカプセル」も

 玄関脇の定礎もおもしろそうです。
 <当時の新聞記事によると、定礎(正面玄関の左側に有)には設計図、硬貨(1円、5円、10円、50円)、京都新聞などが埋められ、100年後に開かれることになっていると記されて>いるそうです。 
 タイムカプセル! 
 これまた注釈しますと、定礎石に関係遺物を埋め込むことは欧米にある習慣で、日本でも戦前から行われていましたから、ここだけが珍しいのではありません。
 百円玉がまだなかったところが時代ですね。
 それにしても、百年後まで誰が覚えているのか!! まだ50年、いまから心配です。

 京都府立総合資料館
  南棟の玄関

 南棟の職員用玄関は、ドアを入ってすぐ5段ほどの階段が付いています。
 これは、南棟の1階にも書庫があるため、地面からかさ上げして湿気を防ぐ目的だそうです。

 京都府立総合資料館
  南棟

 総合資料館は、その名の通り、開館当初は展示施設でもあったわけですが、昭和63年(1988)に京都文化博物館がオープンしたため、資料収蔵と展示の機能をそちらへ移譲しました。
 また、平成13年(2001)に府立図書館が増床リニューアルした関係で、総合資料館は京都に関する専門資料館となり、蔵書の約半分が府立図書館へ移されました。このことは、私にとっては不便なところで、同じ分野の図書でも「京都関係」と「京都関係以外」がバラバラに所蔵されるようになったので、2館をハシゴする必要が生じるからです。

 今回はバックヤードを含む館内を見学、説明いただく機会を得て、これまで総合資料館のことを全然知らなかったことを知りました。30年間、まったく無意識に使っていた自分が恥ずかしい。でも、無意識に使わせてくれていたところが、すばらしい。
 昔も今も家から自転車圏内で、私にとって単に「資料館」といえば、京都府立総合資料館。何の変哲もない施設のように見えますが、「ふつう」を続けることが一番むずかしい。府立図書館も新しくなってからしばしば利用しますが、やっぱり総合資料館の3階閲覧室の開放的な空間は優れています。30年前から全く雰囲気が変わっていないし、これからもまだまだ使えそうです。

 ……といいながら、実は総合資料館は、新しい建物にリニューアルされるのです!
 南側の府立大学農場跡に、府大などとの複合施設が建設され、そこに移る予定です。建物の工事は今年始まっていて、引っ越しも時間の問題ですね。

 私自身、「リニューアルする」側も経験しているのですが、「リニューアルされる」側としては、やっぱりせつない。
 「知」にかかわる営みは、単なる利便性、快適性のみに依拠するのではなく、思考環境の安定性を求めます。いまの資料館から新資料館へ、上手な形でリレーを行っていただければと願っています。


  京都府立総合資料館 50年目の秋景



 京都府立総合資料館

 所在 京都市左京区下鴨半木町
 利用 無料(第2水曜日、祝日、年末年始は休み)
 交通 地下鉄「北山」下車、すぐ



 【参考文献】
 「資料館の建物探訪」京都府立総合資料館、2013年

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「黒谷」で知られる金戒光明寺では、幕末の山門が修復完了

洛東




金戒光明寺


 紫雲たなびく地「黒谷」

 京都の人に「金戒光明寺」と聞いても、おそらくほとんどの方が“?”という顔をするでしょう。しかし知らないわけではなく、「黒谷」と言い直してみると、多くの方は分かると思います。
 大正4年(1915)に刊行された『新撰京都名勝誌』、これは京都市が発行した書物ですが、そこにも「黒谷光明寺」として立項されているくらいです(ちなみに、昭和の改訂版『京都名勝誌』には「金戒光明寺」となっています)。

 金戒光明寺
  金戒光明寺 総門

 その『新撰京都名勝誌』から、解説文を引用してみましょう。

黒谷光明寺  若王子の西 岡崎町字黒谷
 紫雲山金戒光明寺  通称は黒谷、浄土宗鎮西派四箇本山の一なり。承安五年[1175]開祖円光大師、比叡山西塔黒谷の幽棲を出で、京都に入り浄土宗を弘通せんと欲し、此地を経過して紫雲光明の霊異を感じ、遂に一堂を結び光明寺と号す。其叡山黒谷より移りしを以て、世人称して新黒谷といひ、又地名に依りて白河禅房とも称せし(後略) (88ページ)


 承安5年(1175)、比叡山西塔の「黒谷」に住房を持っていた“円光大師”が、都のこの地を通った時に、紫雲たなびき光明を見たということで、ここに堂を構え、「新黒谷」と呼ばれるようになった--という言い伝えです。
 それで金戒「光明」寺だし、山号も「紫雲」山なんですね。

 ところで、この「円光大師」って誰でしょう?

 戦後育ちの私たちは、こういうのが苦手ですよね。
 それでも、弘法大師が空海ということは、誰でも知っていますよね。最澄が伝教大師ということも、知られている範囲なのでしょうか。
 私たちの歴史の知識は、知らず知らずのうちに教科書がスタンダードになっていたようで、円光大師といっても、ほとんど分らないわけです。でも、現地を訪ねてみると、石碑に「円光大師」云々と刻んであったりして、こういう言い方を知ることも大切です。

 ちょっと持って回りましたが、答えは「法然」でした。なんだ、という感じですね。
 ○○大師という言い方、つまり高僧に朝廷から贈られる諡号(しごう、おくりな)である大師号は、日本では、貞観8年(866)の伝教大師=最澄、慈覚大師=円仁が最初でした。

 法然さんが大師号「円光大師」を賜ったのはいつかというと、元禄10年(1697)のことで、東山天皇の時です。浄土宗では、450回忌の際に諡号をもらいたかったようなのですが、少しばかり時間を要したということですね。
 その後、500回忌(宝永8=1711、中御門天皇)に「東漸大師」の号を賜ります。その後、50年ごとに「慧成(えじょう)大師」「弘覚(こうかく)大師」「慈教(じきょう)大師」、そして明治天皇からは「明照(めいしょう)大師」、昭和天皇からは「和順(わじゅん)大師」と賜り、2011年の800回忌には「法爾(ほうに)大師」の号を賜りました。

 なんと8つも…… こんなのは法然さんだけなのですが、なぜなんでしょう。よく分からないみたいですね。

  明照大師号勅書

 これは『知恩院』(1930)という本に掲載されていた勅書なのですが、明治44年(1911)に明治天皇から明照大師の号が贈られた時のものです。「加諡 明照大師」という今回の諡号の右には、これまでの諡号が重ねられた「円光当然慧成弘覚慈教大師」と記されていて、なんとも驚かされます……

