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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

もうひとつ京都御所にある公家邸跡 - 摂家・近衛邸 -





近衛池


 今出川御門内にある公家邸跡

 前回、京都御所にあった九条家の邸跡を紹介しました。
 かつて、現在の御所の周辺には公家たちの居宅が立ち並び、なかでも五摂家と称された近衛・九条・二条・一条・鷹司の各家は、大きな邸宅を構えていました。
 もう一度、位置図を掲げておきましょう。

  幕末の京都御所
       京都御苑パンフレットより


 今回は、禁裏の北、今出川御門内にあった近衛邸を紹介します。

 今出川御門
  今出川御門

 同志社大学の正門の向いにある今出川御門。
 ここを入った右側(西側)一帯が、かつて近衛家の邸があった場所でした。

 近衛邸跡
  
 樹木が生い茂って建物はなく、案内板がなければ、ここに近衛家の大きな邸があったと気付く人は少ないでしょう。
 たまたま、見学者の皆さんが訪れたところを撮影。

 昔から残るものは、九条家と同じく池。近衛池といいます。

 近衛池
  近衛池

 近衛家時代のものでしょうか、石橋が架かっています。

 近衛池

 もうひとつ有名なのが桜。

 近衛邸跡の桜

 近衛家の「糸桜」(しだれ桜)にちなんで、数多く植樹されているようです。

 もともと近衛家の邸宅は、京都御所の西方、烏丸通-下長者町通-室町通-出水通に囲まれた一角にありました。いま護王神社があるあたりで、まさに近衛町という町名になっているところです。京都府庁の少し東方に当たります。
 ちなみに、出水通はかつての近衛大路に当たり、いまでも出水通を鴨川の向うまで伸ばしていくと近衛通になっています。

 その邸が廃絶したあと、江戸時代を通じて近衛家の邸宅となる今出川第は、天正年間(1573-92)に構えられました。現在の御所の今出川御門内にあった邸で、明治維新までここが居宅となりました。

 しかし、糸桜が著名だったのはここではなく、徒歩で10分ほど離れたところにある別の邸宅でした。


 「桜御所」と呼ばれた邸宅

 同志社大学新町校地

 同志社大学の新町キャンパス。この場所(新町上立売)が、かつて桜御所と呼ばれた邸が建っていたところです。

 町名に、昔のなごりが。

 近衛殿表町

 近衛殿表町。この西には、近衛殿北口町もあります。

 近衛通隆氏によると、ここは江戸時代になると、今出川第が出来た関係で別業のようになり「上之御所」と呼ばれたそうです。それに対し、今出川第は「下之御所」と呼ばれました。
 
 さて、門衛の方に碑の場所を教えてもらいますが、“こんな場所にと、ちょっと驚かれるかも”と言われて行ってみると……

 近衛邸跡碑

 キャンパスの奥の、校舎の非常階段の下に! しかも、その脇は自転車置き場でした。
 新町キャンパスは近年改築されましたから、この碑も以前は違った場所にあったのでしょう。

  近衛邸跡碑
  「近衛家旧邸址」碑

  近衛邸跡碑

 碑は、大正7年(1918)10月に建立されました。「近衛家旧邸址」と書かれています。
 揮毫したのは、のちに内閣総理大臣も務める近衛文麿です。近衛家の30代当主でした。

  近衛邸跡碑 「公爵近衛文麿書」

 この邸がいつ造営されたかは定かでありませんが、少なくとも室町時代の15世紀半ばにはあったようです。途中断絶もありながら、明治維新まで続きました。
 代々、近衛家の嫡女が住み、同家の御影を祀っていたため「御霊殿」と呼ばれ、糸桜に由来する「桜御所」の呼び名は江戸時代になってから使い始められたそうです。
 御霊殿という名称から、この近くに御霊図子という路地があり、現在も中御霊図子町という町名が残されています。

 御霊図子
  現在の中御霊図子町

 桜御所の桜は、洛中洛外図にも描かれるほど有名でした。
 現在は大学キャンパスとなり、昔の面影はなくなりましたが、御所の邸跡とあわせて見学してみたいところです。




 近衛邸跡、桜御所跡
 
 所在 京都市上京区京都御苑、および京都市上京区近衛殿表町
 見学 自由
 交通 地下鉄「今出川」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 近衛通隆「近衛第趾に就いて」、「歴史地理」86-2、1955年、所収
 渡辺悦子「「御霊殿」-室町・戦国期近衛家の邸宅と女性たち」、「同志社大学歴史資料館館報第9号」2005年、所収
 

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京都御所にある隠れた公家邸跡 - 摂家・九条邸 -





九条邸跡


 五摂家は“豪邸”住まい

 京都市街の中で、のんびりとした公園気分が味わえるのが、鴨川の堤防と、京都御所。
 つい「御所」と言ってしまいますが、あの広い公園的な部分は「京都御苑」で、御所と言うと昔、天皇が住んでいた禁裏、今の「京都御所」や、「仙洞御所」「大宮御所」などを指しています。

 京都御所
  広々とした京都御苑

 しかし、このような状態になったのは比較的新しく、130年ほど前のことです。それまでは、外周の土塁もなく、公家の邸が立ち並ぶ場所でした。公家町というにふさわしい、ちょっとした街区だったのです。

 
  幕末の京都御所
      京都御苑パンフレットより(環境省京都御苑管理事務所)


 この図を見ると、禁裏と大宮御所、仙洞御所以外は、さしずめ“公家団地”といった感じです。長屋ではないものの、中小の公家はずらっと屋敷地を並べて住んでいました。

 こちらの記事もご覧ください。 ⇒ <御所にもあった“お公家さん”的数え歌”>

 その中で、いくつか“豪邸”があります。図で緑色になっている邸ですね。
 堺町御門にある九条家と鷹司家、今出川御門にある近衛家です。あと、近衛家の左斜め下にある一条家も大きな敷地です。
 これらの豪邸の主は、五摂家です。五摂家とは、摂政や関白になれる最も格の高い公家のこと。近衛、九条、二条、一条、鷹司の5つを指します。
 そうすると、二条家が図にはないですね。どこに住んでいたのだろう?

