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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【大学の窓】恒例の史跡見学は、東寺、羅城門跡…





東寺大師堂


 大学で担当する演習では、日本史専攻の1回生80名ほどを5名の教員で分担しています。

 毎年、春学期に1回、秋学期に1回、現地見学会を行っています。

 秋は、年によって違う場所を訪れていて、昨年は宇治(萬福寺、三室戸寺など)でしたが、歩く距離が長かったと、教員にも学生にも不評だったようです。みんな歩きませんからね……

 今年は、東寺とその周辺を訪ねました。

 東寺慶賀門
  集合は、東寺の慶賀門

 日曜日に実施するため、参加者は60名ほど。いつもそうなんですが、必ず“無断欠席”する学生がいるんですね。連絡用の電話番号を伝えているけれど、今回も6、7名、連絡なしで来ませんでした……

 東寺では、東寺宝物館の学芸員さんのご案内で、宝物館、大師堂、講堂、金堂、五重塔、さらに観智院と、フルコースで拝観させていただきました。
 約2時間半を費やしましたが、少し時間は不足気味でした。

 そのあと、西へ歩いて……向かったところは。

 羅城門跡

 羅城門の跡!

 今は公園になっており、隣にはマンションが建っています。
 平安京の入口にあたる大きな門ですが、昔をしのぶよすがはありません。柵に囲まれた石碑(明治28年[1895]建碑)だけが建っています。

 林屋辰三郎先生の『京都』(岩波新書)を見てみると、おもしろいことが書かれていました。

 このあいだもA新聞社の企画による共同討論の会で、梅棹忠夫・多田道太郎・加藤秀俊の三氏とともに、羅城門再建論に華をさかせたことがある。
 それはおりから再建ブームにのった「お城」を主題とした時であった。
 (中略)
 政治・社会・文化のあらゆる面が中央の画一主義でぬりつぶされつつある現在、お城こそはそれに対抗する地域主義の偉大なシンボルではないのか。(中略)その都市の歴史を理解さすための、歴史博物館にするという案である。
 そしてその最後に京都という都城のために、ぜひ羅城門を再建せよという意表をつく提案がなされた。日本の建造物で、ラショウモンほど世界に知れわたっているものはない。もとより映画の宣伝力によるものだが、これを再建して京阪国道か名神高速道路からの京都への入口にし、内部は王朝の生活、風俗を再現した博物館にするというのである。
 この羅城門が再現された暁、平安京はこの地域によみがえり、新しい京都の千年の繁栄を約束するであろう。すでに明治の京都には、平安神宮の社殿に平安京の宮城の大極殿・応天門の縮小模型を用いるという、観光むきのかなり思い切った智慧があった。羅城門の再現はおそらくそれにつぐヒットとなるであろう。(『京都』50-51ページ)

 
 昭和37年(1962)に書かれた文章です。「映画の宣伝力」とは、もちろん黒澤明監督の「羅生門」(1950)の国際的な影響力のことでしょう。

 しかし、その後、羅城門は再建されませんでした。現在では、再建するスペースすらないでしょう。
 でも、今このプランを読むと、案外いいかも、と思ったりもします。

 見学会は、このあともう1か所訪れたのですが、その史跡については回を改めて書きたいと思います。

 羅城門跡
  羅城門跡での見学風景




 羅城門跡

 所在 京都市南区唐橋羅城門町
 見学 自由
 交通 市バス「羅城門」すぐ


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東寺の金堂は、方広寺大仏殿がモデルだった





東寺金堂


 桃山時代に再建された金堂

 東寺というと、平安遷都に伴って置かれた歴史のある寺で、伽藍は幾度かの焼亡を受け移り変わってきましたけれども、今でもいにしえの面影を伝える大寺です。

 南大門を入ると、目の前に金堂がそびえています。
 
 東寺金堂
  東寺金堂(国宝)

 薬師三尊を祀っています。
 今回は、この国宝建築を少し見てみましょう。

 東寺金堂

 室町後期、東寺は土一揆の拠点のひとつになっていました。そのため、文明18年(1486)9月、土一揆の騒乱によって伽藍は焼亡し、金堂も焼失しました。もちろん、堂内の仏さまも失われてしまいました。
 しかし、再興には年月を要し、100年以上を経た17世紀初頭まで待たねばなりませんでした。この再建の大檀那となったのが豊臣秀頼です(秀吉はすでに没していた)。慶長7年(1602)3月に釿初、9月に上棟し、翌8年(1603)5月に竣工しました。


 大仏殿風のスタイル

 東寺金堂

 この金堂を見て、まず目に付くのが、中央部の屋根を切り上げた部分でしょう。この形は、よく目にしますね。

 東大寺大仏殿
  東大寺大仏殿

 東大寺の大仏殿です。
 中央部に切り上げがあって、こちらは唐破風が付いています。

 平等院鳳凰堂
  平等院鳳凰堂

 京都でも、平等院鳳凰堂がこの形ですね。こちらは唐破風ではないですね。こういうケースの多くは、窓から仏さまの尊顔を拝することが出来るようになっています。

 東寺の金堂ですが、先にあった平等院鳳凰堂などを参考にした? という考え方もできなくはないのでしょうけれど、もっと直接のモデルになったものがあります。

 「花洛名勝図会」より方広寺大仏殿
  「花洛名勝図会」7より「大仏殿」

 東山の方広寺にあった大仏殿です。豊臣秀吉が造ったものですが、こちらも似たような形を取っていますね。

 「花洛名勝図会」より方広寺大仏殿

 拡大すると、唐破風で屋根を上げて、大仏さんの顔が見えるようになっています。

 この大仏殿の建設経過を振り返っておくと、次のようになります。

 まず、文禄2年(1593)に上棟し、同4年(1595)に竣工。この年、大地震があり、大仏は破損したのですが、大仏殿は無事でした。 
 その後、大仏さまの代りに(!)信州・善光寺の釈迦如来を迎えるプランが浮上し、善光寺如来は一旦京都に入るのですが、慶長3年(1598)8月、開眼供養の直前に、なぜか信州に帰ってしまい、秀吉も没して、仏さまも秀吉も抜きで、8月22日に“大仏開眼供養”が行われたのでした。

 跡を継いだ秀頼は、大仏の鋳造を進めたのですが、慶長7年(1602)、鋳造の最中、作業ミスから大仏を燃やしてしまい、大仏殿もろとも焼け落ちてしまったのでした。

 落胆いかばかりかと思いますが、またも復興を行い、慶長17年(1612)に、およそ完成しています。なお、その後に有名な家康の「鐘銘事件」があるのですが、ここでは省略しましょう。

 なかなか複雑なのですが、秀吉の大仏殿建立と、東寺金堂の復興とは、少しの時間のズレを伴いながら、同じ豊臣家によって実施されたということになります。
 大仏殿は文禄4年(1595)に出来ているので、その時期に同様の大建築の再建を模索していた東寺には格好のモデルとなりました。
 また、偶然ですが、東寺金堂の上棟後に大仏殿が炎上したので、あたかも金堂は大仏殿の身代わりとして生き残ったような形になったのです。


 大仏様を取り入れた建築

 東寺金堂は、大仏殿をモデルとしたくらいですから、建て方には大仏様(だいぶつよう。天竺様とも)が取り入れられています。

  東寺金堂 大仏様の三手先の組物

 黄色の矢印のあたりが、挿肘木(さしひじき)といわれるもので、大仏様特有の形式です。
 ふつう、組物は柱の上に組んで行くのですが、大仏様の場合、柱に肘木を差す形を取ります。つまり“差し”肘木なのです。

 赤い矢印の横材が、通肘木(とおしひじき)です。これも大仏様独特です。

  東大寺南大門 東大寺南大門

 東大寺の南大門を見ると、この特徴が明瞭ですね。

 東寺金堂

 黄色の矢印のところ、柱と柱の間に三斗(みつど)を置いていますが、これも大仏様の特徴。
 和様では、柱と柱の間(中備[なかぞなえ]という)には、間斗束(けんとづか)などを入れるのですが、大仏様や禅宗様では組物を入れてきます。