 閑話休題。
 今日は、先般修復が成った山門について見てみましょう。


 修復が完成した山門

 この門は、幕末に再建されていますので、「花洛名勝図会」(1864)に登場します。

 「花洛名勝図会」より金戒光明寺 
  「花洛名勝図会」巻4より

 石段の感じなども含めて、ほぼ今日と同じ様子です。樹木が少ないのが違うところでしょうか。

 今回の修理は、2011年5月、屋根瓦の落下に端を発し、緊急に修理が計画されました。
 同年7月から、足場や素屋根を設ける工事をはじめ、2012年から半解体修理が実施されました。

 金戒光明寺(山門修復中)
  修理中の山門 (2012年9月撮影)

2013年3月には本体の工事が終わり、10月25日に落慶式が執り行われたのです。

 金戒光明寺
  落慶した山門 (2013年11月撮影)

 この山門が完成したのは、幕末の万延元年(1860)のことです。棟札の年紀は嘉永7年(1854)ですので、その落慶法要を法然上人の650回忌(1861)の前年に執行したのでしょう。建物の細かいところは、幕末らしい雰囲気です。

 金戒光明寺
  組物は詰組

 金戒光明寺
  蟇股と虹梁

 竣工にあわせて楼上も拝観できました。昇り口の山廊もお色直し。

 金戒光明寺
  山廊(西側)

 楼上には、宝冠釈迦如来や十六羅漢がおられます。
 目立つのは、組物につけられた……

  『日本建築細部変遷小図録』より金戒光明寺
  楼門上層の木鼻 中央が牡丹(『日本建築細部変遷小図録』より)
 
 このような彫刻、特に牡丹の木鼻が印象的です。

 楼上の外には、後小松天皇の宸筆の額が懸けられています。

 金戒光明寺
  「浄土真宗最初門」

 こちらの額も、以前ふれた不動堂明王院(下京区)の例(記事はこちら ⇒ <弘法大師が刻んだという“霊石不動”は、井戸の底に沈められた…>)と同じ書風です。

 いわゆる「雑体書」というもの。

  金戒光明寺 雑体書による書(後小松天皇宸筆)

 「浄」の字に注目してみましょう。

 金戒光明寺

 赤い丸の部分が鳥のような形、黄色い丸の部分がヘビのような形です。この動物モチーフが書体の特徴です。
 もともとは中国の書体ですが、日本では弘法大師が書き、のちに寺社の額や看板の書体として使われるようになりました。

 この額も、今回の修理で綺麗になったようですね。

 金戒光明寺は、なにかと見どころの多いお寺ですが、今回はこの辺で。


  金戒光明寺

 


 金戒光明寺 山門 (京都府指定文化財)

 所在 京都市左京区黒谷
 拝観 境内自由  山門楼上は特別公開時のみ
 交通 市バス「岡崎道」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『知恩院』知恩院、1930年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年


“東洋のバウハウス”を志向した京都高等工芸学校の本館は、連続窓が見どころ





京都工芸繊維大学3号館


 吉田から松ヶ崎に移転した高等工芸学校

 前回、西陣織物館の関係でふれた京都高等工芸学校。明治35年(1902)に創立されましたが、当初は、現在の京都大学の西側、吉田の地に校舎がありました。学科は、図案科、機織科、色染科の3科から構成されていました。

 昭和4年(1929)に陶磁器科が新設されますが、このことがキャンパスの拡大、移転につながります。
 新たに、市街地北郊の松ヶ崎(現校地)に移ったのは、昭和5年(1930)のことでした。この校舎を設計したのが、図案科の主任教授だった本野精吾、あの前衛的な西陣織物館を設計した建築家でした。

 ちなみに、本野が受け持っていた科目は、建築工芸学、工芸図案学、建築史、工芸史、意匠計画、製図実習、彫塑実習となっています(昭和12年当時)。さすがに、工芸的、デザイン的な要素が強く、一般の建築学科とは趣を異にしています。

 京都工芸繊維大学3号館
  京都工芸繊維大学・東門から3号館を望む(かつての正門と本館)


 “東洋のバウハウス”? 

 移転に際して、キャンパスの東側に、東を向いて建てられたのが本館(現・3号館)です。

 京都工芸繊維大学3号館

 この建物の原型は、昭和2年(1927)に設立されたインターナショナル建築会の最初の展覧会に出品された「或る学校建築への草案」という図面でした。その設計は、壁面のすべて、とりわけ2層と3層が連続的なガラス面で覆われている建物でした。
 その前年にヴァルター・グロピウスによって造られたバウハウスの校舎(ドイツ・デッサウ)に想を得たとも思われるデザインで、遡れば、本野がドイツ留学時に圧倒されたAEGタービン工場(ペーター・ベーレンス設計)の影響があるようにも思われます。
 もし、この当初案が実現、現存していれば、日本の代表的なインターナショナルスタイルの作品になっていたかも知れません。

 現在の校舎は、本野の基本設計をもとに文部省が実施設計したといわれています。
 その前面を見ると、どこがバウハウス? と思われることでしょう。

 京都工芸繊維大学3号館
  京都工芸繊維大学3号館 正面(東面)

 その名残りは、建物の南面と北面に見られるのです。

 京都工芸繊維大学3号館
  南面

 2、3階をカンチレバー(片持ち梁)によって少し持ち出した連続窓です。当初案から比べるとずいぶんおとなしいのですが、本野のアイデアを示す部分です。

 京都工芸繊維大学3号館
  南面

 窓が光ると、3連の桟が綺麗ですね。


 外壁はスクラッチタイル

 外壁は、すべてスクラッチタイル貼りです。

 京都工芸繊維大学3号館

 当時の流行ですが、茶褐色なので、よく言えば重々しい感じ、悪く言えば沈んだ雰囲気になってしまいます。個人的な感想としては、もったいないと思います。

 それでも、細部はおもしろいのです。

 京都工芸繊維大学3号館

 京都工芸繊維大学3号館 車寄せ


 正面の車寄せです。
 庇にガラスを張って採光しています。

 京都工芸繊維大学3号館

 このあたりが時代の雰囲気を醸し出すとともに、高等工芸学校らしいエレガンスでしょうか。

  京都工芸繊維大学3号館 扉(内側より)

 もしかして学生にも余り知られていない名建築ですが、門衛所や倉庫とともに、登録文化財になっています。
 本野精吾の建築作品は、西陣織物館(現・京都市考古資料館)、本野邸、鶴巻邸と、この校舎しか現存していません。最も大規模なものですので、一度ご覧になってみてください。