 実は、二条家は、今の京都御苑の外、今出川通の北にある同志社女子大学の場所にあったのです。

 二条家跡の同志社女子大学
  二条家跡(同志社女子大学)

 
 九条家の邸跡

 上図で、南の端にあるのが、九条家と鷹司家です。
 なかでも、九条家は大きく画かれていますね。
 現在の堺町御門は丸太町通に面していますが、江戸時代の堺町御門はもう少し中に入ったところにあり(上図)、その門内に両邸がありました。上図の九条家の下半分くらいは、当時の絵図などをみると「明地」(空地)としてあったりします。
 では、実際にはどうなっていたのでしょうか。
 現地に行くと、おもしろいことが分かります。

 九条邸跡

 このように、大きな池が広がっているのでした。俗に九条池といいます。
 池の向う(西側)に二階家が見えますが、これは「拾翠亭(しゅうすいてい)」といい、九条家時代からあるものです。

 拾翠亭

 毎週、金・土曜日に公開されます(3月~12月)。

 また、池の中央には橋が架かっています。

 九条邸跡

 高倉橋というようですが、高倉通の名を取っているのでしょうか。 

 そして、神社もあります。

 厳島神社

 九条家の鎮守であった厳島神社。平清盛が、安芸の厳島神社を兵庫に勧請し、さらに足利義晴が京都に遷したといわれます。鳥居が変わっていますね。


 明治初期に整備された京都御苑

 明治になり、天皇が東京に遷ると、公家たちも居を移し、御所はさびれていきます。

 京都大内(おおうち)ハ千余年、歴朝ノ皇居ニ候処、戊辰御東幸之後、僅ニ八、九年之間、既ニ廃堕之状ニ至リ、九門以内モ稍荒蕪ニ赴候形況(後略)」 (宮内省「大内保存御沙汰書」明治10年)

 このように、天皇が明治2年(1869)に遷幸して、たった8、9年で荒廃していったというのです。
 
 明治10年(1877)、京都に行幸した明治天皇はこの状況を悲しみ、御所の整備を命じます。これが、大内保存事業と称されるもので、京都府に毎年4000円の大金を給付して、事業を行わせるものです。
 具体的には、明治10年から16年(1883)にかけて、土地を買い上げた上で、外周に石塁を築き、その上には松を植え、門を整備し、植栽を整えました。
 九門と呼ばれる今出川御門、蛤御門、堺町御門などは、石塁の位置まで移動させられました。

 京都御所
  石塁の現況

 堺町御門
  丸太町通に面した堺町御門

 九条邸跡については、明治11年(1878)から13年頃に、高倉橋が架けられました。
 この橋脚に用いられた石は、三条大橋の石の橋脚といいます。

 九条邸跡
  九条池に架かる高倉橋

 このことについては、こちらをご覧ください。 ⇒ <三条大橋のたもとに残る橋脚は「天正」の刻銘がある“御影石”>

 明治10年代の整備事業によって、御所は現在私たちが見るような形に姿を変えたのです。
 公家邸跡の撤去に始まり、石塁の築造、門の移動と整備、苑路と植栽の整備など、大工事でした。
 
 これらの詳細については、高木博志氏の論文に詳しいのですが、九条邸跡のすぐ近くにある「閑院宮邸跡」の収納展示室に行くと、たいへん分かりやすく解説されています。現地見学もできて一石二鳥です。お近くの方は、ぜひ!

 閑院宮邸跡
  閑院宮邸跡

 その展示室に、明治初期のものと思われる九条邸・拾翠亭の写真があります。ひと目見て、これは料亭に転用されている、と分かる姿です。滑稽かつ物悲しい姿ですが、整備によって面目を施したわけです。

 御所の南の端は、余り行かない場所なのですが、他に宗像神社などもあって、なかなか充実しています。ぜひ散策してみてください。




 九条邸跡

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 自由
     拾翠亭内部は、毎週金曜・土曜日に公開(3月~12月)100円
     閑院宮邸跡は無料公開(月曜、年末年始休み)
 交通 地下鉄丸太町駅から、徒歩約3分



 【参考文献】
 高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006年


【大学の窓】そして、秋学期が始まる

大学の窓




   キャンパスの校舎


 2か月の長い夏休みを終え、上京大学(仮称)も今週から秋学期がスタートします。

 夏の間も、会議などでしばしば大学には行っていました。上京大学は、今年度もキャンパス各所が「普請中」という感じで、校舎の内装工事などが行われているようでした。

 私の担当科目は演習なので、休みに入る前、学生たち(1回生です)には“勉強をしておくように”と、軽く(!)言っておきました。
 これは毎年のことなのですが、だからといって、きっちり勉強してきた試しはほとんどありません(苦笑)
 歴史の演習ですので、文献調査をしたり、時には現地に赴いて調査する必要も生じると思うのですが、せいぜい「○○城に行ってきました」程度で、現地で見て感じた疑問を文献等を用いて解決することは、まだまだ出来ません。

 数年来、学生と接していて強く感じることがあります。
 それは、彼らは「疑うこと」を知らない、ということ。つまり「ナイーブ」なんですね、英語の本来的な意味で。
 さすがに、ウ○キペ○ィアを鵜呑みするほど不用意ではないんですが、ちょっとした書物の記述を信じ込んでしまい、そのまま発表してしまう。こういう姿勢だと、歴史学で大切な「史料批判」を出来るようになるという目標に近づけないわけです。

 ふだんの生活では、あまり他人を疑わない方がよいのですが、学問となると、疑問を持たないことには話が始まりません。いじわるな態度ですが、何を見ても読んでも、まずは疑ってみるということが大切。でも、それがなかなか難しいらしい。

 うがった見方をすると、最近の学生は他人と合せること(協調性?)に重きをおくので、批判精神が出づらいのかも知れませんね。

 というわけで、今週の最初の授業では、とりあえず“夏に何をやったか”を聞いてみたいと思います。
 うれしい報告が聞けますように。



石畳による景観保全が盛んだけれど…

洛東




祇園花見小路


 祇園花見小路の石畳

 祇園の花見小路のあたりを私がよく歩いていたのは、1980年代後半だったと思います。その後、しばらく足が遠ざかっていたのですが、近年ちょくちょく通るようになっています。

 そんな中で、少し驚いたのが道路の舗装。
 写真のように、石畳になっていたことでした。

 祇園花見小路
  御影石の舗装がなされた祇園花見小路

 もちろん80年代は、ふつうのアスファルトの道路でした。
 調べてみると、2002年の1月に石畳に改め、完成式が行われたそうです。当時の報道では、四条通から祇園甲部歌舞練場までの約260mについて、電柱を地下化し、御影石を敷き詰めたといいます。工費は6億円だったそうです。
 このお値段は誰が聞いても驚く金額でしょうけれど、私はいつも、この石畳そのものに疑問を持ちながら歩くのでした。


 四条河原町も未舗装だった

 年配の方なら、道路がまだアスファルト舗装される前の姿をご記憶のことでしょう。
 私は、京都市内の外周部(要は田舎)で育ったのですが、家の前の道路は昭和40年代後半まで土のままでした。俗に言う“地道(じみち)”というやつです。
 その頃、市内の中心部や幹線道路は当然アスファルトでしたが、さらに半世紀さかのぼると状況は異なります。