 これは和様である講堂と比べると、よく分かります。金堂の後ろの建物ですね。

 東寺講堂
  東寺講堂(重文、室町時代)

 黄色の矢印が中備。間斗束です。
 また、赤矢印の部分、組物ですが、柱の上にきっちり置いています。

 このように大仏様の要素を持っている金堂ですが、貫を用いず長押を使っていたりして和様の要素もあります。

 内部の架構も見どころですが、写真が撮れないので、ぜひ自分の目でご覧ください。




 東寺(教王護国寺)金堂(国宝)

 *所在 京都市南区九条町
 *拝観 境内自由 (五重塔などを除く)
 *交通 近鉄電車東寺下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年
 『東寺の建造物-古建築からのメッセージ』東寺(教王護国寺)、1995年



天沼俊一が設計した本能寺本堂は、登録文化財になった近代和風建築





本能寺本堂


 信長の廟所がある本能寺

 寺町御池下るにある本能寺。織田信長の廟所がある寺院として有名で、参拝者も途切れなく訪れています。
 豊臣秀吉による京都の街区改造を行った際、本能寺も現在地に移転してきたので、それまでは油小路六角あたりにありました(四条堀川の北東の方)。「本能寺の変」も、もちろんそこで起こったわけです。最近では、その付近に「信長茶屋」という観光・飲食施設もオープンしましたね。

 本能寺が現在地に移ったのは文禄元年(1592)のことです。しかし、その後、天明の大火(1788)で焼失し、また禁門の変(1864)でも伽藍を失っていました。

 安永9年(1780)に出版された「都名所図会」を見ると、本堂のほかに祖師堂や開山堂、三重塔、方丈などが建ち、鬼子母神や三十番神なども祀られています。
 日蓮宗の寺院によく見られる、中央の広場に向かって本堂と祖師堂が直角に配されているスタイルです。

 「都名所図会」より本能寺
 「都名所図会」(1780)に描かれた本能寺

 ちなみに、信長の廟所は、右頁の祖師堂の上方に画かれています。山内の東の端ですね。


 本堂は昭和の再建

 幕末の大火によって堂宇の多くを失った本能寺。
 大正11年(1922)の鉄道省『お寺まゐり』にも、「再建する度毎に焼失し、今では本堂も敷地があるのみで、其左の建物を仮本堂にあてゝゐる」とあるように、仮本堂しかない状態でした。
 その再興は、昭和になるまで待たねばなりませんでした。

 昭和3年(1828)に再建されたのが、現在の本堂です。かつての本堂は南向きでしたが、今は西向き(寺町通向き)に変っています。
 
 本能寺本堂

 桁行七間、梁間七間、入母屋造の大きな仏堂です。
 内部は、外陣が二間、内陣が五間あり、広々とした空間が実現しています。

 設計者は、京都帝国大学教授の天沼俊一。建築史の泰斗です。
 天沼博士は、建築の細部意匠に強いこだわりを持った、戦前の古建築研究の第一人者でした。その一方で、実作も残しています。
 高野山金堂(1927)、東福寺本堂(1934)、金戒光明寺本堂(1944)や、戦災で焼失した四天王寺五重塔(1940)など、優れた建築を数多く設計しました。

 高野山金堂
  高野山金堂(1927)

 東福寺本堂
  東福寺本堂(1934)

 金戒光明寺本堂
  金戒光明寺本堂(1944)

 屋根の広がりなど、雰囲気に共通性を感じさせますね。

 本能寺の場合、屋根のボリュームもかなりあって近世的な印象を与えますが、細部意匠は古建築全般から引用する手法をとっています。

 本能寺本堂
 
 これは蟇股ですけれども、繊細な図柄が彫刻されていますね。
 天沼博士自身の言葉でいうと「図案的左右相称蟇股」というものです。
 模様も何なのか難しく、ある種の植物なのでしょう。これまた博士の表現でいうと「中心飾が花化し、両腕が葉茎化するとこれになる」というものでしょうね。
 中世の雰囲気が漂います。桃山、江戸になると、もっと“こってり”彫って来ますから、中世的に仕上げるのが上品なのです。

 本能寺本堂

 こちらは木鼻です。かなり幾何学的な印象です。
 何の文様かは調べてみないと分からなかったのですが、どうやら「万年青(おもと)」のようです。ぱっと見は、ブドウみたいですけれど。
 万年青は、葉を観賞する植物です。江戸や明治には栽培ブームがあったと思いますから(いろんな葉っぱの変化を楽しむ)、そういうのを取り入れた意匠。ちょっとモダンです。

 本能寺本堂

 こちらは手挟(たばさみ)。向拝に付いています。これも木鼻と同じく万年青です。かなり変わった手挟といえるでしょう。


 多様な様式を組み合わせて

 この建物は、古典からさまざまな意匠を引用してきて、巧みに組み合わせて造形しています。
 そのため、何時代の様式に依った、と一口には言えません。細部意匠に詳しい天沼博士が得意とする方法です。

 本能寺本堂

 こういうところを見ると、台輪をおくところや、柱の先端がすぼまる「粽(ちまき)」など、禅宗様の意匠になっています。

 本能寺本堂

 扉も、桟唐戸で禅宗様の趣きですが、取り付け部分には藁座(わらざ)を用いず、幣軸(へいじく)というフレーム状の枠をつくって、そこに扉を吊り込んでいます。さらに、長押(なげし)を用いています。こういうところは、和様なのです。

 禅宗様と和様をミックスした構成ですが、違和感はありませんね。

 建物の側面です。

 本能寺本堂

 七間ほとんどに扉が付いています。これは正面も同じです。

 本能寺本堂

 そして、扉(桟唐戸)を開けると、内はガラス障子になっています。これは、採光ができて明るいですね。近代的な工夫です。
 上部の欄間も、ガラスを入れた菱格子です。

 時代を超越した多様な意匠、工夫を盛り込んだ建築です。


 表門と信長廟拝殿も登録文化財

 この本堂は、2013年に登録文化財になりました。
 あわせて、表門(総門)も登録になっています。

 本能寺表門
  本能寺表門

 これは元「恭明宮」の門だったそうです。
 恭明宮は、皇室の歴代の位牌を安置する廟所で、明治初頭の一時期に存在していました。明治4年(1871)、現在の京都国立博物館の場所に造られました。
 ですから、この門も明治4年築と考えられています。恭明宮は間もなく廃されて、位牌は泉涌寺に祀られます。そのため、門も不要になったのでしょう、明治12年(1879)に本能寺に移築されたと伝えられています。

 また、信長廟の拝殿は、本堂と同時期の昭和3年(1928)頃に造られたと考えられています。
 こちらも登録文化財になりました。

 本能寺信長廟
  本能寺 信長廟拝殿

 「本能寺の変」で参拝者が絶えない本能寺ですが、近代和風建築の観点で見てみるのも面白いですね。


  金木犀
 



 本能寺

 所在 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄「市役所前」下車、すぐ



 【参考文献】
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 京都市文化財ブックス27『京の近代仏堂』京都市文化市民局、2013年
 「都名所図会」1780年
 『お寺まゐり』鉄道省、1922年


きょうの散歩 - 貝葉書院 - 2013.10.21





貝葉書院


 今日は、ふだん余り通らない道を通って出掛けようと、自転車で走っていると、丁字路になっている二条木屋町にこんな店がありました。

 貝葉書院。読みは、「ばいよう しょいん」。

 あぁ、ここにあったのか、という感じでした。
 この店は、経典などの仏教関係書を製造、販売しているお店です。といっても、ふつうの印刷ではなくて、木版を用いて手で刷っているのです。

 貝葉書院は、もともとは宇治・黄檗山萬福寺の塔頭である宝蔵院で行われていた大蔵経の印刷がルーツになります。

 宇治・宝蔵院
  萬福寺塔頭・宝蔵院 奥の建物が一切経収蔵庫

 この大蔵経(一切経)は、鉄眼禅師が艱難辛苦の末に開版されたもので(延宝6年=1678年)、6,956巻からなっています。その版木は、現在も宝蔵院の収蔵庫に収められ(重要文化財)、驚くべきことに現役で印刷に用いられていて、収蔵庫の奥でバレンで刷られているのを目にすることができます。
 貝葉書院は、この印刷事業から発展した書院です。