 京都工芸繊維大学門衛所
  門衛所(東門脇)




 京都工芸繊維大学 3号館 (登録有形文化財)

 所在 京都市左京区松ヶ崎橋上町
 見学 自由(キャンパス内です)
 交通 地下鉄「松ヶ崎」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『建築家 本野精吾』京都工芸繊維大学技術工芸資料館、2010年
 『京都工芸繊維大学百年史』京都工芸繊維大学百周年事業委員会、2001年


ふたつの「革新」が出会い、西陣織物館は生まれた





旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 西陣織の近代化

 西陣織というと、京都を代表する伝統産業のひとつですが、昨今は着物離れで若い方には馴染みが薄くなっているのかも知れません。

 『京都名勝誌』より西陣織製造状況
 昭和初期の西陣織の様子(川島工場、『京都名勝誌』より)

 長い歴史を持つ西陣織は、江戸時代前期にはすでに隆盛を誇っていましたが、18世紀になると、享保や天明の大火が西陣を焼き尽くし、他の機業地の勃興もあいまって、その地位は低下します。
 近代になっても、東京遷都の影響で、京都の産業界は立て直しを迫られましたが、西陣織は近代化の道を歩みます。そのひとつが、明治5年(1872)のフランス・リヨンへの職工らの派遣で、その結果、画期的な紋織機であるジャカードや、飛び杼(ひ)を用いるバッタンなどがもたらされました。
 ジャカードは、19世紀初頭、リヨンの J.M.ジャカールによって考案された織機ですが、いわば長尺のパンチカードを用いてタテ糸の上げ下げを制御しながら複雑な模様を織り出せるマシンでした。人による操作をパンチカード(紋紙)で代用する“ハイテク”だったのです。この画期的な織機の導入で、西陣織は近代化の緒に就いたともいえるでしょう。
 明治末には、織機数は2万台にのぼり、全国の織物生産の約7%を占めたといいます。

  旧西陣織物館(京都市考古資料館)「西陣」碑(京都市考古資料館前)


 西陣織物館の開設

 時代は明治から大正となり、大正4年(1915)には大正天皇の即位礼が挙行されることになりました。大正や昭和の即位礼(いわゆる「御大典」)の舞台は、京都御所ですね。
 これにあわせて、各方面で大典記念事業が計画されます。ここ西陣でも、ひとつのプランが実行に移されました。それが、織物館の建設です。

 当時の状況について、『京都名勝誌』(1928)には、こう記されています。

 西陣機業の発達進歩を図り、西陣織の精華真髄を内外に知悉せしむべきの途として、織物館設置の必要なることは、識者間夙に唱導せる所なりしが、時恰[あたか]も御即位の大礼を行はせらるゝの時機に際会したるを以て、記念事業として之が建設を見たり。(427ページ)

 織物館の主な事業は、以下の通りです。

(一)流行の新製品を陳列して、西陣織物の紹介宣伝をなす。
(二)広く内外の参考品を蒐集して当業者並に一般の参考に供す。
(三)西陣機業家と需要者間に立ちて仲介斡旋の労をとる。(427-428ページ)


 まず新製品を展示して、西陣織をPRする。また、織物等の製品や資料などを国内外から集め、製造業者の参考に提供するとともに、一般にも公開する。そして、製造者と問屋、呉服店等の仲介をする-―といった感じでしょうか。
 織物館は、西陣織物同業組合によって開設されたので、PR施設であるとともに、組合員(製造者)の製造、販売の便宜をはかる意味もあったわけです。

 『京都名勝誌』より西陣織物館
  西陣織物館(『京都名勝誌』より)

 この写真は、昭和3年(1928)刊『京都名勝誌』に掲載されたものです。大正末から昭和初期頃の姿でしょうか。ちなみに、現在、建物前にある「西陣」碑は、昭和3年建立なので、ここにはまだ写っていません。

 では、この西陣織物館の建築的な意義を振り返ってみましょう。


 建築家・本野精吾による超尖端的建築!

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)
  旧西陣織物館(現・京都市考古資料館)

 現在は京都市考古資料館になっている西陣織物館の建物。
 大正3年(1914)の竣工。構造は、鉄筋コンクリートに煉瓦壁を併用した造り。内部は、1階がすべて展示即売室、2階の東半分も展示即売室で、西側に資料室と、貴賓室を兼ねる会議室がありました。事務室などはないようで、純粋な展示および資料収蔵施設といえるでしょう。

 デザイン的にみると、古典的な要素をまったく廃して、大正初期の建築としては異例のスタイルになっています。

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)  旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 窓には装飾が全然ありません。ふつう、上部に三角形のペディメントなどを付けるものですが、まったく顧みないのです。

  旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 正面の車寄せの角柱。柱頭部の装飾は行われているものの、幾何学的デザインになっています。古典的なオーダーの植物的意匠を変形したものでしょう。

  旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 照明器具は、おしゃれですね。

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)

 内部。1階から2階へ上がる階段です。細い手摺子にセンスが感じられます。

 竣工当時、“マッチ箱にピラミッドをのせたみたい”と揶揄されたほどの尖端的デザイン。古典主義的な約束事に従っていた西洋建築の常識からすれば論外の建物で、当時の建築界からみれば異端児の作品ということになりますね。

 その“異端児”、本野精吾という人です。
 明治15年(1882)、東京生まれ。父親は読売新聞の創業者のひとりで、本野もボンボンだったのかも知れませんね。東京帝大で建築を学んだのち、三菱合資会社地所部に入り、建築設計を始めます。明治42年(1909)、ドイツ留学。この経験が彼の作風を決定づけたようです。
 西陣織物館は、留学中に見た P.ベーレンスという建築家の影響があると指摘されています。

 ここで疑問に思うのは、なぜこのような前衛的な建築家に設計を依頼したのか、ということですね。
 施主(西陣織物同業組合)としては、もう少し「ふつう」の建物を造ってもらいたかったというのが、本音ではないでしょうか?