 「京都名勝誌」の四条河原町
  昭和3年頃の四条河原町(『京都名勝誌』より)

 昭和3年(1928)刊の『京都名勝誌』に掲載された四条河原町の写真です。
 路面が土なのがよく分かります。一方で、市電(路面電車)のレールがあるところは石が敷かれているようですね。ご存知のように、市電の軌道に敷かれた切石は、長方形の平たい石でした。

 日本の道路にアスファルト舗装が導入されたのは、大正後半のことです。それも、京浜国道とか阪神国道のような都市間道路にまず用いられたのです。街中に普及するのは、それよりも遅れます。
 いま東京市のデータしかないのですが、大正12年(1923)の道路舗装率は10.9%、昭和3年では20.8%です。昭和5年(1930)以降は50%台と上昇するようです(『アスファルト舗装史』)。
 昭和3年なら東京でも2割ですから、四条通や河原町通が未舗装なのもうなずけるところでしょう。


 なぜ道に石を敷くのか?

 石畳の話に戻ると、すでに江戸時代から石を敷いた道は存在しました。
 これは京都ではありませんが、街道の石畳です。

  萩往還の石畳
  萩往還の石畳

 萩市から山口市、そして瀬戸内海岸を結ぶ萩往還の石畳です。吉田松陰らも歩いた道として著名ですが、いくつもある峠道には石が敷かれています。
 しかし、整然とした切石ではなく、不揃いで凹凸のある石がまばらに敷かれています。この街道では、ほぼ坂道だけに石畳が敷かれていました。

 坂道が土だと、雨天などには、ひどいぬかるみになって滑り、歩けないからです。
 ちなみに、現在のゴム底の靴で歩くと、石が濡れているとスリップして歩けません。当時は、草鞋などを履いていたので、石との相性がよく滑らなかったのでしょう。
 
 これに似たものが京都近辺にもあります。
 「車石」です。

日岡の車石
  日ノ岡の車石

 蹴上から山科に抜ける日ノ岡に残されている車石(くるまいし)。実際には、2つをくっつけずに離して設置します。

 日岡の車石

 こんな感じで、荷車の左右の轍(わだち)が通るところに石が敷かれています。

 幕末の絵で見ると……

 「花洛名勝図会」の車石
 「花洛名勝図会」巻2に見える車石

 牛が曳く荷車の車輪の下に石が敷設されています。
 ただ注意深く見ると、牛の歩くところは土になっていることが分かります。また、馬は手前の土の道を歩いていますね。蹄の足で歩行する牛や馬は土の道の方が好都合なのでした。
 また、おそらく、人が下駄などを履いて歩く際も、土の方が歩きやすいのではないでしょうか。

 このように見てくると、かつて道を石畳にする多くの理由は、ぬかるみ防止、滑り止めで、人にも牛馬にも当てはまることがうかがえます。
 これと少し違うのは、社寺の参道くらいでしょうか。

 アスファルトやコンクリートの舗装が普及するのは、自動車の通行が盛んになってからのことでしょう。


 歴史的な修景というけれど…

  先斗町
  先斗町の石畳

 花見小路と同様に、先斗町にも石畳が敷かれています。ここでは、狭い道の中央部分にだけ、石が斜めに置かれています。
 私の記憶では、このように石畳となったのは20年余り前のことでした。たぶん1990年頃のように思います。それまでは、確かアスファルトだったのです。

 アスファルト舗装が石畳に変えられる理由は、“風情がある” “情緒がある”といったもののようです。要はイメージですね。
 ところが少し厄介なのが、その変更が「歴史的」だという解釈で行われることです。つまり、<昔に戻すのだから石畳だね>という考え方です。
 上でみたように、おそらく都市の中では、特段の理由がない限り道路を石畳にすることはないはずです。むしろ、坂道など都市の外で石畳が使われていたのです。

 花見小路は、京都市の歴史的景観保全修景地区になっています。建物の形やデザインなどは、かなり細かくコントロールがなされています。
 ここで「歴史的」に保全、修景するというからには、なんらかの根拠があって道路を石畳に“戻している”はずです。
 いまのところ、調べが十分ではないのですが、ほんとうに古くから石畳だったのかどうか、私には疑問が拭い去れないのでした。

 ちなみに、祇園界隈で早くから石畳になっていたのは祇園新橋のあたりのようです。

 祇園新橋
  祇園新橋の石畳

 写真の右の道(白川から1本北側の新橋通)は、昭和50年代前半には、すでに石畳だったようです。ただ、それもいつ敷かれたものか、分かりません。
 
 ひと口に修景と言っても、電柱が地下化されて景色がすっきりすることはよいことだと思うのですが、その一方で、昔の道はすべて石畳が敷かれていたと誤解を与えるのは、少し具合が悪いのです。
 人と石との付き合いには長い歴史があり、その用い方にも適材適所というべき必然性があったからです。




 祇園花見小路

 所在 京都市東山区祇園町南側
 見学 自由
 交通 京阪電鉄「祇園四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 苅谷勇雅「日本の美術 474 京都-古都の近代と景観保存」至文堂、2005年
 西川幸治ほか『歴史の町なみ 京都篇』NHKブックス、1979年
 登芳久『アスファルト舗装史』技報堂出版、1994年


昭和9年の室戸台風は、京都の文化財にも大きな被害を与えた

寺院




室戸台風の被害(「上方」より)


 昭和9年9月21日の風水害

 最近の異常気象は、自然の猛威の恐ろしさを感じて余りあるものがあります。歴史的に振り返ると、いつの時代も激しい災害に見舞われており、私たちの歴史は自然との共存と闘いの歴史であったともいえます。

 台風の災害でいえば、終戦後の昭和20年代に強い暴風を伴う台風が数多く襲来し、大きな被害を与えたことが知られています。その前駆というべきでしょうか、昭和9年(1934)9月21日の朝に関西を直撃した室戸台風は、多くの人命や財産を奪い、人々の記憶に深く刻まれた風水害でした。
 最低気圧は911ヘクトパスカル、瞬間最大風速60メートル、死者・行方不明者は3037名にのぼりました。

 この台風は、殊に大都市・大阪に甚大な影響をもたらしたのですが、それを象徴的に表す出来事が、四天王寺五重塔の倒壊でした。
 一般にお寺の塔は倒れないものと相場が決まっており、幸田露伴の「五重塔」にも描かれています。
 ところが、室戸台風は四天王寺の五重塔を倒したのでした。倒壊後、塔自体の造りに不備があったのではという見解も出されるのですが、とにもかくにも強烈な暴風が吹き荒れたのでした。


