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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

深草から宇治につながる八科峠は、秀吉が御香宮神社を移した地

伏見




八科峠


 本町通を南に進むと…

 以前、三条大橋から伏見稲荷に到る大和大路~本町通について紹介しました。 詳しくは、こちら ⇒ <大仏餅に伏見人形、大和大路~本町通も、古きをたずねるとおもしろい>

 京都市街から伏見稲荷までは、昔の感覚でいうと1里くらいでしょうか。では、本町通をそのまま南に進むと、どこに行くのか? 気になるところです。

 実は、その先は宇治街道とも呼ばれる道で、峠を越えて宇治へ、さらに大和(奈良)へ続く道でした。
 今回は、そのルートの入口にあたる峠道を紹介してみましょう。


 スタートは藤森神社

 伏見稲荷から約2km南に進むと、藤森神社に到ります。神社の中を抜けて、南参道から外に出ます。

 藤森神社
  藤森神社 南門

 そこから東に向かって進み、JR藤森駅に突当ったら、右に進んで、踏切を渡ります。

 八科峠
  JR奈良線 踏切

 ここから先は住宅が立ち並び、絶えず自動車が行き交うものの、道自体は如何にも古い峠道という雰囲気を漂わせています。

 八科峠


 貝原益軒も紹介した八科峠

 この峠道が、八科峠です。「やじな」峠と読みます。
 江戸前期の儒者・貝原益軒の著書に「京城勝覧」という書物があります。益軒は、各地を旅して多数の紀行文を残しています。たぶん健脚だったのだろうと、私は勝手に想像していますが、歩いた行程を丁寧に記録しています。
 その経験や知識を京都ガイドに仕立てた本が「京城勝覧」です。
 「京城勝覧」の特徴は、見物すべき京名所を1日ごとに紹介していることです。つまり、今日1日何里歩いたら、これこれの名所が見られる、というスタイルなのです。

 その第5日は、宇治見物にあてられています。
 益軒が、京から宇治へ向かう順路として紹介しているものは、ひとつは醍醐から六地蔵を経由して行くもの。いまひとつが、ここで紹介する藤森神社からスタートするコースです。
 「京城勝覧」では、藤森神社を出ると、すぐに「矢島嶺[とうげ]」と記されています。これが八科峠です。
 読みは、もちろん「やじま」峠ですが、「やじま」と「やじな」は相通じるものがあります。

 ここで、黒川道祐「雍州府志」を見てみましょう。道祐も「矢嶋峠」と記し、その語源を説明しています。

 豊臣秀吉公、伏見の城に在りし時、矢嶋氏の館舎、斯の傍らに在り。故に之れを号す。

 豊臣の武将・矢島氏の館があったので、それが名の由来としています。由来譚のひとつとして考えておきましょう。


 秀吉が移転させた場所、“古御香宮”

 この峠を登ってゆくと、こんもりとした森が見えてきます。

  古御香

 左右にある石灯籠。

  古御香

 銘によると、天保14年(1844)に建立されたもののようです。
 ここが、いわゆる「古御香(ふるごこう)宮」です。

 これも江戸時代の地誌「山城名跡巡行志」には、この「古御香ノ宮」が紹介されています。
 おおむね書かれていることは、次の通りです。

 古御香ノ宮は、この村の北の端の東方にある。鳥居と社殿は西向きである。文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見山の城を築いたとき、御香宮をこの場所に移した。その後、徳川家康が慶長8年(1603)に元の場所に戻した。今ここは御旅所となっている。古宮は、今なお残っている。(大意)

 要領よくまとめてあります。
 御香宮神社は、もとは伏見九郷のうちの石井村にありましたが、秀吉が伏見城を築城する際、大亀谷の八科峠に移転させられました。一説には、城の鬼門を守るためとされています。
 しかし、のちに家康によって、慶長10年(1605)に現在地に戻されました(慶長8年説あり)。その後、八科峠の場所は御旅所になったのです。
 実際、写真の江戸後期の灯籠にも「御香宮/御旅所」と刻されていますね。

  古御香

 坂道になった参道は、雰囲気があります。

 古御香

 今は小さな社殿のみ。
 毎年10月の御香宮神幸祭では、神輿の渡御があるそうです。


 峠の上には石碑が

 元の道に戻り、少しずつ上って行くと、峠会館という建物を過ぎて、八科峠に到ります。
 
  八科峠
  「八科峠」の石碑

 この峠は、標高95m程度で、さほど高くはありません。それでも藤森神社のあたりが約35mですから、60mほど上ったことになります。
 一方、ここから先(東側)は、たいそう急な坂道になっていて、六地蔵まで一気に下って行きます。

 八科峠
  八科峠の東側。この先が急な下りになる

 なお、峠の脇上には、黄檗宗の寺院・仏国寺があります。このお寺については、またの機会に紹介できればと思っています。

 八科峠は、現在ではその名を忘れられた存在ですが、自動車の往来は激しく、今なお峠の役割を果たしているように見えます。




 八科峠

 所在 京都市伏見区深草大亀谷
 見学 古御香宮とも自由
 交通 JR藤森下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 『京都叢書』各巻、1915年
 『雍州府志』岩波文庫、2002年



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【新聞から】祇園祭の山鉾巡行に「後祭」が復活





 後祭山鉾は「逆回り」 祇園祭、49年ぶり巡行2日間
 京都 2013年8月27日付



  祇園祭  狭い通りを行く岩戸山

 2010年から議論され始め、今年の山鉾巡行の頃には“いよいよ来年から復活か”と言われていた祇園祭の「後祭(あとのまつり)」。
 ついに来年から復活することが、8月末にも決定されるそうです。
 私も後祭は見たことがなく、これは楽しみですね。

 【前祭と後祭】
 祇園祭の山鉾巡行の歴史を簡単に振り返っておくと、江戸時代までは旧暦の6月7日と14日に巡行が行われていました。明治維新後、太陽暦が採用されると、明治10年(1877)から、7月17日と24日に行われるようになりました。7月17日の巡行を「前祭(さきのまつり)」、24日のものを「後祭(あとのまつり)」と呼びます。

 2日に分けて行われるのは、祇園社(八坂神社)の神輿の渡御と還御にあわせて行われるためです。
 現在では、八坂神社から御旅所へ向かう神幸祭に先立って、午前中に山鉾巡行が行われていますが、かつては、これに加え、御旅所から神社へ戻る還幸祭の日にも、午前に山鉾の巡行が行われていたのです。

 前祭には、長刀鉾をはじめ、函谷鉾、占出山、鶏鉾、放下鉾、船鉾などが参加し、後祭には、橋弁慶山、黒主山、鈴鹿山などが参加しました。おおむね蛸薬師通を境界として、以南の山鉾が前祭に、以北の山鉾が後祭に加わっていたのです。

  戦前の祇園祭(『日本地理大系』より)
  戦前の「前祭」巡行(『京都』より)

 前祭と後祭からなる山鉾巡行は、太平洋戦争による中断を挟みながら、戦後まで続いていました。しかし、昭和41年(1966)、交通事情の変化などを理由に後祭を取りやめ、7月17日の巡行に一本化されたのです。ちなみに、24日には、後祭に代わって花傘巡行が行われるようになりました。

 祇園祭山鉾連合会の吉田孝次郎理事長は、神輿が渡御する神幸祭と還幸祭の前に山鉾巡行があった姿を重視し、「神と我々の山鉾風流が不即不離の関係で行うのが祭りの姿だった」(「月刊京都」7月号)と山鉾巡行の趣旨を語っています。

 【巡行コースの変遷】
 ここで問題となるのが、後祭の巡行ルートです。

 現在の7月17日の巡行は<四条烏丸-四条河原町-河原町御池-烏丸御池>というコースを取っています。しかしこれは、昭和36年(1961)以降のもので、河原町通や御池通を通るという極めて現代的なコースといえます。

 かつて、巡行コースは全く異なっていました。昭和30年(1955)まで、前祭は<四条烏丸-四条寺町-松原寺町-烏丸松原>というコースを通っていました。つまり、四条通を右折して寺町通に入って南下し、3筋南の松原通を西行するというものです。

 巡行コースの変遷(『ドキュメント祇園祭』より)
  巡行コースの変遷(米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』より)

 しかしながら、松原通は大変狭い通りで、ここを山鉾が巡行することは家屋への接触など問題をはらんでいました。そのため、変更の議論が起こったのです。その際、八坂神社は「信仰の由来をおろそかにしないことが最も大切なことで、時代がかわったからといって、勝手な解釈で祭の巡行形態を変えてもらっては困る」と強く反対したそうです(『ドキュメント祇園祭』)。この八坂神社の立場は、昭和41年の巡行一本化の際も主張されたことでした。

 紆余曲折の末、昭和31年(1956)より、四条通から寺町通を北上し、御池通を西に進むコースに変更されました。これは5年間続きます。この変更に伴って、広い御池通には有料観覧席が設けられました。米山俊直氏らは、「祇園祭が現在のように観光ショーとしての色合いを濃くしてゆく第一歩であった」とされています。『ドキュメント祇園祭』を読むと、昭和30年代、祇園祭は<信仰か観光か>が盛んに議論されたという記述が何度も出てきます。
 かつての巡行のコースについて改めて考えてみると、前祭は四条通から松原通へとぐるっと回るコースを取っています。これは、鉾町の分布と重なっていて、鉾町の南限が松原通までだからです。一方、後祭のコースが四条通から三条通をめぐっていくコースなのは、鉾町の北限が三条通北側までだからです。そして、四条通を寺町通まで進行して南下または北上するのは、四条寺町に御旅所があるからでしょう。こう考えると、巡行コースの設定には、神事や地域にとっての合理的な理由があったのです。