 貝葉書院
  貝葉書院

 そろっと引戸を開けて中に入ってみると、棚に和本が積まれており、どれも経典をはじめとする仏教書でした。
 そのウェブサイトを見てみると、例えば鉄眼版の大般若経が扱われています。大般若経は600巻ありますから、お値段も格別。表装の如何にかかわらず数百万円します。
 いまでもこういう折本仕立ての大般若経は、転読の際に必要なものです。

  貝葉書院

 ちなみに、「貝葉」は多羅樹の葉を意味するといい、「貝多羅葉(ばいたらよう)」の略だそうです。
 山田孝道『禅宗辞典』によると、「その葉は長広にして色沢光潤にして、その質、針を以て文字を刻するに適するを以て、南方諸国においては多く書写に用ゐらる。経典も亦之に書写せるあり」と記されています。
 葉っぱに経典を書いたのですね。

 貝葉書院

 それにしても、版木に文字を彫って印刷するという伝統的な技術は、日本で発展した創造的な分野ですね。
 自在に文字を刻み、絵と同居させることもできます。細かな振り仮名も自由自在。

 都名所図会「都名所図会」より

 独特の美しさがあります。

 未だ、このような伝統を守っている貝葉書院に賞讃の念が湧いてきます。禅宗寺院が多い京都らしいお店ですね。

 ちなみに、鉄眼禅師の大蔵経に用いられた書体は、明から伝来した文字スタイルでした。これが今日の「明朝体」の起源となったことは、よく知られています。




 貝葉書院

 所在 京都市中京区二条通木屋町西入
 交通 地下鉄「市役所前」下車、徒歩約5分


天然記念物・深泥池には、不思議な伝説の数々が…





深泥池


 珍しい動植物の宝庫

 洛北にある深泥池。

 「みどろがいけ」とも「みぞろがいけ」とも読み、古くから「美与呂池」「美曽呂池」「御菩薩池」「御泥池」「泥濘池」など多様な漢字が当てられてきました。
 私は、子供の頃、このあたりにはよく遊びに出掛けていましたが、今でもその風景は余り変わっていないように思えます。それは、周囲1.5kmほどの小さな池が自然生物の宝庫として天然記念物に指定されていることに関係するのでしょう。

 深泥池

 深泥池
  浮島

 池には、浮島があり、そこは湿原になっています。ミツガシワやホロムイソウのような寒冷地に生ずる植物や、ジュンサイ、タヌキモなど貴重なものが多く、フナ、スジエビ、カイツブリ、ヒドリガモなどの魚類、鳥類なども豊富といいます。

 深泥池

 すでに、昭和2年(1927)に水生植物群が天然記念物に指定されていましたが、昭和63年(1988)には生物群集全体が指定となっています。

  深泥池


 鞍馬への道にある深泥池地蔵

 深泥池は、明治初期まで上賀茂神社の神領でした。
 ご承知のように、上賀茂の地は京都盆地の北端で、神社の約1.5km東方にある深泥池も、都からすればかなり辺鄙なところでした。

 京都から鞍馬や貴船に抜ける街道の出口にも当たっていて、いわゆる「七口」(実際は7つ以上あった)のひとつでもありました。そのため、“六地蔵詣り”で知られる御菩薩池地蔵もこの地にあったのです。

  「都名所図会」より深泥池
  「都名所図会」巻6の深泥池「地蔵堂」 池の畔にある

 現在も地蔵堂自体はあるのですが、六地蔵詣りの地蔵さんは鞍馬口の上善寺へ移されています。
 このあたりの事情は、こちらをご覧ください。 ⇒ <寺町・新京極を歩く(その2)-上善寺->

 上善寺地蔵堂
  上善寺地蔵堂(鞍馬口)

 鞍馬へと抜ける道(鞍馬街道)は、現在の池の脇の道路ではなく、1本西側の旧道です。
 ここに地蔵堂があります。

 深泥池地蔵堂
  深泥池地蔵

 今おられる地蔵さんは、明治28年(1895)に来られたものだそうです。
 そのお世話をした西光組の懸額。

 深泥池地蔵堂

 「たちいでて またたちかへる みぞろ池 とみ(富)をゆたかに まもる御仏(みほとけ)」

 西光組の御詠歌の奉納額は、革堂にもあります。

 ここを出て北へ向かうと、徐々に坂道になり、最後は10%もあろうかという急坂となって、幡枝(はたえだ)へ抜ける峠に至ります。この坂を歴史的には「御菩薩坂」などと呼んでいたようです。

 幡枝への峠
  幡枝への峠

 この先に、借景の庭で有名な円通寺があります。
 さらにずっと進むと、上賀茂神社の西方を通ってきた鞍馬街道と合流するわけです。

 「梁塵秘抄」には、

 いずれか貴船へ参る道、賀茂川みのさと御菩薩池、御菩薩坂、畑板篠坂や一二の橋、山河さらさら岩枕 (巻2)

 の歌が収載されています。


 いにしえの伝説の地・深泥池

 このような都の外れですので、古くはかなり寂しいところだったのでしょう。
 黒川道祐『雍州府志』には、この場所が都の「艮(うしとら)隅」、つまり東北の「鬼門」に当たるので、豆まきをして除災する「魔滅(まめ)塚」なるものがあったと記しています。「魔滅」という当て字が妙にリアルですね。

 そんな場所ですので、さまざまな伝説が残されています。
 まず、不思議な伝説。「今昔物語集」巻19に収められた説話です。(以下、要旨です)

 今は昔、京にとても貧しい若侍がいた。
 あるとき、妻がお産をして肉食をしたいと願ったが、夫は貧しくて買うこともできず、田舎に知り合いもおらず、肉は手に入らない。思い付いて、朝まだ明けぬ間に、弓矢を持って家を出た。
 
 「池に行って鳥を射て、それを妻に食べさせよう」

 どこに行こうかと思い、「美度呂池こそ人里離れたところだから、そこに行こう」と向かった。
 草むらに隠れていると、つがいの鴨が人がいるとも知らずに近寄ってきた。男は、雄鳥を射た。
 とてもうれしく思って、家に帰って妻に報告し、明日の朝、調理して食べさせようと思い、床に就いた。

 寝ていると、夜中、吊るしておいた鴨がばたばたするような音が聞こえる。生き返ったかと思って火を点けて見ると、かたわらに雌の鴨がいた。
 「これは昼間、池で並んでいた雌の鴨だ。雄を射殺したのを見て、夫が恋しくて跡をついてきたんだろう」

 男はそう思うと、たちまち道心が起きて、哀れに悲しく思うこと限りなかった。
 「動物といっても、夫を悲しむあまり危険を顧みず付いてきたのだろう」と思うと、寝ていた妻を起して、事の次第を語れば、妻も悲しむこと限りなかった。
 そして、夜が明けても、この鴨を食べることはなかった。

 男は、道心を起こしたので、愛宕山の山寺に行って、髪を切って僧侶になり、聖人になって懇ろに勤めたという。 (巻19「鴨の雌、雄の死せる所に来るを見て出家する人の語」)


 出家した人の動機を取り上げた物語です。
 ここでは、京中に住む若侍が、鳥を獲るために深泥池に行きます。原文には、「美度呂池コソ人離タ所ナレ」と書かれていて、当時(平安時代後期)の認識が分かります。

 また、この池は水鳥の多い場所としても知られていたようです。
 淳和天皇が、天長6年(829)10月に「泥濘池」に行幸して水鳥などの狩猟をしたという記事もあります。
 和泉式部も、「名をきけば かげだにみえじ みどろ池 すむ水鳥のあるぞあやしき」という歌を作っています。

 深泥池


 小栗判官と大蛇の美女

 著名な小栗判官・照手姫の物語(説経節)にも、深泥池が登場します。(以下、要旨です)