 京都の文化財の被害 

  「上方」表紙

 大阪の南木芳太郎が編集、発行する郷土雑誌「上方」は、昭和9年(1934)10月号を<上方大風水害号>と特集を組みました。その表紙は「大台風四天王寺五重塔倒壊図」(長谷川小信画)。倒壊現場と、包帯を巻いた仁王さんが描かれています。
 巻頭で南木は、「今度突如襲来せし台風高潮は未曽有の事とて近畿地方の蒙れる惨禍は実に甚大にして戦慄の外無之候(これなくそうろう)」と述べています。

 「上方」は、ふだんは大阪を中心とした郷土誌ですが、この回は関西一円の台風被害についてページを割き、京都についても、文化財の被害を中心に詳しく触れています。特に、京都の被害写真は20葉にものぼります(冒頭の写真は「京都東福寺境内山門の袖破壊」)。
 いくつか紹介しましょう(キャプションは「上方」掲載のまま)。

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「京都嵐山散策道附近の倒木」

 保津川に沿った遊歩道の様子です。

 寺社にも被害が出ました。

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「京都法然院山門の倒壊」

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「京都醍醐寺三宝院純浄観の倒壊」

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「京都大徳寺境内の倒木と塀の破壊」

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「京都豊国廟下の日吉神社の拝殿倒壊」

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「荒れはてた南禅寺境内の倒木」


 同誌は、大阪毎日新聞の記事を引用し、国宝建造物の復旧に要する費用は12万7000円余と記しています。その内訳は……

 賀茂別雷神社 上屋全壊 7000円
 建仁寺 方丈全壊 10万円
 醍醐寺三宝院 純浄観全壊 1万5000円
 荒見神社(久世郡)本殿全壊 5000円
 賀茂御祖神社 橋殿・御供所半壊 金額調査中


 それ以外に、被害のあった主な社寺をあげると……

 石清水八幡宮/平野神社/吉田神社/北野神社/八坂神社/平安神宮/(伏見)稲荷神社/松尾神社/妙心寺/西本願寺……

 などを含め、全部で25社寺が被害を受けています。


 北尾鐐之助のコメント

 この大阪毎日新聞の報道を北尾鐐之助も引用し、『京都散歩』中の「台風破壊の跡」に次のように記しています。

 これ等の建物の被害は、直接風力によつて破壊されたものは至つてすくなく、多くは四囲の樹林や大木などが倒れ、その下敷になつて屋根などを打ち砕かれたものである。しかし、京都府下には、凡そ三百棟に近い国宝建造物があるが、その大部分は破損を免れ、殊に最も風力を受けた筈の市内の木造塔婆が、一ツも倒壊しなかつたのはまるで奇蹟のやうであつた。(348ページ)

 大阪では五重塔が倒れましたが、京都では木造塔婆、すなわち五重塔や三重塔などがひとつも倒れず「奇蹟のようであった」と述べています。
 また風致林の被害は激しく、殊に清水の音羽山は「背後の山が殆ど坊主山になつてしまつた」と記しています。

   室戸台風の被害(「上方」より)
  「京都音羽山(清水寺奥ノ院)の倒木惨状」(「上方」より)

 北尾は、8ページにわたる報告を、次のように締めくくっています。

 京都の市中をとり廻らす風致林の色彩が、今後何十年かして、或ひは一変するやうなことになるかもしれない。また、倒れた古建築も、やがて修理をして再び立ち上るであらう。しかし、一旦傷けられたものは、形態はとも角として、時代のもつ感覚や、気品が非常に減退するやうな気がする。あの一時間にも足りない一吹きの嵐が、すべての景観を破壊し、一千年に亘る間の人類の仕事の中で、最も高きものゝいくつかを奪ひ去つた。
 自然の愛は限りがなく、自然の暴虐もまた限りがない。(353-354ページ)



 小学校の倒壊

 最後に、ぜひ触れておきたいことがあります。それは学校の被害です。
 室戸台風が、京阪神を襲ったのは午前8時頃でした。折しも登校してきた児童たちが倒壊した木造校舎の下敷きとなり、それを救おうとした教員もまた犠牲になりました。京都市内でも南部の小学校を中心に校舎の倒壊が数多く見られ、尊い命が失われました。

 室戸台風の被害(「上方」より)
 「京都西陣小学校の倒壊」(「上方」より)

 西陣小学校の旧校舎の倒壊の模様です。この写真は、児童たちを救出しているところを撮影したもののようです。
 当時、10教室で学んでいた約500名の児童と教員が下敷きになり、41名の児童が亡くなりました。

 校舎の復興は昭和11年(1936)になされ、風水害にも耐える鉄筋コンクリート造3階建の校舎が竣工しました。

  西陣小学校
  西陣小学校 校舎

 上京区のホームページには、「学区案内」が掲載されています。
 桃薗学区、すなわち桃薗小学校は、私も記憶にあるのですが、大宮今出川を上がってすぐの場所にありました。西陣学区の南隣の学区です。
 ホームページには、卒業生の思い出が載せられていますが、一様に室戸台風の思い出を語っているのです。

 私たちの学校は台風の直前に鉄筋コンクリートの校舎ができて無事だったが、お隣の学校では大勢の友達が亡くなった、と。

 ほんの一足早く鉄筋校舎が出来たために助かった児童たちと、木造校舎で命を落とした児童たち。
 関東大震災以降、校舎をはじめ、建造物や橋梁では耐震耐火化が必須の課題でした。しかし予想外にも、台風が関西を襲うことになったのです。人生の不条理というには余りにも悲しい出来事で、言葉を失います。



 【参考文献】
 郷土雑誌「上方」46号(1934年10月号)
 北尾鐐之助『京都散歩』創元社、1934年
 京都市上京区ホームページ



きょうの散歩 - 奈良で京の仏像に会う - 2013.9.15

寺院






  みほとけのかたち展


 奈良に行って京の仏像に会うというのも、乙なもの。
 今日は、台風が接近するなか、奈良国立博物館に行き、特別展「みほとけのかたち-仏像に会う-」を見てきました。ほとんどが奈良の仏像だったのですが、数件だけ京都の仏さまも出ていました。

  『概説三十三間堂』表紙
  『概説 三十三間堂』表紙

 私が出会った京の仏像は、三十三間堂の千手観音菩薩立像です。
 
 出品されていた像は、運慶の子・湛慶の作になるもの。
 いつも三十三間堂に行くと、南の端の方の仏像に不在があるのに気付きます。彼らは、京都、奈良、東京の国立博物館に“出張”されているのですが、おそらく今日の仏さまも“奈良出張”の方なのでしょう。