 本野精吾の履歴を見てみると、三菱合資会社で2、3の設計に携わっているものの、それは組織内での仕事であり、また留学前のことでした。
 西陣織物館は、本野が個人として設計した事実上の初作品だったのです。つまり、彼がどんな設計をしてくるか、誰にも分からなかったのでしょう。
 
 では、なぜ“初仕事”の本野に依頼したのか?
 それはおそらく、当時の彼の職によっているのでした。本野精吾は、ドイツ留学前年の明治41年(1908)、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)に教授として招かれています。彼を呼んだのは、京都建築界で活躍し、デザイン面にも強かった武田五一でした。

 京都高等工芸学校は、明治35年(1902)に創立され、専攻としては図案科、機織科、色染科が置かれていました。当初からデザイン教育に力を入れたわけですが、機織や色染といった学科は西陣織や友禅染を地場産業とする京都を意識したものでした。
 高等工芸学校と西陣織業界は強いつながりを持ちながら、西陣織の刷新に取り組んでいたのです。
 本野精吾に設計依頼が舞い込んだのも、彼が図案科の教授だったからでしょう。
 『京都工芸繊維大学百年史』によると、西陣織物同業組合の池田有蔵組合長が中沢岩太校長に建築設計を依頼。本野が推薦されたといいます。
 

 旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 明治以降、技術やデザインへの革新を志向した西陣織と、欧州の建築潮流に影響を受けて革新的な建築を創造した本野精吾。
 ふたつの「革新」が必然的に融合したことで、西陣織物館という尖端的建築が登場したのでした。西陣の人たちは、苦笑いしながらも、案外この建物を自慢に思ったのかも知れません。




 旧 西陣織物館(京都市考古資料館) (京都市登録有形文化財)

 所在 京都市上京区今出川通大宮東入ル元伊佐町
 見学 館内自由(無料)
 交通 市バス「堀川今出川」下車、すぐ



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』1915年、京都市
 『京都名勝誌』1928年、京都市
 『建築家 本野精吾』京都工芸繊維大学技術工芸資料館、2010年
 『京都工芸繊維大学百年史』京都工芸繊維大学百周年事業委員会、2001年


江戸時代の京に響く中国語の声 - 「世間学者気質」 -

京都本




世間学者気質


 衝撃的! 京都の町人が中国語を話す物語

 今でこそ中国語を勉強する人は多くなりましたが、一昔前までは外国語といえば英語や欧州諸語が中心でした。

 ところが、江戸中期の京都で、中国語をしゃべる町人がいたと聞いたら、とても驚きです。
 これから紹介するのは、あくまで物語(浮世草子)の世界で、面白おかしく書かれているのですが、あながち完全なデタラメでもないように思えます。
 どんな話なのか、さっそく紹介してみましょう。

 タイトルは「世間学者気質(かたぎ)」。明和5年(1768)に出た浮世草子で、“気質もの”と呼ばれる一群に属する作品です。作者は無跡散人ですが、誰のことなのか、よく分かりません。
 以下、その中の巻一のあらすじです。


 中国趣味に取りつかれた若旦那

 京の町に、布袋屋福右衛門という大金持ちがいました。 
 69歳になっても隠居せず、いわゆる“始末”な人物で、お金を節約して蓄財を重ねています。
 息子の徳太郎といえば、たいそう大切に育てられ、生まれてこの方、そろばんを持ったこともなく、堅いものといえば箸と筆、重いものといったら硯くらいしか持ったことがありません。
 生まれつき器用なたちで飲み込みが早く、7歳で早くも詩を作るなど才能を発揮しました。そんなわけで長じても漢詩を詠むことや文を作ることを好みました。

 成人にしたがひて、学問しだいに上り、詩賦作文を好む心より、唐好になりて、居間は敷瓦に丸柱、朱ぬりの聯[れん]に、何やら蚯蚓[みみず]ののたくつたやうな文字を彫付、机のまはりは、唐のほし見せ程ならべ立、ふだんは晋衣[しんえ]に淵明巾[きん]、髭[ひげ]のこいこそ日本人は悪けれど、是のみを難儀がり、膳のまはりは羊の浜焼、豕[いのこ]のこくしやう、牛のかまぼこはいふに及ばず、熊の掌のてんぷら、豚のからしあへ、はじかみを捨てずして喰う。 (後略)

 成人すると、詩賦作文を好むようになり、「唐(から)好き」、つまり中国大好き! になった徳太郎。
 居間には、畳ならず敷瓦(しきがわら)を敷きつめ、「聯(れん)」にミミズがのたくったような字を彫り付けています。
 聯というのは、このようなもの。

  聯(れん) 萬福寺の聯

 宇治・萬福寺の写真ですが、禅堂の柱に取り付けた縦長の板で、深遠な禅語が記されています。これが聯で、当時イメージされる中国風文物のひとつでした。

 衣服は「晋衣(しんえ)」、つまり中国風の服。「淵明巾(えんめいきん)」は、中国の4~5世紀、東晋の詩人・陶淵明(とうえんめい、陶潜)にちなむ頭巾(ずきん)の一種です。陶淵明といえば「帰去来の辞」で有名な人ですね。

 といった、頭巾と服を身に着けていたわけで、完全な中国趣味の若旦那。
 食べるものも、およそ江戸時代らしからぬ、羊とか豚とか、牛のかまぼこ(?)、熊の掌!などなど。日本人離れしています。

 引用文のあとにも、「ぶどうの美酒」を傾けながら、「唐人仲間」と詩会や文章会を開く毎日。
 そうこうするうちに、中国語もしゃべれるようになってくるのでした。


 江戸時代の中国語「唐話」

 急に唐へ行て見たい気になり、俄(にわか)に唐音、簫(しょう)しちりきのけいこ、日がな一日、「紅満枝緑満枝」と、うたひくらし、日がくれると、“乙乙下一乞”タラリヒヤラと吹立、(後略)

 このように、中国に行ってみたくなって、にわかに「唐音(とうおん/とういん)」、つまり中国語の勉強を始め、楽器の“しょう” “しちりき”を稽古してみたりします。
 当時、中国語の話し言葉を「唐話」と呼んでいました。

 引用の「紅満枝緑満枝」には、「こうまんつう ろうまんつう」という唐音の振り仮名がふってあります。
 徳太郎と仲間の会話もこんな具合です(【 】内は振り仮名)。

 (主)有労来也【いうろうらいや】御大義によう御出なされた
 (客)久違得緊那大家万福麼【きういいてきんなたいきやあわんふうも】久しう御ぶさた仕た どなたもおかわりも御ざらぬか
 (主)請坐【ちんぞー】々々 先下に御ざれ 茶拿来進他菓子也拿来【さならいちんとうこうつうゑならい】茶もて来て あの人にしんぜい 菓子も又もつてこい


 いやはや、まったく理解不能ですね。
 でも、本人たちは真剣なのか、徳太郎も来年の春には長崎から唐へ渡ろうという夢を抱き始めたのです。
 
 ところが、突然、父親が亡くなります。
 奉公人は、ここぞとばかり勝手に散財し始め、財産は一気に尽きました。
 あわれ、徳太郎は、ばあ様と一緒に五条あたりで借家住まいです。