 京の都に、二条の大納言・兼家という公家がおりました。兼家夫妻には子供がなく、世継ぎを求めるために、鞍馬の毘沙門天にお詣りをしました。満願の夜の夢に、3つの実が成った“ありの実”(梨のこと)をたまわりました。
 めでたいことと喜ぶと、奥方は懐妊し、子供が誕生しました。「男子か女子か」と問うに、「玉を磨き瑠璃を延べたる」ような若君でした。ありの実に事寄せて「有若殿」と命名し、多くの乳母をつけて生育しました。

 7歳になって学問を教えても、鞍馬の申し子なので覚えが早く、そうこうするうちに18歳になりました。名も、小栗(おぐり)と改めました。
 奥方を迎えようという話になりましたが、小栗は好き嫌いが激しく、背の高い女性を迎えれば「深山の木のようだ」と断り、背の低い人には「人の背丈に足りない」と言い、髪の長い女性には「蛇身の相がある」と断り、顔の赤い人には「鬼神の相」だとはねつけます。色の白い女性にも「雪女みたいだ」、色の黒い女性には「卑しい相だ」と、まったく取り合いません。結局、断った女性は72人にもなってしまいました。

 深泥池

 ある雨の日、自分は鞍馬の申し子だということで、鞍馬へ参詣して妻をめとる願掛けをしようと思い立ちました。
 邸を出て、はるばる市原の野辺に至り、横笛を取り出して半時ほど楽曲を吹きました。
 すると、深泥池の大蛇がこの笛の音を聞きつけ、「あら、おもしろの笛の音や、この笛の男子を一目拝まなければ」と、16丈ある背丈を20丈に伸び上がり、小栗を見ました。
 「ああ、なんと美しい男よ」。

 小栗の余りの美しさに、一夜の契りを結びたいと思った大蛇は、16、17歳の美しい姫君に変じて、鞍馬寺の石段で待ち伏せしていました。
 そこに、小栗はやってきて、「これぞ鞍馬のご利益だ」と、美しい姫に恋します。

 しかし、しばらくすると京童の間に、小栗と深泥池の大蛇が夜な夜な契りを結んでいる、という噂が立ちました。
 父の兼家はそれを聞いて、そういう息子は都から流してしまおう、と思いました。
 そして、自らが知行する常陸国へ小栗を流すのでした。 (説経節「をぐり」)



 小栗判官が、照手姫と巡り合う前に、こんな物語があったのでした。

 小栗が笛を吹いた市原は、現在の左京区市原です。
 ここに出てくる深泥池は、鞍馬山にあった池の名だとする説もあるようですが(新日本古典文学大系の注釈参照)、ここでは上賀茂の深泥池と考えておきましょう。
 その池の中から、ふだん16丈の長さの大蛇が、20丈に伸び上がって小栗を見る…… 16丈は約48m、それが60mに伸びて男を見るのですから、どんなに遠くでも見える…… その執念の凄まじいこと。恐ろしい……

 蛇が変身する話は多いけれど、好き嫌いの激しい小栗を一目ぼれさせるとは、よほど美貌の女性に変化したのでしょう。さすがの小栗も見抜けなかったのです。

 そんな蛇の居場所が深泥池。この場所が京の都の外れ、それも鬼門であり、また郊外へ出る<境界>であるところに、この話の真実味があろうというものです。
 物語を聴く人々にとって、いかにも本当らしく感じられる場所なのでした。

 伝説に満ちた深泥池。怖い話は、まだまだあるようですが、今日はこの辺で。


  「都名所図会」より深泥池
   「都名所図会」巻6より「御菩薩池」




 深泥池(天然記念物)

 所在 京都市北区上賀茂深泥池町、狭間町
 見学 自由
 交通 市バス、京都バス「深泥池」下車、すぐ



 【参考文献】
 『新日本古典文学大系』36(今昔物語集4)、90(古浄瑠璃 説経節)、岩波書店、1994、99年
 深泥池学術調査団『深泥池の自然と人』京都市観光局文化財保護課、1981年
 深泥池七人委員会編集部会編『深泥池の自然と暮らし』サンライズ出版、2008年


災い転じて福となした裏松光世の大内裏考証





紫宸殿


 御所造営の変遷

 前回、廬山寺に公家・中山家の墓所があり、中山愛親(なるちか)の墓があることを紹介しました。
 今回は、その中山愛親もかかわった出来事について取り上げてみましょう。

 現在の京都御所が、里内裏(天皇の臨時の居所)であった東洞院土御門殿から発展したことはよく知られています。
 しかし、この場所に落ち着いてからも、建物自体は焼失などにより何度も建て直されています。
 近世に入っても、天正、慶長、寛永、承応、寛文、延宝、宝永……と造営が繰り返されました。
 宝永度の造営は、宝永6年(1709)でしたが、約80年後の天明8年(1788)に起きた天明の大火によって全焼してしまいます。
 「都名所図会」には巻1の冒頭に「内裏之図」が掲載されていますが、同書は安永9年(1780)刊行なので、天明の大火直前の御所の様子を示している図といえます。

 「都名所図会」より内裏之図
  「都名所図会」巻1 「内裏之図」

 少しクローズアップで見てみましょう。

 「都名所図会」より内裏之図

 これは紫宸殿と南門あたりを描いた部分。現在、紫宸殿の東、西、南にある回廊がありません。

 さらに紫宸殿の拡大です。

 「都名所図会」より内裏之図
  紫宸殿(「都名所図会」)

 現在の紫宸殿(冒頭の写真)より、規模も小さいようですし、中央に唐破風を付けた向拝が付いていたりします。
 どちらかというと、こちらに似ているでしょうか。

 仁和寺金堂
  仁和寺金堂

 仁和寺の金堂です。
 この建物は、もとは慶長18年(1613)に造営された御所の紫宸殿でした。移築後、屋根の葺替え(瓦葺になった)など変更が加えられていますが、当所の雰囲気がうかがえます。

 安政2年(1855)に造営された現在の紫宸殿は、実は、この慶長度の紫宸殿とは“断絶”があるのです。
 というのも、「都名所図会」に登場する宝永度の御所と、その次に出来た寛政度の御所とには設計思想の違いがあったからです。


 松平定信と中山愛親のバトル!

 天明の大火後、早速新たな御所造営が検討されます。御所の造営は、幕府の仕事でした。幕府は、老中の松平定信を総奉行に任命します。通常、その任務は京都所司代あたりの役目でしたが、今回は異例の抜擢です。当時、幕府の財政は火の車で、教科書にも出てくる「寛政の改革」で緊縮財政を進めたのが定信でした。
 前回の廬山寺の項では、「尊号一件」をめぐって中山愛親らとバトルを繰り広げる“松平越中守”ですね。
 幕府は、定信を責任者にして、できるだけ質素な御所を、それも段階的に建てていくという、節約術で造営を行おうと考えていました。

 一方、朝廷も、異例の御所造営掛(かかり)を設置し、中山愛親(なるちか)、広橋伊光(これみつ)、勧修寺経逸(かじゅうじ つねとし)を任命します。ここで、中山愛親が登場。
 つまり、尊号一件の前哨戦が、この御所造営をめぐってバトルされるわけなのです。

 朝廷が考えていたことは、御所を「復古調」で造営することでした。復古調とは、一言でいうと、平安時代のように造る、ということです。時の天皇は、光格天皇。朝儀の復興に意欲的でした。

 といっても、平安時代は当時からみても800年とか1000年も前の話です。そんな昔の御所を復元できるのか? 誰もがそう思うでしょう。
 ところが、ひとつの手掛かりがあったのです。それは、ある公家の研究の成果でした。


 裏松光世の大内裏研究

 裏松光世(うらまつ みつよ)。裏松固禅ともいいます。
 彼の優れた仕事が、新たな御所造営を実現したのでした。

 それまでの内裏は、狭くて不便という指摘がありました。つまり、光格天皇が目指す立派な儀式を行うためには、十分な広さをもち威厳に満ちた復古的空間が必要だったのです。

 その空間を造る根拠になったのが、裏松光世の研究でした。光世は、平安京の大内裏について建物の配置や構造をつぶさに調べて「大内裏図考証」という大作を著していました。

 幕府と朝廷のバトルは、議論の末、朝廷側の勝利となり、光世の仕事が活かされることになります。
 ちなみに、この一件に敗れて気を悪くした松平定信が、前回ふれた「尊号一件」の引き金をひいたのです。