 三十三間堂内陣(『日本地理大系』7より)
  三十三間堂内陣(『日本地理大系』7より)

 ふだんはこのように、千体並んでおられるので、単体でお目にかかることはありません。
 ところが今日は、展示室の中で、たった独りで立っておられたのです。実に珍しい光景でした。

 そこで、私が気付いたいくつかのこと。

(1)すごくスマート
 思いのほか、ほっそりとしておられます。像高は166cmと等身大ですが、横から見ると腰の位置が極めて高く造られています。まさに人間離れしていて、スマートです。

(2)顔の大きさが変わる
 いつもは、割合近い位置から拝見しています。ところが、展示室で5mも離れて見ると、頭も小さくて細い体躯です。ところが、徐々に近づいて2mとか1mとかで見ると、頭が物凄く大きく見えます。
 一方、立って見るよりも、しゃがんで見る方が顔は小さく見えます。
 顔が大きいと迫力があり、小さいとコンパクトに感じられます。実際の御堂の中では、参拝者は低い位置から雛壇上を見るわけですから、顔は小さく見えているのでしょう。
 仏師は、どのように思って造ったのか、気になります。

(3)下から見上げると、もっとスマート
 しゃがんで全体を見ると、脚がより長く見えて、とてもスマートです。
 こちらも、制作の際、どういう計算で造られたのか不明ですが、おもしろい発見でした。

 という感じで、いつもと違う空間で、異なった見方をすると、見慣れた仏さまも多彩な表情を見せるのでした。
 この展覧会では、千手観音菩薩は「持物」の説明コーナーに登場されていたのですが、私は持物そっちのけで、前に行ったり後ろに下がったり、立ったりしゃがんだりと、忙しく御像を拝見したのでした。

 仏さまは別に美術品ではありませんし、博物館の中に安置されるものでもありませんから、お寺の御堂の中でどのように見えるか、信心されるかを考えるのがよいような気がします。
 今日は、そのあたりを再考するヒントをもらったような感じでした。また、三十三間堂を訪ねた折に、再確認してみましょう。


 奈良の鹿

 特別展「みほとけのかたち-仏像に会う-」 2013年7月20日~9月16日、奈良国立博物館



 【参考文献】
 『みほとけのかたち』奈良国立博物館、2013年
 『日本地理大系』7、改造社、1929年
 『概説 三十三間堂』三十三間堂本坊妙法院門跡、1976年


三条大橋のたもとに残る橋脚は 「天正」の刻銘がある “御影石”





三条大橋


 擬宝珠(ぎぼし)の銘文

 京都には名橋が多いのですが、今も昔も最も著名で、往来も激しいもののひとつが三条大橋でしょう。

 「都名所図会」より三条大橋
  「都名所図会」より「三条大橋」

 江戸時代、四条大橋はどちらかというと、河原が広がり芝居が立つ場所というイメージで、「都名所図会」巻2にも「四条河原夕凉之体(てい)」という図が描かれています。
 それに対して三条大橋は、上図のように、流れの早い鴨川に架かる立派な橋を描画しています。
 本文にも、詳しい橋の解説があります。

 三条橋は、東国より平安城に至る喉口なり。貴賤の行人常に多くして、皇州[みやこ]の繁花は此橋上に見へたり。欄干には紫銅の擬宝珠[ぎぼし]十八ありて悉く銘を刻む。其銘に曰、「洛陽三条之橋、後代に至りて往還人を化度す。盤石之礎、地に入ること五尋、切石之柱六十三本、蓋し日域に於いて石柱の濫觴乎。天正十八年庚寅正月日 豊臣初て之を御代に奉る 増田右衛門尉長盛 之を造る」(カッコ内は原漢文) 「都名所図会」巻1

 「都名所図会」は、橋の擬宝珠(ぎぼし)に彫られた銘文を丁寧に紹介しています。

  三条大橋
  三条大橋の擬宝珠

 擬宝珠とは、橋の高欄に付けられる金具で、ネギ坊主のような形をしています。多くは銅などの鋳物です。
 「都名所図会」が引く銘文は、今でも現地で読むことができます。

 三条大橋

 三条大橋
 冒頭には「洛陽三条」とある

 銘によると、この橋は切石の橋脚が63本あって、地中へ「五尋(ひろ)」の深さで埋まっています。「尋」は両手を広げた時の長さを示しますので、1.8mとすると、約9mも打ち込まれていることになり、まさに「盤石の礎」です。そして、これが日本における石柱を用いた橋の初めといいます。
 天正18年(1590)正月に豊臣秀吉が、増田長盛に造らせました。

 意味深長なのが、冒頭の「洛陽三条の橋、後代に至りて、往還の人を化度(けど)す」というところ。三条大橋を往き来する人たちを化度(導き、救う)というのです。なんだか、分かったような分からないような記述です。
 単純に、頑丈な橋を架けたから、みんなの通行が便利になって助かる、というふうにも解釈できます。しかし深く読めば、架橋した秀吉の意気込みを見ることもできるようです。

 朝尾直弘氏は「これは豊臣政権が人びとを『化度』するために架橋したと読める。秀吉は天正17年(1589)架橋を命じ、翌18年橋は完成し、3月1日秀吉は小田原の後北条氏を討つため橋を渡って東国に向かった。天下一統の事業と結びついて橋はできたのであり、『化度』のなかにはそれも含まれていたといえよう」(『京の鴨川と橋』)。
 国を平らげて民に安心をもたらすという大きな意味ならば、この橋もその一環だったのでしょう。


 石の橋脚

 「都名所図会」によると、擬宝珠は18、石の橋脚は63あったといいます。

 「都名所図会」より三条大橋
  「都名所図会」の三条大橋全景

 「都名所図会」より三条大橋
  高欄の擬宝珠と石の橋脚が描かれている

 現在は、このような感じです。

 橋の上です。

 三条大橋

 橋の下です。

 三条大橋

 これは上流側なのですが、コンクリートの橋脚となっています。
 ところが、下流側は違うのでした。

 三条大橋

 根本(水に浸かっているところ)はコンクリートですが、その上から橋桁までは石なのです。これについては、あとで触れることにします。

  三条大橋

 上にあがって、橋の西詰、スターバックスのあるところに、1本の石柱が保存されています。

  三条大橋 三条大橋

 石柱には、「天正十七年津国御影」「七月/吉日」と刻まれています。
 「津国」は摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県東部)ですから、まさに神戸市御影(みかげ)から取ってきた「御影石」ということになります。
 