 でも、そこでいう泣き言も、「不好了」【ぶうはうりやう】きのどくなこと という唐話です。つられてばあ様も、わしほど 「造化底」【ぞうほわでい】ふしあはせ な者はないと、嘆きます。
 状況を打開しようと、「大明伝来の詩仙糖といふ薬菓子」を販売しますが、うまくいかず…… という物語です。


 萬福寺
   萬福寺(宇治市)


 意外な唐話ブーム

 では、なぜ京の商家の若旦那が、ペラペラと中国語をしゃべっているのか?
 これには時代背景があります。

 以前書いたように、17世紀半ばには、隠元禅師の渡来と萬福寺開創に伴う中国文化ブームがありました。
 詳しくは、こちら ⇒ <萬福寺の聯と額は、京都人の憧れの的>

 18世紀に入ると、儒者の荻生徂徠は古文辞学を唱え、漢文をそのまま中国語として読もうと考えます。
 その際、講師として招かれたのが、岡島冠山(1674-1728)でした。
 冠山は、長崎で唐通事(中国語通訳)をしていたこともあって、その道のプロフェッショナルです。徂徠らのサークル・訳社で講師を務め、唐話テキストである「唐話纂要」を出しました。享保元年(1716)のことです。

 訳社の解散後、彼は京都にやってきます。
 そこで、「唐話類纂」「唐話使用」(1725)、「唐話雅俗語類」「唐訳便覧」(1726)など、数多くのテキスト類を京都で出版します。
 唐話の“家元”が京に上ってきて、これだけテキストを上梓したのですから、京都の文化人は喜んで唐話を勉強したでしょう。それがきっと、知識欲旺盛でお金も暇もある商家の旦那衆に広がったに違いありません。
「徳太郎」も、そんな一人だったのでしょう。

 けれども、川柳「売り家と唐様で書く三代目」さながら、彼もまた財産を吐き出して逼塞してしまうのでした。
 世の中、皮肉なものです。

 「世間学者気質」の物語は、あくまでフィクションで大袈裟に書かれていることは否めません。しかし、登場する唐話=中国語は、作者が知っていたからこそ書けたもので、それを受け入れる読者層も多少なりともあったのでしょう。
 江戸中期の京都には、唐話から書画、煎茶に至るまで、中国文化が充満していたのです。長崎を除くと、やはり稀有な町かも知れず、こんな観点で京都を眺めることも、時にはおもしろいと思います。



 
 書 名:「世間学者気質」巻之一
     (第一 唐人の寝言は孔子も時にあはず、
      第二 子曰で禍の趣る三年の忌中)
 著 者:無跡散人
 収録書:帝国文庫30『気質全集』博文館
 刊行年:1893年



 【参考文献】
 田中優子『江戸の想像力』ちくま学芸文庫、1992年(原著1986年)
 西原大輔「江戸時代の中国語研究-岡島冠山と荻生徂徠-」、「比較文学・文化論集9」13-19、1992年 所収
 岡田袈裟男「唐話の受容と江戸の言語文化」、「国語学」54-3、2003年 所収


弘法大師が刻んだという“霊石不動”は、井戸の底に沈められた…





不動堂明王院


 京都駅の脇に、ひっそりと…

 京都駅前から、塩小路通を西へ進み、西洞院通を越えると、京都を代表するハイテク企業のひとつ、オムロンが見えてきます。

 オムロン前
  オムロン本社屋

 2013年で創業80周年だそうです。そういえば、昔は「立石電機」と言っていましたよね。懐かしい。
 実は、この本社屋が所在する町名は、「南不動堂町」なんですね。

 そのオムロンの西の通りは、JR南側へ行ける抜け道になっています。
 そこに……

 不動堂明王院と道祖神社
  不動堂明王院(左)と道祖神社

 不動堂明王院と道祖神社という、小さなふたつの寺社があります。
 オムロン社屋の西棟(啓真館というそうです)の通用口の前ですね。そう、オムロンの住所「南不動堂町」は、このお堂に由来するのでした。

 江戸中期の様子。

 「都名所図会」より不動堂、道祖神
  「都名所図会」巻2より「稲荷御旅」

 画面中央に大きく見える社は、伏見稲荷の御旅所です。現在もあって、場所は京都駅南のイオンモールの西向いになります。
 その右脇(東側)の通りは油小路通。それを北に進むと、黄色のマークの場所に不動堂と道祖神社があります。

 「都名所図会」より不動堂、道祖神

 通行人が歩いている油小路通。通りが垣に突当って、その脇に「不動堂」と記されたお堂があります。そして、道の右には「道祖神」と書かれた小祠が見えます。
 つまり、江戸時代には、道祖神社は油小路通の東側、不動堂より少し南にあったわけです。道路西側の現在地には、明治6年(1873)に移されたそうです。
 それにしても、まわりはほとんど田圃です。古くは不動堂村だったというのも理解できます。

 ちなみに、現在では、この不動堂と稲荷御旅所の間をJRが走っているのですね。 


 弘法大師が刻んだ秘仏

 不動堂明王院
  不動堂明王院

 不動堂明王院です。お詣りしますと、扉は閉まっていますが、内の仏さまは拝することができます。三尊おられ、右には弘法大師、左には役行者が坐しておられます。そして中央には、不動明王が立っておられるのですが、この方は御前立ちです。御前立ち(おまえだち)とは、本尊の秘仏などが納められている厨子の前(御前)に立っている仏さまのことです。
 ただ、こちらの場合、ちょっと普通の御前立ちとは違うのです。

 寺伝によると、弘法大師が東寺を賜った時、鬼門である当地に不動明王を祀られたのですが、それは大師が見付けた霊石に自刻した像でした。ところが、のちに、この像を石棺に収めて地中の井戸深く埋められたのだそうです。のち、このあたりに亭子院(ていじいん)を造営した宇多法皇が、不動明王像を掘り出すよう命じましたが果たせず、その後は霊石不動の名を賜り、秘仏になったと伝えます。

 ということで、ここの秘仏は厨子の中にあるのではなく、地中深く沈められているのですね。だから、御前立ちというより、“御上立ち”でしょうか?