 米山俊直『祇園祭』には、たいへん的を射た指摘があります。

 祇園祭の山鉾巡行のコースが、まださきのまつりが四条烏丸から寺町に来て右折し、寺町通を南下して松原通に達し、松原通を西にとって東洞院[注・ひがしのとういん。南北の通り名]で解散していた頃は、寺町通や松原通の祭への参加の仕方はおのずから別のものだったにちがいない。
 昭和31年(1956)のコース変更以後、八坂神社の氏子区域でもその南部では、やはりかなりの変動があったと考えられる。それは、巡行が来なくなった、という物理的な出来事以上に、その地域の人々の心に何かを与えたにちがいない。(『祇園祭』115-116ページ)


 米山氏は「人々の心に何かを与えた」と表現されていますが、それはもちろん“何かを奪った”という意味です。たかがコース、されどコースということが、やはりあるのです。

 昭和36年(1961)、松原通と同様に、道幅の狭い寺町通は回避され、河原町通を北上するコースとなりました。これが、現在まで続いています。

 戦後の祇園祭(『日本地理風俗大系』より)
  四条寺町を曲がる船鉾
 (昭和30年代前半頃、『日本地理風俗大系 7』より)

 この写真は、寺町通に入って行く船鉾を捉えたものですが、いかにも窮屈そうに曲がっています。寺町通変更論が出るわけです。

 このように、一見伝統があると思われる巡行コースも、激しく変化してきたのです。

 上記は前祭のコースでした。
 では、後祭のコースはどうだったかというと、烏丸三条から三条通を東行し、寺町通りを右折して南下、四条寺町から四条通を西行するコースでした。つまり、前祭が<反時計回り>だとすれば、後祭は<時計回り>というわけです。

 【今後は?】
 京都新聞によると、今回復活する後祭のコースは、<烏丸御池-河原町御池-四条河原町-四条烏丸>となるそうです。つまり、現在のコースの完全な<逆回り>です。
 けれども但し書きがついていて、数年後をメドに旧来のコース復活を目指す、とされています。もちろん寺町通はアーケード街なので、そこを通れるか? という大問題もあります。ただ関係者は、一部だけでも三条通を通るなど、かつての形を理想形として検討していくようです。
 
 祇園祭に限らず、祭礼の形は時代に応じて変化するのがふつうです。長い歳月を生き延びていくためには、必ずしも伝統を墨守する必要もないと思いますが、祭礼の意味、信仰の尊さを見失わないようにすることは大切でしょう。
 その点から、今回の後祭復活は、祇園祭の意味を改めて伝え直す格好の機会になるのではないでしょうか。

 来年、前祭23基と、後祭に復活する大船鉾を含む10基の巡行が見られるかと思うと、今から楽しみです。




 【参考文献】
 米山俊直『祇園祭』中公新書、1974年
 米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』NHKブックス、1986年
 『日本地理大系 7 近畿篇』改造社、1929年
 『京都』京都市役所、1929年
 『日本地理風俗大系 7 近畿地方(上)』誠文堂新光社、1959年
 「月刊京都」2013年7月号(特集・祇園祭の担い手たち)


きょうの散歩 - 三条通の古い店舗 - 2013.8.25





 三条通


 土曜日、日曜日と、京都文化博物館で某セミナーに出席。連日あいにくの雨ですが、土曜の気温は28℃で、ついに真夏日にすらなりませんでした。ほっとひと息。

 文化博物館は三条通に面しているので、行き帰りも三条通を歩いていきます。
 いま三条御幸町角の TULLY's COFFEE で休憩中。

 このカフェは素敵で、北に三条通が見えるうえ、東は美しい近代建築、1928ビル(旧毎日新聞京都支局)が望めるという、絶好の立地にあります。

 三条通は、趣きのある老舗や旧銀行などの近代建築が並んでいて、道路も拡幅を免れたために昔の雰囲気が感じられますね。
 
 先日、林屋辰三郎先生の『町衆』を読んでいたら、冒頭に三条通の話が出てきました。
 この本は、私が生まれた頃に刊行されているので、もう半世紀近く前(1960年代前半)の状況が語られています。
 俗謡の詞に出てくる「三条の糸屋」を探していた林屋先生は、糸屋は見つからなかったものの別の店を見出します。

 しかし、みなさん、糸屋が見つからなくても気をおとすことはない。三条河原町西入北側の角から五軒目に、糸にゆかりのふかい「みすやはり」の古い看板が軒に懸っている。「みすや」は近世のはじめには「翠簾屋[みすや]」と書いており、ずっとむかしは御簾[みす]を商っていたのかもしれないが、元禄のころにはすでに縫針の店として知られていた。近松門左衛門作『浦島年代記』にも「高麗モ、唐土モ及バジ、京羽二重ノ御所染、みすやばり、手縫箔」と書いてある。

 思えば古い店舗で、いまだにむかしながらの屋号のもとに裁縫具や京土産をならべており、こんにち「みすや」は針の代名詞にさえなっている。近代化された店先にも伝統的な看板がよく似あって、京都らしいたたずまいである。そこで私は、この針屋の向いに糸屋を空想して、ようやく満足するのである。

 「みすや」の東隣りには、古くから知恩院に出入りしたという仏具屋さんがある。その店の奥の通路には「大仏師」の暖簾が懸り、寛永の年号のある大仏師補任の口宣案がなにげなく掲げられている。寛永といえば、なお桃山の気分が漂っていた時代、鎖国のおこなわれた時代、そして本阿弥光悦も俵屋宗達も生きていた時代のことである。「大仏師」のまた東隣りには「そろばんや」という本屋さんがあり、この店にも、その屋号のとおり、むかしながらの「御算盤師」という暖簾が懸っていた。

 こうして京の三条河原町という近代的都心にも、寛永・元禄の雰囲気をまざまざと伝えた屋並がある。大名よりも商人たちの町、伝統と近代の渾然ととけあった町、それが京都の歴史と現代のほんとうの姿であろう。(『町衆』5-6ページ)


 ここには、半世紀前の三条通の姿から感じ取った林屋先生の歴史像が語られています。
 付け加えることはないのですが、今朝見たこの界隈の様子を掲げておきましょう。
 みすやも「大仏師」の老舗も、すでに建て替えられています。

 三条通
  河原町三条西入ルの三条通

 三条通
  「大仏師 創業元亀三年 吉田源之丞老舗」

 三条通
  みすや針の看板は二連

 三条通
  「本家 みすや御はり 福井藤原勝秀」

 みすやの看板は二連で少しばかり古そうですが、大仏師のものは新しく作られたものです。
 みすやには奥にも看板が上っているのですが、朝早くてまだ見られませんでした。
 
 『町衆』の写真では、二連の「みすや御はり」看板の間に、下の写真の突出し看板が掲げられていました。

  三条通
  みすやの突出し看板

  三条通
  看板の龍の彫物

 みすやもビルになってしまって、1階には均一ショップが入って随分感じが変わりましたね。
 でも、看板だけは健在というところでしょう。

 こんな通りですので、ごく最近(今年?)できたお店も昔風です。

 三条通
  たい焼き店

 やはり、町の歴史は積み重ねですので、古いものが形を変えながらも何とはなしに現在へと続いているのですね。

 雨は、ますます強く降っています。




 【参考文献】
 林屋辰三郎『町衆』中公新書、1964年


岡本太郎の父・岡本一平が、漫画でルポした京都の寺社と人はユーモラス

人物




岡本一平「京都の神社仏閣巡り」


 手塚治虫がみた漫画家・岡本一平

 芸術家・岡本太郎は太陽の塔を作ったりマスコミに露出したりして、生前つとに有名でした。そのせいで、彼の母が歌人で小説家の岡本かの子、父が漫画家の岡本一平であることも、比較的よく知られています。

 岡本一平(1886-1948)は、大正から昭和戦前期に活躍した人気漫画家でした。
 彼が活動し始めた大正時代の漫画は、現在のようなページ全体がコマ割りされているストーリーマンガではなく、主に1カットで表現するような作品が中心でした。
 その中で一平は、「映画小説」や「漫画小説」といったストーリー性のある漫画を創案しました。映画小説は、映画フィルムのようなフレームに漫画を描いたもの、漫画小説は絵と文章が混在する筋のある長編作品でした。
 また、「漫画漫文」という、文章の中に1コマ漫画をちりばめた作品も数多く制作しています。
 のちの田川水泡(「のらくろ」の作者)や手塚治虫のストーリーマンガなどとは異なった趣きですが、漫画の世界にストーリー性を持ち込んだ先駆者と言える人物です。

  「漫画小説お花見」
  「漫画小説お花見」(『一平全集』15)

 参考までに、手塚治虫の一平評を引用しておきましょう。

 まあ、それがぼくにとっては幸いしまして[注:自宅に漫画全集などがあったこと]、もう楽天[北沢楽天]や、一平を、小学生の頃から知っていたわけです(笑)。
 (中略)
 楽天の絵はすごく外国漫画に近くて、一平の漫画はどこか仏くさい、っていうことに気がついたんです。
 (中略)
 岡本一平は、器用さでいうと楽天の数倍勝る腕があるんです。ペン画から筆画から日本画、南画(中国画の二大流派の一つ。水墨・淡彩で山水を描く)にいたるまで、なんでもこなせる幅の広さがありますから。でも、ワーグマン、ビゴーの流れ、イギリスの『パンチ』のような国際感覚というものは、あまりもちあわせていなかったようです。
 (中略)
 一平は政治漫画を描いても、あくまでも国内政治で、大衆の理解の範囲の中で彼なりのすばらしい政治に対しての見識を出していったわけです。(中略)基本的には、彼は大衆の中にあって、庶民がなにを望んでいるのかを知ったうえで、世相とか流行、人間関係というようなものを、洒脱に描いていったんです。(手塚治虫『漫画の奥義』22-26ページ)