 山野祥子氏によると、この橋脚の製作には、近江の馬淵石工や、伊賀、和泉、摂津などの石工が携わったといいます。


 明治末には残っていた天正期の橋脚

 しかし、大正元年(1912)の架け替え時に、この天正期の橋脚も替えられたといいます。不要になった石柱は、平安神宮の神苑など、京都市内の庭園の庭石に用いられていると山野氏は指摘しています。
 ということは、いま三条大橋に使われている石の橋脚は、大正初期のものということになります。

 少しばかり古い論文ですが、明治44年(1911)の「考古学雑誌」1-11に掲載された岩井甍堂(武俊)「京都の金石文(一)」は、三条大橋の擬宝珠銘について考察しています。
 特に、その橋脚について、岩井はこう述べています。

 (前略)現今では其の石柱は三本列び(三本列びの両端の分は円柱、中央の分は方柱也)十六行、都合四十八本、其の各柱は中程で継いである、橋下の河底には石が敷き詰めてある、

 として、石柱の中には「天正十七年津国御影」云々の刻銘のあるものが数本ある、と言っています。
 つまり、明治末の段階では、まだ天正期の橋脚が川の中に立っていたわけです。
 また、五条大橋には、同様の刻銘を持つ橋脚が比較的多く残っているといいます。

 さらに岩井は、「天正十七年御影」「吉日/五日[ママ、五月か]」の銘を持つ柱石が、京都府庁構内に1本と、京都御苑の九条池に架かる高倉橋に数本ある、と述べています。この石柱については、どこのものか不詳としていますが、興味深い発見です。

 『京都名勝誌』によると、大正元年(1913)10月に竣工した新たな三条大橋は、

形式旧に依るといへども、幅員甚しく拡大せるを以て、かの天正の石柱を徹し(市内各神社公園などに配布して記念物とす。)新橋柱を用ひたり。

 とあり、天正の橋脚は替えたけれど、擬宝珠だけは天正期のものをそのまま使用したと記しています。
 まさに「記念物」となった往古の橋脚は、すでに同書(1928年刊)にも、橋詰に据えられている写真が掲載されています。

 「京都名勝誌」より三条大橋
  『京都名勝誌』より「三条大橋」
   柳の下に天正期の石柱が保存されている

 「新撰京都名勝誌」より三条大橋
  大正元年に架け替えられた三条大橋(『新撰京都名勝誌』より)
  現在より、橋脚がずいぶん短いのが分かる




 三条大橋
 
 所在 京都市中京区中島町
 見学 自由
 交通 京阪電鉄「三条」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1789年
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 門脇禎二・朝尾直弘編著『京の鴨川と橋』思文閣出版、2001年
 岩井甍堂「京都の金石文(一)」、「考古学雑誌」1-11、1911年
 山野祥子「京都・三条大橋橋脚の築造と「馬淵石工」」、「立命館地理学」16号、2004年


いまは忘れられた “ゼゼウラ” は、町の歴史を伝えてくる

洛東




膳所裏


 「ゼゼウラ」って?

 この夏、祇園祭のことや祇園のことについて勉強している際、ときどき「ゼゼウラ」という聞き慣れない言葉が出てきました。
 「訛りは国の手形」とは石川啄木の名言ですが、さしずめ<地名は土地の記憶>。古い歴史を現代に伝える役割を地名は担っています。
 今回、「ゼゼウラ」という響きが妙に耳について忘れられないので、現地を訪ねてみることにしました。

 「ゼゼウラ」は祇園町北側、つまり四条通の北にあります。花街の名でいうと、祇園東の地区に当たります。

 富永町
  富永町

 四条大和大路を北に折れて、一筋目が富永町です。
 少しずつお茶屋が並んでくる街区ですが、今では現代風のお店の方が多いようですね。私など、ぜんぜん縁がない場所ですけれども、数年前、ある人に至って庶民的な飲み屋さん「Y」を教えてもらい、年に一、二度そこに行く程度でしょうか。

 しばらく歩くと花見小路と交わり、さらに東へ歩きます。

  富永町
  富永町-花見小路の東

 花見小路から東は、写真のように道が「く」の字に曲がっています。近世、近代の地図を見てもそのようになっていますから、ここが新地として開発された頃から屈曲しているのでしょう。なにか味わいがあります。

 その向こうは、乗用車が1台通れる程度の狭さ。

  富永町
  「祇園富永町通東小路西入元町」

 町名標示板をよく読むと「東小路」とあります。
 東大路は誰でも知っているけれど、東小路は初めて聞きました。

  膳所裏

 この写真の左に折れている道(実は右にも道があります)は南北の通りなのですが、これが東小路なのです。東大路の西に並行している狭路です。 
 そして、写真に収まっているあたりこそ、「ゼゼウラ」と称されていた場所なのです。

 漢字で書くと「膳所裏」となります。


 膳所裏の由来

 東大路
  東大路-むかし「小堀(こっぽり)」と呼ばれた

 祇園会館
  祇園会館-現在は、よしもと祇園花月が興行している

 江戸時代、現在の東大路の西側--いま祇園会館がある周辺--には、近江・膳所(ぜぜ)藩の京屋敷がありました。
 およそ、北は新橋通、東は東大路、南は富永町、西は花見小路に囲まれた区画の中に、屋敷が構えられていたのです。
 もう少し正確に考えると、北の新橋通の方は、通りの南の林下町(現在、ホテル・ギオン福住がある辺)に家屋が建っていて、藩邸は通りに面していませんでした。西の花見小路にも通りに面したところには清本町の民家が建っていました。東は現在の東大路に面しており、南も富永町の通りに面していました。

 富永町の通りは、いま歩いてきた狭い道です。その道の中でも、屈曲の東の一段と狭くなったあたりが、屋敷の脇に当たったため<膳所藩邸の裏>という意味で「膳所裏」と呼ばれていました。

 もともと東大路は幅2間(約3.6m)程度の狭い通りで「小堀(こっぽり)」と称していました。その西に敷地4千坪以上ともいわれる膳所藩の屋敷がありました。

 膳所藩は、現在の滋賀県大津市に膳所城を構える本多家、7万石の譜代大名です。淀藩、亀山藩、郡山藩(大和)とともに、御所や二条城を含めた京の防火にあたる「京都火消役」を仰せつかっていました。
 4藩のうち、参勤交代で江戸に出ない2藩が、1年を半年に割って当番していました。火消の任務に当たるため、膳所藩では約250名の藩士を待機させておいたといいます。たいへんな負担ですが、彼らを収容するため屋敷地もこのように広大だったのでしょう。
 ちなみに、大火が起こった場合は、藩邸詰めの人員だけでなく、国元からも大勢が駆け付けることになっていました。そのため、淀、亀山(現在の亀岡)、大和郡山、そして膳所という畿内の藩が選ばれていたのです。