 紫宸殿
  現在の紫宸殿(安政度の造営)

 清涼殿
  現在の清涼殿(同上)

 この寛政度の造営で、復古調で造られたのは、紫宸殿、清涼殿、そして北の奥にある飛香舎(中宮・女御の在所)に限られ、常御殿などは復古調でなく宝永度の建物並みでした。
 そして、紫宸殿の南庭は回廊で囲まれて儀式空間の威儀を整えており、光格天皇らの意識と合致しています。

 ただ、復古的に建造したとはいえ、江戸時代に造ったという特徴は拭えません。

 紫宸殿
  現在の紫宸殿

 現在の紫宸殿などは幕末(安政度)の造営ですが、寛政度の様式を引き継いでいます。
 正面の写真で分かるように、屋根のボリュームが大きく急な勾配になっており、近世的な雰囲気です。
 細部も、床が高く、寝殿造らしからぬ手先の出た組物や尾垂木を用いていて、平安時代とは異なった特徴がうかがえます。

 とはいうものの、光世の考証の成果が取り入れられ、それまでの御所とは一変した形式になったのも事実でしょう。


 蟄居の末に…

 実は、光世はこの考証をまとめるのに、30年もの歳月を費やしました。
 そして、その30年も普通の年月ではなかったのです。

 18世紀半ば、朝廷の公家の間に、竹内式部(たけのうち しきぶ)という人物の思想的影響が広がっていました。越後生れの式部は、京都に上って公家の徳大寺家に仕えていましたが、思想家・山崎闇斎の垂加(すいか)神道の信奉者でした。その思想は、仏教を排し、天皇を中心とした国体を強調するものでした。
 式部の思想は、徳大寺公城をはじめ、正親町三条公積ら数十名の公家に広がり、とりわけ桃園天皇(在位1747-62)の近臣に影響を与えました。さらに式部が天皇に「日本書紀」の講義を行ったりしたものですから、それに反対する摂関家と近臣たちの反目が深まりました。
 最終的に、天皇の近臣である多くの公家が、宜しからぬ行いということで、蟄居(ちっきょ)などの厳しい処分を受けました。宝暦8年(1758)のことです。これを宝暦事件と呼んでいます。

 この処分された公家の一人に、裏松光世がいたのでした。このとき弱冠22歳、正五位下左少弁。「遠慮」という蟄居のような処分を受け、仕事も失い家に籠ることになりました。
 このときから、大内裏の考証に身を捧げることとし、過去の有職故実書を調べ、夜には御所の実測を行ったとも言われるほど熱心に研究に勤しみました。
 例えば、紫宸殿の項を見てみると、檜皮葺の厚さは何寸とまで細かい調査が行われています。

 蟄居から天明の大火まで、ちょうど30年。
 もし、宝暦事件で光世が処分されていなければ、復古調の御所も日の目を見なかったかも知れません。




 京都御所

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 申し込み制 春秋に一般公開(無料)
 交通 地下鉄今出川駅、丸太町駅から、徒歩約10分



 【参考文献】
 三好和義『京都の御所と離宮① 京都御所』朝日新聞出版、2010年
 藤田勝也ほか『日本建築史』昭和堂、1999年
 藤田覚『幕末の天皇』講談社、1994年(講談社学術文庫所収)
 藤田覚『江戸時代の天皇』講談社、2011年
 谷直樹ほか編『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』大阪市立住まいのミュージアム、2008年



廬山寺には、「慶光天皇」と中山愛親が共に眠っている





廬山寺


 廬山寺の奥の墓地には…

 京都御所の東、寺町通に面して門を開く廬山寺(ろざんじ)は、節分の鬼法楽で有名ですね。話題の多いお寺なのですが、今回は裏手にあるお墓に着目してみましょう。

 廬山寺
  廬山寺

 門を潜って、大師堂、本堂を右手に進んでいくと、細い参道があります。

  廬山寺陵

 「廬山寺陵 参道」と記されています。
 
 廬山寺陵

 「慶光天皇廬山寺陵」。慶光天皇、読みは「きょうこう」天皇です。塋域には慶光天皇と15名の人たちの墓があり、その父の直仁親王、妃の成子内親王などが含まれています。

 廬山寺陵
  廬山寺陵

 中央の一番奥が慶光天皇の多宝塔です。

 廬山寺陵

 なかなか立派なお墓ですね。

 ところで、慶光天皇という名前、ほとんど聞き覚えがありません。江戸時代の人物なのですが、いわゆる歴代の天皇には列しない人で、その背景には複雑な事情がありました。


  光格天皇と尊号一件

 江戸時代の天皇は、後水尾天皇から孝明天皇まで14人います(明治天皇を除く)。その11番目の後桃園天皇は、安永8年(1779)10月、22歳で急逝。その年に生まれた女の子しか子供がいなかったため、皇嗣(跡継ぎ)が決まっていませんでした。そこで、天皇の曽祖父の弟であった閑院宮直仁親王の孫である人物を皇嗣に決めたのです。これが、弱冠9歳の祐宮(さちのみや。践祚して兼仁[ともひと])、つまり光格天皇でした。
 光格天皇は、この年から文化14年(1817)まで、39年の長きにわたって皇位に就くことになりました。

 光格天皇の父は、閑院宮典仁(かんいんのみや すけひと)親王でした。天皇のお父さんだけれど、天皇ではありません。そのため、いささか不都合なことが生じてきました。宮中で行事などを行う際、親王の席次は太政大臣や左大臣、右大臣より下と定められていたので、典仁親王は天皇の父なのに下座に座らないといけなくなっていたのです。
 光格天皇は、これがいやで、改善したいと思うようになりました。
 父を太上天皇にすれば解決できる!、と天皇は考えます。「太上天皇」とは、いわゆる上皇のことですね。
 しかし、それを実現するためには、幕府の許可を得なければなりません。

 朝廷は、幕府に申し出をします。しかし、幕府の中心にあった老中・松平定信は、その“再考”をうながします。
 朝廷も黙って引き下がるわけにはいきません。鎌倉時代や室町時代の先例を調べて、典仁親王を太上天皇にしようと要求します。
 けれども幕府は拒否し、埒があきません。

 ところが、寛政3年(1791)、関白が鷹司輔平から一条輝良に代わりました。また、京都所司代との連絡役である武家伝奏も正親町公明となりました。二人とも幕府に対して反感を抱いていた公卿です。また、天皇のそばにいた議奏の中山愛親(なるちか)は、常に天皇の意をくんで、政務を進めていました。
 このような新体制のもと、寛政3年末、朝廷でこの問題についての意見集約が行われ、圧倒的多数で、典仁親王へ太上天皇の尊号を宣下すべし、という結論に達しました。
 もちろん、松平定信も黙ってはいません。寛政5年(1793)、“首謀者”の中山愛親と正親町公明を江戸に呼び出して、喚問することにしたのです。
 その結果、自体は幕府の思惑通り“却下”となり、愛親は閉門、公明は逼塞という厳しい処分を受けることになります。

 この出来事を、尊号一件とか尊号事件と呼んでいます。


 中山愛親の英雄譚と墓

 しかし、庶民の間では、これとは逆の噂が広まりました。中山愛親らが松平定信を言い負かして、典仁親王に太上天皇の称号を贈らせたというのです。
 同時代には、「中山夢物語」や「中山瑞夢伝」など、数多くの“愛親もの”が著され、中山愛親は英雄視されたのでした。
 文化6年(1809)の「中山夢物語」には、愛親と公明が江戸に下り、江戸城で松平越中守(定信)と論戦するくだりが延々と描かれています。戦術を駆使する愛親は、最後に、かつて幕府が東叡山寛永寺を開く際に策を弄した例を蒸し返し、越中守を論破するのでした。物語では、席を立った愛親の背丈が6尺と書かれています。約180cmなので、江戸時代では大男。彼が如何に英雄視されたかが分かります。
 当時の人々も、もちろん事実と異なる“夢物語”と知りつつ、幕府をやっつけてくれる話でカタルシスを得ていたのでしょう。