 手塚が見た岡本一平の特徴です。
 最後の「大衆の中にあって、庶民がなにを望んでいるのかを知ったうえで、世相とか流行、人間関係というようなものを、洒脱に描いていった」という部分は、なるほどとうなずかされますね。
 一平は、人間観察とか世相の観察にとても興味があった人だと思います。


 『一平全集』と探訪もの

 たくさんの弟子を持っていた岡本一平は、はやくも昭和4年(1929)に、その名も『一平全集』という作品集が編まれます。昭和4年から翌年にかけて、東京の先進社から15巻にわたって出版されたのです。このとき一平、43歳。すごいことですね。

  『一平全集』
  『一平全集』の函

 全集の第9巻は「探訪漫画漫文集」となっています。いわゆる探訪ものを集めた巻ですね。
 探訪ものは、いろんな土地や施設、仕事などをルポするもので、一平得意の漫画漫文スタイルで画かれています。

  「足尾銅山」
  探訪ものの例「足尾銅山」


 京都の古社寺をリポート

 その中に「京都の神社仏閣巡り」が収められています。
 この作品がいつ書かれたかはよく分かりませんが、大正10年(1921)という年代が出て来るので、それよりもあと、おそらく大正末頃の作品でしょう。季節は夏のようです。
 婦女界社という社名も出てくるので、初出は雑誌「婦女界」に掲載されたものと思われます。

 岡本一平の京都行は、大阪から京都へ向かう汽車から始まります。

 ところが、いきなり車中で懇意の代議士と乗り合わせ、京都駅につくと駅長を紹介されてしまいます。
 ちなみに、この代議士は森田茂という人で、衆議院議長も務め、のちに京都市長にもなった人物です。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
 旅客を指さす京都駅・釜内駅長

 釜内駅長いわく、

 『私は永らく大阪に居まして、それから京都に来たものですが、来た当座、駅員達が今度来た駅長は気忙(きぜわ)しなくて弱るといつとるのをよく聞きました。他国から来た駅員達も、ここに居るとどうしても京都のおつとりした空気に感化されるものと見えます。
(中略)
 『乗客もそうですな。京都駅へ下りるとまづ休養といふ感じのするものですか、プラツトホームの歩き方が違ひます。ご覧なさいね。そうでしよう』(『一平全集』9より、適宜句読点等を施した、以下同じ)


 一平の当初のプランでは、「京都駅へこつそり降り、朦朧車夫の手にかゝり、お上りさん扱ひにされ、彼の出鱈目口上を素直に聴いて廻る積りだつた」。
 ところが、駅長に会ったために、京都駅随一の「勤勉方正の模範車夫」を紹介されたのでした。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  車中でかしこまる秋山模範車夫。胸には表彰のメダルが

 時間がないために、一平は車夫を自動車に同乗させて(つまり人力車には乗らずに!)京都観光するのでした。


 東本願寺から伏見稲荷へ

 駅前の東本願寺に着くと、祖師堂(御影堂)にお詣りします。
 そして、著名な「毛綱」を見るのでした。

 廊下に新潟県の女達が切つた髪の毛で綯(な)つた毛綱が三つとぐろを巻いている。何十万の女人の髪の毛だ相で、堂の棟木を上げるのに使つたもの。麻の綱ではどんなに強いものでも断れてしまふのを毛綱は籠められた信仰力で決して断れないといふ説明、摩れた外側の毛は赧(あか)くなつてる。
 女の髪の毛がこんなに集まつたのを見ると、それがたとへ解脱に向ふ浄念より切放つたものであるとも、感じは女の執念といふ事を思はせる。女の髪といふものは、それだけ女の魅力を帯同して居るものだ。


 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  左端の黒いものが「毛綱」

 東本願寺の明治時代の再建時、木材の搬出、運搬にあたって曳行用の綱として編まれたのが「毛綱」です。麻と女性の髪を綯い交ぜにしているそうです。富山、新潟、秋田など全国から53本が寄進されたといいます。

  東本願寺・毛綱
  新潟県から寄進された毛綱

 以前は露出展示してあったと思いますが、今はお堂が工事中のためか、ケースに入れられています。

 続いて、伏見稲荷へ。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
 稲荷山の千本鳥居

 千本鳥居は昔も今も、同じ風景ですね。

 伏見稲荷・千本鳥居

 まず一平が注目したのは、土産物屋。

 勾配の石畳の両側に伏見人形を売る店がずらりと並んでる。この頃の名所旧蹟の売店は商売上手になつて、そこの特色の名物を売る外、各地各所の名物で趣向の面白いもの、買付きのよろしきものはどしどし模倣(イミテーション)をやり、自分のところのもののような顔をして売る。
 従つてここの店等にも、伏見人形の外に、宮島の杓子もあれば箱根細工もある。名物のデパートメントストアだ。
 鳥居を売つてる店がある。祈願者が買つて奉納するのだ。入つて値を聴くと、一番廉いのが十四円、高価(たか)いのでは『一億円でも二億円でも、なんぼでも拵(こしら)へます』


 大正時代ともなると、こんな雰囲気の土産物屋でした。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  伏見稲荷の参詣者

 上の絵の説明は……

 足拵(あしごしら)へ厳重、身なり構わず軽装した家族の一体[隊]が、籠に果物やら餅やら魚の干ものやら酒やらを入れたのを提げて山へ向つて上つて行く。これは『お火焚き』といつて家々で神祭りをする、その供物を更に山の末社へ分け供へに上る人達だそうな。
 洋服を着て附紐(つけひも)草履を穿[履]いて肩から水筒を下げた少女が一つの小社の前に立停り 『おかァん。この神はん、なにあぎよ』
 母らしき女 『小(ち)つこいもんでゑゝぜ。まだ先に大事な神さん、ぎようさん[仰山=たくさん]居やはるわ』
 かくてこの社は、瓦煎餅一枚、はじけ豆三粒で我慢させられた。
 神詣りを遊山気分に混ぜ、趣味生活の一部に供するところ、よく京都人を表して居る。


 岡本一平らしい、細かい人間観察を示していますね。


 子の出来る茶碗

岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  疏水と馬に乗る女性

 伏見稲荷を発つと、疏水に沿った師団街道を北上します。
 師団街道では馬に乗る女性2人に擦れ違います。不思議に思うと、模範車夫は『あら伯楽(ばくろう=博労)の娘どす。(中略)みな競馬に出やはります』と教えてくれました。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  行く手を遮る荷車

 さらに、一平らが乗る自動車の前を遮る荷車が。余りにのろのろしているので、なぜかと思えば、豆腐売りの荷車でした。
 このあたりのスケッチも、なかなか巧みなものがあります。

 清水寺に着いても、一平の関心は人に向かいます。
 轟餅(とどろきもち)を売る茶屋。そこで見たもの。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  茶屋の兄妹

(前略)世にいふ忠僕茶屋だ。重助君[大月重助]の方の茶屋に入る。経営してるのは重助の孫に当る兄妹六人だ。二番目の弟が末の妹に夏期温習帳の文法のところを面倒みてやつてる。
 『上げるの反対やつたら判るやろ。なに判らん、しようも無い女やな。上げるの反対やつたら下げるやないか』
 兄にいはれて、妹は一言も無く温習帳に『下げる』と書き入れている。


 「温習帳」は、おさらい帳くらいの意味。夏休みの宿題に苦労する妹を兄が見てやっている光景です。
 そのキビしさが妙にリアルですが、こんなことも一平の手にかかると漫画漫文になってしまいます。

 清水寺の参詣道には清水焼の店が多く、一平は「子の出来る茶碗」というものを見つけます。男と女の飯茶碗にコウモリの絵が描いてあるものです。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  「子の出来る茶碗」と八坂神社の「茅の輪」

 『これでおあがりやすと、必ずお子達が生れはりやす』
 現に生れた証拠だとて、写真入りの説明書を見せた。戸貝晴美君といふ子の生れた表には次の如く書いてある。
 茶碗使用年月 大正九年八月
 妊娠年月 大正九年十二月
 出産年月 大正十年九月十六日
 茶碗を使つてから四ヶ月目で茶碗の効力が現れてる表になつてるのを見ると微笑させられる。


 これもおもしろい。ありそうな話ですね。
 一平は、2円30銭払って、この夫婦茶碗を買いました。ちなみに自分で使いたいわけではなく(笑)、編集部に届けさせるのだそうです。


 瓢亭で食事

 その次は、八坂神社。
 禰宜さんが石灯籠にホースで水を掛けていますが、それは有名な忠盛灯籠でした。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  忠盛灯籠に水を掛ける禰宜と芸妓

  八坂神社・忠盛灯籠
  現在の忠盛灯籠(八坂神社)

 旅の終わりは、瓢亭での夕食。ふだんは夕方6時に閉店なのだそうですが、森田代議士の尽力で特別に夜間営業。

 岡本一平「京都の神社仏閣巡り」
  瓢亭で食事する森田代議士、印刷会社社長、一平

 瓢箪の形の陶器が出る。模様は瓢箪の葉に山陽外史[頼山陽]の一帯青松路不迷の七字。蓋を除(と)ると一重目の皿にはずいきの胡麻よごし、二重目にはきやら蕗(ぶき)、沢庵、瓜の塩漬、茄子の味噌漬、らつきよ。三重目の瓢箪の尻には煮百合、茄子の鴫焼(しぎやき)、この外にゆで玉子半に切つたのが四つ、茹で加減毎日寸毫の相違も無いのが自慢だそうな。豆腐の汁が一ぱいつく。
 粥は、白粥に葛あんをかけて食ふ。
 さまざまの味に飽きて舌が枯淡に返つた贅人の食ふ食物と京都ではこれがなつてる。