  膳所裏
  東大路通四条上る1筋目西入が「膳所裏」
 (祇園会館の南側の細い通り)


 忘れられた通称地名

 明治初期にまとめられた「京都府下遊廓由緒」には、膳所裏の注記として「祇園町北側之家尻ニテ一町立ニ非ス」と記しています。つまり、四条通に面して立ち並んでいた祇園町北側の裏手に当たっていて、特に町としては扱っていない一画だということです。
 同書の付図には、富永町の通り(いまの祇園会館の南側あたり)に「俗称膳所裏」と明記されています。

 しかし、いま現地を訪ねても、膳所裏を示す痕跡はなかなか窺えません。ちょうど不動産屋のご主人が表に出て来られたので尋ねてみると、40年ここで商売しているが「ゼゼウラ」とは聞いたことがない、という返事です。
 ちなみに、その店舗のあるところは「中末吉町」というそうです。祇園会館の北側の通りに当たります。

 中末吉町
  中末吉町界隈-お茶屋が多い

 中末吉町
  看板にも「中末吉町」

 もちろん、これは末吉町という町名(花見小路より西にある)に対しての通称です。
 末吉町の通りは、古くからあり、大和大路から東へ延びていましたが、膳所屋敷に突き当って行き止まりになっていたのです。
 つまり、いま中末吉町の通りが走っているところは、まさに藩邸の中だったのです。中末吉町の通りは近代にできた新しい道ということになります。

 その中末吉町の西端あたりに、ひとつの小社があります。

 観亀稲荷社
 
 観亀稲荷神社。お茶屋さんに囲まれるように鎮座しています。
 実は、この神社、京都の火消を担当した膳所藩が勧請した火防(ひぶせ)の神さまなのだそうです。
 そうか、これが膳所屋敷の名残りだったのですね。ここも、かつては藩邸内でした。

 地図類で見当をつけていくと、どうやら、この神社の西側の道(中小路という)までが屋敷だったと推測できます。
 
  中末吉町
  「祇園中末吉町通り中小路東入」

 膳所屋敷の場所もほぼ分かり、名残りの神社にも会えて一安心。

 けれども、不動産屋さん(60歳くらい)さえ、この地名を御存知ないとなると、かなり年配の方でも知らないのかもしれません。
 地名は、地域の歴史を記憶している大切な証人です。できることなら、町の歴史とともに後世まで伝えていきたいものです。




 膳所裏(通称地名)

 所在 京都市東山区祇園町北側
 見学 自由
 交通 京阪電鉄「祇園四条」より、徒歩約10分



 【参考文献】
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書』9 所収)
 川嶋将生・鎌田道隆『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 藤本仁文「近世京都大名火消の基礎的考察」(「史林」88巻2号、2005年、所収)


寺院の近代建築にスポットをあてた好著 - 『京の近代仏堂』 -

京都本




  『京の近代仏堂』


 公的施設で買える本も、おもしろい

 ふつう、歴史や文化財の本は書店で買うケースがほとんどです。しかし意外にも、公的施設で買えるものも多く、なかなか好著が目白押しです。

 たとえば、京都文化博物館の1階にあるショップ(便利堂)。
 私がかつて、ここで買った本が、『京都府文化財総目録 平成18年度版』(京都府教育委員会)。値段は3,000円でしたが、京都に所在する国、府、市町村の指定文化財を網羅している、たいへん重宝な目録です。
 一般書店には置いていないようで、それまで職場の書庫で見ていたのですが、購入して座右に置くと非常に便利です。

 また、京都市刊行の本をよく買うのが、京都市考古資料館。堀川今出川西入ルにあります。
 展示を見に行ったついでに、本を見ます。
 ここで買えるのが、<京都市文化財ブックス>。もう20数冊出ています。たとえば、第23集『京都の五山寺院』など役立てていますが、今年刊行された第27集が『京の近代仏堂-近代京都の堂宮系和風建築の成立と展開-』です。
 執筆は、京都市文化財保護課の清水一徳氏が当たられています。

 ※京都市文化財ブックスは、京都市役所などでも購入できます。


 古いだけが文化財じゃない

 日本における建築文化財の保護は、「古建築」と呼ぶにふさわしい古代の建築物から始まり、徐々に時代と領域を拡大してきました。1970年代後半には近代建築(主に洋風建築)の全国調査が行われ、1980年代になると近世社寺建築が網羅的に調査研究されました。さらには近代和風建築へと広がり、1996年には「登録有形文化財」が導入されて、近代建築の保護が急速に進みました(もちろん、その裏で破壊も進んだわけですが……)。
 たとえば、登録有形文化財については、『京の国登録文化財』(2011年)などで手軽に見ることができます。
 
 このように、文化財といっても、古代、中世のものだけが優れていて保存に値するわけではなく、近世から近代、そして現代のものまで、価値評価と保護の対象になって久しいのです。

 そんな中で刊行された『京の近代仏堂』は、“お寺の建物といったら、きっと古いんでしょう”という先入観を振り払う好著で、12件の近代寺院建築を紹介しています。

 六角堂
  六角堂


 『京の近代仏堂』の構成

 目次は、次の通りです。

 第1章 近世の継承と昇華
     頂法寺六角堂
     東本願寺御影堂
     佛光寺本堂(阿弥陀堂)
     法輪寺多宝塔
 第2章 復古主義
     正法寺遍照塔
     心城院岸駒堂
     東福寺本堂(法堂)
     天龍寺多宝殿
 第3章 近代的様式の摸索
     鞍馬寺寝殿
     知恩院納骨堂
     日野誕生院
     神護寺金堂
 第4章 近代社寺を支えた大工道具
 主な近代社寺建築の造営事例

 なかなかすごいラインアップです。
 私も、以前この清水氏の記述のウェブ版を参照させていただきながら、正法寺遍照塔(西京区)を紹介させてもらいました。 *記事はこちら ⇒ <亀岡末吉の独自世界は、正法寺「遍照塔」からスタートした>

  正法寺遍照塔
   正法寺遍照塔

 この塔は、近年移築されてお色直ししているのですが、もとは高台寺の境内にあったものです。

 ちなみに、本書に登場する仏堂に携わった建築家や棟梁は、次のような人たちです。

  伊藤平左衛門(東本願寺御影堂)
  市田重郎兵衛(佛光寺本堂)
  三上吉兵衛(法輪寺多宝塔)
  亀岡末吉(正法寺遍照塔)
  阪谷良之進(心城院岸駒堂、知恩院納骨堂)
  天沼俊一(東福寺本堂)
  稲垣啓二(同上)
  岸 熊吉(鞍馬寺寝殿)
  笹川新太郎(日野誕生院)
  安井楢次郎(神護寺金堂)