 廬山寺の慶光天皇陵のすぐ東側に、中山家の墓所があります。

 廬山寺
 中山家墓所 左の白壁の向うが慶光天皇陵

 そこに、愛親の墓石も建てられています。

  廬山寺
   中山愛親墓

 墓石の脇に、ひとつの石碑が建っています。

 廬山寺

 この碑は、明治17年(1884)5月に、中山愛親の曾孫に当たる中山忠能(ただやす。明治天皇の外祖父)が建てたものです。そこには、尊号一件の経緯が記されています。

  廬山寺 「尊号」の文字

 なぜ、明治17年に碑を建てたのか。
 それは、その年の3月17日に、ついに“願い”が叶ったからです。『明治天皇紀』から引用します。

 光格天皇の実父 故一品 典仁親王に太上天皇の尊号を追贈し、慶光天皇と諡[おくりな]したまふ、
 典仁親王は閑院宮直仁親王の子にして、東山天皇の皇孫なり、光格天皇始め閑院宮家より龍興して皇統を嗣ぎたまふ、
 是に於て昭穆[注:席次のこと]の位を以て、御実父に太上天皇の崇号を上らんと欲したまひしが、幕府故ありて命を奉ぜず、事遂に止み、議に与れる議奏中山愛親・伝奏正親町公明以下各々責罰せらる、所謂寛政尊号始末と称するもの即ち是れなり、


 と、事件の経緯を記し、さらに明治17年のことを記します。

 是の年[明治17年]八月 親王九十年の忌辰に相当す、是れより先、従一位中山忠能 具に古典例を按じ、議を太政大臣に上り、速かに親王を追諡し、光格天皇の叡旨を紹述せられんことを請ふ、
 忠能は愛親の曾孫なり、深く曽祖父等の志を悲みて此の議あり、
 宮内卿徳大寺実則 亦申奏する所あり、天皇深く祖考の孝志を追念し、之れを修史館に諮詢し、是の日思召を以て、追孝尊崇の典を聿修したまふ、(明治17年3月17日条)


 典仁親王の没後90年にあたる明治17年、中山愛親の曾孫・忠能は、曽祖父らの志を慮って、光格天皇の思召しに従い、先例も調べて、典仁親王に太上天皇を追諡することを申請し、願いが叶ったのです。
 なんと4代にわたる執念によって、典仁親王は太上天皇の尊号を贈られ、慶光天皇と追諡されたのでした。

 また、愛親は生前は正二位でしたが、この年、従一位を贈られています。
 もちろん、文化11年(1814)8月18日に亡くなった彼の墓石には、未だ「正二位」と刻まれたままです。
 
 このような経緯をたどって、現在、廬山寺の典仁親王の墓は「慶光天皇」陵とされているのです。
 二人の墓が、隣り合って営まれていることに、深い縁を感じます。




 廬山寺 慶光天皇陵、中山家墓所

 所在 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町
 見学 境内自由
 交通 市バス「府立医大病院前」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「中山夢物かたり」1809年
 『明治天皇紀』6、吉川弘文館、1971年
 下橋敬長『幕末の宮廷』平凡社(東洋文庫353)、1979年
 藤田覚『幕末の天皇』講談社、1994年(講談社学術文庫所収)


【新聞から】瓦の葺き替え進む東本願寺





未来への百景 重なり合う瓦と英知 - 東本願寺 - 日経 2013年10月7日付夕刊


 東本願寺


 10月の紙面から始まった日本経済新聞の「未来への百景」。修復工事中の東本願寺が取り上げられました。
 屋根に並べられた、葺き替え準備中の瓦が写されています。

 ご承知のように、東本願寺では、すでに御影堂の修復を終え、阿弥陀堂の修復に入っています。竣工は2年後の2015年末の予定です。

 東本願寺
  修復中の阿弥陀堂(左) 右は御影堂

 記事によると、これから2年がかりで瓦の葺き替えを行うといいます。その数、10万8000枚。建物の重量は3000トンですが、そのうち4割強の1250トンが屋根の重さだそうです。通常、寺院の瓦屋根では葺土を置いて、その上に瓦を配置しますが、今回は桟木に釘で留める方法を採用しています(空葺工法)。これで、400トンの減量が図れるそうで、画期的です。
 ちなみに、御影堂の瓦は17万5000枚となっています。

 御影堂、阿弥陀堂は、ともに明治28年(1895)の建造ですが、当時は三河地方(愛知県)から約30万枚の瓦を用意しました。今回も、愛知や岐阜、奈良で瓦を焼いています。

 東本願寺
  志納所 「一人一人のおちからで御修復を」とある

 志納所には、瓦も展示されています。

 東本願寺

 これは軒丸瓦。

 東本願寺

 「本願寺」の文字は、石川丈山の字だそうです。

 東本願寺

 ところで、記事は「次の大修復は100年後か200年後か」と締めくくっていますが、そもそも木造建築の修復スパンは何年くらいのものなのでしょうか?

 村田健一氏によると、例えば法隆寺金堂は次のような経過をたどっています。

 【法隆寺金堂】
 ・680年  建立
 ・995年~1003年  半解体
 ・1374年  修理
 ・1603年  半解体
 ・1952年  解体

 江戸初期から昭和戦後の解体修理まで、350年の隔たりがあります。

 滋賀県の桑実寺本堂の場合です。

 【桑実寺本堂】
 ・1334~91年  建立
 ・1576年  修理か
 ・1640年  半解体
 ・1716年  半解体
 ・1896年  修理
 ・1983年  解体
 
 14世紀の建立から約600年の間に、4~5回の大きな修理を行っています。

 京都の例をみると、三十三間堂が次のようになっています。

 【三十三間堂】
 ・1266年  再建
 ・1433年~ 大修理
 ・1592頃  大修理
 ・1649年~ 大修理
 ・1930年~ 解体修理

 大きな修理のスパンは、およそ170年-140年-150年-280年となっています。

 三十三間堂は建築されてから約750年、法隆寺になると約1330年です。驚くべき寿命の長さで、日本の木造建築の特徴をよく示しています。
 東本願寺の修理で、屋根の重量を軽くするのも、軸組への負担軽減によって建物を長生きさせる工夫といえます。日経新聞の記事が示すように、寺社修復にも深い「英知」が込められているのです。




 【参考文献】
 『御影堂御修復のあゆみ』真宗大谷派(東本願寺)、2012年
 村田健一『伝統木造建築を読み解く』学芸出版社、2006年


生き生きとした京の町衆の原点を探る - 林屋辰三郎『町衆』 -

京都本




   『町衆』



 変わりゆく京都への危惧

 本というのは面白いもので、同時代に出された本は似たような論調のものが多くなります。軽く編集されたものだと、内容まで孫引きというケースもよく見られます。
 いま(2013年)、新刊だけ読むことを重ねていると、どうしても思考が“2013年的”になってしまい、偏ったものの見方、考え方に陥るおそれがあります。
 その弊害を避けるためには、やはり古い書物を読むこと--というわけで、折にふれて古書を読んでみます。
 この1か月余りは、断続的に、林屋辰三郎『町衆 京都における「市民」形成史』を読んでいました。いまから半世紀前、昭和39年(1964)に中公新書として刊行されたものです(のち中公文庫に収録)。

 林屋辰三郎(1914-1998)といえば、歴史学では大先生で、芸能史の研究でも草分け的存在ですが、私たち京都を旅するものには、岩波新書『京都』が今なお重版されている名著として記憶されます。
 林屋先生の著述は、戦時中の『角倉了以とその子』にはじまり、戦後、『中世文化の基調』『歌舞伎以前』『中世芸能史の研究』『京都』など精力的に出版され、そのなかで著された一書が『町衆』です。

 ですから、次に紹介する「まえがき」に書かれた著述の動機は、100%そのまま受け取るわけにもいかないのですが、当時の京都で暮らし、研究されていた林屋先生の気持ちの一端をうかがうことができると思います。(引用文は適宜改行しています)