 ウェブサイトを見ると、今でも瓢箪形の器には頼山陽の字句が書かれているそうで、名物は朝がゆ。
 ずいきや半割のゆで玉子(名物「瓢亭玉子」)など、当時と同じような食材が供されているようです。
 
 最後に北野天満宮に行き、25日の天神さんの縁日を見てお終い。
 一平は、「京都では金儲けのお詣りは伏見稲荷、学問勉強はこゝ[北野天満宮]、ぢゝばゝの詣るは本願寺、植木の買出しは東寺の縁日となつているそうだ」と記しています。

 それにしても、自動車を使っているとはいいながら、なかなかの弾丸ツアーですね。
 そして、掲載されている絵をすべて載せたのですが、名所の風景らしいものは稲荷山の千本鳥居くらいで、清水の舞台すら画かず、もっぱら人物の絵ばかりです。人間観察、人物描写を得意とした一平の真骨頂です。
 参拝者、働く人、通行人、そして土産物まで、実に見る目が細かい。ずっと読んでいたい、見ていたい気がする名ルポですね。


  岡本一平「京都の神社仏閣巡り」




 【参考文献】
 『一平全集』第9巻、15巻、先進社、1929-30年
 清水勲編『岡本一平漫画漫文集』岩波文庫、1995年
 清水勲『漫画の歴史』岩波新書(赤172)、1991年
 手塚治虫『漫画の奥義』光文社知恵の森文庫、2007年


先斗町歌舞練場、狭斜の巷にそびえるアジア的な造形に見惚れる





先斗町歌舞練場


 昭和初期に完成した歌舞練場

 前回ご紹介したように、明治5年(1872)、裏寺町の狭い寄席から端を発した鴨川踊りは、幾度かの移転や改築を経て、大正末、新たな段階を迎えます。

 大正14年(1925)、春の鴨川踊りを終えた後、先斗町で敷地を買収し、歌舞練場の新築を試みたのでした。370坪余りの敷地に、間口20間4分(約36.7m)×奥行15間(約27m)、建坪約296坪、延床面積約1,201坪(約3,965㎡)の建物を完成させました。昭和2年(1927)3月のことです。
 ちなみに、その2年後に完成した南座と比較すると、同じく地上4階・地下1階建ですが、建坪約543坪、延床面積約1,972坪ですので、南座が約1.6倍の床面積を持っていることになります。

 先斗町歌舞練場は、関東大震災後の建築ですので、耐震耐火の鉄筋コンクリート造を採用しています。
 内部は、1階には舞台と観覧席、待合室などを設け、2階には特等観覧席、3階には一等休憩室や点茶室などがあり、最上階は特等休憩室と点茶室、それに加えて展望室がありました。地下には、食堂のほか、炊事場や電気室が置かれています。

 先斗町歌舞練場(『京都』より)
  広い間口を持つ舞台(『京都』より)

 舞台の間口(幅)は、75尺(=12.5間)といいますから約22.5m。方角は、東(鴨川の方)を向いています。
 この間口は、東京の歌舞伎座(1924年竣工)の15間には及ばないものの、南座よりは広いですし、戦後の東京・国立劇場と同等の幅になっています。かなり頑張った間口で、関係者の意気込みが伝わってきます。平面プランの工夫として、南北に長い敷地を活かすため、舞台とエントランスが南北に並列する形にしています。つまり、エントランスに入って、左側に舞台と客席があるという形。南座のように、エントランス→客席→舞台と南北に並ぶ平面ではありません。狭い敷地ならではの工夫といえるでしょう。
 ちなみに、舞台の奥行は浅く37尺(約11m)で、舞台の裏の扉を開けると、直接先斗町の通りになるという、驚きの構造です。

  先斗町歌舞練場 先斗町歌舞練場
  先斗町の通りに面した搬入口。このドアの中が舞台になる


 工費は100万円?

 舞台の大きさが関係者の意欲を示していると言いましたが、そのひとり寺井徹郎の言を引いておきましょう。

 この精神が動機となつて殊に東に都踊り、西に鴨川踊りありと謳はれた五十年の歴史を有する春のヲドリをして益々向上発展世界的にする必要に迫られ、一大決心をもつて百万の大資金を投じて現在の歌舞練場を建築したのである。
 私等の理想からいへばまだまだ大規模のものを考へたけれど地域に限りがあると建築法に制限されて遺憾ながら現在のものが世に出た訳である。(「先斗町」、『京都新百景』1930年所収)


 この百万円という数字は他の書物にも見えます。正確な額ではないかも知れませんが、おおむね百万円なのでしょう。
 ちなみに、大正7年(1918)竣工の大阪市中央公会堂の建設費も百万円でした。大正末頃の小学校教員の初任給が50円程度ですから、単純に換算できませんが、今の感覚で数十億円に相当するでしょう。一花街が出す金額としては驚異的とも言えます。


 劇場建築家・木村得三郎の設計
 
 この建物は、数々の劇場建築を手掛けた大林組・木村得三郎が設計しました。木村は、大阪の松竹座、東京劇場、京都の弥栄会館などを設計した名手。弥栄会館については、こちらをご覧ください。 ⇒ <屋根のラインが美しい弥栄会館は、名手・木村得三郎の力作>

  大阪松竹座
  木村得三郎が設計した大阪松竹座(1923年)

 さて、先斗町歌舞練場ですが、まず鴨川側(東側)の外観を見てみましょう。
 三条大橋を渡って鴨川左岸から見ることができます。

 先斗町歌舞練場

 左右非対称ですが、右手に舞台と客席、左手にエントランスや待合室が置かれています。
 
 ところが、これも当初のままではなく、右側部分が増築されているのです。
 こちらが、竣工後の写真。

 先斗町歌舞練場(『京都名勝誌』より)
  竣工まもない先斗町歌舞練場(『京都名勝誌』より)

 先斗町歌舞練場
  現状

 「鴨川をどり」の文字看板が取り付けられた部分が、川側に出っ張るように増築されています。
 窓の雰囲気が変わって、デザイン上のインパクトは減少していますね。

 先斗町歌舞練場

 左側の2・3階の三連窓と八角窓など、いい感じですね。

 先斗町歌舞練場

 窓と窓の間には、テラコッタを用いています。
 壁面のベースは、スクラッチタイルです。

 先斗町歌舞練場
  北端の窓

 六葉のような飾り金具も素敵でしょう。中心にフックが付いています。

 先斗町歌舞練場


 狭い通りに広がる雄大なデザイン

 次に、先斗町の側を見ていきます。

 先斗町歌舞練場

 先斗町歌舞練場
  玄関

 南側に開き戸が2つ付いています。比較的こじんまりとした玄関ですね。

 先斗町歌舞練場

 スクラッチタイルです。細長いフォルムになっています。

 先斗町歌舞練場

 こちら側の壁面に多用されるテラコッタ。花卉文と無地とが交互に貼られています。

 先斗町歌舞練場

 舞台への搬入戸の上部。竜山石に幾何学文様を刻んでいます。

 先斗町歌舞練場

 そして、鬼瓦は蘭陵王をモチーフにしています。


 「東洋趣味」の建築

 ここまで見て来て、全体に“土”の色彩と香りがするというか、黄土色っぽいアジアの大陸をイメージさせる造形が濃厚です。

 その典型は壁面から屋根にかけてでしょう。

 先斗町歌舞練場

 茶褐色のスクラッチタイルを貼りつめた壁面と、随所に用いられる黄土色の柔らかな竜山石。
 そして緑色に鈍く光る菊文をあしらった丸瓦と六角瓦のライン。直線的な屋根のラインは、後に設計する祇園・弥栄会館に引き継がれます。
 竣工時、この建物は「やゝ質素なる東洋趣味の近代式洋館」(『京都名勝誌』)などと形容されました。

 この「東洋趣味」的なデザインは、木村と同じ大阪で活躍した建築家・安井武雄との相同性を感じさせます。

 高麗橋野村ビル
  安井武雄・高麗橋野村ビル(1927年)
 
 奇しくも同じ昭和2年(1927)に完成した高麗橋野村ビル(大阪市中央区)は、黄土色の外壁や水平な軒瓦のライン、細部のテラコッタへのこだわりなど、先斗町歌舞練場との共通性を持っています。
 安井には、これより先、大阪倶楽部(1924年)という佳品があり、壁面こそスクラッチタイルではないものの類似の色彩を持ち、竜山石の使い方など「東洋風」の作品となっています。

 木村と安井の影響関係はよく分かりませんが、同時代のデザイン感覚として留意しておきたいと思います。

 いずれにせよ、道幅3mほどの先斗町に、このスケールの歌舞練場を建設するという途方もないプランに言葉を失います。
 この建物が好きな私は、三条大橋から河原町に抜ける時、わざわざこの前を通っていくのですが、あの壁面の迫力にいつも圧倒されるのでした。木村得三郎は「劇場建築の名手」と言われますが、その一言では済まない、デザインに対する執着と個の強さを感じさせるのです。


  先斗町歌舞練場




 先斗町歌舞練場

 所在 京都市中京区先斗町三条下る
 見学 外観自由 内部は鴨川をどり等の開催時のみ
 交通 京阪電車「三条」から、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『京都』京都市、1929年
 『京都新百景』新時代社、1930年
 石田潤一郎『関西の近代建築』中央公論美術出版、1996年
 山口廣ほか『近代建築再建 下巻』エクスナレッジ、2002年
 『新築南座観劇手引草』松竹土地建物興行、1929年