 本書での紹介事例以外にも、多くの建築を手がけた人たちが取り上げられています。

 巻末の年表形式でまとめられた<造営事例>には、150件近い建築があげられており、たいへんな労作といえます。

 図版も豊富、これで1,500円ですから、ぜひ手許に置いて勉強したい一冊です。



 書 名:『京の近代仏堂-近代京都の堂宮系和風建築の成立と展開-』
     (京都市文化財ブックス第27集)
 著 者:清水一徳
 出版者:京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課
 刊行年:2013年


日本画家・福田平八郎が洛北高校前から見た比叡山には、新時代の息吹が…





比叡山


 校歌の中の比叡山

 最初から思い出話で恐縮ですが、私は子供の頃からずっと洛北で育ちました(かなり北の方ですが)。
 そのため、小学校、中学校の校庭からは比叡山が望め、どちらの校歌にも賀茂川と比叡山が歌い込まれていました。
 小学校の校歌は、<賀茂の流れを軒にきき 比えいの高嶺を窓に見る 我が学舎[まなびや]の尊さよ 恵みは深し教え草>という歌詞でした。
 子供のことですから、いつ制定された歌か知りませんでしたが、いま調べてみると(便利な時代です)、昭和6年(1931)、その村が京都市に編入される際に、新たに作られたものと分かります。ちなみに、開校は明治6年(1873)です。

 実際に校庭から、毎日比叡山を見ていました。
 そして、毎週、月曜日にある朝礼で、この歌を唄っていたのでした。


 日本画家・福田平八郎の比叡山

 大正、昭和に活躍した日本画家・福田平八郎(1892-1974)は、大分県の出身ですが、京都市立絵画専門学校に学び、のちそこで教鞭を執った、京都在住の日本画家でした。写実に装飾性を織り交ぜた画風で、代表作「漣」は、ハッとするような素晴らしい作品ですね。

 その福田が、昭和5年(1930)に刊行されたアンソロジー『京都新百景』に、「下鴨北端」という文章を寄せています。このアンソロジーは、京都在住の各界の著名人が、地元や関係地の四方山ごとを自由に綴っているもので、『京ところどころ』の姉妹編です。

コンクリートの建物と赤瓦の家根とに包まれた小さな田は今稲を植ゑ付けてゐる。もう百姓じや食へへんと六十近い爺[おやぢ]はためいきついて手ばなをかんだ。コンクリートの巨躯、それは東洋一を誇る一中だ。そのバツクに比叡の英姿が泰然として聳えてゐる。(229-230ページ)

 福田は、下鴨神社の北西、下鴨芝本町に住んでいました。随筆に書かれた「一中」、すなわち京都第一中学校(現・洛北高校)の南西側です。
 
 そのエッセイに添えた挿絵が、これです。

 福田平八郎の描く比叡山(『京都新百景』より)
  福田平八郎の描く京都一中と比叡山(『京都新百景』より)

 中央に「東洋一を誇る」「コンクリートの巨躯」、一中が聳え、後ろには松ヶ崎の「妙」「法」の山、そして遠景が比叡山です。おそらく、福田の自邸から描いたものでしょう。

 いま、洛北高校から比叡山が見えるかと立ち寄ってみると、いちおう望めるのですね。
 福田が、山影を正確に写し取っていることも確かめられますね。

 比叡山
  洛北高校のフェンス越しに望む比叡山

 少し余談なのですが、比叡山は、京都盆地の北の端から見ると、山頂がちょっと右に傾いて見えるんですね。福田の絵や上の写真からも、それがうかがえます。
 
 下鴨本通と賀茂川の間や、北大路通より北の辺りは、大正後半から昭和初期にかけて、住宅地開発が進んだところで、福田が言うような「赤瓦の家根」の家が建てられそうな場所でした。福田をはじめ、池田遥邨ら画家たちも、大勢住んでいたといいます。
 一中の校舎も、昭和4年(1929)に完成したばかりで、この絵が描かれたときには、まだピカピカの新しい姿を見せていたことでしょう。
 近年建て替えられて、いまは新校舎になっています。
 

 山を切り裂く「線」

 ところが、福田が画いた比叡山には、山の中央に何やら「線」が描かれていますね。これはなんでしょうか?

  比叡山ケーブル(絵葉書)
  昭和初期の絵葉書

 実は、この写真の線が描かれているのです。
 
 ケーブルカーの軌道でした。

山の中央に縦にミシンの縫目そつくりの線が見える。それがケーブルだ。お天気のいゝ日には宅から上下するケーブルカーがよく見える。夜になると金モールのやうにまぶしい電燈の光が輝いてゐる。延暦寺のデモンストレーシヨンでもあるまい。さすがの伝教大師も地下においてくしやみの連発を……(230ページ)

 まさか伝教大師がクシャミはしないでしょうが、大正から昭和初期にかけて、生駒山、比叡山、高野山、愛宕山など、各地の山岳寺院にケーブルカーが敷設されたのです。“座ってお詣りできる”の売り言葉で、たくさんの参詣者を集めたのでした。
 八瀬と比叡山を結ぶケーブル線(現・叡山ケーブル)は、大正14年(1925)に開通しました。1.3kmあり、当時は日本最長のケーブルでした。

 『京都名勝誌』(昭和3年)には、

 されど大正十五年十二月より叡山電気鉄道開通し、京都市田中出町柳駅を起点とし、平坦部を北走すること約六哩[マイル]、愛宕郡八瀬村の南端を終点とし、更に高野川を渡り、西塔橋駅を起点とするケーブルカーを利用して、蛇ケ池遊園地下の終点に至るを得るが故に、都人士の多くはこの電車を用ひ、徒歩登攀するものは、極めて稀なるに至れり。(161-162ページ)

 と記されています。

  比叡山ケーブル(絵葉書)
  ケーブルの車両(絵葉書)

 現在では、植生の関係か地上からはケーブル線は見えないのですが、当時はよく見えたようです。

 福田が言う「文明の風」とやらに、下界も山上も変化を余儀なくされたのでした。

 それでも、樹木が生い茂ってケーブルが隠されたせいか、比叡山の姿は今も昔も余り変わらず、洛北育ちの私たちをほっとさせています。




 洛北高校

 所在 京都市左京区梅ノ木町
 見学 外観のみ
 交通 市バス洛北高校前下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都新百景』新時代社、1930年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年