 弘法大師の書体

 今回は、ミニ知識で終わっておきましょう。

 不動堂明王院

 お堂に掲げられた額です。
 なにか、端が跳ね上がったような、変な書体でしょう。
 
 これが、弘法大師が得意とした「雑体書」の流れをくむ文字なのです。
 弘法大師(空海)というと、平安時代の<三筆>として有名ですね。教科書に出てくる「風信帖」は流麗な筆致ですが、実はそれとは打って変わった奇妙な文字も書いているのです。それが雑体書でした。
 雑体書は、古く中国の六朝時代(3世紀~6世紀)に行われた書体で、動物や虫などをモチーフに書いた文字です。
 ??と思いますが、ヘビのようにノタくった字や鳥の頭のような文字、オタマジャクシのような書やら、それはもういろいろです。
 上の写真の字は、それが穏やかになった感じでしょうか。

 雑体書は、とてもデザイン的な書体で、のちのち歌舞伎などに使われる勘亭流にまでつながるという考え方もあります。
 お寺の寺名を示す石標や額にも、よく使われるスタイルです。これは、弘法大師の書体の有り難さ、そして宗教的崇拝から来るものと思います。

 この額も、おそらく江戸後期か明治頃のもの、誰が書いたか分かりませんが、ちょっとおもしろい書体になっていますね。




 不動堂明王院

 所在 京都市下京区油小路通塩小路下る南不動堂町
 拝観 境内自由
 交通 JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 石川九楊『説き語り日本書史』新潮選書、2011年
 可成屋編『すぐわかる日本の書』東京美術、2010年


【新聞から】 中央卸売市場と女子大が連携





 食の活性化へ連携 京女大と市中央卸売市場が協定
 京都 2013年11月6日付



  『京都名勝誌』より中央卸売市場

 中央卸売市場と女子大が連携!? --という、少し珍しいニュース。
 ウェブサイトを見てみると、京都女子大は「食」に関する教育・研究をやっているので、こういう協定もありなんですね。

 京都市中央卸売市場第一市場と京都女子大学の包括協定の内容は、旬の野菜や魚を使ったメニューの共同開発や、市場関係者による授業の実施など。
 「和食」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されることですし、こういう取り組みも面白いかも知れません。

 なぜ、このニュースが目に留まったか?
 偶然、ここ1日、2日、「中央卸売市場」について調べていたからです。

 そもそも日本で、いつ中央卸売市場が誕生したか?

 答えは、昭和2年(1927)。

 では、第1号はどこかといえば、この京都市中央卸売市場なのです!
 
 稀にそばを通ることがあるのですが、JRでいえば山陰線の丹波口駅の近くですね(京都駅の次の駅です)。
 写真は撮ったことがないので、今日は最近の写真は NO PHOTO ということで。 

 その日本初の中央卸売市場のパース(鳥瞰図)。

 『京都名勝誌』より中央卸売市場
  『京都名勝誌』より中央卸売市場

 卸売市場は、長い屋根が特徴ですね。
 鉄道の引込み線があって、搬出入が便利になっています。

 全国で中央卸売市場の必要性が高まったのは大正時代のこと。日本の大正時代は、1913~26年で、その前半は第一次世界大戦(1914~18年)と重なります。その間の物価急騰は、消費者を苦しめました。その暴発といえる米騒動が起こった大正7年(1918)、騒動前の4月に大阪市で小売り市場である「公設市場」が初めて開設され、騒動後の9月に京都市でも北野、川端、七条の3つの公設市場が設置されました。

 この公設市場に生鮮食料品をスムーズかつ廉価に供給する役割を担うのが中央卸売市場で、大正12年(1923)に中央卸売市場法が制定されました。この法律では、公正な価格を保つために原則「せり」による売買が規定されたのです。京都市中央卸売市場の初代場長で、“中央卸売市場の父”ともいえる大野勇の主著が『糶[せり]の研究』というのは、その重要性を示しています。

 『京都名勝誌』より中央卸売市場
  近代的な建屋の下で、せりが行われている(『京都名勝誌』)

 取り扱った品物は、青果、鮮魚、川魚、塩干魚だったそうです。
 
 『京都名勝誌』(1928年)の中央卸売市場の項を見ると、「何事に於ても我が国の先駆者たる京都市」という言葉が躍っており、その気概を感じますね。
 こう書いてくると、一度見学に行ってみたくなる中央卸売市場です。




 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『大京都誌』東亜通信社、1932年 


きょうの散歩 - 清浄華院の泣不動尊と山科言継墓 - 2013.11.7





   清浄華院・泣不動


 秋の非公開文化財の特別公開が行われているので、今日は寺町通(御所の横)にある清浄華院と廬山寺という、隣接した2寺を訪ねてきました。

 ここは、つい1か月前にも訪問したのですが、また来てしまいました(笑)
 清浄華院で特別拝観料(800円)を払い、靴を脱いで、お堂に上りかけると……、なんと大学で教えている学生が係で立っていました! 聞くと、文化財愛好のサークルに入っているので、その活動の一環でお手伝いしているとのこと。ご苦労さまです。
 お堂の中の解説も、学生さんのようで、一所懸命話してくれました。

 清浄華院

 ここの見所のひとつが、「泣不動」。
 その物語は、このようなものです(あらすじ)。

 重い病で死の床に臥せる三井寺の高僧・智興。陰陽師の安倍清明に占わせると、誰かが身代わりになると智興は助かるといいます。
 みんなが尻込みをする中、若い僧・証空が身代わりを買って出ます。

 清明が祈祷すると、智興の病は治りましたが、証空は耐え難い苦しみに襲われます。 
 日頃信心していた自坊の不動明王に祈ると、「自分が代わりになろう」と言ってくれます。

 証空の代わりに、縄を打たれて地獄に連れられた不動明王。
 しかし、それを見て閻魔大王らは驚いてひれ伏し、不動明王は地獄から解放されるのでした。

 
 不動明王が僧侶の身代わりになる話。 
 身代わりになる不動明王が涙を流すところから、泣不動と呼ばれています。
 お地蔵さんや観音さんが身代わりになる話はよく聞きますが、お不動さんとは珍しいですね。

 この話は、古くは「今昔物語集」(巻19-24)に出てきますが、寺名や僧名は伏せられ、不動明王も登場しません。これが「発心集」に収められた話になると、実名や不動明王の血涙譚が出て来るのでした。

 今日は、このお不動さんの像(絵画)が、ご開帳されていました。
 さすがに涙の跡はよく見えなかったのですが、厨子に入って大事そうに伝えられてきた風でした。

 この物語を絵巻物にしたのが、泣不動縁起絵巻です。
 今回の公開では、狩野永納による模本が展示されていました。原本ともに、詞書はなく、絵のみです。
 この縁起には諸本ありますが、東京国立博物館の所蔵品は、ウェブサイト<e国宝>で見られますので、一度ご覧になってみてください(作品名「不動利益縁起絵巻」重文、南北朝時代)。