花街・先斗町、鴨川をどりと歌舞練場





鴨川踊り(『京都』より)


 五花街のひとつ、先斗町

 今回は、私の好きな名建築のひとつ、先斗町歌舞練場をご紹介しようと思うのですが、その前に花街・先斗町の歴史を紹介しなくてはなりません。

 現在の京都の花街は、祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒からなっており、祇園甲部と東、宮川町は鴨川の東、先斗町は川の西、上七軒は北野(天満宮の東)にあります。

 鴨川の右岸に沿って南北に細長い先斗町(ぽんとちょう)。花街としても観光名所としても名高いのですが、私は専ら四条通、河原町通の混雑を避けるための“迂回路”として通ることが多いでしょうか。夜の風情が知られますが、朝はやく、寝起きのような通りもまた素敵です。 
 その先斗町、「ぽんと」という変わった地名の語源が取り沙汰されるのですが、今回そのあたりは別の資料に任せて、町の由来から見ていきましょう。

  先斗町歌舞練場

 「京都先斗町遊廓記録」や「京都府下遊廓由緒」によると、先斗町の成立は、寛文10年(1670)、鴨川の石垣などの整備が行われた時点にさかのぼります。その4年後、初めて5軒の家が建ったといいますから、それまでは鴨川べりの人家もない河原だったのでしょう。
 先斗町という名も案外古いらしく、元禄頃(1688-1704)の史料にもその名が見えるそうです。一方で「新川原(河原)町通」という名称もありました(これは近代になっても使われています)。
 正徳2年(1712)になって、生洲株が認められ茶屋や旅籠が営まれ、茶立女が置かれたといいます。これが花街・先斗町の公式なスタートと言ってよいでしょう。

 先斗町の範囲ですが、北から見て、三条大橋の西詰にある瑞泉寺南側の道、ここをカギの手に曲がって、橋下町、若松町、梅木町、松本町、柏屋町と続き、四条通の南の斎藤町に到ります。最初のカギの手に曲がる道は、現在は木屋町通に抜けていますが、昔は突当りでした。


 鴨川をどりの始まり

 先斗町歌舞練場(『京都』より)
  昭和初期の鴨川踊り(『京都』より)

 「鴨川をどり」の始まりは「都をどり」と同じで、明治5年(1872)に開催された京都博覧会の付属イベント(附博覧=つけはくらん)としてでした。
 この附博覧の踊りは、従来の座敷での舞ではない「総踊り」として新たに創案されたスタイルで、今日まで続いているものです。
 都踊りは祇園の林下町(祇園新橋)の松の家で行われたのですが、鴨川踊りの方は裏寺町の大竜寺付近の烏須沙摩図子(うすさまずし)にあった千代の家で開催されました。
 図子=辻子は路地のことで、この図子は現在の四条河原町交差点の北西角にあるみずほ銀行の左脇を入って行くあたりになるようです。
 このときは、会場も狭かったため、踊子12名、地方(じかた)7名、小鼓2名、大鼓1名、太鼓2名で、「都の賑ひ」という唄を作って行ったと、「京都先斗町遊廓記録」は記しています。


 一旦中止になったことも…

 先斗町歌舞練場(『京都』より)
  昭和初期の茶席のようす。立礼により行っている(『京都』より)

 好評をもって迎えられた鴨川踊り。会場であった烏須沙摩図子の千代の家も、明治8年(1875)、改築され、舞台や花道が修理されました。
 その後、明治10年代には出演する芸妓の数も50名規模となり隆盛を迎えましたが、景気の低迷により、明治16年(1883)をもって一旦中止となりました。

 明治24年(1891)からしばらくは、年に3日くらい温習会を開催していましたが、明治28年(1895)、平安遷都1100年の記念祭が挙行されるに当たり、先斗町に歌舞練場を新築し、鴨川踊りが復活します。
 さらに、明治35年(1902)、この年は菅公千年祭(菅原道真の没後1000年)が執り行われるということで、多くの観光客が見込まれました。そこで、先斗町でも歌舞練場を改築することとし、前年の鴨川踊り終了後、秋の温習会を中止して突貫工事を行いました。明治35年2月、建物を落成し、例年より早く4月1日から20日まで鴨川踊りを開催しました。
 

 昭和初期の先斗町と芸妓

 先斗町の夕(『全国花街めぐり』より)
 「夏宵価千金 先斗町の夕」(『全国花街めぐり』より)


 戦前の花街のことを知る時は、まず松川二郎『全国花街めぐり』(1928年)を繙いてみます。もちろん、先斗町も取り上げられています。

 私は実は祇園の方は深く知らない、京都で遊んだといふは主に先斗町だつたからである。京のあそびは祇園に止めを刺すことは言ふ迄もなく、先斗町では決して本当の京の花街情調は味へるものでない、が、是れは誰でもいふ所だが祇園の芸妓は取付きがわるい、馴染の妓でもあるか、行つけの友達と一緒にでも行けば面白いけれど、旅の客なぞがたとへ一流の旅館から紹介させて行つて、一流の茶屋で、一流の美人を招んで遊んで見たところで、一向何の変哲もない。きちんとお手々を膝に置いて、人形然と座つて居るばかりである。老妓となれば流石にさうでもないが、そして近来大分此の妓風は脱けて来てはゐるが……。
 その点にゆくと先斗町は初会から親しみ易く、気分が何程か東京風を帯びてゐる。芸妓ばかりでなく、仲居も、女将も、花街全体がさうしたカラアの処である。それは全たく、川一筋でかうも気分が異なるかと不思議に感ぜられる位だ。少し浮ツ調子で安直な代り、それだけ現代的といふか、兎に角東京者には最初はこゝが遊びいゝ。
 こゝには娼妓は居ない、純然たる町芸妓風で、踊りも祇園とはちがつて此処は若柳である。それに又花街そのものが小さく、小ぢんまりとして居ることなども、遊びよい一つの原因ではないかと考へる。(497-498ページ)


 全国の花街をめぐった松川二郎の体験的評価です。先斗町のこじんまりとした親しみやすさが好意的に受け入れられています。

  先斗町の芸妓・吉枝(『全国花街めぐり』より)
  芸妓・吉枝(『全国花街めぐり』より)

 松川によると、先斗町を代表する芸妓には、湯口吉枝、長谷川卯の子、中川市龍、高野市彌、三上喜久彌、浅田市代らがいます。いずれも舞踊に秀で、常磐津や太鼓などの得意があり、点茶にも通じているといいます。
 上の写真の吉枝さんは、容色の面で松川が押す一人。面長でどちらかといえば「東京タイプ」だそうですが、「実は京美人系にも此の面長の一派がある」と指摘しています。

 此型の顔には、所謂京美人特有の夢見るやうな仇つぽさはないが、その代り受唇、出目等の欠点から免がれて居る。京美人の標準タイプとは言へないが、兎に角、京美人にも二系統あることを一言しておきたい。(501ページ)

 なかなか、こだわりますね。
 あまり美人写真を載せるのも何なので控えますが、『全国花街めぐり』をみると、土地や花街によって「美人」のタイプがまちまちなのに気付かされ、興味深いです。
 
 昭和3年(1929)の昭和天皇即位礼(「御大典」)のあった年、4月10日から開催された鴨川踊りでは、上記の綺麗どころ、吉枝、卯の子らが女神に扮して「平和の国」を踊り、また山岸荷葉の新作「春の光」は場面転換のある段替し(八段)で壮麗に上演されました。
 その舞台となったのは、新装まもなかった先斗町歌舞練場、すなわち現在の建物でした。
 
 次回は、この歌舞練場について、ご紹介しましょう。


  先斗町




 先斗町

 所在 京都市中京区橋下町、若松町ほか
 見学 自由
 交通 京阪電車「三条」または「祇園四条」から、徒歩約5分



 【参考文献】
 「京都先斗町遊廓記録」1928年(『新撰京都叢書 9』所収)
 「京都府下遊廓由緒」1872年(同上所収)
 松川二郎『全国花街めぐり』誠文堂、1929年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『京都』京都市、1929年
 

ご愛読ありがとうございます - ブログ1周年 -

その他




比叡山


 京都の歴史と文化財をリポート

 この≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫、おかげさまで1周年を迎えました。
 ご愛読、ありがとうございます!

 2013年8月12日にスタートして、書いてきた記事は122本。
 京都の歴史や文化財にこだわって、現地からリポートしてきました。
 撮影した写真も、未掲載分を含めると、約5,000カットに上ります。


 リポート・執筆の舞台裏

 今回は1周年ということで、このブログがどういうふうに書かれているのか、少し披露しておきたいと思います。

【ネタ集め】
 ネタ帳を作っているわけではありませんが、思い付いたことがあると、エバーノートにメモします。

 基本は、自分が見たい寺社、史跡、文化財などをピックアップして、心に留めておきます。 
 また、季節ごとにある特別公開の情報や展覧会情報などにも注意しておきます。

 文化財公開パンフレット
  文化財公開パンフレット

 もちろん、日々いろんな資料を見ることにも努めています。
 特に、江戸時代から戦前くらいにかけての古い本からネタ集めをするのが好きです。これは、そのまま<京都本>という形で原稿にすることもあります。
 「都名所図会」なんて手垢が付いていると思われがちですが、観点を変えて見ると意外なネタにあふれています。
 古い本を読むことは、先人が京都の歴史や文化財をどのように研究し、考えていたのかが分かるので、とても勉強になります。

 江戸時代の版本
  江戸時代の版本

 また、折にふれて年中行事に訪れることも。
 ただ、仕事の都合でタイミングが合わないことが多く、残念です。


【現地を訪れる】
 興味がわいてきたら、実際に現地を訪れます。

 ブログには、原則、現地で撮影した写真を掲載しますので、行かないと話が始まりません。休みの日に訪れますが、時には仕事帰りとか、仕事に行く前! に訪問することも。時間がないときのウルトラCですね。

 清水寺門前
  清水寺の門前

 現場でモノを見る時は、とにかく自分の関心に即して見ていきます。
 そういう意味では、ガイドブック的な知識は余り参照していなくて、自分の琴線に触れたものだけを見ていると言っても過言ではありません。ただ、気になるポイントを見付けると結構しつこく観察する方ですね。

 行く前の下調べ(予習)は、余りしません。むしろ、帰ってきてから引っ掛かったポイントについて調べることが多いです。
 その際、現地で撮った写真が役に立ちます。かなりの枚数を撮影しているので、さまざまなカットをディスプレイで拡大したりして、見直します。デジカメの便利なところですね。


【“三種の神器”】
 調査に行く時、何を持っていくのか。だいたい、3つか4つくらい。

 単眼鏡・ライト・メモ帳
  “三種の神器”?