 京都ではいま、「応仁の乱いらいの破壊が行われている」という警句がきかれる。しかしそれは、京都だけのことではない。全国的に都市・農村の近代化、観光・産業の開発といった気運のもとに、新しい施設や道路の建設がすすめられ、それらが日本の歴史的風致や文化財の破壊を、つぎつぎにともなっているのである。
 とくに京都の変貌はいちじるしく、さいきんでは名勝双ヶ岡の売却問題や、史跡御土居の破壊、さらに駅頭の京都タワー建設などは、京都の歴史性や芸術性をまったく無視したものだと思う。
 こうした現在の破壊を見るにつけても、この千年の古都を今日まで伝えつづけてきた祖先たちのことが思われてならない。応仁文明の乱という内乱はたしかに、京都の文化を破壊してしまったが、それはまったく戦争の犠牲であった。現在のようにせっかく第二次大戦の戦禍から守られてきたものを、権力機関の独善や観光業者の利益のために破壊されるのとはまったく違う。
 しかしともかく文化の破壊に対してふかい憤りをもつことにおいては、応仁の乱から戦国にかけての町衆も、現在の京都を愛する市民も、すこしも変りはないと思われる。(2-3ページ)


 さらに続けて、伝統行事や祭礼の廃絶、歪曲が全国的に問題になっているとして、祇園祭について「山鉾巡行の形式がどこまで改変されるか見当のつかないくらいで、前後の祭を一つにして盛大にやる案や、山鉾を一カ所に年中立て並べて観覧料をとる案などが論議されている」と述べています。
 このような状況を招いた原因として、急速な地域的共同体の解体を指摘します。
 そして、その中で町衆の歴史を振り返ることに意味があるのではないかとして、本書を著したというのです。

  祇園祭山鉾巡行
  祇園祭 山鉾巡行

 京都タワーが建ったのが、本書が刊行された昭和39年(1964)。当時、“古都の破壊”として多くの文化人らが反対したのでした。
 また、祇園祭の山鉾巡行が一本化されたのは、昭和41年(1966)のこと。“神事か観光か”と、侃々諤々の議論がなされていた時期でした。
 なお、祇園祭の「一本化」とは、それ以前、「前祭」と「後祭」の2回に分けて巡行していたものを、1回にまとめて実施することを言っています。 詳しくは、こちら ⇒ <祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活>

 戦後の高度成長の中で、町並みが変貌し、伝統が崩れていくのを見て、その要因を地域共同体の解体に求めたのは、林屋先生の慧眼だといえるでしょう。


 条坊から両側町へ

 少し大きな話になってしまいましたが、本書には、京都の町のあり方の基本的なところから、エピソード的な話題まで、実に盛りだくさんな内容です。

 京都の街区は、もともとは平安京の条坊に始まるわけですから、いわゆる“碁盤の目”状のグリッドになっています。
 林屋先生の表現を引けば、「条坊は東西南北に走るいわゆる碁盤目の道路による一町四方を町(その内部は東西に四行、南北に八門の小区画に分たれていた)、四町を一保、四保を一坊として左右両側に各条四坊からなっていた」ということになります。
 要は、4本の道路に囲まれた1ブロックが街の1単位になっているわけです。
 
  条坊図 平安京の条坊(『町衆』より)

 ところが、南北朝時代を境にして、地域の生活組織としての「町」が現れます。
 ちなみに、京都の全体でいうと、平安京では「東西」あるいは「左右」として理解されていた町(例えば「左京」など)が、「上下」として理解されるようになってきます。「上京」と「下京」ですね。今日でも上京区、下京区という名が残っていますが、当時の京都の街を示す概念図を見ると、上京と下京が街の中に浮島のように分立していることが分かります。

 この町を詳しくみると、古代の道路に囲まれたブロック単位から、街路に面した「両側町」へと変化していきます。

 その生活組織の形態についてみると、かつて条坊の最少単位であった一町は四方を街路で囲まれた方一町の区画であったのに対して、新しい町は四方に面した方一町の四つの頬[つら]が、それぞれ街路を挟んだ向い側の一頬と合さってつくられる。すなわち、街路を挟む二つの頬が合さって一つの面[おもて]ができ、一つの町となるのである。(89ページ)

  両側町
  両側町(『町衆』より)

 道路のお向かいさんが同じ町内になる、ということですね。
 ということは、町の境界線は道路の真ん中にあるのではなく、家の裏(背中側)にあることになります。

 今日、京都を訪れる(あるいは暮らす)人たちにとって興味深いのは、次の指摘でしょう。

 こんにち京都では、町名に東西路・南北路の交錯と上ル・下ル・東入・西入という表示とが重なっているのがふつうである。「四条烏丸東入長刀鉾町」というぐあいである。このような町のよび方こそ、街路を挟んでつくられた生活組織の名残りである。(89-90ページ)

 京都では、何かにつけて「上ル、下ル」「東入ル、西入ル」と言います。他都市の方には奇異で分かりづらいと映ることもあるようです。先日も、「京都だけ、そのような言い方をしているのはおかしい」という方がおられましたが、道路を挟んで向い合って町を形成する暮らし方、そしてその歴史が言わせているわけです。ブロック単位の町名表示は、京都にはふさわしくないといえるでしょう。
 ちなみに、大阪も都市形成の過程は異なるものの、京都と同じく両側町でした。しかし、戦後の町名改正でブロック単位の表記に変更されています。こちらについては、「残念だ」とおっしゃる方が多いですね。
 

 町衆と公家のまじわり

 山科言継(やましなときつぐ、1507-79)という公家がいます。戦国時代の京都に暮らした公家で、上京に住んでいました。いまの京都御所の西方です。
 本書に紹介される言継の日常は、なかなかおもしろいのです。

 言継の頃、山科家は公家とはいえ生活は逼迫し、その暮らしぶりは「町衆の生活となんら異なるものではなく」というありさまでした。
 質屋に腰刀や装束を質入れし、米屋から借金をして、なんとか生活をしのいでいました。三条室町あたりにあった町の風呂屋にも入りにいっていたそうです。
 彼は、医術や製薬の知識もあったので、次のような話もありました。

 ある日、近所の大工の麺屋の下女が熱湯のために全身に火傷をおう事件がおこったが、言継は連日のように家伝の気付薬や塗薬を遣わして、人間味のあふれた心配をした(天文2-9-10条)。そこで下女のほうからも、親類の者といっしょに礼に来るし、傭主もお礼にといって金子十疋を持ち来ったというしだいで、こまやかな近所づきあいを示している。(107ページ)

 なにか、ふつうのご近所さんといった感じですが、京都にはこんな風があって、昔から上下へだてのない付き合いがあったのでしょうか。
 山科言継より少し前の公家に三条西実隆(さんじょうにしさねたか)という人がいます。彼の日記にも興味深い記事があって、本書に紹介されています。お盆の時期に行われる「大燈呂」という万灯会のような行事の際の出来事です。

 ある日、御所の西側の橘図子という町辻で子供たちが大燈呂をつくって遊んでいると、侍所の開闔[かいこう]という、こんにちでいえば警察官が二、三人突然あらわれて、大燈呂の制止を命じた。そこで町衆がこれに対応しようとすると、問答無用とばかり燈呂を壊しはじめた。あまりに無慈悲な乱暴に、町の人たちも出合って、逆に開闔を制止したが、なかなか聞かないばかりか、ますます猛り狂う。そのうち町の一人が開闔の木刀を奪い取って、これを打擲[ちょうちゃく]してしまった。
 これは、現在でも公務執行妨害ということになる。そこで開闔は、いったん引揚げたが、こんどは二、三百人も隊を組んで橘図子を包囲し、町を焼打ちにするといって脅迫した。さすがの町衆も大いに憤慨し、大事に至らんとしたが、ちょうど近所に三条西実隆が住んでいて調停に入り、ようやく事態を収めることができたと、これは実隆が自分の手柄話としてくわしく日記に書きつけている。(161ページ)


 ちょうど近所に住んでいた、というのがおかしいのですが、町に溶け込んで暮らす公家たちが巧みに仲裁役になっているのが興味深いですね。
 林屋先生は「三条西実隆といい山科言継といい、この時期の公家は町衆生活のなかに入りこみ、その文化的教養をもって町衆に影響をあたえていたが、同時に幕府に対してもいちおう顔を利かしえたわけである」と、まとめておられます。