 戦国時代の公卿・山科言継も、日記にこの縁起絵巻を見たことを記しています(大意)。

 禁裏の台所へ行って、「鳴不動絵」を借用した。老母らにこれを見せて、すぐに返した。(「言継卿記」天文19年(1550)閏5月20日条)

 母たちにパッと見せて、すぐに返したのですね。このときは、御所に縁起絵巻が蔵されていたわけです。
 ちなみに、この頃の御所は土御門東洞院、つまり今のKBS京都の向い、御苑内の駐車場のあたりにありました。山科邸は烏丸一条ですので、そのすぐ北西、歩いてすぐの場所にあったわけです。

 そして、山科家の菩提寺は清浄華院で、この寺もまた土御門室町、つまり山科邸の少し南西にありました。今も「元浄花院町」という町名が残されています。

 その後、清浄華院は、秀吉の都市改造によって寺町通の現在地に移転されていますが、山科家の墓所は今も同寺にあります。

 清浄華院・山科言継墓

 清浄華院墓所にある山科言継卿のお墓です。
 先月訪ねたときは全然見つけられなかったのに、とても目立つ場所にあったのでした。 




 清浄華院

 所在 京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「府立医大病院前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『言継卿記 2』太洋社、1941年
 『日本古典文学全集22 今昔物語集2』小学館、1972年
 『図説京都ルネサンス』河出書房新社、1994年


解体修理中の知恩院御影堂で、その屋根に先人の知恵と工夫を見る

洛東




知恩院御影堂


 解体修理現場の公開

 知恩院の御影堂は、寛永16年(1639)に建てられた大建築で、国宝に指定されています。
 桁行十一間、梁間九間。メートルでいうと、45m×35mという広壮さで、国内の木造建築として5番目の大きさだそうです。京都でも、東本願寺御影堂などに次ぐ規模を持っています。

 知恩院では、平成17年(2005)7月から、集会堂と御影堂の半解体修理を進めており、集会堂の修理は竣工し、現在は御影堂を修理中です。工事は、平成30年(2018)まで続く予定といいます。

 2013年11月、その御影堂の修理現場が公開されましたので、早速見学に行ってきました。

 『新撰京都名勝誌』より知恩院
  大正初期の御影堂(『新撰京都名勝誌』より)


 圧倒する屋根の木組み

 知恩院御影堂
  知恩院御影堂

 公開は2日間だけで、初日の土曜日には2,000人ほどの見学者があったそうです。
 10時開始なので、10時5分頃に到着すると、すでに長蛇の列でした。

 知恩院御影堂
  フェンスの内にも行列が…

 なんと45分待ちで入場。
 ヘルメットを被って、階段を上ります。

 知恩院御影堂

 屋根の高さまで上ると、圧倒される光景が……

 知恩院御影堂

 屋根は、瓦をはがして、さらに材を除いていくと、こんな形になっています。
 おぼろげですが、屋根のありさまが想像されます。

 見学者が立っている場所は、実はこのあたりでした。

 知恩院御影堂

 建物の中央に五間の向拝があるのですが、そのあたりが私達が立っているところ。つまり、軒先の“空中”にいる感じなのです。

 蟇股なども目の前で見られます!

 知恩院御影堂

 今回の解体ですが、屋根の重量がそれを支えている小屋組にかなりのストレスを懸けていたそうです。
 御影堂の屋根瓦は約9万枚! 平瓦は8㎏、丸瓦は6㎏ほどあるといいますから、瓦の重さは数百トン!! 確かに歪みも生じますね。


 屋根を支える知恵と工夫

 現場では、実にさまざまなことが学べたのですが、その一部をご紹介していきましょう。

 知恩院御影堂

 まず、この太い木の束ですが、細かく見ていくと、巧みな工夫がこらされています。

 知恩院御影堂

 黄色の矢印を「桔木(はねぎ)」といいます。
 縦方向に長い材ですが、テコの原理を利用して、軒を持ち上げる役目をするものです。
 長い桔木の中程に支点があり、上端を押さえることによって、軒と接続されている下端が持ち上がる仕組みです。

  知恩院御影堂
  タテ方向の長い方の材が「桔木」

 寺院の堂宇の軒は、外へ大きく突き出していますが、それが下らないように持ち上げているわけです。

 明治43年(1910)の修理では、金物を使って桔木を固定していました。

 知恩院御影堂 桔木の上端部

 この写真で分かるように、桔木の上端部を吊り金物で桁(けた)に固定していました。これで、下に引っ張るのと同じ力が掛かりますね。
 よく見ると、ボルトを使っています。

 知恩院御影堂 桔木の下端部

 こちらは下端部です。
 矢印のところに吊り金物があり、下の垂木を貫通して……

 知恩院御影堂
  飛檐垂木の下部

 こんなふうに、垂木を突き抜けたところで固定しています。いちおう饅頭金物を使って、見栄えをよくしています。
 このことで、飛檐垂木を含む軒先をグッと持ち上げるわけです。

 ふんだんに金具を使うところが明治らしいですけれど、軒が落ちない工夫ですね。

 ちなみに、江戸時代や明治時代の大型建物では、軒の四隅に柱を立てて、軒の降下を防ぐものが多く見られました。
 詳しくは、こちら。 ⇒ <三十三間堂の謎の石>


 傷んだら取り換えよう!

 木造建築の場合、部材が傷んだら、その部材だけ取り換えたり、あるいは部材の一部に「つぎ」を当てて補修したりすることが、よくあります。
 その一例を見てみましょう。

 知恩院御影堂

 板の真ん中が腐食していますね。
 しかし、この板は、幅30cm~50cm位なので、取り換えるのも簡単です。事実、チョークで「取替」と書いてありますが、あの板は交換するのですね。
 このように、この板は元から取り替えが容易なように工夫されているのです。

 では、この板は何なのか?
 名前を「裏甲」といいます。読みは「うらごう」です。

 知恩院御影堂
  木口裏甲、布裏甲、茅負、飛檐垂木

 詳細に写すと、こんな感じで、上から「木口裏甲(こぐちうらごう)」「布裏甲(ぬのうらごう)」「茅負(かやおい)」「飛檐垂木(ひえんだるき)」となります。
 このような感じで重なっているのですが、外観で見ると……