 まず、メモ帳。
 これは、ロディアの5×5、方眼になったものに、カバーを付けて使っています。ペンは、フリクションを2、3色(ただし、博物館等ではシャープペンシル)。
 建物の平面図、石造物の刻字をはじめ、気になったことをメモしていきます。小型のメモ帳ですが、ペンと一緒にポケットに入るところが便利です。
 平面図は、たいていは書物に掲載されているのですが、自分で画くと、観察力が格段にアップするので、時間が許す限り画くようにしています。

 単眼鏡とライトも持っていきます。単眼鏡は、仏像や絵画、建築など、どこでも活躍します。博物館の展示などでも単眼鏡で拡大して見ると、思わぬことに気付いたりします。
 ライトは、暗い所を照らすためと思われがちですが(禁止のところが多い)、石造物の刻字を見る時に便利です。斜めから光を当てると、文字が浮き上がって見えるのです。案外に、屋外で使用すると役立つ逸品です。

 これに加えて、1眼レフのカメラを持っていきます。ふだんは18-50mmの広角レンズで、建物を撮る時に重宝しています。望遠レンズは重いので余り装着しません。


【寺社で買うモノ】
 訪れた寺社で必ず買うのが、そこで発行している小冊子(案内書)です。
 近年は各寺社とも売店が充実していますが、一般書籍ではないオリジナルの刊行物を買い求めます。昔ながらの案内書の場合もあれば、寺社付属のミュージアムが刊行している図録もあります。学術的に立派なものも多いですし、ほかには書かれていない情報が載っている場合も多いので貴重ですね。

 寺社の小冊子
  寺社発行のオリジナル冊子


【原稿の執筆】
 撮った写真は、ブログにアップする前に、画像加工しています。これで、下手な写真も少しはマシに?

 原稿を書く際は、事前に文献を調べるように努めています。自前の文献で間に合うこともあるし、図書館などへ調べに行くこともあります。

 日本の美術
  意外に重宝する「日本の美術」。休刊になったのが残念!

 調べ物は、できるだけ古い文献に当たるようにしています。ふつうは、最新の研究成果を、というところですが、私たちの社会はすべて先人が積み重ねたものの上に成り立っているわけですから、昔の人たちが何を見、何を考えたのかを知ることは、とても大切です。そういう意味で、現在の論文も参照するけれど、過去の文献も見るようにしています。

 執筆で心掛けていることは、まずは出来るだけ「常識」的なところを押さえて、考えていくということ。そして、その上で少し飛躍してもいいので、いろんな推測、憶測を交えてみることです。
 過去の人たちの行動や気持ちを知ろうとすると、史料では掴み切れないことが一杯あります。しかし、“史料で分かることはここでお終い”とはせずに、その先を推測してみることが重要。ブログは学術論文ではないので、むしろ往時の人々がどのような境遇や心情で生きていたのかを知り、共感することが大切だと思います。そのためには、時に飛躍することが必要になってきます。
 そこまで踏み込んで書いている回は少ないと思いますが、そういう面にも注目して読んでいただけるとうれしいです。


【ブログのアップ】
 記事は、3日に1度アップしますが、これがなかなか大変。
 休日か晩に書くことが多いのですが、電車の中で書くこともあるし、カフェなどで執筆することもあります。
 アップする日の夜に予定が入っている時は、前日に書いておくわけで、これもまた苦労するところですね。

 期日になると、だいたい23時台にアップします。
 日よっては、結構必死だったり(笑)
 

 ブログの恩恵

 1年間つづけてみて、守備範囲が広くなった気がします。
 自分の意識が変わったなぁと思うのは、いろんなことに関心を持つようになったこと。以前は「これは自分の専門じゃないし…」と勉強しなかったのですが、ここに書かなければならないので、少しでも書物を見たり考えたりするようになりました。すると、知らず知らず興味の幅も広がっていったのです。
 これは自分でも驚き。私は、もうそれなりの年齢なのですが、新しい分野にも興味が出てきました。

 さらに、これまで自分が考えてきたことに、新しい関心をプラスすることで、少しばかりオリジナルな思考もできるようになってきました。ますます、おもしろさがアップしているところです。

 そんなわけで、また3日後から、第2年の≪京都発! ふらっとトラベル研究所≫が始まります。
 ご愛読、よろしくお願いします!


  百日紅 百日紅



テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術

社会に対する強い「信頼」が生んだ学問 - 森浩一先生を悼む -

その他





 寝苦しい8月6日の夜、私の夢もまた取り留めのない内容の羅列だったが、そのひとこまに森浩一先生が出て来た。先生は、遺跡とすら言えないような崖下の小さなほら穴に身体を横たえて入って行かれる--そんなワンシーンだった。

 その日の晩、先生は85年の人生を終えられ、長い旅に発たれていた。

 2013年8月10日の朝刊各紙は、考古学者・森浩一先生の訃報を伝え、私も朝、その記事を目にした。
 改めて、森先生の学問とは何だったかを考えた。それは、いつも繰り返し考えてきたことだったけれど、やはりまた考え直さずにはいられない問いだった。

 私が学生だった1980年代、50歳代だった先生は意欲的に全国の遺跡を巡られていた。
 毎週の授業では、その週末に訪れた遺跡の話などをされるのが常で、同じことは新聞やテレビでも発言されていた。また、交流した内外の学者たちと語り合った話題も、私たちに披露された。
 そのような日々の活動は、『考古学西から東から』(1981年)、「アサヒグラフ」の連載(1988-89年、『交錯の日本史』として刊行)などの著述となった。『考古学西から東から』について先生は、「“西から”でないとあかん」と言っておられたような気がするが、それは首都・東京=東を中心とするモノの見方に対するアンチテーゼの表れだったといえる。

 京都新聞も紹介していたが、その後のモットーは「考古学は地域に勇気を与える学問」だった。
 けれども私は、その点をもう少し敷衍して考えている。

 森浩一という学者の基本的なスタンスは、学問は社会と接点を持つ、ということだった。
 裏を返せば、象牙の塔に閉じこもる専門家はダメである、ということだ。なぜダメかといえば、専門家だけで“サークル”を作って研究活動している人たちは、一般人は難しいことを言っても分からんだろう、と高をくくっているからだ。
 先生は、「いま“考古学ブーム”というけれども、一過性のブームとは違う。昔から知的レベルが高くて関心を持っていたのだ」と言っておられた。先生自身が社会に接する際、この社会の知的レベルは高いのだ、という前提が根っこにあった。このことが、市民に広く考古学を普及する活動につながっていた。

 その考えがよく表れた編著として『考古学の先覚者たち』(1985年)がある。主に江戸時代の各地の民間学者を紹介した書物で、先生の著作中で私が好きな一冊だ。

 考古学の先覚者たち

 少し長くなるが、その総説「土の中の思想家たち」から引用しておきたい。

 私はかつて江戸時代の広義の考古学の研究者にたいして“町人学者”というよび方をした。(中略)このような伝統は明治・大正・昭和と学問の底流として横たわっていたが、昭和三十年代後半からは急速に影をひそめ、考古学は変貌してしまった。(中略)
 “町人学者”を支えていたものについて、それぞれの身分・職業・境遇などで一概に論じることはできないけれども、日本人の知的関心の層の厚さを見落としてはいけない。今日も大阪府藤井寺市の修羅の出土地や奈良県高取町の束明神古墳、あるいは群馬県高崎市の日高水田遺跡などの発掘の現地説明会(略して現説)には一万人前後の人たちが集まったし、ごく普通の発掘の現地説明会をひらくと数百の人たちが集まるのは日常的なことになってきた。それらの人たちを冷やかに、野次馬的な集団だとか、専門研究の進行をさまたげるなどという見当違いの批判が一部にあるのは真に遺憾なことだが、それはさておき考古学に関心をもつ人たちの層の厚さは、日本人のたゆまざる知的好奇心のあらわれだと私は評価している。


 これに続けて、E・モースの講演会に大勢の聴衆が集まってモースを驚かせたことや、「東京人類学雑誌」に弱冠17歳の浜田耕作が論文を寄せたことなどをあげて、町人学者の創造的な学問の基盤に、裾野に広がる人々の層の厚さを指摘している。
 この引用文には、実に端的に先生の思いが現れていると思う。

 分かりやすく語れば誰でも分かる。分かってくれば自ら学ぶようになる。社会の誰もが、学問を自らの手に入れ、自分の頭で考え、自分の言葉で語る--おそらく、それが森先生の考えていたあり得べき社会の姿だったと私は思う。
 そうでなければ、あれだけ新聞やテレビで発言し、全国で講演し語り続けた精力的な活動を理解することができない。