 本書のおもしろさは、なかなか一言では尽せないのですが、岩波新書の『京都』とあわせて読んでみると、その歴史の奥深さと現代へのつながりが感じられて、京都の理解が進むことでしょう。




 
 書 名:『町衆 京都における「市民」形成史』
 著 者:林屋辰三郎
 出版社:中公新書59
 刊行年:1964年


クロガネモチの巨木を祀る浄福寺護法堂の小絵馬に、庶民の願いをみる





浄福寺くろがねもち


 クロガネモチの巨木を祀る

 上京区の浄福寺は、「浄福寺通」という通りの名前にもなっているので、お寺に行ったことがない方でも聞いたことがあるかも知れません。
 お寺は、今出川通を何筋か下ったところにあります。

 浄福寺赤門
 浄福寺東門

 浄福寺通に面して、俗に「赤門」と呼ばれる東門が開いています。
 「都名所図会」(1780年)には、この形の門は描かれていませんので、それより後に建てられたものだと思われます。

 この門内の右手に、護法堂があります。

 浄福寺護法堂
  浄福寺護法堂

 さほど大きな祠というわけでもないので、見過ごしてしまいそうですが、実はここが興味深い小祠なのでした。

 浄福寺護法堂

 お詣りすると、左奥にある太い木の幹が目に入ります。
 これが、クロガネモチの巨木です。

  浄福寺くろがねもち
   浄福寺のクロガネモチ

 樹高9m、目通り(幹の外周)3.95mの古木です。
 幹に虚(うろ)があり、注連縄が張られています。

 浄福寺くろがねもち


 天狗が火事を止めた!

 この巨木には、ひとつの伝説があります。

 西陣一帯を焼き払った天明の大火(天明8年=1788年)の時のこと。火は、浄福寺の門外にまで迫っていました。浄福寺は享保4年(1719)の大火で堂宇を失い、その後、本堂、方丈や釈迦堂などを順次再建してきたところで、また火事に遭ったら大変な損害です。
 しかし火は、塔頭を焼き尽くし、赤門の外にまで迫ってきました。その時、一羽の天狗が現れ、クロガネモチの樹上から大きな団扇で風を起こして、火を消し止めたのです。おかげで、浄福寺は焼失を免れたのでした。のち、クロガネモチの木の元に天狗が祀られたということです。

 およそ、こんなお話です。天狗は、鞍馬山から飛来したともいわれており、今も遥拝所があります。

 もともと、クロガネモチの巨木が信仰されていたものと思われますが、それに“大火を止めた天狗”の伝説が加わって、ますます篤い信心を集めたのでしょう。


 小絵馬に見る庶民の願い

 火事も消すくらいの神通力ですから、庶民の小さな願いなどは何でも叶えてくれる--そう思われたとしても不思議ではありません。
 護法堂の境内には、ささやかな願いの表された小さな絵馬(小絵馬)が数多く懸けられています。

 浄福寺護法堂
  祠の軒下、クロガネモチの横に懸けられた絵馬

 浄福寺護法堂
  建物内に懸けられた絵馬


 岩井宏実氏によれば、小絵馬には次のような絵柄があります。

(1)馬の図
(2)祈願の対象とする神仏の像を描いた図
(3)その持物などを描いた図
(4)その眷属(お使いなど)を描いた図
(5)祈願内容を描いた図
(6)祈願者自身を描いた図
(7)干支を描いた図
(8)その他

 この護法堂には、(2)(3)(5)(6)の小絵馬が見られます。

 浄福寺護法堂
  天狗の絵馬

 まずは、「祈願の対象となる神仏」です。ここでは、もちろん天狗。
 この絵馬は、幕末の安政6年(1859)に奉懸されたもの。高い鼻をした天狗。山伏スタイルで、右手には例の団扇を持ち、腰には太刀を帯びています。
 護法堂には、いくつかの天狗の絵馬が見られます。

  浄福寺護法堂
  天狗の団扇

 つづいて、その「持物」を描いた絵馬。
 天狗の羽根団扇を金で画いた豪華なもので、大正3年(1914)の奉納です。団扇の絵馬も、いくつも上がっています。


 「心」にカギを掛けて

 ここで興味深いのは、「祈願の内容」を記した絵馬です。
 例えば、このようなもの。

 浄福寺護法堂

 「心」という文字に、錠前(かぎ)が掛けられています。自分の気持ちに“ストップ”をかける意味ですが、よく見ると、上にサイコロが描かれています。
 明らかに、“サイコロ賭博を断つ”という願いを画いた絵馬です。
 明治44年(1911)に、35歳丑年の男性が奉懸したものです。干支からすると、明治10年(1877)生れの男性になります。
 このような「断ち事」の絵馬は非常にポピュラーで、賭博のほかにも、禁酒、禁煙から女断ちまでさまざまです。

 浄福寺護法堂

 こちらも賭博断ちですが、実物の花札を額に入れて奉納しています。花札は、よく見ると「任天堂」と書かれています。ゲーム機の任天堂は、かつては花札メーカーとして有名でした。
 中央に、祈願者(男性)の写真が貼付してあるのが珍しいです。どうやら七味の商いをされている方のようです。

 浄福寺護法堂

 これは、文字や絵柄はかすれて見えなくなったものですが、中央に本物の錠前が付いています。リアルです……
 岩井氏によると、錠前の小絵馬は幕末以降、普及したそうです。


 願いをこめて祈る人々
 
 浄福寺護法堂

 「祈願者自身」を描いたものです。
 明治26年(1893)12月に奉納されたもので、「御礼」とあるので、願い事が叶ったのでしょう。
 「午ノ年男/丑ノ年女/酉ノ年女」と書かれています。小絵馬には、祈願者の名前が世間に知れないよう匿名のものが多く、このように自分の干支や年齢、性別を記しました。

 浄福寺護法堂

 絵を見ると、3人は親子なのでしょう。
 小さい女の子が酉年生まれだとすると、彼女は明治18年(1885)生れの数え9歳。母親は、慶応元年(1865)生れの数え29歳なのでしょうか。とすれば、父親は安政5年(1858)生れでしょうか、随分の年齢になりますね。
 家族3人は、一心にクロガネモチの木に手を合わせています。何を祈っているのか、残念ながら、絵馬は語ってくれません。
 
 浄福寺護法堂

 明治29年(1896)に懸けられた絵馬。ご神木と小祠を描き、その前で本人が拝んでいるところです。
 久保田あいという子年生まれの女性。明治9年(1876)か、幕末の元治元年(1864)生れでしょうか。そうすると、数え21歳か33歳。いや、もしかすると45歳で嘉永5年(1852)生れかも、と思いは廻ります。こちらも、何の祈願か知る由もありません。

 絵馬を見ると、クロガネモチの木は、かつては柵で囲われていたことが分かります。
 また、岩井氏の指摘によると、拝む人の図は、ほとんどが左向きで礼拝しているのだそうです。なぜでしょう? おもしろいですね。

 浄福寺護法堂

 最後にご紹介するのは、拝んでいる人と天狗とがセットで描かれている絵馬です。
 雲に乗った天狗は、ちょっと毘沙門天風でもありますが、威厳のある姿で神木の脇に現れています。その下で女性が一心に礼拝しています。
 明治43年(1910)の奉納ですが、小寺覚次郎という人が懸けたものなのです。絵は女性なのに、奉納者は男性。夫婦なのでしょうか? こちらもどういう願いなのか、想像は膨らんでいきます。

 浄福寺くろがねもち

 実際、クロガネモチの横には、花生もあって、ここに跪いて拝むこともできるようです。

 幕末から、明治、大正と、数多くの願いが、このクロガネモチと天狗さまに懸けられてきました。西陣の人たちの信心を感じることができる護法堂です。




 浄福寺 護法堂

 所在 京都市上京区笹屋町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「今出川浄福寺」から、徒歩約5分



 【参考文献】
 岩井宏実・神山登『日本の絵馬』河原書店、1970年
 岩井宏実『絵馬』法政大学出版局、1974年