 知恩院御影堂
  知恩院御影堂

 つまり、瓦の下に木口裏甲、布裏甲と続くわけです。
 もっと分かりやすい写真で見ると……

 三十三間堂
  三十三間堂

 瓦の下に、白い2段の板が見えますが、これが木口裏甲と布裏甲です。

 知恩院御影堂で、この2つを拡大してみましょう。

 知恩院御影堂

 右のピアノの鍵盤のように続く板が木口裏甲。材の短い方(木口)を見せて置かれているので「木口」裏甲です。
 左側の部分が木口裏甲を2枚分程度はがしています。この横長の材が布裏甲です。材の長い方(長手)を見せて置くのが布裏甲です。
 ただ、三十三間堂はどちらも木口なのですが、下の板は布裏甲と呼び習わしているようです。
 
 中村達太郎博士の『日本建築辞彙』には、「木口裏甲 短キ木ヲ並ベテ裏甲トナシタルモノ。二重裏甲ノ場合ニ下ヲ布裏甲トナシ上ヲ木口裏甲トナスコトアリ」としています。

 この裏甲や、茅負、垂木のたぐいは、露出して風雨にさらされる材です。
 なかでも、瓦の下にあって最も出っ張っている木口裏甲(や布裏甲)は、一番傷みやすい部材です。そのため、小さめの板で作っておけば、パーツごとに取り換えが利いて便利なのです。
 よく考えられていますね。

 そのうえ、

 知恩院御影堂
  胡粉を塗る

 木口には、白い胡粉(ごふん)を塗って、腐食防止を図っています。

 このように、寺院建築は細かいパーツの組み合わせで出来ているのですが、どれもよく考えて用いられています。
 ふだんは装飾的な部分に目がいきがちですが、解体修理現場を見ると、その構造にも考えが及ぶのでした。




 知恩院 御影堂(国宝)

 所在 京都市東山区林下町
 拝観 境内自由 ※御影堂は修復中で見学不可
 交通 地下鉄「東山」より、徒歩約10分



 【参考文献】
 「体感 伝統の技と心 京都 保存修理の現場から2013」京都府教育庁、2013年
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年
 西和夫『図解古建築入門』彰国社、1990年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年


東寺と対で出来た「西寺」は、草の中に礎石だけが残っている





西寺跡


 東寺から西へ進むと…

 東寺を参拝しても、その西にある「西寺」に行く人は、ほとんどいないでしょう。
 もちろん、「西寺」といっても、それは跡地になっていて、東寺のような大伽藍があるわけではありません。それでも、町名に「西寺町」といったものが残っていたりするのも、京都らしいところです。

 西寺町「西寺町」の町名

 東寺から九条通を西に進み、七本松通を北に曲がってしばらく行くと、唐橋小学校があります。小学校の北側に公園があり、その中に西寺跡の碑があります。

  西寺跡「史蹟 西寺阯」碑


 平安京の官寺「西寺」

 平安京が置かれた後、中央を通る朱雀大路に開かれた羅城門を挟んで、東に東寺、西に西寺が対称的に設置されました。
 その規模はほぼ同じで、南大門-中門-金堂-講堂-食堂が並び、金堂や講堂の回りには僧坊が配されていました。他に、塔や宝蔵などがあります。

 西寺跡
  西寺の伽藍配置(現地の案内板より)

 西寺の場合、五重塔の位置などが東寺と反対なのが分かります。
 
 西寺は、東寺と同様に平安京が置かれて以降、伽藍の建設が進められ、およそ830年頃には主な建物は完成していたと考えられます。
 東寺が弘法大師に与えられ、真言密教の拠点となっていったのに対し、西寺には僧綱所が置かれたり、天皇を供養する国忌が行われるなど、鎮護国家の寺として栄えました。

 しかし、天暦元年(990)に火災に遭い、その後、ある程度は再建されたようですが次第に荒廃し、鎌倉時代の天福元年(1233)には残されていた五重塔も焼失。以降の様子は、よく分かっていません。


 土の壇が残る史跡

 現在、唐橋小学校の北にある唐橋西寺公園を訪れると、写真のような小さな丘があります。

 西寺跡
  西寺跡の土壇

 これが、西寺の建物の土壇跡といわれています。この土壇は、地元では「コンド山」と呼ばれているといいます。建物の基壇としては余りに高いのですが、後世に松尾大社の神輿を練り上げるために、盛土されたものだそうです(『京都府の歴史散歩 中』)。

 ここで注意したいのは、この「コンド山」という表現。当然、「金堂山」と思いますよね。実際、大正時代に考古学者の梅原末治氏が調査報告された際、これを金堂跡とされています。
 この場所が史跡指定されたのは大正10年(1921)なので、当時はここが金堂跡と思われていたのでしょう。

 戦後になっても、ここは閑散とした場所だったようです。
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』(1947)にも、「ここから[羅城門跡から]更に二町行つて北に入ると、人家の間の空地に土壇が残つてゐる。ここが西寺址(史・弘仁)である。壇には草生ひ二三の雑木の立つてゐるのもわびしい」と記されています。

 昭和27年(1952)頃の様子。

 『京都史跡名勝紀要』より西寺址
  『京都史跡名勝紀要』より

 今は、この石碑と、運ばれてきた3つの礎石が置かれています。

 西寺跡
  礎石のひとつ


 戦後の発掘で伽藍配置が判明
 
 西寺跡は、昭和34年(1959)から昭和63年(1988)まで30年にわたって発掘調査が行われました。その結果、伽藍配置もほぼ判明しています。

 それによると、「コンド山」と呼ばれていた土壇の場所には、講堂がありました。
 その南方、公園南側の道路あたりに金堂が建っていました。さらに南、唐橋小学校の校地の中に中門や回廊があり、校地南側の道路のあたりに南大門がありました。
 また、講堂の左右や背後には僧坊があり、公園の北側道路の先には食堂が造られていました。
 このように伽藍部分でも、かなり広大な範囲に及んでいたわけですが、さらに北側には政所院や花園院などが建てられていたわけで、その広壮さは想像に余りあります。
 東寺と同じ規模だったのですね。

 京都の地図を見て、現在の東寺の範囲をもとに、西寺の規模をイメージしていただければと思います。

 西寺跡
  西寺跡に残る礎石

 あの東寺ですら、現在は中門、回廊、僧坊などが失われて、がらんとした境内です。西寺に至っては、民家が立ち並んで往時をしのぶのが難しい状態です。
 それでも、伽藍配置図などをもとにイメージすると、平安京にあった寺院のありさまに思いを致すことができるでしょう。




 西寺跡(国史跡、唐橋西寺公園)

 所在  京都市南区西寺町
 見学  公園内は自由
 交通  市バス西寺前、または九条七本松下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』臼井書房、1947年
 『京都史跡名勝紀要』京都市役所卯、1952年
 『平安京提要』角川書店、1994年
 『京都府の歴史散歩 中』山川出版社、2011年