 20年余り前、就職が決まった私は、森先生にその報告をしに行った。そのとき先生が言われたのは、社会に出るのはええこっちゃ、というものだった。
 象牙の塔に閉じこもる研究者の態度に、苦虫を噛み潰していたのだった。

 社会ってなんだろうか。

 たぶん森浩一の目に映っていた社会は、種を播けば、目が出、花が咲き、結実する、肥沃な土壌だったに違いない。その土壌を耕し種を播く活動を日々行っていた。メディアで発言するのも、学生に語りかけトレーニングさせるのも、その根底は同じだった。
 そこには、社会に対する強い「信頼」があったのだと、私は思う。それは、人に対する信頼と言い換えてもいいかも知れない。社会を信頼していなければ、その可能性を信じていなければ、耕し種を播くことはできないはずだから。

 先生が「官」嫌いだったということはよく言われる。それはたぶん、官というものが民をバカにし、上意下達で物事を行おうとすることへの憤りだったのだろう。しかし、それは官嫌いというよりも、「民」を信じるという立場の裏返しだった。民を信じるからこそ、民をバカにする官が許せないのだ。
 そして、その「民」とは、“ミン”であると同時に“タミ”なのだ。社会を構成している民(タミ)を信頼するという思想が、森浩一の根本にあったと思えてならない。

 最近、世の中で生きることは「泥」の中で生きることだと達観しかけていた私だったが、今日改めて森先生のことを思い出して、これからは、社会は「泥」ではなく「豊饒な土壌」だと思うことにしよう、と考え直した。その方が、先生から受けた教え--学問は社会と接点を持つ--に叶う捉え方だと思うからだ。

 もう先生の話を聞く機会がないと思うと少しさびしいけれど、人は死んだら終わりになるというわけでもない。これからも折に触れて懐かしい事どもを思い返しながら、森先生と共に過ごしていきたいと思う。

 森浩一先生のサイン
 『僕は考古学に鍛えられた』(1998年)に
  あつかましくもいただいたサイン


めやみ地蔵は “雨止み” 地蔵

洛東




めやみ地蔵


 四条通の目疾地蔵

 鴨川の東、四条大和大路を東に入ったところに、目疾地蔵という小さな寺があります。

 めやみ地蔵   めやみ地蔵

 「目疾」と書いて、「めやみ」と読ませています。門前の標石は仮名書きです。「めやみ地蔵尊」とありますが、寺名は提灯にもあるように、仲源寺という浄土宗の寺院です。

めやみ地蔵

めやみ地蔵

 四条通に門を開き、本堂も北向き。狭い境内ですが、眼病平癒に霊験あらたかということで、参詣者が絶えません。

 江戸時代の「都名所図会」巻2(1780年)には、次のように記されています。

 仲源寺ハ四条大和大路の巽の角にあり。浄土宗にして智恩院に属す。本尊地蔵菩薩ハ土中出現の尊像なり。[一説にハ定朝の作なりとぞ] 世の人、目疾地蔵と称す。病気平癒の祈願をすれバ霊験あり。実ハ雨止地蔵也。往来の人、驟雨の時、此堂に宿りしと也。

 本尊の地蔵菩薩は、土の中から出現し「目疾地蔵」と呼ぶけれど、本当は雨宿りする「雨止み地蔵」なのだと、端的に記しています。

めやみ地蔵   めやみ地蔵
 「都名所図会」より「仲源寺」。提灯には「目疾地蔵尊」とある

 ところで、この項に続く「宮川」の項は、目疾地蔵と関係したことを記しています。

 宮川といふは鴨川四条より南の別号なり。むかし此辺に禹王の廟あり。[洪水を鎮給ふ神也] 後世人家建続て町の名となれり。

 昔このあたりに、洪水を鎮める神「禹王(うおう)」の廟所があったが、のちに家が建て込んで町名になった、と述べています。花街「宮川町」にその名を残していますね。


 いにしえの洪水伝説

 「都名所図会」に記された「禹王」とは、中国の最初の伝説的王朝「夏(か)」の始祖・禹のことです。禹は、黄河の治水をなした徳の高い王として史書に伝えられています。それゆえ、洪水を鎮める存在として、鴨川のそばに祀られたというのです。

 「雍州府志」(1686年)は、さらに詳しく、まったく違った話を載せています(以下、要約)。

 この寺は、もとは四条東北の田の間にあった。そのため「畔(くろ)の地蔵」と呼ばれていた。
 寺伝では、後堀河院の安貞2年(1228)秋8月、大風雨のため鴨川は洪水になった。勢多の判官・中原為兼に命じて、これを防がすことにした。

 そのうち為兼は、異形の僧侶に出会った。僧の言うには、「この洪水は人力では防げない。この川の北に弁財天を勧請して、南に禹廟を建立して祀れば、水はたちどころに乾く」と。僧は言い終えたと思うと姿が見えず、為兼は、これは地蔵菩薩が現れたのだ、と思った。

 僧の言う通りにすると、水は果たして枯れた。
 そののち、弁財天と禹廟は廃れてしまって、今どうなったか分からない。弁財天は、かつて大和橋の北の木の下にあったけれど、今は堤の上はことごとく家が建ってしまい、その木もなくなった。禹廟は、五条松原通の鴨川の東にあったという。

 ところで、縁起によると、かつて錦小路に宗円というものがいた。常に、この地蔵を信心していたが、ある時、目を患ったので地蔵にお祈りをした。夢の中で地蔵が告げるには、おまえに代わって私が目を患おう、と言う。
 目が覚めると、眼病は治っていた。さっそく地蔵にお詣りして謝意を表すると、地蔵の両目はよくわからないさまになっていた。宗円は大いに驚き、感嘆した。
 これより、世人は「目疾の地蔵」と呼んだ。


 前段は、鎌倉時代に起きた洪水の話を引き、防鴨河使(ぼうかし)に任じられた中原為兼が、地蔵菩薩のお告げに従って、弁財天と禹廟を祀ると、たちどころに洪水は治まった、という伝説を紹介します。
 後段は、この地蔵が「目疾地蔵」と呼ばれるようになった由来譚で、いわゆる身代わり地蔵の話になっています。
 
 ここでも、水にゆかりの弁財天とともに、中国・夏の禹を引き合いに出しているところが興味深いです。
 「都名所図会」は、往来の人々の雨宿りの場所として「雨止み地蔵」と呼ばれたとするのですが、「雍州府志」の話は、一層奥深い由来を述べていることになります。
 ちなみに「花洛名勝図会」巻1には、この地蔵堂の西辻の角にあった神明社は、一説には「禹王社」だったと記しています。

 めやみ地蔵
 目疾地蔵(「都名所図会」より)

 このようにみてくると、目疾地蔵は治水の信仰と関係あったことが分かってきます。現在地に移ったのは、豊臣秀吉による天正13年(1585)のことですが、鴨川左岸にあって洪水と不可分であったことは疑いないでしょう。
 実際、禹廟がどこかにあったか定かではありませんが、そのような伝説がいつ頃までさかのぼるかも興味のわくところですね。


  めやみ地蔵




 仲源寺(目疾地蔵)

 所在 京都市東山区祇園町南側
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車祇園四条下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「雍州府志」1686年(岩波文庫版)
 「都名所図会」1780年
 「花洛名勝図会」1864年


屋根のラインが美しい祇園の弥栄会館は、名手・木村得三郎の力作

洛東




弥栄会館


 祇園甲部歌舞練場

 四条通から南に折れると、花見小路は大勢の観光客でいつもにぎわっています。

花見小路
  左は、一力亭

 200mほど南に進むと、東側に大きなゲートが現れます。

弥栄会館

 中に入って行くと、

祇園甲部歌舞練場
 祇園甲部歌舞練場の玄関(左)と八坂倶楽部(奥)

 祇園甲部歌舞練場です。
 「甲部(こうぶ)」というのは、もちろん「乙部(おつぶ)」に対しての称ですが、現在、乙部は「祇園東」という名称になっており、四条通の北、花見小路の東の一角にある花街です。秋に祇園会館で「祇園をどり」が行われます。
 甲部、東とも、京都のいわゆる五花街のひとつですが、とりわけ「都をどり」で有名な甲部は日本を代表する花街で、歌舞練場も木造の和風建築で風格が漂っています。大正2年(1913)に建築されたもので、国の登録有形文化財になっています。玄関の欄間に浮彫りされた菊の模様など、丁寧な仕事がうかがえます。


 ギオンコーナーがある弥栄会館

 その手前に白亜の大建築がそびえています。これが、昭和11年(1936)の年末に竣工した弥栄会館です。「弥栄」は「やさか」と読み、「八坂」に通じます。こちらも、登録有形文化財です。

弥栄会館
  弥栄会館
 
 この弥栄会館の中には、「ギオンコーナー」があって、京舞など伝統芸能のさわりを見ることができます。昭和37年(1962)に開設されたので、後で触れるように、開館当時は違った施設でした。

 弥栄会館


 設計は木村得三郎

 弥栄会館の設計者は、木村得三郎です。大林組の技師で、社内ではいくつかの劇場建築を手掛けてきました。大阪の松竹座(1923年)、東京の歌舞伎座の復旧(1923、岡田信一郎と)、京都の先斗町歌舞練場(1927)と続き、大阪歌舞伎座も最初は木村の手による設計が行われたそうですが、経費面で折り合わず、小田島兵吉が再設計し、昭和7年(1932)に竣工しました。
 それほどに、社内外で劇場建築のプロフェッショナルと目されていたわけです。

 その木村が設計した弥栄会館。
 「会館」という名前ですが、中には劇場が入っています。

 もちろん、敷地内には、先に甲部歌舞練場ができていて(大正2年=1913年竣工)、また八坂倶楽部もあって(大正5年)、屋上屋を重ねるみたいに、また劇場を造ったのです。起工は、遅れて昭和10年(1935)。デザイン面では、おのずと既存の歌舞練場などを意識せざるを得ないでしょう。

 まず外観を見る前に、建物の内部の構成を見ておきます。


 内部の設備も豪華

 地上5階、地下1階、鉄骨鉄筋コンクリート造の建物。
 いま手もとにある『弥栄会館御案内』というパンフレットと、雑誌「建築と社会」を見ながら、内部紹介してみましょう。

弥栄会館
 『祇園新地甲部 弥栄会館御案内』1937年頃発行

 まず1階は、大広間(大ホール)。広さ114坪(約380㎡)。展覧会やパーティーができるフラットな床面を持っています。照明器具が華やかなので、宴会場にふさわしい雰囲気です。

弥栄会館
  1階・大広間

 2階は大広間の上部などになっており、3階から5階にかけて講演場(公演場)があります。講演場は、照明や音響も完備しており、映画、演劇、舞踊、演奏会、講演会など、あらゆる催しに対応できました。客席は二階席もあって、椅子席が704席(補助席を含むと1200名収容)。当時、大阪の劇場などでは2000~3000席といったキャパシティのホールもありましたが、京都では南座などと並んで大規模なホールといえるでしょう。

弥栄会館
  講演場(客席)

弥栄会館
  講演場(舞台)

 地階には、食堂などがありました。

 講演場や大広間は貸館になっていて、有料で借りることができました。和洋どちらの催事にも対応する近代的な設備で、祇園で行われるさまざまな行事の受け皿となったことでしょう。

 ところが、開館した昭和12年(1937)10月、時局の影響を被って、弥栄会館はニュース映画館に変貌をとげます。さらに太平洋戦争下では風船爆弾の製造所になるなど、波乱の道をたどりました(「京の和風モダン建築十選」)。


 “反らない”屋根のラインが秀逸

弥栄会館
  現在(2013年)

弥栄会館
  竣工当時(1936年、『弥栄会館御案内』より)

 2枚の写真を比べても、外観は80年近くほとんど手を加えられていないようです。

 正面の上部。

 弥栄会館

 この建物で、まず目がいくのが塔屋です。
 その屋根は、瓦葺の宝形造で、仏閣ないしは城郭風です。建築史家の石田潤一郎氏は、楼閣建築との関連性、なかでも西本願寺飛雲閣との類似を指摘されています。なるほど、おもしろいですね。

西本願寺飛雲閣
  西本願寺飛雲閣(『京都名勝誌』より)


 弥栄会館

 中層には唐破風を付けていますが、平たいせいか余り目立ちません。

 『弥生会館御案内』には、「近代的な設計に京都特有の郷土色も豊かな、復興日本式鉄骨鉄筋コンクリートの建築様式」と記されています。
 このように、一応この建物は「帝冠様式」ともいえるのですが、それだけでは済まない特徴を持っているようにも思えます。

 弥栄会館

 まず注目したいのが、この庇(ひさし)です。各階に、出の浅い庇が設けられていますが、フラットでほとんど反りがありません。

 西側面です。

 弥栄会館

 印象としては、まっすぐ。端部だけ、微妙に反りを見せています。
 この直線的なラインが、この建物を帝冠様式にありがちな“泥臭さ”から解き放っています。

 こちらは門ですが、一転して特異な反りを持たせ、インパクトを与えているかのようです。
 
弥栄会館

 このあたりの造形の対比も、なかなかおもしろく感じられます。

弥栄会館

 重層的な窓と庇の配置。
 要所に露台(バルコニー)を張り出し、そこにはテラコッタを貼るなど、アクセントに腐心しています。

弥栄会館
  露台のテラコッタ


 細部意匠も丁寧に

 弥栄会館

 西側面の窓。ここは和風で、蔵造り風でもありますが、

 弥栄会館

 こちら、1階正面の窓。
 面取りをした花崗岩の柱で挟んだ、縦長窓の連続です。

 弥栄会館

 面取りの仕方も細やか。

 弥栄会館

 階段室の窓。
 なにげない格子ですが、各所に繰り返し使われます。

 タイルも、ちょっとおもしろい横長の品です。

 弥栄会館


 過剰な装飾はないのですが、配慮が行き届いた意匠ですね。

 木村得三郎。
 劇場建築の名手と人は言うのですが、それだけにとどまらない深い味わいを感じさせます。
 もう少し彼のことを考えてみたい気がしますね。




 弥栄会館(登録有形文化財)

 所在 京都市東山区祇園町南側
 見学 外観自由 ※ギオンコーナーは公演あり(大人3150円ほか)
 交通 京阪電車祇園四条下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『祇園新地甲部 弥栄会館御案内』弥栄会館、1937年頃
 「建築と社会」1937年4月号(新建築欄)
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 石田潤一郎『関西の近代建築』中央公論美術出版、1996年
 石田潤一郎「京の和風モダン建築十選(10)」日本経済新聞2013年7月12日付


なぜかおもしろい! - みうらじゅん『マイ京都慕情』

京都本




マイ京都慕情


 今年注目の1冊

 今年出る京都本の中でも注目される1冊が、みうらじゅん『マイ京都慕情』。5月末に刊行されました。

 110ページの薄い本ですが、みうらじゅんらしく、また新潮社らしく、カラー写真満載の楽しめる内容となっています。
 
 みうらさんは、言わずと知れた京都生まれで、本書によると、北区の大将軍に実家があったそうです。私の母の実家はこの近く(ただし、みうらさんとは逆で西大路の東側)なので、私にとっても馴染みのあるところです。天神さん(北野天満宮)の近所ですね。

 「大将軍」の項に、はりきってタイガース(沢田研二らのグループサウンズ)の家を案内していた、というくだりがありますが、確かに昔このあたりではタイガースの出身地ということで、よくその話題が出ていましたね。

 嵐電の白梅町も近くです。

 車両こそ少し新しくなってはいるが市電無き後、当時の風情を伝える唯一の交通機関である。「踏切り良し!」と、運転手が指示し確認するセリフは今も同じだった。オレは小学生の頃、よく運転席の横に立って大声でそのセリフのマネをして、「ボク、ちょっと黙っててくれるかなぁ」と、言われたことがある。(22ページ)

 こういうところが、みうらじゅんらしくて微笑ましいです。


 ビジュアル満載!

 みうらじゅんの本は、いつもビジュアルが見飽きないのですが、この本もその一冊。
 まず驚愕するのは、そしてこの本の白眉なのが、目次のビジュアルです。

マイ京都慕情
 『マイ京都慕情』目次……渚ゆう子

 この顔、すごい……

 本書のタイトルは、渚ゆう子「京都慕情」から取られています。
 渚ゆう子、昭和45年(1970)に「京都の恋」「京都慕情」を立て続けにヒットさせた歌手。みうらさんより少し年下の私は、この歌の記憶はないのですが、みうらさんは「今でも気が付けば……口ずさんでる」曲なのです。
 彼女の姿と声は、You Tube でご覧いただければと思うのですが、さすがにこのイラストほど蠱惑的ではないにせよ、なかなか魅力的な女性シンガーです。イラスト通り、くちびるの右上に小さなほくろがあります。

 あまり中身を紹介すると何なので、あとはお買い求めいただくとして、たとえば土門拳の仏像写真と、それに憧れたみうら少年撮影の仏像写真を並べて配したページなどは、圧巻!
 いつもながら、みうらじゅんの現在と過去を行き来する構成に、時に唖然とし、時に魅了されます。  


 ひさうちみちおと対談!

 テキストも読みごたえがあって、たとえば東山高校の恩師との対談。先生の亀岡の家に泊まって、スーパーカブを乗り回して壊した話とか、南無阿弥陀仏を唱えてから学食にダッシュする話とか。先生もあたたかくて、いい学校生活だったのでしょう。

 巻末のひさうちみちお(京都出身の漫画家)との対談も興味深いです。

 みうら  京都のイメージは?
 ひさうち すごく嫌なこともなかったですが、別に好きな街でもなかったですねえ。
 みうら  住まれてる人ってそうですよね。「京都が好き!」とやたら言っている京都の人って、いないでしょ。(103ページ)


 この感じ、ありますね。
 大阪に行くと“好っきゃねん、おおさか!”という言葉をよく目にするのですが、京都はそういうのはないのです。ひさうちさんが言うように、別に嫌いじゃないけれど好き好きというのも、ちょっと違う。私も、この歳になって、ようやく少し京都のよさが分かって来たのですが、それでも「好き」というのは何か違うんですね。

 みうら  でも、東京で「関西」って言うと大阪のことですよね。(中略)京都の人は「関西」なんて言わない。京都は京都ですから。もっとエラソーですね(笑)
 ひさうち ライバルじゃないですけど、そういう感じなのでしょうね。京都人が大阪人をあんまり好きじゃないというのは、逆に大阪人が京都人を好きじゃない、ということも、こっち、わかってますから。それででしょうねえ。(105ページ)


 確かに、大阪にいると、やたら「関西々々」と聞くけれど、京都ではそう言いません。今の大阪の人は、大阪が関西の中心という気持ちがあるでしょうし、そもそもテレビのキー局や新聞の本社が大阪にあるので、マスコミの影響も見逃せません。

 マイ京都慕情
 みうらじゅん『マイ京都慕情』

 『マイ京都慕情』。ぜひ手に取ってみてください。
 ただし、京都案内としては、本人いわく「まったく役に立たない本」ではありますが……




 書 名:『マイ京都慕情』
 著 者:みうらじゅん
 出版社:新潮社
 刊行年:2013年